Senju Akira Talks (Part 2): Baton Was Passed On To Son

(千住明さんの講演会の話の続き)

【渡されたバトン】

バトン。

千住明さんの講演の中盤で、彼はそれまで理論で音楽を作ってきたり、頭で音楽を作ってきたが、あるきっかけで、心の叫びみたいなもの、理論ではなく湧き上がる感情のようなもので曲を創らなければならないと感じるようになった、という話がでた。

そのきっかけというのは、父のことだった。5年前(2000年)、父が病(脳梗塞)に倒れたのだ。病は重く、完治することは考えられなかった。この時、子供たちは可能な限りの英知を集結し、いかに父に最高の時を過ごしてもらうかを考えた。そこででた結論は、父親を病院ではなく、自宅で介護するということだった。しかし、それは一般的な医学の常識からすれば、とても考えられないことだった。ある程度の医療機器がなければ、患者を安全に保つことはできないからだ。

だが、理解ある医師たちのアドヴァイスを得て、彼らは自宅に様々な設備を備え、そこを病院のようにしてしまったのだ。そして子供たちが、24時間体制で父の面倒をみた。2000年3月、明さんたちの戦いが始まった。

父親は頭脳明晰な学者だった。兄が絵の道に進みたいと言っても反対もしなかった。明さんが音楽の道に進みたいと言っても文句ひとつ言わなかった。父が言ったことはただひとつ。「やるならば、徹底してやれ。そこで一流になれ」ということだった。「音楽も、遊び半分でやるくらいなら、やめろ」という感じだった。

子供の頃から、父親は「何でも好きなことをしてよろしい。だが、もしそれが自分が思ったものと違ったと感じたら、30歳までに(人生の)方向転換をしなさい」と助言した。つまり、もし彼が音楽の道で生きていきたいと思ったら、30までは自由にやるだけ、やってみろ。もし、それでだめなら、30歳で方向転換しなさい、というのだ。「父にはそんなことをほんの子供の頃からずっと言われてきたので、自分の中にはなんとなく30歳(という転機)が、身体に染み付いていたという感じです」。なぜ父が30歳と口を酸っぱくして言ったのかといえば、父自身が30歳で人生の転換をしていたからだった。

明さんは、慶応で幼稚舎から大学まで進むが、音楽家を目指し、一念発起。芸術大学を目指す。一度慶応の大学に進んでそれを途中で辞めての受験だったので、芸大には2浪して入ったが、その他の現役新入生と比べれば「実質5浪」で入ったことと同じだった。現役と5浪の差は大きかった。

「あの2年間の受験勉強の厳しさ、辛さは、もうとても同じことをやれといわれても、絶対にやれない。何百冊とある百科事典のような本をすべて覚えなければならないんです。それほど厳しいものでした」と彼は振り返る。23歳で無事芸大に入り、卒業、しかもさらに一念発起し、大学院にも進み、29歳で首席で修了した。父が言っていた30歳前に、芸大を、しかも首席で卒業したことで、「なんとか間に合ったと思った」という。

現在44歳の明さんは、それからの10年、クラシックの音楽家として、またテレビ番組のテーマ曲などポピュラー畑の音楽家として、休みになく突っ走ってきた。

かつては、クラシックの世界とポピュラーの世界の二束の草鞋(わらじ)を履くことは許されなかった。そこで、彼はポピュラーの世界で仕事をしていることを、しばらくは隠していた。それは、50年代に敬虔なゴスペル・シンガーが、世俗的なR&Bを歌うことを隠していたことと似ている。あるいは、ひょっとして、彼にとっては「クラシック作曲の苦しみ」を「ポピュラーを創る楽しみ」で帳消しにしていたのかもしれない。

父が倒れ、その看病をするために、彼の生活スタイルは劇的に変わった。特に夜、夜中は彼が父に付き添うことが多かった。千住明さんは、そんなある日、父と長い時間かなり深い話をした、という。父はその時いわゆる延命治療というものを拒否していたために、かなりの痛み、苦しみを感じていた。

「父を看病していた頃から自分の音楽に対する姿勢が変わってきたような気がします。自分は音楽を作るために、とにかく(人生を)突っ走ってきた。だが、その看病をきっかけにいろいろ考えさせられるようになったんです」。

自分は音楽という「国際語」をしゃべるようになっているが、その時、何かを主張しようかな、と思ったこともそんな変化のひとつだった。

病床に横たわる苦痛の父に「人生で一番楽しかったのはいつだったのか」と息子は尋ねた。父は答えた。「1967年家族全員で車でアメリカ横断をした時のことだ」。 ちょうど、その時の8ミリ・フィルムが残っていて、それをともに見ながら話したという。明さんが6、7歳頃のことだ。

強い父が弱音を吐いた。「なんでこんなに(痛い思いをして)苦しいのか」。 その時、明さんの口から、思わず「生きるためじゃないかなあ」という言葉がでた。「生きるっていうのは苦しいことなんだよ」と息子は父に言った。「ほんとに僕は父と一緒に戦っていた、と思います。いわゆる延命治療はしなかったんですが、ここは矛盾するんですが、その中でできるだけ延命できるようにいろいろしていた。そんな中で、自然にその言葉がでたんです。生きるっていうのは苦しいことなんだ、という言葉。自分でもよくそんな言葉がでたな、と思います。そんな重い話を、父と(生まれて)初めてしました。父がどんどんとだめになっていくのがわかった。衰弱していって、父の(明晰で優秀な)学者としての頭脳がだめになっていくのが悲しかった。人生のこと、妹のこと、お袋のこと頼むね、とか、様々なことを話した。普段、父とは絶対しなかったような話をしました。それは、父が僕にバトンを渡した瞬間だったように思います」。

バトンは受け継がれた。そのバトンに込められた真実は、今度は明さんが何十年かかけて、次の世代に受け継ぐことになるだろう。父が倒れてから半年後の2000年9月、戦いは終った。半年間の濃密な時間の想い出を残して・・・。

(千住さんが話された内容を元に構成しました)

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千住明氏公式ホームページ
http://www.akirasenju.com/

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(2005年5月19日木曜、日比谷・三田倶楽部=千住明講演会)

PEOPLE>Senju, Akira
LECTURE>Senju, Akira

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