2010年05月28日(金) 01時34分39秒 soulsearchinの投稿

●フィリー特集(パート2): 「ソウル・サーチン~ジョン・ホワイトヘッド」 

テーマ:アーティスト関連
●フィリー特集(パート2): 「ソウル・サーチン~ジョン・ホワイトヘッド」 

(昨日からのつづき)

【5 Classic Philly Albums Released As Paper-Sleeve CD】

フィリー。

ソウル・サーチン・フィリー特集。その第一弾は、僕にとっても大変思い入れのあるマクファデン&ホワイトヘッドのジョン・ホワイトヘッドのインタヴューに基づく「ソウル・サーチン」のパート2。ジョンの「ソウル・サーチン」は、ご存知の通り拙著『ソウル・サーチン~R&Bの心を求めて』(2000年7月刊行)の第一章を飾る作品。僕はジョンから「ソウル・サーチン」という言葉を教わった。『ソウル・サーチン』は全7編のうち4編をネット公開していたが、このジョンの物語はまだネットでは公開していなかったもの。

マクファデン&ホワイトヘッドの傑作「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」はいかにして誕生したか。彼らがいかにして売れっ子ソングライターとなっていったか。そして、ソロへの道。ジョンの回顧から、彼らの歴史を深く探る。(なお、このヴァージョンは、書籍に掲載されたものを少し短縮してあります)

■マクファデン&ホワイトヘッド(2010年5月26日発売=紙ジャケット)(2人とも今となっては故人。それも歴史の流れ)

マクファデン&ホワイトヘッド(紙ジャケット仕様)
マクファデン&ホワイトヘッド
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(長い下積みを経て、マクファデン&ホワイトヘッドの2人は、ソングライターとして、オージェイズの「バックスタバーズ(裏切り者のテーマ)」でついに初の大ヒットを手に入れる)

ACT 3 ★  よみがえるステージでの興奮

 ソングライターとして売れていくと、彼らは次第にかつて自分たちがステージに立って歌っていたことを思い出すようになった。オーティスのバックとして、1万人もの人たちの前で歌った瞬間の興奮がよみがえるようになった。ステージにあがり、観客から素晴らしいリアクションを得たときの快感は、体験したものしかわからない。そしていつしか、彼らは再びその快感を得たいと考えるようになった。裏方ではなく、自分たちで自分たちの歌を自由に自分たちのスタイルで歌いたいと思い始めたのである。
 ジョンとジーンはギャンブル・アンド・ハフに頼み込んだ。「今度はオレたちにも歌わせてくださいよ」と。しかし、彼らはそれを認めようとしなかった。
 ハフは言った。
 「いいかね。お前たちはこんなに曲を書いてそれがヒットして金もどんどんはいってくるじゃないか。この仕事がよく出来るんだから、これをどんどん続けたまえ。お前たちは別にシンガーになる必要なんかない」
 だが、ジョンとジーンにはステージ上で闇のかなたから差し込むスポット・ライトに身を委ねる自分たちの姿が懐かしかった。
 ジョンとジーンは粘り強く説得を続けた。その結果、ついにハフたちは折れた。
 「よろしい。じゃあまず1曲、レコーディングしてこい。その出来がよければ何か歌わせてやろうじゃないか」
 ジョンとジーンはすぐにスタジオに行き、彼らの思いと決意を託した歌をレコーディングした。彼らの気持ちはこうだった。「オレたちは曲を書いていれば歌を歌わなくていいといわれた。だが、オレたちは歌を自分たちで作り、自分たちで歌ってレコーディングしたい。オレたちはだれが何と言おうと、それをやるんだ。もう何ものもオレたちを止めることは出来ないぞ」
 それはあたかも堰(せき)で止められていた大量の水が、堰を開けられたことによって、どっと下流に流れ出していくような爆発力を伴った激流さながらであった。
 そして、彼らの思いは何ものも僕たちを止めることは出来ない、すなわち「エイント・ノー・ストッピング・アス・ナウ」という曲に結実した。
 この曲の歌詞を注意深く聴くと、ジョン・ホワイトヘッドとジーン・マクファーデンのその時の心模様が手に取るようにわかる。
 すなわち、「そこにはいろいろな障害があったけれど、ついにそれも乗り越えた。だがこれからの道のりは長い。もう後戻りは決してしない。そして何もオレたちを止めることは出来ない(エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ)」と力強く歌ったのである。
 ミディアム調で、非常にエネルギーがあり、ダンス・ソングとしても、これは文句なしだった。曲調も聴くだけで、思わず浮き浮きしてしまうようなリズムをもった作品で、しかも、非常に前向きなメッセージが人々の心に触れた。文字通り、「元気がでる一曲」だ。
 このレコードは1979年春に全米発売され、すぐにソウル・ラジオ局やディスコでも大ヒット、ソウル・チャートなどで一位となり、さらにポップ部門でも大ヒット、ミリオン・セラーを記録、彼らの十八番となった。ニューヨークの人気ラジオ局WBLSは、この曲を「アワ・ナショナル・アンセム(当WBLS局の国歌」として、繰り返し流した。さらに、この曲の人気は高まり、スペイン語盤、そしてラップ盤まで制作された。
 マクファーデン・アンド・ホワイトヘッドは、この大ヒットによってついにビハインド・ザ・シーンから表舞台に躍り出た。自らの力で、成功と栄光を獲得したのだった。
 この頃、僕はニューヨークの友人から定期的にWBLS局のテープを送ってもらっていた。そして、一時期、この「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」が本当に頻繁にはいっていた。しかも、この曲にはアルバム・ヴァージョンと違うさらに強力な12インチ・ヴァージョンが作られ、その10分近くになるフル・コーラスが頻繁にオン・エアされていたのである。そのインパクトは、強烈で、いまだにこの曲を聴くと、ニューヨークの摩天楼が条件反射的に僕の脳裏に浮かぶほどである。

