lead
偉大なシンガー、ナット・キング・コールを父に持った娘ナタリー。裕福で
何一つ不自由のない生活を送ってきた十代。いつしか、彼女は父の足跡を歩み
始める。しかし、彼女のキャリアは、その父の「否定」から始まった。はたし
て、その「否定」の結果は何をもたらすのか。デビュー後、まもなく成功を収
めるものの、様々な事件が彼女を襲う。確信が持てない、自信がない。不安定
なナタリーは何に希望の光りを見いだしたのか。ナタリーの四十数年の歩みは
正に忘れ得ることのできない(アンフォーゲタブル)なイヴェントの連続だ・・・
Prologue
ざわめきが残っている。タキシードや、派手なスーツ、シックなドレスを着
込んだ人たちの興奮の余韻が会場をおおう。1976年2月、舞台はロス・ア
ンジェルスのハリウッド・パレイディアム。グラミー賞授賞式が進んでいる。
いくつものカテゴリーが発表され、いよいよ主要部門の発表が始まった。まず
新人賞の発表だ。司会者が、プレゼンテイターを呼び出し、そのプレゼンテイ
ターが新人賞のノミネートを読み上げる。「ノミネートされているのは、モリ
ス・アルバート、アメイジング・リズム・エイセス、ブレッカー・ブラザース、
KC&ザ・サンシャイン・バンド、ナタリー・コール。そして、勝者は・・・」
一息おくと、会場が一瞬静まり返る。司会者が堂々と勝者の名前を呼ぶ。「ナ
タリー・コール!!」。一斉に、拍手。観客が立ちあがり、席を後にしたナタ
リーが、ステージ中央に向かった。
ナタリー・コールは、その前年、「ディス・ウイル・ビー」で、全米デビュ
ーを果たし、シングル、アルバムが見事な大ヒットを記録していた。デビュー
作から大ヒットという、エンタテイナーとしては、非常に恵まれたスタートを
切っていた。ステージに歩むまでの、短い道のりの間、彼女の頭は、その受賞
の嬉しさで真っ白になった・・・。
ACT 1 父からプレゼントされたレコード
ロス・アンジェルスのハンコック・パーク。この地域は、ビヴァリー・ヒル
ズ、ベル・エアーなどと並んで高級住宅地として知られている。大きな樹木が
道路に覆い被さるように立ち、木漏れ陽が道や大邸宅の前庭に落ちる。住宅街
を行き交う車も少ない静かな場所だ。
1948年8月、ここに移り住んできたひとりの男がいた。男の名は、ナッ
ト・キング・コール。彼は、1919年3月17日、アラバマ州モンゴメリー
に生まれ、ジャズ・ピアニストからシンガーへと転じ、そのユニークでジェン
トルな歌声で、1940年代から50年代にかけて爆発的な人気を得て、一時
代を築いたシンガーである。ブラック・シンガーでありながら、白人たちから
も支持された珍しいシンガーでもあった。白人の支持も得たおかげで、彼の成
功の度合いもけた外れに大きかった。その彼が妻、マリアとともにここハンコ
ック・パークに家を買ったのだ。
1950年2月6日、父ナットは、生まれたばかりのベイビーを抱き上げた。
彼は、最初男の子を望んでいたので、赤ん坊が女の子と聞かされ残念がった。
だが、ベイビーを抱き上げた瞬間、かわいさに彼のそんな考えは、どこかに吹
き飛んでしまった。そして、夫妻は、この子にステファニー・ナタリー・マリ
ア・コールと名付けた。マリアは母親から取ったミドル・ネーム。彼らは大変
な子供好きで、先に母マリアの妹キャロルが死去したためその娘、キャロル(母
と娘の名前が同じ)を養子として取っていたが、ナタリーは二人の間の初めて
の子だった。それだけに、新たなる生命の誕生に感激もひとしおだったのであ
る。
ナタリーは生まれたときから両親から充分すぎるほどの愛を注がれ、経済的
にも非常に裕福な環境に育った。ハンコック・パークのプール付きの豪邸に住
み、ハリー・ベラフォンテやエラ・フィッツジェラルドなど当時の有名なシン
ガー、エンタテイナーやその息子・娘たちと遊んだ。ナタリーは子供心に、ハ
リー・ベラフォンテがプールで泳いでいて、手を差し伸べ、ナタリーを水の中
に引き入れたことを思い出す。父は売れっ子シンガーだったため忙しく、あま
り家族と一緒に過ごす時間はなかった。
父は、娘たちが誇りだった。ナットは、ナタリーが6歳のときに、姉のキャ
ロルとともに彼のステージに上らせ、観客に子供たちを自慢して見せた。一方、
母親のマリアはナタリーが十代になる前から彼女にクラシック・ピアノのレッ
スンを受けさせた。当時の中流以上の家庭が施すよくある子供の教育のひとつ
だった。
11歳のとき(1961年)、ナタリーは、父のグリーク・シアターにおけ
るミュージカル仕立てのコンサート「アイム・ウイズ・ユー」で歌う。さらに、
12歳のとき、既に当時ビッグ・ネームとなっていたネルソン・リドル(ナッ
ト・キング・コールのバック・オーケストラrS当したりしていたバンド・リ
ーダー)やカーメン・ドラドン(やはりオーケストラの指揮者)の子供たちと
ともに子供バンドを結成する。ナタリーとダリル・ドラゴン、そして、スキッ
プ・リドルの3人で組んだトリオだった。
ナタリーは、こうして音楽を始めたが、それはまだまだ「趣味」の「お遊び」
レヴェルのものだった。彼女は父のジャズのレコード・コレクションを引っぱ
り出しては聴き、少しづつ、そうしたものにも興味を示し始めた。だが、彼女
は他のティーン・エイジャーたち同様、ラジオから流れてくるいわゆるポップ
スに傾注するようになった。ビートルズ、ビーチ・ボーイズ、リトル・スティ
ーヴィー・ワンダー・・・。ナタリーは父がキャピトル・レコード所属という
ことを知り、父に「ダッド、ビートルズのレコードが欲しいの」とねだったこ
とがある。父ナットは、それに大変驚かされたが、レコード会社からビートル
ズのアルバムをもらってきて、ナタリーにプレゼントした。
父は、娘たちにいろいろな音楽に触れるよう力を貸した。ナタリーが振り返
る。「父はロックン・ロール・シンガーではなかった。でも、父は私がそれに
夢中になってもかまわなかった。父は『これはお前たち世代のものだ。私には
できない』と言っているようなものだった。とはいうものの、ロックを聴くな
とも決して言わなかった。ただ、父は私たちにジャズにも目を向けさせるよう
にした。父はよく言ったわ。『これはお前たちのルーツなんだよ』 私はその
ことを決して忘れないわ」
さらにこう付け加える。「確かに人々は皆ナットの娘が将来シンガーになる
のは自然だと考えるようになった。確かにそれもあるけれど、ただ、私はどう
しても歌手になりたいとは思っていなかった。あくまで音楽は趣味で、私はほ
かのことをやろうと思っていたのよ」 彼女は将来は大学に進み、医学か心理
学を学ぼうと考えていたのである。
ACT 2 さよならを言えずに
彼女は裕福な子弟たちが行く東海岸にある私立の全寮制ハイ・スクールに通
いながら、何一つ不自由のない楽しい十代を過ごした。1965年2月15日、
ナタリーは、ロスの実家からおよそ3000マイル離れた私立高校の寄宿舎で、
一本の電話を受け取った。その電話は、まったく予期せぬ悲しい知らせを伝え
た。父ナット・キング・コールが癌で急死した、というのだ。
ほんのしばらく前のクリスマスにナタリーが家に帰ったとき、父が病気だと
いうことは聞いた。だが、それから2ヶ月もしないで、不帰の人になるなんて、
そこまで悪かったとは知らなかったのである。
ナットは、自分が癌であることを知っていた。だが、この頃彼は妻マリアと
すこしばかり疎遠になっていて、マリアにそのことを知らせるなと周囲の人間
に言っていた。マリアは死の数カ月前にはそれを知るが、そのとき、彼女や、
ファミリーの誰もが何もできなかった。
ナタリーは、母親になぜ、もっと早く教えてくれなかったのか、とつめよっ
