Monthly Archives: July 2005

Fukamachi Jun Live: Here’s A Setlist

【深町純、即興演奏のセットリスト】 御題拝借。 即興ピアノ士、深町純の定例会第55回。しかし、よく続いています。4年8ヶ月。2001年1月が第1回。僕は2回目からスケジュール的にだめな時以外行ってますが、この5月、6月と行けず3ヶ月ぶり。何回行ってないか今度数えてみます。 31日は、隅田川の花火や、近くの恵比寿での盆踊りなど様々なイヴェントがあり、かなり客を奪われた様子で、7時15分を過ぎでも空席が目立った。普段は7時過ぎると前のほうに座れない。徐々に人は入ってきたが。 いつも通り、話半分、演奏半分なわけですが、僕の個人的お気に入りは、彼の即興演奏の中でのちょっとしたコーナー「御題拝借」だ。観客から適当にいくつかのフレーズをもらい、それを即興演奏で1-2分の作品にしてしまうというもの。もちろん、いいできの時もあれば、ダメな時もある。もらったほんの4-5個のメロディーがすごくよくて、いい曲が生まれることもある。 この日も3人からメロディーをもらい、即興で演奏してみせた。どれも聴いていて気持ちよかった。このあたり、本当に、やらせなしのガチンコ勝負というものが見られてすばらしい。 さて、彼の作品はすべて即興演奏。よってタイトルなどない。当然通常のライヴにあるようなセットリストなどない。あり得ない。しかし、僕はセットリストマニアである。行ったライヴの曲名は全部知っておきたい。(笑) そこで、無謀にも深町純即興演奏会のセットリストを作ることにした。さっき、彼がピアノを弾いていた時に思いついたのだ。さっそく作った。下記をご覧ください。 100年後に、「深町純のさあ、『2005年7月30日午後8時04分の作品』って最高だよなあ」「いやあ、おれは、『9時50分』の方がお気に入りだな」などというマニアックな会話がなされるかもしれない。それは、将来の歴史が証明する。今、僕たちがベートーヴェンやバッハの作品をあーだこーだいうように。そのために僕は彼の演奏を記録にとどめよう。 ■深町純・公式ウェッブhttp://www.bekkoame.ne.jp/~cisum/ +++++ 今回初めてセットリストを作成してみました。(笑) タイトル、あるいはイメージなどを深町さんが言った場合は、それを副題として〔 〕の中にいれました。今回の例でいえば、1曲目の「花火」がそれにあたります。「今日は、まず花火みたいな曲をやってみようかな。花火に聴こえるかな」と言って演奏を始めました。曲タイトルの後は、その楽曲の大体の演奏分数です。 Setlist: Fukamachi Jun Improvisation Live #55July 30, 2005 at Art Cafe, Ebisu 1st setshow started 19.451. 2005年7月30日午後8時04分の作品(花火)(9.32)2. 2005年7月30日午後8時22分の作品(14.45)3. 2005年7月30日御題拝借作品1(2.10)4. 2005年7月30日御題拝借作品2(1.59)5. 2005年7月30日御題拝借作品3(2.49)show ended 20.52 2nd setshow started 21.261. Happy Birthday~僕の誕生日 … Continue reading

Posted in Uncategorized | Comments Off

Soulive Live At Blitz Yokohama

【ソウライヴ・ライヴ】  ジャム。 いわゆる「ジャム・バンド」と呼ばれるジャズ、ファンク・バンド、ソウライヴのライヴが横浜のブリッツで行われた。この模様は彼らが所属するブルーノート・レコードが録音し、その中から1曲(「イッツ・ユア・シング」)を8月24日からインターネットで有料で配信する。同様の試みはすでに2回、日本人アーティストで行われており、今回は3回目。この日のライヴ音源のCD化は当面予定がないという。 横浜ブリッツは初めて行った。会場は、以前の赤坂のブリッツに似ていて、少し小さいのだろうか。この日は、車が大変混んでいて、かなり時間がかかってしまい、頭の部分を聞き逃した。 ソウライヴ自体は、これまでにブルーノートで見ていたが、これほど大きな会場で見るのは初めて。1000人以上は楽に入る。バンドサウンドは相変わらずタイトで、かっこいい。今回はキーボード、ドラムス、ギターのソウライヴのメンバーにトランペットとサックスの二人を加え計5人。観客は、ふだんクラブなどに行きそうなタイプの若い人たちが多い。 キーボードが生み出すベースのサウンドが、少々耳障りだったことを除けば、まあ、これだけの大きい会場なので、音もこんなものだろうという感じ。やはり、ブルーノートあたりの小さな会場の音の良さは特筆に価する。しかし、ラインで録音して、それを配信となれば、きっと、ここで聴いた音よりはるかにクリアでいい音になっていると思う。 1部と2部に別れていたが、印象に残ったのは、カヴァーの3曲。アイズレイ・ブラザースの「イッツ・ユア・シング」、ウォーの「スリッピン・イントゥ・ダークネス」、そしてアンコールで登場のアーチー・ベル&ドレルスの「タイトゥン・アップ」(その後YMOがカヴァー)。前2曲はヴォーカル曲でこれをドラマーが歌う。歌は別にどうということはないが、やはり、ずっとインスト物が続いているところに歌物が入ると、それだけでかなりのインパクトになる。 2部のオープニング曲「ステッピン」あたりは、ジェームス・ブラウンのJBズ風、あるいは、「ドゥ・イット・アゲイン」などは、カーティス・メイフィールドの「フレディーズ・デッド」風のリズムなどで、なかなかおもしろかった。 Setlist (According to record company’s release) First set 01. Intro02. Alladin03. El Ron04. Vapor05. Azucar06. One In Seven07. It’s Your Thing08. Jesus Children Of America > Stayshow ended 20.44 Second Set show … Continue reading

Posted in Uncategorized | Comments Off

Harlem Nights: Omar Edwards, Barefoot Tap Dancer

【裸足のタップダンサー】 裸足。 横浜ランドマーク・ホールで行われているイヴェント『ハーレム・ナイツ』。昨年に引き続いて、今年は4回目。今回の目玉は、サックス奏者、ジェームス・カーター。昨年とは少しプログラム内容を変えているが、ブラック・ミュージックを全体的に俯瞰し、その楽しさを存分に見せてくれるところは同様だ。昨年を見ても、今年は違っていたので充分満足できる。 やはり、ジャズ、ソウル、R&B、ゴスペル、ブルース、スタンダード、そして、タップダンスなどあらゆるブラック・ミュージック、ブラック・エンタテインメントをここに凝縮しているところが楽しい。 小柄ながら迫力のミンツィー・ベリーは、横から見ると、ヘアスタイルなども含めてちょっとジェームス・ブラウンを思わせた。(気分害したら、ごめんなさい、ミンツィーさん。動きとか、歌の迫力がブラウンばりということで) ミンツィーは、ゴスペル、ブルース、ソウルからジャズまでなんでも歌える。 ファーストセット最後の曲「アメイジング・グレイス」は、ミンツィーの歌が炸裂していたが、その途中から、いきなりジェームス・カーターがサックス・ブロウしまくりで、登場。ヴォーカルとサックスのバトルが、舞台上で始まった。カーターは思い切り熱いサックスを聴かせる。 さて個人的に、今回の「ハーレム・ナイツ」の中でもっとも感銘を受けたのはオマー・エドワーズのタップだ。シュガーヒル・ジャズ・カルテットが2曲演奏してオマーが登場した時、彼はスニーカーを履いていたのだ。タップは、普通タップシューズという固い革靴を履く。マイケル・ジャクソンがムーンウォークの時に、つま先立ちするように、固い靴でつま先だけで立て、さらに、床板を叩いたときにいい音がでるようになっている。さらに、床板の上で滑り易くなければならない。スニーカーでは、とてもそんなことはできない。まずその足元を見て、度肝を抜かれた。僕は舞台上手側前方で椅子に座って見ていたが、思わず立ち上がって壁に寄りかかって見とれた。 1曲スニーカーでタップを決め(下記セットリストで「ヴァンプ」にあたる)、彼が舞台の上手方向に移動すると、そこに一枚の新聞紙が広げられていた。彼はその新聞紙の上に乗り、自らの身体を滑らせ始めたのだ! な~~るほど。スニーカー自体では滑らない。そこで、新聞紙の上で、スケートをするというわけだ。新聞紙の上で、まさに自由自在に彼は泳いでいる。そして、新聞紙を足で二つに切り裂いて、今度は両足を広げて、普通にタップをするようにタップを見せた。最後は、その新聞紙を蹴り上げて、床板の外に放りだした。こんなクリエイティヴなタップはあるのだろうか。(下記セットリストで「ニュースペーパー」にあたる) 彼は切り裂いた新聞紙を蹴り上げたかと思うと、そのスニーカーも舞台そでに蹴り捨て、裸足になったのである。「ええっ? どうする気?」 流れ出した音楽はアフリカ調の曲。(セットリストでは、「アフリカン・ソング」) これにあわせて、彼はなんと裸足でタップをやり始めたのだ! 裸足でタップ! あり得ない。でも、やっている。もちろん、音はタップシューズや、スニーカーの時よりも、生足の音で、違うが、やはりタップである。昨年、彼のタップを見て、セヴィアン・グローヴァーのほうが迫力がある、なんて書いた自分が恥ずかしい。恐るべき、オマー・エドワーズ。裸足のタップダンサー。その裸足のタップを見てるだけで、僕はなんとも言えずに感動した。 そして、それが終ると日本人の少年マサト君がタップシューズを持ってオマーのところへ。オマーがシューズを履く間、彼が華麗なタップを見せた。小学生くらいか。なかなか決まってる。そして、オマーがタップシューズを履いて、1曲、ティピカルなタップを披露した。あのカンカンなるタップシューズの音を響かせて。 タップシューズを履かせたら、彼の動きは見違えるようだ。爪先立ちも、360度の回転技も自由自在。彼が勢いをつけてくるりと孤を描いて360度ターンをした時、汗の飛沫(しぶき)が、さーっと彼の周りに飛び散った。なんという美しい汗飛沫か。おそらく1秒の何分の1かのその瞬間をカメラに収めたいと思った。ちょうど僕は角度的にほぼ真横の位置から彼のタップを見ていたので、汗飛沫がステージの前のほうにさ~と飛ぶのがきれいに見えたのだ。ちょうどバックが黒壁で、そこに飛沫が白く光って映った。あ~~、すばらしい。 彼のパフォーマンスを振り返るとこうなる。1)スニーカーでタップ、2)スニーカーで新聞紙の上でタップ、3)裸足でタップ、4)通常のタップシューズでのタップ。わずか13分ほどの間にこれだけのヴァリエーションをいれたのだ。しかも、タップだけである。なんという濃密なパフォーマンスか。いやあ、僕はこの13分だけでも充分価値があったような気がした。 セカンドセットでは、観客席中央にお立ち台を作り、今度は赤いスーツと帽子を被って登場。バンド演奏なしのタップだけ、つまり、タップ・アカペラだけで、どうしてこんなにソウルを直撃されるのだろう。不思議だ。だが、オマーにそれだけ強烈なソウルがあるからなのだろう。 ライヴが終って出演者が、入口に出てきて、即売会とサイン会を始めた。そこにオマーも登場した。近くで見ると、実に背が高い。190くらいあるだろうか。これは聞かずにはいられない。「あの、裸足のタップはいつ頃から始めたのですか」 「あれか、もう7-8年になるかな。97-8年頃からやりだしたよ」 「じゃあ、昨年来た時もやりましたか?」 「やったよ」 あれ~~、気づかなかったなあ。去年は一番後ろで見てたからかなあ。ひょっとして、スニーカーや裸足でやっていたから、タップの切れが、セヴィアンのほうが迫力あるなんて思ったのだろうか。 「どうして、また、裸足でタップをやろうなんてアイデアが浮かんだんですか?」 「ほんとに知りたいのか?」 彼は回りに集まったファンたちにサインをしながら答えている。彼らはオマーのTシャツを買って、そこにサインをもらっている。「もちろん、知りたいですよ」 「そうか、僕の母親はアフリカからやってきたんだ。本当のアフリカだよ。とても原始的なね。母親はずっと靴を持っていなかった。彼女が最初に靴を手に入れたのは14歳の時だった。母親はそれまで裸足で農場でスケアクロー(案山子=かかし)の仕事をしていた。農作物を烏(からす)から守るために、追い払うような仕事だ。裸足で母は烏を走って追っ払っていた。そこから、裸足でタップをやることを思いついたんだ」 なるほど。それで、この部分の音楽がアフリカ調の曲なわけだ。 「アメリカではあなただけのフルショウをやってるんですか」 「やってるよ。何分くらいかって。90分くらいできるよ。グレゴリー・ハインズのショウは見たことあるか? あんな感じだよ。バンドがいて、ラップをいれたりして」 「グレゴリーは、90年代に東京に彼がきた時にライヴを見ました」  オマーは、セヴィアン・グローヴァーの従兄弟だという。そのセヴィアン・グローヴァーのタップを『ノイズ・アンド・ファンク』で見た時にこう書いた。「たかがタップ、されどタップ。肉体だけが生み出すことができる主張。言葉ではなく、体から放たれる喜び、怒り、悲しみ、魂の叫び。黒人の尊厳とプライドが、たった二本の足元から発信される。ブルーズ、ゴスペル、ジャズ、ソウル、そして、ダンス。」 すべてがたった二本の足元から発信されているところにソウルの真髄がある。ザ・ソウル・サーチャー、本日、ここにもうひとつのソウルを捜し求めたなり。 +++++ 『ハーレム・ナイツ4』は、金曜、土曜(2回公演)、日曜(31日)まであと4回あります。詳細は『ハーレム・ナイツ』公式ウエッブで。http://www.yokohama-landmark.jp/event/details/0506_harlem.html +++++ ■昨年の『ハーレム・ナイツ』のライヴ評2004/07/31 (Sat) Harlem Nights III: Bring Your Cake For Lonnie’s Birthday http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200407/diary20040731.html ■オマーの従兄弟、セヴィアンがでた『ノイズ&ファンク』のライヴ評2003年3月22日付け日記Bring In ‘Da Noise, Bring In ‘Da Funk: … Continue reading

