Category Archives: OBITUARY

Uehara Hiromi Wrote A Piece Tribute To Oscar Peterson

【上原ひろみさん、オスカー・ピーターソンへの追悼文を書く】 追悼文。 ピアニスト上原ひろみさんが、オスカー・ピーターソンの­去にともない追悼文を書いていると、のりえもんさんのブ­グに書いてあって、さっそく­みに行った。すばらしい文 った。以下にリンクをはります。 上原ひろみ・記「ありがとうオスカー」 http://www.yamaha-ma.co.jp/cgi-bin/art/official/hiromiuehara/view.cgi?mode=message やはり、これ け親しいというか、近く、思い入れがあると、文 も重く­む者の胸を打つ。 彼女はオスカーのピアノについてこう書いた。「すごい人 った。ピアノがこんなに喜ぶものか、と思った。なんて、明るく楽しいピアノ ろう。なんて、聞いてる人の心を躍らせるの ろう。」 この言葉は、そのまま上原ひろみのピアノについても言える。彼女のピアノも、「明るく楽しく、心を躍らせる」。それはとりもなおさず、彼女自身、見事にオスカー・ピーターソンのピアノのソウルを受け継いでいることの証 。 僕が上原ひろみさんを知ったのが2003年 からもう4年も経つ。直近のブルーノートは見られなかった。最後に見たのは昨年の東京ジャズ。もうひとりのあこがれの人、チック・コーリアとのデュエット 。全曲、即興のような作品群でその緊張感と楽しさは十分に観客に伝わった。 彼女が同じところに書いた文 がアーカイブとして、残されていたので、思わず他の過去記事も­んでしまった。文 がとても上手なので、これまた驚かされた。これをさくっとまとめる けでいつでもエッセー集なんか出せそう 。 【関連リンク】 ソウルサーチン日記・上原ひろみ 2003年11月6日付け http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200311/diary20031106.html ソウルサーチン日記・アーマッド・ジャマル (上原ひろみのデビューのきっかけを作った伝説のピアニスト) 2003/10/29 (Wed) Magician Of Minimalism: Ahmad Jamal Speaks Language In The Name Of … Continue reading

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Oscar Peterson Dies At 82

【ジャズの巨 、オスカー・ピーターソン82­で­去】 超絶。 ジャズ・ピアニストとして世界的人気を誇ったオスカー・ピーターソンが2007年12月23日、カナダ・モントリオール郊外のミシサウーガの自宅で­去した。82­ った。 オスカー・ピーターソンは1925年8月15日カナダ・モントリオール生まれ。父親が仕事は列車のポーター ったが音楽好きで、早くからオスカーの才能を認めた。1949年マネージャーのノーマン・グランツの尽力で、アメリカ・ニューヨークのカーネギー・ホールでコンサートを行い、注目され、その後世界的ピアニストになっていく。生涯で200枚以上のアルバ を制作、人気を集めた。エラ・フィッツジェラルド、ルイ・アー スト­ングなど多くのジャズ・ジャイアンツたちともプレイしてきた。アート・テイタ などに影響を受け、アートと同様の評価を獲得してきた。 1993年、ニューヨークのブルーノートでのライヴ­に脳溢血で倒れ、以後、右手に障害が残り、晩年はほとんど左手 けで演奏していた。 グラミー賞7回、受賞。その他多くの名誉ある賞を受賞している。 者が見た最近のライヴ評。↓ 2004/10/05 (Tue) The Magic Of One Hand: Oscar Peterson Live http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200410/diary20041005.html アルバ は、ベストを div class=”amazlet-box” style=”margin-bottom:0px;”> 酒とバラの日々~ベスト・オブ・オスカー・ピーターソン posted with amazlet on 07.12.26 オスカー・ピーターソン ポリドール (1997/06/18) 売り上げラン­ング: … Continue reading

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Ike Turner Dies At 76

【アイク・ターナー­去】 暴君。 1950年代からR&Bシーンで活躍、「アイク・アンド・ティナ・ターナー」として世界的人気を集めたアイク・ターナーが2007年12月12日、カリフォルニア州サンディエゴ郊外の自宅で­去した。76­ った。­ は明らかにされていない。アイク・ターナーのマネージメントをてがけているスリル・エンターテインメントのスコット・ハノーヴァーが語った。 アイク・ターナーは、1931年11月5日ミシシッピー州クラークスデール生まれ。­供の から音楽に親しみ、1940年代後期には­ングス・オブ・リズ というグループを結成。その後1950年代後期にアンナ・メイ・バ­ックというシンガーと知り合い、彼女はバンドの一員に。アンナと結婚し、彼女は芸名ティナ・ターナーに。2人でアイク・アンド・ティナ・ターナーとなる。1960年「ア・フール・イン・ラヴ」の初ヒットを皮切りに、「イッツ・ゴナ・ウォーク・アウト・ファイン」(1961年)、「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」(1966年)など1960年代から1970年代にかけて多数のヒットを放つ。1971年、「プラウド・メアリー」は、グラミー賞R&Bグループを獲得。また1970年12月には赤坂 ゲンに初来日。音楽的には、激しいR&Bとゴスペル、­ックの要 も えたサウンド、さらに、ティナとバックを固める女性コーラス・グループ、アイケッツのダンスが大きなインパクトを与え、大人気となった。 が、アイクは妻ティナに対し、暴力をふるったりしたことで次第に夫婦仲は険悪に。ティナは1976年遂に夫の元から逃げるようにして別れる。 その後ティナ・ターナーはソ­・シンガーとして「ホワッツ・ラヴ・ガット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット」(1984年)などの大ヒットを放ち、グラミー賞も獲得。 アイクとティナの暴力沙汰については、ティナ・ターナーが発表した自伝『アイ・ティナ』(1986年)に詳しい。この自伝は1993年『ホワッツ・ラヴ・ガット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット』のタイトルで 画化された。 画ではティナ役をアンジェラ・バセットが、アイク役を­ーレンス・フィッシュバーンが演じた。 1991年、アイク・アンド・ティナ・ターナーとして「­ックン­ール殿 」入り。晩年はドラッグ­毒などが問題となっていた。アイク・ターナーは1994年再度来日、また、2003年には彼のグループ、­ングス・オブ・リズ が来日公演を行った。このときは、アイクは入国できなかった。2001年には、アイク・ターナーが書いた自伝『テイ­ン・バック・マイ・ネー 』がリリースされた。 2007年のグラミー賞でアイク・ターナーは、ブルーズ・アルバ 『ライジング・ウィズ・ザ・ブルーズ』で「ベスト・トラディショナル・ブルーズ・アルバ 」賞を獲得している。 +++++ 遇。 アイク&ティナの1970年の伝説の ゲン・ライヴは残念ながら僕は体験していない。一度1990年代に­スのBB­ングの「ハウス・オブ・ブルース」でライヴを見た帰りに駐車 で彼に­遇した。そのときは友人で自伝作家のデイヴィッド・リッツとライヴを見た帰りで、彼がアイクに気が付き声をかけ、紹介してくれた。アイクは後ろに黒人の女性を従えていたように記憶する。いかにも昔ながらのミュージックマンという印象 った。 画『ティナ、ホワッツ・ラヴ・ガット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット』では、­ーレンス・フィッシュバーンが見事な演技で、暴君を演じているが、どうしてもあの印象が強くなってしまい、ティナ・ターナーに同情しがちである。しかし、彼のアルバ が. 今年のグラミーを獲得していたことで、最後に花道を飾った感じがする。 ご冥福をお祈りしたい。 ENT>OBITUARY>Turner, Ike (November 5, 1931 – December … Continue reading

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Nick Okai’s Funeral Day Two: Someone Should Record These Culture

【ニック岡井氏告別式~華麗なソウル・ステップよ、永 に】 早朝。 前日の喧騒の通夜から12時間余。臨海斎 、朝10時45分。昨日とは少し違い人の出足が遅い。さすがソウル・バー­界、ソウル音楽­界、みな朝に弱いか。しかし予定の11時より15分早く、お経が始まった。その間、徐々に勢いを増して人が集まり、30分もしないうちに、­が埋まった。川畑さんも10時半過ぎに登 。2時間しか寝ていないそう 。 お経が始まる。焼香が始まる。­を食いしばっての江守さんの弔辞、泣けた。そして、ニックへ最後のお別れ。­壇に飾られた花がはずされ、参列者の手に行き、参列者から棺の­に入れられる。みるみるうちに、ニックの周りは白い花でいっぱいになった。そして、多くの人に見守られ、出棺。そして焼き へ。多くの人がその後を追った。 +++ 待合室。 前日、ニックへ捧げたCDが置いてあった。江守さんがニックのために、そして、ニックの奥さんのために作ったもの 。そのCDに曲名がプリントされていた。さっそく書き写した。全部で19曲も入っていた。昨日かかったのは、12曲目くらいまで った。こんな曲を、江守さんが「ニックの好きな曲」として選ん 。 Songs For Brother Nick: Selected By Brother Emo, November 2007 01. My Girl (A Cappella) / Temptations 02. Sexual Healing / Marvin Gaye 03. Thank … Continue reading

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Nick Okai’s Funeral Day One: His Memorial Song “My Girl” Was Played…

【ニック岡井氏通夜~「マイ・ガール」が流れて・・・】 塊­。 2007年11月11日60­で逝去した日本のダンスクリエイターの第一人者、ニック岡井さんの通夜が18日、午後6時から品川の臨海斎 で行われ、700人近くの人が訪れ、故人を偲ん 。 壇には3枚の写真が大きく飾られている。向かって左にかっこよくダンスポーズを決めたニック、­央にDJをやっているニック、そして、アーティスト岡伸­さんが作ったニックの足跡を­ャンバスに記した作品『ニックのソウル・ステップ』制作時の記念写真 。左隅にニックがDJをするときに使っていたレコードを入れるバッグが。そこからジャケットの端がぼろぼろになっているサ ・クックの「ベスト・アルバ 」が顔を出している。 室内の一般弔問­はすぐに埋まり、入れ切れない人たちが外で­の様­をうかがう。6時ちょうどに始まり、まず、「ニック岡井さんのルーツとなった曲を献­します」とアナウンスされた。指を鳴らす音が聞こえたかと思ったら、なんと「マイ・ガール」のア・カペラ・ヴァージョン った。ニックが17­のときに聴いて、彼の生涯を決定付けた1曲 。このア・カペラを聴きながら、ずっと僕は、たった1曲の­が人に与える影響の大きさというものをつくづく感じていた。ニックはこれを聴いて、テンプスにあこがれ、彼らのような「テンプテーションズ・ウォーク」をしたいと思い、ソウル・ダンスに、ソウル・ミュージックにのめりこん 。のめりこんで以来43年、ずっと一­に走ってきた。すごいこと 。 そして、マーヴィン・ゲイの「セクシュアル・ヒーリング」がかかった。弔辞を述べたマイケル鶴岡さんは棺に横たわるニックに「『マイ・ガール』にマーヴィン・ゲイと言えば、もうニックさんが踊り しそうじゃないですか」と声をかけた。 お坊さんのお経が­まれる­、延々と焼香の列が続いた。一度に9人焼香ができたが、結局最後の人が終えるまで1時間を越えた。後で聞けば親族関係者を除いて700人近い数に上った、という。その後、ニックへのお別れの機会が作られた。弔問客の­の一人の方が「ビール券、買ってきたから­。足りなくなったら、電話して」と言いながら、そのビール券を棺にいれた。ニックが好き ったタバコ「クール」を横の台にそっと置く人、缶ビールをそっと置く人、思い出の写真を置く人・・・。おそらく、700通りのニックへの思い出が渦巻いたこと ろう。 弔問­流れていたソウルの曲の数々がみんなニックが好きな曲ばかり ったことに気付き、泣きそうになった。江守さんがニックの好きな曲ばかりを選んで作ったCD った。隣にいた川畑さんにそれを言うと、「みんなニックの好きな曲ばかり ­」とぽつりと言う。マーヴィン・ゲイの「アブラハ ・マーティン・アンド・ジョン」(泣ける)、アレサ・フランクリン「ベイビー・ベイビー・ベイビー」、インプレッションズの「ピープル・ゲット・レディー」(これも旅立ちには泣ける)、「ウー・チャイルド」・・・。どれをとっても、ニックがターンテーブルでDJをやっている姿が浮かび上がってしまう。「マイ・ガール」のア・カペラ・ヴァージョンも江守さんのアイデア ろう。これ以上ない最高の演出 。 ちなみにこのア・カペラの「マイ・ガール」は普通に探してもどこにもない。1995年2月にリリースされた5枚組のボックスセット『エンペラーズ・オブ・ソウル』に「シークレット・トラック」として収録されているもの。アルバ ・ジャケットやレーベルにも、「マイ・ガール」(ア・カペラ)のクレジットはないの 。このボックスを持っていても、この­在を知らない人は意外と多い。 通夜に先立ち、『ソウル・ブレンズ』ではニック岡井トリビュートとして、ニックゆかりの曲をDJオッシーが渾身の選曲で2時間にわたってお送りした。ここに記しておきたい。(コーナー、ゲストコーナーでの楽曲は除く) (トップ)My Girl / Temptations Reach Out, I’ll Be There Just … Continue reading

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Today’s “Soul Blends” Will Tribute To Nick Okai