た。母は、ここまで急に容態が変化することが予期できなかったと説明したが、
ナタリーは納得しなかった。ナタリーは、父の死に際に間に合わず、父に「さ
よなら」も「アイ・ラヴ・ユー」も言うことができなかった。父の容態につい
て母から知らされなかったこと、そして、父の急死という寂しさは、長く、深
く、彼女の心の中に、沈んでいった。そして、その沈殿物はときが経ても決し
て体外に排出されずに、彼女の身体を知らず知らずのうちにむしばんでいくか
のようだった。ナタリーは、「それは、あまりの突然のことで、どうしていい
か、わからなくなった」と振り返る。
父との別離が15歳で訪れるのは、あまりに早かった。父との短かった記憶
を彼女は思い出す。
ナットの誕生日に妻マリアからプレゼントされたツーシーターのジャガーに
乗せてもらって、猛スピードでドライヴしたこと。父ナットは、スピード狂だ
った。自宅のプールサイドで、水遊びをするナタリーをやさしく見守ってくれ
ていたこと。父ナットは、私たちが溺れないよう、いつも注意してくれていた。
父が、キャピトル・レコードのレコーディング・スタジオに連れていってくれ、
そこで、多くのスターたちに会わせてくれたこと。父は友人のアーティストに
自分たちを紹介するとき、これ以上ないというほど嬉しそうな表情を見せた。
そして、父とともに上ったグリーク・シアターのステージのこと。父は観客に
娘たちを大いに自慢していた。そんな様々な、思い出が彼女の脳裏をよぎった。
ナタリーは過去15年の短い人生の中でこれほどのショックを受けたことは
なかった。当然と言えば当然だ。彼女は、自分自身をコントロールすることが
できなくなった。まだ十代だったが、父の死という現実から逃避するために、
一時的にだが酒に溺れるようになった。「確かに間違ったことだったし、当時
も、そして、今でも違法だったことは知っていた。母親に心配皀イ韻討靴泙ぁ"
母は私に医者に行くように言った。言ってみれば、父が死んだことに対する典
型的なショックだったのよね」
その死は15歳の彼女にとって想像以上の大きな衝撃だった。
父の死を乗り越えようと、彼女は必死で勉強に励み、ハイスクールを卒業、
1968年にはマサチューセッツ大学に進学する。入学一年目は、周囲の学生
にはナタリーが金持ちのスノッブだろう、と思われ、なかなか受け入れてもら
えなかったが、二年目になるとそうした誤解も解け、彼女は次第に当時の大き
な流れだった黒人運動にかかわるようになる。69年、ときあたかも「ブラッ
ク・イズ・ビューティフル」と声高に叫ばれ、黒人運動が大きなうねりとなっ
ていた。多くの黒人学生たちは、髪を大きなアフロヘアーにし、多かれ少なか
れ、黒人運動にかかわっていたのだ。
一時期、彼女は南カリフォルニア大学に移ったが、その授業や、キャンパス・
ライフがあまりに退屈だったので、すぐにまたマサチューセッツ大学に戻る。
ACT 3 屈辱
ナタリーが21歳の誕生日を迎えると、父の遺産の一部として供託されてい
た約2万ドルが彼女の自由になった。71年当時でさえ、21歳の学生にとっ
ては、大変なお金だった。すると、彼女は、それで新車を買ったり、洋服を買
ったり、友達とレストランに行って贅沢三昧するなどして、あっという間に使
ってしまったのだ。それを知った母マリアは、ナタリーをたしなめたが、時既
に遅しだった。母親も、東部の裕福な家庭に生まれ育った令嬢で社交界に華々
しく登場していた。ブラック系ながら、親戚には教育者がいたり、裕福な実業
家などがいて、特権階級独特のスノッブな雰囲気を漂わせていた。母もお金を
使うタイプではあったが、ナタリーもそうしたところを知らず知らずのうちに
受け継いだのかもしれない。
幼少の頃から裕福な家庭で育ち、周囲の友達は、ほとんど白人で、めったに
教会に行ってゴスペルに親しむということもなかった。リッチな家庭の子弟ば
かりが行く東部のプレップ・スクールに通い、自由気ままな学生生活を楽しむ。
それが、ナタリーのそれまでのライフスタイルだった。
母マリアは、父の死後しばらくして、ロス・アンジェルスの若手作家で、テ
レビ・プロデューサーのゲイリー・デヴォーと知り合い、恋に落ちる。なんと、
彼女よりも20歳も年下の男性だった。だが、二人は結婚まで進む。周囲は、
それに反対したが、マリアは反対を押し切って69年に結婚した。妻47歳と
夫27歳のカップルだ。ナタリーとは8歳しか違わない。彼女には複雑な気持
ちが残った。母マリアが愛した人物なら、自分も好きにならなければならない。
だが、自分の父は、ナットだ。しかも、兄のような年齢の新しい「父」だ。あ
る種の葛藤が生まれた。ナタリーは、しばらく、彼らを避けるようになった。
一方、ゲイリーは、まだまだ駆け出しだったので、ナットのハンコック・パー
クの豪邸に住むことを嫌がった。彼女は、そこで、彼女の出身地マサチューセ
ッツに家を買い、引っ越したのである。だが、この結婚生活は、離婚という形
で70年代後期に終焉を迎える。
この頃、ナタリーは音楽をあくまで趣味として楽しんでいたが、そんな頃、
メンバーのほとんどが白人という「ブラック・マジック」というグループと知
りあう。そして、そのバンドのリード・シンガーの喉の調子が悪くなったとき、
ピンチ・ヒッターでそのバンドで歌うことになったのである。彼女は、その日
付を決して忘れない。1971年7月4日だったからだ。ナタリーのプロとし
てのデイ・ワンは、奇しくもアメリカ合衆国の建国記念日と同じになったのだ。
7月4日は、ナタリーのインディペンデンス・デイにもなったのである。ナタ
リーは、バンドのメンバーの中でも受けがよかったので、しばらくここに在籍
することになり、グループはローカル・クラブで週末のレギュラーの仕事を獲
得する。
彼女のこの頃のお気に入りはジャニス・ジョプリンだった。そして、その影
響を受けたナタリーは、R&Bシンガーというよりも、ロックンロール・シン
ガーだった。もちろん、「クイーン・オブ・ソウル」こと、アレサ・フランク
リンも聴いていたのだが。
学生生活とセミ・プロのシンガーとしてのキャリアを楽しんでいた1972
年、ナタリーは社会学の学位を取るが、この頃になると、次第に歌うことでキ
ャリアを築こうかと考えるようになった。彼女はバンドとは別に、ソロ・シン
ガーとしてもクラブに登場するようになる。
ナタリーがライヴをやっているクラブに売り込みに行く。「マネージャーの
方とお話しできますか? おたくのクラブで歌いたいんですが」
「私がマネージャーだ。どんな曲を歌うんだ?」
「ポピュラーからスタンダードまで、なんでも歌えますよ」
「いま、シンガーは何人もいるんでね。ところで、名前は?」
「ナタリー・コールです」
「ナタリー・コー汲チて、ナット・キング・コールと何か関係あるのかな?」
「私の父です」
「おお、そうか、じゃあ、雇うよ。今週末からきてくれ」
マネージャーはナタリーの歌も聴かずに、仕事をくれた。クラブはもちろん、
彼女の歌そのものより、ファミリー・ネーム、すなわち、「ナット・キング・
コールの娘であるナタリー・コール」という理由で、彼女を雇ったのだ。そし
て、店が飾る看板の「ナタリー・コール」という文字より、「ナット・キング・
コール」の文字の方が大きいことさえあった。ときには「ナット・キング・コ
ールの娘・今夜登場」という文字だけが華々しく踊ったこともあった。「屈辱
ではあったけれど、それは第一歩だった」と彼女は振り返る。そして、その屈
辱が、彼女がもし将来プロのシンガーとしてデビューするならば、決して父の
名前を利用してデビューすることはやめようという固い決意に結びついていく
のである。
