Michael Jackson’s Soul Searchin’

真実。

それはどこにあるのか。あるいは、何が真実で、何が虚像なのか。マイケル・ジャクソンの話題のドキュメンタリーが24日午後9時から2時間余にわたって日本テレビ系列で放送されました。あらゆる点でおもしろかった。

まず、第一にマイケルの知られざる顔が見られたこと。もう1点、ドキュメンタリーの手法として、興味深かった。マーティン記者が非常に立っていた。

イギリスのジャーナリスト、マーティン・バシールが8ヶ月密着取材し、編集して放送したものです。

う~~ん、初めて見たのですが、そんなに伝えられているほど、マーティンの編集があくどいという感じは受けませんでしたねえ。一方、マイケルもそんなバッシングされるほどのこともない、というのが僕の個人的感想です。

なんで、これで騒ぐか。という感じです。確かに12歳の男の子の手を握りながらインタヴューに答え、一緒にベッドをともにする、という表現だけを抜き取ると、異様な感じはありますが、その前後を見れば、別にマイケルらしいという感じがします。

確かにマーティンの常識、それは恐らく僕たち普通の人々の常識とマイケルの常識にはかなりの隔たりがあることは事実です。しかし、それはマイケルの成長過程の特殊性をかんがえれば、理解はできる範疇のものだと、僕は思います。

彼は普通の人じゃないんだから、我々の常識は通用しないんですよ。やはり、人間というのは、ある意味でどこか身体に障害のある人間を、ばかにしたり、おもしろおかしく遊ぶものなのでしょう。マイケルは、そういう意味で、非常に特殊な障害者なのかもしれません。それは心の傷をおった人間であり、顔になんらかの傷をもった人間なのです。それでいて尋常でない金持ちであることが、人々の好奇心をあおる。そして、人々はそれを笑い者にしたがる。人間とは本来、そうした残虐なものです。

今回のドキュメンタリーを見て、それでも、マイケルの子育ての仕方がベストとはとうてい思えませんでした。なにか違う、もっといい方法があるだろう、と僕は感じました。でも、それは人に囲まれて常に注目されつつ育った経験のない僕の意見であり、マイケルとはあまりに境遇が違うのですから、マイケルはマイケルなりの考えで、正しいと思うことをやっているのでしょう。それに対して、他人がとやかく言う筋合いのものでもありません。

彼が高級アンティークショップで、次々と買い物をしたからといって、それは大変異様であり、珍しい、驚くべき光景ではありますが、彼は彼のお金で買い物をしてるのであって、これも別に他人がとやかく言う筋合いのものでもありません。

ジャーナリストとしては、そういうシーンを撮影し、放送した。そういう事実があった。それを知らせた。それだけであり、それ以上でも、それ以下でもない。もちろん、あの浪費のシーンを見て、ベストセラー『地球が100人の村ならば』を思い出す人もいるかもしれません。

あんなことに無駄なお金を使うなら、食事もろくにできない人々に、たべものを買ってあげたらいいじゃないか。それも、まっとうな意見です。彼は莫大なお金を稼ぐ。そして、それを自分の好きに使う。その使い方は自由です。

2時間のドキュメンタリーを見て、改めて、マイケルの幼少時代の苦悩などがわかり、興味深く思いました。人間形成の過程で、大きな心のダメージを受けたのでしょう。そして、それ以後の非常に特殊な環境との複合作用によって、極めて普通ではないひとりの人間が育った、ということにつきるのではないでしょうか。それは彼自身の責任でもないでしょうし、誰の責任でもないのでしょう。言ってみれば、そういう「デスティニー」(運命)だったのです。

彼が幸せなのか、不幸なのか、僕には判断ができません。マイケルが生涯を終えるとき、『自分はマイケル・ジャクソンの人生を生きてよかった。幸せだった。また同じ人生を歩んでみたい』と言えるようになって欲しいと思いました。マイケル・ジャクソンにも、人には計り知れないソウル・サーチンの物語があるようです。書き手としては、非常にそそられるテーマであります。

彼は子供時代、鏡を見たことがなかった、と言っていました。果たして、マイケルが「マン・イン・ザ・ミラー」(鏡の中の男)を歌うとき、彼の脳裏にはどのような思いが巡っているのでしょうか。

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