第6話 ミニー・リパートン
〜ハーフ・フルの人生〜
LEAD
 
 ガール・グループの一員、ソロ・シンガー、前衛的なロック・ソウル・グル
ープのリード・シンガー、そして、再びソロ・シンガー。5オクターヴ以上の
声域を持つ彼女は、様々な音楽グループで歌ってきたが、なかなか芽が出なか
った。そんな彼女が、ついに全米大ヒットを放つ。それは、10年以上もの長
い下積みのたまものだった。だが、彼女に神は苛酷な試練を与える。彼女はそ
の試練に対して、どのように立ち向かうのか。しっかりと自立したミニーは、
徐々に精神的に強くなっていく。彼女はきわめてポジティヴな考え方を持った
女性だった。「ミニー・リパートンのグラスは、いつも半分からっぽ(ハーフ・
エンプティー)ではなく、半分いっぱい、(ハーフ・フル)」と語る彼女。は
たして、そのハーフ・フルの人生の真実とはなにかーーー。

PROLOGUE

  誰かが、また、103を押した。カタカタと音がして、まもなく、針がレコー
ドに触れて回り出す音が始まる(聞こえる)。カウンターだけの小さなソウル・
バーの片隅に置かれた年代物のジュークボックス。ソウル・ミュージック好き
ならだれでも一度は通うといわれる六本木のソウル・バー「ジョージ」にその
名物ジュークボックスはある。天才ソウル・シンガー、オーティス・レディン
グの「ドック・オブ・ザ・ベイ」やマーヴィン・ゲイの不朽の名作「ワッツ・
ゴーイン・オン」などと並んで、その中に20年以上もの長きにわたってはい
っているシングル盤がある。75年のヒット、ミニー・リパートンの「ラヴィ
ン・ユー」である。このジュークにはいっているシングルは80枚。今では、
一般にほとんど売られていない17センチのシングル盤だ。いずれも名曲、ク
ラシックと呼ぶにふさわしいものばかりなので、ほとんどいつも同じ曲がヘヴ
ィー・ローテイションでかかるが、この「ラヴィン・ユー」も日に一度や二度
は必ず流れる曲の一つである。103は、その「ラヴィン・ユー」の世界へのパ
スポートだ。
  あるとき、これがかかっているときに、僕は面白い光景に遭遇した。そのと
きは、ジュークボックスの真正面に向かって、つまり、バー・カウンターには
背を向けて、一人の女性が座っていた。そして、その「ラヴィン・ユー」に合
わせて、彼女が一字一句、ミニーそっくりに歌を歌っていたのである。最初は、
何かレコードに合わせてハモっているなあ、口ずさんでいるなあ、位に思って
いたのだが、段々と彼女の声の高い部分になっても、レコードそっくりに歌う
ので、思わず、ジュークの方向を見いってしまった。しかも、それが結構大き
な声で、だが、まったく恥ずかしからずに、完璧に一人でミニーの世界に入り
込んでいたのである。まさに、その瞬間、ジョージは「ソウル・カラオケ・バ
ー」になっていた。僕は彼女に密かに「ラヴィン・ユー・ガール」と名付けた。
  今時のカラオケではかなりの洋楽曲がはいっており、この「ラヴィン・ユー」
もあるにはあるが、とても歌えるものではない。この曲を歌えるだけの声域を
持つ人なら、本当にシンガーにさえなれる。それほど、難しい曲だ。
  その彼女にとっては、ジョージに来て、「ラヴィン・ユー」を思いっきり声
をあげて歌うというのが、きっと、このうえない喜びになっていたにちがいな
い。そして、足繁くジョージに通い、これを歌って家に帰れば、彼女はその日
一日きっとハッピーになれるのだ。ひょっとすると、その瞬間、天国からエン
ジェル・ミニーが彼女の上に降り立っているのかもしれない。
  たった一曲でもいいから、これ程までに人に愛される作品を生み出せれば、
それは文字どおりアーティスト冥利に尽きる。そして、そうして生まれた音楽
が持つ力(パワー・オブ・ミュージック)は、やはり無限の可能性を持ってい
る。そんな作品を生み出したシンガーのひとり、ミニー・リパートンの物語は
シカゴに始まる・・・