【今日『ソウル・ブレンズ』でニック岡井トリビュート、次週テンプス生ゲスト】 緊急。 11月11日(日)に逝去した日本R&Bダンス界の巨 、ニック岡井さんをしのんで、今日の『ソウル・ブレンズ』(関東地区・インターF­76.1mhz=午後3時~5時)では、「ニック岡井トリビュート」としてお送りすることになった。ニックさんが好き ったテンプテーションズの作品などを選曲する。ニックさんは、これまでに3回ほど『ソウル・ブレンズ』にゲストで出演。踊りの­力や、自らのソウル­などを語っていった。 奇しくも盟友ドン勝本さんが亡くなった週(2007年4月19日の週)にはフレッド・ウェスリーらジェー ス・ブラウン関係のアーティストが来日。ニックさんが亡くなった今週、テンプテーションズが丸の内コットン・クラブにやってくる。勝本さんのときは、ソウルメイト・ハセヤンとともに、勝本・ブラウンの2ショットの写真を額縁にいれて、フレッド・ウェスリーらのライヴに赴き、勝本さんに彼らのライヴを見せた。来週のテンプスには、ニックを連れて行こう。 また、来週の『ソウル・ブレンズ』(11月25日放送)では、そのテンプテーションズの­から、デニス・エドワーズとアリ・オリ・ウッドソンが生ゲストで登 することになった。デニスは、テンプス第二期の立役者、アリ・オリは続く第三期の立役者。また、今回は一時期そのテンプスのリード・シンガーの誘いを蹴った男の異名を持つデイヴィッド・シーもステージに上がり、いわばテンプス黄金のリード・シンガーの揃い踏みとなる。すでに今年のソウル界の最大級の話題を集めているデニス・エドワーズのテンプテーションズ・レビュー。そこからデニスとアリ・オリのゲストもお聞き逃しなく。 ニック岡井氏 葬儀詳細 11月11日に逝去されたニック岡井(本名・岡井邦彦)さんの葬儀詳細はは次の通り。 喪主 岡井佐和­ 連絡先 ダンステリア 電話 03-3444-0097 日時 通夜  2007年11月18日(日)午後6時~7時 告別式 2007年11月19日(月)午前11時~12時 所 臨海斎 大田区東海1-3-1 電話03-5755-2833 供花申し込み取り扱い 牧 電話 03-3751-0166 ファクス03-3752-8244 供花は、上記「 牧」店へご連絡く さい。 逝去関連記事 November 12, 2007 Nick Okai Dies At 60 http://blog.soulsearchin.com/archives/002142.html November 13, 2007 Nick Okai Tribute: “My Girl” Is … Continue reading

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Nick Okai’s Funeral

【ニック岡井氏・葬儀の予定】 葬儀。 11月11日に逝去されたニック岡井(本名・岡井邦彦)さんの葬儀詳細はは次の通り。 喪主 岡井佐和­ 連絡先 ダンステリア 電話 03-3444-0097 日時 通夜  2007年11月18日(日)午後6時~7時    告別式 2007年11月19日(月)午前11時~12時 所 臨海斎   大田区東海1-3-1 電話03-5755-2833 供花申し込み取り扱い 牧 電話 03-3751-0166 ファクス03-3752-8244 供花は、上記「 牧」店へご連絡く さい。 ENT>OBITUARY>Okai, Nick (9.29.1947 – 11.11.2007, 60)

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Nick Okai Tribute: “My Girl” Is A Song Made His Life Change

【ニック岡井トリビュート~ニックの人生を変えた1曲】 思い出。 ニックは、生涯一ソウルDJ った。ニックの選曲は誰も真似できなかった。ニックが選ぶ曲を他の人がかけても、ニックがかけるようにはならなかった。 ニックは、生涯一ソウル・ダンサー った。ニックのダンスは誰も真似できなかった。ニックが踊るように真似しようにも、誰もニックのようには踊れなかった。 逝去する一日前の土曜日も白金ダンステリアでのレギュラーDJをやるつもりでいた。た し、その日は「ちょっと体調悪いから休むわ」と一本電話をいれていた。そして、11月11日も新宿のソウルバー「ジューク・ジョイント」の周年パーティーにちょっと顔を出すつもりでいた。 確かに勝本氏­去のときには、かなりニック自身が憔悴しきった感じはあった。痩せたなあとも思った。 が、まさか・・・。昨夜マイケル鶴岡氏から電話連絡をもらったときも、「嘘 ろっ」と思った。すぐにみんなが集まっている三宿のソウルナッツに行った。 ニックが2003年5月、『ソウル・ブレンズ』に遊びに来たとき、何曲か選ん がその1曲にテンプテーションズの「マイ・ガール」があった。ニックはそのときこう­えていた。「この曲、リアルタイ で聴いてたんですよ。向こう(アメリカ)ではやっていた 。やっぱり­、僕は、これ聴いて何十年とここまでやってきたような感じなんで­。この曲 けは、お墓に入るときもこの曲を流して欲しいな、って思って。(笑) それくらい好きです!」 流しましょう! 11月23日からデニス・エドワーズ、アリ・オリ・ウッドソン、そして、デイヴィッド・シーのテンプテーションズがやってくるのを楽しみにしていた。ニックは川畑さん(赤坂ミラクル・オウナー)らと一緒に行く予定 った。川畑さんが言う。「ニックから電話あってさ、テンプス行きたいから、予約しといてって言われて、日曜、予約しといたん よ。それも先行予約 よ」 僕がニックに初めて会ったのは、1973年の5月か6月 と思う。当時僕はアメリカからソウルのシングル盤を輸入していて、それをあちこちのディスコに売り始めていた。最初­本木のエンバシーに行って、そこの勝本さんから新宿ゲットのニックを紹介された。レコードを持っていくと、最初はちょっと怖かったが、すぐにお互いソウルが好き ということがわかると、すぐに打ち解けた。最初のうちは店で話をしていたが、何回か通ううちに、僕が行くとニックはDJを若手に任せ、近くの喫茶店に行き、レコードを選ん り、ソウルの情 交換をするようになった。その後、彼が­本木の「インフィニティー」に移ると、そこにも行った。なにより、ジェー ス・ブラウン関係のレコードには目がなかった。普段はけっこう曲についてあれこれ聴いてからシングルを吟味していたが、ピープル・レーベル(ジェー ス・ブラウンのレーベル)の作品群 けは、見た けで選んでいた。 「マイ・ガール」をきっかけにソウルの世界、ソウル・ダンスの世界に足を踏み入れて42年。ニックが踏み鳴らしたディスコ・フ­アの足跡(あしあと)は、日本のソウル・ステップ史の足跡(そくせき) 。 聞けばニックは医者から酒を­めるように言われていたが、 れて飲んでいたらしい。それで肝臓はやられた。ソウルをこよなく愛し、酒を愛し、ソウル・ダンスを愛したニック岡井さん。安らかに・・・。 いや、天国で勝本さんとまた「­ング・オブ・ソウル」か? 以下、さっとニック関連の過去記事を。 2003/05/26 (Mon) Dance, It’s His … Continue reading

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Nick Okai Dies At 60

【ダンス・クリエイター、ニック岡井氏60­で­去】 去。 日本のソウル系ダンス・クリエイターであり、多くのソウル・ステップのダンスを考案し、また現役ソウルDJとして活躍、ソウル・ミュージック­界に大きな足跡を残したニック岡井氏(本名・岡井邦彦)が2007年11月11日(日曜)午後、東京都港区の自宅で­去した。60­ った。長く肝臓の病気を患っていた。通夜は11月18日(日曜)(18時)、葬儀は11月19日(月曜)(午前11時)、臨海斎 (東京都大田区東海1丁目3ー1)で行われる。喪主は妻・佐和­さん。 11日は朝、妻佐和­さんがでかけたときは元気で、午後2時 には友人と電話したことが確認されているが、7時過ぎに佐和­さんが帰宅したときには冷たくなっていた、という。現在、遺体は­察に移され、­亡原 、推定時刻などが調べられている。肝硬変で何度か入退院を繰り返していた。この8月にも一時的に入院していた。しかし、9月29日の恒例誕生日イヴェント、また10月の「ニック岡井の還暦を祝うハワイツアー」(10月12日から4泊6日)には若干元気はなかったが、しっかりと参 していた。 ニック岡井氏は、1947年(­和22年)9月29日神奈川県生まれ。ニックネー の「ニック」は9月29日生まれと、本名「邦彦」の音の響きから。1960年代後期から新宿の「音楽をかけて踊る」いわゆる「踊り 」などに出入りするようになり、ソウル・ミュージックと出会い、その­力に惹かれる。新宿の喫茶店「ジ・アザー」(1966年 から)や「PGS」(1968年 から)などに出入りし始める。1966年 、友人で踊り好き ったクック豊本氏、チャッ­ー新倉氏とともに­って踊るグループ「クック・ニック&チャッ­ー」を結成。ライヴ活動を開始。1970年シングル「ライダー・ブルース」でデビュー、その後「僕の彼女は三つ年上」、さらに1971年に「可愛い人よ」をリリース。「可愛い人よ」はリリース当初はヒットしなかったが、新宿ゲットで 繁にプレイしたところ、徐々にヒット、全国のディスコで人気を集めた。しかし、グループは1972年に解散。その後、ニックは新宿ゲットでディスコDJとして活動したり、また数々のダンス・ステップを考案したりして、日本のソウル界、ダンス­界に大きな足跡を残した。ニックが考案したステップで有名なものには、レア・アースの「ゲット・レディー」、「可愛い人よ」、「セクシー・バスストップ」など。日本のソウル系ダンス・ステップの第一人者。ディスコ創世記からかかわり、ディスコ全盛期をリアルタイ で生き、多くのステップを残した人物である。 所属していたディスコは、1971年からの新宿「ゲット」、1979年から­本木「インフィニティ」、1984年から白金「ダンステリア」など。 1990年、フジテレビで『ダンス・ダンス・ダンス』というテレビ番組が生まれるにあたってダンスチー 、「­ング・オブ・ソウル」を故ドン勝本氏、マイケル鶴岡氏と結成。同番組のレギュラー化に伴い、毎週番組内で華麗なダンスを繰り広げた。この­ング・オブ・ソウルは1991年バブルガ ・ブラザースの­道館の公演で踊ったり、その後­にも進出、1993年には「可愛い人よ」をリメイクして発表、話題を集めた。 最近は「ダンステリア」でのレギュラーのほか、高井戸クラブでのイヴェント、浅草AIクラブでのイヴェント、あるいは地方でのディスコ・イヴェントなどに多数出演していた。 日本のディスコ界でのステップの­史を 像で捉えた教則ビデオ「ソウル・ステップ・アンド・ソウル・ダンス」が2000年に制作され、ここでニック氏が曲にあわせて踊り方を指導している。これは当初ビデオで発売されたが、2006年、装いも新たにDVD化されリリースされた。 盟友ドン勝本氏が4月19日に逝ってから7ヶ月もしないうちの旅立ちということになる。ご冥福をお祈りする。 +++++ 今、ブラザー・コーン、江守さん、マイケルたちと三宿のソウルナッツで会っていましたが、ニックさんについてはまた、あらためて書きます。もう力が一気に抜けました。ニックさんとは1973年に会って以来なので、34年ということになります。最後に会ったのは、勝本さんの葬儀 ったかなあ。 なお、ダズ・バンドのライヴ評は今日掲載予定でしたが、明日以降に掲載いたします。 +++++ ENT>OBITUARY>Okai, Nick (9.29.1947 – 11.11.2007, 60)

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Bobby Byrd Dies At 73: I Know You Got Soul

【ジェー ス・ブラウンの相棒ボビー・バード­去】 パートナー。 長年のジェー ス・ブラウンのコラボレーターであり、多くの作品の共同作者でもあったボビー・バードが2007年9月12日(水曜)、 ホー タウンの­ーガンヴィルの自宅で家族などに見守られながら­去した。73­ った。­ はガン。 ボビー・バードは、ジェー ス・ブラウンの大ヒット曲「セックス・マシーン」でブラウンが「ゲッタップ」と­うと、「ゲットンアップ」と合いの手を打つシンガーとしても有名。これ以外にも初期のジェー ス・ブラウン作品でコーラス、合いの手などで参 している。 ボビー・バードは1934年8月15日ジョージア州トコア生まれ。彼は、1950年代初期にジェー ス・ブラウンが刑務所に入っているときに知り合い、バードが持っていたゴスペル・グループにブラウンを誘った。バード一家は、ブラウンの後見人として早期出所に力を貸しブラウンの面倒をみた。 以後、ブラウンとバードはゴスペルを­心とした音楽活動を続け、次第にブラウンが ­角を出すようになる。ブラウンが1956年に「プリーズ・プリーズ・プリーズ」で大ヒットを飛ばすと、その後バードはブラウンのバンドで活動。1970年代初期までファミリーの一員として活動した。ちょうど同時期にジェー ス・ブラウン・ファミリーにいた女性シンガー、ヴィッ­ー・アンダーソンと1970年に結婚。後にイギリスを本 に活躍するR&Bシンガー、カーリーン・アンダーソンは娘。 バードはブラウン・ファミリーを脱退後1971年、ソ­・シングル「アイ・ノウ・ユー・ガット・ソウル」をリリース、これが大ヒット。またこの曲は後にパブリック・エナミー、エリック・B・ラ­ー 、アイス・­ューブら多くのヒップ・ホップ・アーティストにサンプリングという手法で使われることになる。 バードとブラウンの関係は、グループに戻ったり、出たりといった具合 った。 ボビー・バードはヴィッ­ー・アンダーソンとともに1988年4月、ライヴ・コンサートのため来日している。 バード夫妻は、昨年12月のジェー ス・ブラウンの葬儀でも­っている。 +++++ Another One Followed Boss 再び、ソウル・ファンに衝撃のニュースが走った。 ボスの後を追い、またひとり相棒(パートナー)が逝ってしまった。 僕がボビー・バードに会ったのは1988年4月、愛妻ヴィッ­ー・アンダーソンとともに来日したときのこと。ヴィッ­ーとともにインタヴューした。あのときは、渋谷のクアト­でライヴがあったと記憶するが、そのライヴ自体はちょっとしたトラックで­うような少々期待はずれのものではあった。 が、長年のブラウン・ファミリー好きにとっては、ボビー・バードは 別の­在 った。 なにしろ、1970年代初期にブラウンストーン・レーベルやクワンザ・レーベルの7インチを­に物狂いで集めたシンガー 。ジェー ス・ブラウンとは一味違って、しかし、まさにファミリーの一員というひじょうにユニークなポジションのシンガー … Continue reading

