Category Archives: 訃報関連

●# アンドリュー・ラヴ追悼~オーティスの「トライ・ア・リトル・テンダーネス」

●# アンドリュー・ラヴ追悼~オーティスの「トライ・ア・リトル・テンダーネス」 【A Tribute To Andrew Love of Memphis Horns】 追悼。 2012年4月12日に70歳で死去したメンフィス・ホーンズのアンドリュー・ラヴについて、アメリカのロスアンジェルス・タイムズ、ニューヨーク・タイムズがそれぞれ記事を配信した。それぞれ周辺取材をしての良い記事だったので、簡単にご紹介しよう。 Andrew Love dies at 70; Grammy-winning saxophonist By Randy Lewis, Los Angeles Times April 14, 2012, 3:58 p.m. http://www.latimes.com/news/obituaries/la-me-andrew-love-obit-20120414,0,7128536.story Andrew Love, Tenor Saxophonist for the Memphis Horns, Dies at … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 1 Comment

●アンドリュー・ラヴ(メンフィス・ホーンズ)、70歳で死去~裏方の匠

●アンドリュー・ラヴ(メンフィス・ホーンズ)、70歳で死去~裏方の匠 【Andrew Love (Memphis Horns) Dies At 70】 訃報。 メンフィス・サウンドの要でもある「メンフィス・ホーンズ」のメンバーでサックス奏者のアンドリュー・ラヴが、2012年4月12日、メンフィスの自宅で死去した。70歳だった。2002年頃からアルツハイマー病を患っており、合併症での死去。アンドリューらは、オーティス・レディングのヒットの数々、エディー・フロイドの「ノック・オン・ウッド」、サム&デイヴの「ホールド・オン・アイム・カミング」など一連のヒットなどで印象的なホーン・セクションを聴かせている。 評伝。 アンドリュー・ラヴは、1941年11月21日テネシー州メンフィス生まれ。地元の高校、オクラホマの大学を経て、1965年までにスタックスのハウス・バンドの一員に。盟友、ウェイン・ジャクソンとは1962年頃知り合っている。ウェインとアンドリューは個人的にも大変親しくなり、徐々に一緒に仕事をすることも多くなっていく。 この頃、ウェインはすでにスタックスの最初のハウス・バンド、マーキーズで活動、一方、アンドリューは学校の休みのときなど、父親が持つ教会のバンドでサックスをプレイしたり、後に、ウィリー・ミッチェルのハイ・レコードなど、多くのメンフィスでのレコーディング・セッションに参加した。 スタックスのシンガー・アーティスト、ルーファス・トーマス、サム&デイヴ、アイザック・ヘイズなど多数のレコーディングにつきあうだけでなく、同じくメンフィスのハイ・レコードのアーティスト、アル・グリーン、アン・ピーブルズなどの作品でも参加。 1967年のモンタレー・フェスティヴァルには、彼らもオーティスらのバックとして参加している。 実質的なスタックスのハウス・バンドだった彼らは、スタックスからは専属になって欲しいと言われたが、フリーランスで活動することを選択。 1969年に同じくスタックス・レコードのハウス・バンドだったマーキーズのメンバー、ウェイン・ジャクソン(1941年11月24日メンフィス生まれ。トランペット。白人)らとメンフィス・ホーンズを結成。当初はウェイン・ジャクソン、アンドリュー・ラヴ、ルイス・コリンズ、ジャック・ヘイル、エド・ローガン、ジェームス・ミッチェルら。セッションによって若干他のメンバーが入ったりもする。 また、その他ここを訪れるソウル・アーティスト、アリーサ・フランクリン、ウィルソン・ピケットなどだけでなく、ポップ・アーティストにもホーン・セクションの音を提供した。ニール・ダイアモンド、ドゥービー・ブラザーズ、U2、ダスティー・スプリングフィールドなどもここに来てメンフィス・ホーンズを録音している。また、スティング、ピーター・ゲイブリエルなども彼らを起用している。 代表曲には、エルヴィス・プレスリーの「サスピシャス・マインド」、ニール・ダイアモンドの「スイート・キャロライン」、アル・グリーンの「レッツ・ステイ・トゥゲザー」、ダスティー・スプリングフィールドの「ソン・オブ・ア・プリチャーマン」など多数。 1970年代には「メンフィス・ホーンズ」名義でアルバムを発表するようになり、それらは『メンフィス・ホーンズ』など9枚を数える。 徐々にメンバーが減り、現在はアンドリューとウェインの二人になっていた。 メンフィス・ホーンズは、83枚のゴールド、プラチナム・レコードで、52曲のナンバーワン・レコードでプレイしている、という。 2008年、メンフィス・ホーンズはミュージシャンズ・ホール・オブ・フェイムに選ばれた。 また今年(2012年)2月、メンフィス・ホーンズの二人はグラミー賞「ライフ・タイム・アチーヴメント賞」を受賞。これをインストゥルメンタル・グループで受賞するのは、ファンク・ブラザーズについで二組目だ。どちらも1960年代のソウル・ミュージックの歴史において重要なサイドメンたちと言える。 アンドリュー・ラヴは、ツアーなどから2000年に引退していたが、ときどき、レコーディングの仕事は引き受けていた、という。ニール・ヤング、トニー・ジョー・ホワイトら親しいアーティストのものは、レコーディングにつきあっていたようだ。 裏方。 彼らのレコーディングはシンプルで、スタジオに入り、リズム・トラックを聞くと、すぐにトランペット、サックスのリフを考え、まず1回録音、さらに同じものをもう一度録音(ダブル)、そして別のトロンボーンなどが必要であれば付け加えて録音ということで大体3回くらいでレコーディングは終了していたという。ホーンのリフは、ほとんどすべて彼らが考えていた。 彼らはまさに裏方だが、そのプロフェッショナリズムは音楽業界で一目置かれていた。グラミーの「生涯功労賞」が与えられたのも、もちろんそうしたことを反映してのもの。 独特のホーン・セクションは、メンフィス・ソウルを世界に知らしめる大きな原動力となった。 ■ 昨日の「ソウル・サーチン」では、そのご紹介をしました。期間限定公開ポッドキャスト。 http://soundcloud.com/soul_searcher_2/01ss20120415 ++++ 告別式は2012年4月20日現地時間午後5時から、Mt. Nebo Baptist Church, 555 Vance, Memphis, … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 1 Comment

● ディック・クラーク(『アメリカン・バンドスタンド』)82歳で死去

● ディック・クラーク(『アメリカン・バンドスタンド』)82歳で死去 【Dick Clark Dies At 82: Pioneer Of TV, Music Industry】 訃報。 アメリカ音楽業界、エンタテインメント業界における大物司会者、起業家でもあるディック・クラークが2012年4月18日、ロスアンジェルスの病院で心臓発作のため死去した。82歳だった。すでに膨大な量のニューズ、コメンタリー、追悼記事がでている。今年の訃報でいえば、ホイットニー・ヒューストン以来の大きなニューズだ。 ディック・クラークは1929年(昭和4年)11月30日ニューヨーク州ブロンクスヴィル生まれ。ラジオDJから始まり、テレビ番組の司会者、番組プロデューサーなどもこなし、アメリカの音楽業界でもっとも影響力を持った業界人の一人。音楽業界にテレビを持ち込んだ、あるいはテレビに音楽番組を持ち込んだ、第一人者でもある。1952 年に始まっていた『アメリカン・バンドスタンド』は、1957年からクラークが司会に就任。1950年代後期から1960年代、1970年代にかけて、多数の新人シンガーたちを生み出し、スターにした。番組は1989年まで30年以上にわたって続いた。テレビの音楽番組としては、1948年から始まった『エド・サリヴァン・ショー』などと並んで大きな影響力があった。 これはレコードにあわせてスタジオに来ている観客が踊るというシンプルなフォーマットだったが、実際のシンガーも登場し、口パクで歌い人気となった。番組は、新しいアーティスト、新しいダンス、そして、新しいファッションを若者に紹介し、そうしたものに全米の若者が多大な影響を受けた。若者カルチャー全般を広く伝えた。また、この番組でも別の番組でもヒット曲のカウンタとダウン番組を始め、これも後に多くのフォロワーを生み出した。 ディック・クラークがひじょうにずば抜けていた点は、身なりも話し方もきちんとして、一見「保守風」に見え、ロックに眉をひそめるような固い大人たちに、新しいものをわかりやすく紹介してきた点。ちょうど二者の間を取り持ったわけだ。 『アメリカン・バンドスタンド』は初回から、男の子はネクタイをすること、女の子のスラックスは禁止、チューインガムは禁止、というルールを厳しく守らせた。 こうしてディック・クラークは、ロックン・ロールのアイコン、テレビ/ラジオのパイオニアとなった。 ディック・クラークは、アメリカにダンスを教えた人物、としても知られる。レコードにあわせてダンスを踊るという、今では当たり前のことが、1950年代にはまだまだ特別なことだった。それを全国放送のテレビ番組でやってのけた。また、フィラデルフィアをベースとする黒人ミュージシャンも積極的に出演させたため、同地からの黒人アーティストのヒットも多数生まれた。チャビー・チェッカーの「ツイスト」、ディー・ディー・シャープの「マッシュポテト」など。 この番組をヒントに黒人のドン・コーネリアスは、「黒人版・アメリカン・バンドスタンド」を作ろうというアイデアを思いつき、『ソウル・トレイン』を生み出し、成功を収めた。 多くのアーティスト、プロデューサーやラジオ・テレビ関係者から弔辞が届いている。 ■ アメリカン・バンドスタンド30周年記念特別番組(1982年) http://youtu.be/aMv1DQ8OChM 多数のアーティストが登場。11本のうちの1本。テディー・ペンダーグラス、マーヴィン・ゲイ、マイケル・ジャクソンらも登場。 評伝。 ディック・クラークは1929年(昭和4年)11月30日ニューヨーク州ブロンクスヴィル(マウント・ヴァーナン)生まれ。16歳のときに、ユティカの小さなラジオ局で郵便物を整理する雑用から始まり、徐々に階段を上り、1952年、22歳でフィラデルフィアの『キャラヴァン・オブ・ミュージック』というラジオ番組でしゃべりだすようになった。そのラジオ局が持つテレビ局で、1957年、すでに番組としてはあった『アメリカン・バンドスタンド』の司会者に就任。ディックはまだ26歳だった。当初はフィラデルフィアのローカル番組だったが、徐々に全国ネットになり、この番組は爆発的人気を獲得、ディックも人気となった。1958年までに、視聴者は全米で4000万人を越えるほどまでになった。その他テレビのクイズ番組『ピラミッド』、『ディック・クラークス・ニューイヤー・ロッキン・イヴ』など。『アメリカン・バンドスタンド』は大変影響力のある音楽番組で、多くのアーティストがここからヒットをだし、成功を収めるようになった。 テレビ番組を製作する「ディック・クラーク・プロダクション」を設立。 グラミー賞に対抗して、1973年、一般的な人気を反映する「アメリカン・ミュージック・アワード」を設立し、授賞式をテレビ番組にした。 大晦日恒例の『ディック・クラークス・ニューイヤー・ロッキン・イヴ』は1972年から30年以上も続いている。ニューヨークのタイムズ・スクエアでのカウントダウン中継をするもの。2004年、心臓発作で番組を休んだが、このときは、30年以上で初めてのこと。翌年復帰。2011年の大晦日には、レディー・ガガが登場した。最近はメインの司会は後輩のライアン・シークレストに任せ、ディックはスタジオで顧問的に登場していた。 ディック・クラークは、音楽制作、ラジオ、テレビ、ツアーなどあらゆる分野で活躍。まさに今で言うところの「メディア・モーグル」(メディアの権力者、大御所)になった。 「ディック・クラーク・プロダクション」は、これまでに7500時間分の番組を制作してきたという。30本のレギュラー(たとえば、『アメリカン・バンドスタンド』など)から、250本を超えるスペシャル(特番)などを制作した。 ベイビーフェイスなクラークのニックネームは「ワールド・オールデスト・ティーンエイジャー」(世界でもっとも歳を取ったティーンエイジャー)というもの。 『アメリカン・バンドスタンド』は、1989年まで続き、多くのスターを生み出した。 若者向けロックン・ロールのアーティストをテレビに出演させ、ヒットさせたという意味で、「ロック育ての親」の一人とも言える。 OBITUARY>Clark, Dick (November 30, 1929 … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 1 Comment

●(速報)ジミー・エリス(トランプスのリード・シンガー)74歳で死去~「ディスコ・インフェルノ」

● ジミー・エリス(トランプスのリード・シンガー)74歳で死去~「ディスコ・インフェルノ」の大ヒット 【Jimmy Ellis, Lead Singer Of Trammps, Dies At 74】 訃報。 1970年代に「ディスコ・インフェルノ」などの大ヒットで一世を風靡したディスコ、ソウル・ヴォーカル・グループ、トランプスのリード・シンガー、ジミー・エリスが2012年3月8日木曜・朝、サウス・キャロライナ州のナーシング・ホーム(老人ホーム)で死去した。74歳。アルツハイマー症の合併症で死去したと娘さんのエリカ・スティンソンさんが語っている。同州ロック・ヒルという街に生まれ、今でもそこに住んでいた。妻ベヴァリーさん、3人の兄弟、姉妹、息子、8人の孫、2人のひ孫によって送られる。「ディスコ・インフェルノ」の「バーン・ベイビー・バーン、ディスコ・インフェルノ~~」のフレーズはいまだに世界中のダンサーの脳裏に焼きついている。 評伝。 ジミー・エリスは、本名、ジェームス・トーマス・エリス2世、1937年11月15日サウス・キャロライナ州ロック・ヒル生まれ。6人兄弟の長男。十代の頃からセント・メリー教会でゴスペルを歌っていた。地元のエメット・スコット・ハイスクール卒業後、フィラデルフィアに移り、ヴォルケイノスやエクセプションズ(「ダウン・バイ・ザ・オーシャン」の小ヒット)に参加。このヴォルケイノスは、1970年代に入り、トランプスへ。 トランプスの由来は彼らがフィラデルフィアのストリートで歌っていた頃、警官から「you are tramps (お前たち、浮浪者、ホームレス)」などと言われていたから。しかし、そこにもう少しハイクラスな雰囲気を出そうと「m」をもうひとつ付け加えてTrammpsにした。 1972年、ブッダ・レコードからジュディ・ガーランドの作品をドゥーワップ調にカヴァーした「ジング・ウェント・ザ・ストリングス・オブ・マイ・ハート」がニューヨークのディスコでヒットしたことから、ダンサブルな作品を多数出すようになり、フィリー・ソウルの大ブームとあいまって、人気となった。 一連のヒットの迫力ある高音のソウルフルなリード・ヴォーカルがジミー・エリス。トランプスの顔とも言える人物だ。 このトランプスには、もう一人、ドラマー兼ヴォーカルを担当するアール・ヤングがおり、ヤングは大変低い声の持ち主で、トランプスのベース・ヴォーカルも支えた。ヤングとエリスの高音、低音があるために、実にヴァリエーションに富んだヴォーカル・ハーモニーが楽しめ、単なるディスコ・グループの枠を超え、ソウル・ヴォーカル・グループとしても大きな魅力を持っていた。 アトランティックに移籍しリリースした「ディスコ・インフェルノ」が1977年末公開の映画『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』(ジョン・トラヴォルタ主演のディスコ映画)で使われたことから世界的な人気アーティストとなった。 同サウンドトラックは当時1500万枚以上売れ、マイケル・ジャクソンの『スリラー』が登場するまで、音楽史上もっとも売れたアルバムとなっていた。1979年にグラミー賞「アルバム・オブ・ジ・イヤー」を獲得。ここに収録されたアーティストはすべてグラミーのトロフィーをもらったので、ジミーもグラミー受賞シンガーということになる。 ジミーは、2000年、生まれ故郷ロック・ヒルに戻り、静かに暮らしていたが、2010年くらいまではトランプスの仕事があればでてきていたようだ。2008年ごろからアルツハイマーの症状が少しずつ出てき始めていたという。 ■「なるほど! ザ・ワールド」のテーマ 日本では、「トランプス・ディスコ・テーマ」が、フジテレビ系列で1981年から放映され人気を集めた番組『なるほど!ザ・ワールド』の番組スタート時から1990年までオープニング・テーマ曲となり、よく知られるようになった。また、これはその後2006年ANA(全日空)、2011年、エネオス(ENEOS)エネファームのCM曲としても使用された。 この曲の成り立ちはひじょうにユニークで、こんな歴史がある。 そもそもこれは、上記で触れた彼らの初ヒット「ジング・ウェント・ザ・ストリングス・オブ・マイ・ハート」のシングルのB面に同曲のインストゥルメンタルが収録されていた。これが当時のディスコDJの間で人気となり、シングル2枚使いでディスコ・プレイされたりしていた。インストが大変よく出来ていたため、彼らは75年これをゴールデン・フリースから出すアルバムで再録音した。それが、「トランプス・ディスコ・テーマ」とタイトルされた。だから、本当だったら、「ジング…」が元歌なのだが、もはや彼らの作品になってしまったのだ。 そして、日本ではこのインストがテレビのテーマに使われ、毎週かかることから、当時はシングルがけっこう売れてヒットした。 +++ なお、ジミー・エリスというと、アメリカでは同名のボクサーが有名で、検索をかけると、そのボクサーのことが多数でてくる。 今週金曜(9日)、地元で、また後日、フィラデルフィアでメモリアル・サーヴィスが行われるという。 +++ 「シャウト」(アイズレイ・ブラザーズのカヴァー)まさに現代版ドゥーワップ。 http://youtu.be/_HPQ4uySAYA 長くアルバムがなかったため、当時はシングル盤しかなく、僕もよくシングルをディスコでもかけた。しかも「ホエア・ドゥ・ウイ・ゴー・フロム・ヒア」のシングルのB面で、チャート的にはヒットしない。今回この映像を発見して、かなり驚いた。 「ジング・ウェント・ザ・ストリングス・オブ・マイ・ハート」 http://youtu.be/vx0pnqoenbQ これの最初の高音ヴォイスがジミー・エリス、次にでてくるベース・ヴォーカルがアール・ヤング。グループのドラマーでもある。彼らの快進撃はすべてここから始まった。このブッダからのシングル盤のB面にインスト・ヴァージョンが収録され、それが当時重宝された。後にトム・モールトンがこれをリミックスする。 … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 1 Comment