ACT 1  音楽少女ミニー・リパートン

  イリノイ州シカゴ。ニックネームを「ウインディー・シティー」、すなわち
「からっ風の街」という。五大湖のひとつ、エリー湖のほとりにあるシカゴは、
古くはギャングの街としても知られていた。あるいは、50年代初期から、南
部から移住してきたアフリカン・アメリカンが多く住み始めたために、彼らの
音楽、ブルーズやジャズがさかんな街としてもにぎわっている。ミニー・リパ
ートンは、1947年11月8日、そんなシカゴのサウスサイドに8人兄弟の
末っ子として生まれた。父親のダニエル・リパートンは、鉄道の仕事に従事、
寝台車のポーターをしていて、定期的な収入があった。母親、セルマはかつて
歌を歌っていたが、この頃にはしっかりと家庭を守っていた。一家は、比較的
裕福で、ミニーはしっかりとした教育を受けることが出来た。彼女は、子供の
頃から歌うことが大好きだった。そして、両親はそんな愛娘の才能を伸ホすた
めなら何でも与えた。
  その結果、ミニーは、3歳でモダン・ダンスを始め、5歳でバレーをやりだ
し、9歳で既にヴォイス・レッスン、さらに11歳からはオペラのレッスンを
受けるようになった。その頃、リパートン家のすぐ隣に住んでいた人物は「彼
女は、あの頃から一つのゴールを目指していた。つまり、有名なシンガーにな
ることだ。そして、彼女が成功するであろうことをだれも疑っていなかった」
と振り返る。
  だが、クラシックを学んでいたミニーも、彼女自身多感な50年代後期から
60年代初期にかけてのR&Bミュージック全盛の影響を受け、次第にポップ
な音楽に興味を持つようになる。さらに、彼女は、シックスス・プレスバイテ
エリアン教会のゴスペル・クワイアーのメンバーの一員としてゴスペルも歌っ
ていた。音楽漬けの毎日だった。
 意あれば道通ず、の言葉通り、彼女が真剣に歌手としての道を歩もうという
強い意思は、周囲の人々にも充分に伝わっていた。そして、その道が開かれた。
彼女の歌の先生が当時のシカゴの名門R&Bレーベル、チェス・レコードの人
物を紹介してくれたのである。そのおかげで、彼女はチェス・レコードに出入
りできるようになった。暇なときには、チェスのオフィースで受付嬢をやった
り、レコーディング・セッションがあれば、そこで、だれか有名なアーティス
トのバック・コーラスを担当したりした。彼女がバックを付けたアーティスト
には、ラムゼイ・ルイス、フォンテラ・バス、あるいはエタ・ジェームスなど
チェスを代表する人たちが多くいた。
  レコーディング・セッションが入ると、彼女は時に学校を早退してスタジオ
に行き、1曲10ドルのギャラで、バック・コーラスをレコーディングしてい
た。レコード会社の人間は、まもなく、ミニーの歌手としての才能を認めるよ
うになった。
  その頃の彼女は、明日のスターを夢見ていた十代の少女だった。彼女が14
歳の62年頃、最初のチャンスが訪れた。レコード会社からの評価を受け、ミ
ニーはチェス・レコードが抱えていたジェムス(GEMS)というコーラス・
グループの一員として迎えられることになったのである。ちょうど、リード・
シンガーがグループを脱退したので、その代わりにグループ入りすることにな
った。
  このグループは、基本的にはチェスのスタジオ・セッション用のコーラス・
グループで、いつもは他のアーティストのバックを付けていたが、ジェムスと
してもレコードを出すことになった。1963年のことである。
  60年代初期、音楽シーンでは、シュレルス、クリスタルズ、マーサ・アン
ド・ザ・ヴァンデラスなど、いわゆるガール・グループが大人気だった。ジェ
ムスもシフォンのドレスに、ちょっとした振り付けをしながら歌う当時流行の
典型的なガール・グループだった。もちろん、ジェムスのレコードがヒットし
て売れれば、ミニーもスターになる。このジェムスは、63年から66年まで
の間に「レット・ユア・ヘア・ダウン」(63年6月)、「ア・ガールズ・イ
ンプレッション」(63年)、「ベイビー・アイ・ウォント・ユー」(66年)
など計7枚のシングル盤をリリースするが、楽曲が弱かったせいか、結局一枚
もヒットには至らず、ミニーの夢ははかなく消えてしまった。

ACT 2  ソロ・シンガー、アンドレア・デイヴィスからロータリー・コネ
クションへ

  66年、ミニーはこのジェムスを脱退する。チェスは、今度は彼女をソロ・
シンガーとして売ってみようと考える。
  チェスは、ミニー・リパートンという名前はステージ・ネームとしてはさえ
ないと考え、「アンドレア・デイヴィス」という芸名をつけ、彼女のソロ・レ
コード「ロンリー・ガール」を録音した。
  いかにもシカゴ・ソウルといった感じの佳曲だったが、それでもヒットには
至らず、ミニーはしばらくコマーシャルなどの下積みの仕事をしなければなら
なかった。
  ジェムス、アンドレア・デイヴィスとしてレコーディングしたものの、ヒッ
トには恵まれなかったミニーだが、それでも、いつか自分自身が有名なシンガ
ーになるという確信のようなものを持っていた。彼女は非常に前向きな考え方
を持った人物だった。「今、ここでレコーディングした作品がヒットしなくと
も、この経験が将来きっと、役に立つ。ちゃんと、やっていれば、いつか道は
開ける」 そう考えれば、そのシングルがヒットしようがしまいが、あまり気
にならなかった。なにより、チェス・レコードが彼女の才能を認めていたこと
が嬉しかった。彼女は、成功という名の山を一歩一歩、着実に登り始めたのだ。
そして、その途中の道がどんなに曲がりくねって険しくとも、決して、弱音を
はかずに、歩き続ける固い意思を持っていた。
  60年代中期から後期は、音楽界にサイケデリックの波が起こり、社会では
マルコムX、マーティング・ルーサー・キング牧師などが台頭し、そして彼ら
が暗殺されたことを期に、黒人運動が大きな盛り上がりを見せていた。そんな
頃、チェスは、これまでにない音楽的コンセプトを持ったグループを作ること
を考える。当時のグループとしては、非常に前衛的な、ロック、ジャズ、ソウ
ルなどのあらゆる音楽を混合させたグループである。レコード会社としては大
きな賭けとなった。これが、ロータリー・コネクションというグループである。
そして、ミニーはこのロータリー・コネクションのリード・シンガーに迎えら
れたのである。これは、音楽的にとても冒険的なグループだった。ミニーは、
そのチャレンジ精神が気に入っていた。
  結局このロータリー・コネクションは66年から71年にかけて計6枚もの
アルバムを出す。無名のグループとしては、かなりの数だ。
 このグループは、前述通り、ロック、ジャズ、ソウルなどをフュージョンさ
せた音楽性が特長だったが、当時はそうしたアーティストが他にほとんどいな
かったため、どこのラジオ局でもプレイされず、ヒットしなかった。彼らはエ
リック・クラプトンやジャック・ブルースなどロック畑のアーティストの作品
もとりあげていた。なかなかユニークなグループだった。だが、どのアルバム
も、いわゆるベストセラーにもならず、一般的には注目もされなかった。レコ
ード会社の賭けは、失敗に終わった。しかし、アルバムはひとたび世に出れば、
数多く売れなくとも、誰かしらの耳に届くものである。そして、彼らのアルバ
ムは、彼ら自身予期せぬひとりのアーティストによって密かに聴かれていたの
だ。だが、そんなことをミニーは知る由もなかった。
 レコードは、まったく売れなかったものの、ライヴは迫力あるものを見せて
いたので、彼らはライヴ・ハウスなどではちょっとした人気を集めていた。
  このロータリー・コネクションのレコーディングに参加したなかでもっとも
重要な人物がチャールズ・ステップニーという男である。このほかに、フィル・
アップチャーチ(ギター)、シドニー・バーンズ(シンガー兼プロデューサー)
なども参加していたが、ステップニーは、このグループのアルバム・アレンジ
を担当した。そして、この人物は後に同じチェス・レコードのドラマーだった
男が結成するグループの成功の鍵を握る人物となる。ドラマーの名は、モーリ
ス・ホワイト。そして、彼が結成するグループは、アース・ウインド・アンド・
ファイアーだ。ミニーは、このロータリー・コネクションが初期のアース・ウ
インド・アンド・ファイアーに大きな影響を与えたと考えていた。
  モーリスがチェスのドラマーで、チャールズ・ステップニーがこのロータリ
ーのアレンジをしていた。そして、その二人がロータリーと同じコンセプトを
持ち、それを発展させたようなグループとしてアースを結成した、ということ
は充分考えられるからだ。その一つの証拠として、初期のアースには、ロータ
リーにおけるミニーのような、女性ヴォーカリストがいて、やはり音楽性も、
ジャズ、ロック、ソウルをフュージョンさせたようなものだったのだ。
 音楽の歴史も、最初の者がそのコンセプトを花開かせなくとも、次のだれか
が花開かせることができるのである。そして、ロータリー・コネクションは、
少しばかり時代の先を行きすぎていた。