Posted in Uncategorized | Comments Off

Syncopation: What They Need Now Is…

【シンコペーション、今、彼らに必要なもの】 3A。 昨年9月、縁あってアメリカ・ボストンを本拠に活躍する4人組ヴォーカル・グループ、シンコペーションのライヴを目黒のブルース・アレーで見た。その縁とはサンフランシスコのピアニスト、サヤの事務所が彼らを手がけているということだった。その彼らが約10ヶ月ぶりに再来日。今回は全国ツアーを展開している。東京地区、舞浜のイクスピアリに続いて行われた目黒・ブルース・アレーで2日間ライヴを見せた。 さらに縁というのは不思議なもので、先日フランクリンズでピアノを弾いてくれた永田ジョージさんと、このシンコペーションの阿部さんが大学同級生だったという。そこで、永田さんはこのシンコペーションを勝手連的に大変な勢いで宣伝・プロモーションをしている。 シンコペーション、徹底応援サイト(下の古い日付の日記から順にお読みください)http://kamesan.net/blog/archives/syncopation/ ひじょうにユニークな応援なので、興味ある方、ぜひ、ご参加を。口コミマーケティングで熱烈応援中。その応援もあってか、2日とも満員の入り。観客も彼らのライヴを見るのが初めてという人たちが半分以上で、口コミマーケティング、徐々にジャブが効いてるようだ。(お初が半分で思い出したが、毎回半分以上が初めての観客というのが、ピアニスト、深町純さんのライヴだ。今週末30日に、過去2回連続で都合で行けなかったので、3ヶ月ぶりに行く) シンコペーションは、アメリカ人3人(クリスティーン・フォーンソン、クリスティー・ブルーム、ジェレミー・ラグスデイル)と日本人阿部恒憲(あべ・つねのり)の4人組ヴォーカル・グループ。一言で言えば、マンハッタン・トランスファーのようなヴォーカル・グループだ。スタンダード・ナンバーなどをしっかりしたハーモニーで聞かせ、親しみ易いトークで観客を乗せる。 日本人の阿部さんが入っているということで、心情的にどうしても応援したくなる。野茂が、イチローが、そして、W松井がメジャーリーグで活躍するのを見れば、音楽の世界でもメジャーで活躍する日本人アーティストを見たいと思うのは、誰しも同じ。 ライヴ全体を通して見ての印象は、彼ら4人の人間性、人柄、性格がとてもいい感じだということ。みんな性格良さそうで、楽しそうに音楽をエンジョイしてる。このハッピーさが、観客に伝われば、観客もまちがいなくハッピーになれる。ピアニストがソロを弾いていれば、4人が揃ってそのピアニストのほうに向かって、一生懸命聴いている。これからもきっちり仕事を進めていけば、階段を一歩ずつ上がっていくことだろう。 さて、一方で音楽面での率直な感想と、さらに一歩高いレヴェルを進むための前向きな提案をしてみたい。アカペラ・グループあるいはそれに順ずるヴォーカル・グループだと、横綱の位置にはテイク6、最近はナチュラリー7、そして、別枠でマンハッタン・トランスファーがいる。歴史的な時系列で行けば、マンハッタン→テイク6→ナチュラリー7だ。それぞれがすべてヴォーカル・グループというカテゴリーの中で10年単位の中で進化を果たしている。これら3組をビッグスリーとするなら、彼らはそれぞれ、一瞬聴いただけで、彼らということがわかるひじょうにオリジナリティーがある。しかも、コーラス・ハーモニーの妙や、選曲のヴァリエーションなども素晴らしい。 彼らテイク6たちが、野球で言えばメジャーリーグの中でも、頂上に位置すると、このシンコペーションはメジャーリーグのひとつ下、3Aくらいにいる。なんとかがんばってもらって、メジャーの一軍のメンバーに入って欲しいところ。そして、一軍のロースター(選手枠)に入ったら、今度はレギュラー枠に入って欲しい。そして、レギュラーで活躍を続けるうちに、打者であれば、次々ヒットを放って、打撃のベスト10に名前を連ねるようになって欲しい。現段階で言えば、そういう感じだ。ではどうしたら、メジャーの一軍のロースターに入れるか。 やはり、全体的には4人のコーラスということで、どうしても、コーラスの幅が薄い。また、サウンドがマンハッタン・トランスファーに似てしまっていて、マンハッタン・トランスファーを思い起こさせてしまう。おそらく、遅かれ早かれ、彼らはマンハッタン・トランスファー的なものには別れを告げなければならない。そこで、例えば、ベースにものすごく太くて低い声を持つ黒人のシンガーをいれて5人組にしてみたらどうだろう。それだけで、かなり違った色彩になると思う。ヴィジュアル的にも、白人、日本人、黒人と揃えば、おもしろいかもしれない。もちろん、高音できれいなファルセットを歌えるシンガーなどをいれたらもっといいだろう。あるいは、4人の誰かがファルセットをやってもおもしろいかもしれない。声幅のヴァリエーションをつけるということだ。時代的には、ヴォーカル・グループ自体が4人、6人、7人と限りなくメンバーが増える中でヴァリエーションがでるようになっているので、そこで4人だけだとなかなか太刀打ちできない。 また、リード・シンガーをもう少しフィーチャーしてもいいかもしれない。例えば、一番魅力的な声の持ち主、クリスティーをもっとリード・シンガーとしてフィーチャーして、3人がバックコーラスに徹するという手もある。セカンドセットの3曲目「ヒーズ・ア・トランプ」では、そうした方法を見せたがこれをもっと徹底する。ちょうどグラディス・ナイト&ピップスのような形態だ。彼女を、シンコペーションの顔のように打ち出すのだ。そして、ひとたび彼女が顔として定着したら、徐々に他のシンガーのフィーチャー曲を加えていく。リードシンガーを打ち出さずにコーラスを前面に押し出すと、どうしてもマンハッタン・トランスファー色がでてしまう。 今回全16曲の中でもっとも印象に残ったのは、「ゲットアウェイ」だった。これは一曲の中でも実にヴァラエティーにとんでいて、ひじょうにおもしろかった。ここでは、サックスの部分をサックス奏者がやっていたが、口でサックス部分をやってもいいだろう。ヴォイス・パーカッションも、さらに磨きをかけてワンランク上を狙って欲しい。 先にあげたビッグスリーのヴォーカル・グループのほかに、アル・ジャロウ、ボビー・マクファーリンあたりの声の魔術師たちのライヴを徹底して研究してみると、新たなインスピレーションが沸くことだろう。ひとついえることは、人間の声には、ものすごく無限の可能性があるということ。考えられないほどのことが、人間の声ではできる。もっともっと声を研究して、声だけでこんなことができるのか、というところを見せてほしい。 シンコペーションのオフィシャル・サイトhttp://www.jazzsyncopation.com/ Setlist  First set show started 19.421. Yardbird Suite2. My Romance3. Time After Time4. Fotografia5. I Can Fly6. Cherokee7. A New Danceshow ended 20.34 2nd … Continue reading

Posted in Uncategorized | Comments Off

Eric Benet Will Be Coming To Japan On September

【エリック・ベネイ来日決定】 5年ぶり。 エリック・ベネイの来日が決まった。2005年9月、大阪ブルーノート、東京ブルーノート、横浜モーションブルーなどでライヴを行う。ベネイの来日は3度目。およそ5年ぶりの来日となる。東京では前回は新宿のリキッドルームだった。 日程は次の通り。 9月26日(月) 大阪ブルーノート 06-6342-7722 9月29日(木)~10月1日(土) 東京ブルーノート : 03-5485-008810月2日(日) 横浜モーション・ブルー 045-226-191910月3日(月) 名古屋ブルーノート 052-961-6311 エリック・ベネイは6月に6年ぶりの新作『ハリケーン』をリリースしたばかり。新作発売、そして、ツアーといういいタイミングでの来日となる。 エリックの新作について。http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_06_21.html エリック・ベネイは1969年10月5日ウイスコンシン州ミルウォーキー生まれ。92年、姉妹のリサ・マリーといとことともにグループ、ベネイとしてキャピトルからデビュー。このアルバムはほとんど話題にならずに、エリックはソロ・シンガーへ独立。96年、改めてソロ・シンガー、エリック・ベネイとしてワーナー・ブラザースから再デビュー。 デビュー作『トゥルー・トゥ・マイセルフ』からは、映画『シン・ライン・ビットウィーン・ラヴ・アンド・ヘイト』に収録された「レッツ・ステイ・トゥゲザー」(アル・グリーンの作品とは同名異曲)がヒット。いわゆる「ニュー・クラシック・ソウル」「ネオ・ソウル」の第一人者として注目された。 さらに99年ソロ第2弾『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』からは、新進気鋭の女性シンガー、タミアをフィーチャーした「スペンド・マイ・ライフ・ウィズアウト・ユー」がブラックで1位を記録する大ヒットになった。 そして、以来6年ぶりの新作が、こんどの『ハリケーン』となる。2001年から2003年まで、アカデミー女優、ハル・ベイリーと結婚していた。 前回の来日から5年。前回来日もソウルファンを中心に大いに盛り上がったが、今回はさらに小さい会場ということでかなり熱気あふれるライヴになるだろう。 また、エリック・ベネイは10月2日(日曜)の『ソウル・ブレンズ』への生ゲストが内定している。 +++++ 写真は、エリック・ベネイ最新作『ハリケーン』の中ジャケ。どうみても、平井堅だ。松尾潔さん、ベネイに平井堅のCD送ってるでしょう? それにしても、新作中の「インディア」(8曲目)、これはいい! 何度聴いても。 ENT>ARTIST>Benet, Eric

Posted in Uncategorized | Comments Off

Marvin & Chisato Are Featuring On Non Chords’ New Album

【マーヴィンとちさとがノンコーズのアルバムに】 デビュー!  ニュース、ニュース! 『ソウル・ブレンズ』のDJ、マーヴィン・デンジャーフィールドに、先日番組ゲストでやってきたノー・コーズのメンバーから、レコーディングのお誘いがあり、日曜日生放送終了後、スタッフみんなでスタジオに遊びに行った。 11月に発売する予定の新作アルバム(タイトル未定)での、2曲で何かやってくれないかというリクエスト。結局スタジオでトラックを聴いた後、マーヴィンが軽くフリー・スタイルでラップすることになった。 曲はけっこうアップテンポの実にかっこいい曲。マーヴィンは聴きながら、メモパッドに何か書いている。そして、とりあえず一回やってみましょうか、ということで、ブースの中に。いきなり、マーヴィンの軽快なラップが始まった。「おおおっ~~」 スタジオのこちら側はいきなりびっくりする。踊りながら、こぶしをつきあげながら、早口でラップを続ける。2-3度、マーヴィンが「もういちど~」と言って、やり直すが、次のテイクでOK。途中からは、自分で書いたメモ用紙も見ずにひたすらのりのりでラップしてる。 「この調子なら、朝までラップしてるんじゃないか?」と僕。「ほんとですね」とオッシー。「どうせなら、あの機関銃英語の中に、『ソウル・ブレンズ』って言ってもらおうよ。どうせ、わかんないよ(笑)」 「いいですねえ・・・」 インスト曲がマーヴィンのラップでいきなり、ドファンキーになってしまった。さすが、ナイル・ロジャースとためでフリースタイルのラップをやった男!  ノンコーズのノブさん、後藤さんらも、ブースからでてきたマーヴィンに拍手でこたえる。ノブさんいきなりマーヴィンに尋ねる。「マーヴィンさ、最高、最高。ね、ねえ、8月24日、あいてる? それと、9月14日? ライヴあるんだけど、来ない?」 「ダイジョウブよ~~」とマーヴィン。ノンコーズのライヴにフィーチャリング・ゲストだ!  これはなかなかのサプライズだったが、サプライズ第2弾がまだあった。後藤さんが「いやあ、このあともう1曲、別の曲で女性のセクシーな声が欲しいんですよ。ぜひお願いします」とチーちゃんにオファー。 そのトラックを聴かせてもらうと、イントロで一応仮のガイドヴォーカルがセクシーにはいっていて、それにあわせてやってくれ、という。「ウーンとかオーンとか、そういう感じ」 「私、こう見えてもシャイなんです」とチーちゃん。へえ、シャイなんだ。じゃあ、略して、シャイ・チーか。後藤さん、「明かり、暗くしますから・・・」 すると、チーちゃん、ブースでこちらに顔が見えないように、後ろ向きになってしまった。(笑)  何をしゃべるか、マーヴィンに教えてもらって、結局、「ドント・ストップ~(やめないで~~)」という言葉をセクシーに言うことになった。この曲、冒頭の藤井さんのサックスが実に淫靡(いんび)な感じで、たまらなくエロチック。そこにチーちゃんの意外と低いセクシー・ヴォイスがからまった。 「これは、大変なことになりましたね。ノンコーズのアルバム出る時には15分なんて枠じゃなくて、大特集しなきゃね!」と僕。「そうですね、決めました。リリースの時には、一時間でノンコーズ大特集、やりましょう」とオッシー。 こらあ、大変だ~~。この曲、まだどうなるかわからないが、CDの一曲目になる可能性もあるという。そうなると、CDショップの試聴機で、みんながチーちゃんのセクシーヴォイスを聴くことになる。わおっ! マーヴィン&チーちゃんCDデビューだ。今秋に注目。 ENT>MUSIC>ARTIST>Non Chords

Posted in Uncategorized | Comments Off

Tribute To Eugene Record Of Chi-Lites

【シャイ・ライツで30分】 黙祷。 昨日の『ソウル・ブレンズ』の「4PMアット・スロー・ジャミン」は、急遽、金曜(22日)に亡くなったユージーン・レコードへのトリビュートということで、シャイ・ライツの作品ばかりを30分間ノンストップでかけた。かけた曲は順に「トビー」「ハヴ・ユー・シーン・ハー」「イエス・アイム・レディー」「コールデスト・デイズ・オブ・マイ・ライフ」「ア・ロンリー・マン」そして最後に「オー・ガール」。6曲連続。 スロー・ジャミンを全部一アーティストでやったのは、先日のルーサー以来だが、こうして、シャイ・ライツだけ連続でかける番組など、おそらく日本広しと言えどもこの『ソウル・ブレンズ』くらいしかないのではないだろうか。微妙に自負。 本当にこうして流しているだけで、空気が変わってくる。オッシー曰く「いやあ、(ニューヨークの)WBLSみたいですねえ」。いや、ほんとほんと。6曲連続でかけるだけで、何百万語を語るよりも、はるかにトリビュートになるから、音楽の力は強い。 WBLSがルーサーの時に24時間ルーサーだけをかけたという話を聞いたときには感激したものだが、シャイ・ライツの場合、シカゴのソウル・ステーションは24時間シャイ・ライツをかけ続けたのだろうか。 シャイ・ライツは86年9月に渋谷のライヴインに来日している。75-6年頃だったか来日話があったが、流れた。その時はチケットを買っていてかなり楽しみにしていたが、中止でけっこうショックだった。FENのDJ、ピート・パーキンスという人が来日を企画したことをおぼろげに覚えている。渋谷のライヴインは、行っていると思うのだが、どうにもはっきりした記憶がない。 シャイ・ライツの4作目『ア・ロンリー・マン』(72年)はリリースされた頃よく聴いた。72年の大ヒット「オー・ガール」を含むアルバムで、ここには長尺8分を越える「コールデスト・デイズ・・・」が収録されている。「ア・ロンリー・マン」も、ちょっとミディアム調の「ビーイング・イン・ラヴ」も、たまらなく素晴らしい。このメロディーとユージーンのリード・ヴォーカル、特にナレーションのところなど、ソウル・バラードの王道を行く。 「One month ago, I was a happy as a lurk(一月前まで、僕は鳩のように幸せだった)」(「ハヴ・ユー・シーン・ハー」のオープニング・ナレーション)という冒頭のセリフは、覚えるほどまで聞いた。 今日かけた6曲は、いずれも失恋ソングというか、恋がうまく行っていない状況のラヴソング。ユージーンはこういう曲を書かせ、歌わせると最高だ。 シカゴのともし火、今、ひとつここに消え行く。ユージーン・レコードへ黙祷。 ++お勧めアルバム シャイ・ライツ 『オー・ガール +1』シャイ・ライツ 『グレイテスト・ヒッツ』シャイ・ライツ 『(フォー・ゴッズ・セイク)ギヴ・モア・パワー・トゥ・ザ・ピープル 』シャイ・ライツ 『アイ・ライク・ユア・ラヴィン(ドゥー・ユー・ライク・マイン)+2 』 ENT>OBITUARY>Record, Eugene>2005.07.22 (64)