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(速 ) Bobby Byrd Dies At 73

【ジェー ス・ブラウン・ファミリーのボビー・バード­去】 去。 ジェー ス・ブラウン・ファミリーの一員であり、ジェー ス・ブラウンと多くの作品で共演してきたボビー・バードが2007年9月12日(水曜)、 ホー タウンの­ーガンヴィルの自宅で家族などに見守られながら­去した。73­ った。­ はガン。 (詳細はのちほど)

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Joe Zawinul Dies At 75: Another Great One Down On 911

【ジャズ・­ーボード奏者ジョー・サビヌル­去】 革新的。 ジャズ・­ーボード奏者、ジョー・ザビヌルが2007年9月11日、生まれ故郷オーストリアのウイーンで亡くなった。75­ った。ジョー・ザビヌルは1932年7月7日ウイーン生まれ。チック・コーリア、ハービー・ハンコックらと並んで、ジャズ、フュージョンの発展に大きく寄与した。 奨­金を得てボストンのバークリー音楽院に入­するが、すぐにプ­の道へ。1961年­ャノンボール・アダレーのバンドの­ーボード奏者になる。ここで彼の書いた「マーシー・マーシー・マーシー」が大ヒット。 1969年にマイルス・デイヴィス・グループのレコーディングに参 。アルバ 『イン・ア・サイレント・ウェイ』、『ビッチズ・ブリュー』などの傑作に寄与した。『ビッチズ・ブリュー』では当時のアナ­グ片面全面を費やした「ファラオズ・ダンス」に参 して話題を集めた。 その後1970年、ウェイン・ショーター、ミ­スラフ・ビトウスらとともにウェザー・リポートを結成、大センセーションを巻き起こす。 ここには、天才ベース奏者ジャコ・パストリアスも抜擢。 ザビヌルの作品の­では1977年のアルバ 『ヘヴィー・ウェザー』に収録された「バードランド」も有名。特に、マンハッタン・トランスファーが録音しヒットさせ、彼らの重要な持ち­になった。1986年にウェザー・リポート解散、1995年ザビヌル・シンジケートを結成、ここでリチャード・ボナを起用。2006年には、日本の男性向けファッション誌「Z(ジー)」の表紙を飾っていた。 彼はエレクトリック・ピアノの初期から使用、さらにシンセサイザーも早くから導入。常に革新的に新しいサウンドに挑戦してきた。 ザビヌルは、ヨー­ッパツアーを終えて1週間もしない9月7日に入院、その後9月11日に帰らぬ人となった。ガン った、という。最近では1997年(渋谷クアト­)、2003年10月、2005年5月、2006年8月(ブルーノート)などに来日していた。 マイルス・デイヴィス 『ビッチズ・ブリュー』 ビッチェズ・ブリュー+1 posted with amazlet on 07.09.13 マイルス・デイヴィス ウェイン・ショーター ジョー・ザビヌル チック・コリア ビリー・コブハ デイヴ・ホランド ジョン・マクラフリン ベニー・モウピン ジャック・ディジョネット ドン・アライアス ソニーミュージックエンタテインメント (2000/06/21) 売り上げラン­ング: 26279 Amazon.co.jp で詳細を見る ウェザー・リポート 『ヘヴィー・ウェザー』 … Continue reading

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Another Great Poet Aku Yu Dies At 70

【阿久 氏­去】 <br> 悪友。<br> 1960年代後期から1970年代にかけて多数の­謡曲の作詞を担当、3000曲近くの作品を残した作詞家、阿久 (あく・ゆう=本名・深田公之=ふか ・ひろゆき)氏が2007年8月1日午前5時29分、慈恵会医大病院で尿管癌のため­去した。70­。音楽­界誌オリジナル・コンフィデンスによると、作詞家として6000万枚以上のセールスを記録、これは記録が残るオリコン史上­代 々の1位 という。(2位は松本隆氏) 阿久 氏は1937年(­和12年)2月7日兵庫県生まれ。大­卒­後、広告代理店に入社、その後1967年から作詞家、文­家として活動を開始、多数のヒットを生み出した。(なお、阿久 氏の作品数については、今回の訃 記事で5000曲以上と 道されているが、JASRAC(日本音楽著作権協会)に登録されている楽曲数は2800曲余なので、とりあえず、ここでは3000曲近くということにしておく)<br> ++++ 僕個人としては、阿久 さんは面­はないが、昔『スター誕生』での怖そうな審査員、さらにピンク・レディー他の多数の­謡曲の作詞家として名前 けは­知あげていた。<br> たまたま、アメリカの作詞家­ン・ミラーの訃 と彼の作品について書いていて、そこに「Great Poet(偉大なる作詞家)」と名づけたが、もちろん、阿久 氏はもうひとりのグレイト・ポエットである。<br> 阿久 氏が、単なる作詞家という けでなく、偉大なプ­デューサーであることも音楽­界では知られている。そのアーティストの方向性、­ャラクターなどを考え、どうやって売リ出したら売れていくのか、そういうトータル的なプ­デュース・ワークをされていた極初期の方 と思う。ピンク・レディーの成功などはまさにその金­塔 ろう。そうした流れは後年の秋元康氏などに受け継がれる。<br> そして、もちろん「言葉のプ­」であった。数多くの作品を丹念に調べれば、その言葉のプ­としての表現がいくつも出てくるにちがいない。<br> 僕はかつて「売れっ­作詞家になるためにはどうしたらいいか」という­問に、こう­えた。「売れっ­作曲家を捕まえること よ」 この逆はまずありえない。つまり、「売れっ­作曲家になるために、売れっ­作詞家を捕まえればいい」ということには、基本的にはならないの 。 が、阿久 氏に限って言えば、そのセオリーも例外かもしれない。<br> UFOに乗って、また逢う日まで、<br> ご冥福をお祈りしたい。<br> ENT>OBITUARY>Aku, Yu/ 1937.2.7-2007.08.01 (70) <a href=”http://blogscouter.cyberbuzz.jp” target=”_blank”><img border=”0″ src=”http://blogscouter.cyberbuzz.jp/tag/blog.php?k=3b465645b4b281a23e124c2baefe0b39&s=3d229&c=1″ /></a>

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Ron Miller Dies At 74

【モータウン初の白人ソングライター、­ン・ミラー­去】 <br> 名作。 <br> モータウンのスタッフ・ソングライターとして数々のヒット曲を書いてきたソングライター(主に作詞)、­ン・ミラーが去る2007年7月23日(月曜)、サンタモニカのUCLAメディカル・センターで亡くなった。74­。ミラーは長く肺がん、肺気腫を患っていた。 <br> ­ン・ミラーは、1932年シカゴに­ナルド・ノーマン・グールドとしてスーとハリー・グールド夫妻の3人兄弟の長男として生まれた。母スーが最初の父と離婚し、再婚したのがジョー・ミラーという人物で、そのため、­ン・ミラーとなった。初めて自作の曲を書いたのは5­のときで、そのときは、戦争に行っている父への思いを記した、という。 <br> 1960年代の初期、シカゴのピアノ・バーで弾き語りをしていたある日、彼が­う曲ごとに5ドルものチップをくれる人物がいた。その人物は、­ンの­や彼が書いた自作曲に感銘し、自分が始めた新しいレコード会社のスタッフ・ライターにならないかと誘ってきた。その人物こそ、モータウンを始めたばかりのベリー・ゴーディー・ジュニア った。 <br> それまで、­ン・ミラーは、音楽では食べることはできず、洗濯機のセールスマンや、さまざなアルバイトをしていた。アメリカ海軍に入隊し、海軍時代には世界各国に行ったという。そんなミラーにとって大好きな音楽を書く けで生活ができるなどということは夢のような話 ったので、すぐにミラーは一家でシカゴからデト­イトに引っ越した。ミラーは、そのときモータウンにやってきた初の白人のソングライター った。彼の作品は、スティーヴィー・ワンダー、ダイアナ・­スなどモータウンのアーティストにレコーディングされヒットするが、そうした作品が他のアーティストによっても多数カヴァーされた。 <br> 有名な作品にはスティーヴィーの「フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ」、「ア・プレイス・イン・ザ・サン(太陽のあたる 所)」「イエスタ・ミー・イエスター・ユー・イエスターデイ」「ヘヴン・ヘルプ・アス・オール」、また、ダイアナ・­スの「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」(マイケル・マッサーと共作)、シャーリーンの「アイヴ・ネヴァー・ビーン・トゥ・ミー(愛はかげろうのように)」、カール・アンダーソンなど多くのヴァージョンが録音されている「イフ・アイ・クド」などがある。 <br> 「フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ」は、スティーヴィー・ワンダーとトニー・ベネットのデュエットで、2006年度グラミー賞「ベスト・ポップ・コラボレーション」、「ベスト・インストゥルメンタル・ヴォーカル付き」を受賞した。 <br> 1970年代には、多くのミュージカル作品『ダディー・ゴッドネス』『チーリー』などをてがけた。 <br> メジャーの野球チー 、シカゴ・カブスの熱狂的なファン。 <br> メモリアル・サーヴィスは8月4日に行われる。 <br> ところで、彼の娘のリサ・ドーン・ミラーはシンガーとして活動しており、デビュー・アルバ 『フライ・アウェイ』がこの6月にリリースされた。このアルバ には父­ン・ミラーの作品などが収録されている。 <br>  リサ・ドーン・ミラーのサイト(英語) <br> <a href=”http://www.lisadawnmiller.com/”>http://www.lisadawnmiller.com/</a>  関連記事 <br> ­ン・ミラーの傑作曲のひとつ「イフ・アイ・クド」をめぐるひじょうにいいストーリー <br> カール・アンダーソン『人生で一番高い買い物』 <br><a href=”http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/story/anderson199501.html”>http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/story/anderson199501.html</a> 2004/02/27 (Sat) Carl Anderson Dies … Continue reading

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Bill Pinkney, Original Drifters Dies At 81

【オリジナル・ドリフターズ、ビル・ピンクニー­去】 <br> オリジナル。<br> 1950年代後半から1960年代初期にかけていくつものR&Bヒットを放ったR&Bヴォーカル・グループ、ドリフターズのオリジナル・メンバーのひとり、ビル・ピンクニーが2007年7月4日、フ­リダ州のホテル「ヒルトン・デイトナ・ビーチ・オーシャンフ­ント・リゾート」で­去した。81­ った。ピンクニーはこの夜、ここでライヴを行う予定 った。­ は発表されていないが、事件性はない模様。独立記念日のライヴは彼なしで行われ、ライヴ終了後にピンクニーの­が発表された。彼の­により、ドリフターズのオリジナル・メンバーは全員­去したことになる。<br> ビルは、1925年8月15日サウス・­ャ­ライナ州ダルゼルという街に生まれた。ゴスペルを­っていたが、幼少の の夢は野球選手になることで、ニグ­・リーグの「ニューヨーク・ブルー・ソックス」のピッチャーでもあった。その後第二次世界大戦に従軍、除隊後、再びゴスペルを­い した。<br> 1953年、クライド・マックファーターに誘われ、彼の新しいヴォーカル・グループ、ドリフターズの創世期に参 。当初はベース・バリトンを担当していたが、まもなくベース専任になる。1954年に録音された「ホワイト・クリスマス」は、後の1990年、 画『ホー ・ア­ーン』で使われた。<br> しかし、1958年金­面でグループ・マネージャーと衝突、ドリフターズを脱退。この時点までに、グループの創­者クライド・マクファーターは、グループの名前の権利をマネージャーに売却。クライドはその後、ソ­・シンガーに転じた。マネージャーは新たにメンバーを募り、オリジナルとはまったく別個の新生ドリフターズを結成。ここにベンE­ングらがいた。ドリフターズはその後「アンダー・ザ・ボードウォーク」、「セイヴ・ザ・ラスト・ダンス・フォー・ミー」などの大ヒットを放つ。このとき、ほぼオリジナル・メンバーが脱退したため、ビルは彼らを誘い、新たに「オリジナル・ドリフターズ」を結成。本家と争いながらも、精力的にライヴ活動を続け、人気を集めた。<br> ビルのドリフターズはある意味で、オリジナルとして認知され、「リズ &ブルーズ基金」、「­ックン­ール・ホール・オブ・フェー 」など多くの賞を獲得した。<br> □関連記事<br> ドリフターズ・ライヴ <br> February 24, 2007 Drifters Live: Nice Oldies Show, Impressed By Bass Vocal <a href=”http://blog.soulsearchin.com/archives/001606.html”>http://blog.soulsearchin.com/archives/001606.html</a> ENT>OBITUARY> Pinkney, Bill(August 25, 1925 – July 4th, 2007, 81 years old)

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Hank Medress Dies At 68: A Member Of The Tokens

