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Memory Of Jiyugaoka, Back In The Day (Part 2)

(昨日からの続き。舞台は自由が丘から西麻布へ) <br> 【自由が丘へのルーツ】 <br> 西麻布。<br> なぜ、大貫さんと僕が「レノマス」に「エスピガ」のDJとして誘われたか。<br> それから遡ること3年余。1979年夏。僕は西麻布にあったDJバー「トミーズ・ハウス」という店に足を運び入れた。西麻布に住む友人が、「半地下からいい音が聞えてくるなんか面白そうな店があるから、行ってみよう」といって誘ってくれたの 。­本木交差点から西麻布の交差点に向かい、左側を­いていくと、交番の手前にその店はある。階段を数段下りて入っていくと、­では大音響で音楽が流れていた。<br> たくさんの曲を聴いたが、特に印象に残っていたのはちょうどその 全米で流行っていたハーブ・アルパートのインストゥルメンタル曲で全米ナンバーワンになる「ライズ」 。10坪程度の小さな店 ったが音響に凝っていて、JBLとウーハーがものすごくいい音を出し、当時の流行の洋楽曲がかかっていた。カウンターは対面で客が座るようになっていて、そのテーブルには、バックギャモンのゲー 盤が作りつけられていた。店のスタッフは、­ーラースケートを履いてドリンクを運ぶという、当時としてはかなり斬新な、しかもアメリカナイズされた店 った。バックギャモンのゲー を覚えたのもこの店 った。<br> オウナーはトミーで、彼は洋楽も最先端のものから、邦楽も洋楽寄りのものを厳選してかけていた。初めて足を踏み入れたその日、僕はそこの店の音の良さ(音響の良さと選曲の良さ)にほれ込み、以来 繁に通うようになり、そのうちトミーに誘われひまな時間にDJをするようになったの 。それがいつしかレギュラーで週末にDJをするようになった。僕は毎週金曜と土曜の夜10時半から夜­の3時まで4時間半、ノンストップで立ちっ放しでDJをした。僕がかけたのはほとんどソウル、ディスコばかり った。<br> 毎日深夜3時。店のク­ージング・テーマは決まっていた。毎日、週末も平日も、深夜3時になると、「トミーズ・ハウス」では必ずこの曲がかかかり、この曲とともに暗かった照明が明るくなった。それが山下達郎さんの「ラスト・ステップ」 。僕が達郎さんの音楽を知ったのがこの「トミーズ・ハウス」 ったといっても過言ではない。トミーが達郎さんのレコードを大変好きで、洋楽曲の­にぽっと達郎さんのレコードをはさみこんでよくかけていた。彼が1980年に大ブレイクする前の話である。<br> 1979年。<br> 1979年夏というと、ソニーのウォークマンが世に出たときである。さっそく新しいもの好きの編集者などがそれを持って「トミーズ」にやってきたことを思い出す。初めてウォークマンを聴いたときの驚きといったらなかった。これはとんでもないものがでてきたと思った。<br> この「トミーズ・ハウス」はまもなくその音の良さで音楽関係者やファッション­界、雑誌編集者などが多数来るようになる。そんな­に大貫さんがいた。僕もそこで大貫さんと知り合うことになるの が、大貫さんもトミーに誘われ、毎週水曜日にDJをすることになったの 。大貫さんは、1980年に「­ンドン・ナイト」のイヴェントを始めていて、ほぼ同時期にこちらでもDJをやり した。大貫さんと僕の選曲は決してかぶることがないので、それはそれでおもしろい。 <br> ここで強烈に印象に残っているのは、さきほどの「ライズ」以外では、マクファーデン&ホワイトヘッドの「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」、クルセイダーズの「ストリート・ライフ」、マイケル・ジャクソンの『オフ・ザ・ウォール』のアルバ など 。「トミーズ・ハウス」での思い出もけっこうあるので、いずれ別の機会にでも書いてみよう。<br> そして、自由が丘の「レノマス」は、よくこの「トミーズ・ハウス」に遊びに来ていた。そこで、僕や大貫さんと知り合い、「エスピガ」でのDJへとつながっていくの 。<br> ところが、その「エスピガ」は、あるとき­ッチンでちょっとしたボヤを出してしまう。僕はたまたまその日店にいたの が、DJは終わっていたか、休憩­ った。­ッチンの方から火がでてびっくりした。しかし、よくある料理のときにフライパンなどから瞬間火がぼーと燃え上がるのかと思っていたら、それがなかなか消えず、あれと思ったら、瞬く間に煙がでてきた。あわてて「火事じゃない?」と言って、店のスタッフがお客さんを店外に出した。結局、そのボヤは自力で消し大事には至らなかったの が、その日は当然営­­­。確か店は­ッチンが使えないためにしばらく休­し、これを機に、そのままク­ーズしてしまったように記憶する。<br> 「エスピガ」をやめてからは「レノマス」とは疎 になってしまい、近況はわからない。しばらくしてアメリカに行ったことを風の便りに聞いたくらい 。<br>  が今回、「マルディ・グラ」が、実は以前「レノン・ストリート」の跡地 ったという小さな事実を確認できたことは、個人的には大きな収穫 った。自由が丘の何の変哲もない交差点の角にあった昔の店と今の店。世田谷区奥沢5-29-10、この小さな角地には音楽好きの神が宿っているのかもしれないなどと無理やりにこじつけてみたくなった。<br> (この 、終わり)<br>  マルディ・グラのウェッブ<br> <a href=”http://www.jiyugaoka-mardigras.com/”>http://www.jiyugaoka-mardigras.com/</a>  大貫さんの「­ンドン・ナイト」のウェッブ<br> <a href=”http://www.kenrocks.net/i.htm”>http://www.kenrocks.net/i.htm</a> ENT>MUSIC>ESSAY>Jiyugaoka <a href=”http://blogscouter.cyberbuzz.jp” target=”_blank”><img border=”0″ src=”http://blogscouter.cyberbuzz.jp/tag/blog.php?k=3b465645b4b281a23e124c2baefe0b39&s=3d229&c=1″ /></a>

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Mardi Gras: Memory Of Jiyugaoka, Back In The Day (Part 1)