Posted in Uncategorized | Comments Off

Eugene Record Of Chi-Lites Dies At 64

【シャイ・ライツのリード・シンガー、ユージーン・レコード死去】 シカゴアン。 シカゴ・ソウルのR&Bヴォーカル・グループ、シャイ・ライツのリーダー的存在でリード・シンガーでもあったユージーン・レコードが7月22日(金)、シカゴ郊外の娘の自宅で癌のため死去した。64歳だった。 ユージーン・レコードは1940年12月23日イリノイ州シカゴ生まれ。幼少の頃ギターをもらい弾き出したことから音楽にのめりこむようになり、十代の頃から音楽活動を開始。十代後半ですでにR&Bヴォーカル・グループを結成した。58年頃、二つのヴォーカル・グループ(シャンターズとディサイデロス)が合体。グループ名はハイ・ライツとなった。その後64年頃にレコード会社を移籍する時に、名前をシャイ・ライツとした。シャイ・ライツは、シカゴの灯の意味。68年、シカゴの有力プロデューサー、カール・デイヴィスによってブランズウイック・レコードと契約。彼らはデイヴィスのプロデュースで次々と作品を送り出すようになる。 69年、「ギヴ・イット・アウェイ」が初ヒットしたのを皮切りに次々とヒットを出すようになる。70年のヒット「アー・ユー・マイ・ウーマン」(ソウル・チャートで最高位8位)は、後にビヨンセの「クレイジー・イン・ラヴ」にサンプリングされ再び注目された。71年暮れにだしたバラードの「ハヴ・ユー・シーン・ハー」、さらに72年の「オー・ガール」の2大ヒットで、一躍人気グループに。 美しいメロディーとユージーンのリード・ヴォーカルがグループの最大の魅力だったが、76年までに所属レコード会社が脱税で告発され、それにともないグループに税務調査が入り、同じく脱税で罰金刑を言い渡されグループ活動に危機が訪れた。さらに、ユージーンはこうしたことに嫌気がさしグループを脱退し、76年、ソロへ独立。だがソロとしてはそれほどのヒットを放つことはなかった。 またユージーンは一時期、ブランズウィック・レコード所属の女性R&Bシンガー、バーバラ・アクリン(1943~1998)(後にスイング・アウト・シスターズでヒットする「アム・アイ・ザ・セイム・ガール」で有名)と結婚していた。 シャイ・ライツは1980年、一度オリジナル・メンバーで再結成。メンバーは頻繁に入れ替わったが、90年に再びユージーンが脱退していた。88年、ユージーンはクリスチャンの洗礼を受け、93年にゴスペル・アルバムを出している。また、ユージーンは、ここ数年を癌を患っていた。現在の妻ジャッキーとは31年間連れ添った。シカゴ生まれ、シカゴ育ちの生粋のシカゴアンだった。 また、シャイ・ライツとしては映画『ソウル・サヴァイヴァー(Only The Strong Survive)』に出演していたが、ここで登場していたのはマーシャル・トンプソン、ロバート・レスター、アンソニー・ワトソンの3人でユージーンは参加していなかった。このライヴの模様は99年5月に収録されていた。 ENT>OBITUARY>Record, Eugene>2005.07.22 (64) nasaさん、第一報の情報ありがとうございます。

Posted in Uncategorized | Comments Off

Phate: New Acts of R&A, Stands For Rhythm & Alternative

【フェイト:R&Aアーティスト】 オルタナティヴ。 昨日モーションブルーでのKDのライヴになんとちらっとケイリブ・ジェームスが来ていた。ちょうど僕の席の真後ろで、何かの拍子に振り向いたらケイリブがいて、びっくりした。ガッツのライヴ以来だ。ガッツの時には、喉の炎症でまったく声が出せずに、筆談をしたほどだったが、この日は声が戻っていた。ただ、あと数日歌は歌えない、という。 ところが、ファーストの途中で彼は帰ったらしい。後で聞くと、その後ギグがあったので早めに出たとのこと。そんなこんなで、彼から昼間電話があり、今日、自分のグループ、フェイト(Phate)のライヴが四谷であるので来ないかという。初めての場所だが行ってみた。 フェイトに関しては、前々から聴いていた。4-5人のバンドでロック色でファンクの要素もあるサウンドという。この日は、ケイリブの声が完治していないので、メンバーとゲスト・ヴォーカルの鈴木桃子さんを大々的にフィーチャーすることになった。 全体的に感じたことは、オルタナティヴなロックでファンクの要素もあるサウンドだな、ということ。ベース(ロレンゾ)とキーボード(ケイリブ)が黒人、もうひとりのキーボード(ベン・フランクリン)はドイツ人、ドラムス(山田たつや)とギター(ディッキー福田)、そして、ゲスト(鈴木桃子)は日本人ということでちょっとした多国籍バンドだ。 ベースとドラムで作るリズムが意外とファンキーだが、その他のギターなどが作るサウンドがロック。このサウンドが出たら、レコードショップ(CDショップ)はどこの棚に置くか悩むだろう。なかなかこういうジャンルがない。従来のバンドで言えば、リプレイスメンツとか、ロマンティックスとか、インエクセスとかそのあたりを思い浮かべた。 そこで思いついたジャンル名! じゃじゃ~~ん! R&Bではなく、R&A! リズム&ブルースではなく、リズム&オルタナティヴ。リズムオルタナ、略して、リズオル。(そこまで略すな)  てな話をケイリブにしたら、彼はこう言った。「まだグループとしてのサウンドの方向性が決まっていないんだ。R&A? おもしろいね。僕らは最初、ロンク(Rock + Funk=Rounk)っていうイメージを考えたんだよ(笑)」 なるほどね。ベースのロレンゾはかなりファンキーなベースを弾いていておもしろい。ロンクねえ。なかなかのネーミング。 それにしても、ソウル・サーチンで聴かせるケイリブとはまったく想像もつかないタイプの音楽を聴かせる。ケイリブは引き出しが多いミュージシャンだ。 Setlist show started 20:22 1. Better Place2. Rubberman3. Here And Now4. Drive5. Eletrified6. Yellow Brick Road7. No No No8. Bugfood9. Star show ended 21:25 Phate: Kaleb James, Dickey … Continue reading

Posted in Uncategorized | Comments Off

K.D.Brosia: Wants To Be A J-Neo Soul Singer

【K.D.ブロージア・ライヴ】 試行錯誤。 K.D.ブロージアというミシシッピー州出身アトランタ在住の男性ソウル・シンガーのライヴを見た。ソウル・サーチン・トーキングでサックスを吹いていただいた太田剣さんからのお誘いで、モーションブルー。彼がゲストで参加。ソウルバンドなので、きっと僕が興味を持つだろうとのことで誘われた。いろいろな点で興味を持ちました。 ドラムス、ギター、ベース、キーボード1名がブラザーで、もうひとりのキーボードは、あのフィリップ・ウーさん。ソウル・セッションというと、フィリップに会う。(笑) ガッツの時同様、かなりファンキーなバンドで感心した。ドラムス、ギター、ベース、サックスと各人のプレイは気に入った。日本・東京近辺在住の黒人ミュージシャンっていったい何人くらいいるんだろうと思っていたら、ギターのアルバートが2-30人はいるんじゃないか、と教えてくれた。 さて、KDだが、声はなかなかいい。ちょっと深みがあるみたいで、よく言えばフランク・マッコム、ブライアン・マクナイト系か。本人はよくスティーヴィーに声が似ているといわれるそうだが、あんまり感じなかった。また本人はミュージック・ソウルチャイルドを気に入っていて、なるほど、その路線もあるのかな、と。 1部がカヴァー中心で、2部が日本のインディで出したミニアルバムからの曲中心。ところが、彼が実によく日本語をしゃべる。六本木あたりにいるあやしげな黒人がしゃべりそうな日本語が次々とでてくる。けっこうおもしろいところはあるのだが、果たしてソウルシンガーのMCとしてはどうか。逆に吉本あたりに所属する黒人タレントなんて立ち位置だったらおもしろいかもしれない。だから、ヴァラエティーにでる少しおもしろい黒人タレントで、ちょっと歌わせたら、けっこう歌えた、みたいなポジションがあるかもしれないと思った。 1部の選曲は、なかなか興味深く楽しめた。正直に言うと2部のオリジナルはかなりきつい。特に日本語の歌は、外に出た。まずアドヴァイスとすれば、今のところ、KDブロージアとしての音楽的方向性がはっきりしていないので、そこをはっきりさせるのが先決。いわゆるカヴァー・バンド、あるいはカヴァー・アーティストとしてはそこそこいけるだろうから、そこからどう一歩発展させるか。 また書いてしまうが、この名前はなんとかしないと。かっこいい芸名を考えよう。また、本人は気に入ってるというのだが、このドレッドヘアからのヴィジュアルのイメージも、とてもソウルシンガーとは思えない。それと、MCでの日本語はステージでは厳禁にしたほうがいい。どうしても、そこら辺の不良外人に見えて、品が下がる。本人は日本のネオ・ソウル・シンガーとして行きたいとステージで宣言した。ならば、ネオ・ソウル・シンガーらしくクラスを持たないと。エリック・ベネーや、マックスウェル、ディアンジェロのような。 1部の途中から入った太田さんは、「ディスタント・ラヴァー」あたりのブローしまくりがかなりいい感じ。サックスというのは、ソウル度を高める上でいい楽器だ。 とりあえず、まずやってみて、これからいろいろ試行錯誤していくのがいいと思う。ディレクション(方向性)を決めることが第一歩だ。キャラがおもしろいから、そこを生かせるといいかもしれない。 Setlist : original artists are in the ( ) 1st show started 18:44 1. Actions Speak Louder Than Words (Frank McComb)2. On Broadway (George Benson)3. Forever, For Always, For Love … Continue reading

Posted in Uncategorized | Comments Off

Hugh Masekela: Signed Autograph On His Autobiography

【ヒュー・マサケラ自筆のサインを貰う】 ハグ。 自伝本『スティル・グレイジング』を買って、彼を待っていると、登場するなり、いきなりハグをしてきた。「(日本語で)ありがとう、ありがとう。(これは英語)名前はなんだ?」 「マサハル、これです」 名刺を渡す。 「南アフリカには戻りましたか?」と僕は彼に尋ねた。「今は住んでるよ」 「え~~、いつから?」 「14-5年になるかな。アパルトヘイトがなくってからすぐに戻った」 「その時どんな気持ちでしたか?」 「それは素晴らしかったよ。自分が生まれ育った街だし。だが、多くのものが破壊されていた」 自伝本にていねいにサインを書きながら、彼は僕の質問に答えてくれた。 その自伝本を出したのは、1939年南アフリカ生まれのトランペッター、ヒュー・マサケラである。今年66歳。ブルーノートでライヴを行い、CDと自伝を即売し、買ってくれた人にサインをするというわけだ。自伝(2004年発売がでているのは知らなかったので早速買い求め、サインしてもらうことにした。 実は彼のライヴはいつか見てみたいと20年近く思っていた。2年ほど前にひょんなことで来日していたのを後から知ってひじょうに残念な思いをしたが、今回はブルーノートということで期待していた。 なぜ20年も前からか。少し長くなるが書いてみよう。ヒュー・マサケラの存在は知っていた。ヒット・ポップスを追っていれば彼の68年の大ヒット「グレイジン・イン・ザ・グラス」という曲を知ることになる。なにしろ全米ナンバーワン・ヒットだから、どこかで聴いたり、CDのヒット・コンピレーションに入っていたりする。その後70年代に彼がカサブランカ・レコードから出した、少しばかりディスコ調のアルバムも数枚持っている。 そして、1985年9月、彼がジャイヴへ移籍して出したアルバム『ウェイティング・フォー・ザ・レイン』のライナーを書く機会に恵まれた。これはジャイヴ・アフリカからの彼の2作目だったが、この時いろいろとヒューのことを調べ、彼について詳しく知って大変感銘を受けたのだ。 その後ジャイヴからは同じく南アフリカ出身のギタリスト、ジョナサン・バトラーがデビューする。時を同じくして、南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)が国際的に非難をあびるようになり、ミュージシャンたちも反アパルトヘイトの作品を出すようになる。例えば、85年の「サンシティー」(アーティスト・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイト)や、同年のスティーヴィー・ワンダーの『イン・スクエア・サークル』収録の「イッツ・ロング・アパルトヘイト」などである。南アフリカ、アパルトヘイトなどへの興味が広がりつつ、何人かの南アフリカのミュージシャンが長く母国に帰れないでいることを知った。 ジョナサン・バトラーにはインタヴューする機会があったが、ヒュー・マサケラとはまったく縁がなかった。その後僕は88年から『ソウル・サーチン』を書き始め、2000年に出版するが、実はヒュー・マサケラ、ジョナサン・バトラーの二人は、もし取材がじっくりできるなら、書いてみたいと思っていたのだ。 なにしろ、ミュージシャン本人にはなんともし難い政治という要因で母国を追われ、イギリスやアメリカなどのどこかの外国で生きていかなければならない。そして、仮に外国で成功し、南アフリカでレコードが売れても、そこでライヴをできない。そういう過酷な状況でミュージシャンはどう考えていくのか。 ジョナサン・バトラーだったかのインタヴューで、「自分はアパルトヘイトがなくならない限り、母国には帰らない」という強い主張があったが、これはジョナサンだけでなく、一度南アフリカをでた人間にとっては、共通の認識だったようだ。80年代の半ばまではとてもアパルトヘイトがなくなるなどという状況ではなかったから、なおさら、絶望感は強かったに違いない。当然、そこには各人のソウル・サーチンがあるはずで、それを知りたいと思っていた。 ヒュー・マサケラは21歳の時、1960年に、ニューヨークに留学のため行って以来、ずっと母国に帰らないでいた。彼もアパルトヘイトに反対の立場をとるため、母国には帰らないという強い意志をもっていた。そんな彼が南アフリカに戻るのは、91年、アパルトヘイトの撤廃が発表されてからすぐのこと。31年ぶりの帰郷である。 「あなたのライヴは、20年以上、待ち続けていたんですよ」 英語が少し訛っているヒューは、きっと日本語アクセントの僕の英語も聞き取り辛いのだろう。「何年だって?」 「20年以上ですよ」 「それはありがとう」 そして、僕の名刺を見ながら、尋ねてきた。「ソウル・サーチャーか。君は何のソウルを探してるんだ?」 「毎日、あらゆるソウルを探してますよ」と答えると、彼がにやっとして僕に再びハグしてくれた。 +++++ ブルーノートのウェッブhttp://www.bluenote.co.jp/art/20050719.html (2005年7月20日水曜、ブルーノート東京・ファースト=ヒュー・マサケラ・ライヴ) ENT>MUSIC>LIVE>Masekela, Hugh