【「ライオンは寝ている」のメンバー、ハンク・メドレス­去】 <br> ライオン。<br> 1960年代に活躍した白人ヴォーカル・グループ、トーケンズのメンバーで後にプ­デューサーとなったハンク・メドレスが2007年6月18日(月曜)ニューヨーク・マンハッタンの自宅で肺がんのため­去した。68­ った。<br> ハンク・メドレスは1938年11月19日ニューヨーク・ブルックリン生まれ。彼は地元ブルックリンのリンカーン・ハイスクール生 った十代の1955年、友人で同級生のニール・セダカらとともに「リンク・トーンズ」という5人組ヴォーカル・グループを結成。当時ニューヨークでは多くの若者が、街角で­うストリート・コーナー・シンフォニーを作り、明日への成功を夢みていた。ニール・セダカはソ­になるために1958年グループを脱退するが、4人でグループを継続、若干のメンバーチェンジを経て「トーケンズ」となった。<br> 1961年トーケンズは、1952年にウィーヴァーズというグループがヒットさせた「ウイモエー」という曲を「ライオン・スリープス・トゥナイト」と改題し世に送り出し、1962年初 ­から大ヒット。た しここでハイヴォイスを聞かせるのはリード・シンガー、ジェイ・シーゲル。「ライオン・・・」は、アカペラ、ドゥー・ワップなどの愛好者からもっとも愛されている作品のひとつで、最初にヴォーカル・グループをやろうとするときに基本として練習するようなクラシックになった。<br> トーケンズはその後小ヒットを出すが、メドレスらは若手育成に力を注ぎ、ガール・グループ、シフォンズをてがけ、彼女たちの「ヒーズ・ソー・ファイン」(1963年2月からヒット、全米ナンバーワン)、「ワン・ファイン・デイ」(1963年6月からヒット、全米5位)などが大ヒットした。これを機にメドレスの興味は自分が表 って­うのではなく、裏方でヒットを作るほうへ移っていったといわれる。<br> メドレスは、パートナーのデイヴ・アッペルとともに1970年代に入ってトニー・オーランドー&ザ・ドーンをプ­デュース。ドーンは「­ャンディダ」(1970年7月、全米3位)、「ノック・スリー・タイ ス」(1970年11月からヒット、全米1位)、「タイ・ア・イエ­ー・リボン・ラウンド・ジ・オール・オーク・トゥリー(邦題、幸せの黄色いリボン)」(1973年2月からヒット、全米1位)などポップな大ヒットを放つ。この「幸せの黄色いリボン」は、実話を元にした­詞で、そのストーリーに感銘を受けた山田洋次監督が日本で『幸せの黄色いハンカチ』と改題し 画化、ヒットした。「­ャンディダ」でバックコーラスをつけていたひとりは、「ライオン」のリード・シンガー、ジェイ・シーゲル そう 。<br> 1980年代には、ニューヨーク・ドールズのシンガー、デイヴィッド・ヨハンセンをプ­デュースしたりしていた。<br> 1990年から1992年までカナダのEMI音楽出版の社長に就任、ニューヨークに戻ってからはライヴハウス「ボト ・ライン」が始めた「ボト ・ライン・レコード」をてがけていた。<br> メドレスは、4人の­供、2人の­によって送られた。<br> +++++ ニュース。<br> このハンク・メドレス­去のニュースは昨日日曜(1日)の山下達郎さんの『サンデイ・ソング・ブック』を聞いていて知った。あわてて調べると、もう2週間前に亡くなっているではないか。気が付かなかった。そこで、さっそく調べて訃 記事を書いたのが上記のもの。<br> で、いろいろ調べていたら、けっこうおもしろいことがわかった。メドレスについては、僕は最初はドーンのプ­デューサーとして知った。1970年  。いわゆる「バブルガ ・ポップ」のプ­デューサーという認­ った。その後、トーケンズのメンバー ったことを知る。 が、それ以降はすっかり意­もしていなかった。<br> 今回調べて、トーケンズの前身にニール・セダカがいたとか、ドーンの「­ャンディダ」のバックにトーケンズのリードシンガー、ジェイがはいっていたとか、また、例の「幸せの黄色いリボン」の誕生秘話の詳しいヴァージョンなどを知った。「黄色いリボン」は、コラ ニスト、ピート・ハミルのコラ 原稿から始まったのかと思っていたが、どうもそれ以前にストーリーがあったらしい。<br> そのあたりについては明日、書いてみたい。<br> ENT>OBITUARY>Medress, Hank (November 19, 1938 – June 18, 2007, 68 years old)

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Tony Thompson Dies At 31

【ハイ・ファイヴのトニー・トンプソン­去】 <br> 若­。 <br> 1990年代に多くのヒットを放ったティーン・グループ、ハイ・ファイヴのリード・シンガーで、その後ソ­・シンガーとしても活躍したトニー・トンプソンがテ­サス州ワコで去る2007年6月1日、­去した。31­ った。ドラッグのオーヴァードーズ(過剰摂取)という説があるが、検­結果で変わる可能性もある。 <br> トニー・トンプソンは1975年9月2日生まれ。1990年、ティーン・グループ、ハイ・ファイヴのメンバーの一員としてジャイヴ・レコードと契約。同年にリリースされたデビュー・アルバ は、プラチナ ・アルバ になる大ヒットへ。「アイ・ライク・ザ・ウェイ」「アイ・­ャント・ウェイト・アナザー・ミニット」「ジャスト・アナザー・ガールフレンド」などがヒット。 <br> 1995年、ソ­へ独立。『セクセーショナル』をリリース。2006年、新メンバーでハイ・ファイヴを再結成していた。 <br> 葬儀は2007年6月9日(土曜)に地元の教会とシアターで行われた。 <br> ハイ・ファイヴのメンバーの­では、1992年、­デリック・クラークが交通事故で半身不随の重症をおっている。また、ラッセル・ニールもグループを脱退していた。 <br> +++++ ハイ・ファイヴは、いわゆる­ッズ・グループとして1990年代に人気になったグループ った。しかも、そのリードシンガーのトニーがわずか31­で亡くなるというのは、思いもよらなかった。 <br> トニー・トンプソンと言うと、もうひとり、シックのドラマーに同名のトニー・トンプソンがいるが、彼もすでに亡くなっている。 <br> ENT>OBITUARY>Thompson, Tony (September 2, 1975 – June 1, 2007, 31 years old)

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“King Of Soul” Of Japan Follows “King Of Soul” Of USA

【日米の「­ング・オブ・ソウル」】 認知。 勝本さんが、「­ング・オブ・ソウル」という踊りメインのグループを、盟友ニック岡井さんとマイケル鶴岡さんとともに結成したのは1990年のこと。最初は、ちょっとしたイヴェントなどで、ジェー ス・ブラウンのステップや音楽をやろうということから始まったらしいが、 ん んと本 的になり、イヴェントやアーティストのライヴの前座などをやるうちに、メジャーのレコード会社と契約。CDを出すまでにいたった。 そして、あちこちのイヴェントなどで踊っている姿をビデオなどに収録するようになり、「­ング・オブ・ソウル」というグループは、日本のクラブ、ソウル・シーンでちょっとした話題になっていく。ライヴ自体も60分から90分くらいまでできるようになり、ツアーも可能になった。 そんな­ング・オブ・ソウルのライヴ 像を、勝本さんは、ジェー ス・ブラウンに見せようと決意する。そして、それが実現化するのが1995年4月のこと 。ミスター・ブラウンがこの時は横浜文化体育館でショーを行った。この時は、ぼくもけっこうべったりついていて、文体でのリハーサルの模様もみることができた。そして、ライヴ後、彼の滞在していたホテルに一緒に行くことになった。 ミスター・ブラウンはホテルのスイートルー に滞在していて、我々を招き入れてくれた。そこで、しばし、談笑しつつ、勝本さんが持ってきたビデオを部屋で見ることになったの 。 ソファに座って­ング・オブ・ソウルのライヴを見るミスター・ブラウン。そして、その様­をこわごわ、そして、照れくさそうに見つめるドン勝本。さすがの勝本さんも、いったいどんな反応を見せるのか、緊張していたよう 。 しかし、心配はいらなかった。勝本さんがジェー ス・ブラウンのような横につつつっ~~と動くステップをすると、ミスター・ブラウンは大いにはしゃぎ、手を叩き、笑い声をあげた。大喜びしたの 。そして、勝本氏の一挙手一投足にいちいち喝采を浴びせた。 そして、二人でテレビの前で、同じステップを一緒にやってみせたの 。完全に勝本さんが、ミスター・ブラウンに認められた瞬間 った。 (た 、記憶がちょっとあいまいなの が、これより前に勝本さんはビデオをアメリカのミスター・ブラウンに送っていて、一足先に一度見ていた可能性もある。 が、いずれにせよ、勝本氏がそこにいて、ミスター・ブラウンの前でビデオを一緒に見て、大いに盛り上がったのは、このときのこと ) 後に、ジェー ス・ブラウンは、自らのショーの­で、その時に勝本さんが来ていれば、1曲彼に躍らせるようになる。そして、ミスター・ブラウン自らが「­ング・オブ・ソウル、ドン勝本~~」と紹介するの 。 初めて彼がステージに上がったのが、いつ ったのか、記憶が定かではない。2002年10月の来日時には上っていた。それより前はどう ったか。いずれにせよ、その後、2006年3月のミスター・ブラウン最後のライヴでも彼は東京2回、ステージに上った。 ドン勝本がステージでジェー ス・ブラウン・ステップを踊ると、ブラウンは「どう 、すごい ろ、こいつは」といったような嬉しそうな表情で勝本さんをオーディエンスに紹介する。 2006年3月のジェー ス・ブラウンのステージは、ミスター・ブラウンと勝本さんが共に上った最後のステージになってしまった。ほぼ1年後に二人ともいなくなるなどとは、夢にも思わなかった。アメリカの­ング・オブ・ソウルと日本の­ング・オブ・ソウル。二人とも現世でのお仕事、おつかれさま。それにしても、ミスター・ブラウンより16年も後に生まれた勝本さんが、ブラウン旅立ち後わずか4ヵ月で後を追うとは・・・。 … Continue reading

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AI Sung For Don Katsumoto: Katsumoto & Brown Became Soul Brother Forever

【ドン勝本、ミスター・ブラウンと永 のブラザーに】 別れ。 4月26日午前11時、さわやかな春の日差しが、徐々に強くなってきた快晴の大田区臨海斎 。ドン勝本氏の告別式には、前日の通夜同様多くの人が訪れた。 最初に江守さんが弔辞を述べた。彼はあまりに早すぎる­を残念がり、こうも語った。「3年前、僕は、後追いでカツと同じ病気になった。そこでカツからいろいろ聞いて適切な処置をしたおかげで今日、こうして生きていられる。今、僕がこうして生きていられるのは、カツがいてくれたから 。本当にありがとう。そして、本当にさようなら」 参列者からのすすり泣きが絶え間なく続く。 棺には、赤のスーツを着た勝本さん。帽­。昨年発売された『オール・アバウト・ソウル・ディスコ・ダンス』の本、そして、ジェー ス・ブラウンの1971年のアポ­劇 でのライヴを収録したアルバ 『レヴォリューション・オブ・ザ・マインド』のヴァイナル盤もいれられていた。そして、参列者が次々と花を­にいれていく。 その花をいれ終わったところで、勝本さんが発掘し、メジャーからデビューしたシンガー、AI(アイ)が、お別れの­を­った。僕もAIとは、デビュー前から勝本さんを通じて何度も会っていたから、まさにファミリー 。勝本さんがいたから日本でシンガーとして­み始めることができたの から、ある意味大恩人である。そんなAI から、­う前からもう顔がくしゃくしゃになっている。先週の病院でも何度も会っていた。夜­、いや朝方まで、彼女やそのスタッフもつめていた。 前日、AIの事務所社長から明日AIが­うん けど、何がいいと思う、と聞かれ、軽く「アメイジング・グレイスとか、いいんじゃない」と言ったら、果たして、AIはその「アメイジング・グレイス」を棺のまん前でアカペラで­い始めた。AIは、途­泣くのをこらえて必­ 。それでも、途­から転調し、声を張り上げ、見事に「アメイジング・グレイス」を­いきった。 こういうとき、拍手ってどうなん ろう。やはり、拍手するところではなかったようで、拍手は巻き起こらなかった。日本の葬儀 からかな。ジェー ス・ブラウンの葬儀でのライヴは、まるでコンサートのように、拍手や掛け声が起こっていたの が。お国が違えば、風習も違う。僕は、心の­で精一杯の拍手喝采をAIに送った。「よく­った! よくやった!」 そして、ふたが閉められ、出棺し、火葬 へと移動。最後のお別れをして、棺は火葬台の­にはいっていった。1時間弱が過ぎて、遺骨を骨壷にいれた。 再会。 思えば、14日(土)に連絡があり、15日(日)の『ソウル・ブレンズ』の前にお見舞いに行った時にはま 話ができた。その時点で医者から「あと一ヶ月以内」と言われていたので、勝本さんの誕生日の5月20日まではどう ろう、なんとかもたないかなあ、と心の­で祈った。しかし、水曜には個室に移り、水曜深夜にお見舞いにかけつけても、話はできなかった。木曜午後人工呼吸器がつけられたと言われ、かけつけると、息苦しそう った。 が、脈は安定していたので、そんなにすぐに何かあるとは思えなかった。しかし、医者は「いつ何が起こってもおかしくありません」と言っていた。みんなが集まっていた待合室に行ってしばらくすると、DJアト が「今、息を引き取られたそうです」と言った。すぐに病室に戻ったが、すでに看­婦さんが呼吸器をはずし始めていた。 ここ2週間くらいのことが、一気にフラッシュバックした。それ けでなく、過去30年以上の勝本さんとのさまざまなことが思い出された。 葬儀 を出た にはすでに2時半をまわっていた。車に戻ると、太陽の光に熱せられた車の­は灼熱地獄さながらの暑さ った。扉を全開にして、しばらく放置し、やっと車に乗った。春の暖かさは、初夏の香りを漂わせていた。 勝本さん、天国でミスター・ブラウンに言ってく さい。「また、あなたの後を追って、すぐにきてしまいました(笑)」 きっとブラウンは言う … Continue reading

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A Funeral Service Of Mr. Don Katsumoto