【マルディ・グラからつながる自由が丘の思い出】 <br> 自由が丘。 <br> 自由が丘の駅から東横線沿いに日吉方面に右側の道を­いていくと四つ角がある。左に曲がると上が東横線が走るガード。右角に雑貨屋があり、その地下に「マルディ・グラ」がある。 <br> 『ガンボズ・イアーVol.12~ソウル・サーチン・ビデオ・ナイト』でお世話になった「マルディ・グラ」は、名前から想像できるように、ニューオーリンズ気分にしてくれる音楽のある店 。壁には何枚もの1970年代の­ックやソウルのレコードのジャケットが額に入れて飾られている。ここで守島さんのイヴェント『ガンボズ・イアー』の第1回が行われたのが2000年10月。ちょうど同年7月に拙著『ソウル・サーチン』が発売され、「発売記念イヴェントは別にないです」と言ったら、守島さんが「じゃあ、なにかやりましょう」ということで企画してく さった。 <br> それから7年を経て、再び、ここで「ガンボズ・イアー第12回」に参 したの が、実は、この会 「マルディ・グラ」のある 所については以前から気になっていた。 <br> レノン・ストリート。 <br> その昔、1970年代後半から自由が丘でよく来る店があった。それは「レノン・ストリート」という当時比較的おしゃれな店 った。それこそ田­康夫氏の小説『なんとなく、クリスタル』(1980年)に出てきそうな(ひょっとしたら出てきていたかもしれない)店 。ま 「カフェ・バー」という言葉が生まれる前に、新しめの洋楽のレコードをかけていた「カフェ・バー」風の店 った。たぶん1978年か1979年あたりのこと ったの ろう。 <br> で、7年前(2000年)に「マルディ・グラ」に来たときに、この辺に「レノン・ストリート」があったような気がおぼろげにしていた。そのときは、すっかりそれを確かめるのを忘れたの が、日曜日(8月19日)に久しぶりに行った「マルディ・グラ」のオウナー川村さんに尋­た。 <br> すると、やはり、この地はまさにかつて「レノン・ストリート」があった 所 ったの 。「レノン・ストリート」の入口は東横線沿い ったが、「マルディ・グラ」の入口がそれと直角に交わる道にあるので、ちょっとわからなかったの 。川村さんによれば、この 所は「レノン・ストリート」のマスター(僕や仲間たちは当時彼のことを「レノン・ストリートのマスター」ということで略して「レノマス」と呼んでいた)の両親が持っていたもので、建物を一部改装し、2階に住居、1階部分を「レノン・ストリート」という店にしていたの という。もちろん、「レノマス」は、ジョン・レノンが大好き ったから、この店名にした。 <br> 「レノン・ストリート」も店内はブラックを基調にしたいい店で、レコードジャケットを壁に飾っていた。ビートルズや西海岸のイーグルスや、マイケル・フランクスやら、ちょっとしたソウル系、フュージョン系のレコードをそれほど大音量ではなくかけていた。 <br> そして1980年代後期か1990年代初期に、「レノマス」はアメリカ人女性と結婚し、アメリカに移住することになり、この土地を売却、新たに買い求めた人が3階建てのビルを建て、その地下1階に「マルディ・グラ」がはいったらしい。 <br> 「マルディ・グラ」は最初のオウナー、ミックさんが1992年にオープン。しかし、1997年10月彼は事情で九州・熊本県人吉市に引っ越し、そのときにミックさんから現在のオウナー川村さんが店を引き継い 。ミックさんは熊本でも、やはり「マルディ・グラ」のようなレコードをたくさん置いている音楽バー「ベアーズ・カフェ」という店を経営されている。ミックさんは、「マルディ・グラ」の前には青山で「サル・パラダイス」という店もやっていたというから っからのミュージック・マンのよう 。「マルディ・グラ」はオープンして15年、川村さんの代になってからでもすでにちょうど10年 。 <br> 僕が初めて「マルディ・グラ」に行ったのがいつ ったかは­確には覚えていないの が、2000年に行ったときは初めてではなかったので、その前に行っているはず 。ひょっとしたら、あの近くに住んでいるFM局のディレクターをやっていたC氏に連れられて行ったのかもしれない。この店名から「音楽関係のバー」 ということはわかる。(笑) <br> エスピガ。 <br> さて、さきほどの「レノマス」 が、彼は1983年 、「レノン・ストリート」も経営しながら、同じ自由が丘に「エスピガ(espiga)」というレストランをオープンした。これはスペイン語で「穂」といった意味らしいが、メ­シコ系の食事を していた。「カフェ・バー」という言葉はこの までにかなり浸透したが、「カフェ・バー」というよりレストラン、しかし、若い人も入れるカジュアルなレストラン った。「レノン・ストリート」よりもっと広く明るい店になっていた。そして、そこはレストランなのに音楽好きのオウナーの趣味を反 し、店の­央の一段高いところにターンテーブルが2台あり、BGM的にDJをやっていた。レストランでDJブースがある店など、あの時代には他にはなかった。 <br> そこで、「レノン」時代からのつきあい った「レノマス」から、「週一でもいいからDJをしないか」と誘われた。そして、僕は週一でDJを始めたの 。オープンしてまもなく ったので、やはり1983年 のこと ろう。僕は毎週水曜に入ったが、そのとき、別の曜日に別のDJが入った。たぶん、彼は金曜あたり ったような記憶なの が、違うかもしれない。それがUK­ックの大家・音楽評論家の大貫憲 さん 。 <br> 僕は、どういう選曲をしようかいろいろ考えたの が、ちょうどその ­在を知ったアメリカのラジオで流行り した「クワイエット・ストー 」のフォーマットを真似してやろうと思い、その路線で選曲をした。当時は「ラウンジ」などという言葉はなかったが、今から思えばまさに「ラウンジDJ」 った。 <br> この「クワイエット・ストー 」を取り入れたのは、相当早かった。ちゃんと向こうのラジオのように、波の音とか、鳥の鳴き声とか、エアポートの音などの効果音を曲間にはさんでかけた。ターンテーブルは2台しかなかったので、効果音は事前にカセットに録音してかけたり、効果音のレコードなら、2-30秒かけている間に次の曲をセットするという早­をやっていた。 <br> アメリカで「クワイエット・ストー 」がブレイクするのが1985年から1986年以降なので、かなり時代の先を行っていたかもしれない。僕はサンフランシスコのKBLX局のテープを入手したか、誰かから話をきいたかで、「クワイエット・ストー 」のことを知った。 が「クワイエット・ストー 」の­史自体を知るのは、そのずっと後のこと 。当時のソウルのス­ー・ジャ (そんな言葉もなかった)と若干のフュージョン系インストゥルメンタル曲に効果音。自分でいうのもなん が、けっこういけてた。たぶん、「エスピガ」でやっていたものも、何本かカセットに録音して自分でも楽しんでいたように思う。 <br> ところで、先ほどからずっと「レノン・ストリート」のマスターのことを「レノマス」としか書いてないのには、わけがある。実は「レノマス」の本名を思い出せないのである。(笑) 当時はもちろん知っていたの が・・・。ずいぶん昔のことなので、かなり記憶がおぼろげである。情けない。(笑) <br> … Continue reading

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Maxayn, Robbie, Anthony Talk:

【話は広がる~雑談】 <br> ­談。<br> フィリップ・ウーの「ビリー・プレストン・トリビュート」ライヴの後、マクサンや­ビー、アンソニーが­にいたので、ライヴ後ちょっと­談した。<br> マクサンが、「あなたの最近のプ­ジェクトは」というので、今度の8月に行われる木下航志くんのライヴの手伝いをする、というと、彼女も「ソウル・サーチン」で会っていて、「おおお、あの­­。彼はすごいわ」と大絶賛し始めた。<br> 「すばらしい声の持ち主 わ。あのボーイは、はやく、海外にでるといいわよ、きっと。(アメリカの)南部でも、西部でも、東でも、全部の地域を旅すればいいわ。それぞれの土地の教会に行って、そこの人たちと­うのよ。彼は(目が見えないので)余計な情 をとらない。た 耳 けから聴くものを覚えていくでしょう。 から、自分よりレベルの高いミュージシャンたちと一緒にやると、彼のレベルがどんどんあがっていくのよ。ああいう­は少ないわ」 僕が「彼はスポンジのように、何でも吸収するん 」というと、「そうそう、その通り」と返ってきた。<br> ­ビーが、「­え、今度、アース・ウインド&ファイアー&エモーションズ・トリビュート、やりましょうよ」と言ってきた。「ほら、ここにエモーションズ(­ビー、マクサン、そしてポーラ・ジョンソンも座っていた)がいるでしょ。(笑) アースって、すごく日本で人気あるでしょう。絶対に、満­になるわ」 「なるほど、確かに。じゃあジェー ス・ブラウンや、プリンスは?」 「おおっ、いいわ­」 「ジェー ス・ブラウン・ショーにはたくさんの女性シンガーがいるでしょう。リン・コリンズやマーヴァ・ホイットニーとか。ところで、プリンスの時は、ヴァニティー役やる?」 「おおっ、ははは、(ちょっと照れて)私にやれる役があれば、やるわ! (笑)」 「しばらく日本にはいる?」 「いるわよ。私は、今、KDブ­ージアをマネージしてるのよ。彼は今アメリカでレコーディング­なの」<br> アンソニーはほぼ一週間前にここコットンのジーノ・ライヴで初めて会った。そのとき「フィリップ・ウーに会うといいよ」と言っていたので、いきなり、ステージに飛び入りしたときにはびっくりした。「明日も来るの?」と聞くと、「明日はゴスペルを教えなければならないので来れない」と言う。彼は7月­旬まで東京にいる予定 が、何かいい仕事がはいれば、延長する、という。<br> それにしても、フィリップが言う通り、東京にもすばらしいシンガーが何人もいる。やはり、「トウ­ョウ・ソウル・プレイヤーズ(略してTSP)」を結成しないと。(笑)<br> ところで、木下航志くんのライヴについては、6月10日に詳細を発表します。8月29日(水曜)、品川教会でライヴです。<br> ENT>MUSIC>ESSAY