Posted in Uncategorized | Comments Off

Some Are Omitted, Some Are Added To The Final Setlist

【試行錯誤の選曲】 没。 実は、昨日のライヴで、他にいくつかの候補曲があったが、ぼつになったものがあった。当初、いろいろ候補曲を上げてみて、その中から17曲ほど選んだCDをメンバー用に作った。1曲目にいれたのが、「スターダスト」だった。 フランクリンズは3回リハーサルをやったが、「スターダスト」は結局、できなかった。というのも、時間がなくなってしまったということと、この曲はかなり難しいということで、西任(にしと)さんがギヴアップした。一方、スティーヴィーの「レイトリー」はリハーサルはして一応形にはなったが、オリジナルの持つ独特の雰囲気を出すことがひじょうに難しいということで、没になった。 他に、幸三さんのリクエスト、「青い影」が没になった。リハができなかった。こういうポップスを1曲いれてもよかったかもしれない。その代わり、お店のスタッフのリクエストで「シャドウ・オブ・ユア・スマイル(いそしぎ)」が入った。 純粋な40年代のスタンダードから、60年代のオールディーズ、ジャズ・インスト、ボサ調とか、ヴァラエティーをだしてもよかった。 また40分を2ステージということで、結局7曲ずつ14曲を選んだが、これでも実際の時間は50分近くになった。きっと、6曲ずつてもよかったのかもしれない。 2度のセットのトップはインストゥルメンタルでというのは、すぐに決まった。そして、一番最後の曲を決め、その間にはいる曲をいろいろ考えながらみんなで決めてみた。 曲順の順列組合せは星の数ほどある。そこからひとつのセットリストを作るのは、けっこう大変だ。 ENT>MUSIC>LIVE>Franklins

Posted in Uncategorized | Comments Off

Franklins Live At Franklin Avenue

【フランクリンズ初ライヴ】 感謝。 島津山の瀟洒の一軒屋でおいしいハンバーガーを供して15年。フランクリン・アヴェニューが15年にして初めてのライヴ・イヴェントを行った。幸三さんのひょんな一言から始まったこのイヴェント。7月18日、海の日、無事終った。結局満員になってしまい、何人かのお客様は外のテラスでのお食事となってしまったが、とりあえず戻ってきたアンケートではよかったという声が多く一安心している。ご来場いただいたかた、ありがとうございます。 なんと40枚のアンケートが返ってきたのだが、これは驚異的。6割以上の方に書いていただいたことになります。ありがとうございます。イヴェント自体素晴らしかった45%、よかった50%、普通5%との結果。ライヴの評価も90%が好意的、さらにハンバーガーとドリンクへの評価は、素晴らしかった50%、よかった45%でさすが。 やってみていろいろ反省点もでたので、次回以降はさらにブラッシュアップしたものを試してみたい。やはり一番はステージの場所かなあ。今回はピアノの位置を動かさずにやろうということになったが、やはり次回はピアノをお店の中央に持ってきたほうがお客さんからすると見やすい。それと、席数の問題もある。お店が比較的ゆったりはしているものの、普段とは違うシーティングでけっこう入ってる感がある。外は食べるのには使えるが、ライヴも聞こえるが、集中して聴くことはできない。もっともおしゃべりしながら、BGMとして音楽を捉えるとなれば、外の席もとてもいい。例えば50名限定という考え方もあるかもしれない。ステージの場所とか、照明とか、いろいろ考えるときりがない。(笑)  とはいうものの、基本的にはおいしいものを食べて、そこに気軽な生の音楽があって、そして語らいがあるパーティーの雰囲気はとてもよかったと思う。それらがあれば、休日の夜は満ち足りるものになるだろう。やってるほうも、そして来て頂いた方も楽しんでいただければ、それでいい。 今、さきほどの同録を聴きながら書いてるが、お客さんの拍手の入ったライヴを聴いていると、いつの日にか『LIVE AT FRANKLIN AVENUE』なんてCDができればなどと思う。 演奏をしてくれた永田さん、西任さん、森田さん、中津留さん、そして、松本幸三さん、写真を撮ってくれたゆんこさん、CDジャケットのデザインをしてくれた栗原さん、CD焼きをすべてやっていただいた森下さん、そして、フランクリンのスタッフのみなさん、ありがとうございました。 最後片付けが終った後、幸三さんがもらした一言が印象に残った。「あんな一言(幸三さんが言った『バンドやりたいんだけど』)からでも、(こうして)できちゃうんだねえ」。 本日フランクリンズが披露した曲のリストと簡単な紹介をプリントしたものを、終演後お客様にお配りした。それをそのままご紹介します。 +++++ SETLIST FOR FRANKLINS JAZZ & BURGER VOL.12005.07.18 AT 7025 FRANKLIN AVENUE, Shimazuyama, Tokyo 今日はようこそ、フランクリンズ・ジャズ&バーガーVOL.1へいらっしゃいました。お楽しみいただけたでしょうか。カーネギー・ホールを目指すフランクリンズが本日演奏した作品をご紹介します。 また、予約された方にお渡ししたCDは、当初、メンバーがこんな曲をやってみたいという候補としてあげた作品を集めたものです。その中から何曲かが選ばれ、そして、何曲かがこのCDに収録されていないものから選ばれました。 FIRST SET 1. Now’s The Time (Instrumental) チャーリー・パーカーの作品。1945年に愛弟子マイルス・デイヴィスを加えてレコーディングした作品。ジャズの定番となり、後に多数のアーティストが録音した。1. Close To You 名作曲家チーム、バート・バカラック&ハル・デイヴィッドが書いた作品。1970年に兄弟姉妹デュオ、カーペンターズがヒットさせ全米ナンバーワンに輝いた。2. Cry Me … Continue reading

Posted in Uncategorized | Comments Off

False Ending For Party

【後テーマに乗せてお祝いメッセージ】 祝。 番組のスタッフ橋本安弘くんと優子さんの結婚披露宴があって、『ソウル・ブレンズ』チーム、全員で参加した。1-2週間前から、我々で何か余興をやらないとだめだという話になっていて、オッシーが考えたのが・・・。 ちょうど、この日、日曜は『ソウル・ブレンズ』の生放送終わりでかけつけることになる。そこで、「番組のエンディングでヤス(橋本くんの愛称)へのお祝いの言葉をみんなで言って、それを録音して、披露宴の会場で披露しよう」ということにあいなった。 しかし、さすがに2-3分それに費やすとなると、若干の問題があるのと、あまりに内輪受けになるのではと懸念されたので、そっくりそのまま番組終ってすぐに録音することにしたのだ。 で、スタッフ全員が番組の後テーマに乗って、一言お祝いを言った。BGMは、通常のエンディングテーマで、いかにもそれ風にリスナーからのお便りを一通読んだ後に、スタッフからのメッセージを紹介。徐々にスタッフのメッセージもエキサイト。ほんとにこんなの放送で流せるのか、って感じに。BGMは、途中からアトランティック・スターの「オールウェイズ」! 直球です。(笑)  そして、これを会場で流しました。けっこうかなりの人が本物だと思ったみたい。最後流し終わった後、オッシーが、「実はこれは・・・オンエアしたものではなく、このために録音したものです」と種明かしをしたのだが、まあ、よかったのではないだろうか。 披露宴は、ブラジルのダンサーが登場し、かなりはちゃめちゃな感じで、楽しかった。 2次会では、もうひとりのソウルメイト、デイヴ・フロム氏、デイヴ節炸裂で手がつけられません。これを封じ込める唯一の秘策は、デイヴを司会者の役に押し込めるしかない、という結論に達した。 安弘さん、優子さん、末永くお幸せに。 Peace! ESSAY>DIARY>

Posted in Uncategorized | Comments Off

Party For Real People: Franklins Jazz & Burger Vol.1

【おいしいバーガーとテイスティーなワインとグッドミュージック】 発信。 いよいよフランクリンズのイヴェントが明日になった。昨日(土曜)夕方、ミュージシャン5人で最終的なリハーサルを3時間ほどやってきた。それはさておき、フード&ドリンクが、かなり充実しているらしい。 フランクリンのオウナー、松本幸三さんの話によると「ワインもけっこういいもの用意しました。ソフトドリンクも多数あります。イチゴも頼んでしまいました。ハンバーガー3~4種に、フライドポテト、チキン、サラダなどなど、たくさん食べていただきます」という。「飲み放題」という表記は「好きではない」という理由から、そう書いていないが、実際はいくら飲んでいただいてもかまわない。 15年のフランクリンの歴史の中で初めてのイヴェントなので、果たしてどうなることやら。おいしいバーガーとドリンクと、そして、気持ちよい音楽。あとはそこに来るお客さんがどういう楽しみ方をするかだ。僕は、きっといい雰囲気のパーティーになるような気がしている。 そもそも、昨年だったか、フランクリンにハンバーガーを食べに行った時に、「吉岡さん、誰かいいシンガーいません? 今度バンドやるんですよ」と幸三さんに言われてから始まったプロジェクトだった。かなり、成り行き度の強いプロジェクトだったが、5月くらいから準備して、準備は万端。 実は幸三さんは、その昔、グループサウンズでドラムを叩いていた。アルバムも出しているフィンガーズというグループだ。ここには高橋幸宏氏の兄もいたり、シー・ユー・チェンといった人物がいたりというかなりマニアックながらおもしろいバンドだった。といっても、僕なんかが知る由もないのだが。 ハンバーガーが大当たりして、このところ、休みの日などに昔とった杵柄(きねづか)で、ドラムをやりだしたあたりから、またぞろ、バンドマン魂が頭をもたげてきたらしい。 ここ2ヶ月ほど、毎日のようにドラムの練習をしているらしく、体中、筋肉痛になっているという。だが健康的にはかなりいいようだ。 幸三さんが言った。「お店も同じことをしていてもだめだと思うんですよ。隣の(ヌキテパの)田辺さんもね、店は常に何かを発信してないとだめなんだって言うんですよ。こんどのイヴェントは、フランクリンからの発信になるんです」。 今回のイヴェントは実験的な意味合いもあるので、お店では一切告知してこなかった。 +++++ 基本的には予約が必要です。おみやげCDは予約者だけの特典。予約のない方は、予約者の入場が終ってからになります。ひょっとするとライヴ時は立ち見になるかもしれませんが、まだなんとかなるかもしれません。予約ご希望の方は、下記へ、お名前、電話番号、メールアドレス、どこでこのイヴェントを知ったかを書いて、メールを送ってください。 Franklins0718@yahoo.co.jp  詳細は7月11日付日記をご覧下さい。http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_11.html +++++ ENT>MUSIC>EVENT>Franklin’s Jazz & Burger Vol.1

Posted in Uncategorized | Comments Off

Shirley Goodman Dies At 69

【シャーリー・グッドマン死去】 他界。 1956年夏に「レット・ザ・グッドタイムス・ロール」のヒットを放ったデュエット、シャーリー&リーのうち、シャーリー・ピクスレー・グッドマンが、去る7月5日ロス・アンジェルスで死去した。69歳。シャーリー・グッドマンは、1936年6月19日ニューオーリンズ生まれ(35年説も=その場合は70歳)。男性シンガー、レオナード・リーと組んで、シャーリー&リーとしてニューオーリンズを本拠に活躍。52年、「アイム・ゴーン」の大ヒットで一躍知られるようになる。 その後56年に「レット・ザ・グッドタイムス・ロール」が大ヒット。しばらくシャーリー&リーとして活動していたが、63年、パートナーを変え、シャーリー&ジェシー(・ヒル)として活動。 75年、ニュージャージー州のインディ・レーベル、ヴァイブレーション(シルヴィア・ロビンソンが経営)から、シャーリー&カンパニーとして「シェイム・シェイム・シェイム」の大ヒットを放った。この曲は当時ニューヨークを中心としたディスコでヒット。日本でも一部のディスコでプレイされた。この大ヒットの後、シャーリーは79年頃まで音楽活動を続けていたが、79年に引退していた。 なお、シャーリー&リーのうち、レオナード・リー(1935年6月29日生まれ)は、1976年10月23日、心臓発作で41歳の若さで他界している。 ENT>OBITUARY>Goodman, Shirley>2005.07.05 (69)

Posted in Uncategorized | Comments Off

Nothing Happened As Scheduled

【予定外】 ハプニング。 突然音楽とまったく関係ない友人から、今日スイートベイジルでポンタボックスのライヴがあるから行きませんか、との誘い。調べてみたら、近藤房之助 さんとのジョイント。予定を変更して行ってみた。 3部構成。1,2部がポンタボックスのトリオでの演奏。1部はマイルス作品などを演奏。ハービー・ハンコックの作品が多かったのが特徴。ポンタさんはハンコックが好きなんですね。 3部で、近藤氏登場。レイ・チャールズの作品を10曲、アンコール2曲はレイ以外の作品。アンコール1曲目はなんとカーティス・メイフィールドの「トリッピン・アウト」。観客がレイの作品を知らないのか、その他の理由か、反応がかなり鈍かった。グルーヴがロックオリエンテッドなのが僕にはちょっと。7時半過ぎに始まって11時まで、長丁場でした。同行ソウルブラザーU氏の一言。「ドラムも音楽も、結局ラーメンと一緒ですね。どんな味か、好みの問題ですよ」。けだし名言。 その後、ソウルメイトYと東京駅前にオープンしたキャノヴィアーノ東京(イタリアン・レストラン)とM東京(バー)のレセプションに。八重洲通りに面していて、これはすごい場所。歩道にたくさんの花束が飾られ、場所を探すこともなく、すぐにわかった。中に入ろうとすると、そこでばったし、「売れっ子放送作家カニ先生」とでくわす。おっと、違う「超売れっ子放送作家カニ先生」、と言い直さないと・・・。「なんで、いるの、なんで、なんで」と食いつかれるが、「ちょっと、じゃあ、案内してよ~~」と僕。 K先生は案内してくれなかったが、自力で見学。各階100坪はあるという店で、1階がイタリアン・レストラン、地下がバー。広いよ、かなり。建物自体は昭和5年に建てられたそうで、中をリノヴェーションしたそうだ。ゆったりした感じでいい雰囲気。 地下のバーの運営を西麻布・嵐をてがけた北添氏が統括しているということで、彼に軽く解説してもらった。新しい名刺をくれようとしたとき、その名刺入れを見たら、3センチくらいに膨れ上がっていた。「これ、今日だけで?」 「そうです(笑)」。 基本的には昼間はここはブライダルでやっていて、夜をこうしたバー営業で行くという。中央にピアノが置いてあり、ピアノのライヴもいれるそうだ。フルーツのカクテルが売りだそうで、大きなスイカがあったので、スイカのカクテルでも頼もうかと思ったが、車なので、スイカのジュースを絞ってもらった。うま~~い。バーのM東京は、朝6時まで営業するという。 K先生、なんと麻布十番の23時間営業しているという話題の麻布ハウスに行くというので、「連れってくれ」とひれ伏すと、「じゃあ、連れてってやろう」と代官様のようになった。麻布ハウス、噂は聞いており、一度場所を探したが、わからずにいたところだったので、これぞ渡りに船。ところが、K先生が電話で予約をしようとすると、まだ満員で入れないという。夜中の12時過ぎですよ。どうなってるんだろう。結局、別の店に行くことになった。しかし、K先生、話題の店、ぬかりなくチェックしてるなあ。それにしても今日はすべてがハプニングの1日だった。