●LAの名ギタリスト、ローランド・バティスタ、60歳で死去

●LAの名ギタリスト、ローランド・バティスタ、60歳で死去 【Roland Bautista Dies At 60】 訃報。 アース・ウィンド&ファイアーの初期、さらに、アル・マッケイ脱退後のアースに再度参加した名ギタリスト、ローランド・バティスタが2012年2月29日、ロスアンジェルスで死去した。60歳。心臓発作らしい。死去した場所、様子などまだ詳細はわからない。音楽ジャーナリストのスコット・ギャロウェイ氏が明らかにした。 バティスタは1951年5月30日、ロスアンジェルス生まれのメキシコ系アメリカ人。1972年にアース・ウィンド&ファイアーの『ラスト・デイズ・・・』に参加してから、ロスアンジェルスの音楽界で頭角を現し始めた。アースを70年代中期に脱退してからは、セッション・プレイヤーとして大活躍。ラムゼイ・ルイス、ランディー・クロフォード、ジョージ・デューク、クルセイダーズ、ヒューバート・ロウズなど多くのアーティストの作品にレコーディングやツアーで参加。超売れっ子ギタリストとなった。日本にもクルセイダーズのツアーなどで何度も来ている。クルセイダーズのライヴ・イン・ジャパン盤でもローランドのプレイが聴かれる。 特にリズム感のすばらしいカッティング・ギターに定評があった。 1981年、アースからギタリスト、アル・マッケイが脱退した後に、再度、モーリス・ホワイトから請われ、アースに復帰。『レイズ』、1982年の『パワーライト』、1983年の『エレクトリック・ユニヴァース』に参加。 1977年、当時あったABCレコードから自身名義のアルバム『バティスタ』、1978年『ヒート・オブ・ザ・ウィンド』をリリース。 また、ジャクソンズの『デスティニー』、トム・ウェイツの『ブルー・ヴァレンタイン』(1978年)などにも参加している。ジョージ・デュークの人気盤でブラジル録音『ブラジリアン・ラヴ・アフェア』でも全編エレキ・ギターを響かさせている。 George Duke Brazilian Love Affair http://youtu.be/1gpRcPLnMoo ■ ジョージ・デューク『ブラジリアン・ラヴ・アフェア』 Brazilian Love Affair posted with amazlet at 12.03.06 George Duke Epic Europe (1992-04-27) 売り上げランキング: 134741 Amazon.co.jp で詳細を見る Roland Bautista … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 2 Comments

★●◆ ホイットニー葬儀を見て思うこと

★●◆ホイットニー葬儀を見て思うこと 【Thoughts On Whitney】 葬儀。 ホイットニーの葬儀を土曜深夜、日曜早朝、結局最後まで見てしまった。その詳細は、昨日付けのブログにアーティスト、曲名なども含めて書いてあるので、興味ある方はそちらをごらんください。 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20120220.html この葬儀を見ながらいろいろ考えた。ひとつには、バプティスト教会の葬儀がテレビ中継の前後も含めれば4時間以上も世界中に生中継されたのは、前代未聞のこと。歴史的快挙だということがある。 マイケルの葬儀も生中継されたが、二時間くらいで、これはファンに対しても公開されることを前提にしたもの。会場や規模もホイットニーのものとは比べ物にならないほど大きかった。 それがホイットニーのものは本来は公開されないプライヴェートなもので、しかし結局、4時間近く生中継公開された。参列者には、携帯の電源を切り、ツイートなどをしないように、注意がされたという。 歌いこみ。 ホイットニーとマイケルの突然の死というものは本当にいろいろなことを考えさせられてしまう。 トップに上りつめた、それもちょっとやそっとのトップではない、本当の世界のトップに上りつめたスーパースターのプレッシャーというのは、普通の人には到底想像できないものなのだろう。 僕がホイットニーの歌唱で一番好きなのものを無理して選べば、彼女の初来日から2-3回目くらいまでの来日時に歌っていた「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」だ。本当に声が出ていて、声につやがあり、声自体が輝きを持っていた。その歌詞の内容ともあいまって、真に歌に聞き惚れることができた。その会場にいる全員が、ホイットニーの虜になっていた。あのむずかしい曲をあんなに上手に歌えたら、ほんとに気持ちがいいだろうなあ、と心底思った。 ホイットニーはレコーディングがはやい。大体2-3テイクで録音が終わる。マイケル・マッサーのレコーディングは何度も部分部分をやり直させられたかもしれないが、大体基本的なところは2-3回で終わる。だから、レコーディングされて残ったものは、まだ歌いこんでいない。それがライヴで年間何十本と歌えば、どんどんその歌唱がよくなっていく。だから、レコードよりもライヴのほうがもっともっとうまい歌が聴けることになる。 ホイットニーがライヴを重ねて歌う「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」は(もちろん、その他の曲も)、どんどんソウルが込められていくのだ。 ナンバーワン。 ホイットニーは間違いなく20世紀を代表するシンガーの一人、ナンバーワン・シンガーになった。しかし、そのナンバーワンのポジションが彼女にプレッシャーをかけ、それが死に追いやったなら、一体その成功とは何なのかと思わざるをえない。 ホイットニーが帰還したニューホープ・バプティスト教会で歌っていた頃、彼女は歌うことが大好きで、その歌に皆が興奮していることが嬉しかった。それが仕事となり、そのスケールが大きくなった。歌うことが好き、観客が喜ぶ。そこだけを追求すればいい。しかし、ビッグ・ビジネスになると、たくさんの要素、人が入り込んでくる。 歌への愛と観客の喜び、それ以外は、すべてハイプ(虚像)だ。そう割り切るしかない。それを肝に銘じるしかない。しかし、そんな簡単に物事はいかない。それもまた人生だ。 「ナンバーワンになるのは簡単だ。難しいのはナンバーワンを続けること」とはエンタテインメントの世界ではよく言われる。誰もがそれを目指す。しかし、今この言葉にはもうひとつつけ加えなければならない。 「ナンバーワンになるのは簡単だ。難しいのはナンバーワンを続けること。さらに、もっと難しいことは、生き続けること」 ++++ ■ホイットニー・ヒューストン物語(吉岡正晴訳) ディーヴァ―ホイットニー・ヒューストン物語 posted with amazlet at 12.02.12 ジェフリー ボウマン TOKYO FM出版 売り上げランキング: 950435 Amazon.co.jp で詳細を見る ■ ホイットニーのベスト … Continue reading

Posted in 訃報関連 | Comments Off

●ホイットニー葬儀 ~ 歴史的な全世界生中継

●ホイットニー葬儀~歴史的な全世界生中継 【Whitney Houston Funeral: Historic Event To Live Broadcasting All Over The World】 歴史的。 2012年2月11(土)、ハリウッド・ヒルトン・ホテルで48歳で急死したホイットニー・ヒューストンの葬儀が、生まれ故郷ニュージャージー州ニューアークのニューホープ・バプティスト・チャーチで、2月18日正午(現地時間、日本時間、19日午前2時)から多くの著名人などを集め行われた。式は3時間50分にもおよび、バプティスト教会の葬儀の模様すべてがCNNやインターネットで世界中に生中継され、歴史的なイヴェントとなった。教会は約1500人の招待客とクワイアーなどが集まり、ホイットニーのいとこ、ディオンヌ・ワーウィックが司会となり、次々と弔辞、ライヴ・パフォーマンスが繰り広げられた。ボビー・ブラウンは会場に来たが、式の途中で帰ったと言われる。 このニューホープ・バプティスト教会はホイットニーが母親シシーに連れられて子供の頃から通っていた教会。まさに、この日、彼女はホームに帰還した。ホイットニーはここで初めてソロで歌い、拍手喝さいを得て、シンガーとしてやって行こうと強く決意した、そんな彼女のルーツとも言える場所だ。それは、1975年11月、まだ彼女が12歳のときだった。そしてそれから36年強、予期せぬ形でホイットニーは故郷に戻った。 ライヴ・パフォーマンスは、スティーヴィー・ワンダー、アリシア・キーズ、ダニー・マクラーキン、キム・バレル、ワイナンズ・ファミリー、Rケリー、地元のニューアーク・バプティスト・クワイアーなど。弔辞を読んだのが、コーリー・ブッカー(ニューアーク市長)ジョー・カーター牧師、タイラー・ペリー、TDジェイクス牧師、ケヴィン・コスナー、クライヴ・デイヴィス、レイ・ワトソン(ホイットニーのボディーガード)、リッキー・マイナー(ホイットニーのバンドの音楽監督)、パトリシア・ヒューストン(義理の姉妹)、ディオンヌ・ワーウィック、マーヴィン・ワイナンズら。登壇はしなかったものの、参列したセレブには、ロバータ・フラック、メアリー・J・ブライジ、ジェシー・ジャクソン師、アル・シャープトン師など。 12:10pm (米東部標準時、日本時間翌日02:10am) 教会のクワイアーがゴスペル曲を歌っている。 12:20 コーリー・ブッカー(ニューアーク市長)登壇。 12:24 ボビー・ブラウン、会場を去る。 12:40 ダニー・マクラーキン登壇。「スタンド」を歌う。 http://youtu.be/5_8zJ-BEpHg 12:48 ディオンヌ・ワーウィック登壇。タイラー・ペリーを紹介。タイラーは、ホイットニーの遺体をロスからニュージャージーに移送するためにプライヴェート・ジェットを提供した。 12:49 タイラー・ペリー登壇。弔辞。「神とホイットニーを引き裂くものは何もない」 12:56 涙ながらにビー・ビー・ワイナンズ登壇。 12:59 ビー・ビー・ワイナンズ、「ホーム」を歌う。これは彼の兄ロナルドが2005年に48歳で亡くなったときに書いた作品。 http://youtu.be/b9gwHc2HP8s 01:05 TDジェイクス牧師登壇。TDは、遺作となる映画『スパークル』撮影中に会った。「あなたのスピリットは傷ついている」 01:12 キム・バレル登壇。当初は「アイ・ビリーヴ・イン・ユー・アンド・ミー」を歌う予定だったが、急遽変更し、サム・クックの「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」の歌詞を一部変えて熱唱。”I was born by the river” を “She was born in Newark”と歌った。キム・バレルは十数年来の親友で、死ぬ直前までホイットニーと電話でやりとりをしていて、前夜祭も一緒に出る予定だった。しかし、彼女がホテルに到着したときは、すでにホイットニーが亡くなっていた。 … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 3 Comments

● ホイットニー葬儀2時から~処方薬と死の関連

● ホイットニー葬儀2時から~処方薬と死の関連 【Whitney’s Death : Connection With Prescription Drugs】 突然死。 ホイットニーの急死は本当に衝撃を受けた。ホイットニーについての追悼文も書きたいのだが、なかなか書けない。彼女と初めて会ったのは、1984年7月。デビュー前、プロデューサー、カシーフのコネチカットの自宅で会った。その後、1989年9月、創刊雑誌のためのインタヴューでニューヨークの弁護士のオフィースで1時間ほど正式にインタヴューした。その後は、来日時にコンサート後、いわゆる「ミート&グリート」(関係者などを集めたあいさつ会)などで顔をあわせることはあった。ホイットニーのバック・ミュージシャン、バシリ・ジョンソン、ウェイン・リンゼイ、シンディー・マイゼルらとも仲が良いこともあり、ずいぶんと近い存在に感じられている。フィリップ・ウーも、かつてホイットニーのバックをやっていて、そのときに日本にも来ている。 ホイットニーにはデビュー前から注目していて、彼女がゲストで歌ったポール・ジャバラのアルバムのライナーノーツでもホイットニーの紹介文を書いたほどだった。 確か1985年か1986年の夏だったと思うが、アメリカ東海岸で初めてライヴを見た。そのときの前座はジェフリー・オズボーンだった。 デビュー前から注目し、瞬く間にスターになり、そして、途中からキャリアがおかしくなり、最後このようなことになってしまう形で一生を外から見守ったアーティストというのはほかにいない。 マイケル・ジャクソンのときも感じたが、アメリカのエンタテインメントの世界でトップにい続けることのプレッシャーの何と大きなことか。我々凡人がとても想像できないほどの大きさなのだろう。 マイケルもホイットニーも、そうした重圧に押しつぶされてしまったのかととても残念に思う。 なんとか近いうちにまとめてみたい。 +++++ 処方薬と死の関連性 処方薬。 ホイットニーの突然の死は、医師から処方された処方薬とアルコールを組み合わせてしまったために起こった事故死という見方が強まっているが、では、その処方薬はどのようなものだったのか。 アメリカ・ニュージャージー州を本拠に活躍している作家の冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)さんが、村上龍氏が発行するジャパン・メール・メディアのメルマガ『from 911/USAレポート』第560回(2012年2月18日配信)で、「ホイットニー・ヒューストン急死で問われる処方箋薬問題」と題する文を寄稿していて、大変興味深く読んだ。 この内容は、次のウェッブで後日アップされるので、全文は下記をごらんください。第560回2月18日配信分 http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/title3_1.html この中で冷泉氏は、今回の事故は「ベンゾジアゼピン系の抗不安薬の長期服用と、そのアルコールとの組み合わせ摂取による心肺停止事故という可能性が濃厚です」と書いている。この薬自体はそれほど珍しいものではなく、いわゆる通常の処方薬、ただし、依存性が強いという。そこで、医師は患者に必要以上には与えないようにするものの、患者は最初の医師が薬を処方してくれない場合、次の医師のもとに行き、処方してもらったりすることも起こりうるとのこと。 しかし、なんといってもアルコールを飲んでこれらを摂取すると大変危険なので、それは医者も口をすっぱくして言っているのだろう。 これらを防ぐ案として、氏は電子カルテの使用を提案している。同じ患者が複数の医師の元に行ってもそれがわかるようになるわけだ。 結局は、薬を飲みながらアルコールも摂取してしまうのは、本人の意思だから、もはや他人がどうのこうの言うものでもなくなってしまう。実に悲しい現実だ。 +++++ ホイットニー、オプラに語る インタヴュー。 3年前、ホイットニーがオプラに語ったところは今になってはひじょうに重みが感じられる。ホイットニーの2000年代の苦労が語られている。(下記ホイットニー・ヒューストン、オプラに3時間語る(パート1)と(パート2)を参照) 世間では、ホイットニーがこうなってしまったことの全責任をボビーに負わせるような風潮になっている。ある程度はそうだろうが、必要以上にボビーを責めるのはよろしくない。ボビーを選択してしまったのは、ホイットニー自身であり、アルコールと処方薬を同時に摂取したのは、本人の意思だからだ。必要以上のボビー・バッシングは戒めたい。 ■ ホイットニー過去記事 2009年09月15日(火) ホイットニー・ヒューストン、オプラで赤裸々告白~7年ぶり新作、アルバム1位初登場 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10342830088.html 2009年09月19日(土) ホイットニー・ヒューストン、オプラに3時間語る(パート1) … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 3 Comments

●ホイットニー葬儀にスティーヴィー、アリーサ、ケヴィン・コスナーら

●ホイットニー葬儀にスティーヴィー、アリーサ、ケヴィン・コスナーら 【Whitney’s Funeral Will Be Featuring Stars】 葬儀。 2月11日にカリフォルニアのホテルで死去したホイットニー・ヒューストンの葬儀が2012年2月18日土曜昼12時(日本時間19日・日曜午前2時)から、ニュージャージー州ニューアークのニュー・ホープ・バプティスト・チャーチで行われる。今回は一般参列はなく、いわゆる「招待客のみ」の葬儀。ここはホイットニーが幼少の頃から通った教会。映画『ボディガード』共演者、ケヴィン・コスナー、ホイットニーの育ての親でもある元アリスタ・レコードのクライヴ・デイヴィスらが弔辞を読み、スティーヴィー・ワンダー、アリーサ・フランクリンらが歌を歌う予定。この葬儀は招待者のみが参列するプライヴェートなものになるが、インターネットなどでの中継が計画されている。マイケル・ジャクソンの葬儀のときには、CNNなどが生中継した。今回もCNNが生中継する。また、インターネットでは中継される予定とのこと。 18日土曜の昼12時から葬儀が始まるとすると、これは日本時間日曜午前2時(土曜深夜26時)になる。CNNは日本時間午前1時から番組を放送する予定。 そのほかに、オプラ・ウインフリー、ビル・コスビー、ジェシー・ジャクソン師、シャカ・カーン、ビービー&シーシー・ワイナンズ、ダイアン・ウォーレン、アントニオ・LA・リード、ブランディー、レイ・J(最近ホイットニーがつきあっていたとされる男性シンガー)、ロバータ・フラック、キム・バレルなども参列する予定。 キム・バレルはかつてホイットニーと一緒に歌った「アイ・ビリーヴ・イン・ユー・アンド・ミー」(映画『プリーチャーズ・ワイフ』でホイットニー自身も歌っている)を歌う予定。 母シシー・ヒューストンは派手な葬儀は望んでいないという。今回の葬儀は、ホイットニーの父ジョン・ヒューストンが亡くなった2003年の葬儀に近いものになるという。また、その後、ホイットニーはニュージャージー州ウエストフィールドにあるフェアヴュー墓地で、父の横に埋葬される。 周囲から参列を拒絶されていると言われる元夫ボビー・ブラウンは、参列を拒絶されている事実を否定、参列に含みを残している。ボビーはホイットニー死去の日曜から、娘であるボビー・クリスティーナと一緒にいる、という。 ボビーは「僕たちは依然ボビー・クリスティーナへのサポートを続ける。彼女は母の死という悲劇と今闘っており、公衆の目から離れたいと願っています。僕たちのプライヴァシーを尊重してください」とコメントを出した。 ホイットニー周辺はボビーに参列して欲しくないと思っているが、ボビー・クリスティーナとの関係から、参列自体を阻止することはできないと考えているようだ。ボビーは、土曜日夜にニュー・エディションとしてコネチカット州のモヘガン・サン・カジノでのライヴ予定がある、という。 +++ OBITUARY>Houston, Whitney