彼女のクラブ・シンガーとしてのキャリアは、東海岸を中心にゆっくりなが
ら次第に積み上げられてきた。そんな1973年の初め、彼女の名声はカナダ・
モントリオールを本拠にする音楽エージェント、ケヴィン・ハンターの元に届
き、彼がナタリーをマネージしたいと申し出る。自分でクラブとの出演交渉や
ギャラの交渉をすることに不便を感じていたナタリーは、この申し出を受け、
ケヴィンはナタリーのマネージャーとなるのである。ナタリーは、このときの
ことを、「唯一、(私の)父の名前を口にしなかった人物だったから、彼に決
めたわ」と笑いながら話す。
ACT 4 契約への唯一の条件
ケヴィンは、ナタリーに音楽的な方向性でもアドヴァイスを与えた。それは、
これまで彼女が歌ってきたホテルのラウンジ・タイプの音楽ではなく、もっと
若いオーディエンスにも受け入れられるタイプの音楽を積極的にやるべきだと
いうことだった。そこでナタリーは、これまでのスタンダード・タイプの作品
だけでなく徐々に当時のヒット曲のカヴァーなどもレパートリーに加えるよう
になっていった。
1974年10月、ケヴィンはシカゴのプロデューサー・チーム、チャック・
ジャクソンとマーヴィン・ヤンシーの二人とナタリーとのミーティングをセッ
ト・アップ。このときは、シカゴのクラブ「ミスター・ケリーズ」でのナタリ
ーのステージを彼らに見てもらうことにしたのである。チャックとマーヴィン
の二人は、もともとシカゴを本拠に活動するR&Bヴォーカル・グループ、イ
ンディペンデンツのメンバーとして活動、72年から74年までインディペン
デンツとして「リーヴィング・ミー」のミリオン・セラーを含む10曲以上の
R&Bヒットを放っており、同時にプロデュース活動などにも手を伸ばそうと
していた。また、チャック・ジャクソンは、黒人活動家で後にアメリカ大統領
選にも出馬するジェシー・ジャクソンの弟でもある。マーヴィン・ヤンシーは、
元々シカゴで自身の教会を持つ牧師で、彼は、ナタリーにもっとゴスペル音楽
に接するよう勧めた。
コール一家は、ナットが忙しく有名であったこともあり、ブラックの家庭と
しては珍しく、両親が子供たちを連れて毎週教会に行くという習慣がなかった。
ナタリーが初めて教会に行ったのは、11歳のときだった。そして、初めて触
れたゴスペルにいたく感激したのだ。そして、マーヴィン・ヤンシーと知り合
うことで、ナタリーはゴスペルを聴くチャンスが増えたのである。
彼らはナタリーの才能に着目し、彼女のレコード制作に力を貸すことを約束、
早速作品を提供してくれた。これらの作品は、いわゆるシカゴ・ソウルの味わ
いを持ち、ゴスペルの要素をベースに持った、しかももっと一般のソウル・ラ
ジオ局でも受けそうな当時のはやりのソウル路線の作品群だった。ナタリーは、
それまで、これほどゴスペル色の強いソウル作品を歌ったことがなかったが、
なぜか、自然にそうしたサウンドが自分の身体の一部のように感じた。おそら
く、それは、両親やさらにその祖先が歌い続けてきたゴスペルを身体で知って
いたのかもしれない。彼女が気づいていなかった彼女の血だったのだ。そして、
ナタリーは早速、これらをレコーディング、ケヴィン・ハンターはそのデモ・
テープを持って、レコード契約を取るべくいくつかのメジャー・レコード会社
に売り込みにでかけた。
このとき、ナタリーはマネージャーに一つだけ「条件」を出した。契約金の
高さなどは問題ではなかった。彼女はその望みを、こう一言で言い切った。「父
が所属していたキャピトル・レコードだけは外してね」と。
それは、ナタリーにとっていつかは越えなければならない大きなハードルを
避け、果てしない迂回路を選ぶということを意味していた。同じシンガーとし
てキャリアを積むときに、どうしても、彼女は父と比較される。彼女は、父と
比較されることを嫌った。だからこそ、父が歌ったようなポピュラーなタイプ
の作品は歌わずに、当時のはやりのソウル・ミュージックを歌いたいと思った
のだ。言ってみれば、彼女は、父と同じタイプの音楽、すなわち、同じ土俵の
上で戦うことを、そして、あれほど大好きだった父を拒否するところに、自ら
の出発点を定めたのだ。
ケヴィンは、様々なレコード会社に売り込んだが、各社からなかなかいい返
事をもらえず、売り込みは難航した。結局そうしたレコード会社がすべて断っ
てきた後、ひとりの男が連絡をしてきた。ラーキン・アーノルドという人物だ
った。ラーキンは、当初送られてきたデモ・テープの名前を見て、「また、有
名アーティストの娘か」程度にしか思わなかった。何日か、そのテープは彼の
デスクの上に放っておかれたが、一度そのテープをかけると、そうした偏見は
彼の脳裏から一瞬にして消え去った。彼はナタリー自身の声と、歌を、その才
能を高くかったのである。
だが、そのラーキンは、皮肉にも、よりによって彼女が決して契約したくな
いと思っていたキャピトル・レコードの人物だったのだ。そして、その彼が彼
女をキャピトルに迎えたいと申し出たのである。
ラーキン、ケヴィン、ナタリーは様々なことについて話し合った。その最大
のテーマは、彼女の音楽的方向性についてであった。ナタリー側がもっとも懸
念したのは、キャピトル側が、ナタリーにナット・キング・コール・タイプの
作品を歌わせるのではないか、ということだった。そして、ナット・キング・
コールの娘ということを最大限のキャッチフレーズにして売り出すのではない
か、ということだった。ナタリーは、父と比較されることをもっとも避けたが
った。ラーキンは、その点について熟考し、彼らの主張を受け入れた。
ACT 5 コール家の25歳
デビュー・アルバムの制作は順調に進み、結局、ラーキンと彼らは1975
年6月に正式に契約書に署名。75年7月、デビュー・アルバム『インセパラ
ブル』が世に出ることになった。ラーキンは、このアルバムのエグゼクティヴ・
プロデューサーの役目を果たし、自からジャケット裏にコメントを書き寄せ、
こう文を結んだ。「いうまでもなく、われわれキャピトルは、再びコール家と
手を結ぶことができ、大変な喜びを禁じ得ません」
アルバムには、ナタリーの希望通り、父が歌ったようなポピュラーなスタン
ダード・タイプの作品は収録されなかった。プロデューサーのチャック・ジャ
クソンらが、当時のはやりのソウル・ミュージックのスタイルで、作品を作り
上げたのだ。アルバムを目をつぶって聴く限り、そこには、ナット・キング・
コールの面影はどこにもない。70年代の新人女性シンガーの堂々たる歌が聴
かれるだけだ。ナタリーが狙った「父の否定」は、見事にその成果を結んだの
だ。
それは、彼女があたかも、父という灯台の光りに別れを告げ、その光りがま
ったく届かないような暗黒の大海に船出するかのようだった。だが、その闇夜
の海は、すぐに、太陽が燦々と輝く大海原となった。
このアルバムからは「ディス・ウイル・ビー」がソウル部門だけでなくポッ
プ部門でも大ヒット。アルバムはデビュー作ながらゴールド・ディスクになる
という新人としては輝かしいスタートとなった。さらに彼女はこのアルバムの
成功によって翌年グラミー賞「ベスト・ニュー・アーティスト」と「ベストR
&B女性ヴォーカル」の2部門を獲得。デビュー作からいきなりグラミー賞を
獲得というこれ以上ないほどの恵まれたスタートを切ったのである。これに続
いてコンスタントにアルバムが発売され、ヒットも続く。
ナタリーがデビューし、初ヒットを放ったのが、75年、25歳のときだっ
た。父ナットが17歳でトリオを組み、いくつかのレコードを発表し、「スト
レイトン・アップ・アンド・フライ・ライト」が初めての大ヒットとなったの