Posted in Uncategorized | Comments Off

Don & Roland; Two Cool DJs On FEN

【なぜかFENのDJ話】 雑談。 真夜中過ぎ、昨年のオープンからちょくちょく顔をだしている東銀座のバー、B。オウナーのアッコ、シェフのクロウドなども昔から知っているので、近くにいる時には寄ったりする。 中に入ると、奥のほうに大きな人物が。おっと、コニシキではないか。でかい。しばし友人と談笑していると、下町兄弟の工藤さんが携帯を持って外にでようとしていた。お互い指差して、「おお~~」。なんと、工藤さん、そのコニシキの新作アルバム『ロコスタイル』で楽曲を提供しているという。ちょうど、ネリー(武道館)のライヴにご一行で行ってきて、その帰りだという。で、工藤さんがコニシキを紹介してくれた。握手したら、やはり、でかかった。 工藤さんが残り、てれてれ雑談。そこでラジオの話になり、彼が昔FENでドン・トレイシー・ショウともうひとつ渋い声の番組をよく聴いていたという。渋い声のほうは、名前がわからなかったが、「最後になんとかバイとか言うんですよ、今、思い出した!」 「おっと、またでた。それは、ローランド・バイナムです」 「ドン・トレイシーのほうは、ほんと曲のタイミングとか、しゃべりのタイミングがめちゃくちゃかっこよくて、よくテープにとってた。オープンリールですけどね。まだ実家に置いてあるんじゃないかなあ」 「ローランドのほうは?」 「それも、何本かあるかも」 「その辺の聴きたいねえ。オープンひっぱりだして、CDに焼いてよ(笑)」 「そうですねえ、やりましょうか」  以前書いたかもしれないが、『ドン・トレイシー・ショウ』や、『ローランド・バイナム・ショウ』は、当時80年代は、番組が収録された30センチのLP盤がFENに送られてきて、それを放送していた。全世界に何百とある基地などに送るためには、テープのコピーより、アナログディスクのプレスの方が早くて安かったのだろう。 そこで日本でもそのLP盤が空輸されてそのまま放送されていたのだが、時々針とびを起こす。曲の途中の時もあれば、しゃべりの途中の時もある。しゃべりの途中で針飛びするのがおもしろくて、なぜ、しゃべりが針とびするのか、最初はわからなかったが、番組がLPで来てるということを知って納得した。 「あの頃の番組ってよく針とびしてましたよね。それがおもしろくて、ずっとそれ、録音してましたよ。3分くらい針とびしてるのね」と工藤氏。「ドン・トレイシーは、(番組が)いきなり曲から始まるんですよね。あれがかっこよくてね」 「そうそう、で、後テーマはあって、『SWATのテーマ』(リズム・ヘリテージ)ね」 「ドン・トレイシーのかっこいいDJの部分だけ集めて、そこに自分の違うお気に入りの曲編集して、テープ作ったこともあります」 「そんなことまでしてたんだ。マニアックですねえ~~」 そうそう、ドンに「なぜテーマ曲を作るないのか」と尋ねたことがある。「そういうの(テーマにのってしゃべるスタイル)は、もう古いんだ。曲で始まるほうがかっこいい」と彼が答えたのを思い出した。 『ローランド・バイナム・ショウ』のオープニングとエンディング・テーマで使われていたデイヴィッド・T・ウォーカーの「ホワッツ・ゴーイング・オン」は、ご存知の通り、日曜の「ソウル・サーチン」のコーナーのテーマ曲に使わせてもらっている。 ドン・トレイシーとの話、KDAYを訪れた話、ドンの娘の名前はシャーデーといい、息子は確か、キダダという話などした。しかし、確かにあの頃のようなかっこいいDJというのが、本当に最近はいなくなった。 ENT>RADIO

Posted in Uncategorized | Comments Off

TKY With Kamayatsu Live At JT Hall

【TKYとムッシュの夜】 意外。 前日、日野賢二さんとは、目黒のブルースアレーで、「じゃあまた明日」と言って別れた。本日(12日)は、TKYのライヴだ。これは、虎の門のJTホールで定期的に行われている「ジャズ・イン・東京」というイヴェントの一環で、今回で16回目を向かえるという。また8月に行われる「東京ジャズ2005」のプレイヴェントという意味合いもある。 TKYにスペシャルゲストで、なんとムッシュことかまやつひろしさんが登場! 第二部でスパイダースのヒットなどを実に今風にアレンジして歌ったりした。 TKYとしては、前回、渋谷クワトロ以来(2005年5月13日)。いやあ、あの衝撃がいまだに忘れられないが、今回はちょっと空気が違った。それは、おそらくこのホールのためだろう。JTホールは、とてもきれいで天井が高い。だから、クワトロのように空気がどんよりして、濃密になるということがない。なんかクリアにすっきり、きれいになってしまう。 したがって、このホールではアコースティックなピアノ・トリオとか、比較的静か目系のアーティストのほうがあうのではないだろうか。TKYは、のりのグルーヴ感抜群のバンドだけに、この抜けてしまう天井の高さが微妙に雰囲気が違うかなという気がした。あるいは、後方にリアスピーカーでも置いて、前後左右から音の洪水にするという手もある。以前ニューオーリンズのバンドをここで見た時も、音の拡散が気になっていたことを思い出した。クワトロだと音が一方向に凝縮していく感じなのだが、ここはどこかに拡散していく感じなのだ。まあ、音響のセッティングの問題かもしれない。 とはいうものの、それはライヴのホールと音響、言ってみれば、ハード(環境)の問題であり、中身、ソフト(音楽)のほうは相変わらずグルーブ炸裂だ。しかし、このTKYの5人衆が作り出す音はかっこいい。 第二部始まっていきなりムッシュかまやつ氏登場。そして、あの「ゴロワーズ」(正式タイトルは、「ゴロワーズという煙草を吸ったことがあるかい?」)からだ。1975年に録音されたというこの曲は、ヒップホップやラップが1979年に世界に登場する4年も前に作られていたラップ曲だ。(笑) これをTKYのバックでやる日が来るなんて誰が予想しただろうか。 さらにスパイダーズ時代の「ノー・ノー・ボーイ」を、ポリス風のアレンジで聞かせた。 かまやつさんも、TKYメンバーも、実に楽しそうにセッションしている。かまやつさんは66歳、その半分くらいのメンバーとひとつの言葉でセッションができるのだから、音楽とは「いい言葉」だ。 かまやつさんとTKYという意外な組合せ。なかなかおもしろかった。っていうか、かまやつさんて、きっと誰とでも音楽を楽しめるんだろうなあ。とても素敵なことです。 しかし、ふと考えると、JT(煙草)のスポンサーでゴロワーズ(煙草)というのもおもしろい。 +++++ ■TKY過去のライヴ評 2004/09/22 (Wed) TKY Live At Sweet Basil: Fire On The Scene http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200409/diary20040922.html 2005/05/14TKY Live At Shibuya Quatro: A Vague Outline Become Firm Stylehttp://diarynote.jp/d/32970/20050514.html +++++ Setlist TKY @ Toranomon … Continue reading

Posted in Uncategorized | Comments Off

Gats Live With The Funkiest Band In Tokyo

【ガッツ・ライヴ】 強力。 日曜日、別件でガッツに電話をしたら、その用件が終った後、「いただいた電話で恐縮ですが、明日、ライヴあるんですけど・・・」というお誘い。そうだ、ガッツ、目黒ブルースアレーでやるんだった。忘れてた。ケイリブ、日野賢二らもでるライヴだ。 というわけで、再び目黒ブルースアレー。ソウルサーチン以来、ジョジョ、そして、ガッツとちょくちょくくるなあ。 ガッツも久々だが、今回のバンドはかなり強力だ。ドラムスにロレンゾ・ブレイスフル、ギターにザンドレ・ヤーブロー、ベース日野賢二、キーボードにケイリブ・ジェームスというバンドは、今東京でもっともファンキーなバンドではないだろうか。3人がアメリカの黒人、しかも、ベースの日野もニューヨーク育ちで、アメリカ人と同じグルーヴを持つ。 ガッツは、相変わらずよく通る荒削りな声で、このざらざら感のするソウルフルな歌声がひじょうにいい。ガッツィーで、グリッティで、グルーヴィーな声というか。 特に2部はぐいぐいと盛り上げた。トップを飾った「こんなにも君が」は、彼の18番でもあるが、彼の日本語の代表曲にふさわしい。 そして、でました、ルーサー・トリビュート! 「先週、僕が現役のシンガーの中で一番好きかもしれないシンガーが亡くなりました。僕は、ルーサーのライヴ、3回ほど見たことあるんですが・・・」 え~~? 3回も見たの? いいなあ、いいなあ 「1回はニューオーリンズで、あとどこだったかな・・・。彼のライヴ見て、あまりに歌がうまいんで、自分は歌うの辞めようかと思ったくらいですよ・・・」 日野賢二のベースからがんがんくる「ネヴァー・トゥ・マッチ」。この曲をライヴで聴くのは初めてのような気がする。なるほど、こうなるのか。何度もCDで聴いた曲。頭の中でルーサーの声を重ねてみた。(ガッツ、ごめん=(笑)) そして、それに続いてスローの「スーパースター」。10分近くの超大作。よくやった。レオン・ラッセルが書き、カーペンターズでヒットし、ルーサーがカヴァーしたヴァージョンをガッツはカヴァーした。ルーサー節をよく研究し、実にガッツらしい渋いヴァージョンにした。ここからは、レオンやカーペンターズの面影はない。カヴァーするというのは、こうして既存曲を独自の解釈でやるということなのだ。ここまで歌を聴かせられるガッツはたいしたもの。 そして、スペシャル・ゲスト、シャンティを迎えてマーヴィン&タミー・テレルの「ユア・プレシャス・ラヴ」。シャンティ、どんどんきれいになって、歌もよくなってる。ソウル・サーチン・トーキングでマーヴィンをやる時には、ぜひ、シャンティにも声をかけたい。「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」あたりも聴いてみたいな。 その後の「ピープル・ゲット・レディー」は、カーティス・メイフィールドの名曲。ガッツの歌の中でも抜群のでき。カーティスをやるときは、ガッツには絶対に来てもらおう。(笑)  アンコールは、結局バンド全員で「ホワッツ・ゴーイン・オン」に。ガッツ、しばらくこの強力なバンドで固めていったらいいんじゃないかなあ。 ++++ ■ガッツの次回のライヴは、8月19日横浜のサムズアップ。 ■ガッツ前回のライヴの日記2005/03/04 (Fri) Friends Joined Gats To Sing “What’s Goin’ On” http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200503/diary20050304.html +++++ Setlist–First Set at Meguro Blues Alley show started 19:47 1. Around (オリジナル=日本語)2. Can’t Hide … Continue reading

Posted in Uncategorized | Comments Off

Franklins’ Jazz & Burger Vol.1 ~ ”Summer Breeze” Night

【フランクリンズ・ジャズ&バーガー・イヴェントのお知らせ】 残席僅。 一度6月3日付けでご紹介したイヴェントのお知らせの最終ご案内です。島津山の人気ハンバーガー・ショップ、フランクリン・アヴェニューで好きなだけおいしいハンバーガーを食べ、軽くジャズ、ポップスでも聴きながら、おしゃべりを楽しみましょう、という集いです。歌われる曲は「オーヴァー・ザ・レインボウ」「スターダスト」など誰もが知ってるスタンダードばかり。 フランクリン・アヴェニューは、1990年オープンの今年で開店15年を迎えるもはや老舗の人気ハンバーガーショップ。瀟洒な一軒屋で供されるハンバーガーは週末ともなると、長蛇の列を覚悟しなければありつけません。 そんなフランクリンでの初の試みとなるイヴェントです。席数に限りがあるので、これが最終案内です。予約がないとはいれませんので、もし行こうと思っていてまだ予約されていない方は、最後のチャンスです。 +++++++++++++++++++ サマーブリーズとともに、テイスティーなジャズと、デリシャスなバーガーのひと時を~~ 島津山の片隅で妥協を許さないハンバーガーを作りつづけて15年~ 瀟洒な一軒家フランクリン・アヴェニューを舞台に行われるカジュアルでクラッシーな一夜  ハンバーガー片手に、ジャジーなひと時を過ごしませんか? Tasty Jazz and Delicious Burger~ジャズとバーガーの夕べFranklins’ Jazz & Burger Vol.1 ~ ”Summer Breeze” Night 【日時】 2005年7月18日(月曜・海の日祝日)【開場】 18時 開演 ファースト19時、セカンド20時 (入れ替えなし)【出演】 ザ・フランクリンズ (西任白鵠=ヴォーカル、永田ジョージ=ピアノ、森田聡= ベース、松本幸三=ドラムス)【場所】 7025フランクリン・アヴェニュー 東京都品川区東五反田3-15-18【料金】 ¥4000–(税込み) ハンバーガーとドリンクが充分についています。CDおみやげ付き【予約制】 席数に限りがありますので、予約された方のみご入場いただけます。【予約方法】 下記問合せアドレスへ、お名前、電話番号、人数をお送りください。折り返し予約確認メー ルとお店への行きかた等をお送りいたします。【問合せ】 Franklins0718@yahoo.co.jp までメールでお問合せください。申し訳ございませんが電話での問い合わせは受けておりません。 では、7月18日、フランクリン・アヴェニューでお会いしましょう。 ENT>MUSIC>EVENT>Franklins’ Jazz & Burger Vol.1