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Soul Searchin Project Will Have Spin Off Projects

【ソウル・サーチンから派生プ­ジェクト】 広がり。 定期的に行われている『ソウル・サーチン:ザ・セッション』をごらんになった方から、例えば、ソウル・サーチャーズを起用したいというオファーがいくつか来ている。ま 、発表できる段階ではないの が、とりあえず3案件あり、話がうまくまとまれば、 に発表できると思う。 3案件のうちのひとつは、ま 日程が確定していないの が、オウナー大西さんが自らのブ­グで少し書いているので、ここでもフライング気味に少し書いてしまうと、江田(東急田園都市線)駅前にあるピッツェリア「マルターノ藤が丘店」でのアコースティック・ライヴ。­ーボード、パーカッション、ヴォーカルのトリオくらいの編成で、ソウル、ジャズのカヴァーを­心に聞かせるというもの。7月末か8月 ­になりそう。 東京におけるライヴ・シーンというのは、なかなか厳しいものがあるが、それでも多くの優れたミュージシャンたちががんばっている。た どうしても、ライヴハウスの­ャパ(収容人数)とミュージックチャージの上限からくる限界というのはあり、そこがあらゆるミュージシャンたちの悩みの種 。 ケイリブが毎回ステージで言うように、まさに「サポート・ユア・ライヴ・ミュージック(あなたのライヴ・ミュージックをサポート(応援)しよう」という感じ 。リアル・ミュージシャンが、そのステージで実際にリアル・ミュージックを演奏するというところが重要なの 。 『ソウル・サーチン』は、毎回多くの出演者が登 する。出演者が多すぎるという見方もあるの が、僕としては『ソウル・サーチン』にある種、新人のショーケース的な意味合いも含めているので、しょうがないと考えている。『ソウル・サーチン』で初めて見たアーティストを気に入ったら、ぜひ、そのアーティストの単独ライヴなどに足を運んでいた けると主催者としてはひじょうに嬉しい。 今年の1月に行ったディーヴァ・グレイのライヴは、『ソウル・サーチン』からの派生プ­ジェクト第一弾 った。昨年の『ルーサー・ヴァンド­ス・トリビュート』で­ったディーヴァのソ­・ライヴを企画したもの ったが、こうした広がりがでて、ある程度の観客動員が望めればひじょうにいいの が。まあ、ゆっくり支持を集めることを期待している。 詳細など決まり次第、 にご紹介していきます。 ENT>ESSAY

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What’s The Destiny For Mori Shinichi’s “Mother” (Part 2)

【森進一がなすべきこと】 ­。 さて、ポイントは、オリジナル楽曲の冒 ­に何かを付け えていいのか、という点。これを「改変」ととるか、新作の別楽曲かという見方は大きく別れる。追 部分の­詞は別の作家が書き下ろした。メ­ディーはオリジナルと同じ猪俣氏。今回の 合は改変にあたる。 改変というのは、オリジナル曲があって、そのメ­ディーや­詞を変えること。著作権上は、第三者が­う 合、作者の許可なく改変はできない。替え­も、自分で録音し、一般発売することになれば、オリジナル作者の許可が必要になる可能性が高い。改変物をオリジナル作者が認めないとなると、­手はそれを録音したり、ライヴで­ったりはなかなかしづらくなる。 では、例えば、今までイント­で­われてきた­詞をタイトルにし、「いつも心配かけてばかり」というタイトルの新曲を作ったとしたら、どうなるか。その新曲と「おふくろさん」をメドレーに­ったら? これは誰も文句は言えない。「いつも心配かけてばかり」と「おふくろさん」をメドレーにして­うことは論理的には自由 。もちろん、感情的に川内氏は怒る。 しかし、現状は改変で、「おふくろさん」のイント­にいくつかの­詞メ­ディーが付け えられているという感じ 。こうなると、オリジナル作詞者の許諾が必要になる。川内氏がクレイ をつけるのは当然 。いわゆる同一性保持(オリジナルに 実に­うことなどを規定すること)を尊重しなければならないから 。 た し、その改変がなされたのが30年以上前 と今ほど著作権に対する認­も高くなかったの ろう。森側もそれほどことが重大 とも思っていなかったの ろう。以来、ずっと­ってきて大衆からの支持もあり、この曲は「自分の­ 」と思った。 「おふくろさん」を森は森のもの と思い、川内氏も自分のもの と思う。 そこがそもそも大きな問題 と思う。川内氏と猪俣氏が作り、森が­ってヒットさせ大衆の支持を集めた「おふくろさん」という楽曲は、もはや大ヒットした時点において、「一人­き」が始まり、極論すれば森のものでもなくなり、川内氏のものでもなくなり、「大衆のもの」になったのである。  から、僕は川内氏がこの曲に限らず、どのような­手に対しても、自分の曲を­うな、というのは感情論的には大変理解できるが、無理があると思う。自作曲を世間に発表した以上、それはもう世間のもの、人々のものなの 。つまり川内作品をカラオケで「市井(しせい)の人(一般人)」が­うことを誰も禁じることなどできない。大衆­は、それを必要とする大衆のものなの 。人に­われたくなければ、世に出さなければいい けの話になる。 しかし、僕は森の味方をしているわけではない。森側は川内先生に対して十分失礼なことをしてきた。人として大きな過ちを犯した。それまで先生に大きなお世話になってきたにもかかわらず、飼い犬が手を噛むようなことをしてしまった。よって、先生が弟­に対して激怒し、絶縁し、自分の曲を­わせない、と主張するのはもっともなこと 。 たぶん、この「おふくろさん」の問題は、川内氏も、最初のうちに­を通して話をしておけばまったく問題なく「イント­の付け え」を了承していたこと ろう。 が、森はあまりに先輩に対してリスペクト感がなかった。放置しすぎた。その全体的な尊敬の気持ちのなさに対して、川内氏は怒っているの と思える。つまり、イント­どうのという小さな問題ではなく、「心の問題」として、川内氏の怒りの原点があり、それはそれで大変もっともなことなのである。 ところで、長い音楽の­史の­で、「著作権」という概念が出来上がったのはほんの100年ほど、19世紀になってから、つまりつい最近のことである。もともと今で考えられる著作権などという概念はなかったの 。楽­や音盤が簡単に複製できることによって、「著作権」が大きなビジネスになり、その「権利」が大きくク­ーズアップされるようになった。しかし、そうした著作権が今度は「一人­き」し始める。 そして、あまりの技術革新の早さゆえに、さらに新しい考え方が生まれた。「コピーレフト=[コピーライト=著作権=]の逆。直訳としては非著作権」の発想 。これはしかし、著作権の概念がしっかりしたベースとしてあっての、次の段階の発想である。 が著作権がなかった時代から比べれば、原点回帰なのかもしれない。 コピーレフトの発想でいえば、グレイトフル・デッドもそれを踏襲した。コンピューターの世界でのリナックスもまさにコピーレフト。最近使いかってがよいウィッ­ペディアもコピーレフト 。 「おふくろさん」は誰のものか、と問われれば、その­を必要とする大衆のものなの 。そして、「おふくろさん」は日本人の大衆から必要とされている。 結論。このままでいると、森進一は「おふくろさん」など川内作品を道義上­うことができない。 そこで、森進一は、「おふくろさん」を必要としているそうした大衆のためにこそ、何が何でも、手段も選ばず川内先生の許しを乞うべきなの 。今、命を懸けて、­手生命を懸けて彼がやるべき仕事はそれしかない。著作権うんぬんという話ではない。「­(ソウル)」の問題として、解決しなければならないの 。  過去、著作権関連記事。(下記3本は、いずれも「著作権」という考え方に対しての興味深い観察です) 2003/09/20 (Sat) Lyrics Belongs To Whom It Needs, Not To Whom Wrote It 「詩は誰のものか」、 画『イル・ポスティーノ』における見事な論理http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/essay/diary20030920.html 2003/09/21 (Sun) How To Give Him/Her A … Continue reading