ACT 3  リチャードとの出会い

  ロータリー・コネクションでの活動は、彼女にとって大きな経験となった。
R&Bに限定せず、様々なタイプの音楽を吸収し、自分独自の音楽を作ること
の重要さは、この時期に学んだことのひとつだ。しかし、それにも増して彼女
には、この時、もうひとつ大きな収穫があった。ロータリー・コネクションと
してのライヴをシカゴのノースサイドにあるキネティック・プレイグラウンド
劇場で行ったときのことだ。
 ミニーがドアを開けて会場に入っていくと、向こう側の階段からひとりの白
人男性が降りてきた。彼はその劇場を運営していた人物だった。ミニーが彼を
見、彼もミニーを見た。それだけで充分だった。二人の目が合った瞬間、磁石
のプラスとマイナスが引き寄せあうように、お互い引きつけられたのだ。まさ
に一目惚れだった。
  彼女が振り返る。「彼を初めて見たときから好きになったわ。本当に、どき
どきして、アドレナリンが出るようなそんな感じだった。それだけで充分だっ
たわ」
  彼の名は、リチャード・ルドルフ。だが、いくら黒人運動が盛んになってい
た60年代後半とはいえ、やはり異人種間のカップルは社会的に認知されてい
なかった。90年代になっても、映画監督スパイク・リーが、それをテーマに
『ジャングル・フィーヴァー』という映画を撮るくらいである。その頃の彼ら
のようなカップルの苦労は想像に絶する。黒人の仲間は、なぜよりによって白
人とつきあうのか、と言い、白人の仲間も同じように、なぜよりによって黒人
とつきあうのかと不快感を示した。彼らふたりは、どちらの社会からも疎外さ
れたのだ。
  ミニーが続ける。「その頃、人々は私たちが一緒にいるだけで、驚き、困っ
ていたようだった。でも私たちは、私たち二人の回りに外界と遮蔽(しゃへい)
するシールドのようなものを作っていた。何よりも重要だったのは、私たち二
人が自分たち自身楽しめること、そして、お互い気に入っているということだ
った。私は、彼が持っていた知識を堪能することが出来たし、彼がしてきたこ
と、ライフスタイルなども気に入っていた。彼は私がずっと求め続けていたタ
イプの男性だった。彼は、とても強い男よ」
  外界とシールドで遮蔽された黒人と白人のカップルを、世間は好奇の目で見
た。それは、あたかも、異なった種類の魚がはいった金魚鉢を、外側から興味
津々で観察するようなものだった。彼らは金魚鉢の外にでようとはしなかった。
恋は盲目だ。ほとんど一目惚れした二人は、周囲の反対を押し切って結婚にふ
みきった。そして、68年に男の子、マークを、72年に女の子、マヤという
二人の子供をもうける。
 外界と接触すれば、様々な障害が彼らに降りかかり、多くのプレッシャーが
彼らを悩ませたが、シールド内の二人だけの世界にいる限り、彼らは幸福だっ
た。二人とも、外界に出るときは、強い意思を持っていた。それはまるで心に
鉄のシールドをまとっているかのようだった。
  プライヴェートでは、生涯の伴侶を得たミニーだが、グループ、ロータリー・
コネクションはヒットが出なかったこと、レコードが売れなかったことから、
グループのメンバー間にはフラストレーションがたまった。
 1969年10月、ミニーは、ロータリー・コネクションとは別に、ソロ・
シンガーとして、アルバムをレコーディングする。『カム・トゥ・マイ・ガー
デン』と題されたアルバムをプロデュースしているのは、チャールズ・ステッ
プニーその人である。しかし、これは、この頃にレコーディングされたものの、
レコード会社の都合で、1年以上も発売されなかった。
 ロータリーとしての作品があったからだが、グループは71年の『ヘイ・ラ
ヴ』を最後に解散。メンバーは、音楽の世界から足を洗ってしまった。だが、
ミニーが、音楽の道を諦めることは決してなかった。
  ロータリーのレコードも売れず、ミニーのソロ・アルバムも売れない。キャ
リアの上では、どうしてもブレイクできない彼女は、大きな壁にあたった。プ
ライヴェートでも、それぞれの友人たちが異人種間結婚をしている自分たちを
避けていたので、彼らはシカゴという街に嫌気がさしてきた。長男マークが誕
生して、大都会のごみごみしたところよりも、もっと自然のあるところで子供
を育てたいとも考えるようになった。そこで、彼女たちはしばらくCMの仕事
などをこなしてお金をため、北風吹き荒む大都会シカゴを離れ、心機一転、南
国のフロリダへ移り住むことを決心する。1971年のことだった。