Posted in Uncategorized | Comments Off

Luther’s Funeral Was Celebration

【ルーサー葬儀は、セレブレーション】 セレブレーション。 去る7月1日に死去したソウル・レジェンド、ルーサー・ヴァンドロスの葬儀が、8日(金)午前11時(日本時間9日午前0時)からニューヨーク・マンハッタンのリヴァーサイド教会で多くのエンタテインメント界の友人などに囲まれ行われた。スティーヴィー・ワンダー、アレサ・フランクリン、パティー・ラベルなどが歌い、スピーチをした。地元のR&Bステーション、WBLSはこの日24時間ルーサー・トリビュートを放送した。 リヴァーサイド教会は120丁目から122丁目までをまたぐイーストサイドにある大きな教会。この日、関係者、友人などが2400名以上が教会に訪れ、さらにこのほか一般のファンが沿道に列をなした。一般のファンは、5列に並んで献花したが、その列は125丁目のアポロ劇場のあたりまでつながっていたという。中にはマイアミから1400マイルも車を運転してこの葬儀にかけつけたファンもいた。 この日はアポロ劇場のマーキー(歩道につきでている看板)には、ルーサー・ヴァンドロスの名前が出ていた。 ヴァンドロスのゴールドのカスケットは、教会の中央に置かれ、その横で友人のシンガーたちが歌った。スティーヴィー・ワンダーは、先ごろのロンドンでの同時多発テロについて「殺戮とテロリズムは、神の願うところではない。愛だけが(人々を救う)唯一の方法だ」とコメントしてから、レイ・チャールズの葬儀の時と同じく「アイ・ウォント・コンプレイン」を熱唱した。 (スティーヴィーのレイ・チャールズの葬儀での歌とコメントについての日記)http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200406/diary20040622.html スピーチをするあらゆる人からヴァンドロスを、アーティストとしてだけでなく、ひとりの人間として賞賛する声が続いた。 パティー・ラベルは、ゴスペル曲「アイ・ドント・フィール・ノー・ウェイズ・タイアード」を歌い、ルーサー・ヴァンドロスの母、メアリー・アイダが息子に向けて書いた詩を読み上げた。「神はあなたに世界のために歌う機会を与えました。そしてあなたは神からいただいた物を世界に返したのです。それは、愛です」 親友アレサ・フランクリンは、ソウルフルな「アメイジング・グレイス」を熱唱。アドリブでヴァンドロスの家族への言葉をメロディーにのせた。ルーサーの葬儀は、セレブレーションになった。 ルーサーを乗せたカスケットは、リヴァーサイド教会からアポロ劇場の横を通り抜け、墓地に向かった。その時、マンハッタンには小雨が降り注いでいた。 ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)

Posted in Uncategorized | Comments Off

Ray Davis Of Parliament/Funkadelic Dies At 65

【レイ・デイヴィス死去】 Pファンク。 パーラメント/ファンカデリック(Pファンク)のベース・ヴォーカル、レイ・デイヴィスが2005年7月5日(火曜)、ニュージャージー州ニュー・ブランズウィックのロバート・ウッド・ジョンソン大学病院で、呼吸器疾患で死去した。65歳だった。 Pファンクの総帥、ジョージ・クリントンは次のような声明を発表した。「私たちはみなレイをしのぶ。レイは、パーラメントのベース・ヴォーカルだった。だが、彼は本当にパーラメントの心だった。きっと新しい世界でも歌っているだろう」 レイモンドは、1940年3月29日サウス・キャロライナ州サムター生まれ。12人兄弟の末っ子。愛称「スティング・レイ」。子供の頃から教会でゴスペルを歌っていた。1961年、それより先にニュージャージーで結成されたR&Bのドゥワップ・グループ、パーラメンツに加入。パーラメンツとして、「アイ・ウォナ・テスティファイ」(67年)などのヒットを放った。その後71年、グループ名はパーラメントに。また、グループを作ったジョージ・クリントンはパーラメントのほかにほぼ同じメンバーで同系統のファンカデリックというグループを結成。実質的には同じグループだが、グループ名を違えるだけで二つのレコード会社と契約するという前代未聞のことを行った。 レイ・デイヴィスは、ファンカデリックでもベース・ヴォーカルを担当。「ギヴ・アップ・フォー・ザ・ファンク」、「ワン・ネイション・アンダー・ザ・グルーヴ」など多数のヒットで歌った。 その後、84年にPファンクを離れ、ザップ/ロジャーに参加。88年頃までザップの一員となった。その後、しばらく歌手活動を辞め、サウスキャロライナに戻った。しかし、93年9月、テンプテーションズから思いもよらぬ誘いがきた。 デトロイトの名門ソウル・ヴォーカル・グループ、テンプテーションズのベースシンガー、メルヴィン。フランクリンが体調を崩し、カムバックできそうにないので、グループに参加しないかというオファーだった。メルヴィンは結局95年2月に死去。レイも、しばしテンプスに参加した。 ENT>OBITUARY>Davis, Ray>2005.07.05 (65)

Posted in Uncategorized | Comments Off

Two Fresh Ideas To Sell New Acts: Give Him New Stage Name Kyle “Champagne” (Riabko)

【ムーンウォークと芸名】 芸名。 新人を売るための、アイデアを二つ授けましょう。 クライアントは、カナダ出身のカナダ人ギタリスト、カイル・リアブコという新人。彼がデビュー・アルバムの宣伝のために来日、7日(木)、都内のカナダ大使館でショーケース・ライヴを行った。リアブコ? 覚えにくいなあ。(笑) カイルはよろしい。 パーカッション1人とカイルの2人だけのステージ。カイルがギターを弾き歌う。僕は初めてライヴを見たが、なかなかルーツに黒い音楽あることを感じさせた。例えば、ブルースをやろうと言ってブルースをやったり、ジミ・ヘンドリックスの「フォクシー・レディー」をカヴァーしたり。何より、そのリズム感の良さ、ステージ上で上下に勢いよく跳ねる様は元気一杯でこちらも高揚してくる。しかも、これがまだ弾ける17歳。若きことはそれだけで素晴らしい。 パーカッションとギター、歌だけで、かなりのグルーヴ感がでる。彼が足で床を叩くので、ちょっとタップダンス的にリズム感がでていた。とても二人だけでやっているとは思えないほど迫力がある音だ。 当初イケメンのジャズアーティストのショーケースということで、ハリー・コニック的な雰囲気ものを予想していたら、まったく違っていて、ある意味予想を裏切られておもしろかった。 一番驚いたのは、ギターを弾きながら、~It’s close to midnight and something evil’s lurking in the dark~と歌いだした瞬間。おや、どこかで聞いたことがあるメロディーと詞。そう、マイケル・ジャクソンの「スリラー」ではないか。ほ~~、この曲をこうやる。そのアイデアだけで脱帽だ。これほど、マイケルのイメージが強い曲を、いとも簡単に自分風にしてしまうというのはなかなかのものだ。これで、ステージでムーンウォークでもやられたら、観客は腰を抜かすだろう。ギター弾きながらムーンウォークやったら、世界初のオリジナルだと思うが・・・。(笑) これが、ナイスなアイデアのその1、お勧めです。 カイルが生まれたのは1987年9月29日。現在17歳で、先月ハイスクールを卒業したばかり。夏休みではなくツアーが始まる。「スリラー」は、82年暮れの作品でシングルとしては83年暮れからのヒットだから、もちろん、カイルの生まれる前の作品ということになる。10歳からギターを始めたということだが、それでもまだ弾き始めてたかだか7年だ。7年でここまで来るかあ・・・。若者が才能を伸ばすというのは、こういうことなのだろう。若きことはそれだけで素晴らしい。 途中のリズムの取り方に、JBズ風のところも感じられて、ブルース、ジミヘン、JB、そして、マイケルとかなりブラック・ミュージックが好きなんだろうな、と思った。もちろん、他にも何でも聴いているのだろうが。 ライヴが終って少しだけ話す機会があった。「ブルースが好きなの?」 「イエー、大好きだ。自分がよく行っていたカナダのライヴハウスで、たくさんのブルース音楽を聴いて育ったんだ。マディー・ウォーターズ、ロバート・ジョンソン、あらゆるブルース・アーティストを聴いた」 「ジェームス・ブラウンは好き?」 「もちろん、彼は素晴らしい。この前の夏だったか、彼の前座をやった。すごいよね、彼」 他にはと尋ねると、「スライ・ストーン、パーラメント/ファンカデリック・・・」ときた。スライの曲などをライヴでやるのだろうか。「やるよ、『イフ・ユー・ウォント・ミー・トゥ・ステイ』とかね」 「お~、イエー。R&Bの曲ばかりのカヴァーアルバムを作る気は?」 「将来ね、いつか」 この日はパーカッションと二人だけだったが、通常は4-5人編成のバンドでツアーするという。 とてもファンキーなイケメン君が踊りながらグルーヴ感を出して弾いているその様を見て、同じくかなりのテクニックを見せるチャーリー・ハンターとはまた違った生々しいストリート感を感じた。 ステージでロック・アーティストのように跳ねるところを見て、とてもバブリーだと思った。つまり、彼はシャンペーンのアワのように跳ねている。よって、彼にニックネームを授けよう。カイル・シャンペーン・リアブコだ。そしてリアブコは、ちょっとメジャー感がないので、もう思い切ってカットして、カイル・シャンペーンっていうのはいかが? これは、スターの名前だ! (笑) ナイスなアイデアその2、お勧めです。会って話してた時には、そこまでのアイデアを思いつかなかったんだよなあ。今度会ったら、絶対に言おう。 「スリラー」弾きながらムーンウォークをし、名前をカイル・シャンペーンに変えれば、ルックス抜群、音楽性もしっかりしているし、女性ファンがすぐにつくことマチガイな~い。これでミリオンヒットになったら、年間コンサルタントにしてね。(笑)  デビュー・アルバムは『ビフォー・アイ・スピーク』(ソニー)。 ENT>ARTIST>Riabko, Kyle

Posted in Uncategorized | Comments Off

Mugen: The Legendary Disco

【伝説のディスコ、ムゲン】 ムゲン。 1968年5月にオープンし、87年2月にクローズするまで、多くの話題をまいた伝説のディスコ、赤坂のムゲン。今、ムゲンにかかわった方々に話を聞いている。実は9月号の雑誌ブリオでちょっとした「大人の遊び」を特集するのだが、そこで伝説のディスコ、ムゲンについて書くことになった。 ムゲンは、僕個人も何度か行っていて、個人的な思いいれもあるが、さすがにオープン当初のことは知らない。ムゲンを始めた方々に話を聞いていると、タイムスリップしたようで、じつにわくわくしてくる。 時間的な制限から、お話をうかがいたくても、実現しなかった方もおられるが、ムゲンについては前々から書いてみたいテーマだったので、今回取材できなかった方々にもいつか改めて話を伺えればと思う。 なによりも、ムゲンがすごかったところは、生の黒人バンドが毎日演奏していたことだ。それもかなりのレベルのバンドだ。時に、アイク&ティナ・ターナー、サム&デイヴのような大物も来日してライヴをやっていった。そして、あらゆる意味で、大人の遊び場としての文化というものが形成されつつあった場所だった。 68年のオープン当初は、当時のクリエイティヴ系の人々がこぞって集まっていたところもすごい。コシノジュンコさんから、三宅一生さん、菊地武夫さんなどからグループサウンズの面面まで。作家の川端康成、三島由紀夫まで来ていたという。 サイケの殿堂、ブラックバンドの殿堂。ムゲンは約20年弱、続いた。これほど続いたディスコは、世界中にないといわれる。オープン当初はディスコとは言わずに、「ゴー・ゴー・クラブ」と銘打っていた。 真っ暗な中、地下二階という深いところへ降りていくと、そこはブラックライトに照らされ、独特の非日常空間を作り出す。ストロボがたかれ、人々は高揚し、我を忘れてダンスに興じる。そこには、人種も階級もなく、ただ楽しい時間を過ごすためだけにおしゃれな人々が集まっていた。 一体60年代後半から70年代にかけて、ムゲンは何を成し遂げたのか。ムゲンとはなんだったのか。ムゲンが残した軌跡は何か。そして、ムゲンが起こした奇蹟とは。そこに集っていた人々、また、ムゲンを作り上げた人々にとって、ムゲンとはなんだったのか。そのあたりにフォーカスをあててみたい。 ムゲンを取り巻く物語、ご期待ください。ブリオ9月号は7月23日発売です。 ENT>DISCO>Mugen

