2009年06月02日(火) 07時33分46秒 soulsearchinの投稿

●小川隆夫さん語る: 絶好調トーク(パート3)~マイルス・デイヴィスの巻

テーマ:ブログ

●【小川隆夫さん語る: 絶好調トーク(パート3)~マイルス・デイヴィスの巻】

キャンセル。

駒場東大前の夜は更けていく。満員だったお客さんも小川さんに挨拶をして少しずつ帰路につく。僕と内田さんは、小川さんと談笑を続ける。小川さんの本職は優秀なブラック・ジャックのような整形外科医だ。医師としての仕事の合間に大好きな音楽の仕事、とりわけジャズ関係の仕事を精力的にこなしている。

そして、小川さんといえば、マイルス・デイヴィスである。たぶん、小川さんファンの方、『マイルス・デイヴィスの真実』をお読みになった方はご存知のエピソードなのだろうが、小川さんの話しっぷりが実にうまく、引き込まれた。僕は初めて聞いたので、また、おそらくこの「ソウル・サーチン」読者にも初めての方が多いと思うので、記憶の限り彼の話を再現してみたい。

小川さんのマイルスとの初遭遇は、なんと驚くなかれ1964年、14歳のときだった。彼の兄がガールフレンドと行くためにチケットを2枚買っていたが、その彼女に振られたので、弟(小川さん)にくれた。弟はわけもわからず新宿の厚生年金ホールに見に行った、という。まだマイルスのレコードもほとんど聴いていなかった。実際ライヴを見ても、2階席の一番上のほうでほとんど見えず、あんまり印象にも残っていなかった。後に自分がレコードをぼつぼつ集め始めて、「ああ、そういえば、このマイルスのコンサート、行ったことあるなあ」ということを思い出した程度だった。

物心ついてからは、マイルス一直線になっていき、もちろん、ジャズ評論家としてマイルスのレコードはかなりコンプリートに集め、ブートレッグ(海賊盤)も相当収集するようになる。そんな小川さんだが、初めてマイルス・デイヴィス本人に会ったのは、いつですか、と聞くと「1985年3月1日」と間髪をいれずその日にちが返ってきた。日本のレコード会社(CBSソニー=当時)から、マイルスがちょうどレコーディングしていた最新作についてインタヴューをして、できればマスターを持ってきてくれと依頼された。そこで、インタヴューの日取り、場所などがレコード会社によって設定された。

このときのアルバムは、『ユー・アー・アンダー・アレスト』となるが、実際にリリースされるのは1985年9月のこと。3月の時点では完成したマスターテープを、アメリカ本国CBSの人間さえ聴いていなかった。音もなく、巨匠マイルスにインタヴューするということで小川さんもかなり焦った。そりゃそうだ。最新作についてのインタヴューをするのに、それを聴いていないことには話しは始まらない。しかも相手はマイルスだ。あのぎょろっとした目で睨まれた日にはひとたまりもない。

2月末のインタヴュー予定日、場所はニューヨーク。あっさり、マイルスからキャンセルされた。改めて、別の日が設定された。第二の日程になったら、また、キャンセルされた。アーティストのインタヴューのキャンセルは日常茶飯事だ。僕もそうした経験は何度もあるが、デイヴィッド・リッツが言うように、取材する側は辛抱強くひたすら待つしかないのだ。アーティストが口を開かない限り、記事は誕生しない。

遅刻。

小川さんが日本に戻る日が刻々と迫ってきた。もう今回のインタヴューはないかと思われたとき、マイルスが会うと言ってきた。しかし、とんでもないことに、その場所はカリフォルニア・マリブのマイルスの自宅だという。飛行機で5-6時間はかかる。とは言っても、もちろん、小川さんはカリフォルニアに飛んでいくことになる。ニューヨークを朝一番に飛び、ロスに昼ごろ到着して、マリブに車で行く。マイルスからは当初、2時間程度の時間がもらえることになったという。

ところが、マイルスのインタヴューは一筋縄ではいかない。よりによって、その日乗った飛行機が大幅に遅れたのだ。どうがんばっても、指定された時刻には間に合わなくなった。そこで、ロスのCBSのスタッフがかけあい、2時間のところを30分でもいいから時間をくれと交渉し、承諾された。