Posted in 訃報関連 | Comments Off

● ミス・ホイットニー・エリザベス・ヒューストン、永遠に

● ミス・ホイットニー・エリザベス・ヒューストン、永遠に 【Whitney Forever】 追悼。 「このヤング・タレントがホームに戻られた」 クーイーン・オブ・ソウル、アリーサ・フランクリンが、ホイットニー死去の2日後、2012年2月13日、サウス・キャロラリナ州で行われたライヴで、「アイ・ウィル・オールウェイズ・ラヴ・ユー」を歌って、追悼した。 これが、また、120パーセント、アリーサ節になっていて、感動物だ。オリジナルのカントリーさはもちろんのこと消え去り、ホイットニーの持ち歌を完璧に、アリーサのものにし、しかも、アリーサの得意ジャンルでもあるゴスペル・タッチに仕上げている。 アリーサのこのヴァージョンは、グラミーのジェニファーのヴァージョンを凌駕するすごさだ。ぜひ、みなさんにごらんいただきたいのでユーチューブをシェアする。 アリーサ・フランクリン、ノースキャロラナイナ州で2012年2月13日のライヴで http://youtu.be/_05nG_3rOPo ホイットニーはいくつかの節目でライヴを見せるが、1990年、アリスタ・レコード設立15周年記念イヴェントで、「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」を歌った。下記のヴァージョンが本当に見事なものになっている。 ホイットニーが歌う「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」1990年3月17日、ニューヨーク・レイディオ・シティー・ミュージック・ホールで。アリスタ設立15周年~エイズ・チャリティー、That’s What Friends Are For: Arista Records 15th Anniversary Concertにて。 http://youtu.be/NeiW3Cob0nM 本当にこのホイットニーは、素晴らしい。歌も安定し、声もよく出て、音域も広く、声自体につやもあり、声そのものが輝いている。まさに観客は、声と歌そのものに惚れ込めるのだ。デビュー後10年くらいはどのライヴも本当によく歌えていた。 (訂正、アリスタ25周年と当初書きましたが、ご指摘がありました。15周年に訂正いたします。plus-crabさんありがとうございます) +++ ホイットニー、葬儀はプライヴェートで 葬儀。 ホイットニーの葬儀は、2012年2月18日、土曜日、地元ニュージャージーのニュー・ホープ・バプティスト・チャーチで行われることになった。ただし、これは「インヴィテーション・オンリー(招待客のみ)」で一般の参列はできない。家族と友人だけで執り行うという。マイケル、ジェームス・ブラウンなどは、いわゆる「パブリック・ヴィューイング」という一般参列を受け入れたが、今回はそれがないようだ。 ニュー・ホープ・バプティスト教会は、ホイットニーが母シシー・ヒューストンに連れられて通っていた、まさにホイットニーのルーツ中のルーツとも言える教会。まだほんの子供だったホイットニーがここでコーラスを歌い、徐々にソロを歌い、ソロを歌ったところ、参列者から拍手喝采をあびて、自身のシンガーとしての未来を夢見た場所だ。まさに、彼女はこの土曜日、その出発点に帰ることになる。 ++++ 映画『スパークル』、8月全米公開 スパークル。 ホイットニーはすでに今年8月に公開されるブラック・ムーヴィー『スパークル』の撮影などを終えている。これは、1976年、アイリーン・キャラなどが出演してヒットした映画のリメイク。当時のサウンドトラックはカーティス・メイフィールドふぁ担当し、アリーサ・フランクリンが主題歌などを歌った。 今回もホイットニーは、主役ジョーダン・パークスの母親役でキャスティングされており、サウンドトラックでも「セレブレート」という曲とゴスペル曲「ヒズ・アイ・イズ・オン・ザ・スパロー(主は雀を見守り給う)」を歌っている。 この『スパークル』は、ニューヨーク・ハーレムを舞台にしたR&Bグループを巡るストーリー。76年の作品では、シュープリームスのような女性グループをイメージしたストーリーになっていた。 ■ ホイットニーのベスト ザ・グレイテスト・ヒッツ posted with … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 3 Comments

●ホイットニー・ヒューストン続報

●ホイットニー・ヒューストン続報 【Whitney Houston: Update】 搬送。 2012年2月11日、ビヴァリーヒルズのホテルで急死したホイットニー・ヒューストンの遺体が、検死を終わり、故郷ニュージャージーに空路向かう。この輸送に、俳優タイラー・ペリーが自身のプライヴェート・ジェットを提供した、という。 タイラーは11日、ホイットニーの死去が速報で流れるとすぐにビヴァリーヒルズ・ヒルトンに向かい、自家用機の提供を申し出た。現地時間2月13日(月)午後、遺体が空港に到着した後、ニュージャージーに向かう。 ホイットニーの葬儀は今週末か来週にもニュージャージーのどこかで行われるようだ。まだ詳細は発表されていない。 ヒューストンは死去する前、5日以内に2度以上、ビヴァリーヒルズの医師の元を訪れている。 死因はまだ精密な検死結果を待たなければならないが、処方箋による薬とアルコールの相互作用によって死がもたらされたのではないかと推察されている。家族は、バスタブで発見されたが、溺死ではない、と言っている。ホイットニーの肺に水がそれほど多く残っていなかったという検死もそれを裏付ける。 ホイットニーの最後を発見したのは、ホイットニーの叔母メアリー・ジョーンズで、メアリーはホイットニーがパーティーに着て行くためのドレスをベッドに置き、約30分ほど部屋を離れた。しかし、その後もホイットニーがバスルームから出てこないので、そこに入り、横になっていたホイットニーをバスタブから引き出した、という。 また、未確認だが、ヒューストンに薬を処方していた医師はマイケルに薬を処方していた医師と同じだという報道もある。ただし、その場合逮捕されたコンラッド・マリー以外の医師ということになりそうだ。 ホイットニーの愛娘で18歳のボビー・クリスティーナは母の死を知り半狂乱となり、一時期自殺も試みたため、周囲が警戒し、保護しているという。 ボビー・ブラウンはホイットニーの死去を受け、11日、ナッシュヴィルで行われる予定だったニュー・エディションのライヴ出演をキャンセルし、ロスアンジェルスに向かった。ニュー・エディションはボビーなしでライヴを行った。 OBITUARY>Houston, Whitney

Posted in 訃報関連 | Comments Off

● ホイットニー・ヒューストン、48歳で急死

● ホイットニー・ヒューストン、48歳で急死 【Whitney Houston Dies At 48】 訃報。 1980年代に颯爽とデビューし、全米、全世界のスーパースターとなり、日本でも大きな人気を獲得した女性シンガー、ホイットニー・ヒューストンが、2012年2月11日午後、ロスアンジェルス・ビヴァリー・ヒルズ・ヒルトン・ホテルで死去した。緊急連絡が入ったのがロス時間で午後3時22分、救急がホテルの4階の部屋に到着し、蘇生を行ったが、かなわず、午後3時55分(日本時間12日午前8時55分)、死亡が確認された。死因は発表されていない。ただし、犯罪に結びつくものはなにも発見されていない、と発表されている。 ホイットニー・ヒューストンは、この日、しばらく前から、クライヴ・デイヴィスが恒例で行うグラミー賞前夜のパーティーに出席し、歌うために、ホテルに滞在していた。 すでに全米では、マイケル・ジャクソンの訃報と同様のインパクトを持って受け取られ、CNNなどもずっとぶちぬきでこの「スペシャル・ニューズ」を報道した。 翌日に全米音楽業界最大のお祭りグラミー賞が発表されるが、そのショーの中で、急遽、ホイットニー追悼のコーナーが作られ、ジェニファー・ハドソン、シャカ・カーンらが追悼で歌うことになった、という。 11日より二日前の9日、やはりプレ・グラミー・パーティー(ホスト、ケニー・ラティモア)で、ホイットニーはR&Bシンガー、ケリー・プライスと一緒にゴスペル曲「ジーザス・ラヴズ・ミー」を歌っていた。周囲には友人や娘のボビー・クリスティーナもいた。 ラティモアによれば、「彼女は楽しそうにしていた」と言う。 アリーサ・フランクリンは、衝撃を受け、「今は何も言葉にできない。まだ書かれたり、テレビに出ていることなどが信じられない」と短いステートメントを発表。 +++ ホイットニー、29年と19年の光と影 対照的。 現在まで膨大な量のホイットニー・ニューズが流れている。僕自身も、こんな衝撃を受けたのはマイケル以来。しかも、ホイットニーはマイケルの50歳より二つも若い。 ホイットニーの48年の人生を振り返ると、ボビーと結婚する1992年までの29年間とその1992年からの19年間がまるで「光と影」としか言いようがないほど対照的だ。 1980年代、ホイットニーのCD、もしくはカセットで洋楽を知ったという人も多いということが今回よくわかった。 本当に残念でならない。 +++ 昨日の「ソウル・ブレンズ」(インターFM、76.1mhz午後1時~)では、急遽特別編成で、しかも1時間拡大してホイットニー・ヒューストン特集を3時間にわたってお送りしました。 オッシーから午前10時54分、携帯に電話が入り、何事かと思ったら、いきなり電話口で「吉岡さん、大変です。ホイットニーが死にました!」と。僕の最初の答えが「ガセじゃないでしょうね・・・ムニュムニュ・・・」という感じだったが、それまで寝不足でねぼけ眼だった僕も、一気に目が覚め、さっそくネットなどで情報を確認。CDをそろえ、すぐに局に飛んでいった。すると、つく頃には通常枠を1時間延長し、4時までホイットニー特集をするというので、またびっくり。たっぷり、ホイットニー話をしました。 評伝は明日以降、ご紹介します。 +++++ 前回来日時ライヴ評 2010年02月12日(金) ホイットニーは、日本のサポーターに感謝 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100212.html (今回初日2月11日分・ライヴ評=パート1) 2010年02月15日(月) ホイットニー・ヒューストン・ライヴ@さいたまスーパーアリーナ (パート2) http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10459305657.html 2010年02月16日(火) ホイットニー・ヒューストン・ライヴ:  (パート3)~理想のセットリスト http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10460147600.html#main +++ … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 1 Comment

●(速報)ホイットニー・ヒューストン急死、48歳

●(速報)ホイットニー・ヒューストン急死、48歳 【(Breaking News) Whitney Houston Dies At 48】 訃報。 1980年代に全米の音楽シーンに登場し、多数のヒットを放ち、世界的なスーパースターとなった女性シンガー、ホイットニー・ヒューストンが2012年2月11日、ロスアンジェルスで死去した。48歳。ホイットニーは、同日、午後3時過ぎ(LA時=日本時間12日午前8時すぎ)、ビヴァリーヒルズ・ホテルの4階の部屋で倒れているところをボディーガードによって発見された。午後3時22分警察に通報、3時55分、死亡が確認された。死因はまだわからない。CNNなどが特別ニュースとして報道している。WBLSは、ずっとホイットニー作品ばかりを流している。全米では、マイケル・ジャクソンの死去以来の衝撃で受け止められている。 ホイットニー・ヒューストンは1963年8月9日、ニュージャージー州生まれ。母親はゴスペル・シンガーであり、ソウル・シンガーでもあるシシー・ヒューストン。シシーはエルヴィス・プレスリーやアリーサ・フランクリンのバックコーラスなども担当していた。幼少の頃から母親に連れられ、スタジオやライヴなどを見て、早くから音楽業界の期待の星とされた。 1985年2月、クライヴ・デイヴィスのアリスタ・レコードからデビュー。次々とヒットを生み出し、グラミーなども獲得。1992年にはケヴィン・コスナーとの共演映画『ボディーガード』が世界的大ヒットになり、女優としてもその名を決定付けた。同アルバムは、アメリカだけで1000万枚以上売れた。 これまでに、グラミー賞6、エミー賞2、ビルボード音楽賞30、アメリカン・ミュージック・アワード22など多数のアワードを獲得している。 1989年の「ソウル・トレイン・ミュージック・アワード」で出会ったボビー・ブラウンと1992年7月18日結婚。2000年代に入ると、ドラッグなどに手をだし、リハビリなども行っていた。 最新アルバムは、2009年にリリースされた『アイ・ルック・トゥ・ユー』。 2011年9月、ホイットニーは、1976年の映画『スパークル』のリメイク版に出演すると報道された。 +++ アメリカでは翌日(2月12日・日、日本時間13日月曜)、グラミー賞が発表されることになっているが、緊急にホイットニーの追悼を行う、という。ジェニファー・ハドソンらがホイットニーの作品を歌うかもしれない、という。 2月11日夜、グラミー前夜祭が行われる予定になっており、特にクライヴ・デイヴィスの前夜祭は注目されるが、ホイットニーもそれを楽しみにしていた。 +++ 日本には1986年以来多数来日、最後の来日は2010年2月、さいたまスーパー・アリーナと大阪城ホールで公演を行ったが、声の調子などがいまひとつだった。その後行われたオーストラリア公演、ヨーロッパ公演などは一部キャンセルされた。 前回来日時ライヴ評 2010年02月12日(金) ホイットニーは、日本のサポーターに感謝 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100212.html (今回初日2月11日分・ライヴ評=パート1) 2010年02月15日(月) ホイットニー・ヒューストン・ライヴ@さいたまスーパーアリーナ (パート2) http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10459305657.html 2010年02月16日(火) ホイットニー・ヒューストン・ライヴ:  (パート3)~理想のセットリスト http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10460147600.html#main +++ ソウル・サーチャーはホイットニーのデビュー前、1984年7月、カシーフ宅で出会い、その後1989年に正式にインタヴューした。 ■ホイットニー・ヒューストン物語(吉岡正晴訳) ディーヴァ―ホイットニー・ヒューストン物語 posted with amazlet … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 5 Comments

