Mystic River: A Perfect Clint Eastwood Touch

(映画『ミスティック・リバー』の感想文です。ネタバレは最小限ですが、ごらんになっていない方は、ご注意ください)

タッチ。

グランドピアノに向かって二人の男が座って話をしている。一人は白人の男。嬉しそうに隣の男に質問をなげかける。もう一人の男、サングラスをしたしわがれ声の黒人は体を揺らしながら答える。質問をする男は当代きってのフィルムメイカー、クリント・イーストウッド、答える男はソウル・ミュージックの生みの親レイ・チャールズ。きしくも、レイもクリントも1930年生まれの同じ年だ。イーストウッド自身が監督し、2003年9月PBS系列で放送されたドキュメンタリー映画『ピアノ・ブルーズ』(総監督マーチン・スコセシー。DVDでも発売中)の一シーンだ。イーストウッド自身、ピアノをたしなむ。彼は母親が自宅でかけていたファッツ・ウォーラー(1904~1943=1920年代から40年代にかけて大活躍したジャズピアノの人気アーティスト)のレコードを聴いて以来の大のピアノ・ファンだ。

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ワーナーブラザーズのロゴが消えるなりシンプルなピアノ演奏が始まった。この音だけでクリント・イーストウッドの世界が劇場の空間を埋め尽くす。『マジソン郡…』も『プレイ・ミスティー・フォー・ミー(恐怖のメロディ)』も、イーストウッドの映画はピアノが心地よく映像をサポートする。そして、今始まった『ミスティック・リバー』。

ボストンのちょっと荒れた地域に生まれ育った3人の少年たちが路上でホッケーを楽しんでいる。ホッケーのボールが下水道に落ちてしまった。手持ち無沙汰になった3人はまだ固まっていないコンクリートに自分たちの名前を彫り込んだ。そこに刑事然とした2人の大人が登場。彼らをたしなめ、3人のうち1人デイヴだけを連れ去る。残る2人、ジミーとショーンは車が走り去っていくところをなすすべもなくただ見守るしかなかった。森の奥深くに監禁されたデイヴは命からがら自力で脱出する。しかし、その4日間に彼に起こったことはデイヴの心の奥底に深く大きな傷となって沈殿していった。そのトラウマは、残った2人にも同じように暗い影をなげかけた。この日を境に、彼らは何かを失ったのだ。

それから25年の歳月が流れた。ジミー(ショーン・ペン)は前科のあるドラッグストアのオウナー、学生時代は野球がうまかったが現在は低所得労働者となったデイヴ(ティム・ロビンス)、そして、家庭状況がうまく行っていないショーン(ケヴィン・ベイコン)は刑事となり、3人はそれぞれの人生を静かにひっそりと生きていた。そんな中、ひとつの殺人事件が運命の糸がからむように、離れ離れになっていた3人を引き寄せる。ひとりは、殺人事件の被害者の父として、ひとりはその容疑者として、そして、もうひとりはそれを解決する刑事としてクロスロードで遭遇した。

ミステリー作家デニス・ルへインの原作『ミスティック・リバー』を、クリント・イーストウッドが非常にオーソドックスに監督。まずこのプロット、物語自体が圧倒的におもしろい。そして、主要登場人物3人さらに、その脇役たちの演技も見事というほかはない。演技と物語が完全に同化している。

時間の流れが多くあればあるほど、別の言葉で言えば、時間が凝縮されればされるほど、そして、不条理、矛盾、不正義がまかり通ることがあればあるほど、その物語は劇的におもしろくなる。時にそれは後味の悪さを残すこともあるが、黒白がつかず、どちらも正しい、あるいはどちらも正しくない、どうしようもないやるせない部分を描ききると、観客に考えさせる余白が生まれ、映画としての深みがでる。喪失感、トラウマから生まれる考えられない行動。そうしたことが起こるから、思いもつかぬ事件が現実に起こる。それもまた人生の真実なのだ。既存の正義の枠で片付けられない様々な矛盾。そこにストーリーが浮かび上がり、ドラマが生まれる。その中で、ある者はなんらかのソウル・サーチンを試みる。イーストウッドは常にその影に光を当てる。