Posted in Uncategorized | Comments Off

Luther Vandross Talks In Brooklyn Accent

【ルーサーのアクセント】 後悔。 僕個人のルーサーへの思いもかなりある。80年代後半から、どうしてもライヴを見たいアーティストで、見ることができないアーティストが2人いた。アレサ・フランクリンとルーサー・ヴァンドロスである。二人とも飛行機嫌いゆえに日本には来ないとされていたアーティストである。その後90年代に入ってバーブラ・ストライサンドがそのリストに加わる。ストライサンドの場合は、めったにライヴをやらないから、これは難しい。しかも、引退とか言ってるし。アレサのライヴ情報は、けっこう追いかけ、結局91年にニューヨークで捕まえることができた。だが、ルーサーはかなわなかった。僕のライヴ人生の中でも最大の悔いかもしれない。 ルーサーは、基本的によくライヴをやっていた。80年代後期に日本の業界関係者も何人か見ているし、またライヴのヴィデオも出ているので、その雰囲気はある程度はつかめる。しかし、あのヴェルヴェット・ヴォイスは一度生で見たかった。 ルーサーは、76年に出たグループ「ルーサー」の時からずっとリアルタイムで聞いてきたので、同時代感がものすごくある。81年『ネヴァー・トゥ・マッチ』で再デビューした時も、まずは、グループ時代からずいぶんと洗練されたなと思った。そして、何度もアルバムを聴くうちにその素晴らしさに感心するようになった。今ではルーサーのベスト・アルバムと言われる傑作だ。 その後アルバムを次々とだし、そのどれもが大ヒット。彼の後を追って、フレディー・ジャクソン、キース・ワシントン、ジョニー・ギルなど続々と登場した。 +++++ ブルックリン訛り。 これは以前どこかで書いたか話したと思うが、ルーサーとは一度会ったことがある。場所はロスのスタジオ。記憶がはっきりしないのだが、86~87年頃のことだと思う。誰かジャズかフュージョンのアーティストのレコーディングがロスのスタジオであり、その発売元のレコード会社(ポニー・キャニオンのパシフィック・コースト・ハイウェイというレーベル)の担当に連れられて、そのレコーディングを覗きにいった。主人公はそのアーティストなのだが、名前は覚えていない。(笑) ところが、そのレコーディング・セッションに大柄な黒人シンガーがきていたのだ。 僕はあれ、どこかで見たことあるシンガーだな、と思い、ガラスの向こうの彼をじっと見て、まもなく、ルーサーではないかと思った。担当者に「ねえ、ねえ、あれってルーサーじゃないの」と聞くと、担当者は「知らない、わからない」という。もっともその彼はルーサー自身を知らなかったので、話にならなかったのだが。ただ、僕も半信半疑だった。まず彼がニューヨーク・ベースで活動していること、飛行機嫌いということから、ロスにいるわけはないだろう、と勝手に思い込んでいたのだ。それに、無名のこのアーティストのセッションにルーサーほどの大物が来るわけがないと。でも、そっくりに思えた。特に太り具合は。 そこで、一段落してスタジオから出てきた彼に意を決してずばり尋ねた。「あなたは、ミスター・ルーサー・ヴァンドロスですか?」 後から考えると、とんでもない質問をなげかけたものである。鳥肌ものだ。相手はその時点で何百万枚ものレコードを売ってるスーパースター。アメリカの音楽業界人なら誰もが知っているそんな時期だった。すると彼は満面の笑みで「イエ~ス」と答えた。お~~、まじか~~と超びっくりし、これは一期一会だと思い、「インタヴューしてもいいか」と尋ねた。すると彼は「う~ん、ノー、今、僕はヴァケーション中なんだ」とあっさり断られた。 インタヴューは断られたが、なぜロスにいるのか、というと「今、ロスに住んでるんだ」と答えが返ってきた。ニューヨークではないかのか疑問に思ったら、ニューヨークにもロスにもどちらにも家があるという。なるほど。たまの移動は、なんとか飛行機に乗るらしい。 その時、写真を撮っていいかと尋ねると、「かまわない」という。そこで写真を撮ることにしたが、カメラを向けると、「胸から上だけにしてくれ」と注文をつけられた。やはり太っていることを気にしていたのだ。 それから何ヶ月後かに、ルーサーに電話インタヴューをする機会があった。87年10月のことだった。どういう時期かというと86年秋に『ギヴ・ミー・ザ・リーズン』のアルバムが出たほぼ1年後というタイミングである。今から考えるとなぜ、そんな中途半端な時期にインタヴューが取れたのか、よく覚えていないのだが、なんらかの理由で電話インタヴューはできた。 その時の印象は、はっきりした発音で、独特の訛りがあるなということ。そして、その訛りを以前に聞いたことがあった。話しているうちに誰か考えていたのだが、ふとわかった。カシーフだった。カシーフも、ルーサーもどちらもニューヨークのブルックリン生まれ。いわゆる「ブルックリン・アクセント」というものだった。その後、確かあのウィル・ダウニングと話をした時もその「ブルックリン・アクセント」を感じた。そういえば、ウィル自身もずいぶんとルーサーの影響を受けたシンガーではないだろうか。 ルーサーよ、Always & Forever! ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)

Posted in Uncategorized | Comments Off

Luther Tribute Continues: Luther’s Room Is Not A Home

【ルーサー衝撃・続く】 孤独。 ルーサー死去の衝撃は続く。イギリス人のソウル・ミュージック・ジャーナリスト、デイヴィッド・ネイサンが長文の追悼文を書いた。 http://www.soulmusic.com/luthervr.htm ルーサーはアトランティック・レーベル傘下コティリオン・レーベルからグループ「ルーサー」として76年にデビュー。その時にネイサンがインタヴューをし、それ以来、仕事面でもプライヴェートでも二人は親しくなった。ネイサンがその30年近いルーサーとの思い出を語ったもの。 グループ、「ルーサー」が2枚のアルバムを出した後、契約がなくなり、一時期ネイサンはイギリスのレコード会社にルーサーのデモテープを売り込んだことがある。だが、それを聞いたディレクターは、イギリスのマーケットには「アメリカすぎる」と判断し、売込みを断った。 その後、ロバータ・フラックのツアーで、ロバータのマネージャーと知り合い、その人物がエピックのディレクター、ラーキン・アーノルドを紹介してくれた。アーノルドは、すぐにこのテープを気に入り、契約。そこで『ネヴァー・トゥ・マッチ』が生まれた。ここに収録された「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」を聴かされた時のネイサンの驚きは大変なものだった。ルーサーにとって、ディオンヌ、アレサ、ダイアナ・ロスは3大お気に入りのシンガー。そして、そのうちのひとりディオンヌの作品をカヴァーしたのである。 ルーサーも生涯独身で過ごした。デイヴィッド・ネイサンも独身ということで、人生について、恋について、独身であることについて、パーソナルな会話を何時間もしていたようだ。一時期、偶然にもネイサンとルーサーがニューヨークの同じアパートに住んでいたことも、二人を親しくさせた。 『ネヴァー・トゥ・マッチ』以降、ルーサーはさらに豪華なアパートに引越していったが、新作がでると、まっさきにネイサンに聞かせていた。 ルーサーは、いつでも、生涯のパートナーを見出したいと思っていた、という。つまり、結婚したいと思っていたのだ。彼は、自分の体重(太っていること)が、恋のじゃまになると思っていた。そこで、恋をすると、あるいは、好きな人ができると、痩せる。だが、その恋が成就しないとなると、やけ食いでまた太ってしまうという。その体重の増減は5-60キロあった。それは、彼の歴代のアルバムのジャケットを順に並べてみれば、明らかだ。痩せている時と太っている時が実に極端なのである。 また、彼の兄弟、親ともに、糖尿病を患っていた。糖尿病の家系なのだろう。それと体重も関係していた。そして、そこから心臓への負担があった。 ルーサーにはこんな現実があった。完璧なライヴをやって、何万の人を喜ばせても、ホテルの部屋に戻ってくれば、たったひとりだ。そして、そこで彼を待っているものは食べ物だけ。どうしても食べてしまう。 大学時代、彼はしばしニューヨークを離れミシガン州に行くが、その時も彼は孤独だった。シャイな彼は友達もできずに、いつもヘッドフォーンでレコードばかり聴いていた。その頃聴いていたのが、アレサ・フランクリンであり、ディオンヌだった。同級生がガールフレンドを作ったり、パーティーに興じている頃、彼はレコードを聴いていた。まさにこの頃から彼の人生はヘッドフォーンの中にあった。 孤独というキーワードは、ルーサー・ヴァンドロスの人生の中に常に寄り添っていた。しかし、その孤独さが、体重を増減させ、また、彼の唯一無比の悲恋ソングや叶わぬラヴソングを作る原動力となったにちがいない。 傑作アルバム『ネヴァー・トゥ・マッチ』(1981年)のアナログではB面の最後を飾ったのが、前述の「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」だった。バート・バカラック&ハル・デイヴィッドの名曲だ。恋人が去った後の家は、もう家じゃない、家庭ではない、という歌。「そこに椅子があっても、家ではない。家が(形として)あっても、そこに家庭はない。部屋があっても、しょせん部屋はただの部屋。部屋は家ではなく、家があっても家庭はない・・・」 ルーサーの部屋は、家庭にはならなかった。 +++++ ■ルーサー・ヴァンドロスの『ネヴァー・トゥ・マッチ』のライナーノーツを近日中にアップします ■ルーサー・ヴァンドロスに関するソウル・サーチン日記 2003/04/25 (Fri) Luther Vandross’ Condition Critical, But Stable http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200304/diary20030425.html倒れた時の第一報。 2003/05/05 (Mon) Luther Is Still Alive http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030505.html 2003/05/15 Luther Still Unconcious: But Mother … Continue reading

Posted in Uncategorized | Comments Off

Renaldo ‘Obie’ Benson, of Four Tops, Dies at 69

【フォー・トップスのレナルド・オービー・ベンソン69歳で死去】 死去。 モータウン・レコードでテンプテーションズと並び大きな人気を獲得したR&Bヴォーカル・グループ、フォー・トップスのオリジナル・メンバー4人のひとり、レナルド・オービー・ベンソンが、2005年7月1日(金)、デトロイトの病院で死去した。69歳だった。またフォー・トップスのオリジナル・メンバーのひとり、ロウレンス・ペイトンは、97年6月20日59歳で癌のために亡くなっている。 これによって、フォー・トップスのオリジナル・メンバーは二人になった。他の二人はリード・シンガーのリーヴァイ・スタッブスと、アブドゥール・デューク・ファキール。現在リーヴァイも体調を崩してツアーなど表立った活動はしておらず、グループはデューク・ファキールを中心に別メンバー(セオ・ピープルスとロニー・マクネアー)を加え3人で活動している。ペイトンが97年に死去してからしばらくは、グループはその名を「フォー・トップス」からシンプルに「トップス」に変えていた。 フォー・トップスは、デトロイトのハイスクール仲間だった4人(リーヴァイ、オービー、デューク、ロウレンス)によって1954年頃に結成された。当初はフォー・エイムスと名乗り、シカゴのチェス・レコードと契約。ヒットは生まれなかったが、まもなくフォー・トップスとなり、1963年に同じくデトロイトのモータウン・レコードに入社。64年同社から「ベイビー・アイ・ニード・ユア・ラヴィン」がヒットしたのを機に次々とヒットを放ち、テンプテーションズと並んでモータウンの二大大黒柱となった。 ヒット曲の多くは、リーヴァイ・スタッブスの張りのある声がリードをとっていたが、3人のコーラスも定評があった。彼ら4人は、1954年のグループ結成から一度もメンバー・チェンジをすることなく、1997年のロウレンス・ペイトンの死去までともに活動を続けた。テンプテーションズが頻繁にメンバーチェンジをしていたのと比べると、43年間の4人の絆には固いものがあった。 映画『永遠のモータウン』の原題「スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・モータウン」は、フォー・トップスの66年12月からのヒット「スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・ラヴ」から取られている。他に「アイ・キャント・ヘルプ・マイセルフ」、「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」などヒット多数。 またオービー・ベンソンはソングライターとしてもいくつか曲を書いている。「ホエン・トゥナイツ・ミーツ・トゥモロウ」「ターン・オン・ザ・ライト・オブ・ユア・ラヴ」などがあるが、友人のアル・クリーヴランドと1曲したためる。 オービーは、69年か70年頃、サンフランシスコで警官が反戦運動をしていた子供を殴りつけているところを目撃する。その子供は特に何をするでもなかったので、オービーは衝撃を受けた。この事件をきっかけに、彼は反戦運動、とりわけヴェトナム戦争について思いを寄せるようになった。なぜ民主主義の名の元に、黒人、白人、十代の若者、貧乏な連中が戦場に送られなければならなかったのか。そこで、クリーヴランドとともに、そうしたテーマをもった曲を作る。このメッセージソングをモータウンのアーティストに録音してもらおうと聞かせたが誰も録音しようとしなかった。彼が在籍していたフォー・トップスのメンバーさえも、メッセージ色が強すぎるとして、録音を見送った。 だが、一人だけ、この曲に大いなる興味をもったシンガーがいた。それがマーヴィン・ゲイだ。マーヴィンは彼の甥が1968年、ヴェトナムで戦死。またマーヴィンの弟が3回ヴェトナムに赴き、そこで目撃した戦争の悲惨さをマーヴィンに語っていた。マーヴィンは、この曲のイメージに共感、さらに曲に手を加え、録音。だが、やはりモータウン社長ベリー・ゴーディーは、この曲のメッセージの強さゆえリリースに反対した。それが「ホワッツ・ゴーイング・オン」だった。結局、マーヴィンの熱心な説得で、ゴーディーは仕方なくリリース。しかし、リリースされるや大ヒットになったのはご存知の通りだ。 フォー・トップスは、1990年に「ロックンロール殿堂」入りを果たしている。 (「ホワッツ・ゴーイング・オン」の部分、加筆。情報提供・守島さんに感謝です) +++++ http://music.yahoo.com/read/news/21307459 ‘Obie’ Benson, of Four Tops, Dies at 69 07/01/2005 6:42 PM, APMike Householder Renaldo “Obie” Benson, a member of the legendary Motown singing group the Four … Continue reading