■● 江守藹さん、『ソウル・ブレンズ』に登場~ドン・コーネリアス追悼して語る

■● 江守藹さん、『ソウル・ブレンズ』に登場~ドン・コーネリアス追悼して語る 【Emori Ai Talks About Colleagues Don Cornelius】 生出演。 ソウル・イラストレーター、ソウル・ダンサー、作家でもあり、ブラック・カルチャー、ダンスなどについて詳しい江守藹さんが『ソウル・ブレンズ』に生ゲストで登場。2012年2月1日に亡くなったドン・コーネリアス緊急追悼特集を放送した。いろいろなエピソードを聞かせていただいた。 左から、オッシー、吉岡、江守氏、マーヴィン、ちさと 江守さんは、1999年、日本の商社が権利を獲得した「ソウル・トレイン・プロジェクト」にかかわることになり、ドン・コーネリアスと知り合った。その中で、ラジオ番組や「ソウル・トレイン・カフェ」をお台場に開店など総合的にプロデュース。その開店レセプションが1999年8月末行われ、ドン・コーネリアスが来日。ちょうど偶然そのときに、スティーヴィー・ワンダーがコンサートのために来日していたので、ドンがスティーヴィーに連絡をしたところ、そのレセプションに現れた。 「そのとき、ドンも大きなストレッチ・リムジンで移動してきて、スティーヴィーもすごいリムジンで、そのリムジンが2台並んだところは壮観だったんですよ。あの2台並んだ絵はかっこよかったですよ!」 江守さんも、それより前、初めてロスでドンに会ったときには緊張した。「70年代からずっと『ソウル・トレイン』を見て、育ってきた自分だから、そのあこがれの人に会えるだけで興奮し、緊張した。だが、徐々に時間が経つにつれ打ち解け、カフェで飾るものをたくさん、ちょーだいと言えるまでになった」 そうしてもらってきたもののいくつかをこの日スタジオに持ってきていただいた。「ソウル・トレイン・アワード」のトロフィーのレプリカはしっかりと重かった。 「ソウル・トレインの文化は、音楽、ファッション、すべてにわたっていて、当時はみんながそういうものを取り入れてきた。僕も福生のテイラーで、いわゆる『ソウル・ファッション』のスーツを作ったり、一時期はアフロにしたりした」 「やはり、日本でこれほどブラック・ミュージック、ブラック・カルチャーというのが今のように広まったのは、ヴェトナム戦争が大きかったと思う。これがあったために、多くの黒人兵が日本に滞在して、横須賀や横浜、横田などの基地からみんな週末に六本木のディスコなんかにやってきた。そんな中で、彼らから『ソウル・トレイン』というのがあるんだよ、って教わったりした。そして、これが日本で放送されるようになってからは、かじりついて毎週見てた。当時は録画機がなかったから食い入るように見た。毎週見ていると大体同じようなダンスが何週か踊られるので、最終的には踊れるようになった」 これに、マーヴィンが「僕は富士のベースにいたので、毎週末、金曜の夜富士から六本木に行って、月曜の朝、ほとんど寝ないで、仕事に戻ったなんてやってた」と振り返る。 江守さん。「ソウル・トレインのダンサーたちから人気が出た人もいる。ジョディー・ワトリーやジェフリー・ダニエルズは誰でも知ってると思うけど、ダミタ・ジョー・フリーマン、ドン・キャンベル、スクービー・ドゥー、パトリシア・デイヴィスなんかがいた。ダミタは、第二回の『ソウル・トレイン・ダンサー・コンテスト』の優勝者、翌年かジェームス・ブラウンがゲスト出演したときに、ブラウンの周りでずっと踊ってた。アーティストの周りでずっと踊るというスタイル。そのコンテストの第一回の優勝者がスクービー・ドゥー。スクービー・ドゥーとドン・キャンベルは、ともにロックダンスのオリジネーターだ」 「(ドンを)招聘した商社が、それなりの車とホテルも用意したが、ドンはそれが気に入らなかったようで、自分で長いリムジンと、フォー・シーズンズのスイート・ルームを取っていた」 「(カフェをやるにあたって)ドンに一言だけ言われたのが、ダンスをしっかりやってくれということ。それに対して、大丈夫です、僕もダンサーですから、と応えた」 「日本独自のソウル文化っていうのがあるでしょう。それは、アジアのほかの国や、ヨーロッパにもそういうものはないでしょう。『ソウル・トレイン』が与えた影響も大きい」 『ソウル・トレイン』のテレビ放送第一回でゲスト出演したエディー・ケンドリックス、グラディス・ナイトなどの曲をかけた。 約45分の出演時間だったが、あっという間、いくらでも話が尽きない。 その模様、期間限定でポッドキャストで。冒頭にニュース、途中にCMがあります。トータル59分 『ソウル・ブレンズ~トリビュート・トゥ・ドン・コーネリアス・ウィズ・江守藹』2012年2月5日放送 http://soundcloud.com/soul_searchin/soul-blends-2012-02-05-special +++++ 昼夜逆転。 江守さんと、生放送後、ひさしぶりにお茶。そこでも話は終わらない。 江守さんとは、1970年代から、ソウル、ディスコ関係で知り合い30年以上になる。一緒に『ギャングスター』というソウル雑誌というか、ディスコ雑誌を作ったりしたこともある。これは、10冊までいかないが、数冊発行された。一度ヤフオクかなにかで高い値段がついているのをみたことがある。江守さんは持ってないという。僕は持っているはずだが、どこかの段ボールに入っていると思う。今度しっかり探しておきたい。 彼は2005年2月、大きな手術をし、その年はほとんど仕事もせずに治療に専念した。それ以来、それまでの夜型の生活から昼型の生活に戻し、今では10時には就寝、朝5時には起き、6時朝食、12時ランチ、6時か7時に夕食という、以前とはまったく考えられないような生活スタイルになった。その病気は5年で再発などがなかったため、完治したという。 健康的になり、その秘訣はというと、「ウォーキングとダンス」だという。ダンスの効能について、江守さんはこういう。 「運動をジムにいったりすると、結局、自分をいじめるような闘いでしょう。でも、ダンスは楽しい。踊ってても苦痛にはならない。そうして楽しいことをやっていると、体のあちこちが活性化してよくなるんだと思う」 江守さんとは、以前から日本のソウルの話を本にまとめようということになっていて、そろそろ力をいれてやらないと、と改めてお互い確認しあった。 ■ 江守藹監修DVDについて 江守さんは、ダンスを教える先生用のDVDを作った。↓ http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10867795287.html ■ 江守藹著『黒く踊れ!―ストリートダンサーズ列伝』 … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 4 Comments

● デイヴィッド・ピーストン、54歳で死去

● デイヴィッド・ピーストン、54歳で死去 【Soul Singer David Peaston Dies At 54】 訃報。 ソウル・シンガーとして1980年代後期から人気を集めたデイヴィッド・ピーストンが2012年2月1日(水)ミズーリ州セントルイスで54歳で死去した。死因は糖尿病からの合併症。しばらく前から糖尿病を患い、両足を一部切断、義足をつけていた、という。 デイヴィッド・ピーストンは1957年3月13日セントルイス生まれ。幼少の頃はご多分にもれず教会でゴスペルを歌っていた。その後学校教師となったが、教師のレイオフを機にニューヨークに出て、アポロ・シアターの「アマチュア・ナイト」でビリー・ホリデイの「ゴッド・ブレス・アワ・ラヴ」を歌ったところ大喝采を浴びて、プロへの道が開かれた。その後1989年、「トゥー・ロングス」、バラードの「キャン・アイ」などが大ヒットした。その特徴的なハイ・ヴォイスが独特で、当時は多くのファンを集めた。 デイヴィッド・ピーストンの母マーサ・バスはゴスペル・シンガーで、クララ・ワード・シンガーズの一員、姉のフォンテラ・バスは1965年に「レスキュー・ミー」のR&Bヒットを放っているシンガー。 24年連れ添ったハイスクール時代からの妻、ミッチェルによると「彼は陽の当たらなかった最高のアーティストです。素晴らしいシンガー、父、おじさん、でした」という。 ピーストンはミッチェルと2人の息子によって送られる。 +++ 圧巻。 デイヴィッドのライヴは、ショーケースを1989年に見て圧倒された。すっかり大ファンになったが、彼を見ていると、最近だと、その後『アメリカン・アイドル』から出てスターになったルーベン・スタッダードを思い出す。ルーベンも巨漢で、ハイヴォイス。最初、ルーベンが出てきたとき、このデイヴィッドを思い出したほど。どちらも、実に歌がうまい。糖尿病が原因とのことだが、本当に惜しい人たちが次々に亡くなるのでやるせない。 それにしても、よりによって「ソウル界の大物」ドン・コーネリアスの命日と一緒になってしまい、ほとんど報道されていないが、ご冥福をお祈りする。 +++ (特別寄稿) デイヴィッド・ピーストン・デビュー作、ライナーノーツ。 デイヴィッドのライナーノーツを再掲載します。1989年9月に執筆されたもの。なお、日本盤では久保田利伸さんのライナーとともに掲載されました。表記などは当時のままです。ライナーを読み返したら、当時のことが思い起こされました。ほんとにいいシンガーだったなあ。約23年前のライナーです。まだこの時点では生年月日はわからなかったようですが、それ以外特に書き直すところはないですね。(笑) 当時の興奮ぶりが伝わるというか。(笑)  +++++ ■ デイヴィッド・ピーストン・デビュー Introducing posted with amazlet at 12.02.03 David Peaston Geffen Records (1989-06-20) 売り上げランキング: 38865 Amazon.co.jp … Continue reading

Posted in 訃報関連 | Comments Off

●(続報)「ソウル・トレイン」創始者、ドン・コーネリアス死去の衝撃

●(続報)「ソウル・トレイン」創始者、ドン・コーネリアス死去の衝撃 【Shock Of Don Cornelius’s Death】 衝撃。 テレビ番組『ソウル・トレイン』創始者、ドン・コーネリアス死去のニュースは、世界中に大きな衝撃を与えている。特に、ブラック・ミュージック、ソウル・ミュージック関係者からは、追悼の言葉が絶えない。ジェームス・ブラウン、マイケル・ジャクソンらの死去と同様のショックと受け止められている。 2012年2月2日(木)02時30分00秒 (速報)ドン・コーネリアス死去 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11152771763.html スティーヴィー・ワンダー。「大変な衝撃を受けています。初めて『ソウル・トレイン』でやったのは、『スーパースティション』でした。彼は、僕のキャリアの上でも大変な貢献を果たしています。もちろん、僕だけでなく、音楽とダンスを世に広めたという点で大変な貢献を果たしました。僕は『アメリカン・バンドスタンド』も、『ソウル・トレイン』も「見て」きたので、ドンの死は心が引き裂かれる思いです。多くの音楽番組が、これらを元にして作ってきているのを知っています。僕は、彼がとても優しい人物だと思っています。もちろん彼と毎日いるわけではないので、すべてを知っているわけではありませんが。メモリアルで何を歌いたいかは、家族に任せます。彼らが歌って欲しいという曲を歌います」 日本でラジオ番組『ソウル・トレイン』、さらにお台場に「ソウル・トレイン・カフェ」(ともに1999年)を持ってきたときのプロデューサーで、1960年代からソウル・ミュージック、黒人文化に詳しく自らもダンサーとしても活動してきた江守アイさんと話した。 江守さんは、ドンと2回ロスアンジェルスで、1回はドンが来日したとき、東京でついていた。東京で「ソウル・トレイン・カフェ」を始めるとき、ミーティングでロスで会ったが、最初に会ったときは、あこがれの人で、怖い人という印象だったが、徐々にいろいろな話をして打ち解けてくると、「店で必要なものだったら、なんでも持っていっていい」とまで言ってもらえるようになった。「ソウル・トレイン・ミュージック・アワード」のトロフィーのレプリカ、ビデオ、レコード、ゴールド・レコードなどいろいろな小物などを持ってきて、店内に飾った。 江守さんは言う。「彼と『ソウル・トレイン』が果たしたものは、間違いなく黒人社会の『ランドマーク』ですよ」 また、2001年の「ソウル・トレイン・レディー・アワード」では、ドンが江守氏を招待してくれ、ものすごくいい席を用意してくれた、という。 来日したときは、つきっきりでドンのケアをしたそうだが、そのときに一緒に奥さんと来ていて、それがしばらく前に離婚の話が進んでいた奥さんだったらしい。かなり若い奥さんだったそうだ。 黒人活動家、アル・シャープトン。「彼はソウル・ミュージックとダンスを、それまでになかったような方法で、世界に紹介した。彼はグローバルなレベルでの文化を変革した人物だ」 また、『ソウル・トレイン』には、黒人だけでなく、エルトン・ジョン、デイヴィッド・ボウイなどの白人、また、久保田利伸、イエロー・マジック・オーケストラなどの日本人も出演している。 先週、一緒に食事をしたというクラレンス・エイヴォント(元サセックス・レコード、モータウン・レコード・チェアマン)によると、自殺をうかがわせるものなど何もなく、本当に驚いている。ただ最近発作が起こるので、自身で車を運転するのをやめた、と言っていたという。 テレビ『ソウル・トレイン』のもっとも大きなポイントは、毎回ブラック・アーティストが一組出演し、口パクながら、動く姿を見せていた、点。もうひとつが、ソウル・トレイン・ギャングと呼ばれるダンサーたちが曲にあわせてラインダンスをするシーン。ここでダンスが大変うまいダンサーが注目されるようになったり、新しいダンスが披露され、それが全米に広まったりした。 また、1分間でアルファベットの文字がボードにばらばらに貼られていて、それを何かの単語に正しく置きなおす「スクランブル・ボード」のコーナーも受けていた。 多くの人が、『ソウル・トレイン』を見て、新しいステップを覚えた。当時はビデオで録画するということができなかったため、ほとんどの人が、毎週決まった時間に必ずテレビの前に座り、そのステップをリアル・タイムで覚えた。 ドンが番組を締めるときのいつものキャッチフレーズは、こうだ。“love, peace and soul.”(愛と平和とソウルを) +++ ソーラー・レコード。 テレビ『ソウル・トレイン』のアーティストのブッキングを担当していたのが、ディック・グリフィーという人物で、ディックとドンで1975年、「ソウル・トレイン・レコード」を設立、これが1977年、ドンが手を引き、ディックが単独オウナーとなったときに、社名を「ソーラー・レコード」に変更。ウィスパーズ、ミッドナイトスター、レイクサイドなど多数のヒットを放った。ベイビーフェイスなどもここから出てきた。 ちなみにディック・グリフィーは2010年9月24日に71歳で死去している。 2010年09月29日(水) ディック・グリフィー死去~ソーラー・レコードの生みの親 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10661964556.html ■ソウル・トレインDVDボックス OBITUARY>Cornelius, Don

Posted in 訃報関連 | 1 Comment

●突然の死ということ~川勝正幸さん

●突然の死ということ~川勝正幸さん 【Sudden Passing】 川勝さん。 31日の昼過ぎ、ネットやニュースで編集者の川勝正幸さんの訃報が伝えられた。これも愕然とした。最初、渡辺祐さんのツイートで知った。 川勝さんと知り合ったのは、正確には覚えていないのだが、1993年前後ではないかと思う。ロスで活躍するフォトグラファーに紹介された。そんな中で、何回か食事もしたような記憶がある。その後、彼が渡辺祐さんと編集プロダクション「ドゥ・ザ・モンキー」を一緒に始めていたのを知る。93年だと、すでにドゥ・ザ・モンキーなのかな。僕自身は仕事をご一緒したことはないのだが、カウンター・カルチャーに造詣が深く、いろいろなものを書いたり、編集したり、本を出したりしているのは、存じ上げていた。その仕事ぶりは、作品を見れば尊敬に値するものばかりだ。 しかも、川勝さんの死が、自宅の火事だというから、もうやりきれない。だって、その数時間前まで、ツイッターでつぶやいていたんだから。 川勝さんは1956年11月21日福岡県生まれ。55歳だった。 こう同年代の突然の死が続くと、自分もどうしていいかわからなくなる。健康診断、健康チェックか。普段から規則正しい生活を心がけ、抵抗力をつけよう。やはり、毎朝、ラジオ体操しなきゃ。しかし、事故ではなあ。事故にも気をつけよう。 そして、一般論として人生の終わり方って、病気などでフェードアウトがいいのか、予期せぬ形のぱさっとナイフで切ったようなカットアウトのほうがいいのか、ますますわからなくなる。 ご冥福をお祈りしたい。 ■ 川勝作品は多数。その代表作のひとつ 21世紀のポップ中毒者 posted with amazlet at 12.02.01 川勝 正幸 白夜書房 売り上げランキング: 2444 Amazon.co.jp で詳細を見る ■これ入魂の一作 丘の上のパンク -時代をエディットする男、藤原ヒロシ半生記 posted with amazlet at 12.02.01 川勝 正幸 小学館 売り上げランキング: 394 Amazon.co.jp … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 2 Comments

●(速報)ドン・コーネリアス、75歳で死去 自殺か

●(速報)ドン・コーネリアス、75歳で死去 自殺か 【Don Cornelius Dies At 75: Killed Himself?】 訃報。 1970年代から始まり、大きな人気を得たアメリカの音楽テレビ番組『ソウル・トレイン』を始めたドン・コーネリアスが、2012年2月1日(水)午前4時(日本時間1日午後9時)ごろ、アメリカ・カリフォルニア州シャーマンオークスの自宅で銃で撃たれた状態で発見され、すぐにシーダース・サイナイ病院に運ばれたが4時46分、死亡が確認された。75歳。救急、警察ともに、傷口から自殺とみている。正確な検死報告は後日発表される。 自殺の理由はわからないが、ドン・コーネリアスは、2009年に、妻に離婚を求めていたが、その際の陳述書で「私はもう72歳だ。健康に問題がある。自分が死ぬ前に、この離婚を決めたい」と語っていた。体に問題があったことがひとつの理由かもしれない。妻とは、ドン自身が暴力を振るったりしたことから、不仲が伝えられていた。 クインシー・ジョーンズのコメント。“I am shocked and deeply saddened at the sudden passing of my friend, colleague and business partner Don Cornelius, “Don was a visionary pioneer and a giant in our … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 4 Comments