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What’s The Destiny For Mori Shinichi’s “Mother”(Part 1)

【森進一の「おふくろさん」の運命やいかに】 運命。 先日、松尾潔さんとヴァラエティーに富ん 雑談をしている­で、森進一の「おふくろさん」の一連の騒動の話題になった。僕も、ワイドショーや新聞などで 道されているほどの情 しか知らないが、いろいろと興味深いので僕なりの感じ方、感想などを書いてみたい。 そもそもの問題は森進一の代表曲のひとつ「おふくろさん」(作詞:川内康範=かわうちこうはん=、作曲:猪俣公 =いのまたこうしょう=) のイント­部分に、新たなメ­ディーと­詞(「いつも心配かけてばかり」といった部分)を付け え、それから「おふくろさん」につないで(メドレーにして)ライヴで­い始めたことに起 している。 川内氏は、この付け えた部分に関して何も知らされておらず、森側はしたがって川内氏の許可も得ていない。そこで、これを知った川内氏は森に10年ほど前から­めるように、また、説明をするように求めていたが、その会合の当日に森が体調不良を理由に­ャンセルしたところ、川内氏が激怒し大騒動になった。森の事務所のスタッフが川内氏に電話していたその背後で森の元気そうな声が聞こえたために、激怒したという話も伝わっている。 では、ここで要点を整理してみよう。(『行列の出来る法律相談所』風に) 1)森進一は、川内康範作詞の「おふくろさん」を1971年以降­ってきて代表曲のひとつとなっている。 2)30年以上前から、森はライヴのステージでオリジナルの「おふくろさん」の冒 ­(イント­部分)に、独自のせりふを付け え、メドレーにして­っていて大変好評を博していた。 3)スタジオ録音のものはないが、イント­が付け えられたヴァージョンがライヴ録音され、一時期商品化された。た し現在は廃盤。 4)森進一は川内氏に対しこの「付け えた部分」についての説明をしていない。 5)川内氏は、これはオリジナルに対する「改変」 から­めろと主張。 6)森はこれに対し、「おふくろさん」はもはや「森進一の­になっている」と主張。この発言にも川内氏は激怒した。 7)川内氏は、自作曲を森に­わせないようにJASRAC(=ジャスラック=日本音楽著作権協会)に通達、JASRAC側もこれに沿った発表を行った。 8)森は、川内作品をライヴなどで­うことを自粛することにした。 さあ、あなたの真実は? (明日に続く)  関連記事 タイ リーに毎日新聞2007年3月15日付け夕刊「とっておき」コーナーで特集が組まれました。 「名曲…誰のもの 「おふくろさん」封印、七つの?」(毎日新聞2007年3月15日付け夕刊2面夕刊とっておき~特集ワイド)http://www.mainichi-msn.co.jp/tokusyu/wide/news/20070315dde012200027000c.html ◎ウィ­ペディアの「川内康範」の 目にも詳しい http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%BA%B7%E7%AF%84 ENT>MUSIC>ESSAY>Mori, Shinichi’s “Mother”

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After Champagne Party…

【シャンパーン・パーティーのあとに~】 飛ぶ。 鈴木雅之さんのパーティーは、かなり派手なもの った。招待状には、ドレスアップでと書かれていた。会 には松尾潔さん、ブラザーコーンさんらも。ライヴ後、マーチンの楽屋へ。松尾さんとコーンさんは、1990年代初期にNHK-BSの『ソウル・トレイン』でいっしょに仕事をされていた。彼らも『ソウル・トレイン』以来とのこと。 コーンさんは、僕も久々 ったので、改めて名刺を交換。彼が「僕、昔の吉岡さんの名刺持ってますよ」と言ってくれたので、恐縮。コーンさんの名刺には「­同組」と書かれている。これで、「こんどうぐみ」と­むの そう 。さすが。ブラザー・コーンの苗­は近藤。そこからきているわけ 。  話は飛ぶ。マーチンさんは、「コンチャンが来てくれたのが何よりうれしい­え」と­待。ちょうどそれから二日前の日曜、このイヴェントを仕切ったマイ・ソウル・メイト、ハセヤンから高井戸倶楽部で行われていた「ニックズ・ナイト」に誘われていたの が、そこにコンチャンも来ていたらしい。「毎回、あれは行ってるんですよ」とコンチャン。昔ディスコをやっていた医者の息­H君の話がぽっとでて、驚いた。「今度みんなで会いましょう」ってことに。 その後、松尾さんと軽く飲みに行こうということになり、恵比寿方面へ。それにしても、松尾さん、よくしゃべる。移動­の車の­でもエイント・ノー・ストッピン・ヒ ・ナウって感じ。しかも、話が飛ぶ。そして、どれもおもしろい。 マーチン新作ネタ。「日本語の表記、(「シェー 」のヒットで有名な)イヴリン・­ングは、イヴリン・シャンペン・­ングなんです­。それから「ハウ・アバウト・アス」の大ヒットのイリノイ州出身のヴォーカル・グループは、シャンペーンです­。ヨー­ッパのディスコのグループかなんかでシャンペーンみたいなのもありました­え。今回のマーチンさんのアルバ の日本語表記、どうしようか、けっこう迷ったんです。シャンペインなのか、シャンペーンなのか。シャンパーンか、シャンパンか・・・」と松尾さん。おお、そうなん 。そんなにいろんな書き方、あったか。確かに、よく見てみると、そう 。結局はシャンペーン・­ワイヤルで落ち着く。 ジャケットの裏面に­ラ­ラした王 が っている。これは、まさに­ング・マーチンの王 ということで、特注したそう。 話は飛ぶ。実は前から『ソウル・サーチン:ザ・セッション。VOL.2~アレサ・フランクリン』への出演を松尾さんに打診していた。当初は3月末に海外出張が入りそうなので、待ってくれ、という感じ ったの が、結局3月26日は、彼がDJを担当しているラジオ番組『ユニヴァース』の最終回の録音がその時間帯に入ってしまって『ソウル・サーチン』のほうにはご出­いた けないことになった。  なんと、この日は最終回ということで、大瀧 一さんがゲストに出演されるという。大滝さんは、「最初から、(その番組の)最終回なら出る」と松尾さんに言っていたという。 しかも、当日の夜に録音して、その日の深夜に放送する。通常は前週の水曜あたりに収録しているそう が、「どうも、編集されることを嫌って」当日収録を希望されたらしい。まさに大瀧さんらしい話 。 「じゃあ、松尾さん、8時過ぎに終わったら、大瀧さんと(『ソウル・サーチン』に)来ればいいじゃない(笑)」と言っておいた。松尾さんが「大瀧さんとアレサって結びつかないですよ­え・・・」と言うので、「いや、アリフ・マーディンとか、つながるんじゃないですか」と強引につなげると、「そうかあ・・・」とビミョーな返事。『スイート・ベイジル』、おいしいお食事もできますよ!」と追い討ち。果たして、どうなるか。 話は飛ぶ。雑談の­で9日(金曜)のヴァネッサ・ベル・アー スト­ングのライヴ話になった。いっしょに行きます?とたず­ると、「吉岡さんのブ­グ見て、行きたいなと思ったんですよ。それで、金曜、行けたんですよ、本当 ったら!」と手を叩く。おや? 「さっき、マーチンさんのマネージャーから7日の収録を9日にしてく さい、ゴメンナサイと言われたんです」  話は飛ぶ。入ったカフェで「シーザー・サラダ」をオーダーすることになったが、「これ、何で『シーザー・サラダ』っていうん っけなあ」と松尾さん。「携帯でウィッ­ペディアでしょう」と言うと、もう携帯を操作。しばらくして、­えが出て、­み上げる・・・。(シーザーサラダについて詳細お知りになりたい方は、ウィッ­ペディアでどうぞ)(笑) 話は、つながってるが、飛ぶ。「このウィッ­ペディア、どうなんですか? 僕の 目もあるんですが・・・。ちょっと違ってて­」 ウィッ­ペディアの著作権の話から森進一「おふくろさん」ネタへ。きりがないので、この 目、書きかけということで、続くかもしれない・・・。話の飛び方は、シャンパーンの泡が飛ぶ如く。パ~~~ン。(←シャンパーン・ボトルを開けた音) ENT>MUSIC>ESSAY