ACT 4 ★  成功の落とし穴

 「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」が大ヒットして、彼らはツアーにでたり、テレビに出演したり、文字どおり、スターになった。このヒットのおかげで、他のアーティストからのプロデュースの依頼も激増し、彼らのスケジュールは見る見る内に埋まっていった。仕事をすればするほど、金も入ってきた。ジョンは生まれて初めて「成功の優雅な甘さ」を味わいつつあった。
 しかし、ジョンにはその「成功という甘さ」が、手のひらから水が溢れるように、はかなく消え去り、さらには激痛を伴った苦さに変化していくことになるとは予想だにしなかった。
 彼の頭の中には「税金を払う」という概念がまったくなかったのだ。
 彼はレコードの作詞作曲者としての印税、あるいはレコーディング・アーティストとしての印税、ステージのギャラ等あらゆる収入をまったく申告せずに税金を収めなかったのである。
 アメリカでは税金は日本のように源泉されず、それぞれが自己申告して払うシステムになっている。そこでもし自己申告をしなければ、当然そのときは税金を払わずにすむ。だが、彼のように多額の収入があれば、当然IRS(インターナル・レベニュー・サーヴィス。日本での税務署にあたる)が調査に動き出すことになる。
 ジョンは1972年に「バックスタバーズ」を書いて以来収入が激増した。
 ジョンがこう振り返る。
 「オレは貧しい家に生まれたので、チェックを受け取るとすぐにいい車を買ったり、かっこいい洋服を買ったり、いわゆる物質的なものを求めたんだ。そして次に金額の大きなチェックが来れば今度は家を買おうとか、他の金持ちの連中がやっているようにいいものを買ってしまったんだ」
 彼の脱税がIRSに証明されるのにはほとんど時間がかからなかった。彼はIRSから起訴され、税金を申告しなかった点について、犯罪として認定され、約二年の実刑判決が下った。
 しかも、実刑は、脱税についての部分であり、それによって、税金支払いが免れるというものではなかった。つまり、実刑を受けても、脱税分の借金は、年ごとに利息が付いて、毎年膨れ上がっていったのである。
 彼は、それまでに自分が手に入れたものを、すべて失ってしまった。ラッグス(貧困)から始まりリッチス(金持ち)になったかと思った瞬間、リッチスから、再び、ラッグスへ転落の人生となった。1984年のことである。
 だがジョンは前向きな考え方を持った男だった。
 「ムショにはいったということは」と彼は笑いながら続ける。「オレにとって良い経験だったよ。まず何よりも、オレの生き方、生活のペースをスロー・ダウンさせることができた。第二に、一人きりで多くの時間を過ごし、その間にオレは自分のソウル・サーチンをする時間を持てたんだ。ムショに行ったことは、ある意味で再び大学に行ったような感じもするんだ。大学に行き、文学に接したり、いろいろ学んだり。オレはその間、小説を書いたり、映画の脚本のような物を書いたりした。そうしているうちにオレはジョン・ホワイトヘッドの責任感というものを考えるようになった」
 上り続けているときには、わからないことが、ひとたび下がり始めるとわかりだしたりする。ジョンは、あらゆる意味での自分の責任というものを痛感した。子供に対する責任、妻に対する責任、仕事に対する責任、そして、社会に対する責任。自分は、それまでの人生でそうした責任をまっとうしてきただろうかと彼は自問自答した。