が、1944年、やはり、彼が25歳のときのことだった。コール家の歴史に
とって、25歳は、ひとつの大きな節目となったのである。
彼女の才能を信じ、デビュー・アルバムの制作にも大きな力を貸したナタリ
ーのプロデューサーのひとり、マーヴィン・ヤンシーとナタリーはそのデビュ
ー・アルバム制作までの過程で、親密になった。そして、76年5月、二人は
結婚する。
この頃と前後して、ナタリーは父ナットの姉、つまり、ナタリーの叔母イヴ
リンのシカゴの家に遊びに行くようになった。イヴリンの娘、ナタリーの従姉
ジャニースとも親しく、イヴリンの家の雰囲気が気に入ったのだ。母方の少し
ばかり気取ったスノッブな家柄とは対照的に、父方は、堅苦しくなく、そこに
はいつも笑いと祈りがあふれていた。そして、日曜日に教会に来る友人たちに、
いわゆる「サンデイ・ディナー」を振る舞っていた。出される料理は、ブラッ
クの家庭のごちそう、ソウル・フードだ。それまで、ナタリーは普段白人の友
達と接することが多く、学校も、リッチな私立、そして派手なショウビジネス
の世界しかmらなかったので、こうした人間味あふれる暖かみにほっとするも
のを感じていたのである。
デビュー後、2作目のアルバム『ナタリー』(76年5月)、『アンプレデ
ィクタブル』(77年2月)、『サンクフル』(77年11月)、『ナタリー・・・
ライヴ』(78年8月)といずれもヒットを記録。アルバムはすべてゴールド・
ディスク(50万枚以上のセールス)かプラチナム・ディスク(100万枚以
上のセールス)に輝き、アルバムを出せばベスト・セラーが約束された。
アルバム『ナタリー』発表直後、彼女は東京音楽祭のために初来日。2作目
からのシングル「ミスター・メロディー」がそのグランプリに輝き日本でも人
気を決定付けた。
アルバムは次々と大ヒット。ツアーも成功。そして、77年10月には、マ
ーヴィン・ヤンシーとの間に長男ロバート・アダム・ヤンシーが誕生。ナタリ
ーの人生は、キャリアも、プライヴェートもすべて順風満帆であった。
ナタリー人気はとどまるところを知らず、78年4月28日には、全国ネッ
トのCBSテレビで初めての彼女の特番『ザ・ナタリー・コール・スペシャル』
を放送。ここでは、ゲストにアース・ウインド・アンド・ファイアー、ジョニ
ー・マティスなどを従え、堂々のエンタテイナーぶりを見せた。彼女は、ひと
りのシンガーから、スーパースターとなり、自分の名前を冠したテレビ番組ま
で持つに至った。その歩みは、まさに、父が歩んできた軌跡を踏襲していたの
である。彼女は、名実ともに、父同様アメリカに愛されるシンガーとなった。
彼女はいわゆるお茶の間からも受けがよく、そこで、テレビ番組からもしば
しば声がかかるようになった。ブラック・シンガーあるいはエンタテイナーが、
テレビで活躍することは、まだ多くなく、その点で、彼女は恵まれていた。父
も、50年代後期から60年代にかけて、自分のショウを持っていたが、その
娘もまたテレビという媒体に非常に好まれた。彼女は、アメリカン・ミュージ
ック・アワードやグラミー賞の司会(1979年)などもこなし、さらにNB
Cの特番『アップタウン−−ア・ミュージカル・コメディー・ヒストリー・オ
ブ・ハーレムズ・アポロ・シアター』の司会などもこなした。
モノクロのテレビ画面から全米に微笑んだナット・キング・コールの50年
代から、20年の歳月を経て、こんどは、その娘のナタリーがカラー・テレビ
のブラウン管から全米に微笑みを送ったのである。
彼女は様々なアワードや栄誉ある賞などをもらうようになるが、さらにもう
一つ、名誉が与えられた。1979年2月、彼女は有名なハリウッド・ブルヴ
ァードの有名人歩道にその名を連ねることになったのだ。まだ、29歳の若さ
だった。
その直後にリリースされた6枚目のアルバム『アイ・ラヴ・ユー・ソー』は
再びゴールド・ディスクに輝き、ここまでデビューから6作連続ゴールド・デ
ィスク獲得という快挙を成し遂げる。
キャピトルは、これに続き、同じレーベル・メイトのピーボ・ブライソンと
のデュエット・アルバムの企画を立て、ナタリーとピーボのデュエット・アル
バム『ウイー・アー・ザ・ベスト・オブ・フレンズ』を79年11月発表、ナ
タリー人気はとどまるところを知らなかった。
ACT 6 チャックの旅立ち
ところが、この頃からナタリーの周囲で重大な変化が生じ始めていた。75
年にナタリーを「発見」し、それ以来、彼女を文字どおりゼロからスーパー・
スターへと育ててきたプロデューサーのチャック・ジャクソン、マーヴィン・
ヤンシーのコンビにひびがはいり、二人がパートナーシップを解消することに
なったのである。チャックとマーヴィンの間に何があったかは、ナタリーは触
れたがらない。しかし、彼女は「私はグレイト・ライティング・ティームを失
った。それは(私のキャリアにおいて)非常に大きかった」と述懐する。
いずれにせよ、この二人が別れたことによって、ナタリーを包みこんでいた
「マジック」が徐々に薄れ始めたことだけは間違いなかった。
こうして、彼女の次のアルバム『ドント・ルック・バック』はチャックなし
で制作され、と同時に音楽的にも、彼女がより多くの作品を書く、という方向
性を模索し始めた。タイトルの「後ろを振り返るな」という意味は、まさに、
グレイト・ライティング・ティームがいた頃がよかった、といった思い出にひ
たるな、という自分自身たちへの戒めとも受け取れるようなタイトルであった。
だが、チャック・ジャクソンの旅立ちは、あたかもナタリーからすべての幸運
の女神を一緒に持ち去っていってしまうかのように物語は展開していくのであ
る。
『ドント・ルック・バック』は、それまでのナタリーのアルバムの中でも、
もっとも不成功のアルバムとなった。さらに、続く81年9月のアルバム『ハ
ッピー・ラブ』では、プロデューサーに新進気鋭のジョージ・トービン(後に
ティーン・エイジ・シンガー、ティファニーを育てる。また、このほかに、ス
モーキー・ロビンソンなどもてがけるプロデューサー)を起用するが、これも
不成功に終わり、マジックの再来とはいかなかったのである。それは、楽曲が
弱かったというせいもあるし、プロデューサーとナタリーの相性が悪かったと
いうこともあるだろう。また、プロモーションが思うようにできなかった、と
いうこともあったかもしれない。レコードが売れない理由は、後からではなん
とでもつけられるものだ。
一度成功を手にしたエンタテイナーは常に、それを失うことをもっとも恐れ
るようになる。成功の度合いが大きければ大きいほど、得たものを失うことが
その人間に対してはかりしれぬほどのプレッシャーとなる。多くのエンタテイ
ナーがそうしたプレッシャーに負け、いつしか栄光のステージから姿を消して
いった。シンガーは、次のシングルが前のシングルほどヒットしないと心配に
なる。アルバムが前ほど売れないと、怖くなるものなのだ。
ナタリーも、80年代にはいって、ヒットが思うように出なくなり、大きな
プレッシャーを感じるようになった。もともと子供の頃から父の急死という以
外に大きな挫折を経験することもなく順調に育ってきて、非常に恵まれた人生
を送ってきた彼女だけに、精神的には、こうしたときに意外なもろさが露呈し
た。ヒットが出ないこと、パートナーのチャックとの別れ。しかも、彼女をキ
ャピトルに迎え、もうひとりの恩人だと感じていたラーキン・アーノルドも彼
自身のキャリア・アップを目指し、キャピトルを離れ、CBSに移っていた。
キャピトルで彼女を支えてくれた最大の支持者がいなくなったのだ。彼女に
次々と試練の大波が押し寄せる。
夫や、彼女の良き理解者であるマネージャーに対しても、物事がうまく進ま