Posted in Uncategorized | Comments Off

Luther Vandross Died At 54: Reunited After 46 Years With His Father

【ルーサー・ヴァンドロス54歳で死去】 奇蹟。 ルーサー・ヴァンドロスの死去に関し、多くのエンタテインメント界からおくやみのメッセージがヴァンドロスの元に届いていている。クインシー・ジョーンズ、アレサ・フランクリン、スティーヴィー・ワンダー、ロバータ・フラックなどなどで、これ以後も多くの人々からおくやみが届いているだろう。 ヴァンドロスは、2003年4月16日にニューヨーク・マンハッタンの自宅で脳梗塞で倒れ、数時間発見されずに倒れていたという。発見後すぐに病院に運ばれ緊急手術が行われたが、長く集中治療室にとどまったため、身体に麻痺が残った。生命を救うため、喉からチューブが挿入されたが、シンガーとしての命、声帯に傷をつけないよう最大級の注意が払われた。 6月18日、担当医はルーサーのリハビリテーション・センターへの移動のための退院を許可。ルーサーは、毎日5時間、エクソサイズ、車椅子の乗り降りの練習を続けた。当初、回復は劇的だったという。 そんなある日、ルーサーは母親に電話をかけてこう言った。「1曲、あなたのために歌いたいんだ」 「なんですって?」 母は驚いた。「『ソー・アメイジング』を歌いたいんだ」 これは母アイーダのお気に入りだった。 アイーダが言う。「この曲には私にとってとっても深い意味があるの。というのは、ルーサーがこれを姪の結婚式で歌ったから。彼はその姪をずっと可愛がっていて、育てるのを手伝った。そして、この曲を歌い終えて、彼が姪に向かって『アイ・ラヴ・ユー』と言った瞬間、彼女は泣き崩れた。その場にいたみんなが号泣したのよ」。生涯独身で子供がいなかったルーサーは、ことのほか姪や甥を可愛がったという。 ルーサーが歌おうとする前に、母アイーダは、「一緒に歌いましょうか」と尋ねた。記憶喪失が見られたルーサーが歌うのを手助けしようという心遣いだった。ルーサーは「ママ、ママが歌う前にはたくさん練習してもらわないとだめだ」と言って電話越しで歌い始めた。そして、ルーサーはその「ソー・アメイジング」を一字一句間違えずに最初から最後まで歌いきったのである。 同年5月からアルバム『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』がキャリア中最大のヒットへなっていく。これは、彼自身が「シグネチャー・ソング(代表曲)」「キャリア・ソング(キャリアを代表する曲)」になったと大きな自信を持って世に送り出した作品だった。これはルーサーが8歳の時に死去した父親へ捧げた作品。母親は、これを聴いた時、たった8歳までの記憶しかないルーサー・ジュニアがよくこれほどまでの曲が書けたものだと驚嘆し、涙を流した作品でもあった。 このシングル・ヒットのおかげで、同アルバムは、彼の25年を越えるキャリアの中で初のアルバム・チャート1位を獲得。さらに、秋には、2003年2月のヴァレンタイン・デイに行われたライヴの模様を収めたライヴ・アルバムもリリース。 そして2004年2月、グラミー賞授賞式でビデオでメッセージを寄せ、受賞に大きな花を添えた。回復しなかった中での、ビデオメッセージは、今となっては奇蹟の声だったのかもしれない。 二人の姉、兄ひとりが先に旅立ち、ルーサーはアイーダに残された最後の子供だった。4人の子供を自分の死より以前に見送る母親の心境やいかなるものか。ファミリーのメンバーは、みな糖尿病をわずらっていたという。ルーサーもそうした家系の影響があったのだろう。体重の劇的な増減、糖尿病からくる心臓への負担、そうしたものが彼の命を短いものにした。 +++++ Chasing The Dream, Not Give Up 再会。 ルーサーは母親っ子だった。彼は4人兄弟の末っ子だったが、13歳の時、母と二人でブロンクスに引越し、生活を始めた。父親は既に他界、上の兄弟は独立していたので、母子の生活が始まった。ルーサーは、学校の親友フォンジ・ソーントンとバンドを組み、音楽活動を始める。彼の記憶では4回ほどアポロ・シアターの「アマチュア・ナイト」に挑戦しているが、いずれも優勝にはいたっていない。だが、彼はまったくそのことにくじけることはなかった。 高校卒業後ルーサーは、ウエスタン・ミシガン大学に進学するが、友人もできず、音楽だけに没頭していた。結局、大学生活に嫌気がさした彼は、ドロップアウトを決意する。その時医学を目指していたルームメイトが大学に留まるように説得したが、これはこう宣言してミシガンを後にした。「なあ、君が医者になり、病気にかかった時には、僕は君のところにリムジンで乗りつけよう。僕は逃げ出すんじゃない。自分の夢を追いかけるんだ」。 彼のキャリアのターニング・ポイントはいくつもある。そのうちのひとつがロバータ・フラックとの出会いだ。ルーサーは、80年のロバータの全米ツアーにバックコーラスのひとりとして起用された。そして、そのバンド・メンバーに誰あろうニューヨークのベース奏者マーカス・ミラーがいたのだ。マーカスとルーサーは意気投合。「いつか何か一緒にやろう」ということになった。そして、これが81年の『ネヴァー・トゥ・マッチ』につながっていく。 マーカスとともに作ったデモ・テープの「ネヴァー・トゥ・マッチ」をルーサーがロバータに聞かせたところ、ロバータは涙を浮かべ、「もうあなたは、バックグラウンド(・シンガー)に甘んじていることはないわ。私が、あなたのキャリアをスタートさせるための人物を紹介しましょう」と言ったほどだった。 そして、81年7月、『ネヴァー・トゥ・マッチ』は満を持してリリースされ、大ヒットになる。以後、彼の作品は出せばヒットになっていった。彼は徐々に「ソングスタイリスト」としての名声を確立。他の誰もが真似できないスタイルを築いた。 果たして、彼が自宅で倒れた時、大学時代のルームメイトの元にリムジンを乗りつけることはなかったが、ルーサーはその時の夢を実現させたのである。 スモーキー・ロビンソンがかつてこう言った。「ヴォーカリスト数あれど、ルーサー・ヴァンドロスはただひとり。ルーサーの中に品格が光る。(There are vocalists, and then there’s Luther. Luther’s in a class by himself)」 8歳の時、父と別れたルーサー・ヴァンドロス・ジュニアは、46年ぶりに今、父ルーサー・ヴァンドロス・シニアと再会を果たしていることだろう。手土産は、もちろん、「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」のCD。父親が息子に言っている言葉が聞こえるかのようだ。「よく来たな。いい曲を書いてくれてありがとう」。今、天国で二人のルーサーの熱いハグ・・・。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | Comments Off

Luther Vandross Died At 54 繊細。 R&Bシンガーとして、70年代から活躍し、80年代に入り爆発的人気を獲得したルーサー・ヴァンドロスが、2005年7月1日(金)午後1時47分(日本時間2日午前2時47分)、ニュージャージー州エディソンのジョン・F・ケネディー病院で家族、友人に見守られながら静かに死去した。54歳だった。 ヴァンドロスは、2003年4月16日、マンハッタンの自宅で脳梗塞で倒れ病院に運ばれ緊急手術をし、その後リハビリをしていた。ヴァンドロスが倒れた後、その直前までレコーディングしていた『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』がリリースされ、大ヒット。同曲はグラミー賞「ソング・オブ・ジ・イヤー」などを獲得。2004年2月のそのグラミー賞授賞式では、ビデオテープでメッセージを寄せた。 そのメッセージは、弱々しかったが、声はあのルーサー節だった。彼は”Remember, when I say goodbye it’s never for long, Because … I believe in the power of love.(万一、僕がさよならを言っても、覚えておいてくれ。僕は愛の力を信じている)”という彼の大ヒット「パワー・オブ・ラヴ」の一節を歌った。 声明を発表した医師によると、倒れた後、ルーサーはほとんど回復しなかったという。 ルーサー・ヴァンドロスは1951年4月20日ニューヨークのマンハッタン、ローワー・イーストサイド生まれ。ルーサー・ロンゾーニ・ヴァンドロス・ジュニア。74年、デイヴィッド・ボウイのバックコーラスとして抜擢され、ボウイのアルバム『ヤング・アメリカンズ』(75年3月全米発売)に登場。以後、音楽シーンで徐々に頭角をあらわすようになった。76年、グループ「ルーサー」を結成、アルバム2枚を出しヒットを出すが、レーベルが自然消滅し、81年9月、ソロ・シンガー、ルーサー・ヴァンドロスとして『ネヴァー・トゥ・マッチ』で再出発。以後、出すアルバムをすべてヒットさせ、80年代から90年代を代表するR&Bシンガー、ヴォーカリストとなった。 ルーサーは、それまでの男性R&Bシンガーが、男らしさを強調するスタイルが主流だったのに対し、男性でも弱さがあること、時には女々しいとされることなどを実に繊細に歌に託し、女性ファンからも、また男性ファンからも圧倒的な支持を受けた。また、その瞬間でわかる独特のクラス(品)のある声と歌唱は、多くのルーサー・フォロワーを生み出した。 20年以上の親交があり、現在日本ツアー中のロバータ・フラックは、「彼は持っているものすべてをさらけだして、与えてくれるシンガーです。彼は本当に音楽をするために生まれてきたような人物でした」と述べた。 ルーサーの母、メアリー・ヴァンドロスにとって、ルーサーは4人の子供の末っ子。そして、上3人がすでに他界しており、ルーサーは「最後に残された子供」だった。 +++++ (詳細はまた後ほど) ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54) +++++

Posted in Uncategorized | Comments Off

What’d I Write (Part 6): Just One Talent Goes A Long Way

【「何と書いたら」その6】 才能。 盲目であることは、ハンディ(障害)か。この一週間、そのこと、正確には航志くんのことばかり考えている。レイ・チャールズが成し遂げたこと、スティーヴィーが成し遂げていること、そして航志くんがこれから成し遂げるであろうこと。それらに思いを馳せるとき、盲目であることにさほど意味を見出さない。 逆に前向きに捉えれば、盲目であるがゆえにその他の五感が発達し、耳がよくなり、音楽の才能を伸ばす助けになったとも言えるだろう。盲目だったゆえに、音楽の才能の開花が他の人より早くなることもある。 ある人は絵を描く才能がある。ある人はスポーツをする才能がある。ある人は歌を歌う才能がある。だが、別の面での才能が欠けている人もいるかもしれない。絵は天才肌だが、社会的常識に欠け、待ち合わせに時間どおりに来ないとか。それは、常識を守る才能が欠けているからかもしれない。ある人は100メートルを10秒で走る才能を持っているかもしれないが、別の人はまったく絵が描けないかもしれない。 人はそれぞれ、さまざまな才能を持っている。すべてを兼ね備えている人は稀だ。何かの才能を持っている人は、別の才能がないことが多い。それが普通なのだ。 例えば、航志くんの場合、音楽の才能がずばぬけてある。だが、視力という才能が少し欠けている。視力0.01の近眼の人と比べて、彼の視力は0.0かもしれない。しかし、それとてわずか0.01の差なのだ。僕は音楽を聴く才能はあるかもしれないが、演奏したり歌ったりする才能はまったくない。僕の音楽の才能を1.0とすれば、航志くんの才能など10.0以上あるだろう。つまりその個人に何かの才能があるか、ないかというだけの話だ。 視力がないというのは、視力という才能が他の人より少ないだけのこと。耳もあれば、手足もあり、声という才能もある。したがって視力の才能がないことを「障害」と表現するのは、あたらない。腕がないということは、腕を動かす才能が他の人より少ないだけのことだ。仮にカラオケで音楽の才能がないために音痴でも、音楽の才能が少ないとはいえるかもしれないが、それを「音楽才能の障害」とは言わない。 仮に視力という才能がひとつなくても、他に多くの才能があれば、なんら問題はない。視力という才能があっても、注意力を持って歩かなければ、段差があるところで転ぶ。視力という才能がなくても、注意力を持って歩けば、段差があるところで、転ばずにすむ。ただそれだけのことだ。 人間のできること、人間の才能には多くの種類がある。しかし、その才能の多さ少なさにはでこぼこがある。ある人には、ある才能がたくさんあるが、別の才能はない。しかし、別の人には、また違った才能がある。人間は、各自の才能にでこぼこがあるから、個性が生まれる。皆と違うから個性が生まれる。全員が同じ才能のレベルだったら、クローン人間、ロボットのようでおもしろくないはずだ。そしてまた、ある特定の才能がずばぬけてある人に対して、その才能がない人があこがれるのも、自然な流れだ。 そして、もっと言えば、最近の言葉で紹介した千住明さんのこんな言葉が思い出される。「人間が持って生まれてくる元々の才能の差なんて、微々たるもの。だが、そこに(本人の)努力という掛け算をすると、とても大きな差になる」。 http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_05_22.html ひとつずば抜けた才能があれば、それだけで、素晴らしいことである。そんな一粒の才能が、本人の努力という掛け算をすることによって、はるか彼方への太く光り輝く栄光の道を作り出す。航志くん、迷うことはない。自信を持って、その栄光の道へ歩み出せ。 (2005年6月26日日曜、ソウル・サーチン・トーキングVol.4~レイ・チャールズ=目黒ブルースアレー) ENT>MUSIC>EVENT>Soul Searchin’ Talking Vol.4

Posted in Uncategorized | Comments Off

What’d I Write (Part 5): Everything Happens For A Reason

【「何と書いたら」その5】 必然の神。 2003年12月に埼玉アリーナのスティーヴィー・ワンダーのコンサート。その客席で見かけた十代の少年はスティーヴィーのように首を振りながら、聴いていた。「アイ・ジャスト・コール・トゥ・セイ・アイ・ラヴ・ユー」を一字一句同じように歌っていたが、ふと首を振った瞬間、彼が盲目であることに気づいた。 それから4ヵ月後、NHKのドキュメンタリーで鹿児島出身の歌を歌うシンガー・ソングライターであるその少年のことを知った。そこで、彼はスティーヴィーを歌い、ダニー・ハザウェイを歌っていた。「アメイジング・グレイス」の変貌に、そして、「ユーヴ・ガット・フレンド」の歌に驚嘆した。その映像の中で、少年と一緒に映っているプロデューサーの永島氏を発見した。彼のことは20年以上前から知っていたが、新しい会社に移ってからの連絡先は知らなかったので、必死に調べ、メールを送った。 その後、ライヴを2度見る機会を得た。その中で彼は「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌っていた。見た後、楽屋に行き握手をした。木下航志くんとの初めての接触だった。ライヴは、何でも歌えるその音楽的許容量の広さと、何でも吸収してしまう吸収力、成長力に驚かされた。彼が学生で、音楽活動は週末と夏休みなどに限られていること、ふだんは鹿児島にいることを知っていたので、まさか『ソウル・サーチン・トーキング』にでてもらえるなどとは夢にも思っていなかった。しかし、いろいろな話をするうちに彼がでてくれることになった。 一方、2001年4月から始まったラジオ番組『フィールン・ソウル』で、そのDJであるゴスペラーズの黒沢さんとは個人的にも仲良くさせていただくようになった。たまたまゴスペラーズが6月から比較的オフ気味なゆったりなスケジュールになること、こんなイヴェントをやっていて、レイ・チャールズをとりあげることを言ったら、ぜひ歌いたいということになった。レイ・チャールズの自伝『わが心のジョージア~レイ・チャールズ物語』を3日で読破した黒沢さんである。 黒沢さんが来てくれることを航志くんに伝えると、彼は大喜びしたという。お母さんもゴスペラーズのファンであるとか、彼がゴスペラーズの鹿児島でのコンサートに行っていたことを知るのは、イヴェント当日のことである。 もし、スティーヴィーのコンサートで、僕が彼の斜め後ろの席に座らなければ、おそらく、彼のことを知るのはずっと後のことになっただろう。NHKの番組を見る機会もなかったかもしれない。もし、番組を見なければ、僕はそこに永島氏がいることを知らないのだから、接点は生まれなかっただろう。そして、僕がこの日記に航志くんのことを書かなければ、それを航志くんが読むこともなかっただろう。だが、すべて起こった。 もし、僕が番組の構成という仕事をしていなければ、黒沢さんを呼ぶこともできなかっただろう。彼ほどの多忙な売れっ子ミュージシャンが、たまたまスケジュールがオフ気味になっていなければ、絶対に1日この日のために時間を割いてくれることなど不可能だったろう。また、東京ほど多くのアーティストがライヴに訪れることもない鹿児島にやってきたゴスペラーズを見ていた航志くん親子。その2者がまったく予期せぬところで接点を持った。 スティーヴィーで出会った航志くんと、ソウル・サーチン・ギャングと黒沢さん、他のミュージシャンを結びつけたのは、他ならぬレイ・チャールズである。スティーヴィー、航志くん、レイ・チャールズ。見事なトライアングルがつながった。 本当に人と人との出会いは面白い。人と人がどんどんリンクしていく。そして、航志くんにはこれからもっともっと新たな出会いが訪れる航志くんを軸とするリンクの輪は、どんどんと増殖していくだろう。すべては、必然で動いている。起こることはすべて必然だ。航志くんには「音楽の神」が宿っているが、今回の『ソウル・サーチン・トーキング』には、そんな「必然の神」が宿ったのかもしれない。 (2005年6月26日日曜、ソウル・サーチン・トーキングVol.4~レイ・チャールズ=目黒ブルースアレー) ENT>MUSIC>EVENT>Soul Searchin’ Talking Vol.4

Posted in Uncategorized | Comments Off