● エタ・ジェームス、訃報続報~最期の瞬間

● エタ・ジェームス、訃報続報~最期の瞬間 【Etta James News Continues: Final Moments of Etta】 続報。 2012年1月20日(金)、73歳で死去したエタ・ジェームス。その死がアメリカ音楽業界に与えた衝撃は、日本で想像する以上のものだ。 依然、エタ関連のニューズが報道されている。 いくつかエタの人となりを語るコメントもでている。 30年以上マネージャーを務めたルペ・デレオンが言う。「エタ・ジェームスはとてもマネージできない。私は、なんとかマネージャーのようなものだったが」 エタはかなり気難しく、なかなか一筋縄ではいかない人物だった。 エタの影響を受けたシンガーとして、最近ではイギリスのアデルが、そのことを表明している。 アデルは、アリーサ・フランクリンと並んで、エタ・ジェームスをもっとも好きなシンガーとしてあげている。 そしてこう一言。「音楽の辞書の『シンガー』という項目を探せば、彼女たち(アリーサやエタ)の名前があるはずだ」 エタの持ち歌で知られ、ビヨンセもオバマ大統領就任のパーティーで歌った「アット・ラスト」は、元々1941年のグレン・ミラーのヒット。エタのヴァージョンはシングルがリリースされたときは、それほどのヒットにはならなかったが、何年もの歳月を経て、エタの18番になった。 エタの父とされる全米をまたにかけて活躍したビリヤード・プレイヤー、ミネソタ・ファッツは、1961年の映画『ハスラー』のモデルとなった。彼は全米のビリヤード場に行き、次々と勝負をし、すべて勝っていった。ただこのミネソタ・ファッツというのは、映画用の役で、そのモデルとなっているのが、ルドルフ・ワンダーワンという人物。実際は、「ニューヨーク・ファッツ」などと呼ばれていたそうだ。 ■ エタ、最後の瞬間 最期。 エタ・ジェームスには夫、2人の子供、そして、4人の孫がいるという。 そして、エタは、息子のひとりドント・ジェームス(43歳)の胸の中で息を引き取ったそうだ。彼は言う。「確かに大変な一日だったが、とても感謝している。母は僕の腕の中で息を引き取った。母に言うべきことはすべて言った。僕が言っていることが聴こえているかと尋ねると、瞬きをして、すぐに僕を見つめてくれた。それまではしばらくまったく反応がなかったのに。とてもスピリチュアルな瞬間だった。母と一緒にいることが、真の神様からの贈り物のように思えた。僕たちの腕の中で息を引き取る以上のことは考えられなかった」 ドントによると、木曜の夜にはかなり状態は悪くなっていたという。ドントは母にこう言ったという。「あなたを愛してますよ。あなたは素晴らしい母でした。素晴らしい仕事をなしとげました。あなたの7人の孫たちはみなあなたを愛しています。子供たちはみな大丈夫です」 ビヨンセは言う。「エタは私たちの時代のもっとも素晴らしいヴォーカリストの一人です。そのようなクイーンに会うことができ本当に光栄です。彼女の音楽への貢献は生涯続くでしょう。エタ役を演じるということは、私自身に多くのことを教えてくれました。彼女の音楽は私をさらに強力なアーティストへとしてくれるインスピレーションを与えてくれました。彼女が口を開けば、彼女の痛みと偉業が聴こえてきます。彼女はなんのフィルターもかけずに彼女自身の人生の物語を、彼女の感情を深く移入して歌い込むのです。彼女は何物も恐れず、勇気があり、本当に惜しまれます」 エタ・ジェームスの遺作『ザ・ドリーマー』は全米でリリースされたばかりだが、2011年10月の時点でエタは、自分の死期を悟っていたようだ。このアルバムでレコーディングから引退する旨を発表していた。 エタの代表曲でこのところひんぱんにプレイされている「アット・ラスト」は、最近アメリカの結婚式の定番になりつつあるという。 記事AP:Sat Jan 21, 09:38 AM配信(日本時間、22日午後11時38分) http://m.ctv.ca/topstories/20120121/etta-james-death-son-20120121.html ■ 「アット・ラスト」 http://youtu.be/ADDigK8LwyE ■ … Continue reading

Posted in 訃報関連 | Comments Off

● エタ・ジェームス、73歳で死去~波乱万丈のソウル・サーチン人生

● エタ・ジェームス、73歳で死去~波乱万丈のソウル・サーチン人生 【Etta James Dies At 73: The Roller Coaster Soul Searchin Life】 訃報。 1960年代から活躍し多くの女性シンガーに影響を与えたR&Bシンガー、エタ・ジェームスが2012年1月20日(金)朝カリフォルニア州リヴァーサイドの自宅近くの病院で家族らに看取られながら死去した。73歳。最近は白血病などいくつかの病気を患い、感染症も引き起こしていた。認知症、腎臓疾患もあった。ここ10年ほどは体重にも悩まされ、200ポンド(90キロ)近くを落とす手術も受けたという。 エタを見い出し育てた恩師、ジョニー・オーティスも1月17日(火)に90歳で死去。エタはまるでオーティスの後を追うように死去した。エタは41年間連れ添った夫アーティス・ミルズと二人の子供、多くの孫らによって送られる。 エタの死去は、全米メディアでもいち早く報道され、その関心の高さがうかがわれる。 http://www.chicagotribune.com/news/sns-ap-us-obit-etta-james,0,3158505.story http://www.essence.com/2011/12/17/legendary-singer-etta-james-dies-at-age-73/ http://www.nytimes.com/2012/01/21/arts/music/etta-james-singer-dies-at-73.html?_r=1 ■死去を報じるテレビ・ニューズ (0分42秒) http://www.youtube.com/watch?v=EsBrsQe0Vmo ++++ ● エタ・ジェームス~誰にも媚びない生き方 追悼。 こうした中で、エタの最新作のジャケット写真を撮影し、このところエタを間近で撮影していた写真家、アラン・マーサー氏のブログに、すばらしい写真と追悼文が掲載されている。 リンクはこちら。 http://amprofile.blogspot.com/2012/01/etta-james-tribute.html ここでも触れられているが、エタはいわゆる「セレブの世界」には興味がない。自分の楽屋に有名人だからと人をいれることはない。 僕は1992年8月にエタが唯一の来日をしたときに、インタヴューする機会をえた。すでに何度もそのことは書いているが、一番印象的だったのは、頑固一徹で、何者・何物にも媚びないという姿勢だった。マーサー氏の楽屋に有名人をいれて、そこが社交場にはならない、という文章を読んで、まさにそうだろうな、と思った。 もうひとつ印象的だったのは、ホテルの部屋がそんなに明るくなく、けっこう暗かったこと。たぶん、素顔をあまり明るいところで見せたくなかったのだろう。しかし、言葉、ひじょうにストレートで、まさに歯に衣着せぬ物言い、という感じだった。 1989年以降、エタの再評価が始まるが、その後もインタヴューなどを読むと、ストレートに物事を言うのが気持ちよかった。その分、誤解されることも多かったかもしれない。ドラッグのために、自分の人生やキャリアがずたずたになっていることも十分承知している。 彼女は、ブルーズ、R&B、ゴスペル、なんでも歌うが、ジャズ、スタンダードも歌う。思った以上にヴァーサタイル(多様性のある)なシンガーだ。 今回の記事の中で、1992年のLAタイムズのコメントが印象深い。 “A lot of people think the blues … Continue reading

Posted in 訃報関連 | Comments Off

●(速報)エタ・ジェームス73歳で死去

●(速報)エタ・ジェームス73歳で死去 【Queen Of Blues: Etta James Dies At 73】 訃報。 「ブルーズの女王」と呼ばれたブルーズ・シンガー、R&Bシンガー、エタ・ジェームスが長い闘病生活の末、2012年1月20日、ロスアンジェルスの病院で家族らに看取られ、死去した。73歳。白血病、血液感染症を発症し、12月には末期状態になっていることが報道されていた。 ジミー・キャスターに始まり、ジョニー・オーティスからエタ・ジェームスまで、今週はまるで「ソウル・ミュージックが死んだ週」の様相を呈している。あいつぐソウル・ミュージシャン訃報のまとめをブログに。 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11140980319.html ここにジョニー・オーティスの評伝を書いたがそこに、エタの名前も。その矢先のエタ・ジェームスの訃報だ。 エタ・ジェームスは1938年1月25日ロスアンジェルス生まれ。父親が白人の有名なハスラー、ビリヤード・プレイヤーのミネソタ・ファッツだったとされる。黒人としては肌の色が薄かったために、さらに差別を受け苦労。ブルーズ・シンガーとしてシカゴのチェス・レコードでヒットを出す。 ジャニス・ジョプリンは無名時代、エタにあこがれエタのようになりたくて、彼女の元を訪れたが、「もっと魂を込めてソウルを歌わないとだめ」と言われ失意に。その数年後、彼女がデビュー後、再会するとエタは「ソウルを知ったわね」と言ったという。 しかし、エタ自身は、多くのプレッシャーからヘロイン中毒などで苦労。エタの人生は波乱万丈、ソウルサーチンの連続だった。彼女の人生と所属していたチェス・レコードの栄枯盛衰を描いたのが『キャデラック・レコード』でここではビヨンセがエタ役を演じた。この流れもあり2009年1月オバマ大統領就任のパーティーでビヨンセがエタの代表曲「アット・ラスト」を歌った。 日本には1992年8月一度だけ来日。インタヴューした。あのときのことは忘れない。 ご冥福をお祈りしたい。 すでに全米の主要メディアも一斉に報道。 http://www.chicagotribune.com/news/sns-ap-us-obit-etta-james,0,3158505.story http://www.essence.com/2011/12/17/legendary-singer-etta-james-dies-at-age-73/ http://www.youtube.com/watch?v=EsBrsQe0Vmo ■ エタ・ジェームス アット・ラスト http://youtu.be/ADDigK8LwyE ■ アイド・ラーザー・ゴー・ブラインド http://youtu.be/YApNirMC9gM ■ オール・アイ・クド・ドゥ・ワズ・クライ http://youtu.be/0_i-AI61PEo ■ エタのアルバム。「アット・ラスト」収録 グレイテスト・アメリカン・ソングブック posted with amazlet at 12.01.21 エタ・ジェイムス … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 1 Comment

●ソウル界に訃報続く~ジョニー・オーティス、リロイ・テイラー、ウォルター・ゲインズ、ヘンリー・デ

●ソウル界に訃報続く~ジョニー・オーティス、リロイ・テイラー、ウォルター・ゲインズ、ヘンリー・デイヴィス 【Deep Week For Soul Music World】 訃報。 今週、ソウル界に訃報が続いている。 まず、「ゴッドファーザー・オブ・リズム&ブルーズ」として知られるR&Bアーティスト、DJジョニー・オーティスが2012年1月17日(火)、カリフォルニア州オルタディーナの自宅で死去。90歳。「ウィリー・アンド・ザ・ハンド・ジャイヴ」などの大ヒットを1940年代から放った。(下記に評伝) 1970年代に活躍した大型ファンク・グループ、ニューバース/ナイトライターズのベース奏者だったリロイ・“スロー・モーション”・テイラーが1月18日、ケンタッキー州ルイスヴィルで癌のため死去。年齢まだ不明。ニューバースなどのメンバーでありつつ、セッションの仕事もこなし、テンプテーションズの1971年の大ヒット「パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン」の印象的なベース・ラインはこのリロイのもの。 モータウンのヴォーカル・グループ、ジ・オリジナルズのバリトン・シンガー、ウォルター・ゲインズが1月17日午前7時15分、カリフォルニア州グレンデールで妻に看取られながら死去。75歳とみられる。マーヴィン・ゲイがプロデュースした「ベイビー・アイム・フォー・リアル」などの大ヒットがある。同グループは4人だったが、オリジナル・メンバーは3人はすでに死去しており、ゲインズの死去で、オリジナル・メンバー全員が死去したことになる。 大型ファンク・グループ、LTDのベース奏者兼ヴォーカルのヘンリー・デイヴィスが、1月18日前後に死去。年齢まだ不明。LTDは、「バック・イン・ラヴ・アゲイン」などのヒットで有名。ヘンリー・デイヴィスは最近では、LTD再結成や、地元の教会で演奏活動をしていた。 まさに、しばらく前にはジミー・キャスターの訃報もあり、今週はソウル・ミュージック界のディープ・ウィークとなった。 ++++ ●ジョニー・オーティス~「ゴッドファーザー・オブ・リズム&ブルーズ」 評伝。 ジョニー・オーティスは、1921年(大正10年)12月28日カリフォルニア州ヴァレーオ生まれ。本名はジョン・アレキサンダー・ヴェリオテス。黒人と思われがちだが、両親はギリシャからの移民で、生粋のギリシャ人。育った環境(カリフォルニア州バークリー近辺)が黒人が多かったことから、黒人文化に精通し、黒人音楽をプレイするようになった。1939年、ドラマーとして音楽活動を開始、1945年には16人のビッグ・バンドを結成。いわゆるスイングのビッグ・バンドで、さらに、ロスのワッツ地区にライヴ・クラブを経営し始める。このクラブで歌い始めたシンガーに、リトル・エスター・フィリップス、コースターズのロビンズなどがいる。1940年代には、ビッグ・ジョー・マクニーリー、エタ・ジェームス、ビッグ・ママ・ソーントンなどを発掘、レコード・プロデュースなども行った。 キング・レコードの、現在で言うA&Rマンとなり、ジャッキー・ウィルソン、ハンク・バラード、リトル・ウィリー・ジョンなどそうそうたるソウル・シンガー、ブルーズ・シンガーを世に売り出した。 1948年、ジョニー・オーティス・オーケストラで「ザッツ・ユア・ラスト・ブギー」がR&B チャートで10位、続く1950年の「ダブル・クロッシング・ブルーズ」が9週間1位となりブラック・コミュニティーでブレイク。1950年代はコンスタントにヒットを送り出し、1958年、自らの名義で「ウィリー・アンド・ザ・ハンド・ジャイヴ」が大ヒット。これは、ポップ・チャートでも9位を記録、ジョニー・オーティスの代表曲となった。 「ダブル・クロッシング・ブルーズ」 http://youtu.be/eYT0U9lzHkI 「ウィリー・アンド・ザ・ハンド・ジャイヴ」 http://youtu.be/TEeeGMpM_Nk 彼のビッグ・バンドは、通常のビッグ・バンド・ジャズの要素に加え、ゴスペルの要素、ブルーズの要素などを加えた独特のものとなり、黒人色が強くなった。これは1955年のロックン・ロール誕生に少なからず影響を与えたとされる。 ヒット曲「ウィリー…」は、1974年、エリック・クラプトンによってカヴァーされ、現在ではクラプトンの持ち歌としてよく知られる。その後、楽曲自体も「ロックン・ロール殿堂」入りしている。また、オーティスが1952年に書いた「エヴリ・ビート・オブ・マイ・ハート」は、グラディス・ナイト&ザ・ピップスも録音しヒットさせている。 また、彼が1952年ビッグ・ママ・ソーントンに書いた「ハウンド・ドッグ」は、その4年後の1956年エルヴィス・プレスリーによってカヴァーされ、大ヒットし、ロックン・ロールの幕を開けることになる。 1950年にR&Bチャートで9週間1位。「ダブル・クロッシング・ブルーズ」(ジョニー・オーティス、リトル・エスター) 1970年代に活躍するリズム&ブルーズ系アーティスト、シュギー・オーティスの父にあたる。シュギー・オーティスは、1976年、ブラザーズ・ジョンソンに「ストロベリー・レター23」のヒットを提供。 こうしたブラック・ミュージックへの貢献から彼は「ゴッドファーザー・オブ・リズム&ブルーズ」と呼ばれるようになる。 彼を恩人とするエタ・ジェームスは、1994年、オーティス本人が「ロックン・ロール殿堂」入りするときに、自身の「グル」(恩師、師)と称えた。 また、1950年代からラジオDJ(KFOX局など)を、また1954年から1961年までテレビ番組のホストしていたが、1980年代から2005年頃までKPFA局で『ザ・ジョニー・オーティス・ショー』という週一のR&B中心のラジオ番組のDJを担当していた。多くの番組は、インディアナ大学にアーカイブとして残されている。 最近では、サンフランシスコ郊外に牧場を買い、コーヒー・ショップや、ライヴ・クラブなどを経営していた。 彼はミュージシャン、ソングライターだけでなく、政治的活動家、牧師であり、作家であり、晩年はオーガニック農業家だった。近年、教会を作り、牧師となり、ホームレスに食事を与えたり、チャリティーの仕事にも熱心にかかわっていた。 彼の黒人音楽・文化への傾注ぶりを表わす有名な言葉がこれだ。「遺伝子的には完璧にギリシャ人だが、心境的、環境的、文化的に、自分はブラック・コミュニティーの一員であることを選んだ」。“Genetically, I’m pure Greek, Psychologically, … Continue reading

Posted in 訃報関連 | Comments Off

●ジミー・キャスター~ファンク・レジェンド~71歳で死去

●ジミー・キャスター~ファンク・レジェンド~71歳で死去 【Funk Legend Jimmy Castor Dies At 68】 訃報。 ファンク・レジェンドの一人、ジミー・キャスターが2012年1月16日午後2時半(西部時間帯=日本時間17日午前7時半)、ラス・ヴェガスの病院で死去した。71歳。(ウィキペディアでは当初1947年生まれと書かれており、それを元に64歳と報じているものが多いが、バイオを精査するとおそらく間違い。ソウルサーチンでは第一報で1943年生まれを取っていたが、今回の死去で、1940年生まれだということがわかった=2012年1月19日午前4時現在・修正) しばらく癌を患っていた。ジミー・キャスターは1940年6月22日ニューヨーク生まれ。最初はドゥーワップ・グループで活動、その後サックスなども吹くようになり、マルチ・ミュージシャンへ。1972年、ファンク曲「トログロダイト」が初のミリオン・セラーになり、一躍メジャーな存在に。同年の「イッツ・ジャスト・ビガン」は、その後ヒップ・ホップ・アーティストにサンプリングされたりして有名になった。 「イッツ・ジャスト・ビガン」は1983年4月公開の映画『フラッシュダンス』内でも使用された。 http://youtu.be/Q3ZNFGE8PZE Jimmy Castor: It’s Just Begun http://youtu.be/1P0fpBgzuws 評伝。 ジミー・キャスターは、1940年6月22日ニューヨーク生まれ。当初は、ドゥーワップを歌い始めた。ニューヨークで一足先に人気となっていたフランキー・ライモン(1942年9月30日生まれ~1968年2月27日、ドラッグ・オーヴァードーズのため25歳で死去)&ティーンエイジャーズ(1956年2月から「ホワイ・ドゥ・フールズ・フォーリン・イン・ラヴ」=「恋は曲者」がヒット)らと同郷、ほぼ同年代で、彼らに「アイ・プロミス・トゥ・リメンバー」(1956年)を書いたのが最初のヒット。(もし、1947年生まれだと、これを書いたのが8歳か9歳ということになり、さすがに計算があわない) これはソウル・チャートで10位。彼はまだニューヨークのミュージック・アンド・アーツ・ハイスクールに在学中だった。その後、フランキー・ライモンの急逝後、一時期このティーンエイジャーズにフランキーに代わって参加。 高校卒業後、ニューヨーク・シティー・カレッジに進学、バンド活動も続けた。1966年、スマッシュ・レーベルからリリースした「ヘイ・リロイ、ユア・ママ・イズ・コーリング・ユー」がソウル・チャートで16位を記録。そして1972年、グループ「ジミー・キャスター・バンチ」を結成、メジャーのRCAと契約し大ブレイク。コミカルでファンキーな「トログロダイト」がソウルで4位、ポップで6位を記録、ミリオン・セラーとなる大ヒットになった。 ちょうどこの頃録音した「イッツ・ジャスト・ビガン」はシングル・ヒットこそしなかったが、その後、映画『フラッシュダンス』で使用されたり、多くのヒップ・ホップ・アーティストにサンプリングされたりして、ジミー・キャスターの代名詞となった。「イッツ・ジャスト・ビガン」も「トログロダイト」もそれぞれ10以上のヒップ・ホップ・アーティストがサンプリングで使用している。前者はブレイク・ビーツの代表作。後者は最近では、2006年、クリスティーナ・アギレラが「バック・イン・ザ・デイ」で使用。 ちなみに、この「イッツ・ジャスト・ビガン」が使用されている映画『フラッシュダンス』のシーン(上記ユーチューブ参照)だが、ここですでにストリート・ダンスで「ムーン・ウォーク」的なダンスが見られる。マイケル・ジャクソンが『モータウン25』で初めて「ムーン・ウォーク」(当時はまだ「ムーン・ウォーク」という名前はなく、「バック・スライド」などと呼ばれていた)を披露するのが、1983年3月25日(テレビ放映は1983年5月16日)。映画『フラッシュダンス』の公開は1983年4月15日なので、マイケルはこの『フラッシュダンス』は見ていないと思われる。ちょうどこの頃、うしろにスライドするステップはニューヨーク近辺のティーンたちの間で流行っていたダンスということはご存知の通り。 RCAで3枚のアルバムをリリース後、1975年、アトランティックに移籍。ここで「バーサ・バット・ザ・ブギー」「キング・コング」「Eマン・ブギー」など恐竜、キング・コングなどコミック的キャラクターを全面に押し出しつつ、ファンクを聴かせる独特のサウンドで人気を集めた。 その後もコンスタントにヒットを出し、最後のヒットは1988年「ラヴ・メイクス・ア・ウーマン」。ジョイス・シムズの作品に客演していた。 最近はラスヴェガスに住んでいた。第一報は、ジミーの孫のツイートで流れた。 ■ 主なヒット収録のベスト Everything Man posted with amazlet at 12.01.17 Jimmy Castor Rhino / Wea … Continue reading