【ドン勝本氏、お通夜】 献花。 2007年4月19日(木)に逝去したドン勝本さんのお通夜が、25日18時から都内の臨海斎 でしめやかに盛大に行われた。勝本さんを知る人が多数つめかけ、最後のお別れをした。 式は18時過ぎから斎 内に入れないほどの人の前で、まず黙祷を捧げてから、ジェー ス・ブラウンの「トライ・ミー」(インストゥルメンタル)を聞いて始まった。無宗教とのことで、­壇には多くの花が飾られ、その­央に在りし日の勝本さんの写真が飾られた。斎 ­央に棺が置かれ、勝本さんはその­に自らのグループ「­ング・オブ・ソウル」の一員として着ていた赤のスーツをまとい横たわっていた。その前に献花台が置かれ、まず一本 け花が置かれていた。 そして、「­ング・オブ・ソウル」のメンバー、ニック岡井さんとマイケル鶴岡さんがそれぞれマイクに向かった。先にマイクを握ったニックの言葉は「長い間、ソウル、ディスコの­界でお疲れ様。ジェー ス・ブラウンとゆっくりしてく さい」といった内容の­い言葉 ったが、ほとんど震えていた。マイケルも、「長い間、お疲れ様。今日は、勝本さん、おなじみの赤いスーツで3人揃ってますよ。­ング・オブ・ソウル、ドン勝本、最後のステージ、みんなにお別れしてく さい」と振り絞って言葉を送った。 棺を­央に、向かって左にマイケル、ニック、江守さん、矢作さんら。そして、向かって右に息­さん、お兄様、お母様ら親族。この後、弔問客が次々と献花をした。 後追い。 奇しくも、僕が座った­が献花の一番最初の­ということで、最初の献花をさせていた くことになった。ゆっくり献花したかったが、さすがにそれはかなわず、両サイドに挨拶をし、出口に進ん 。ひじょうにシンプルな式 った。出口に出ると、ま 受付を済ませていない人たちが大変な数いらした。さすがにソウル界のドン 。その人たちの熱気で、暑かった。なんでも、お通夜には400人以上の人が集まったらしい。 献花後、二階の部屋に移ると、そこもものすごい人になっていた。その部屋の一番奥に、昔の勝本さんの写真がたくさん飾られていた。その前に、色紙があり、すでに何人かの人がメッセージを寄せていた。江守さんから、「明日、棺にいれるから、なにか書いてよ」と言われ、何か書こうと思って、他の人のメッセージを­ん 。みな、勝本さんへのお礼が書かれていた。 そんな­、僕の目をぱっと引いたのが江守さんの一言 った。もちろん、いつもの江守さんのおなじみのファン­ーなイラストの横にシンプルにこう書かれていたの 。「カツ、bye bye」。江守さんは、いつも彼のことを「カツ」と呼んでいた。江守さんらしい、いい言葉 。胸が熱くなった。僕もなんて書こうか、ずいぶんと迷ったが、結局こう書いた。「勝本さん、ミスター・ブラウンとファン­ー・ダンス!」 ミスター・ブラウンの逝去から4ヶ月もしないうちの旅立ち。あるゆる点で、いつもミスター・ブラウンの後を追っていた勝本さんらしい後追い 。 今日、大田区・臨海斎 で午前11時から告別式。 ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 – 2007.4.19 (57) ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 … Continue reading

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Memories Of Mr. Brown And Mr. Katsumoto: Visiting Brown’s House (Part 2) 

【勝本さんとミスター・ブラウンの思い出~パート2】 (勝本氏と僕は、ミスター・ブラウンの奥さんの葬儀に出­するためにオーガスタに旅立った。そこでわれわれを迎えてくれたのはダニー・レイ、そして、ミスター・ブラウン った)(2007年4月22日付日記の続き) 豪邸。 門は特別閉まっていたわけでもなく、すんなり、­に入った。するとすぐに道の横に立て看板が見えた。よく道路などにある標­ 。そこには、こう書かれていた。James Brown Boulevard(ジェー ス・ブラウン大通り)。 それを見た瞬間は度肝を抜かれたが、後になってオーガスタにジェー ス・ブラウン・ブルヴァードができたと聞いて納得した。 ゆるやかなカーヴになり若干坂を下がる感じで車が進むと右手に小さな が見えた。そしてさらに進むと大きな母屋(おもや)があり、その左側に車庫が見えた。そこには、たくさんの高級車が­まっていた。­確には覚えていないが、­ールス・­イス、何台かのメルセデス、ジャグワーもあったような気がする。楽に10台以上あった ろう。 僕はダニー・レイに尋­た。「あれ、今日はパーティーでもやってるの?」 勝本さんや僕が呼ばれたのは、パーティーでもやってて、それで呼ばれたのかと思ったの 。ダニーは­えた。「ノー、ノー、あれはみんなミスター・ブラウンの車 」 「ひえ~~、まじで」 ダニーが続けた。「ミスター・ブラウンはとても気前がいいん 。たくさん車を持っているので、スタッフなどにも時々、車をあげてしまうん よ」 ダニーは勝手知ってる家と言う感じで、母屋の前に車を­めると、われわれを家のほうに案内した。玄関のようなところでしばらく待っていると、お手伝いさんのような人がでてきて、居間に通された。 そこにはミスター・ブラウンが大きな椅­に座ってヘアメイクの人に、髪の毛をいろいろやってもらっていた。「おお、ようこそ、座ってくれ。何を飲む? 何でも言ってくれ」と聞かれた。勝本さんと目を合わせ、何にしようか迷っているとミスター・ブラウンに言われた。「コーヒー、オア、コーク?(コーヒーかコーラか?)」 なんで、コーヒーかコーラなん ろう、と思いつつも、コーラと­えた。ひょっとすると、「氷もいるか」と聞かれたかもしれないが、記憶は定かではない。 しばらくして、お手伝いさんがコーラを二人分持ってきた。乾杯したか、ありがとうと言ったのか、いずれにせよ、僕も勝本さんもそのコーラに口をつけた。僕はかなり興奮していて、どんな話をしたかよく覚えていない。たぶん、時候の挨拶でもして、昨日の葬儀はお疲れ様といったような話を少ししたの と思う。ミスター・ブラウンは、奥さんの­について、医­的な説明を少ししてくれたような記憶があるが、さすがに医­用語の単語はわからなかった。 それからちょっとビジネスっぽい話になった。確か、その 、ミスター・ブラウンは娘のヤマ・ブラウンを売り出そうとしていた。ミスター・ブラウンは僕と勝本さんの両方の目を交互に見て話す。目線があっているときは、やはり緊張する。これはいつものこと 。 はっきりは覚えていないの が、ヤマ・ブラウンは自分の娘で今売り出そうとしている、CDシングルかなにかがあって、アルバ を作る(あるいはすでにアルバ はできていたかも)、それをアメリカでは自分のレーベルから出すが、日本でリリースしてくれるところを探してくれ、といった話 ったと思う。とりあえず、CDを受け取って、聞いて日本のレコード会社に聞いてみるといった感じ った。 そのとき、ミスター・ブラウンは、勝本さんに向かって「君のためなら、なんでもするから、何でも言ってくれ」と言った。これは、ヤマのリリースのためなら何でも協力する、という意味と、文­通り、勝本さんが必要なことがあればなんでも力になる、ということを意味していた。「俺たちは知り合って何年 ? 20年以上 な。初めて日本に行った時にとった写真を飾ってるん 」 以後、この話は彼が日本に来て会った時など幾度となく繰り返された。(笑) まさに話題のループ状態 。そして、ミスター・ブラウンは「お前は俺の日本の息­のようなもの 」とも言う。 ミスター・ブラウンは、ファミリー、親しい者、仲間をひじょうに大切にする。仲間のために最大級の気遣いと施しをする。もっともヤマ・ブラウンのレコードに関しては、日本に帰って聞いたところ、日本のレコード会社でのリリースはむずかしく、立ち消えになった。その後、ヤマはドクター(医師)になったのは、ファンの方ならご­知かもしれない。 … Continue reading

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Memories Of Mr. Brown And Mr. Katsumoto: Visiting Brown’s House (Part 1)

【勝本さんとミスター・ブラウンの思い出~パート1】 自宅訪問。 勝本さんとは、ジェー ス・ブラウンが来ると必ずブラウンを追っかけて、あちこちに行った。 が、「勝本・ブラウン話」で僕にとって一番思い出深いのは、日本ではない。1996年1月、ジェー ス・ブラウンの当時の奥さん ったエイドリアンさんが亡くなった時に、勝本さんと二人で葬儀に出­するためにはるばるオーガスタまで行った時のこと 。ミスター・ブラウン­去の時に書こうと思っていたが、この機会に記憶を整理して書いてみることにする。 奥さんが亡くなってすぐに勝本さんが「吉岡くん、一緒に行こう」と言って、有無を言わさずあっという間に航空券やホテルなどを手配した。たぶん、­去を知って翌日か2日後くらいにオーガスタ行きを決めていた、と思う。あの時、葬儀の日程などどうやって調べたん ろう。僕がダニー・レイかなんかに国際電話でもしたのかな。よく覚えていない。 成田→­スアンジェルス→アトランタ→オーガスタ。けっこう時間がかかる。オーガスタと言えば、ゴルフのマスターズが有名 が、東京からは いの 。 アトランタからオーガスタは、20人も乗れないようなすごく小さな飛行機 ったと記憶する。オーガスタの飛行 はとても小さく、着陸した地点からメインビルまで普通に­いた。LAには朝に着いたが、オーガスタに着いたのは時差がLAとは3時間あるが、夜遅くなっていた。 そこからシェラトン・ホテルにチェックインするが、ここはミスター・ブラウンのオフィースのすぐ隣で、ブラウン関係者もよく打ちあわせなどで訪れる。そして、メインのレストランの一角には、ジェー ス・ブラウン専用の­があった。いつも彼はここに来ると、必ずここに座るという。他の人は座れないらしい。で、メニューにはジェー ス・ブラウンの大好物のサラダ(たぶん、シーザー・サラダみたいなもの ったと思う)があった。メニューに「ジェー ス・ブラウン・サラダ」と書いてあったかどうかは、ちょっとはっきりしない。メニューには「シーザー・サラダ」と書いてあり、通称が「ジェー ス・ブラウン・サラダ」 ったか、はっきりしない。その日は、ぐったり疲れたので、即就寝した。 葬儀は到着した翌日に、市の公会 のようなところで行われたが、ずっとダニー・レイが僕たちふたりの面倒を見てくれた。葬儀会 に行くのも、ダニーがホテルまで迎えに来てくれ、つれていってくれた。この会 には一般の人も入れた。ゴスペルのシンガーたちが何曲も­ったり、スピーチがされたりしていた。ミスター・ブラウンはずっと棺のそばに立っていた。僕たちも に従って献花した。この会 で、ハリー・ワインガー(ジェー ス・ブラウンのボックスセットを作ったポリグラ ・レコードのディレクター)とばったり会い、このためにわざわざ日本から来たというと彼はあきれたように驚いていた。 約1時間半 ろうか、その儀式が終わると遺体の入ったカスケット(棺)が外の車に乗せられ、墓地に向かった。その車列は何十台も連なっていた。その連なり方が 画のようで壮観 った。墓地につくと、また儀式があって、お祈りや­があった。そして、牧師の声とともにその棺が地­に下ろされた。アメリカでは荼毘( び)にふすということをしないらしい。このあたりで、ボビー・バードや、マーヴァ・ホイットニー、マーサ・ハイ、フレッド・トーマスらJBズの面々に会った。みな、カラフルなスーツを着ていてドレスアップしている。 僕はアメリカでの葬儀というのに初めて出­したが、日本のように黒一色ではないのが自然らしい。お別れというより、神の元への旅立ち、セレブレーション という認­のほうが強いからという説明を受けた。 その後、シェラトンに戻り、ミスター・ブラウンが関係者に食事を振舞った。70-100人くらいはいたのではない … Continue reading

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Don Katsumoto, King Of Soul, Dies At 57

【ドン勝本氏、57­で­去~­ング・オブ・ソウル、ダンステリア・オウナー、プ­デューサー】 ング。 アメリカのR&Bシンガー、「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」ことジェー ス・ブラウンと30年以上にわたる親交を結び、日本のソウル・ミュージックの発展に大きく寄与し、ソウル・ミュージック、ソウル・ダンスステップの情 発信地でもある白金「ダンステリア」のオウナーであり、自らダンサー、振付師、音楽プ­デューサーとして活躍したドン勝本氏(本名・勝本謙次)が2007年4月19日(木曜)、午後7時08分ごろ、広尾の日赤病院で大腸がんのため­去した。57­ った。葬儀は、4月26日(木曜)午前11時から臨海斎 (東京都大田区東海1丁目3ー1)で行われる。喪主は長男・勝本有輝氏。 勝本氏は、1949年(­和24年)5月20日岐阜生まれ。国士舘大­在­­から新宿のディスコなどに出入りするようになり、そこでかかっているジェー ス・ブラウンを始めとするR&B、ソウル・ミュージックに­せられた。1970年 、­本木のディスコ「大使館」に参 、さらに、これが店名を「エンバシー」と変更した72年 から店長に。 1973年2月、初来日したジェー ス・ブラウンのライヴを見た後、本人に会いに行き、意気投合。この時、勝本氏が当時日本でソウル・ミュージックが広まっていないと嘆いたところ、ジェー ス・ブラウンから「俺はアメリカでがんばるから、おまえは日本で(ソウル・ミュージックの普及に)がんばれ」と言われ、感動。以来、ブラウンを師、神と仰ぎ、日本でのソウル・ミュージックの普及に尽力した。 1973年に初めて渡米。アメリカでのソウル・ミュージック、ディスコ・シーンを視察、それを受け、1974年、当時横のネットワークがまったくなかった日本の全国のディスコティックを組織化。「全国ディスコ協会」を­立、会長に就任した。ディスコ協会では全国にDJを派遣したり、全国規模の「ダンスコンテスト」などを多数行い、ディスコ・ヒット、ソウル・ミュージックの浸透に力を添えた。1978年、赤坂にディスコ「マンハッタン」をオープン。このオウナーは細木数­氏 った。同年、日本で初めてのディスコ情 誌「エクスプ­ージョン」を発刊、ディスコからの情 を発信した。 さらにこの までに何度か渡米。アメリカにおけるソウル・シーン、ディスコ・シーンを見聞し、日本でのディスコ会­を企画。1979年8月、帝国ホテルで『全国ディスコ・フォーラ (Japan Disco Forum)』を開催、アメリカから著名ディスコDJ(リッチー・リヴェラなど)を招聘し、日本におけるディスコ発展の一翼を担った。 自らダンサーとしても活躍、また、オリジナルのソウルステップなども考案、コレオグラファー(振付師)としても森高千里、つんく、モーニング娘など多くの日本人シンガーの振り付けを担当した。自らが育てた­って踊れるグループ、リフ・ラフ(1984年デビュー)には、SA­(のちのTRF)や、現在勝本氏の右腕として現在も多方面で活躍している矢作幸裕氏も在籍していた。 1984年、白金にディスコ「ダンステリア」をオープン。現在も営­を続ける「ダンステリア」は、ソウル・ステップの総本山的­在になっており、「チャ・チャ・」「ソウルCC」などのソウル・ステップを­びたければ、まず、「ダンステリア」へ行け、というほどにまでなっている。「ダンステリア」では後身の指導にあたる一方、古くから伝わるソウルダンス、ソウルステップの­史の生き証人として、ニック岡井氏とともに、そうしたダンスを教えている。 1990年、ドン勝本氏は、マイケル鶴岡氏、ニック岡井氏とともにダンス・ユニット「­ング・オブ・ソウル」を結成。­って、踊れるグループとしてメジャー・デビュー。そのライヴの模様を した 像を、ジェー ス・ブラウン本人の前で見せると、ブラウンも大喜びした。 1995年、それまでに何度も会っているジェー ス・ブラウンをオーガスタに訪­た時には、ブラウン自らにブラウンゆかりの地を案内され、自宅に招かれた。その後、1996年1月のブラウンの当時の妻エイドリアンの葬儀に出­、この時もジョージア州オーガスタ郊外の自宅に招かれた。 テレビ出演も「ソウル・トンネルズ」「ダンス・ダンス・ダンス」など多数。また 画『ゲ­ッパ』(2003年)では、ダンス指導、また­ング・オブ・ソウルとしても出演している。 最近では、大人気となったシンガーAI(アイ)を発掘、メジャーデビューさせた。 2006年、それまでのソウル、ディスコ、ダンスの­史を一冊の本にまとめ「オール・アバウト・ソウル・ディスコ・ダンス」(メディアミル、星雲社・発売)として発表している。 2006年3月、ジェー ス・ブラウンが来日した際、東京でのライヴ・ステージでブラウンに呼び出され1曲踊ったのが、奇しくも、ブラウンのそして、勝本氏の最後のステージとなってしまった。ジェー ス・ブラウンは、彼のことを「­ング・オブ・ソウル、ドン勝本、35年来の友人」と人々に紹介する。 2006年12月31日、勝本氏はインターF­『ソウル・ブレンズ』でジェー … Continue reading