こうして小川さんは、巨匠マイルスを何時間か待たせた男となった。

空港からマリブまで飛ばし、自宅に到着すると、マイルスは意外と上機嫌だった。そこは当時のガールフレンド、シシリーと住んでいた家だった。開口一番、小川さんはマイルスに謝った。「新作アルバムのインタヴューに来たが、実はまだそのアルバムの音を聴いていない。申し訳ない」 するとマイルスは言った。「当たり前だ。そのマスターは、まだ誰にも渡してない。オレのところにしかないんだからな。聴きたいか?」 小川さんはその場でレコード会社の人間さえも聴いていなかった最新作を、マイルス直々の(レコード)プレイで聴かされる。

予定の30分なんて、レコードを聴くだけであっという間に過ぎる。だが、マイルスはそんな時間のことなど気にかける様子もなく、小川さんの質問に淡々と答えた。オフィシャルのインタヴューを一通り終えると、マイルスは彼に尋ねた。「これからどうするんだ?」 「飛行機に乗って、ニューヨークに帰ります」日本に戻るなら、LAから直接戻ればいいようなものの、このときの日本・アメリカのチケットがニューヨークから戻るものになっていたので、一度戻らなければならなかったのだ。ほとんど西海岸日帰りコースだ。飛行機の出発時刻までにはしばらく余裕があった。するとマイルスが「じゃあ、しばらく、いろ」という。そこで家を案内されたり、インタヴューではない雑談をするようになった。

マイルスの車好きは有名だ。黄色のフェラーリに乗っている。マイルスはそれを見せてくれた。「乗りたいか?」とマイルスは言う。小川さんはもちろん乗る、助手席に。家の近くをしばしドライヴとしゃれた。

そう、小川さんはマイルスにフェラーリを運転させた男だったのだ。

時が経つにつれ、小川さんとマイルスは徐々に近づいていく。いろんな雑談の中で、マイルスの足の傷の話しになった。マイルスは当時、右足に手術を受け、それが失敗し、びっこをひいていた。小川さんによれば、その手術を執刀した白人医師が、マイルスが黒人のため、本当だったらありえないような手術を行い、傷つけたという。人種差別でそういうことをする者がいるという。マイルスは人種差別には、相当な一家言を持っていた人物だ。

マイルスはすでにいくつかリハビリをしていたが、効を奏せず、痛がっていた。小川さんは1981年から1983年にかけてニューヨーク医科大学でリハビリテーションを専攻しており、それはまさに彼の専門であった。そこで、帰り際、いくつかのリハビリの仕方をメモに残し、伝授していった。

再会。

それから4ヵ月後。1985年7月末。マイルスが『ライヴ・アンダー・ザ・スカイ』のために来日する。一目再会したいと思った小川さんは、彼を追っかけて滞在先のホテルまで行き、マイルスを待ち受けた。マリブで会ったときは、周りにガードマンなどもいなかったが、さすがに来日時にはがっちり周囲は御付の人に固められ、インタヴューはもちろんどこの媒体もなし、一目会うのさえ不可能のように思えた。

マイルスご一行が新宿のホテルのロビーに到着した。彼の周りには屈強な連中が何人もいる。とても近づけそうにない。すると、なんとマイルス本人が、小川さんを見つけ、「こっちに来い」と手招きするではないか。マイルスのところに近づくと、マイルスは小川さんに言った。「ほら、ちゃんと歩いてるだろ」 そう、4ヶ月前に彼が伝授したリハビリをマイルスはちゃんとやって、その効果があったのだ。若干びっこの跡はあったが、マリブで会ったときより数段よくなっていた。そして、「部屋に来い」と言われ、マイルスの部屋に招かれたのである。

小川さんはこれを機にマイルスと急速に親しくなっていき、来日のたびに、またニューヨークなどで何度も会うようになる。マイルスは彼のことを「マイ・ドック(my dock=my doctor)」と呼ぶ。整形外科医という仕事が、まったく予期せぬところで、マイルスとの邂逅を一段深みのあるものにしたのだ。

1964年、14歳のときに、兄からのお下がりで何もわからず初めて見たマイルス・デイヴィスのコンサートから21年。マイルスに憧れ、ファンとなった小川さんは、ついに彼のマイ・ドックとなった。まさにこれぞ「縁」であり、「運命」そして「必然」なのだろう。

小川さんは、マイルスに「マイ・ドック」と言わせた男なのだ。

(この項、つづく)

ENT>MUSIC>ARTIST>Davis, Miles
ENT>PEOPLE>Ogawa, Takao

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