Posted in 訃報関連 | Comments Off

● 2011年死去したアーティスト

● 2011年死去したアーティスト 【2011 Obituary : Your Soul Forever】 訃報。 2011年も多くの訃報が届いた。この「ソウル・サーチン」でご紹介した訃報およびその関連記事をまとめました。改めて、ご冥福をお祈りしたいと思います。なお、ブログで書けなかったもので、ツイッターでご紹介したものもここにまとめました。来月のグラミー賞授賞式でも、これらのアーティストたちが追悼されると思います。なお下記日時は死亡日を書いたもの以外は、ブログのアップ日で、死去日ではありませんのでご注意ください。 2011年01月08日(土) ボニーMのボビー・ファレル死去~フランク・ファリアンの成功の影で http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20110108.html 2011年01月10日(月) ラリー・ハンコック死去~元S.O.U.L.、トゥルース http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20110110.html 2011年01月13日(木) スティーヴ・マンチャ死去~100プルーフなどデトロイト・ソウル・シーンで活躍 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20110113.html 伝説の音楽業界人ドン・カーシュナー、2011年1月17日(月)フロリダ州で死去。76歳。(77説も)音楽出版社アルドン・ミュージックで、キャロル・キング、ジェリー・ゴーフィン、バリー・マン&シンシア・ワイルなどの作品を多数ヒットさせた。 http://bit.ly/dEm03V 2011年01月15日(土) バーナード・ウィルソン(ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ)死去 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20110115.html マーヴェレッツのリード・シンガー、グラディス・ホートン、カリフォルニアで2011年1月26日死去。66歳。http://bit.ly/g3Ppgc カーペンターズでもヒットした「プリーズ・ミスター・ポストマン」などの大ヒットで有名。モータウン初期の人気グループ。 ロック・ギタリスト、ゲイリー・ムーア2011年2月6日日曜スペインで死去、58歳。シンリジーからソロへ。最近はブルーズにも傾注。http://bbc.in/dM3RFp 2010年4月が最後の来日。 盲目のジャズ・ピアニスト、ジョージ・シアリング2011年2月14日死去。91歳。http://bit.ly/dQhNyE ロンドン生まれ、ニューヨーク在住。作曲した「ララバイ・オブ・バードランド(バードランドの子守唄)」が有名。 ファンク・グループ、スレイヴのベース奏者、マーク・レスリー・アダムズが2011年3月5日朝、オハイオ州コロンバスで死去。51歳。葬儀は11日、同地で。http://bit.ly/hJQm2P 51歳だったとは。若さに絶句。 坂上二郎さん、2011年3月10日栃木県の病院で死去、76歳。 http://bit.ly/eb85SJ Gファンク、ラップ・アーティスト、ネイト・ドッグ2011年3月15日カリフォルニア州ロングビーチで死去。41歳。死因などは不明。ただ以前から心臓発作などを起こしていた。一報は地元のテレグラム紙。http://bit.ly/i2mGup 女優、エリザベス・テイラー2011年3月23日ロスアンジェルスの病院で死去。うっ血性心不全のため。79歳。http://bit.ly/gPzzvI マイケル・ジャクソンと親交が深かった。 2011年03月24日(木) ロリータ・ハロウェイ、64歳で死去~ソウル・ディスコ・ディーヴァ http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20110324.html 2011年04月01日(金) マーヴィン・ゲイ命日~エイプリル・フールの衝撃 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20110401.html 日本では5日になってしまいましたが、4月4日はマーチン・ルーサー・キングの命日でした。Martin Luther King, … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 2 Comments

●12月25日はジェームス・ブラウンの命日~ソウル界のキリストが死んだ日

●12月25日はジェームス・ブラウンの命日~ソウル界のキリストが死んだ日 【December 25: The Day The Godfather Died】 命日。 「ゴッド・ファーザー・オブ・ソウル」ことジェームス・ブラウンが亡くなってはや5年が経つ。2006年12月25日が命日だ。日本にニュースが伝わったのは、25日午後。いやあ、驚いた。まさかと思った。 2006年3月にジェームス・ブラウンは来日、結果的にこれが最後の来日となってしまうのだが、その最終日、ミスター・ブラウンは珍しく弱気なメッセージをステージで語っていた。「彼とは(ドン勝本氏のこと)もう、35年来の友人だ。私は、日本にも何度もやってきた。世界中に旅をした。だが、私は再びこの日本に戻ってこれるかどうかわからない。けれども、みなさんのことを愛してます」 僕は東京で行われた2日間のライヴを観戦し、このメッセージには少し驚いたが、まだまだできるものと思っていた。ところが、その数日後、ミスター・ブラウンが車椅子で移動していたことを知り、愕然とした。そのときの模様は次のブログに書いた。 March 12, 2006 Was This James Brown’s Final Japanese Tour? 【ジェームス・ブラウンの今回の日本ツアーは最後だったのか】 (明かされた衝撃の新事実。これが現実になってしまいました) http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200603/2006_03_12.html ジェームス・ブラウンとはたくさんの思い出がある。そのいくつかはブログに書いてきた。死去5周年ということで、まとめてみたい。 ■ ジェームス・ブラウン過去関連記事 December 26, 2006 James Brown Dies At 73 http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200612/2006_12_26.html December 27, 2006 James … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 1 Comment

●ラルフ・マクドナルド、67歳で死去、セザリオ・エヴォラ、71歳で死去

●ラルフ・マクドナルド、67歳で死去、セザリオ・エヴォラ、71歳で死去 【Ralph MacDonald Dies At 67, Cesaria Evora Dies At 70】 訃報。 訃報が2つあいついだ。ひとつがカーボ・ヴェルデ共和国出身の魂のシンガー、「裸足のディーヴァ」として知られるセザリア・エヴォラ、次がニューヨークのパーカッション奏者、ラルフ・マクドナルド。それぞれの歩みを簡単に紹介する。 ++++ ラルフ・マクドナルド、肺癌。 ニューヨークのパーカッション奏者、ラルフ・マクドナルドが2011年12月18日午前0時50分(日本時間18日午後2時50分)、コネチカット州スタンフォードで死去した。肺癌を患っていた。67歳。ミュージシャン仲間のウィル・リー、音楽ジャーナリストのA・スコット・ギャロウェイらが報じている。 ラルフ・マクドナルドは、1944年3月15日、ニューヨーク・ハーレム生まれ。両親はトリニダッド出身。父親が「マクベス・ザ・ビート」と名乗るドラマー、ミュージシャンだったこともあり、幼少の頃から父のバンドでパーカッションを叩き始めていた。スチール・ドラムが得意で、17歳(1961年)でハリー・ベラフォンテのバンドに参加。その間、ベラフォンテの1966年のアルバム『カリプソ・カーニヴァル』の制作にも手を貸した。1971年、ベラフォンテ・バンドを脱退後、友人のウィリアム・イートン、ビル・ソルターとともに音楽出版社「アンティシアAntisia」を設立。作曲活動を行う一方、ニューヨークをベースにライヴ、レコーディングなどで活躍。ラルフとイートンが書いた「ホエア・イズ・ザ・ラヴ」をロバータ・フラック&ダニー・ハサウェイが歌い、これが1972年6月から大ヒット。さらに、1980年、グローヴァー・ワシントン名義で大ヒットした「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」(歌はビル・ウィザース)などを書いている。前者は19ヶ国語、150以上のヴァージョンが録音されたという。ロバータの「キリング・ミー・ソフトリー」でもパーカッションをプレイしている。ルー・ロウルズのヒットでロッド・スチュワートもカヴァーした「トレイド・ウィンズ」も彼の作品。グローヴァー・ワシントンの「ミスター・マジック」も共作。 レコーディングは、一説には数百枚のアルバムに参加したとも言われる。パーカッション奏者として、ジョージ・ベンソン、デイヴィッド・ボウイ、アレサ・フランクリン、アート・ガーファンクル、ビリー・ジョエル、クインシー・ジョーンズ、キャロル・キング、デイヴィッド・サンボーン、ルーサー・ヴァンドロス、エイミー・ワインハウスなど多数。また、ラルフは1990年代から、カントリー系のシンガー、ジミー・バフェットのバンド、コーラル・リーファー・バンドの一員ともなっていた。 1976年、フロリダのTKレコード傘下、マーリン・レーベルから『サウンド・オブ・ドラム』をリリース以降、自身名義のアルバムも多数出しており、その中でも「カリプソ・ブレイクダウン」は映画『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』(1977年11月リリース)のサウンドトラックに収録されよく知られる存在となった。 プロデュース活動も行い、ボビー・ハンフリーのアルバム、エリック・ゲイルのアルバム『パート・オブ・ユー』、渡辺貞夫などの作品もてがけている。 グラミー賞も3回受賞している。 ちなみに、盟友グローヴァー・ワシントン・ジュニアは、1999年12月17日、56歳で急死している。ラルフの死亡は深夜12時を過ぎたため日付は12月18日だが、奇しくもほぼ12年後に亡くなったことになる。 サポート・メンバー、自己名義でも何度も来日しており、直近では2010年6月、グローヴァー・ワシントン・トリビュート・ライヴのためブルーノート東京でライヴ・パフォーマンスを見せていた。 2010年06月16日(水) グローヴァー・ワシントン・トリビュート・ライヴ~グルーヴでグローヴァー http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10564387418.html ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス、誕生秘話 2005/02/18 (Fri) Poster For Two Caribbean Islands http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200502/diary20050218.html 2000年来日時のインタヴューを元にした記事。 カリプソ・ブレイクダウン http://youtu.be/P1qqTPN8sUo ソロ・パフォーマンス http://youtu.be/94oL1e7YG5I … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 3 Comments

●ドビー・グレイ71歳で死去~「ドリフト・アウェイ」の大ヒット

●ドビー・グレイ71歳で死去~「ドリフト・アウェイ」の大ヒット 【Dobie Gray Drifted Away At 71】 訃報。 ポップ、カントリー、ソウルなどを歌ったシンガー、ドビー・グレイが2011年12月6日、ナッシュヴィルの自宅で死去した。71歳。就寝中にそのまま死去したという。長く癌を患っていた。本人の公式ウェッブでも公表された。これを追い、各メディアも報じている。(一部報道で69歳とあるが、これは間違い) 彼は結婚しておらず、子供がいない。グレイの遺産は、テネシー州メンフィスのセント・ジュール・チルドレンズ・リサーチ病院に寄贈されるという。 ドビー・グレイの2大ヒットは、1965年の「ジ・イン・クラウド」と1973年の「ドリフト・アウェイ(邦題:明日なきさすらい)」。前者はジャズ・ピアニスト、ラムゼイ・ルイスがカヴァーし、ルイスのものでもヒットした。また、後者はレイ・チャールズ、ハンブル・パイ、ロッド・スチュワート、ネヴィル・ブラザーズ、マイケル・ボルトン、リンゴ・スターなど多くのカヴァーが録音され、クラシック・ソングとして多くの人に親しまれている。1973年にキース・リチャーズ以外のローリング・ストーンズが参加し録音したヴァージョンもあるという。 この曲は元々メンター・ウィリアムス(ポール・ウィリアムスの兄弟。ポールはカーペンターズの「ウィヴ・オンリー・ジャスト・ビガン」などを書いたソングライター)というソングライターが書き、1972年にヘンリー・カーツというシンガーが録音した。その後1973年、ドビー・グレイが録音し、彼の物でポップ・チャート・トップ10入り最高位5位を記録する大ヒットになった。同じ年、カントリー・シンガー、ナーヴェル・フェルツも録音し、カントリー・チャートで8位を記録。また、2003年にラッパーのアンクル・クラッカーがこれを録音。その曲の最後の部分にドビー・グレイ自身も入ってレコーディングしている。これはポップ・チャートで9位を記録した。この作品はそのメッセージから、番組のエンディングや、何かが終わるときなどにしばしば使われるようになった。ライヴではアンコール・ソングとして歌われることも多い。 評伝。 ドビー・グレイは、1940年7月26日、テキサス州ヒューストン近くの生まれ。幼い頃から教会でゴスペルに親しんだ。1960年、ロスアンジェルスに移住。地元で歌手活動を始めローカルのインディ・レーベルからいくつかレコードをリリース。 最初の成功らしい成功は1963年の7枚目のシングル「ルック・アット・ミー」がコー・ダック・レコードからリリースされ小ヒットしたとき。このベースはロスを本拠に活躍していたセッション・ベース奏者、キャロル・ケイだという。その後1965年、ビリー・ページが書いた「ジ・イン・クラウド」をビリーの兄弟、ジーン・ページのアレンジでレコーディングしたところ、ヒット。これをラムゼイ・ルイスがカヴァーし、さらにヒットとなった。 1972年、デッカ・レコードと契約。プロデューサー、メンター・ウィリアムスのもとでアルバムを制作。ここにメンターの書いた「ドリフト・アウェイ」があった。メンターは、白人のシンガー・ソングライター、ポール・ウィリアムスの兄弟。その後、「ラヴィング・アームズ」などもヒットした。 カントリー調の曲調ながら、ソウルフルな歌声を聴かせるという点でひじょうにユニークで味わいのあるシンガーだった。 彼の音楽がカントリーと接点があったことから、彼が書いた曲をカントリー・シンガーが歌うことも多かった。チャーリー・プライド、タミー・ワイネットらもドビーの作品を録音している。 まさに「ドリフト・アウェイ」のように彼は人生に幕を下ろした。 ご冥福をお祈りします。 トリビュートの意味もこめて、僕も個人的に大好きだった「ドリフト・アウェイ」の訳詞をおおくりします。 http://youtu.be/zaPnOASOWIU ベスト~ドビー・グレイ Drift Away/Loving Arms posted with amazlet at 11.12.08 Dobie Gray Raven [Australia] (2011-03-08) 売り上げランキング: 200368 Amazon.co.jp で詳細を見る 廉価版、曲数すくなめ … Continue reading