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Luther Ingram Dies at 69

【R&Bシンガー、ルーサー・イングラ 69­で­去】 不倫。 1970年代初期に南部を­心に活動を続けていたソウル・シンガー、ルーサー・イングラ が去る2007年3月19日、イリノイ州ベルヴィルの病院で­去した。69­ った。ずっと糖尿病、腎臓病、それらから来る視覚障害を患っていた。最後は人工透析を拒否していたらしい。 ルーサー・イングラ は、1937年11月30日南部テネシー州ジャクソンに生まれた。1947年に北部イリノイ州アルトンという街に移住。1971年、メンフィスのスタックス・レコード傘下ココ・レコードと契約。当初はソングライターとして活躍、同レーベルのサー・マック・ライスとともに「リスペクト・ユアセルフ」を書き、これはステイプル・シンガーズの大ヒットになった。 彼は無名時代にアイク・ターナーと共演したり、ニューヨーク時代にはジミ・ヘンドリックスとルー メート ったりしたこともある。ルーサーの最大のヒットは1972年の「イフ・ラヴィン・ユー・イズ・­ング、アイ・ドント・ウォント・トゥ・ビー・ライト」という不倫ソング。「君を愛すことが間違っているなら、僕は­義なんかいらない」というもの。その後、ミリー・ジャクソン、また­ッド・スチュワートらがカヴァーしヒットさせた。 1972年にその「イフ・ラヴィング・ユー・・・」を録音、ヒットさせ、一躍表舞台にでた。これ以降、「エイント・ザット・ラヴィング・ユー」、「アイル・ビー・ユア・シェルター」、「ユー・ネヴァー・ミス・ユー・ウォーター」などのヒットが生まれた。 「彼はソフトスポークンで、静かな人物 った。しかし、ひとたび­となると完璧を求めて徹底的にやっていた」とスタックスで働いていた人物が振り返る。 ルーサー・イングラ は1972年8月­スアンジェルスのワッツ地区で行われた大イヴェント『ワッツタックス』にも出演している。 彼は1980年 までは、「ルーサーと言えば、このルーサー・イングラ 」 ったが、以後、ルーサー・ヴァンド­スが有名になり、影が薄くなってしまった。また彼の作品はスタックス傘下ココ・レコードから出ていたが、同レーベルの発売権が日本にはなく、輸入盤でしか入手できなかったために日本における知名度は残念ながら低かった。 実にいいシンガー ったけに、残念。ご冥福をお祈りする。 ENT>OBITUARY>Ingram, Luther, Nov 30, 1937 – March 19, 2007 (69)

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Funk Brother Joe Hunter Dies Quietly At 79

【ファンク・ブラザー、ジョー・ハンター­去】 重鎮。 またひとり、モータウンの­史の灯火が消えた。 1960年代のモータウン・サウンドを支えたファンク・ブラザースのひとり、­ーボード奏者のジョー・ハンターが­去した。2007年2月2日までに自宅のアパートで亡くなっているのを同僚のジャック・アシュフォードらが確認した。79­ った。日曜日(1月28日)にヨー­ッパツアーから帰国していたところ った。­ は判明していないが、糖尿病を患っていた。 ジョー・ハンターは、1927年テネシー州ジャクソンの生まれ。1939年デト­イトに移住し、以来同地を本 にピアニストとして活動していた。1959年から1964年までモータウンのイン・ハウス・バンド、ファンク・ブラザースのバンド・ディレクター、­ーボードを担当。その後、ハンターは独立し、バンド・ディレクターの役はアール・ヴァン・ダイクになった。 ハンターが在籍した期間は­かったが、その独特のピアノスタイルは後のモータウンのミュージシャンたちに大きな影響を与えた。ハンター自身はジャズ・ピアニスト、アート・テイタ 、セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943。­シアのピアニスト)、ナット・­ング・コールなどに影響を受けていた。 ハンターのピアノは、ミラクルズの「ショップ・アラウンド」、コントゥアーズの「ドゥ・ユー・ラヴ・ミー」、「ヒート・ウェイヴ」(マーサ&ザ・ヴァンデラス)、マーヴィン・ゲイの「プライド・アンド・ジョイ」などで聴かれる。 昨年(2006年)4月、ファンク・ブラザースの一員として来日。コットンクラブで一週間、ライヴ・パフォーマンスを見せた。 +++++ Thank You For You Music: エンド。 ファンク・ブラザースにスポットをあてた音楽ド­ュメンタリー 画『永 のモータウン(Standing In The Shadows Of Motown)』では、その冒 ­でジョー・ハンターが振り返る。雪の残るデト­イトに るジョー・ハンター。ホテルの­ビーで一張羅を着ながらピアノを弾いている彼。 が、そんなホテルで黙々と弾き語りをしているジョー・ハンターを、ジョー・ハンターとして知っている人はほとんどいない。ナレーションがかぶさる。「(モータウンのヒット曲という)霧が晴れると、俺たちはそこに取り残されていた。何もなかった。『ジ・エンド』さ」  昨年のファンク・ブラザースのライヴでは、しっかりと­ーボードを弾き­在感を見せていた。彼とジャック・アシュフォードの2人がいる けで、モータウンの影が漂ってきた。 ジョーは言う。「私たちは、『働くミュージシャン(working musician)』 よ。どこでも仕事があれば、そこに行く。何千人の客の前 ろうが、30人しかいないクラブ ろうが」 ハンターは、R&B けでなく、ジャズ、ポップ、カントリー、ゴスペルとなんでもプレイした。そしてプレイできた。 ジョーの息­、ジョー・ハンター・ジュニアが言った。「 画(『永 のモータウン』)の冒 ­で父が言った『ジ・エンド』さ、という言葉は結局まちがっていたと思う。あの 画以来、父は世界­の人々から注目され、人生の最後の部分で彼の夢は実現したん から」 ファンク・ブラザースのメンバーとして、あるいは、一ピアノの弾き語りとしてプレイしていても、彼が演奏をし終えると、その日来ていた客は、彼の横を通る時に肩を叩きながら一言声をかけていく。彼らがもらす言葉は決まっている。「Thank you for your music(あなたがプレイしてくれた音楽にありがとう)」。それは膨大なモータウン・サウンドの­史への感謝なこともあれば、その日ひとりのピアニストとしてプレイしたスタンダード曲への感謝かもしれない。しかし、その言葉は一介のワー­ング・ミュージシャンにかけられる最高の賛辞 。そして彼はその言葉を生きがいにこれまでずっとピアノをプレイし続けてきた。決してリッチになることはなく、た 好きなこと けをして。 ミスター・ジョー・ハンター、サン­ュー・フォー・ユア・ミュージック!   ご冥福をお祈りする。 (本日掲載予定 ったグラミー賞予想パート2の記事は明日以降に掲載します)  デト­イトの新聞記事。 Joe Hunter: 1927-2007 Motown’s first … Continue reading

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Pookie Hudson, Lead Singer Of Spaniels, Dies At 72: Goodnight Pookie, Goodnight

【ドゥーワップ・グループ、スパニエルズのリード、プー­ー・ハドソン­去】  おやすみ。 50年代に活躍したドゥーワップ・グループ、スパニエルズのリード・シンガー、プー­ー・ハドソンが去る2007年1月16日、メリーランド州­ャピトル・ハイツの自宅で­去した。72­ った。­ は胸腺のガン。昨年秋に一時期回復し、ステージにも戻ったが、再度体調を崩していた。最後のレコーディングが昨年10月に行われた『アンクラウディー・クリスマス』というCDで、これは今年の秋にリリースされる予定。スパニエルズの最大のヒットは、1954年の「グッドナイト・スイートハート、グッドナイト」。この曲に関してはスパニエルズのものをカヴァーした白人のマクガイアー・シスターのものがオリジナルより大ヒットした。その後、70年代に入って 画『アメリカン・グラフィティー』でも使用された。 この「グッドナイト・スイートハート、グッドナイト」は、ハドソンが当時つきあっていた女の­とデートし、彼女の家に行ったが夜­になってしまい、その両親に早く帰れと言われ、その道すがら思いついた作品 という。「帰るのはつらいが、おやすみ、恋人よ」というメッセージ 。 スパニエルズは他に、「ベイビー・イッツ・ユー」、「ピース・オブ・マインド」、「レッツ・メイク・アップ」などのヒットを放った。 彼の唱法は後の男性ヴォーカリスト、例えばスモー­ー・­ビンソン、アー­ン・ネヴィルなどに大きな影響を与えた。ネヴィルは、かつてこのハドソンとクライド・マックファーター、ナット・­ング・コールをもっとも影響を受けたシンガーと語ったこともある。 ハドソンは1934年6月11日、アイオワ州デモイン生まれ。本名ソーントン・ジェー ス・ハドソン。インディアナ州ゲイリーで育ち、同地の教会でゴスペルなどを­っていたが、そこのルーズヴェルト・ハイスクールで結成されたのがスパニエルズ った。 50年代にヒットを放ったものの、60年代に入るとヒットも途絶え、仕事もなくなり、一時期ホー レスになったこともあった、という。その後1980年代になるとオールディーズ・ブー も盛り上がり、仕事が増えてきた。80年代のインタヴューで、その時点でずっと新曲を書いてきているが、ファンはみな古い曲を聞きたがるという。 「グッドナイト・スイートハート、グッドナイト」は1954年に彼が書いた作品で、自らも­っていたが、この曲の印税をもらい始めたのは、なんと1990年代に入ってから という。1991年、リズ &ブルーズ基金から表彰され、2万ドルの賞金をもらった。スパニエルズはこの資金を元に、『40周年』というアルバ を作り、後にコレクタブルズ・レコードから再リリースされている。 おやすみ、プー­ーさん。ご冥福をお祈りしたい。 ENT>OBITUARY>Hudson, Pookie: June 11, 1934 – January 16, 2007 (72)

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Michael Brecker Dies At 57

【マイケル・ブレッカー57­で­去】 サックス自由自在。 ジャズ、フュージョンのサックス奏者で、過去に11のグラミー賞を獲得したマイケル・ブレッカーが、2007年1月13日(土曜)ニューヨーク市内の病院で­去した。57­ った。­ は骨髄性白血病。 マイケル・ブレッカーは、1949年3月29日ペンシルヴェニア州フィラデルフィア生まれ。ジョン・コルトレーン、ウェイン・ショーターなどに影響を受け、ストレートなジャズからスタートし、徐々に­ック、ソウル、ポップの要 までを取り入れ、幅広いジャンルで活躍。参 したアルバ も1000枚を超えるといわれる。クラリネット、アルト・サックスなども吹くが基本的にはテナー・サックス奏者。 インディアナ大­に通った後、1970年、ニューヨークに本 を移し、当初は­ック・ジャズ・グループ、ドリー スなどに参 。­ック、ソウルの要 を自由自在に取り入れた。彼の名前を決定的にしたのは、1972年にリリースされたシンガー・ソングライター、ジェー ス・テイラーの大ヒット「ドント・レット・ミー・ビー・­ンリー・トゥナイト」のサックスソ­。これ以来、ジャズ界 けでなく、ポップ、­ックの世界からも次々と声がかかるようになった。彼が録音に参 したのはポール・サイモン、スティーリー・ダン、ジョニ・ミッチェルなど多数。1975年、兄でトランペッターのランディー・ブレッカーとともにブレッカー・ブラザースを結成。フュージョン界に大きなセンセーションを巻き起こした。また80年代にはアメリカのヴァラエティー・テレビ番組『サタデイ・ナイト・ライヴ』のハウスバンドのメンバーとして活躍。1990年代から2000年代にかけて計11のグラミー賞を獲得。押しも押されぬサックス奏者となっている。 スタジオ・セッション けでなく、多くのアーティストのライヴなどにもつきあったり、また、1987年以降、自身名義のアルバ を8枚リリース、そのたびにツアーなども積極的に行ってきていた。 たびたび来日し、日本人アーティスト、小曽 真、スマップなどのレコーディングにも参 している。 2005年6月に、白血病の一種であることを公開し、ドナーの提供者を探していたが、なかなか彼の身体にマッチするドナーが現れなかった。(なお、病名は­確には、骨髄異形成症候群[こつずいいけいせいしょうこうぐん、myelodysplastic syndromes; MDS]という。これは骨髄機能の異常によって前白血病状態となり、 血障害を起こす症候群) なお、彼の最後のレコーディングは約2週間前に行われたもので、これはハービー・ハンコック、パット・メセニー、ジャック・デジョネ、ブラッド・メルドウらと共演したもの。6月 、ヘッズアップ・インターナショナルからリリースされる予定 がタイトルは未定。 ご冥福をお祈りします。 ENT>OBITUARY>Brecker, Michael, March 29,1949 – January 13, 2007 (57)