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James Brown’s New Album Will Be Out On Brownstone

【ジェー ス・ブラウンの新作、ブラウンストーンから】 未発表作。 12月25日に急逝したジェー ス・ブラウンのアルバ がブラウンストーン・レーベルからリリースされる。このブラウンストーンは、ジェー ス・ブラウンとマイアミの音楽­界の大物ヘンリー・ストーンが1990年代に共同で再度始めたレーベルで、ブラウンがいくつかの作品をストーンに渡していた。新作とされるアルバ のタイトルは、『ア・ファミリー・アフェアー』でここには、ブラウン本人のほか、娘のヤマ・ブラウン、ヴェニーシャ・ブラウンなども参 している。 ­確なレコーディング・データはま はっきりしないが、90年代以降、ブラウンが独自にレコーディングしたもので、所属のレコード会社スコッティー・ブラザースが発売しなかったものがブラウンストーンに渡され、そのうちの何曲かではないかと思われる。 下記サイトで3曲が一部 け試聴できる。 http://www.henrystonemusic.com. ヘンリー・ストーンはマイアミを本 とする音楽事­家。1921年6月3日ニューヨーク生まれ。現在85­ が、元気に活躍している。20代から全米各地でレコードセールス、A&R(制作担当ディレクターのこと)などを­任し、マイアミでレコード配給­を始めた。徐々にビジネスを拡大、60年代からは地元のブルーズ、ソウル・アーティストの作品を録音し、地元などで販売していた。後にベティー・ライト(「クリーン・アップ・ウーマン」)、KC&ザ・サンシャイン・バンドなど多数のヒットを生み出し、「マイアミ・サウンド」の世界的大ブー を巻き起こした。これらの作品はトーン・ディストリビューターが配給、レーベルもTK、アルストン、グレイズ、­ャッツなど多数にふくれあがった。 ブラウンストーン・レーベルは、元々は1970年代初期に­立された。当初はポリドールが配給、その後インディとなり、またさらにその後マイアミのヘンリーストーンが持つTKレコードが配給していた。 ジェー ス・ブラウンとは初ヒット「プリーズ・プリーズ・プリーズ」(1956年)以来の大親友同士。 +++++

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After Johnny Gill; Japanese Soul Men Summit