Posted in 訃報関連 | Comments Off

● R&Bシンガー、ハワード・テイト72歳で死去

● R&Bシンガー、ハワード・テイト72歳で死去 【R&B Singer Howard Tate Dies At 72】 訃報。 1960年代にフィラデルフィアをベースに活躍したR&B、ソウル・シンガー、ハワード・テイトが2011年12月2日死去した。72歳。多発性骨髄腫と白血病のためだという。このところずっと体調が悪かった。60年代に「エイント・ノーバディー・ホーム」などのヒットを出したが、80年代から音楽活動から事実上引退。2001年、復活ライヴを行い、2003年アルバムをリリースしカンバック。ジャニス・ジョプリンが「ゲット・イット・ホワイル・ユー・キャン」、ジミ・ヘンドリックスが「ストップ」をカヴァーしている。ソウルフルな歌声が魅力的な素晴らしいソウル・シンガーの一人だった。 ~~~ 評伝。 ハワード・テイトは、1939年8月14日ジョージア州メイコン近くの生まれ。父が牧師だったことから子供の頃より教会でゴスペルを歌っていた。1940年代にフィラデルフィアに移住。当時の彼にとってのお気に入りは、ディキシー・ハミングバーズ、ソウル・スターラーズといったゴスペル界のスターたち。8歳の頃、父親の勧めで教会で歌い始める。十代になると、後にR&Bシンガーとして名を成すガーネット・ミムズらと知り合い、ガーネットと組んだヴォーカル・グループでは、マーキュリー、キャメオ・レコードでレコーディングも経験。その後、ハワードはビル・ドゲットのツアーに出た。 ガーネットと組んだジ・エンチャンターズは、フィラデルフィアのプロデューサー、ジェリー・ラゴヴォイの元でレコーディング。ヴァーヴからリリースされた作品群は、ニューヨークで録音され、リチャード・ティー、エリック・ゲイル、チャック・レイニーらが参加している。「エイント・ノーバディー・ホーム」(1966年)、「ルック・アット・グラニー・ラン・ラン」(1966年)、「ストップ」(1968年)などがヒット。一時期はオーティス・レディング、サム・クックらの後継とも騒がれたほどの実力派シンガーだった。ただ、ジェリーとの作品はどれも素晴らしかったが、お金の面でちょっとしたトラブルがあった。 ■エイント・ノーバディー・ホーム http://youtu.be/sYWJczQ-5QU ジャニス・ジョプリンが「ゲット・イット・ホワイル・ユー・キャン」を録音。その後、ハワードはターンテーブル、アトランティック、エピックなどで作品を残したがR&B部門ではそこそこのヒットにはなり、評論家筋から高い評価を得るものの、一般的な大ヒットには恵まれなかった。 どん底。 彼はいくつかのレコード会社を転々とするが、1969年、ハロルド・ローガンという人物が経営するターンテーブル・レコードと契約。これが彼のつまづきの第一歩だった。ハワードは、「人生最悪の決断だった」とこの時代を振り返る。レコードの印税ももらえないだけでなく、彼らがギャングスターたちと関係していたことから、「悪い連中」とのつきあいが始まってしまったのだ。 そして、それに比べれば、ジェリーとの些細な金銭問題など大事ではなかった。彼らと手を切り、またハワードはジェリーとともにレコードを作るようになる。 しかし、それでもヒットには恵まれず、さらに、1976年、彼に悲劇が起こる。自宅が火事になり彼や他のファミリーは難を逃れたが13歳の娘を失うのだ。 ハワードは70年代後期から、歌手活動を諦め、ニュージャージー、フィラデルフィア近辺で家族を養うためプルーデンシャル社の保険販売員などの仕事をして、音楽業界から消えた。彼は過去のシンガーとしてのキャリアについて一切人に言うことなく、普通に仕事をしていた。しかし、1981年には離婚。娘を失ったこと、離婚などのために、自暴自棄になり、ドラッグにはまり、仕事も失い、ホームレス同様になってしまう。 まさに彼の人生はどん底だった。 ところが、1994年のある日、彼は神の声を聞く。「汝に私の声を人々に伝えて欲しい」と。それは彼にとっての神の声だった。ずっとゴスペルを歌い、神のメッセージを聞いてきた彼はその声に耳を傾け、心を入れ替え、人生をやり直す。なんと今度は牧師となり、ドラッグ中毒者などにアドヴァイスをするようになった。 再発見。 生活を180度変えたハワードの人生は、徐々に良い方向に向かい始めていた。 その声を聞いてから6年ほど経った2000年頃、ニュージャージーのラジオDJでハワードのファンだったフィル・キャスデンが、ハワードの古い作品をかけながら、「このスターはどこに行ったか、情報を持っている方はお寄せください」と行方を捜していた。すると、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツのメンバー、ロン・ケネディーがニュージャージー州ウィリングボローのスーパーマーケットでハワードと遭遇。「どこにいるのだ」と聞くと「どこにもいない」と答え、DJが君を捜しているという話になり、連絡先を交換した。これが2001年1月1日のことだったという。 一方、プロデューサーのジェリー・ラゴヴォイは1990年頃から世界中からハワード・テイトの消息について問い合わせを受けるようになっていた。ジェリーもハワードのことを捜すが、まったく探し出すことが出来ず、彼が死んだものと思っていた。そんなとき、ロンドンのジャーナリスト、ポール・ムーニーがハワードについて質問をしてきた。ジェリーは「もう10年以上も会っていない。消息が不明だ」というと、そのジャーナリストは「前日に電話で話した」という。そこで電話番号をもらい、ジェリーは早速、ハワードに連絡を取った。やはり、2001年頃のことだ。20年ぶりくらいの再会は感動的だったという。 ポールがインターネットで「ハワード・テイトを発見」と流したところ、ヨーロッパ中のブッキング・エージェントなどから電話やインタヴューの申し込みが殺到した。 そして、それからわずか6ヵ月後に、ハワードは何十年ぶりにニューヨークのライヴ・ハウスで人前で歌った。さらに、かつてのプロデューサー、ジェリー・ラゴヴォイと手を組み、レコーディングを開始、これが2003年暮れにリリースされた。 そのタイトルは『リディスカヴァード』(再発見)。まさに再発見された。ここで、自身のヒット「ゲット・イット・ホワイル・ユー・キャン」をセルフカヴァー。その歌声は20年近く実際にプロとして歌ってこなかったシンガーとは思えぬほど、はつらつとしたものだった。 以後はコンスタントにライヴ活動、レコーディングなどをしていた。 2003年12月、東京・新宿のパークタワー・ブルーズ・フェスティヴァル出演で来日。これが唯一の来日。 ハワードのプロデューサー、ジェリー・ラゴヴォイは2011年7月13日80歳で逝去。ジェリーのわずか5ヶ月後、ハワードは後を追うように亡くなったことになる。 ハワードのストーリーもまさにソウル・サーチンの連続だ。 ■ ハワード・テイトが静かに熱く歌う「ルイジアナ1927」 2005年に行われた「第26回ロングビーチ・ブルーズ・フェスティヴァル」でのライヴ。ハリケーン・カントリーナの犠牲者へ捧げたライヴ・パフォーマンス。オリジナルはランディ・ニューマン。本当に、引退していたとは思えない素晴らしい感動的歌声だ。 http://youtu.be/uZ9UO-Er_bw … Continue reading

Posted in 訃報関連 | Comments Off

●Jブラックフット65歳で死去

●Jブラックフット65歳で死去 【J. Blackfoot Dies At 65】 訃報。 ソウル、ブルーズを歌ってきたシンガーで、元ソウル・チルドレンのリード・シンガーのひとり、J.ブラックフットが2011年11月30日、メンフィス近くのメソジスト・ジャーマンタウン病院で死去した。65歳。癌を患っていた。 長くスタックスの名門ヴォーカル・グループ、ソウル・チルドレンのリード・シンガーとして活躍、1972年の『ワッツタックス』にも登場している。1983年グループからソロに転じ、同年11月からJブラックフット名義で「タクシー」の大ヒットを放った。以後はソロ・シンガーとして活動していたが、ソウル・チルドレン・メンバーとの活動もあった。 2001年3月、チョコレート・クリーム・プロダクションの招きで、六本木スイート・ベイジルでソウル・チルドレンのノーマン・ウェストとライヴを行っている。 「タクシー」を含むアルバム『シティー・スリッカー』のジャケットは、日本では「渋谷の交差点をイメージした」などと話題になった。また、「タクシー」は、日本では鈴木聖美、大澤誉志幸、久保田利伸らがライヴなどでもカヴァー、イギリスのブライアン・フェリーもカヴァーしている。鈴木雅之は、大澤がステージで歌う「ドント・テイク・マイ・サンシャイン」のコーラスをいれたりしていた。 +++++ 評伝。 Jブラックフットは、本名ジョン・コルバート、1946年11月20日ミシシッピー州グリーヴィルに生まれた。2歳でメンフィスに移住。周囲からは、「J」と呼ばれていたが、メンフィスに来た当初は、裸足で歩道などを歩いていて、足が黒く汚れていたために、「ブラックフット」(黒い足)というニックネームがついていた。不良仲間との自動車窃盗で一時期テネシー州の刑務所にいたが、ここでソウル・ヴォーカル・グループのメンバーになり、レコーディングを経験。1965年出所。その後メンフィスの名門ソウル・レーベル、スタックス・レコードの向かいにある酒屋近くで歌っているところを、スタックス・レコードのソングライター、デイヴィッド・ポーターに見出され、1967年頃からスタックスに出入りするようになった。その頃、デイヴィッド・ポーターは、オーティスにジョンを勉強させるために、しばらくツアーに連れて行ってくれないかと頼んだが、飛行機の定員に余裕がなかったことなどのため、それは実現しなかった。しかし、そのツアーのさなか、オーティスとバック・バンドのバーケイズは、1967年12月10日飛行機事故で死去した。その後、ジョンはバーケイズのリード・シンガーに抜擢された。 1968年、スタックスから売れっ子のサム&デイヴがアトランティックに移籍したため、デイヴィッド・ポーターとアイザック・ヘイズのプロダクション・チームは、その後釜を狙うべくグループを作ることにした。しかし、デュオでは、そのままなので、彼らは男女2人ずつの4人組ソウル・グループを結成することにし、J(ジョン)・ブラックフットに声をかけ、ジョンは加入。これがノーマン・ウェスト、アニタ・ルイス、シェルブラ・ベネットとでソウル・チルドレンとなった。ソウル・チルドレンは4人がリードを取れる実力派グループとして頭角を現し、1972年「ヒアセイ」、73年「アイル・ビー・ジ・アザー・ウーマン」などがヒット、スタックスを代表するソウル・グループとなった。 1976年、スタックスの倒産などを受け、グループは1979年に解散。メンバーはそれぞれソロ活動に。1983年、スタックス時代に仕事をしたホーマー・バンクスが新たに設立したサウンドタウンと契約し、「タクシー」の大ヒットを放った。これは、元々はジョニー・テイラー用に書かれた作品だったが、ジョニーはレコーディングしなかったという。ここで数枚作品を出した後、やはり元スタックスのアル・ベルが設立したエッジ・レコードに移籍、1987年、「ティア・ジャーカー」がヒット。ソロとしても10枚近くのアルバムを出している。 2007年、ブラックフットとノーマン・ウェストは新たな女性シンガー二人(アン・ハインズとカサンドラ・グラハム)を向かえ、新生ソウル・チルドレンを結成していた。 2011年11月30日、メンフィス近くの病院で癌のため死去。 http://youtu.be/KGpv2Erf79Q City Slicker posted with amazlet at 11.12.01 J Blackfoot Sound Town Records (2002-09-03) 売り上げランキング: 220585 Amazon.co.jp で詳細を見る ■ ソウル・チルドレン ジェネシス ジェネシス(紙ジャケット仕様) posted … Continue reading

Posted in 訃報関連 | Comments Off

●アンドレア・トゥルー、68歳で死去~「モア・モア・モア」のディスコスター

●アンドレア・トゥルー、68歳で死去~「モア・モア・モア」のディスコスター 【Andrea True Dies At 68】 訃報。 1976年のディスコ・ヒット「モア・モア・モア」で知られるディスコ・アーティスト、アンドレア・トゥルー・コネクションのアンドレア・トゥルーが、2011年11月7日、ニューヨーク・キングストンの病院で死去した。68歳だった。死因は明らかにされていない。どうやら身寄りがなく、最後を看取った施設で火葬されたようだ。 By ABC News Nov 22, 2011 3:51pm Andrea True, Porn Star and Singer, Dies at 68 http://abcnews.go.com/blogs/entertainment/2011/11/andrea-true-porn-star-and-singer-dies-at-68/ アンドレア・トゥルーとその大ヒット曲「モア・モア・モア」については、下記エントリーが詳しい。同曲は、アンドレアのヒット後、サマンサ・フォックス、バナナラマ(1993年)、レイチェル・スティーヴンス(2004年)、ダニー・ミノーグらがカヴァー。1999年にはカナダのグループ、レンがサンプリングして使用している。また、アンドレアのヴァージョンは、テレビ・シリーズ『セックス・アンド・ザ・シティー』や他の映画などでも使用されている。プロレスラー、ラリー・スイーニーの入場テーマともなっていた。替え歌が『シンプソンズ』で2度にわたって使われている。 ■ 2007年07月24日(火) 【「モア・モア・モア」誕生秘話】 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10040975223.html アンドレア・トゥルーは、本名、アンドレア・マリー・トゥルーデン。1943年7月26日テネシー州ナッシュヴィル生まれ。 彼女はナッシュヴィルの保守的なセント・セシリア・アカデミーという学校で寄宿舎生活をしていた。ここを1956年頃に卒業。 卒業後、彼女は映画スターを夢見てニューヨークに向かう。いくつか、小さな役を得ることが出来たが、大きな役は取れなかった。そんな失意の頃、彼女の元にポルノ映画出演の話が舞い込み、これを受ける。以降彼女は多数のポルノ映画に出演、50本以上のポルノにでて、そのほとんどがX指定だ。 彼女がアクティヴだったのは、1971年から1983年くらいまで。この時代、「インガー・キッシン」「アンドレア・トラヴィス」「シン・ロウ」「シング・ロウ」などいくつか芸名を持っていた。 1975年、アンドレアはジャマイカの不動産会社のCMに出演することになり、その撮影のために、ジャマイカに向かった。ところが彼女がジャマイカ滞在中に、政治的な変革で、国外への外貨持ち出しが禁止されてしまった。つまり、CMを撮影してもそのギャラをアメリカに持って帰れないというのだ。 そこで彼女は一計を案じた。以前から知り合いだったニューヨークの音楽プロデューサー、グレッグ・ダイアモンドに連絡し、ジャマイカで曲をレコーディングして、そのマスターテープを持って帰ろうというのだ。テープであれば、現金ではないので、国外に持ち出せる。もらったギャラを、当地のミュージシャンたちへのギャラ、スタジオ代などで使ってしまおうというアイデアだ。 グレッグは、ふってわいた話だったが、とりあえず歌なしのインストゥルメンタル・トラックだけをいれたマスターテープを持ってジャマイカにやってきた。そこで、アンドレアとともに急遽歌詞を書き、現地のホーンセクションなどのミュージシャンを起用してレコーディングを完成させた。 無事このマスターテープをアメリカに持ち帰ったアンドレア・トゥルーとグレッグ・ダイアモンドは、まだミックス(トラックダウン)前のマスターを、「ディスコ・ミックスの父」ことトム・モウルトンに聴かせた。トムはこの作品を気に入り、ミックスをすることを引き受け、「モア・モア・モア」は、「ア・トム・モウルトン・ミックス」で完成。 これは1976年1月に12インチが配布され、瞬く間にディスコで話題を集め始め、ディスコ、ソウル・ラジオ、はてはトップ40でも大ブレイク、ポップ・チャートで最高位4位を記録。ディスコ・クラシックとなった。現金を持ち出すことができなくなったおかげでジャマイカでレコーディング・セッションを行い、それが大ヒットに結びついたのだから、音楽の神様はどこでどう微笑むかわからない。まさにひょうたんから駒だ。 アンドレア・トゥルーはその後もディスコを狙った作品をだし、デビュー作に収録されていた「ニューヨーク・ユー・ガット・ミー・ダンシング」などは、ディスコでも大いに受けていた。 3作目がヒットしなかった後、アンドレアは一時期ポルノ業界に戻ろうとしたが、30代中盤を越えていた彼女にはなかなか仕事はこなかった。一方、彼女は喉におおきな腫れ物が出来る病気にかかり、結局、手術をする。このことによって、歌手生命も絶たれ、その後は静かにプライヴェート・ライフを送っていた。 … Continue reading

Posted in 訃報関連 | Comments Off

● ヘヴィーD、ジョー・フレイジャー、ノーマン・ダーラムら死去

● ヘヴィーD、ジョー・フレイジャー、ノーマン・ダーラムら死去 訃報。 ラッパー、俳優としても活躍していたヘヴィーDが、2011年11月8日、ロスアンジェルスのシーダス・サイナイ病院で肺炎のため急死した。ビヴァリーヒルズの自宅で息苦しくなり、午前11時半(日本時間9日午前4時半)頃救急車が呼ばれ病院に搬送されたが、まもなく死去が確認された。44歳。 ヘヴィーDは、本名ドワイト・アーリントン・マイヤーズ。1967年5月24日ジャマイカ生まれ。幼少の頃、家族でニューヨークのマウント・ヴァーノンに引越し、そこで育った。Gウィズ、Tロイ、エディーFらとともに、ヘヴィーD&ザ・ボーイズを結成。1986年に黒人起業家アンドレ・ハレルが設立したアップタウン・レコードと契約。同レーベルの成功とともに、彼らもビッグになった。1986年12月から「ミスター・ビッグ・スタッフ」(ジーン・ナイトのヒットのカヴァー)がヒット。さらに1987年、デビュー・アルバム『リヴィング・ラージ』(でっかく生きる。スケール大きく生きることと、彼自身の体が大きいことをかけている)がヒット。 さらに、1989年の2作目『ビッグ・タイム』はR&Bアルバムチャートで1位。しかし、その後1990年7月15日、インディアナポリスでボーイズのメンバー、Tロイが22歳で事故死。3作目『ピースフル・ジャーニー』をTロイへのトリビュート作品にした。同アルバムのトップを飾る「ナウ・ザット・ウィ・ファウンド・ラヴ」(オージェイズのヒットを「ニュー・ジャック・スウィング」のサウンドでカヴァー。リードはアーロン・ホール)ブラック・チャートで5位を記録、ゴールド・ディスクになり、大ブレイク。一足先に、同じMCAから登場したガイのテディー・ライリーが開発した「ニュー・ジャック・スウィング」で大ヒットさせ、メロディーのあるラップ作品を作り支持を集めた。 ラップ、ヒップ・ホップとメロディーのあるR&Bを融合することに成功、この流れは同じアップタウンでメアリーJブライジに受け継がれる。また、アップタウンからは、ショーン・パフィー・コムスが登場し、一大勢力となった。パフィーは、ヘヴィーDのおかげで音楽業界入りできたと語る。彼の口利きでアップタウン・レコードでインターンとして働き始めたのだ。 http://youtu.be/NNEgUPKxk7A ヘヴィーDはテレビ番組『イン・リヴィング・カラー』のテーマ曲を担当、出演したり、映画にも出るようになった。また巨漢ながらそのキャラクターが大変印象的で愛され、多くのアーティストからもプロモ・ビデオへのラップ出演が舞い込み、ジャネット・ジャクソンの「オールライト」、マイケル・ジャクソンの「ジャム」などに客演。 1996年、クインシー・ジョーンズに呼ばれ彼の最新作でブランディーとともにマイケル・ジャクソンの「ロック・ウィズ・ユー」をカヴァー。 2011年10月20日、BETヒップ・ホップ・アワードに登場、パフォーマンスは15年ぶりだったが、その後2011年10月8日、イギリス・カーディフで行われた「マイケル・ジャクソン・トリビュート・ライヴ」に出演、マイケルの姉ラトーヤと「ジャム」を歌った。 また、ヘヴィーDは約17万人のフォロワーがいる自身のツイートで2011年11月7日21時19分(現地時間)に「スモーキン・ジョー・フレイジャーRIP」とツイート。次のツイート(現地7日22時29分=日本時間11月8日15時29分)で、「BE INSPIRED!」と書いている。「元気をくれ!」「インスパイアーされなさい(元気を得なさい、刺激を受けなさい)」「息をさせてくれ」といった意味。これが最後のツイートとなったが、ある意味大変予言的なツイートになった。前夜から息苦しかったのだろうか。 ヘヴィーDのツイッター・アカウントは、@heavyd 。 ■ ヘヴィーD&ザ・ボーイズ Peaceful Journey posted with amazlet at 11.11.09 Heavy D & The Boyz Mca (1991-07-02) 売り上げランキング: 2262 Amazon.co.jp で詳細を見る ■ News Sources http://moviesblog.mtv.com/2011/11/08/heavy-d-dead-movies/ http://www.seattlepi.com/entertainment/article/Heavy-D-dies-at-44-after-collapsing-outside-home-2258891.php … Continue reading