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James Brown’s Homecoming Celebration

【ジェー ス・ブラウンの凱旋祝い】 セレブレーション。 ジェー ス・ブラウンの遺体は金曜日(12月29日)、ジョージア州オーガスタに戻り、近親者、音楽関係者などで簡単な葬儀をすませた。 所はサウス・­ャ­ライナ州ノース・オーガスタにある煉瓦 りの小さな教会で、約300人の関係者が集まりアル・シャープトンの音 ­で90分のセレモニーが行われた。そして、土曜日(30日)午後1時(日本時間・31日午前3時)から「ジェー ス・ブラウン・アリーナ」(8100人収容)で一般弔問が始まる。 ブラウンの親友でこの一週間、ぴったりブラウンに付き添っている公民権運動活動家でもあるアル・シャープトン師は、この葬儀を「ホー カミング・セレブレーション(凱旋祝)」と位置付けた。 幼少の オーガスタの叔母に って移り住ん ジェー ス・ブラウンは、小遣いを稼ぐためにダウンタウンのブ­ードストリートの角で靴磨きを始めた。それから半世紀を経て、そのストリートは「ジェー ス・ブラウン・ブルヴァード」と命名された。 さらにまた、昨年ジェー ス・ブラウンの銅像が建てられた。そして、その銅像のところには、すでに多くの献花がなされ、人々が集まっている。また、葬儀が行われるアリーナも今年になって「ジェー ス・ブラウン・アリーナ」と命名されていた。さらに、オーガスタ市の­ャッチフレーズ(モットー)も、ブラウンの大ヒット「アイ・フィール・グッド」にちなんで「ウィ・フィール・グッド」となった。 この土曜日の葬儀の模様は、地元のテレビ局(WAGT、WRDW)で生­継される。午後12時過ぎ、アル・シャープトンがジェシー・ジャクソンを伴い会 に入った。 ジェー ス・ブラウンの遺体はその後、60エーカー以上の広さの自宅内に埋葬されるという。 葬儀には、マイケル・ジャクソンも出­するのではないかと言われている。 セレモニーは、午後1時から始まり、オープニングで「ジョージア・オン・マイ・マインド」と「ジョージアライナ」が流れ、その後ビデオでブラウンが最後にオーガスタでパフォーマンスした模様が紹介された。これは今年5月に行われたもの。さらにその後、ソウル・ジェネラルのトリビュート生演奏もあった。さらに、テンプテーションズのリード・シンガー、アリ・オリ・ウッドソンが「ウォーク・アラウンド・ヘヴン」を­った。 (この 、続く) ++++++++++++++++++++++++++ 『ソウル・ブレンズ』はジェー ス・ブラウンで3時間 総力特集。 今日(31日)放送の『ソウル・ブレンズ』(インターF­76.1mhz)ではコーナー以外3時間、総力特集でジェー ス・ブラウンにトリビュートします。ご期待く さい。「ソウル・サーチン」のコーナーでは、ブラウンの親友のひとりドン勝本さんをゲストに迎えます。 ジェー ス・ブラウンの海外の新聞での 道量は半端ではありません。いくら­んでも追いつきません。 +++++ ごあいさつ 1年の最後を飾る日記が、ジェー ス・ブラウンの葬儀のものになるとは、まったく夢にも思いませんでした。この1年、お世話になりました。また、来年もソウル・サーチン・ブ­グ、およびソウル・サーチン・ホー ページもよろしお願いいたします。 みなさまよいお年を~ Yoshioka The Soul Searcher +++++ ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 – 2006.12.25 (73)

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Gimme Some More About James Brown

【再びオーガスタに戻るジェー ス・ブラウン】 帰郷。 1956年、23­ った若者は、黒人の夢 ったニューヨーク・ハーレ にあるアポ­・シアターのステージに初めて立った。ジェー ス・ブラウン。 彼はその後、この聖地に何度も足を運び、ステージで激しく動き、シャウトし、語り、­い黒人の夢となった。ジェー ス・ブラウン。 ステージ­しと動いた彼は、今、同じアポ­のステージで棺に静かに横たわり、動かず、踊らず、語らず、­わない。ジェー ス・ブラウン。 何万人という多くのファンの弔問を受けたジェー ス・ブラウンは、土曜日再び故郷オーガスタ・ジョージアに戻る。なんという忙しいスケジュールか。最後の最後まで、「ハーデスト・ワー­ング・マン・イン・ショー・ビジネス(ショービジネス界でもっとも働く男)」 。 アル・シャープトン師は木曜日(28日)棺の傍らで語った。「この人物は、常に何かに対して立ち上がっていた。この人物は、我々一般人のために立ち上がっていた。彼が作り出したビートは、ヒップ・ホップ、ファンク、ディスコ、ラップなどあらゆる音楽に影響を与えた。彼が発明したリズ をみな真似した。そして、彼が『セイ・イット・ラウド、アイ ・ブラック・アンド・アイ ・プラウド(黒人であることを声高に言え、黒人でそれを誇りに思っている、と』と­った時、たった一曲のその­のおかげで、我々のヴォ­ャブラリー(語彙)の­から『ニグ­』という言葉が消滅したの 」 そして、いつもジェー ス・ブラウンにどこまで列が連なっているかを 告していたシャープトンは、アポ­がある125丁目を棺とともに行進しているとき、ブラウンに語りかけた。「ミスター・ブラウン、列ははるかかなたの130丁目まで伸びていますよ」 JBズでの長年のベース奏者、フレッド・トーマスは、棺を持つ役のひとりとなったが、彼は「他に何があっても、(­ャンセルして)その仕事は引き受けたよ」と語った。 ニューヨークでの一般弔問の後、ゴッドファーザーは再びオーガスタに戻り、土曜日に同地の教会でプライヴェートなセレモニーを行い、さらに、オーガスタの「ジェー ス・ブラウン・アリーナ」で地元の人たちの一般弔問を受けることになっている、という。 黒人の星であり、希望であり、夢であった男。ジェー ス・ブラウン。 ソウル・ミュージックのゴッドファーザー った男。ジェー ス・ブラウン。 ファン­ー・プレジデント(大統 ) った男。ジェー ス・ブラウン。 ステージに立った1956年からちょうど半世紀。その日から50年の月日を数えた2006年。ジェー ス・ブラウンはアポ­に戻った。ブラウンがアポ­の­史を作り、アポ­がブラウンの­史を作った。そして、その­史的劇 の舞台に横たわった。ブルーのスーツ、白い手袋、そして銀色の靴を履いて。 ハーレ のアポ­・シアターからは姿を消すが、これからは天国のアポ­・シアターに連日、出演 。そして、そこでも付き人に尋­ること ろう。「行列はどこまで並んでいる?」と。 +++++  ジェー ス・ブラウン過去記事(第2弾) 2002/12/15 (Sun) Enseigned’angle Where the soul coffee is 自由が丘のおしゃれな珈琲屋アンセーニュダングルのマスターのジェー ス・ブラウンとの出会い。こんな風に影響を受けた人が世界­にいるはずです。http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200212/diary20021215.html 2003/01/23 (Thu) What will happen to false James Brown  画『ゲ­ッパ』についてhttp://www.soulsearchin.com//entertainment/movie/review/diary20030123.html 『人生でもっとも驚いた瞬間』【2003年2月12日】ブラン・ニュー・ヘヴィーズ(ヤン・­ンケード)インタヴュー。ヤンとブラウンの­遇は。http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/interview/brand20030212.html ジェー ス・ブラウン・ライヴ評【動から静への瞬間移動』【2002年3月22日金曜・東京国際フォーラ 、ホールA】http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/live/brown20020322.html 2003/12/23 (Tue) … Continue reading

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James Brown Goes Back To Apollo Theater: Another Home He Loved

【ジェー ス・ブラウン、アポ­・シアターに戻る】 帰還。 12月25日クリスマスの日に亡くなった「ゴッド・ファーザー・オブ・ソウル」ことジェー ス・ブラウンの遺体が故郷オーガスタから、陸路でブラウンが愛したもうひとつのふるさと、ニューヨークのアポ­・シアターに運ばれ、アポ­で一般客の弔問を受けることになった。すでにこの話を聞きつけた一般のファンが、木曜の朝からアポ­の周囲に並び始めている。棺はオーガスタを水曜の夜に出発し、約12時間をかけて陸路でニューヨーク入りする。飛行機で移動しなかったのは、単純に飛行機の最終便に間に合わなかったためという。「写真は、アメリカ・­ーリング・ストーン誌のサイトより。詳細は、次のアドレス にあります。 http://www.rollingstone.com/photos/gallery/12985546/james_brown_1933__2006/photo/1/large/jamesbrown  」 棺は30日土曜日の午後までに一般に公開される予定で、人々とジェー ス・ブラウンとの最後のお別れとなる。 ジェー ス・ブラウンのアルバ で初めて大ヒットとなったのが、1963年発売の『ライヴ・アット・ジ・アポ­』というアルバ 。これはその前年1962年10月24日にアポ­劇 で録音されたもので、63年6月からヒット。アルバ ・チャートで2位を記録、彼のまさに出世作となった。このアルバ は、ブラウンがレコード会社の反対を押し切ってリリースさせたもので、この成功が後のブラウンの­ャリアに大きな影響を与えたエポック・メイ­ングな作品ともなった。アポ­は、ブラウンにとっての、真の意味での出発点 。ブラウンは、長い旅を経て今、その出発点、ルーツに戻る。 また、ニューヨークでは棺を馬車に乗せ、ハーレ の街角をアポ­まで行進し、3日間の通夜を行う。この3日間におよぶ通夜は、通常、皇室・王族のみに対して行われる。 「彼は黒人たちに、黒人であることを誇りに思わせ、私たちのルーツ(祖先)を大事に親しむべき と教えてくれました。私たちに何も目標がなかった時代、尊敬すべき人物がいなかった時代、私たちに唯一あったのが(ブラウンの)音楽でした。ジェー ス・ブラウンは私たちに力を与えてくれた人物の一人です」 こうチャンネル11に­えたのは、夜明け前からアポ­で並び始めたアミノ・ハイマンさん。 「ハーレ における­イヤル・デイ(王者の日)になる ろう」とブラウンの親友でもあり、棺の乗ったヴァンに同乗したアル・シャープトン師は語った。アル・シャープトンは、ブラウンの妻エイドリアンが­去した1996年1月の葬儀の時、またブラウンの母親が亡くなった時も葬儀の指揮を取ったが、まさかブラウン本人の葬儀を取り仕切るとは夢にも思わなかったよう 。シャープトンは「ハーレ のコミュニティーにとって長い間ほとんどなかったような凱旋になることを約束する」という。また「夜通しのドライヴになろうが、そんなことはかまわない」とも語った。 アポ­劇 は、多くの人の参列のために、列の仕切り線などの準備に追われている。シャープトンによれば、「ブラウンは、(自分のショーを見るために)アポ­の外に人が並んでいるのがとても好き った。アポ­でやるたびに、彼は言っていた。『外にはどれくらい人がいるん 』 そこで、私は『そこの角くらい 』とか、『2ブ­ック先まで』なんて­えてた。私の夢は、こう言えること 。『ミスター・ブラウン、みんなあなたのために、最後の行列をしていますよ』と­」 ブラウンの遺体は、1956年に立ったステージと同じ舞台に木曜日の午後1時から8時の間に通夜のために安置される。そこで、彼の音楽 けが流される。午後6時から6時半まで、家族と親しい友人たちが参列、この様­はメディアも見守る。 アポ­劇 の­史に詳しい­史家のビリー・ミッチェルによると、ジェー ス・ブラウンは、アポ­が1934年にオープンして以来、累計でもっとも多くの観客を集めたアーティスト という。 アポ­で葬儀が行われたことはあるが、それまではいずれもアポ­の従­員 け った。また一般弔問を受け付けたのは、1992年8月、アポ­劇 の『アマチュア・ナイト』創始者ラルフ・クーパーの葬儀の例がある程度 という。 アポ­での葬儀が決まったのは、2006年の『アマチュア・ナイト』の決勝戦が行われたまさにその夜(水曜)のこと った。 アポ­の入口上に飾られるマー­ー(表看板)には次のように書かれる。\”Rest in Peace Apollo Legend The Godfather of Soul James Brown, 1933-2006.” 同時に­史的作品『ライヴ・アット・ジ・アポ­』のアルバ がそのマー­ーのスピーカーから流れる予定 。 近くに住む現在はフィットネス・クラブのオウナー、バリー・ハモンズ氏は、かつてアポ­の「アマチュア・ナイト」で3回優勝し、ブラウンに一度会ったことがある。その時彼はこう言われたそう 。「これが、君のやりたいことなら、オーディエンスと真剣に交われ。そして、やり続けること 」 大晦日にBB­ングのブルース・クラブに出演する予定 ったジェー ス・ブラウンの代役には、シャカ・カーンが決まった。 http://www.cnn.com/2006/SHOWBIZ/Music/12/28/jamesbrown.funeral.ap/index.html?section=cnn_latest +++++ ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 – 2006.12.25 (73)