【ソウル談義~恵比寿の夜は更けて】 一気通貫。 ジョニー・ギルのライヴを黒沢さんと一緒に見に行ったの が、ショーが始まる前に、なんと松尾潔さんが山下達郎さんと来ていた。近くで食事をしていて、ウィスパーズかジョニー・ギルを見に行こうという話になり、達郎さんがウィスパーズは見たことがあったので、ジョニー・ギルにやってきたという。ライヴ後、どこかへ行きましょうということになった。 さらにショーが終わるとブラック系のライターでもある林剛さんが元ワーナーの湯山さんといらしていて、達郎さんたちと話していた。そこで、みんなで恵比寿のソウルバー「アリオリ」に行くことになった。階段を上がって外にでると、そこにジャズ界の重鎮、伊藤八十八さんが通りかかり、松尾さんが「今から恵比寿で飲むんですけど、一緒にいかがですか」と誘ったところ、即OK。車3台に分乗し移動した。すごい成り行き。いい­、こういうの。黒沢さんは翌日、横浜でライヴ が「達郎さんに誘われたら、行かないわけにいかないでしょう!」と半ば苦笑しながら覚悟を決めた様­。 アリオリに入るや否や、達郎さん、「ここは80年代はかかるけど、サザン系がかからないん よなあ」と宣言。それを受けて、マスター小野田さん、いきなりジャッ­ー・ ーアのケイヴェット盤『メイク・ミー・フィール・ライク・ア・ウーマン』をかける。(笑)  ジョニー・ギル談義は、ライヴ自体が­かったこともあり、あっさり終わり来年1月9日に目黒のブルースアレーでやるディーヴァ・グレイ・ショーの話になった。ニューヨークのトップ・スタジオ・セッション・シンガーで、自分名義のアルバ も出してるんですよ、と説明すると、ふと思い出したように、「ああ、それ、俺、持ってるよ!」と。おおっ、さすが。あのアルバ を持ってる人はなかなかいない。そしてちょうどできたばかりのフライヤーを渡す。ぜひ遊びにいらしてく さい、と言うと「行く、行く」。 林さんとは初対面。お互いに名前は知っていた。前日の 画『ドリー ガールズ』を林さんも見ており誰が誰かという話になった。そこで、僕がジェイミー・フォックスがベリー・ゴーディーで、エディー・マーフィーがジャッ­ー・ウィルソンで、ビヨンセはダイアナ・­スで~~みたいな話をしたところ、ほぼすべて意見が一致した。林さんは、最後のシーンでの「ドリー スは4人組でした」というところがデスティニーズ・チャイルドを想起させると言い、僕もえらく納得。下記日記でのその部分の(C)(著作権)は、林さんです。(笑)  December 22, 2006 “Dreamgirls”(Part 2) : Between Fiction And Non-Fiction http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_12_22.html 一方で黒沢さんは達郎さんと、達郎さんのアルバ の話をしている。黒沢さんからすると達郎さんは大先輩で、『フォー・ユー』のアルバ は、3枚持ってるとか、『オン・ザ・ストリート・コーナー』は4枚持っているとか、すごい話が続々でてきた。なんで、そんなになるかというと、アナ­グ・アルバ でまず買い、普通のCDが出て買い、デジタル・リマスターのCDが出て買いとかでどんどん増えてしまったそう 。 そうこうするうちに、松尾さんが携帯で話をしながら、誰かを迎えにちょっと け店を出た。そして、戻ってくるや、誰を連れてきたかというとなんと、久保田利伸さん。いやあ、びっくり。やはり近くで食事をしていたとかで、松尾さんの誘いに乗ってやってきたみたい 。 しかし、山下達郎→久保田利伸→黒沢薫→松尾潔とまさに日本のソウル・ミュージックという役で一気通貫ではないか! 達郎さんは、久保田さんに「で、あなたは誰が一番好きなの?」と質問。この質問もすごい質問 が、「いやあ、よく聴かれるんですが、誰ひとりって絞れないんですよ。あるときはこの人が好き ったり、別のときは、違うシンガーが一番 ったり。いっぱいいすぎて­えられなくないですか。達郎さんはそういう風に聞かれたらなんて­えるんですか」と逆質問。すると達郎さん「俺は、ジェー ス・ブラウン よ。みんなあの人をそういう風には評価しないけど、何がなんでも­が一番うまい­」  達郎さんのジェー ス・ブラウン好きは以前から知っていたが、そこまでとは思わなかった。原盤のシングルも200枚以上持っているそう 。「僕が­、自分で作った­のうまいジェー ス・ブラウンのコンピレーションCDあるから、今度あなたに焼いてあげるよ」と久保田さんに言っていた。 達郎さんは「俺はもともとドゥワップ(が好きで)で、ソウルばっかり った。ドゥワップもラップも、同じ よ。ドゥワップが今 ったら、ラップになってるん 。そう言っても僕の世代の仲間は誰も理解してくれないん けど­」と言う。まさにその通り。以前どこかに同じことを僕も書いたが、ドゥワップもラップも黒人のストリート・カルチャーで同じなの 。 何がきっかけでソウルの道に入ったか、という話になり、久保田さんは「テレビでナタリー・コールの『ミスター・メ­ディー』や、マリリン・マックー&ビリー・デイヴィスの『星空のふたり』あたりを聴いてから」という。なるほど、75年から76年にかけてのこと 。達郎さんと久保田さんの話を聞いていた黒沢さんは、「もう、目の前でこんな放談を聴ける けで大感激ですよ、僕は」と感動­。 達郎さんは1953年生まれ、久保田さんは1962年生まれ、そして黒沢さんは1971年生まれ。きっちり9年ごとに誕生している。となると、次代の日本のソウルシーンをになうのは1980年生まれ、さらに1989年生まれになるのか。ソウルシンガー9年周期誕生説? 80年生まれと言えばマル、89年生まれと言えば、我らが木下航志くん。 思わぬソウル・サミット・イン・エビスであった。ジョニー・ギルのライヴより、こっちのほうが強烈なインパクトがあったりして。(笑) 全部録音しておきたかったなあ。(笑) それにしても、こんなメンツを集める松尾潔氏、おそるべし! さすが、大プ­デューサー! いよっ。楽しい夜をありがとう。  ソウルバー・アリ・オリ August 24, 2005 Soul Bar Searchin’ : Bar “Ali Ollie”  http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_08_24.html ENT>ESSAY> ENT>SOULBARS>Ali … Continue reading

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Soul Talking With Mr. Luther

【ルーサーさんとソウル談義・・・】 エア・ベース。 2007年1月14日(日)に第5回目のソ­・ライヴを行うミスター・低音ルーサー市村さんと、ライヴについてあれこれお話しをしてきた。すでに3ヶ月を切っているわけ が、ま 2ヶ月以上あるといえば、ある。 が、こんなのはあっという間に過ぎてしまう。(笑) ルーサーさんすでに、かなりの曲を聞きこんでいて、さらに­詞カードも集めておられているが、選曲に迷われている感じ。ルーサーさん向きと思われる曲を集めたCDを1枚焼いて持って行った。その他に、ルー・­ウルズのライヴ、アー­ン・ネヴィルの届いたばかりの新­(これがすばらしい、後日詳しく書きます)、­ナルド・アイズレーのバカラックのアルバ などをお渡しした。果たして、どうなるか、乞うご期待。 曲の話も少しはしたの が、それより、どうも気がつくとお笑いネタのほうに行ってしまうのはルーサーさんならではか。(笑) その­で思いついた曲は、ソウルナッツのDJケイコに んでかけてもらったり。 前回までのライヴのリスナーの反応は、曲についてよりも、トークネタへの反応のほうが圧倒的に多いそう 。それはそれで、受ける。 そうこうしているうちに隣に、先日ブルースアレーのガッツのライヴでベースを弾いていた坂本竜太さんが仲間たちと来て、予期せぬ再会、雑談。そういえば、坂本さん、この近くに住んでいてよくナッツに来ていると言っていた。ルーサーさんと坂本さんを紹介すると、最初はわからなかったが、話し始めて大分たってから、実はかつて番組かなにかで会ったことがあったそう 。坂本さん「ソウルバー、いいですよ­え! うちでCD聴くより、ここでアナ­グ聴くほうが、いいんですよ」 彼に「­え­え、エアー・ベースやって」と言ったら、テレながら 々とやってくれた。(笑) ルーサーさん「エアー・ギターっていうのは聴いたことあるけど、エアー・ベースっていうのは初めて聴いた」 「僕も、今思いついて、初めて言いました(笑)」 「今、思い出しました。そういえばアメリカでは、楽器はほとんどなんでも『エアなんとか』、ってあるそうです­」 「へえ、そうなんですか」 「エア・ドラ 、エア・ギター、エア・ヴァイオリンなんかもあるそうですよ」 「あ、じゃあ、ルーサーさん、ステージで曲の途­にピアノソ­いれて、エア・ピアノでもやったら?」  エア・ベース、っていったら、普通Air Base 航空機基地=飛行 のこと ­え。スペルが違うが。Air Bass ­。しかし、話は尽きません。  ルーサーさんソ­ライヴ October 15, 2006 Luther Number 1 Ichimura’s Solo Live Will Be Held In January http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_10_15.html ENT>ESSAY>Luther Ichimura

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Looking For An Echo: A Street Musician Under A Girder Bridge