ACT 4  ミニーの大ファン

  彼らは、都会の騒音、排気ガスから逃れ、静かで空気もきれいなフロリダの
ゲインズヴィルという街に居を構えた。冬の寒さが厳しいシカゴとは違い、フ
ロリダは気候も温暖だ。そこには人種的なテンションも少なく、黒人と白人の
カップルでも違和感なく、その土地にとけ込んだ。彼らは新たな人生をスター
トさせることができた。子供を育てる両親にとって、そこは絶好の環境だった。
そして、そのフロリダで、二人は多くの曲を共作しはじめた。
 それまでのミニーは、どちらかというと、レコード会社やプロデューサーか
ら与えられた楽曲を歌ってきた。すでに、誰かが書いたものを彼女なりに解釈
して歌っていた。もちろん、最初はそれも楽しかった。だが、フロリダにやっ
てきて、二人で思う存分、自分たちの作品を書き始めるようになると、そのク
リエイティヴな自由がたまらなく嬉しく感じられるようになってきた。自分た
ちの気持ちは、自分たちが一番よくわかっているのだ。自作曲をたくさん書く
ようになり、それと同時に、その自作曲をいかなる楽器で、どのようなアレン
ジで作り上げていくかを考えるようになった。ミニーは夫の助けを借りて、徐々
に音楽的に自立するようになっていったのである。
  彼らがまさに第二の人生を始めた1971年、ミニーにとってもうひとつの
転機が訪れた。
  ミニーが、この年の「ブラック・エキスポ」という音楽業界のコンヴェンシ
ョンに出向いたときのことだった。このコンヴェンションには何人かのスター
がやってきて、ライヴを聴かせたが、その中に彼女の大好きなスティーヴィー・
ワンダーがいた。スティーヴィーの大ファンであるミニーは、演奏が終わると
スティーヴィーのもとに近づき、一ファンとして、どれほど自分がスティーヴ
ィーの音楽が好きかを語った。だが、スティーヴィーにとってみれば、彼のフ
ァンはいくらでもいるので、そんなセリフを聞くのはいつものことで珍しくも
なかった。
 スティーヴィーは社交辞令で彼女の名前を尋ねた。「名前は?」
 「私の名前はミニー・リパートンです」 彼女は答えた。
 すると、スティーヴィーのほうが驚いたのだ。今度はスティーヴィーがミニ
ーのことをあれこれ褒めたたえのである。彼は実は、まったく売れなかったロ
ータリー・コネクションやミニーのソロ・アルバムなどで、既にミニー・リパ
ートンというシンガーの存在を知っていて、「大ファン」になっていたのであ
る。チャートに登場せず、ラジオからも流れず、まったくヒットに至らないア
ルバムでも、聴く人は聴いているものだ。新しい才能を発掘することが得意な
スティーヴィーならではのことだった。
  これを期に、彼女はスティーヴィーのバック・コーラス・グループ、ワンダ
ーラヴのメンバーに抜擢され、スティーヴィーのレコーディングやツアーなど
に参加するようになる。ミニーにとっては、これまでのキャリアのなかで最大
のチャンスとなった。しかし、スティーヴィーは多くの曲をレコーディングし
ても、そのほとんどを没にしてしまうことで知られている。その結果、ミニー
の声の入ったスティーヴィーの作品はあまり世にでていない。
  フロリダで多くの作品を作ったミニーとリチャードは、そうしたデモ・テー
プをいくつかのレコード会社に売り込んだ。チェス時代にある程度の実績など
もあったこと、スティーヴィーのバック・コーラスを担当していたことなどで、
結局、エピック・レコードとソロ契約を結ぶことになる。1973年のことだ
った。
  早速、ソロ・アルバムの制作に入ると、スティーヴィーがまず2曲をプレゼ
ントしてくれた。「テイク・ア・リトル・トリップ」という曲と、「パーフェ
クト・エンジェル」という曲だ。スティーヴィーは、彼女に「完璧な天使」と
名付けたのである。
  スタジオでの録音作業が続いた。フロリダ時代に、彼らのベイビーを庭先の
ハンモックに寝かせつけるときにかけていた一曲のデモテープがあった。ミニ
ーの高音部分がよく通る明るいスロー・バラードだ。二人とも、気に入ってい
て、アルバムに収録しようとスタジオに行きその曲をレコーディングしてみた。
しかし、何度レコーディングしても、どうしても、しっくりこない。庭で、子
供たちに聴かせるときと、雰囲気が違うのだ。そして、二人ははたと気がつい
た。スタジオでレコーディングしたこの曲には、庭先でこのデモ・テープをか
けていたときに必ず聴こえていた小鳥のさえずりが入っていなかったのだ。そ
こで、彼らはこれに鳥のさえずりを加えて一曲を完成させた。こうして誕生し
たのが、「ラヴィン・ユー」である。
  エピックからのデビュー・アルバム『パーフェクト・エンジェル』は74年
12月に発売された。そして、このアルバムから「ラヴィン・ユー」がシング
ル・カットされると、瞬く間に全米のヒット・チャートをかけのぼり、ビルボ
ード誌75年4月5日号で堂々ナンバー・ワンを記録する大ヒットとなったの
である。
  5オクターブ半の声域を持った完璧な天使−−。「パーフェクト・エンジェ
ル」の誕生の瞬間である。
  十代の頃からの「有名なシンガー」になるという夢は、10年以上の長い下
積みの末、ついに現実のものとなった。ミニー、27歳の時だった。
 全米ナンバー・ワン・ソングはアーティストにとって、山の頂上のようなも
のだ。アーティストは、いつかその頂上に登り詰めようとして、ふもとから一
歩一歩、歩み出す。だが、そのふもとから途中までの過程は、一般の人の目に
は映らないものだ。例えば、五合目まで雲がたれこめ、下界からはその歩みが
わからないかのようだ。そして、突然、あるアーティストが頂上をきわめたと
ころだけが、世間に知られる。もちろん、ふもとから頂上までの歩みが、すべ
て見られている幸福なアーティストもいる。だが、多くのアーティストにとっ
ては突然、五合目から、あるいは七合目から、ふっと雲が晴れるのだ。ミニー
の場合もまさにそうだった。ミニーも長く険しい山道を登り続けて、やっと頂
上にたどりついたのである。

