NO.323
2003/07/16 (Wed)
Another Song Craftsman Skip Scarborough Dies At 58
スキップ・スカーボロー死去。

70年代から80年代にかけて数多くの作品を書いたり、プロデュースしてきたプロデューサー、スキップ・スカーボローが去る7月3日、ロスアンジェルスで癌のため死去した。58歳だった。

スカーボローは、1944年か45年、メリーランド州バルティモア出身。フルネームはクラレンス・アレキサンダー・スカーボロー。70年代からピアニスト、スタジオ・ミュージシャン、ソングライターとして頭角を出し始め、代表作にはアース・ウィンド&ファイアーの「キャント・ハイド・ラヴ」、「ラヴズ・ホリデイ」、エモーションズの「ドント・アスク・マイ・ネイバーズ」、LTDの「ラヴ・バラード」、コンファンシャンの「エフファン」、ビル・ウィザースの「ラヴリー・デイ」、マザース・ファイネストの「ラヴ・チェンジス」(後にカシーフがカヴァー)などがある。

アニタ・ベイカーの「ギヴィン・ユー・ザ・ベスト・ザット・アイ・ガット」(88年のヒット)では、作曲家の一人としてグラミー賞を獲得している。

フランク・ウィルソンが78年にプロデュースしたプロジェクトにアルトン・マクレイン&デスティニーという女性グループ3人組があった。彼女たちは日本でも「イット・マスト・ビー・ラヴ」がディスコを中心に大ヒットしたが、彼女たちが81年に発表したアルバム『ゴナ・テル・ザ・ワールド』をスキップがプロデュース。その後、スキップとアルトンは結婚する。デスティニーは85年2月にメンバーのひとり、デローズ・ウォーレンが32歳で交通事故死。グループは自然解散となる。

アルトンは育児家事に専念、スキップはアレンジャー、ソングライター、プロデューサーとして活躍していた。彼がてがけたアーティストには、フルート奏者ボビー・ハンフリー、パティー・ラベル、フィリス・ハイマンなど。

8日にローズヒルズ・メモリアル・パークで行われた葬儀には、フランク・ウィルソン(元モータウンのプロデューサー)、テリー・マクファデン、ジム・ギルストラップ、ビル・ウィザースなどが参列した。

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Giving Her The Best That He Got

ベスト。

スキップ・スカーボローには会ったことはない。だが、70年代から80年代にかけてのソウルのレコードにはよく名前がでてきた。前述の通り、たくさん、いい曲を書いたひとである。また、コン・ファンク・シャンのアルバム・プロデューサーとしても活躍していた。

レイ・パーカーが80年代初期に、確か六本木のディスコでライヴを見せたときに、そのバックコーラスにアルトン・マクレインが来ていた。まったく事前にそのことを知らなかったので、レイがそのショウのメンバー紹介の中で、アルトンの名前を言ったときには驚いた。そこで、ライヴが終わった後、少し話す機会があり、雑談した中で、「私のボーイフレンドはスキップ・スカーボローで・・・」という話が飛び出し、びっくりしたことをよく覚えている。そのときもう結婚していたのか、これからすると言ったのかはっきりしないが、いずれにせよ、それ以来、彼らはずっと結婚生活を続けていたわけだ。息子もミュージシャンらしい。

スキップは、76年度のグラミーで楽曲「アース・ウィンド&ファイアー」の作者の一人として初めてノミネートされた。それから12年後の88年度、アニタ・ベイカーの作品「ギヴィング・ユー・ザ・ベスト」で、ついにグラミーを獲得する。この作品のドラムスはオマー・ハキム、ベースはネイサン・イースト、ピアノはディーン・グラント、そして、プロデュースはマイケル・J・パウエルである。この曲は、もともとハワード・ヒューイットを想定してレコード会社に売り込まれたが、レーベルメートであるアニタがこの曲をオフィースで聞き、すっかり気に入り、彼女が録音することになった。

スキップ・スカーボローは、文字通り、アニタに彼のベストを提供した。ご冥福をお祈りしたい。

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Diary Archives by MASAHARU YOSHIOKA
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