ACT 5 ★  君のためのホーム

 ジョン・ホワイトヘッドとジーン・マクファーデンの二人は、80年代初めに女性シンガー/エンタテイナーとして有名なメルバ・ムーアのアルバムをプロデュースした。このアルバムはニューヨークを中心に大ヒットとなったが、この時彼らに仕事を依頼したのがメルバの所属しているハッシュ・プロダクションだった。
 ハッシュ・プロはもともとメルバ・ムーアの夫であるチャールズ・ハギンズがメルバをマネージするために設立した会社で、チャールズはこのジョンとジーンの才能を高く評価してくれた。そして、ジョンが刑務所にいる間でもいつもジョンのことを信じ、サポートしてくれていた。
 ジョンが振り返る。
 「チャールズはオレのことを本当に信じてくれた人物の一人だ。つまりオレなら出来るということを信じてくれた。オレが刑務所にいる間でも連絡してくれ、こんなことを言ってくれた。『君がムショを出たら、私はここに君のためのホーム(家)を用意してあるからね(I have a home for you)』 これにはオレ自身、本当に感動した。自分自身のことを信じるのはもちろん大事だ。だが、誰か他の人間に自分のことを信じさせることは、もっと重要だ。それは自分の後援者を作るということでもある。そして結局、刑務所から出てチャールズはオレのためにレコーディング契約をしてくれたんだ。これはソロ契約だ。オレは今までずっとソロ・アルバムを作りたいと思っていた。自分自身のことを表現したいし、ジーンと一緒にも又何かをやりたかった。そしてポリグラムがオレと契約してくれオレに再びチャンスが与えられたのだ」
 彼は18ヶ月間刑務所に入り、1986年、社会復帰した。だが、彼にはいまだに政府に対して100万ドル以上の負債が残っており、これを少しずつでも返済していかなければならない。ジョンがこう事情を説明する。
 「オレの場合は、未払いの税金に対して毎日その利息と反則金が足されて、とてつもなく大きな金額になっていったんだ。実際のところ今すぐには100万ドルなんてオレはとてもじゃいないけど払うすべがない。だがIRSとは話し合って、ある種の妥協点を探った。つまり、今年オレがいくらか稼いだら、それをIRSに差し出す。そして新たに出発するというものだ。そして少しずつ返していくというわけさ」
 しかしジョンは自分に対して自信を持っている。
 「100万ドル以上の負債。だが、オレは自分に自信と信念を持っている。オレは必ず、払ってみせる。オレはオレの人生を、もし可能ならばより大きな成功のレベルで続けたいし、オレはそのために努力しつづけるよ。この金額というのはオレに課せられた宿命とでも言うのかな。だからオレは遊んでいるヒマはないし、自分自身で楽しむようなヒマもない。オレは毎日曲を書いている。IRSもオレがやろうとしていることをわかってくれているし、彼らがオレから金を取る手段はそれしか無い、ということも知っているのだ。つまりオレのクリエイティブな才能を使うということさ」
 さらにジョンは続ける。
 「オレは確かに人生において無責任だった部分について、そして、それによって刑務所に18ヶ月も入ってしまったことについては後悔している。その期間、オレには『ちょっと待てよ、オレは立派な男なのか、それとも子供なのか』ということを自分自身に問い正した。そしてその時ゆっくり自分自身の人生の値踏みをしたんだ。そして今度やり直すときにはちゃんとしたビジネスに関わり、『モンキー・ビジネス』(いんちきのビジネス)には手を出さないようにしようと決めたんだ。あの頃は本当に稼いだ金は全部使って、もうモンキー・ビジネスと同じだったよ。(笑い) この人生を生きていくためには二つの事を選ばなければならない。税金を払うか、死ぬかのどっちかさ。(笑い)」