ACT 5,  デビュー・アルバムをサポートする謎の人物

  このアルバムで非常に興味深いのが、制作した人々を記すクレジット関係で
ある。まず、きわめて珍しくプロデューサーの名前がなく、プロデューサー・
クレジットには「スコーブ・プロダクション」と書かれている。これは一体誰
だろうか。グループか、個人か。
  また、裏ジャケットに匿名で「ア・ヴェリー・スペシャル・ファン」からの
メッセージが書かれている。だが、やはりこれを書いた人の名前がない。
  さらに、面白いのがエル・トロ・ネグロなる人物。この人物は、「リーズン
ズ」でドラムを叩き、多くの曲で、エレクトリック・ピアノを弾き、そして、
「アワ・ライヴズ」でお得意のハーモニカまで披露する。これだけのマルチ・
タレントとは?
  ここまで来ればもうおわかりだろう。
  これらのすべての仮名はスティーヴィー・ワンダーその人なのである。
  だが、オフィシャ汲ノはなぜか、スティーヴィー・ワンダーの名前が前面に
出ないで、関わりを否定するかのようなクレジットが添えられている。これは、
おそらく、スティーヴィーがこの時期、モータウンとのからみで外部プロデュ
ーサーとしてあまり表に出られなかったことなどが背景にあるのかもしれない。
あるいは、スティーヴィーの関連を隠しておき、後でそれを情報として流し、
プロモーションの一環とするという作戦だったのかもしれない。(ただし、最
近の復刻盤CDには、プロデューサーとしてスティーヴィー・ワンダーの名前
がクレジットされている) いずれにせよ、スティーヴィーのかかわりは、大
ヒットしてしばらくすると、徐々に情報が流れるようになった。
   音楽シーンに彗星の如く登場したパーフェクト・エンジェル、ミニー・リパ
ートン。その驚異的な声域と、歌唱によって、彼女の名は瞬くに知れ渡った。 
 レコード会社は、「ラヴィン・ユー」のヒットの余韻が残っているうちに、
早速次のアルバムを用意しようと考え、ミニーとリチャードは、速攻で新作を
制作し始めた。
  曲は書きためていた作品がたくさんあった。そして、プロデューサーに今度
はヴェテランのステュワート・レヴィンを起用した。
  レヴィンは、それまでクルセイダーズの多くの作品(『アンサング・ヒーロ
ーズ』=73年、『スクラッチ』=74年、『サザン・カンフォート』=74
年)やポインター・シスターズなどの作品で知られていたプロデューサーであ
る。彼の起用は、ミニーの歌声をソウルフルで、しかも若干のジャズ・フィー
リングのサウンドとフュージョンさせようという狙いだった。
  実際、レコーディングにはクルセイダーズのジョー・サンプル、ラリー・カ
ールトン(当時のクルセイダーズのメンバー)が参加、ラリーはこのアルバム
のアレンジと指揮までてがけている。その点で、当時このアルバムがフュージ
ョン寄りのソウル・アルバムとしてとらえられるということもあった。
  アルバムの全曲をミニー自身が夫のリチャードと書いているが、何曲かでマ
ーヴィン・ゲイの「アイ・ウォント・ユー」を作り上げた才人、リオン・ウエ
アと共作もしている。
  全体的なコンセプトは、前作の路線を踏襲しているが、しいていえば、前作
を「スティーヴィー・テイスト」とすれば、これは「クルセイダーズ・テイス
ト」ということになる。
  それにしても、彼女の「ラヴィン・ユー」をはじめ、このアルバム中の「フ
ィーリン・ザット・ユア・フィーリングス・ライト」などは、その頃のソウル
界の主流だったサウンドとはかなり趣を異にしている。その音楽的多様性に、
当時のソウル・ステイションはとまどったものである。
  このアルバムは、「ラヴィン・ユー」が大ヒットしているさなかの75年5
月にリリースされた。ここからは、順に「インサイド・マイ・ラヴ」(75年
8月からヒット。ソウルで26位)、「シンプル・シングス」(75年11月
からヒット、同70位)、「アドヴェンチャー・イン・パラダイス」(76年
2月からヒット。同72位)とシングルが出たが、いずれも期待されたほどの
大ヒットには至っていない。