ないために、すべての面でフラストレーションがたまり、大声で怒鳴りちらす
ようになった。「なぜ、レコード会社は、私のレコードをきちんとプロモーシ
ョンしてくれないのよ!」、「どうして、プロモーターは、チケットを売り切
れにできないのよ!」 仕事の打ち合わせをしていても、些細なことで関係者
に暴言を吐いたりするようになった。
さらに彼女は、こうしたプレッシャーから逃避するために、ドラッグに身を
委ねるようになってしまった。彼女は、以前から、周囲の人間にすぐに影響を
受ける傾向があった。学生時代に、友人に勧められ、興味本位でマリファナを
試してみたり、キャリアがつまづき始めると誰からともなく勧められたドラッ
グにすぐに手をだしてしまう。そして、彼女の内面では、自分のキャリアへの
確固たる自信がなかった。
自分はヒット曲もだしているが、このヒットが続くか。自分にあった楽曲を
歌っているだろうか。ステージ・パフォーマンスは観客を満足させられたか。
観客とうまくコミュニケーションがとれただろうか。何一つ、安心できること
はなかった。あるいは、観客席が満席になっていないと、彼女はマネージャー
や関係者に怒った。果ては、自分が成功し、有名になるにたる人物であろうか、
と自問自答することさえあった。
そして、追い打ちをかけるように、彼女とキャピトルの契約は、82年「ベ
スト・アルバム」を発表し、切れてしまう。ラーキンがいなくなったキャピト
ルは、もはや、ナタリーは売れないと判断したのだ。彼女は、新たなレーベル
を探さなければならなかった。
そこでまず、CBSに移っていたラーキンのところに相談にいった。すると、
幸いラーキンは、ナタリーを再び彼のレーベル、エピックに迎えてくれたので
ある。
人生には、常にグッド・ニュースとバッド・ニュースが交互に行き交う。エ
ピックが契約してくれことは、グッド・ニュースだった。さらに、このアルバ
ム制作には、もうひとつ、良い知らせがあった。それは、一時期別れていた音
楽パートナー、チャック・ジャクソンとマーヴィン・ヤンシーが再び手を結ぶ
ことを約束してくれたのだ。
ACT 7 失われた声
だが、バッド・ニュースは、グッド・ニュースに寄生するかのように、彼女
のもとに訪れた。82年7月、アトランティック・シティーのホテルで10日
間ほどショウを行っているときだった。彼女が、何かをしゃべろうと口を開い
た。しかし、声を出そうにも、声が出ない。歌うことはおろか、しゃべること
さえ、ままならない状態になった。ナタリーは、何が起こったのか、まったく
わからなかった。突然、彼女の声が出なくなってしまったのである。
すでにレコーディングが始まっていたエピック移籍第一弾アルバムの制作は、
このナタリーの喉の病気によって中断せざるを得なかった。彼女の喉には、ポ
リープができていた。精神的なストレス、さらに、大声で怒鳴ったことなども、
ポリープの原因と思われた。ナタリーは、医者の診断によって、安静にし、声
を休め、様子を見ることにした。しかし、状況はよくならない。当初、医師も
iタリーも、手術せずにこの喉の病気を直そうとした。だが、3か月経っても、
喉の具合はまったく良くならなかった。結局、彼女は、ポリープの除去手術を
受けることになった。
歌手が喉の手術を受けるには大変な決意がいる。手術を受けることによって、
もはや歌えなくなるのではないか。声が変わってしまうのではないか。声量が
なくなってしまうのではないか。そうした不安ははかりしれない。このとき、
ナタリーは、またも、大きく悩み、落ち込んだ。彼女の脳裏によぎった最大の
心配は、「喉を手術して、果たして再び歌手としてやっていけるか」というこ
とに尽きた。彼女が振り返る。「それはそれは、怖かったわよ。もし、声が出
なくなってしまったら、とか、歌えなくなってしまったら、と考えると本当に
寝付かれなかった」
そして、この時期、彼女は、もうひとつ別の問題と真っ向から戦わなければ
ならなかった。それは習慣化していたドラッグの問題だった。
80年代初期から82年頃までは、彼女はほとんどドラッグ漬けの日々を送
るようになっていた。ドラッグによって、ナタリーは精神的にも肉体的にもす
さんでいった。夫マーヴィンとも言い争いが絶えなくなり、マーヴィンとナタ
リーは82年には結局離婚する。そして、離婚したことによって、彼女の生活
はさらに荒れる、という悪循環が続いた。もちろん、彼女のレコーディング・
キャリアも、ほとんど終わったかのようであった。見かねた母親が、ナタリー
を慰めようとしたが、母とナタリーの間には、父の死に目に会えなかったこと
で、溝があった。母親が、しっかりしろと言っても、ナタリーは怒鳴りちらす
だけで、聞く耳を持たなかった。
それでも、母は、ナタリーのことを心配した。ナタリーはもはや自分をコン
トロールすることができなくなっていた。母は、結局自分の手に到底負えそう
もないことがわかると、裁判所に訴えた。82年暮、裁判所は、母親の訴えを
認め、ナタリーが自分の健康管理、食事など必要なことが自分で管理できない
という理由で、ナタリーの資産管理を後見人の母親マリア・コールに任せると
いう命令を出した。それは、母親が再び苦悩した末、決断したナタリーへの思
いやりだった。母にとっては、ナタリーは何歳になっても自分の娘だったので
ある。
15歳のとき父が急死し、自分を見失い、コントロールできなくなった彼女
の姿が再現されているかのようだった。常にナタリーを暖かく見守ってきた母
親は、さらに82年11月、娘ナタリーをミネソタのドラッグ・リハビリテー
ション・センターに入れる。ここで彼女は数カ月間、ドラッグを断ち切るため
にありとあらゆる努力を施すことになる。それは、ナタリーにとって、もちろ
んいかなるドラッグ中毒者にとっても、地獄のような日々だった。ドラッグが
切れたときの苦しみは、それを経験したものでなければ、理解ができなかった。
ナタリーは言う。「このとき、私はまったく音楽を聴かなかった。私は、自
分をしっかり元に戻さなければならなかったから。そのときは、いろいろなこ
とを考え、もう二度と歌えなくなっても、そして、まったく違う人生を始めて
もいい、とまで思いつめたわ」
そして、そのリハビリの間に、彼女は喉の手術を受けた。さまざまな心配を
よそに、手術は成功した。「でも、それから2週間、たった一言もしゃべれな
いってことがどれほどの苦痛か。初めて、口を開いたとき、私は歌ったの。信
じられないかもしれないけれど、『インセパラブル』を歌ったのよ。で、いい
感じだったわ」
ドラッグを断ち切り、喉のポリープを除去し、彼女は、数え切れないほど歌
ってきた「インセパラブル」をおそるおそる小さな声で、自信なげにたどたど
しく歌った。「イン・セ・パラ・ブ・ル・・・」 だが、このときの、弱々し
い「インセパラブル」は、一時期歌手を諦める覚悟さえした彼女にとって、小
さいながらも、新しい人生の出発を称える大きな讃歌だった。そして、この過
程は彼女のささやかなソウル・サーチンでもあった。彼女は地獄から這いあが
ってきたのだ。
こうして、彼女は、また、歌うことができるようになった。だが、翌83年
7月に出たエピックからのアルバムは、ほとんどヒットせず、エピックとの契
約更改はならなかった。そこで、彼女は不本意ながら、インディ・レーベル、
モダーンと契約、新たな第一歩を踏み出そうとするが、モダーンからのアルバ
ムもやはりヒットには至らなかった。一度失われた勢いは、なかなか取り戻せ
そうになかった。
太陽が沈んだ海は、再び、月明かりと無数の星だけが輝く暗闇の海となった。
彼女には、道標となる、灯台の光りが必要だった。
ACT 8 父の遺産