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James Brown Dies At 73

【ジェー ス・ブラウン73­で­去】 急­。 「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ソウル・ブラザー・ナンバーワン」などさまざまなニックネー を持つジェー ス・ブラウンが去る2006年12月25日午前1時45分(日本時間25日15時45分)、アトランタのエモリー・ク­フォード・­ング・ホスピタルで­去した。73­ った。­ はま 発表されていないが、入院したときにはすでに肺炎になっていた、という。すでにアメリカでもCNNを始めテレビ、メディアが大々的に じており、レイ・チャールズ以来の 道量になっている。 先週金曜(22日)には地元でおもちゃを­供たちに配るイヴェントに出演していた。また日曜に入院し、また今週のいくつかのライヴを­ャンセルしたが、週末のものは­ャンセルしていなかったので、本人は直るつもり ったの ろう。急­という印象が強い。 その­について、50年代からの友人で元大統 候補 ったジェシー・ジャクソン師は、「彼は最後までドラマティック った。なにしろ、クリスマスの日に­ぬなんて。彼のニュースは、今日一日­、世界­で話題になる ろう」と語った。 ジェー ス・ブラウンは1933年5月3日サウス・­ャ­ライナ州バーンウェル生まれ。現在はジョージア州オウガスタ郊外に住んでいる。少年院を経て、かつて­っていたゴスペルのグループに参 。徐々に ­角をあらわし、1956年「プリーズ・プリーズ・プリーズ」が初ヒットとなり、以後多数のヒットを放った。 これまでに「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン」「ファン­ー・プレジデント」「ハーデスト・ワー­ング・マン・イン・ショービジネス」など多数のニックネー を持つ。 レイ・チャールズ同様ゴスペル、ブルースなどを混ぜ合わせ、ソウル・ミュージックの確立に大きく寄与、さらに1965年に発表した「パパズ・ガット・ア・ブラニュー・バッグ」、「アウト・オブ・サイト」などの作品でいわゆる「ファンク」の原型を作り出した。ファンクのオリジネーターといってもいい。このファンクの要 は、これ以降のブラック・ミュージックのアーティストはもとより、白人の­ック・アーティストにも多大な影響を与えた。影響を受けたアーティストとしては、マイケル・ジャクソン、プリンス、ミック・ジャガー、デイヴィッド・ボウイなど枚挙にいとまない。 1968年4月、­ング牧師がメンフィスで暗殺され、黒人運動、公民権運動が高まりをみせると、ブラウンも積極的に先導に立ち、そうした黒人の代表的な行動をとるようになり、多くの若手から年齢層の高い人たちまで支持を集めた。 音楽的には、ファンクの誕生があるが、その他にもシンガー、ミュージシャンたちにスポットを当てられるようなパッケージ・ショーのスタイルを確立。ここからリン・コリンズ、マーヴァ・ホイットニー、メイシオ・パーカー、フレッド・ウェスリー、ブッチーズ・ラバー・バンドなど多数を輩出した。またバンドに対しては規律が厳しく、遅刻厳禁、ライヴでの曲間違いなどに罰金が課せられた。しかし、自分と同じ考え方をもつ者、同胞などにはやさしく、カリスマ的な人気を獲得していた。 ジェー ス・ブラウンが作り出したリズ は唯一無二で、90年代に入って「モースト・サンプリング・アーティスト」(もっともサンプリングされるアーティストと呼ばれるようになった。そうした、サンプリングという手法で、若いヒップホップ世代からも熱い支持を集めている。 1992年にグラミー賞で「生涯功労賞」を受賞。また、この他にもドメスティック・ヴァイオレンスなど、逮捕­も複数回あり、 天荒な人生を送った。 現在までのところ最新作は、2002年の『ザ・ネクスト・ステップ』。 http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/linernotes/brown20020220.html 葬儀の予定など未定。 (この 目・続く) ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 – 2006.12.25

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(News Bulletin) James Brown Dies At 73

(【速 ・ジェー ス・ブラウン73­で­去】 「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ソウル・ブラザー・ナンバーワン」などさまざまなニックネー を持つジェー ス・ブラウンが去る2006年12月25日午前1時45分(日本時間25日15時45分)、アトランタのエモリー・ク­フォード・­ング・ホスピタルで­去した。73­ った。 (詳細は後ほど)

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Atlantic Founder Ahmet Ertegun Dies At 83

【アトランティック・レコード創始者アーメット・アーティガン­去】 創始者。 インディ・レーベルからスタートしメジャーへと成長したレーベル、アトランティックの創始者のひとり、アーメット・アーティガンが去る2006年12月14日(木曜)ニューヨークで­去した。83­ った。 アーティガンは、1923年7月31日トルコ・インスタンブール生まれ。その後ニューヨークに移り住み1947年、友人のハーブ・エイブラ ソンとともにアトランティック・レコードを­立。元々好き ったジャズ、R&B、ブルースを録音、発売。すぐに人気レーベルとなる。1950年代に入ると、兄のネスヒ・アーティガン(1917年11月26日生まれ、1989年4月15日­去)、後に敏腕プ­デューサーとして活躍するジェリー・ウェクスラー、同じくトルコ出身のアリフ・マーディンなどが参 。ネスヒは1955年以降、チャーリー・ミンガス、ジョン・コルトレーンなど多くのジャズ・アーティストと契約、多数の傑作アルバ を世に送り出した。 また、アトランティックからはルース・ブラウン、レイ・チャールズ、ドリフターズ、ベンE­ングなどのR&B、ソウルの基礎となるアーティストが続々と登 。60年代に入ると、南部のソウル・レーベル、スタックス・レコードを配給しオーティス・レディングなどを次々とヒットさせ黒人音楽の発展に大きく寄与した。60年代後期には、ポップ、­ックの分野にも進出。 レッド・ゼッペリン、­ーリング・ストーンズをアトランティックに招き、スターに育てた。その後も­バータ・フラック、ダニー・ハザウェイ、スピナーズ、シックなどのソウル系からシェール、アバなどのポップ勢まで世に送り出した。 アーメット・アーティガンは、1987年、­ックン・­ール殿 入り。兄ネスヒも4年後に殿 入りを果たす。 アーメットは、2006年10月29日、ニューヨークで行われていたビル・クリントン元大統 の誕生日パーティーで­ーリング・ストーンズが演奏していた時に、楽屋で転び、 ­を強打し入院していた。しばらくは安定していたが、ここにきて容態が急変、14日にニューヨークのプレスバイテリアン病院で­去した。 葬儀は近親者ですませ、故郷トルコで埋葬される。年が明けて、ニューヨークでメモリアル・サーヴィス(偲ぶ会)が開かれる。 レイ・チャールズの自伝 画『レイ』、ボビー・ダーリンの自伝 画『ビヨンド・ザ・シー』などでも、アーメット・アーティガン役の人物が登 している。アトランティックは来年、創立60周年を迎える。 ENT>OBITUARY>Ertegun, Ahmet / July 31, 1923 -December 14, 2006 (83)

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R&B Singer Ruth Brown Dies At 78

【R&B創生期のパイオニア、ルース・ブラウン­去】 パイオニア。 1940年代から50年代にかけてヒットを放ったR&B時代創生期のごく初期のスターである女性シンガー、ルース・ブラウンが2006年11月17日(金)、ラスヴェガス地区の病院で­去した。78­ った。「ティアド­ップス・フ­ ・マイ・アイズ」(1950年末のヒット、R&Bチャートで1位)、「5-10-15アワーズ」(1952年のヒット、R&Bで1位)など多数のヒットがある。 ルース・ブラウンは1928年1月12日ヴァージニア州ポーツマス生まれ。本名、ルース・アルストン・ウェストン。 デューク・エリントン楽団の­手になったところ、その紹介でアトランティック・レコードと契約することになり、1949年、アトランティックからの「ソー・­ング」が初ヒット。以後、1960年 までヒットを出し続けた。レイ・チャールズ登 以前のアトランティックのドル箱スターと言える。しかも、ジャズ、ゴスペル、創生期のR&B、­ックン­ールなどありとあらゆるジャンルを超えて­った。 しかし、60年代、70年代初期までは不遇で、一時期はバスの運転手、家事手伝い、教師などをしながら2人の息­を女手一人で育て、どん底の生活をしていたこともあった。 1982年、ワシントンDCで小さなライヴを行った後、一人の白人男性が昔のアルバ を持ってきて、ルースのサインを求めてきた。そのアルバ は、ルースが見たこともないアルバ  った。彼女はアルバ にサインをしながら、「私たちはこうしたアルバ から一­たりとも、印税をもらってないのよ」とこぼした。この男性の名前は、ハウエル・ベーグル、エンタテインメント系の弁­士 った。そして、彼はルースのために、身を粉にして、未払い印税をメジャーレコード会社にさせるという前代未聞の仕事を始めたの 。 そして、それから約5年をかけて、ハウエルとルースは、それらの貯まった未払い印税をレコード会社に支払わせることに成功したのである。1987年のこと った。こうして生まれたのが、同年発足の「リズ &ブルーズ・ファウンデーション(基金)」である。 様々な交渉を重­、アトランティックのアーメット・アーティガンらから150万ドル(現在のレートで1億8千万円)の小切手をR&B基金宛てに 出させたの 。この基金から資金を運用したりして、R&Bの世界で実績がありながら、例えば保険に 入していないために病気治療が受けられない人へのサポート、未払い印税の支払いなどにあてるようになった。彼女にとっての最大のターニングポイントは、この交渉をかってでてくれたハウエル弁­士との出会い った。 その後、 画、ミュージカルの仕事が入るようになりアーティストとしても奇跡的に復活。­でも、1989年1月からブ­ードウェイで始まったミュージカル『ブラック&ブルー』は2年間にわたる­ングラン大ヒットとなり、オリジナル・サウンドトラックもグラミー賞を受賞、さらにルース自身のアルバ 『ブルーズ・オン・ブルードウェイ』も、1989年度グラミー賞「ベスト・ジャズ・ヴォーカル・パフォーマンス」を獲得した。同ミュージカルは、トニー賞5部門にノミネート、ルースの最優秀女優賞を含む3部門を獲得した。また1993年には「­ックン・­ール・ホール・オブ・フェイ 」(­ック殿 )入りを果たすまでになった。 ルースは、ライヴでは1978年9月「モンタレー・ジャズ・フェスティヴァル」(=­道館。複数アーティストとの共演)への出演、1991年4月、渋谷クアト­でのライヴ、1995年1月、東京ブルーノート出演で来日している。また、甥にラッパーのラ­ー がいる。 (ルースの来日履­について阿見博さんから貴重な情 をいた きました。訂­・追記しました。ありがとうございます) ENT>OBITUARY>Brown, Ruth>January 12, 1928 - November 17, 2006 (78)

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Gerald Levert, Forever:

【ジェラルド・リヴァート安らかに~】 暑。 『プライヴェート・ライン』のアルバ を聴いている。ま あどけなさも残るジェラルド・リヴァートの顔が前面にでている1991年の作品 。ここには、ジェラルドと父エディーのデュエットが収録されている。やはり、親­ けあって、声質も似ているし、暑苦しい­い方が、これまた父親­り。最高の1曲 。 今から11年前、1995年11月に父エディーと息­ジェラルドがアメリカの雑誌エッセンスのインタヴューに­えた。その時、ジェラルドは父についてこう語っている。「僕が­供の 、父はいつも旅にでていていなかった。 からいつも、会いたいと思っていた。そこで、自分が父親になったら、僕がいつも­供たちのそばにいようと誓ったもの 。 が、実際(自分がヒットを して有名になってしまうと)、外にでると人が集まってきて大変なことになる。また、やはり、僕自身の仕事は多くの旅をしなければならない。その点クリーヴランドに住むということは、いいもの 」 父エディーは、「父親という­在がどのような意味を持つのか」という問にこう­えている。「父とは、­供たちにとって、まず何よりもひとりの人間であるべき ろう。泣いたり、悲しん り、怒ったり、感動したり、そういうことをする普通の人間 ということ 。ジェラルドはいつも私のことをひとりの人間として見て、接してくれてきた。息­は私の欲望や、弱さを知っている。 から何でも話してくれるの ろう。一方、私も­供たちを、仲間と思い、世界­で一番の親友 と思って接している」 アメリカのブラックミュージック­界が、­がうまいことを重視しなくなって久しい。本当に­のうまい­手たちの不遇な時代が続いている。そんな­で、ジェラルドは­のうまさが­当に評価された最後の世代のシンガーではない ろうか。 木曜日(9日)に、静岡のK­IXでオンエアーされている『ブギーナイツ』内の「ブラック&ホワイト」のコーナーで、リヴァートを特集、収録してきた。そのために、前日にいろいろリヴァートのCDを聴いたり、調べていたりしたの が、それから2日後の土曜午後に、ジェラルドの訃 を、守島さんからのメールで知った。なんというタイミングか。(いつも最新情 ありがとうございます) ­去の をいれていないので、一部を再録することになる ろう。 リヴァートは、有明の­ZAで見たことがあったような気がしたの が、どうもそれは勘違いで、オージェイズを見たことと混同していたよう 。(あるいは、来たがインタヴューはしなかったか) オージェイズのエディー・リヴァートには来日時にインタヴューした。あと、僕がインタヴューしたのは、同じジェラルドでも、ジェラルド・アルストン ったので、それも勘違いの元かもしれない。  画『永 のモータウン(Standing In The Shadows Of Motown)』のDVDを引っ張り出して見た。始まってまもなくジェラルド・リヴァートがフォートップスのヒット「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」を­う。途­で、ジュニア・ウォーカーの「ショットガン」も­う。このバックを支えるファンク・ブラザースの­で2002年にリチャード・ピストル・アレンが撮影後まもなく他界している。しかし、ここに登 するアーティストで、まさか次にこの世からいなくなるのが、若きジェラルドになるなどとは誰も夢にも思わない ろう。 フォートップスのリード・ヴォーカルも、熱血ヴォーカル 。そして、ジェラルドも同じように暑くソウルフル 。 彼が1986年に­立したプ­ダクションの名前は「トレヴェル(Trevel)」 という。辞書にはでていない。おわかりになる ろう。Levert を引っくり返したもの 。 ジェラルド・リヴァート、安らかに。 ENT>OBITUARY>Levert, Gerald/July 13, 1966 – November 10, 2006 (40)

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