ACT  6. 告白

  「ラヴィン・ユー」のヒット以来、彼女は精力的に、雑誌の取材を受たり、
テレビに出演したりしていたが、76年の初め、フリップ・ウイルソン、リチ
ャード・プライアーらとともにテレビ出演しているとき、彼女は胸にちょっと
した痛みを感じた。
  ミニーがこう振り返る。「私はそのとき、腫れ物があることに気がついた。
医者を呼んだけれど、最初の検査では何も出なかった。そこで、医者は6ヶ月
ほど様子を見ようというんだけれど、何がどうなっているかわからないなんて
とても我慢出来ないから一部を切り取って検査(生検)するように頼んだの。
その結果、悪性の腫瘍が発見されたの」
  悪性の腫瘍はガンだった。
  助かる方法は一つしかなかった。乳房の除去手術である。女性にとって乳房
の除去手術は、彼女自身が死ととなりあわせになるだけでなく、子供を産み育
てることがむずかしくなる、ということで精神的にも肉体的にも大きなショッ
クである。アメリカでは毎年9万人に上る女性が胸部のガンのために乳房除去
をしなければならず、それでも85パーセントの人しか助からない、といわれ
ている。
  彼女がガンを宣告されたとき、まず決心したことは、それを友人の誰にも言
わないということだった。
  ミニーが言う。「それを多くの親しい友人たちに言わなかったのは、彼らが
どうなるかわかっていたからよ。彼らは死を恐れ、一日中泣くでしょう。そし
て、私とそれまでと違う態度で接するようになる」
 彼女は、「ガン」というタイトルの楽曲をもらったが、決して、それを人前
で歌わず、ライブラリーに永遠に封印することを誓ったのである。
 かつて、リチャードと結婚したとき、ミニーはシールドを張って、ふたりの
世界と外界との間をユ断した。今、彼女は再び、ミニーの秘密を外界と遮断し
たのだ。
  76年の春、彼女は手術を受けた。そして、手術は成功した。彼女は、非常
に前向きな女性だった。乳房を除去したことによって、暗くなったり、消極的、
否定的になったりしなかった。むしろ、それを糧にそれまで以上に積極的(ポ
ジティヴ)に生きていこうと考えるタイプの人間だった。
 彼女の山登りの道は、一旦頂上を極め、ゆっくりと下山しているときに、思
わず足を踏み外し、谷底に転げ落ちてしまいそうになったのである。
 人間は、健康のときにはまったく関心を寄せない自分の身体について、いざ
病気になると、様々なことを知るようになる。自ら医学書をほどく者もいれば、
医者から詳細を聞かされその病について知識を深めていくこともある。ミニー
は、それまでガンという病気について、ほとんど、気にかけたことはなかった。
  だが、彼女は、この手術を期に、様々なことを学ぶ。多くの女性が同様の苦
しみを味わっていることを知った。そして、考えた。死への恐怖。家族たちへ
の思い。人生の目的。「なぜ、私なのか」 頭の中が目まぐるしく回転し、う
なされる。それは、神が彼女に与えた厳しい試練だった。
 そんな状況下で彼女は前向きにこう考えるようになった。彼女には愛する夫
や二人の子供、素晴らしき友人たちがいる。その点で、他の人たちよりも少し
は幸せなのではないか。自分に何か他の人たちに対して出来ることはないかと
考えたのである。
 その結果、彼女は、それまで秘密にしていたことをテレビに出て話すことに
したのである。それは、自らがガンに侵され、乳房除去手術をしたという事実
を、一部の友人たちだけでなく、広く一般へも公開してしまうという重大決心
であった。彼女は外界とのシールドを取り払う決意をしたのだ。
  手術後、わずか数週間で彼女はジョニー・カーソンが司会をする番組『トゥ
ナイト・ショウ』に出ることにした。そのときは、ジョニーの代役で、フリッ
プ・ウイルソンが司会役だった。フリップとは、その何週間か前にも何度か会
っており、一緒にテニスをしたりする仲だったが、ミニーが手術をしたことさ
え知らなかった。
  バーバンクにあるNBCのスタジオに、彼女は夫と8歳になる息子マークを
伴ってやって来た。打ち合わせでも、そのことを語るとはいわなかった。フリ
ップは、ミニーの重大発表などまったく予期していなかった。
  ミニー自身も最後まで迷っていた。楽屋で、話そうか、話すまいか、おおい
に悩んだ。このことは、夫にさえ話さなかった。彼女はこれを公表することに
よって、彼女自身が人々に哀れみを求めていると映ることを気にしたのである。
哀れみを乞うには、彼女にはプライドがありすぎた。だが、彼女はそんなこと
よりも、自分が発表することによって、一人でも多くの人がガンから逃れられ
ればそれでいいと考えて決心がついた。
  スタジオのライトが出演者を照らし、生放送の本番が始まった。司会のフリ
ップ・ウイルソンが簡単にミニーのプロフィールを紹介し、彼女の名を呼んだ。
「ミス・ミニー・リパートン! どうぞ!」 時候のあいさつが終わると、ミ
ニーは一気に自分の体験を語った。スタジオが静まりかえった。フリップ・ウ
イルソンは、偶然にも、アメリカ・ガン協会・ガン基金の会長だった。それで
も、彼はミニーの突然の告白を聞き、呆然とした。
  番組はその衝撃的な内容とは裏腹に、淡々と進んだ。ミニーは、カメラを通
して多くの女性に向かって言った。「毎月の胸の検診、腫れ物に対する初期の
診断と早期治療がとても重要なんです。そして、万一もし除去手術になっても
何も落胆することはありません。胸を取ったからといって女性らしさが失われ
ることは何もないのです」 
 実体験者の言葉には重みと説得力があった。ミニーは、その告白している最
中に、自分が無事に手術を終え、テレビ・カメラの前に立つことができたこと
や、長い間自分を支えてきたくれた多くの人たちのことを考えると、胸がいっ
ぱいになった、と言う。
  彼女はこの告白について語る。「私がそれ以来声を大にして言おうと思った
ことは私が持っているような家庭を持たない女性のことを思うからよ。たった
一人で生きている女性は?  結婚していない女性は?  胸部除去手術を理由に
妻から逃げていくような夫を持った女性はどうなるの?  多くの人は知らない
だろうけれど、そういうことってよくあるのよ。だから、私はそういう人たち
のためにも、あなたたちはたった一人ではないのよ、と声を大にして言わなけ
ればならないの。そして、何もそのことを誰にも隠す必要もないし、それがあ
なたのセックス・ライフさえ変えることはないと言いたかったのよ」
  夫のリチャードも愕然とした。「彼女がテレビでそんなことをしゃべるなん
て思わなかったが、他の女性たちに対して様々な警告を与えたい気持ちを強く
持っていたことは知っていた。そして、彼女がしたことをとても誇りに思って
いる」
 99年のいまでこそ、ガン告知や、ガンの告白が比較的日常的になっている
が、今から20年以上も前では、患者本人に対する告知は多少あったとしても、
やはり、それを人々の前で、公表することはきわめて珍しかった。それだけに、
ミニーの告白は、衝撃的だった。
 一度は封印した「ガン」という楽曲を、ミニーは人前で、しかも何千万人と
いうテレビ視聴者の前で、堂々と歌いあげたのだ。