ACT 6 ★  悔いなき音楽人生

 ヒットして以来15年以上が経つ「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」は、今やクラシックとして、若手のラッパーなどによってカヴァーされている。この曲や「バックスタバーズ」、あるいはハロルド・メルヴィン&ブルー・ノーツの「バッド・ラック」などを聴くたびに、僕はあのジョンの快活で、前向きなキャラクターを思い出す。
 ジョン・ホワイトヘッド。彼は今、自分が犯した過ちをしっかりと認識している。
 「オレは確かに過ちを犯してきた。そしてその償いもした。だが、オレは今まで歩んできた音楽人生は間違いなかった、と思っている。それにオレは自分が生きていくうえで誰かの足を踏み付けたり、誰か人を押し退けて進んできたりはしなかった。音楽を通して出会った人たち、作ってきた曲、歌ってきた曲。それらは今のオレの人生を導いてくれたわけだが、そうした人たちや音楽に対してはまったく後悔していないよ」
 ハッシュ・プロダクションを通じて制作された彼の初めてのソロ・アルバムは1988年4月、ポリグラムから発売された。そのアルバムからの最初のシングルは、やはり、彼のそのときの本心を吐露した物だった。
 タイトルは、シンプルにそしてダイレクトに「アイ・ニード・マネー、バッド」(オレには金が本当に必要)というものだった。ジョンには税金を払うために金が必要なのだ。 ジョンは、やっと、かつて恩師オーティス・レディングが口をすっぱくして言っていた「ビジネスは面白おかしいものではなく、真剣に取り組むものだ」という教えがようやく身にしみて理解出来たのである。
 そこまでたどり着くために、彼には20年という年月が必要であった。だが、彼の新たなるソウル・サーチンの旅はまだはじまったばかりだ。

エピローグ ★ 

   人は人生を様々なところで学ぶ。ある者は家庭で、ある者は学校で、ある者はストリートで。そして、ジョンは刑務所でそれを学んだ。しかし、どこで人生を学ぼうと、学んだ教訓は、その人間の血となり肉となる。ジョンの血潮には、多くの教訓が刷り込まれている。
   フィラデルフィアのサーティース・ステーションからは、今日も、何本もの列車が出発し、新たなる旅路につく。列車に乗る人々の思いや目的は、みな違う。喜びと希望を胸に列車に乗る人、絶望と悲しみにくれながら列車に乗る人、様々だ。人生の側線から、一度は本線に飛び出たジョン。そしてまた、回り道をして側線に戻ってしまったジョン。改めて、サーティース・ストリート・ステーションからジョンが乗る列車は、再び「栄光」という名の終着駅に到達することができるのだろうか。

 「本当にすばらしい話をありがとう」と僕が言いながら右手を差し出すと、ジョンは「どういたしまして」と手を握り返してきた。それは、大きく、こちらの手がつぶれてしまうのではないかと思うほど実に力強かった。この力強さをもってすれば、彼は長いいばらの道であろうと、きっとくじけずに新たな終着駅に向かってス好くことができるだろうと思った。
   「また機会があったら、話をしたいな」と僕が言うと、彼はにこにこしながら軽く返答した。「いつでも(anytime)!」

 インタヴューを終えて、ケヴィンのオフィースに立ち寄ると彼は電話中だった。「ジョンを紹介してくれてありがとう」と言うと、彼は手を上げて「またな」といったしぐさで答えた。その日僕は、偶然にもスリルに満ちたインタヴューという生き物と遭遇した。ホテルに向かうマンハッタンのでこぼこの歩道を、宝物のような話を聞くことができた満足感を抱えて歩いた。僕の頭の中には、彼らの「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」のメロディーが響き渡っていた…。

(「ソウル・サーチン~第一章・ジョン・ホワイトヘッド・短縮版・終了」
オリジナルのフル・ヴァージョンは2000年7月刊行の『ソウル・サーチン』に収録されています。インタヴュー自体は1988年3月)

ジョン・ホワイトヘッドは、2004年5月11日、フィラデルフィアで暴漢に銃撃され死去。55歳。ジーン・マクファーデンは、2006年1月27日がんのため死去。56歳。

2004/05/13 (Thu)
John Whitehead Shot Dead
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200405/diary20040513.html

January 30, 2006
Philly Great Gene McFadden Dies At 56
http://blog.soulsearchin.com/archives/000804.html

ENT>ARTIST>McFadden & Whitehead

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