落ち込んだり、壁にぶつかったりしたときに、人々は、何かに助けを求める。
ある人は、神に救いを求めたり、ある人は、本を読んだり、旅をしたり、ある
人は、親友に頼ったりする。ナタリーの場合は、そんネときに、古いレコード
を引っぱり出しては聴くようになっていた。彼女がレコード・プレイヤーにの
せたレコードは、あのシルキー・ヴォイス、ナット・キング・コールのレコー
ドだった。落ち込んだときに、ナタリーにやさしく歌いかける父の歌声は、ナ
タリーへの力強い応援歌となっていた。
ナタリーはときどき、父の古いビデオを引っぱり出しては、鑑賞する。モノ
クロで残されているテレビ番組「ナット・キング・コール・ショウ」の映像だ。
1950年代に、自分のショウをテレビで持つことができるエンタテイナーは
ほとんどいなかった。幼いナタリーも毎週、欠かさず父がテレビで歌うのを見
ていた。父がブラウン管を通して自分を見つめるまなざしは、自宅でナタリー
を見つめるまなざしと同じだった。父が家にいなくても、彼女は、テレビで父
から語りかけられるとなんとなく嬉しくなった。あの頃のナタリーの夢は、看
護婦さんになることだった。そんなことが、今、古いビデオを見ていると思い
出される・・・。
子供の頃は、それほど、好きではなかった父の音楽が、自分が年を取ったせ
いか、あるいは、自分が人生に行き詰まったせいか、とても、親しみ深く感じ
られるようになっていた。壁に直面したとき、ナット・キング・コールの優し
さと愛にあふれた歌声は彼女をやさしく包み込んだ。そして、誰よりも不幸の
どん底にいると思えた自分のソウルが、救われるような気持ちになった。そう
した気持ちが徐々に彼女の心の中で熟成し、ナタリーは、父の作品を歌ってみ
たいと思いはじめたのだ。
それまで、父の膨大なレパートリーは、彼女にとってアンタッチャブルな聖
域であった。彼女のシンガーとしてのキャリアは、それを否定するところから、
始めたからである。ヒットも出なくなり、混迷の人生を送り始め、その中で、
ドラッグ中毒から立ち直り、喉の手術も成功し、離婚もし、レコード会社も変
え、マネージャーも変えた。彼女は、すべてをリセットして、新たなる人生を
始めようとしていた。ひとつのわだかまりが吹っ切れた瞬間、聖域は、もはや
聖域ではなくなっていた。彼女は、それまで否定し続けてきた父の作品を歌う
ことを決意したのである。
彼女は、父の作品をまずは、自分のステージで歌うことにした。それは、と
きに、「アンフォーゲタブル」であったり、「モナ・リサ」であったりした。
観客は、そうした父の作品を娘が歌うことに対して、惜しみなく賛辞を送った
のである。
学生時代に、受け取った2万ドルの父の遺産を彼女は瞬く間に使い果たして
しまった。だが、父の真の遺産は、浪費されずにナタリーの胸の奥深くにしっ
かりと定期預金のように手つかずで残されていたのである。
父と父の遺産は、迷える船にとっての、灯台から放たれる一筋の光りだった
のだ。
ACT 9 初めての挑戦
ラスヴェガスなどで、ライヴの仕事は、コンスタントにあったが、レコーデ
ィング契約は、86年になっても、宙に浮いたままだった。どこのレコード会
社も、まったく彼女に興味を示さなかった。音楽業界では彼女にはドラッグ問
題があり、さらに過去数年ヒットらしいヒットはでていない、したがって、も
うナタリー・コールは終わった、という空気が大勢を占めていた。
そんなとき、EMIレコードがちょうど、マンハッタン・レコードという新
レーベルを発足、ここが彼女との契約に興味を示したのである。このとき、大
きな役割を果たしのが、マンハッタンの制作責任者、ジェリー・グリフィスだ
った。彼はそれまでアリスタ・レコードで6年ほど仕事をし、アリスタ時代に
はルーサー・ヴァンドロスがプロデュースしたアリサ・フランクリンのアルバ
ムを担当したり、ホイットニー・ヒューストンのデビュー作の制作に深く関わ
り、彼女の成功に大きく寄与した人物であった。彼は、しばしば「自分は他の
誰もがサインしないようなアーティストと契約することで知られているんだ」
と自重気味に話す。そして、このときも誰もサインしようとはしなかったナタ
リーを新レーベル、マンハッタンに迎えた。
約1年の歳月を経て、非常にていねいに作られたマンハッタン移籍第一弾『エ
ヴァーラスティング(邦題、永遠の夢)』は87年6月に発売された。果たし
てここからは、「ジャンプ・スタート」をきっかけに計4枚のシングルがヒッ
トすることになる。「ジャンプ・・・」はポップ部門で13位、さらに「アイ・
リヴ・フォー・ユア・ラヴ」も同13位、そしてブルース・スプリングスティ
ーン作の「ピンク・キャデラック」は堂々ポップで5位まで行く大ヒットとな
ったのである。見事なナタリーの復活だった。
そして、このアルバムにはもう一曲忘れられない曲が収録された。それが、
父の1957年のアルバム『ラヴ・イズ・ザ・シング』に収められていた「ホ
エン・アイ・フォール・イン・ラヴ」のカヴァーだった。
既にステージでは父ナット・キング・コールの歌フメドレーを歌うようにな
った彼女が、初めて、父のレパートリーをレコーディングしたのが、この曲だ
ったのである。初めての挑戦だった。88年6月、これはアルバムからの4枚
目のシングルとして発表され、ブラックで33位、ポップでは95位とそこそ
このヒットになった。大ヒットではなかったが、彼女にとっては、なにがしか
の手応えがあったのである。何よりも、75年にデビューして以来、決して手
をつけてこなかった父の作品を録音したのである。
大海を迷える船は、灯台から放たれる光りの方向に進み始めたのだ。
ナタリーは、89年4月、EMI移籍第二弾『グッド・トゥ・ビー・バック』
を発表。ここからは、マイケル・マッサーが書き、プロデュースした「ミス・
ユー・ライク・クレイジー」が大ヒット。再び、ベスト・セラーとなる。
また、この後、彼女はアルバム制作中に親しくなった元ルーファスのドラマ
ー、アンドレ・フィッシャーと再婚。公私ともに、充実の日々が再現され始め
た。
ACT 10 唯一の条件、再び
ステージで歌うナット・キング・コール・メドレーの評判は日に日に高まっ
てきていた。そこで、ナタリーはいつしか、そろそろ父の歌ばかりを録音した
アルバムを作ってもいいのではないか、と考えるようになった。それは、彼女
にとって、あらゆる意味で、夢のプロジェクトだった。
90年のある日、ナタリーはEMIのディレクターと次のアルバムについて
語り合っていた。その時点で、ナタリーは、彼女の長年の夢となっていた父の
作品ばかりで一枚のアルバムを作るアイデアを提案した。しかし、音楽業界の
時流とはまったく逆のスタンダード・ソングばかりを集めたアルバムなど、売
れるわけがない、とレコード会社はそのアイデアを認めようとしなかった。ナ
タリーがどうしても作りたいと熱意を語っても、売れない、の一言で却下され
てしまう。結局、この点で話し合いが付かず、ナタリーはEMIを離れ、新た
なレーベルを探すことにした。
ナタリーは、このときマネージャーに、再び唯一条件をつけた。それは、こ
んどは「父の作品ばかりを集めたアルバムを一枚作らせてくれること」という
ものだった。15年前の「父が所属していたキャピトル・レコード以外」とい
う父を拒絶する唯一の条件は、今、父を受け入れることを要求する条件へと1
80度変化していた。
いくつかのレコード会社と交渉した結果、浮上したのが、エレクトラ・レコ
ードだった。エレクトラの会長、ボブ・クレスナウはその父の作品だけを歌う
というアイデアに乗った。
ボブは言った。「ナタリー、それを(移籍)一枚目からやってみようじゃな