この『ミスティック・リバー』は、時間の凝縮と人生の不条理というその両者が完璧に揃う。もちろん、本作は殺人事件が起こったことによって、犯人探しの側面もあるが、それ以上に、3人と2人の妻、それぞれの人生がしっかり描かれているところがすばらしい。世の中には理屈で説明できないことが多い。納得がいかないことも多々ある。そこを掘り起して淡々と描くところが、このイーストウッドという監督、「職人フィルムメイカー」の底知れぬ力だ。ある意味で非常に冷静にジャーナリスティックに物語を見つめ、そして、それを丁寧に描写する。しかも超一流の俳優陣の演技によって。俳優に委ね、演技に任せ、ハンドルの「遊び」を作る。その遊びは見るものに「考える」余白を与える。

満点に近いこの映画を見て唯一こうしたらいいのではないかと思ったところ。それは、前半導入部と、後半一気に物語が解決に向かうところは、実にテンポよく進むのだが、中盤なぜか冗長になる点だ。あの中盤部分をもう少し削いで、テンポアップし、あと20分短縮できれば完璧になるような感じがした。ひょっとすると、イーストウッド監督が、3人のあまりの演技のすばらしさに目がくらみ、どうしてもエディットできなくなったのではないだろうか。それはそれで痛いほどわかるのだが…。それでも、そこを泣く泣くエディットするのが監督の仕事だ。あそこで中だるみを感じさせては、元も子もない。

もう一点、日本の映画会社の「もうひとつの『スタンド・バイ・ミー』」というキャッチフレーズ。これはない。そういうキャッチをつけたくなる気持ちもわからなくはないが、もっともっと頭を絞って絞って考えだしてほしい。

デイヴ(ティム・ロビンス)の行方がわからなくなった時、刑事ショーン(ケヴィン・ベーコン)が、ジミー(ショーン・ペン)に「最後にデイヴを見たのはいつか」と尋ねる。ジミーは宙を見て、「11歳の時、車に連れ去れた時だ…」とぽつりとつぶやく。その一言にショーンは返す言葉がない。2人は25年前、車が走り去った方をぼんやりと眺める。3人の重い、しかし決して忘れることができない25年間。時間が凝縮され、誰もが正解を知ることができないゆえの苦悩と沈黙が多くを物語る絶妙のシーンだ。

ラストの部分、ボストンで行われるパレードのシーン。刑事ショーンは、遠くにいるジミーを見つけ、右手で拳銃の形を作り、撃つ真似をする。これも様々に受け取れるシーンだ。

イーストウッドは、基本的に映画とはこういうものだ、という自分のパターンをしっかりと持っている。僕はその基本的な考え方に強く同意できるので、彼の作品が大好きだ。彼が作る、クラス(品格)があり、痒いところに手が届くような「映画らしい映画」が楽しめる。それはそのエンディングが仮にいかに不条理であろうと、映画作品として楽しめるのだ。

映画のエンディングで、大きなミスティック・リバーが映し出される。そこにかぶさる後テーマは再びシンプルなピアノのメロディーだった。それはイーストウッドのトレードマーク。そのゆったりとしたピアノの旋律は、まるで彼が「この物語についてじっくりお考えください」と観客に問いかけているかのようだ。クレジットロールがゆっくり回りだして驚いた。このテーマ曲自体をクリント・イーストウッド自身が書いていたのだ。

『ミスティック・リバー』でイーストウッドはスクリーンには一切出てこない。だが、この作品のあらゆるところにイーストウッドの香りがたちこめる。彼はカメラの裏側にしっかり立ち、編集作業をするスタジオや、音楽の録音スタジオにいて彼の魂をこのフィルムの中にこめているのだ。『ミスティック・リバー』、それは「完璧なイーストウッド・タッチ」。

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『ミスティック・リバー』の制作の合間をぬって作ったというドキュメンタリー映画『ピアノ・ブルーズ』は、レイ・チャールズの「アメリカ・ザ・ビューティフル」で幕を閉じていく。『ミスティック・リバー』の中で、「ただのレイ(just Ray)」や「いろんなレイ」がでてきて、「レイ・ハリス」という役名がでてくる。ふとその時、イーストウッドはこのレイの役名をレイ・チャールズから取ったのではないかと邪推した。レイ・ハリス、レイ・チャールズ…。偶然かな。(笑) いつか機会があったら訊いてみたい。

(映画『ミスティック・リバー』原題Mystic River、2003年アメリカ作品=2月13日まで丸の内プラーゼル他全国松竹東急系で公開中)

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