Posted in 訃報関連 | Comments Off

●吉川茂昭さん(元エピック・ソニー、マイケル・ジャクソン担当)を偲ぶ会

●吉川茂昭さん(元エピック・ソニー、マイケル・ジャクソン担当)を偲ぶ会 【A Tribute To Mr. Yoshikawa Shigeaki】 偲ぶ。 しばらく前に、元CBSソニーの野中さんのブログで死去を知った吉川茂昭さんを偲ぶ会が、2011年11月6日(日曜)青山のイヴェントスペース、モーダポリティカで行われた。 吉川さんは、2011年8月末に釣りに行ったところで事故死したという。詳しい状況はよくわからないそうだ。60歳だった。 吉川さんは、1951年(昭和26年)4月23日生まれ。CBSソニー、エピック・ソニー、ソニー・コンピューターを経て、VR1、プラスなどの会社を渡り歩いた。エピック時代には、マイケル・ジャクソンの『オフ・ザ・ウォール』『スリラー』、ジャクソンズの『ヴィクトリー』などのほかに、ノーランズ、ジョージ・デューク、ルーサー・ヴァンドロスなどを担当。その後、ソネットではポストペットを世に送り出す力となった。 僕と吉川さんは、1979年に『オフ・ザ・ウォール』のときに知り合った。あのときは、一度夏に出た『オフ・ザ・ウォール』を半年か一年後かに、再度プロモーションするという異例の宣伝を行い、結局、ディスコだけでなく、洋楽シーンでヒット。さらにその流れでジャクソンズの『トライアンフ』へつなげ、『スリラー』の下地を作った。 偲ぶ会、「オフ・ザ・ウォール」を模した吉川さんの写真 僕が1983年8月5日にマイケル・ジャクソンのエンシノの自宅に行けたのも、吉川さんのおかげだ。吉川さんに、ジャクソンズのインタヴューをしたいと申し出たら、快くアレンジしてくれた。結局、ジャッキー・ジャクソンとのインタヴューが取れることになり、行ってみたら、そこがマイケルの自宅だったという話は何度もした。これには僕自身がものすごく驚いたが、帰国して写真を持って吉川さんのところに報告に行くと、彼も事の外驚き、大喜びしてくれた。すでにマイケルがメディアとインタヴューをしなくなっていた時期だけに、貴重な接点となり、あちこちの雑誌や媒体を紹介してくれ、その話をたくさん書いた。 それらが結局『ヴィクトリー』の下地になり、僕は詳細な『ヴィクトリー』のアルバム・ライナーを書き、それを後に西寺郷太くんが読んで、マイケル道に走ることになるのだから、世の中すべてつながっている。 そして、1984年7月の『ヴィクトリー・ツアー』もカンサスで見せていただいた。そのライヴがあまりに衝撃的だったので、同年12月にロスアンジェルスでもう一度見ることにして、そのとき、高校からの同級生で盟友、大のソウル好きハセヤン(長谷川康之トレイン社長)を誘った。これはきっと彼も感激するだろうと思ったからだ。そうしたら感激どこから、彼はいまだに自分が何百本と見たライヴの中で生涯最高のライヴが、『ヴィクトリー・ツアー』のライヴだと、言ってくれている。 吉川さんからは、ルーサー・ヴァンドロスのライナーノーツも頼まれ、『ヴィクトリー』級の詳細なライナーを書いた。これは後に松尾潔さんが、ぼろぼろになるまで何度も読んだそうで、彼はルーサー好きが転じて、自身の制作会社の名前に「ネヴァー・トゥ・マッチ・プロダクション」と名付けている。まあ、そういう意味でいけば、これも間接的には吉川さんのおかげだ。   マイケル・ジャクソン来日時。フランク・ディレオの顔も。吉川さんは、一番左の後ろ。ノーランズに囲まれる吉川氏(中央) レコード業界を離れてからは、さすがに接点がなくなったが、その後どこかでばったり会ったり、風の噂で「ポストペット」をやって大成功した、と聞いた。また、たまたま僕の友人が勤めていた会社に吉川さんが入り、その友人から突然電話が来て、「ちょっとおもしろい人物に代わるから」と電話が渡され、出てきたのが吉川さんで、びっくりしたこともあった。 最後に話をしたのは、マイケル死去のニュースが流れた2009年6月26日のこと。吉川さんから電話がかかってきて、しばし、マイケル話をした。 この偲ぶ会にはあまりレコード音楽関係の人はいなくて、エピック・ソニー時代の方々が数名いらしていただけ。ただ、その人たちには久々にお会いできてよかった。各業界のみなさんのあいさつの中で、「彼は朝会社に来ない。相当自由にやりたい放題やっている。でも、売り上げがあがるから、みんな文句を言えない」といったことが異口同音に語られ、どこでも相当自由にやられていたんだなと思った。 音楽業界には破天荒な名物ディレクターが1970年代には多くいたものだが、吉川さんはそんな最後のディレクターだったのではないか、と当時の上司だった野中さんはおっしゃっていた。野中さんは、「(上司だから)勤務評定っていうのをするんだけど、日常の勤務態度というところは最低なんだけど、その他の売り上げとか、いろんな項目でみんないいから、結局トータルでいいってことになるんだよね。会社としては、貴重な存在だった」と苦笑していた。 僕も知り合った当初、黒のタキシードにネクタイという『オフ・ザ・ウォール』のマイケル姿でプロモーションしていて、度肝を抜かれたことを思い出す。なにより、アイデアマンで、行動力があったから、あそこまでの実績を残したのだろう。そういえば、シャーデーを最初に担当し、全米でブレイクする前に、来日させインクスティックかどこかでショーケースっぽいライヴをやったのも吉川さんだった。それと、ノーランズ、キャンディー・ポップ、ワムも。洋楽ディレクターとしては大変な実績だ。 偲ぶ会の最後に、吉川さんが月刊「ポストペット」に1998年6月から2001年2月まで掲載した自身のキャリアを振り返る「私の楽歴書」という連載記事が小冊子にまとめられ、参加者におみやげとして配られた。これがなかなかおもしろい読み物だ。最近ウェッブにアップされたので、誰でも読める。エピック・ソニー時代の話が、いろいろと知っているだけにとてもおもしろい。 http://gakurekisho.blogspot.com/2011/11/1.html マイケルのくだり、ジョージ・デューク、スタンリー・クラーク、シャーデーとの話など洋楽ファンとしてはたまらない。彼がビル・ウィザースに面会していたとは知らなかった。 ご冥福をお祈りしたい。 OBITUARY>Yoshikawa, Shigeaki (April 23, 1951 – August, 2011, 60 year old)

Posted in 訃報関連 | 1 Comment

●八木誠さんを偲ぶ会~洋楽関係者一堂に会

●八木誠さんを偲ぶ会~洋楽関係者一堂に会す 【Party Honor Memory Of Yagi Makoto】 偲。 1960年代から数多くのラジオ番組でDJをしたり、ライナーノーツなどを執筆してきた音楽評論家の八木誠さんを偲ぶ会が、2011年10月17日麹町の「スクワール麹町」で行われた。 午後6時半に始まった会は、亀淵昭信さんの司会で進行。石坂敬一さん、湯川れい子さんのスピーチを皮切りに大勢の、八木さんと親交のあった方々のお話が紹介された。 石坂さんの「八木ちゃんのDJは、ヒット曲を作るDJだった。その日本語英語でのDJで、日本人の感覚にあったヒット曲を生み出した」という言葉には本当にうなずいた。石坂さんからは、ゼイガーとエヴァンス「西暦2525」、「ホリデイ・イン・ポップス」、クリス・モンテスなど八木さんがてがけたヒット曲など固有名詞がぽんぽんと出てきて、それだけで八木さんが日本の洋楽史上に残した大きさを物語っていた。 湯川さんは、湯川さんのアシスタントと八木さんが結婚するというときに激怒した秘話なども紹介。「でも、とにかく八木さんは、(女性に)もてる」というその人気ぶりをお話された。そして、八木さんが出された『洋楽ヒットチャート大事典』について、「本当に日本の洋楽の歴史が詰まっている名著。きっとこれを渾身の力を込めて作られて、疲れてしまったのかもしれません」と話された。石坂さんも、湯川さんも、スピーチに立たれた方、みなさん本当にお話が上手で、そのままラジオ番組になりそうなほどの話達者ぶりだった。そして司会の亀淵さんも、暗くなりがちな偲ぶ会を楽しいものにしようと、ユーモアを交えながら進行し、とても穏やかな楽しいひとときになった。 比較的広い部屋を用意されていたが、180名を越える参加者でごった返した。これだけの洋楽関係者が一堂に会するというのも、なかなか壮観で、僕も多くの懐かしい面々にお会いできることができ嬉しかった。これも、八木さんのおかげだ。感謝とともに改めてご冥福をお祈りしたい。 ■ 八木誠さん死去 2011年06月10日(金) 洋楽DJ,音楽評論家・八木誠さん、死去 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10917667079.html#main ■ 八木誠さん渾身の一冊 『洋楽ヒットチャート大事典』 洋楽ヒットチャート大事典 posted with amazlet at 11.10.18 八木 誠 小学館 売り上げランキング: 260707 Amazon.co.jp で詳細を見る ごあいさつ。 会が終わって参列者が三々五々帰途に着こうというときに、司会の亀淵さんにごあいさつした。正式にごあいさつするのは初めてで名刺をお渡ししたら、「ああ、あなたでしたか。オーティスのこと、書かれてた」と、ブログを読まれていたようで驚いた。 「いやあ、オーティスのサイン、あのときふたつもらったんですよ。ひとつは、桜井ユタカにあげて、自分のは取ってあるんですが、どこかにあるはず」と、オーティスのサインをもらったという話を教えていただいた。日本人でオーティスのサイン持っているのは、亀淵さんと桜井さんだけだろう。すごいなあ。この日の八木さん偲ぶ会で僕にとって一番衝撃だったのが、この話でした。(笑)  2011年08月22日(月) 『亀淵昭信のロックンロール伝』単行本~私的ロック史 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10993437512.html 本持ってって、サインを頂けばよかった! … Continue reading

Posted in 訃報関連 | Comments Off

●柳ジョージさん、63歳で死去

●柳ジョージさん、63歳で死去 【Yanagi George Dies At 63】 訃報。 「和製クラプトン」「和製ブルーズ・シンガー」などと呼ばれたソウル、ブルーズ系シンガー、柳ジョージさんが2011年10月10日午前4時56分、腎不全のため横浜市内の病院で死去した。ここ数年、糖尿病などを患い、入退院を繰り替えしていたという。葬儀を終えた後の10月14日、明らかにされた。63歳。2011年5月22日、函館市芸術ホールで行われた公演が最後になった。8月に横浜のライヴ・ハウスで行われる予定だったライヴは、体調不良を理由にキャンセルしていた。柳ジョージ(本名・柳譲治)さんは、1948年1月30日生まれ。 スポーツ報知の記事。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111014-00000044-sph-ent 2009年「ソウル・パワー・サミット」で共演を果たした鈴木雅之さんがコメントを発表した。 鈴木雅之さんのコメント。 俺が10代の頃に ロックを 20代の頃でR&Bを そして 50代になってBluesを教えてもらいました。 本当に”横浜 港町”という言葉が、ぴったり似合う人でした。 2009年に楽曲を提供して頂き、ご一緒させて貰ったステージが最後でしたが、あの歌声、あの背中 忘れません。 感謝と愛を込めて。合掌 鈴木雅之 +++++ ゲスト。 柳ジョージさんは、2009年9月に行われた「ソウル・パワー・サミット」でマーチンのスペシャル・ゲストで3曲歌った。 20. 青い瞳のステラ 1962年夏・・・[鈴木雅之] + [柳ジョージ] 21. ジョアンナ [鈴木雅之] + [柳ジョージ] 22. 雨に泣いてる [鈴木雅之] + [柳ジョージ] + … Continue reading

Posted in 訃報関連 | 3 Comments

●シルヴィア・ロビンソン死去~シュガーヒル・ギャング生みの親

●シルヴィア・ロビンソン死去~シュガーヒル・ギャング生みの親 【Sylvia Robinson Dies】 訃報。 ニュージャージーを拠点に長く音楽活動を行ってきたシルヴィア・ロビンソンが2011年9月29日午前6時28分ニュージャージー州セコーカスの病院で鬱血(性)心不全のため死去。76歳だった。当初、75歳という報道もある。3人の子供と孫、ひ孫多数によって送られる。シルヴィアは自身もシンガーとして「ピロー・トーク」などのヒットもあるが、最近では「ヒップホップの母」などとも呼ばれる。世界で最初のラップレコードの一枚「ラッパーズ・デライト」を1979年にリリースし、その後のラップ、ヒップホップの隆盛の歴史の第一歩を作り出した。スタング・オールプラチナム・レコードの設立、シュガーヒル・レーベルの設立、チェス・レコードの買収など、音楽起業家としても成功を収めた。 シルヴィアは、シルヴィア・ヴァンダープールとして1935年(1936年?)3月6日ニューヨークに生まれた。シルヴィアは、1950年代からソウル・デュオ、ミッキー&シルヴィアとして「ラヴ・イズ・ストレンジ」が1957年に大ヒット。1964年、ジョー・ロビンソンと結婚。シルヴィア・ロビンソンとなった。1968年にニュージャージーでスタング/オールプラチナム・レコードを設立。モーメンツ、ホワットノウツ、リムショッツ、ダニー・エルバートなど多くのソウル・ヒットを放った。モーメンツは「ラヴ・オン・ア・トゥー・ウェイ・ストリート」などのヒットを放ち、その後79年にレイ・グッドマン&ブラウンと名前を変え、活躍。また自らもシルヴィア・ロビンソンとして1973年セクシーな「ピロー・トーク」の大ヒットを生み出している。 1979年、地元のクラブで黒人の若者がやっていたいわゆるラップをレコード化することを思いつき、地元で見つけた3人組みをシュガーヒル・ギャングとして15分近くの「ラッパーズ・デライト」をレコーディング。トラックはシックの大ヒット曲「グッドタイムス」のベースラインを拝借し、12インチでリリースしたところ、これが大ヒット。このとき作ったレーベルがシュガーヒル・レーベルで、ラップ/ヒップホップ専門レーベルとして最初のものとなり、以後多数のラップレコードを輩出した。この「ラッパーズ・デライト」は、これをラップしている3人にシルヴィアがある金曜日に出会い、週明けの月曜にワンテークで録音したものだという。 その後、シュガーヒルからはファンキー・フォー・プラス・ワン、トリーチャーラス・スリー、特にグランドマスター・フラッシュ&フューリアス・ファイヴの「ザ・メッセージ」などは大ヒットし、ヒップホップ史上でも重要な作品となった。 これらの資金を背景にシュガーヒルはチェス・レコードのカタログなどを買収、リリースしたりした。 ■シルヴィア・ベスト Pillow Talk: Very Best of posted with amazlet at 11.09.30 Sylvia Collectables (1998-08-11) 売り上げランキング: 171395 Amazon.co.jp で詳細を見る ■ ベスト・オブ・シュガーヒル・ギャング ザ・ベスト・オブ・シュガーヒル・ギャング posted with amazlet at 11.09.30 シュガーヒル・ギャング イーストウエスト・ジャパン (1999-02-24) 売り上げランキング: … Continue reading

Posted in 訃報関連 | Comments Off