Luther Vandross Died At 54: Reunited After 46 Years With His Father

【ルーサー・ヴァンドロス54歳で死去】

奇蹟。

ルーサー・ヴァンドロスの死去に関し、多くのエンタテインメント界からおくやみのメッセージがヴァンドロスの元に届いていている。クインシー・ジョーンズ、アレサ・フランクリン、スティーヴィー・ワンダー、ロバータ・フラックなどなどで、これ以後も多くの人々からおくやみが届いているだろう。

ヴァンドロスは、2003年4月16日にニューヨーク・マンハッタンの自宅で脳梗塞で倒れ、数時間発見されずに倒れていたという。発見後すぐに病院に運ばれ緊急手術が行われたが、長く集中治療室にとどまったため、身体に麻痺が残った。生命を救うため、喉からチューブが挿入されたが、シンガーとしての命、声帯に傷をつけないよう最大級の注意が払われた。

6月18日、担当医はルーサーのリハビリテーション・センターへの移動のための退院を許可。ルーサーは、毎日5時間、エクソサイズ、車椅子の乗り降りの練習を続けた。当初、回復は劇的だったという。

そんなある日、ルーサーは母親に電話をかけてこう言った。「1曲、あなたのために歌いたいんだ」 「なんですって?」 母は驚いた。「『ソー・アメイジング』を歌いたいんだ」 これは母アイーダのお気に入りだった。

アイーダが言う。「この曲には私にとってとっても深い意味があるの。というのは、ルーサーがこれを姪の結婚式で歌ったから。彼はその姪をずっと可愛がっていて、育てるのを手伝った。そして、この曲を歌い終えて、彼が姪に向かって『アイ・ラヴ・ユー』と言った瞬間、彼女は泣き崩れた。その場にいたみんなが号泣したのよ」。生涯独身で子供がいなかったルーサーは、ことのほか姪や甥を可愛がったという。

ルーサーが歌おうとする前に、母アイーダは、「一緒に歌いましょうか」と尋ねた。記憶喪失が見られたルーサーが歌うのを手助けしようという心遣いだった。ルーサーは「ママ、ママが歌う前にはたくさん練習してもらわないとだめだ」と言って電話越しで歌い始めた。そして、ルーサーはその「ソー・アメイジング」を一字一句間違えずに最初から最後まで歌いきったのである。

同年5月からアルバム『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』がキャリア中最大のヒットへなっていく。これは、彼自身が「シグネチャー・ソング(代表曲)」「キャリア・ソング(キャリアを代表する曲)」になったと大きな自信を持って世に送り出した作品だった。これはルーサーが8歳の時に死去した父親へ捧げた作品。母親は、これを聴いた時、たった8歳までの記憶しかないルーサー・ジュニアがよくこれほどまでの曲が書けたものだと驚嘆し、涙を流した作品でもあった。

このシングル・ヒットのおかげで、同アルバムは、彼の25年を越えるキャリアの中で初のアルバム・チャート1位を獲得。さらに、秋には、2003年2月のヴァレンタイン・デイに行われたライヴの模様を収めたライヴ・アルバムもリリース。

そして2004年2月、グラミー賞授賞式でビデオでメッセージを寄せ、受賞に大きな花を添えた。回復しなかった中での、ビデオメッセージは、今となっては奇蹟の声だったのかもしれない。

二人の姉、兄ひとりが先に旅立ち、ルーサーはアイーダに残された最後の子供だった。4人の子供を自分の死より以前に見送る母親の心境やいかなるものか。ファミリーのメンバーは、みな糖尿病をわずらっていたという。ルーサーもそうした家系の影響があったのだろう。体重の劇的な増減、糖尿病からくる心臓への負担、そうしたものが彼の命を短いものにした。

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Chasing The Dream, Not Give Up

再会。

ルーサーは母親っ子だった。彼は4人兄弟の末っ子だったが、13歳の時、母と二人でブロンクスに引越し、生活を始めた。父親は既に他界、上の兄弟は独立していたので、母子の生活が始まった。ルーサーは、学校の親友フォンジ・ソーントンとバンドを組み、音楽活動を始める。彼の記憶では4回ほどアポロ・シアターの「アマチュア・ナイト」に挑戦しているが、いずれも優勝にはいたっていない。だが、彼はまったくそのことにくじけることはなかった。

高校卒業後ルーサーは、ウエスタン・ミシガン大学に進学するが、友人もできず、音楽だけに没頭していた。結局、大学生活に嫌気がさした彼は、ドロップアウトを決意する。その時医学を目指していたルームメイトが大学に留まるように説得したが、これはこう宣言してミシガンを後にした。「なあ、君が医者になり、病気にかかった時には、僕は君のところにリムジンで乗りつけよう。僕は逃げ出すんじゃない。自分の夢を追いかけるんだ」。

彼のキャリアのターニング・ポイントはいくつもある。そのうちのひとつがロバータ・フラックとの出会いだ。ルーサーは、80年のロバータの全米ツアーにバックコーラスのひとりとして起用された。そして、そのバンド・メンバーに誰あろうニューヨークのベース奏者マーカス・ミラーがいたのだ。マーカスとルーサーは意気投合。「いつか何か一緒にやろう」ということになった。そして、これが81年の『ネヴァー・トゥ・マッチ』につながっていく。

マーカスとともに作ったデモ・テープの「ネヴァー・トゥ・マッチ」をルーサーがロバータに聞かせたところ、ロバータは涙を浮かべ、「もうあなたは、バックグラウンド(・シンガー)に甘んじていることはないわ。私が、あなたのキャリアをスタートさせるための人物を紹介しましょう」と言ったほどだった。

そして、81年7月、『ネヴァー・トゥ・マッチ』は満を持してリリースされ、大ヒットになる。以後、彼の作品は出せばヒットになっていった。彼は徐々に「ソングスタイリスト」としての名声を確立。他の誰もが真似できないスタイルを築いた。

果たして、彼が自宅で倒れた時、大学時代のルームメイトの元にリムジンを乗りつけることはなかったが、ルーサーはその時の夢を実現させたのである。

スモーキー・ロビンソンがかつてこう言った。「ヴォーカリスト数あれど、ルーサー・ヴァンドロスはただひとり。ルーサーの中に品格が光る。(There are vocalists, and then there’s Luther. Luther’s in a class by himself)」

8歳の時、父と別れたルーサー・ヴァンドロス・ジュニアは、46年ぶりに今、父ルーサー・ヴァンドロス・シニアと再会を果たしていることだろう。手土産は、もちろん、「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」のCD。父親が息子に言っている言葉が聞こえるかのようだ。「よく来たな。いい曲を書いてくれてありがとう」。今、天国で二人のルーサーの熱いハグ・・・。

ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)

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