ACT 7,  心の戦場

  ミニーは、退院後も今まで通りにパーティーに出たり、テニスをしたり、新
作のレコーディングに入ったり、いつもと変わらぬ生活を送った。それはあた
かも悲劇の種も、片方の乳房とともに、すべて除去されたかのようだった。
  フィリップ・ウイルソンの勧めで全米ガン協会のメンバーになった彼女は、
77年にはジミー・カーター大統領からガンに対して「もっとも勇気ある女性」
として表彰され、78年には同協会の教育会長に任命された。彼女は基金を設
立し、多くの女性団体に行き、ガンについて語り、多くの時間とエネルギーを
協会のために費やした。
  ミニーは語る。「胸を半分取ったからといって、『半分の女』になったわけ
ではない。実際のところは、もっと強い『スーパー・ウーマン』になったよう
な感じよ」
  ミニーの人間としての強さがよく出た言葉である。
  エピックでのニュー・アルバムのレコーディングも続けられた。今度のプロ
デューサーは、元モータウンのフレディー・ペレンだった。だが、この制作時
からミニーとレコード会社が、様々な点で衝突するようになった。
  ミニーは3作目となる新作『ステイ・イン・ラヴ』を一つのストーリーを持
ったアルバムにしようと考えた。それは、女性の視点から見た物語だ。人生の
伴侶たる男性が必要でもあるが、仕事もこなし、その二つを両立させたいと願
う女性が、最終的には愛に生きることを選ぶというストーリーだ。アルバムに
はこの物語を補完する形の日記を付録で付けるアイデアまで出された。
  だが、意外なことにレコード会社はこれに異義を唱えた。「何のために、こ
んなことをやるんだ。君の場合、問題は君が女性であることだ。君は黒人で知
性もある。もし、君が男なら『天才』と呼ばれただろう。しかし、女だから、
『ビッチ(あばずれ)』なんだよ。女にこうしろ、ああしろと指図されるのを
好く男なんてどこにもいないんだ」
  ミニーは、その頃、すでに自分の体調の変化が自分の考え方や生き方に影響
を与え始めていることをうすうす感じていた。つまり、ひとりの自分は、無事
手術も成功し、これから先長い人生が続くものだと確信しながらも、もうひと
りの自分はひょっとしたら、やりたいことをやり遂げられるだけの充分な時間
が残されていないのではないか、と感じるようになったのだ。彼女の心のなか
に、相反した、矛盾した考えがよぎるようになったのである。
  彼女は、ポジティヴに強く生きながらも、心の片隅に、ひょっとしたらとい
う不安を感じる自分を認めざるを得なかった。強気の自分と弱気の自分の激し
い戦いがミニーの心の中で続いていた。ミニーの心は、期待と絶望の戦場だっ
た。
  そこで、彼女は「こんなバカな連中とつまらない言い争いをして無駄な時間
を過ごすことは出来ないわ」と思い、このアルバムのほかにもう一枚残ってい
た契約を解消し、レコード会社の移籍を決めたのである。
  エピックからの3作目になる『ステイ・イン・ラヴ』は、77年2月に発売
されるが、ここからは「スティック・トゥゲザー」(ソウルで57位)が小ヒ
ットするにとどまった。レコード会社としても、そういういきさつからまった
くプロモーションをかけなかったためである。