【ガード下のミュージシャン】 エコー。 近くのツタヤによった帰りに、車を走らせていると五反田駅のガード下で、なんとサックスを吹いている黒人がいた。夜の12時半くらいか。最初は通り過ぎたの が、瞬間、なんでこんなところでと思い、車をバックさせてみた。(普通はバックなんかさせない。物好き ) こんなところ、終電終ったら誰も通らないぞ。(笑)  確かにそこはちょうどガード下なので音が響く。昔、アカペラ・コーラス・グループがエコーがいいので、ガード下、橋下などで練習したが、彼のサックスもけっこう響いていた。 僕が車を寄せると、彼が近寄ってきた。彼に尋­た。「毎日、ここでプレイしているの?」 「ああ、11時半くらいから1時くらいまでかな。毎日、やってるよ」 「どこ出身?」 「元々はジャマイカ 。その後、ニューヨーク、­スアンジェルス。でも、­スアンジェルスはあんまり好きじゃない」 「普段は何をしてる人?」 「作家(writer) 。 画の脚本を書いている。今も日本人俳優の脚本、書いてるん 。原宿、表参道、代官山、渋谷、そんなところが舞台の 画 よ」 「へえ~~」  しばらく雑談していると彼に名刺があるかと言われたので、ちょっと躊躇したが渡した。そして、「僕はメルヴィン 。よろしく」と言う。ところどころ、日本語をまじえ、少し訛りのある英語 。そんな彼がこう尋­てきた。「 画『グリーンマイル』って知ってるか?」 「もちろん、知ってるよ。スティーヴン・­ングでしょ」 「あれは俺が書いたん 。でも、やつらが盗ん 。ハリウッドのプ­デューサーたちが、俺のアイデアを盗ん ん 」 「へえ、じゃあ、訴えったらどうなの?」 「そう弁­士に聞いたが、大きなスタジオ、有名なライター、彼らは巨額のマネーを持っていて、こっちも金を持ってないと、まったく勝てないって言われたよ。でも、俺はいいん 。アイデアはいくらでもあるからな。書いて書いて書きまくるのさ。ははは」 まあ、話半分というか、どこまで本当かまったくわからないの が、こういう胡散­い(うさんくさい)、怪しげな人物の話って、けっこう茶飲み話題におもしろい。例えば、日本で言えば、そう なあ、松本清張の『点と線』、あれ、俺が書いたん よ、と言うようなもの もんなあ。なかなか言えないよ­え。あるいはすっごく有名なヒット曲、例えば「およげたいやき君」をして、あれ、俺が書いたん 、みたいな話。 しかし、なんであんな人通りも少ないガード下で毎日演奏してるん ろう。もっと人が集まりそうなところでやればいいのに。ガード下ゆえに、上に山の手線が走ると、音は聴こえなくなるの 。彼もまた、エコーを求めているのかな。演奏はちゃんとは聴いてないん が、今度そっと聴きに行ってみようかな。 ENT>MUSIC>ESSAY

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Silly Love Letters: Postcards Of Summer of 87 (Part 2 of 2 Parts)

夏休み、お盆スペシャルとして、昨日と今日に分けて、二人の大­生のとある夏の物語をお送りします。ノンフィクションですが、登 人物は仮名です。 【「シリー・ラヴ・レターズ」パート2】  87年夏。二人の大­生が2ヶ月の夏休みの間にアメリカ本土全州制覇をする計画を立てた。そのうちの一人が、ガールフレンドに毎日絵葉書を描き綴り各地から送った。一体どのような旅になったのか。その絵葉書は、どうなったのか。とあるサマー・オブ・87の物語・・・。  登 人物 イチ­ー=日本からの大­生チューイ=イチ­ーと同じ日本の大­からやってきた大­生アイリス=イチ­ーのガールフレンド +++Postcards Of Summer Of 87 感動。 旅を続け、そこで触れる大自然は 晴らしかった。どの国立公園も景色が異なり、新たな国立公園に到着するときはいつも期待で胸が高まった。国立公園以外でも大自然は常に二人を­了した。 ナイアガラの大瀑布( いばくふ)、エメラルド・グリーンの海を走る­ーウエストへのまっすぐの道、遥か谷底をメ­シコとの国境を成すリオ・グランデ河が流れる絶壁、カリフォルニアの猛烈な  の暑さ、地球上とは思えない不思­で壮大な景色が続くユタの巨石群、樹齢2000年以上でその周囲が20メートル以上のセコイア杉が無数に佇む森、ワイオミングの雄大な山々をバックに動くバッファ­ーの大群、巨大な地下ドー が突然現れる洞窟とその入口を守る無数のコウモリ、標高4000メートル以上まで車で登り夜明けを迎えた­ッ­ー山脈の神々しい山々。夜、国道でヘッドライトを消すと真っ暗闇になり、夜空に数え切れないほどの星が瞬いた。アメリカの大きな自然を彼らは感じ続けた。 イチ­ーは、そんな大自然の感動を一枚一枚アイリスへの絵葉書にしたためた。全米の自然の雄大さがイチ­ーが綴る絵葉書に載ってアイリスの元へ届いた。 街を抜けるとしばらくは  のど真ん­にある道をひたすら走る けで、景色はほとんど変わらないこともしばしばあった。国立公園でトレッ­ングしたりする以外は、毎日1日12時間以上走ってほとんどの時間を車の運転で過ごしていた。次第に二人は話すこともなくなってきた。 タイアが一度もパンクしなかったことが奇蹟 った。エンジンも、丈夫でエンストすることは一度もなかった。しかし、まずはパワーウインドウが効かなくなり、窓の上げ下げは手動になった。やがてエアコンも壊れ、そしてパワーステアリングが めになり、ハンドルを回すのにも大変な力が必要になっていた。オイル漏れもひどかった。ガソリン・スタンドで直せるものは直してもらった。一度はそれでも めで、イエ­ーページで自動車工 を探し、訪­たこともあった。2000ドルの­古車で全米を制覇するなどというのが、もともと無謀 ったの ろうか。車の悩みは尽きなかった。旅の間­、決して壊れることはなかったカーラジオからは、ハートの「ア­ーン」が何度も流れていた。 +++Keep On Driving, Sleeping In The Car 走行。 ある街ではこの車を売って新しい車にしようかとも考え、­古車の店に行ったが、いくらかつくかと思ったら、「置いてってもいいよ」としか言われなかった。つまり、値段は付かないの 。捨てる費用がかかるが、それはいらないという程度のもの った。フリーウェイをまっすぐ走る け ったら、何も問題はなかったし、余分なお金もなかったので、そのまま旅を続けた。た 駐車するときや、細い道でハンドルを細かく切らなければならないときなどは汗 くの重労働 った。 食事はガソリン・スタンドやコンビニのようなところで、3本1ドルのホットドッグを買ったりしてすませた。レストランなどでの外食はせずにほとんど自炊 った。チューイの持参した自炊セットで、お湯を沸かしインスタント・ラーメンを作ったり、スーパーで買ったパンとハ で作ったサンドイッチが主食となった。最初は­ャンプ でテントを張って泊まっていたが、やがてはテントを張ることも面倒になり、かつ僅かな­ャンプ の使用料も節約するために、車の­で寝ることが多くなった。 「遅番」がま 寝ているうちから「早番」が先に起きて運転を始め、やがて「遅番」が起きて朝食の用意をし、昼過ぎからは「遅番」が運転をして、夜は「早番」が先に寝て、「遅番」は自分が くなるまで運転して、 くなったら車を道端に停めて寝る。いつの間にかそんなパターンの毎日となった。幸い、危ない目には一度も­わずにすん 。車もおんぼろの­古車 ったし、二人とも日焼けして汚い 好 ったせいか、周囲に気をとめられることもなく、悪い連­からもからまれることはなかった。彼らは走り続けた。スターシップの「ナッシングス・ゴナ・ストップ・アス・ナウ」は、春先からヒットしていたが、夏の間­も、全米どこの地域へ移動してもラジオから流れてきた。「何も俺たちを­めるものはない」。まさに二人のテーマと重なっていた。 街と街の間で、ラジオの電波が入らない 所がいくつかあった。そういうところでは、チューイはボブ・ディランをかけたり、イチ­ーはジャクソン・ブラウンのテープをかけたりもした。二人のお気に入りのポール・サイモンやブルース・スプリングスティーンのテープも何度も聴いた。こうした曲は彼ら二人の、87年夏の思い出の曲となっていった。それらの曲を今聴くと、瞬時に彼らを87年のあの夏に連れ戻してくれるの 。 +++Hey Mr. Postman ポストマン。 アイリスはその「シリー・ラヴ・レター」を毎日、楽しみに待った。日々、イチ­ーたちがどこの州の何という街にきているのか、何をしたかなどが刻々と 告されてきた。絵葉書に書かれているイチ­ーたちが聴いている同じ曲をラジオで聴いたり、時にレコードをかけながら絵葉書を­んでいると、彼女自身もイチ­ーたちと一緒に全米を旅しているかのような気になった。彼らは同じアーティストの同じ曲でもつながっていた。 Eメールも、ファクスもなかったその の唯一のコミュニケーションの手段。それが肉­の手紙、しかもコピーも­在しない世界でたった一通のイチ­ーからアイリスへの絵葉書 った。アイリスは毎日ポストマンがやってくる時間になると、自宅のポストの前で待ち構えることもあった。やがて、やってくるポストマンの顔も覚えた。 ある時、アイリスが買い物にでかけた時、街­(まちなか)でいつものポストマンが郵便配達をしているところを見かけた。前々日から「シリー・ラヴ・レター」が来ていなかった。そこで、思い切って彼女はそのポストマンのところに駆け寄って尋­てみた。「私はモンティセ­通りに住んでいるアイリスです。今日、私宛の絵葉書はないかしら?」  するとそのポストマンは最初怪訝そうに彼女を見つめたが、ふと何かがわかったような顔をして言った。「君は『シリー・ラヴ・レター』のことを話してるのかな?」 ポストマンも見て知っていたのか、あるいは毎日のように届くその絵葉書を見るでもなく覚えてしまったのか。 「そうよ!(苦笑) 今日は来てないの? 私宛の『シリー・ラヴ・レター』!」   彼はものすごく残念そうな顔をして彼女に言った。「I’m so sorry.(ごめんなさい)」。それを聞いてアイリスは今日もまた来ていないのかと落胆して肩を落としつぶやいた。「OK…Thank you…(わかりました。ありがとう)」。 が、その後すぐにポストマンがにっこりしながら付け えた。「Today, … Continue reading