いか」
ナタリーは半信半疑で、「今ですか」と聞き返した。
「そうだ、今だよ」
ナタリーは、エレクトラからのデビュー作がだめでも、2〜3枚のうちにで
きればいいだろうと半ば諦めていたが、この一言で移籍第一作から、父の作品
を集めたアルバムを作れることになったのである。
父の膨大な量の作品を何度も聴き直す作業が始まった。ナタリーは、その過
程で、様々なことを思った。父が偉大な歌手であったことはもちろんのこと、
いつしか、自分のルーツがここにあるということを強く自覚するようになった
のだ。彼女は、まず30数曲を選んだ。有名な曲だけでなく、無名な曲も選ん
だ。その中から最終的に、22曲が選ばれた。選曲からレコーディングまでの
約4ヶ月。彼女は、これまでになく、充実した日々を送ることができた。
レコーディングには、かつて父が使ったキャピトルのスタジオでフル・オー
ケストラが同時にレコーディングできる「スタジオA」を使うことにした。プ
ロデューサーには、デイヴィッド・フォスター、トミー・リピューマ、アンド
レ・フィッシャーらそうそうたるメンバーが集まり、彼らは、このアルバムの
アレンジャーやミュージシャンに、かつて父ナット・キング・コールのレコー
ディング・セッションに参加したヴェテランを集めた。
ナタリーは、かつて、このスタジオに父を訪ねたことがあった。遠い過去の
ことだ。自分はまだ子供で、ルイおじさんや、エラおばさんがスタジオにいた
ことを思い出す。ルイおじさんは、もちろん、ルイ・アームストロング、エラ
おばさんは、エラ・フィッツジェラルドだ。それから30年以上を経て、この
スタジオでレコーディングを始めると、ナタリーは、ここで録音した経験がな
かったにもかかわらず、不思議と初めて録音するような感じがしなかった。そ
の不思議な感じとは、いったい何だったのだろうか。
1991年が明け、レコーディングは順調に始まり、暦も、1月から2月に
めくられた。そんなセッションの一日が2月15日だった。この日は、特別な
日だった。父の命日だ。その日はナタリーにとっても、特に感動的だった、と
いう。そして、「その瞬間、自分自身を解放することができたような気がする。
それは本当に素晴らしい体験だった」と振り返る。その息吹は、この日録音し
た「ラブ」、「アヴァロン」、「ザウ・スエル」などの作品に記録された。
かつて父は、ナタリーがビートルズのレコードを欲しがったときに、ジャズ
のレコードを聴かせ、「これがお前たちのルーツなんだよ」と言った。ナタリ
ーは、このとき、その真の意味が理解できていた。
娘のナタリーが、子供の頃よく聴いて口ずさんでいた数々の父のクラシック
を、40数年経って、父と同じスタジオで、父のバックをつけた同じミュージ
シャンが参加してレコーディングする。そんな歴史的なファミリー・リユニオ
ンを、天国の父が見逃すはずはない。父のソウルはその瞬間を目撃するために、
密かにそこにやってきていたのだ。そして、見学するだけでは物足りなくなり、
そっと、ナットのソウル(魂)を娘に吹きかけた。そして、娘はそれが何であ
るかはわからなかったが、何かを確実に感じたのである。その日、スタジオに
は、父ナット・キング・コールのレガシーとソウルが静かに人知れず舞い降り
てきたのである。まさに、運命的なレコーディングだった。
ACT 11 奇跡のデュエット
レコーディングの技術は、ときとして時空を超える。それまでステージで、
父の声をいれたテープを使ってナタリーがデュエットしていた曲があった。ア
ルバム・タイトル曲となった「アンフォーゲタブル」だ。プロデューサーのデ
イヴィッド・フォスターは、父のマスターを手に入れ、その声を抜き出し、新
しいオーケストレイションをつけ、ナタリーとのデュエットを録音することに
成功した。「ゴースト・デュエット」の誕生である。
ゆったりとしたオーケストラの演奏が始まり、父が「アンフォーゲタブル〜」
と歌い始め、次のコーラス部分からこんどは、ナタリーが父にかぶさって、「ア
ンフォーゲタブル〜」と歌い出す。この「アンフォーゲタブル」を聴くと、あ
たかも、父ナットがナタリーの傍らで、手を繋いで、本当にデュエットをして
いるかのように錯覚する。レコーディング技術の発達ぶりに感嘆すると同時に、
この曲、そして、キング・コールの時代を越えた声の魅力に言葉を失う。
僕はこの曲を初めて聴いたとき、鳥肌が立ったことを覚えている。予備知識
も何もなかった僕は、一体、何が起こったのだろうか、と思った。そして、こ
の「アンフォーゲタブル」ばかりを何度も何度も繰り返して聴いた。これは、
まさに奇跡のデュエットだ。
この作品を1951年に父がレコーディングしたとき、彼は32歳、そして
1991年、娘のナタリーがレコーディングしたとき、彼女は41歳になって
いた。いつしか、娘の年齢が父のそれを追い越していた。だが、娘にとって父
はいつになっても父だ。そして、父にとって、娘は何歳になっても娘であり続
ける。「アンフォーゲタブル」では、40年の時間の流れが、一瞬にして凍り
ついたかのようだ。
アルバム用の作品のレコーディングを重ねれば重ねるほど、ナタリー自身の
中に、特別な感情がわき出てくるようになった。30年以上も前に、ナットの
ためにスタジオで録音に参加したミュージシャンたちも、いまでは堂々たる年
輪を重ねていた。そして、彼らも感無量だった。
ある日、母マリアがナタリーのレコーディングを見にやって来た。ナタリー
が父の持ち歌を歌う。マリアも、何千回と聴いてきたおなじみの作品だ。ヘッ
ドフォーンを付けたナタリーがそうした父の作品を歌っている姿を、スタジオ
の硝子越しに見る母マリアの目には、うっすらと光るものがあった。レコーデ
ィングのブースから出てきたナタリーを母親はしっかりと抱きしめた。二人の
間に交わす言葉はいらなかった。それは、65年2月に父が死んだとき以来、
長い時間存在していた、母とナタリーとの間の溝が消え去った瞬間でもあった。
すべてを父の歌が、溶解させたのだ。
アルバムのジャケット写真は、1950年代から60年代のハリウッド黄金
期にスターたちのポートレートを撮影して有名になった写真家、ジョージ・ハ
レルに依頼した。彼は、既に引退しており、一旦は断ってきたが、このアルバ
ムに収められる作品を聴かせたところ、前言を翻し、喜んで撮影を引き受けて
くれた。この音楽を聴けば、そのジャケット写真を撮るのは、自分しかいない
ということがわかったのだ。
ミュージシャンと写真家には、ある種の共通の言語が存在する。ミュージシ
ャンは、音符に生命を与え、生き生きとさせる。動きがなかったもの、凍って
いたものを解凍するのだ。そして、写真家は、生きているものを、一瞬のフレ
ームの中に凍結する。解凍と凍結。まったく逆の作業をするが、その本質はき
わめて近い。そして、優れたミュージシャンは、音符でイメージや映像を作ろ
うとする。優れた写真家は、写真でメロディーを奏でようとするのだ。そして、
優れた写真からは、音楽が沸き上がり、優れた音楽からは、映像が広がるので
ある。
ジョージ・ハレルは、このアルバムに収められた音楽を見事にひとつのナタ
リーのポートレートに凍結したのだ。そして、ナタリーはその歌で、この写真
を解凍する。このアルバム・ジャケットとCDに収められた音楽には、凍結と
解凍の永遠の連鎖が美しく存在しているのである。
ACT 12 父へのハローとグッドバイ
アルバム『アンフォーゲタブル』は、そのハレルが撮影した60年代風のモ
ノクロのポートレートをジャケットにして、91年6月、世に出航した。ナタ
リーにとっては、このアルバムは、まさしく父の日のプレゼントとなった。そ
