Billy Preston Dies At 59: Piano Man On Rooftop

【ビリー・プレストン­去~屋 の上のピアノ弾き】
実績。
エンカレッジング・ワーズ(紙ジャケット仕様)60年代から70年代にかけてヒットを送り出し、その後も­ーボード奏者として活躍してきたビリー・プレストンが、去る6月6日(火曜)、アリゾナ州スコッツデールの病院で­去した。59­ った。プレストンは長く腎臓病を患い、2002年に腎臓移植を受け、その後人工透析をしていた。昨年11月心臓が感染症を起こし意­不明になっていた。以来意­が戻ることはなく、先週末、容態が急変し火曜日­去した。
ビリー・プレストンは1946年9月9日テ­サス州ヒューストン生まれ、2­から­スアンジェルスに育った。本名ウィリア ・エヴァレット・プレストン。10­の 、ゴスペルシンガーのマヘリア・ジャクソンとともにステージに立ち、神童と呼ばれた。12­の時、1958年の 画『セント・ルイス・ブルース』でピアノを演奏。この 画は伝説のブルース・シンガー、WCハンディーの自伝 画で、ハンディーの­供時代を演じた。ちなみに、大人になったハンディーを演じたのはナット・­ング・コール った。
アメリカのテレビ番組『シンディグ』にレギュラー出演。レイ・チャールズなどのツアーにも参 。­界内で­ーボード奏者としての評価を確立、そんな評判からビートルズの「ゲット・バック」、「ドント・レット・ミー・ダウン」などのレコーディングに参 。「5番目のビートル」などとも称された。ビートルズは69年がライヴの最後の年となるが、同年行われた有名な「屋 の上のコンサート」でも、彼はオルガンをプレイしている。このシーンは 画『レット・イット・ビー』に収録されている。ビートルズの­では特にジョージ・ハリソンと親しく、ハリソン関係のセッションに参 したり、ハリソンが亡くなった時の追悼ライヴでもプレイしている。多くのセッションにも参 、スライ&ファミリー・ストーンともレコーディングしている。また、プレストンは75年、­ーリング・ストーンズのアメリカツアーにも参 。『ビートルズとストーンズとプレイした男』にもなっている。
ビリー・プレストンとしては、当初アップル・レコードに所属していたが、72年A&Mレコードに移籍。同年インストゥルメンタルの「アウタ・スペース」が全米ナンバーワンを記録。同曲はグラミー賞も獲得。さらに「スペース・レース」「ナッシング・フ­ ・ナッシング」などの大ヒットが続いた。モータウンに移籍して1980年、シリータとのデュエット「ウィズ・ユー・アイ ・ボーン・アゲイン」がビルボード・ポップチャートで4位を記録。
長いセッション・マンの­史の­で、彼はアレサ・フランクリンの『ヤング・ギフテッド&ブラック』、ボブ・ディランの『ブラッド・オン・ザ・トラックス』、スライ&ファミリー・ストーンの『ゼア・イズ・ア・ライオット・ゴーイング・オン(邦題、暴動)』などに参 。様々なジャンルの­史的名盤に名を残した。
 画『サージェント・ペパーズ・­ンリー・ハーツ・クラブ・バンド』、『ブルース・ブラザース2000』にも出演。また、昨シーズンのテレビ『アメリカン・アイドル』にも登 していた。
1990年代は、それまでのアルコール­毒、ドラッグ問題などさまざまなプライヴェートでの問題が表面化し、刑務所入りしていたこともある。
最近では、2006年1月にリリースされたソウルシンガーのオ ニバス・アルバ 『アイ・ビリーヴ・トゥ・マイ・ソウル』で3曲­っていた。これが遺作となった。
ビリー・プレストンはかつてこう言っていた。「何かをする時にはできる限りベストを尽くせ。何かとてつもなく重要なことをしているなんてことは、その時は誰にもわからないもの 。たとえ、それが­史に残るセッションであっても、その時にはわからない。それができる才能があったこと、ベストを一生懸命尽くしたこと、それ けが実績なの 」
彼にとっては単なる「屋 の上のセッション」 ったかもしれないが、それが彼を一躍有名にし、その後の音楽­界でのステータスを決定的にした。
ENT>OBITUARY>Preston, Billy / June 6, 2006 (59)

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