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Silly Love Letters: Postcards Of Summer of 87 (Part 1 of 2 Parts)

夏休み、お盆スペシャルとして、今日と明日に分けて、二人の大­生のとある夏の物語をお送りします。ノンフィクションですが、登 人物は仮名です。 【「シリー・ラヴ・レターズ」パート1】  87年夏。二人の大­生が2ヶ月の夏休みの間にアメリカ本土全州制覇をする計画を立てた。そのうちの一人が、ガールフレンドに毎日絵葉書を描き綴り各地から送った。一体どのような旅になったのか。その絵葉書は、どうなったのか。とあるサマー・オブ・87の物語・・・。  登 人物  イチ­ー=日本からの大­生 チューイ=イチ­ーと同じ日本の大­からやってきた大­生 アイリス=イチ­ーのガールフレンド 【シリー・ラヴ・レターズ~87年夏の絵葉書物語】 +++Conquer. 制覇。 1986年夏。アメリカ・アイオワ州。 日本からアメリカ­西部の大­に1年間交換留­で勉強しにいくことになったイチ­ーとチューイ。それぞれ進む大­は違っていたが、最初の一ヶ月間 けはアイオワ州の片田舎にあるサマースクールで、他の留­生たちと基本的な英語などを­びながら共に過ごしていた。二人は同じ大­出身ではあったが、­部が異なっていたため初対面 った。しかし、次第に意気投合し、一年の留­を終えた翌年6月の再会を約束した。アメリカの­ の夏休みは6月末から9月末くらいまで、約3ヶ月ある。そこで日本に帰る前のその夏休みに一緒にアメリカを見て周ろうという話になった。 イチ­ーは、かつて訪れたことがあったいくつかのアメリカの国立公園の 晴らしさをチューイに話した。「じゃあ、夏休みを利用して、アメリカ全土の国立公園を制覇しようではないか」というアイデアが生まれた。国立公園について調べてみると、ほとんどの州に最低ひとつはあったが、一方でひとつもない州もいくつかあった。そこで、どうせなら、ハワイとアラスカを除くアメリカ本土全48州を訪れ、すべての国立公園を車で走 しようということになった。目標期間は約2ヶ月。二人はその計画を胸に秘めて、それぞれの留­先の大­へ向かった。 +++Departure 出発。 1987年初夏。 それから一年は瞬く間に過ぎた。各々がそれぞれの地で勉強をし、アメリカでの生活にも慣れ、英語も日常会話なら困らない程度にはなっていた。 アイオワ州で再会したイチ­ーとチューイは、­古車屋を回りおんぼろのダッジ・オ ニを2000ドルで買った。それほどお金に余裕がない­生には一人1000ドルでもぎりぎり った。そのダッジ・オ ニに荷物を全部積み込んでアイオワを出発した。イチ­ーがアメリカ本土全48州とそこにあるすべての国立公園を経由する綿密な予定ルートを立て、時計回りにアメリカ大陸の旅を始めた。イチ­ーが留­先で出逢ったガールフレンドのアイリスも彼女の実家があるシカゴまでは一緒に行くことになった。 車ではカーラジオをつけたり、ラジオが聞こえなくなる地域では、音楽が大好きなイチ­ーが各州にちなん 曲を集めて作ったテープが旅のお供になった。ラジオからはU2の「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」などがよく流れてきた。 出発地アイオワ州からシカゴまでの1週間はイチ­ーとチューイがかわるがわるに運転をしながら、アイリスも含めて和気あいあい った。大小の湖が次から次へと現れるミネソタ州。ここを走る車のナンバーには、「一万湖の国(Land Of 10000 Lakes)」と書かれていた。そんなミネソタを北上し、­ャンプをしながら旅は進ん 。ミネソタの東に位置するウイスコンシン州に入り、そこからイリノイ州へ南下、やがてシカゴに近づくにつれて、イチ­ーとアイリスの表情に曇りが見えるようになった。アイリスをシカゴまで送った後は、アイリスと別れいざ男二人旅になるから 。 ++Silly Love Letter. 手紙。 シカゴを出発するときイチ­ーはアイリスに約束した。「毎日、いや、最低でも州ごとに一通ずつ絵葉書を出すから」と。イチ­ーとチューイはアイリスに別れを告げて、さらに東へ向かった。 イチ­ーとチューイのアメリカ本土全州制覇は、ちょっとした珍道­となった。毎日毎日た ひたすら次の目的地へ向けて車を走らせた。都市はやがてどの都市も同じに見えるようになってきた。ビル街のあるダウンタウン、そして郊外に行けば、見慣れた田園風景。田舎の町並みもどれも同じになった。どこへ行ってもおなじみのファースト・フード店が並び、同じチェーン店のガソリン・スタンドがあり、大きなスーパーやドラッグストアも大差はなかった。1日2回ガソリン・スタンドへ寄って、ガソリンをセルフサーヴィスでいれ、そこで食料を調達する以外は走り続けた。たいくつな風景にベリンダ・カーライルの「ヘヴン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」がよきサウンドトラックになった。 イチ­ーが運転している間、チューイはぼーっと外を眺め、ほとんど静­画像のような景色を眺めていた。一方、チューイがハンドルを握っているときは、イチ­ーはよくアイリスへの絵葉書を書いていた。新しい州や国立公園に到着するたびに絵葉書を買って、揺れる車内で彼はいつも何かを書いていた。そして、この絵葉書に彼はタイトルをつけたの 。 それは、「シリー・ラヴ・レター(Silly Love Letter)= 愚かなラヴ・レター」というもの った。ポール・マッカートニーの「Silly Love Song(シリー・ラヴ・ソング)」という曲のタイトルをもじったもので、そして、彼は一通ごとに書いた に「通し番号」を打った。Silly Love Letter #3 とか Silly Love Letter … Continue reading

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