して、彼女の父の日の亡き父へのプレゼントは、多くの業界人の予想とは裏腹
に、瞬く間にアルバム・チャートでナンバー・ワンとなり、それまでの数ある
ナタリーのアルバムの中で、最大のベスト・セラーとなったのである。
『アンフォーゲタブル』は、ナット・キング・コールにとっても、そして、
ナタリー・コールにとっても忘れ得ぬ作品になった。ナタリーは、アルバム・
ライナーノーツのなかで、こう書いている。「この曲はいつもステージでテー
プを使ってデュエットしていましたが、そのたびに反応は感動的でした。した
がって、このアルバムを作ろうと決めたとき、この曲こそアルバムのラスト・
ソングになるべきだと思ったのです。きわめてシンプルに父と父の音楽は『ア
ンフォーゲタブル(忘れ得ぬもの)』です」
このアルバムは、彼女にとって、もうひとつ、大きな意味があった。26年
前、ナット・キング・コールが不帰の人となったとき、彼女は父へ最期のさよ
ならを言えなかった。そこで、彼女は、父の作品だけを歌うこのアルバムを作
ることによって、その父に対して、そして、父の作品に対して「ハローとグッ
ドバイ(さよなら)」を同時に言ったのである。
お父さんの作品、こんにちは。お父さん、さよなら・・・。
父は、彼女がビートルズのレコードをねだったときに、古いジャズのレコー
ドも聴かせ、「これがお前たちのルーツなんだよ」とやさしく教えてくれた。
そして、ナタリーは、今、父という自分のルーツを再確認した。そのルーツは、
苦しいときも、楽しいときも、彼女の41年の人生のあらゆるときに、遥かか
なたではなく、ほんのすぐそばの、手の届くところにあって、彼女に手を差し
伸べられることを静かに待っていたのである。そして、彼女はついに、それを
自らの腕できつくしっかりと抱きしめたのだ。
アーティストが真に作りたいアルバムを作るとき、その熱意、情熱は必ず、
人々に到達するものである。これ程までに熱意と愛の感じられるアルバムは、
そうそうない。こんなアルバムを一生のうちにたった一枚でも作れれば、その
アーティストは、本当に幸せであり、アーティスト冥利に尽きる、といえる。
彼女はここに至るまで大きな浮き沈みを経験してきた。その波乱万丈の一生
は、彼女自身が「私の人生には一瞬たりとも退屈な時はなかった」と振り返る
ように、劇的な事件の連続だった。そして、再び、彼女にとって文字どおり栄
光の瞬間が訪れる。
『アンフォーゲタブル』は、1951年当時に若かった人たちだけでなく、
1991年に若い人たちにも、もちろん、今、人生の折り返し地点を過ぎた人
たちにも、忘れ得ぬ一曲となった。この曲は時代を超え、新たな伝説となった
のである。
人生において、人は、様々な出来事に遭遇する。それは、その人にとって嬉
しいこともあれば、辛いこともある。だが、その人に起こることは、誰の責任
でもなく、本人の責任なのだ。過去、自分のレコードが売れなかったり、コン
サート会場が満員にならなかったことを他人のせいにしたこともあるナタリー
は、今、すべての出来事の責任を痛切に感じる。そして、この新たなる栄光も、
彼女自身の責任によって手に入れたものなのだ。
Epilogue
1992年2月。ロス・アンジェルスのシュライン・オーディトリウム。ナ
タリーは、再びグラミー賞の会場にいた。新人賞を受賞してから、16年。こ
の年は、アルバム『アンフォーゲタブル』がグラミー賞最大の栄誉でもある「ア
ルバム・オブ・ジ・イヤー」ほか数部門にノミネートされている。すべてのノ
ミネートが発表され、彼女はすでに三冠を獲得していた。残った最後の「アル
バム部門」の発表になった。司会者が、ノミネートを読み上げる。そして、「勝
者は・・・」 封筒をはさみで切る。中をあけ、嬉しそうに、「ナタリー・コ
ール、アンフォーゲタブル!!」と叫ぶ。見事な、グラミー史上にも残るナタ
リーの地滑り的勝利の瞬間だ。
父と同じ土俵に上ることを拒否してきた娘が、ついに、その父と同じ土俵に
上り、それが最大の歴史的な栄誉を得たのだ。2度のグラミー賞の間によこた
わる16年の歳月。それは、ナタリーにとって、あまりに重い16年であった。
しかし、彼女の人生のなかでもっとも価値がある貴重な16年でもあった。彼
女にとっての真のソウル・サーチ唐ヘ、ドラッグから抜け出すときや喉の手術
に悩んでいたときではなく、実は、父を知り、受け入れるまでの過程にこそあ
ったのである。
彼女が二度のグラミーの狭間で得たものは、そのトロフィーよりもはるかに
重く、かけがえのないものだった。
バックのスクリーンには、ありし日のナット・キング・コールのモノクロの
映像が映し出された。そして、彼女は、父とともに堂々と、このステージで、
「アンフォーゲタブル」を歌った。万雷の拍手はなりやまない。迷ったときに
道標とした父という灯台の光りが、今、大勢の観客がいる会場のステージで彼
女を照らす一本のピンスポットとなって、ナタリーを暗闇の中に浮かび上がら
せていた。観客も、「アンフォーゲタブル」の裏にあるドラマを知っているか
のようだ。このグラミーは、ナタリーとナットの父娘二代に与えられたものだ。
そして、これは父の死後、ナタリーを支えてきた母マリアをも含めてコール家
の輝かしい誇りとなった。4部門を受賞したナタリーは、この夜の最大のハイ
ライトになった。彼女が4つめのトロフィーを手に、ステージから去ると、ふ
たたび、会場にはざわめきが残った。
完
804
登場人物
ナット・キング・コール=ナタリーの父
マリア・コール=ナタリーの母親
マーヴィン・ヤンシー=ナタリーの最初の夫。牧師。
チャック・ジャクソン=マーヴィンとコンビを組んでいるプロデューサー
ラーキン・アーノルド=ナタリーを認め、最初にチャンスを与えてくれたレコ
ード会社のディレクター
ケヴィン・ハンター=ナタリーの才能を信じ、マネージャーとなった人物
ジェリー・グリフィス=ナタリーのカンバックを手助けしたレコード会社のデ
ィレクター
ジョージ・ハレル=ヴェテラン写真家。「アンフォーゲタブル」のジャケット
を撮影
LP1.『INSEPARABLE 』 (CAPITOL 11429 - 75/7)
LP2.『NATALIE 』(CAPITOL 11517 - 76/5)
LP3.『UNPREDICTABLE 』(CAPITOL 11600 - 77/2)
LP4.『THANKFUL』 (CAPITOL 11708 - 77/11)
LP5.『 NATALIE...LIVE!』(CAPITOL 11709 - 78/ 6)
LP6.『I LOVE YOU SO 』 (CAPITOL 11928 - 79/ 2)
LP7.『WE ARE THE BEST OF FRIENDS』(CAPITOL 12025 - 79/11)(with Peabo Bryson)
LP8.『DON'T LOOK BACK 』(CAPITOL 12079 -80/5 )
LP9.『HAPPY LOVE』(CAPITOL 12165 - 81/9)
LP10『NATALIE COLE COLLECTION 』 (CAPITOL - 1982)
LP11『I'M READY 』(EPIC 38280 - 83/8)
LP12『DANGEROUS 』(MODERN 90270-85)
LP13『EVERLASTING 』(MANHATTAN 53051 - 87/ 6)
LP14『GOOD TO BE BACK』(MANHATTAN 48902 - 89/4)
LP15 [UNFORGETTABLE](ELEKTRA
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