ACT 8 新天地

  エピックの契約を解消し、次の新しいレコード会社に移籍するために弁護士
を頼み、様々な交渉が重ねられた。約一年をかけて、彼女はエピックを離れ、
78年夏、晴れてキャピトル・レコードへ移籍、まもなく、新作のレコーディ
ングがスタートした。彼女にとって、ここでの1年間の足踏みは、測り知れぬ
程のプレッシャーとなった。
  ミニーは月一度の辛い定期検査を受けながら、レコーディングを続けた。一
年間活動ができなくて、たまりにたまった何かを吐き出すかのように、彼女は
レコーディングに没頭した。レコーディングは、かなり彼女の満足の行くもの
になりつつあった。何よりも、クリエイティヴな自由があることが素晴らしか
った。彼女はこの頃、こう言っている。「キャピトルでの居心地はとてもいい。
いろいろなことから卒業出来たみたい。次のプロジェクトの話もしているの。
私は若く、老けこむ年ではないのよ。70のおばあさんではないんだから、い
ろいろ試す時間がたっぷりあるわ」
  しかし、そんなレコーディングのさなかの78年11月。再び悲しいニュー
スがミニーを襲った。彼女自身、そして周りの家族の皆が一番心配していたこ
とが起こったのだ。彼女の右腕に、ガンの転移が認められたのである。
 そして、彼女や家族の人間はこのときから、ミニーの人生の残りが非常に少
ないであろうという厳然たる事実を悟ることになった。
  ミニーのマネジャーであるケン・フリッツ、夫リチャード・ルドルフらはど
うすべきか話し合った。ケンは普通のトラブルよりもはるかに多くのことをや
らなければならない、と思った。何よりも、彼女にとって残りわずかな人生を
最高のものとするには何をすべきかを考えなければならなかった。
  多くの人にとって、死とは予期せずに訪れるものだ。あるいは、死の間際に
なって、それを実感する。しかし、人は自らの死へのカウントダウンが始まっ
た瞬間、何を思い、何を考え、そして、何をしたいと思うのだろうか。
  彼らは、ミニーにとって最高の日々は、レコーディング・アーティストとし
て最後の一日まで活動し、彼女の音楽やメッセージを出来うるかぎり多くの
人々に伝えることではないか、と考えた。幸い彼女が精魂こめて作っている新
作は、完成間近で、4月にはリリースできる。これをヒットさせること、その
ことにチーム一丸となって進もうという結論に達した。
  彼らは何度もミーティングを重ね、通常のアーティストがアルバムを出した
ときにする仕事はなにか、そして、ツアーに出られないアーティストはどうす
べきか議論した。そして、その答えはテレビであり、様々なメディアに対する
インタヴューだった。
  何度も入退院を繰り返して作り上げた『ミニー』のアルバムは、79年2月、
ついに完成した。
  79年4月、移籍第一弾アルバム『ミニー』が満を持して発表された。ロス・
アンジェルスの錚々たるスタジオ・ミュージシャンが集合して作り上げたこの
アルバムは、前2作よりもはるかに好調な滑り出しを見せた。
  これに先立ち、2月にはグラミー賞の授賞式にプレゼンテイターとして出席、
4月17日、カナダ・エドモントンの番組『ロック・イット』の録画どりをし、
他に5月29日放送分の『マーヴ・グリフィン・ショウ』、6月15日分の『マ
イク・ダグラス・ショウ』などの出演が決まった。
 こうした収録の最中、彼女の右腕には断続的に痛みが走った。右手でマイク
を持てないために、彼女はそれを左手に縛り付けて、歌ったほどだ。
  それでもミニーは、週2回は必ず母親に電話をかけ、はしゃいでみせ、毎日
仕事で顔を合わせる仲間にはそのことを知られまいと努力した。常にユーモア
を忘れず、人々を楽しくハッピーにさせるのが、彼女の仕事だった。
  ステージで彼女は、よくこう言ったものである。「私が黒人だから、みんな
は私がブルーズを歌うべきだと言うの。でも、私にはブルーに落ち込むような
ことは何一つないの。ブルーズは、悲しい感情で歌わなければならない。でも、
私はハッピーな人間」
 歌手にとって、その歌手が歌わなければならない必然性のある楽曲というも
のが、ときどき出現する。自作曲であれ、他のソングライターが書いた作品で
あれ、必然性のある楽曲に巡り会えるシンガーは、幸せだ。そのシンガーの人
生を描写したり、その人物のソウルの叫びだったり、例は様々だ。だが、ミニ
ーにとっては、歌うべきでない必然性のある楽曲があった。それが、ブルーズ
だったのだ。彼女にとって、ブルーズは禁断の果実だった。

ACT 9, ラストデイへのカウントダウン

 「ひょっこり、この写真をみつけて、なんとなく笑ってしまった。昔を思い
出させてくれた、あの頃の思い出の小径を。思い出の小径に、幸せと痛みがあ
る。とても幸せな二人がそこに立っているのが見える」 こう歌われるのがア
ルバムのトップを飾る「メモリー・レーン」だ。あるとき、家で夫のリチャー
ドと二人で、古い写真をたくさん見ながら、思い出話をしていたことから生ま
れた作品である。アルバムからの第一弾シングルとして4月に発売された「メ
モリー・レーン」は、好調にソウル・チャートを上昇し始めた。
 そんな5月のある日、マネジャーであり、彼女の良き理解者でもあるケン・
フリッツはミニーの担当医から呼出しを受けた。
  担当医の部屋は薄暗かった。窓側から差し込む光りが逆光になって少し眩し
かった。医者は重々しい雰囲気の中でこう宣言した。「(彼女の命は)今年い
っぱい持ちません」
  ケンは尋ねた。「労働休日(9月の第一月曜日)まではどうだろうか」
  医者は答えた。「だめでしょう」
  「では、(ミニーの娘の)マヤのバースデイ、7月27日までは?」
  「わからない」
  ケンも夫のリチャードも、別れの日がとても間近に迫っていることを知らさ
れ、なすすべがなかった。決して、後戻りできない時計のカウントダウンが始
まり、その最後の瞬間に向けて、一秒一秒、時が冷酷に、容赦なく刻まれてい
った。秒針の音が耳元でささやくように鳴り始めた。
  ミニーは、「よくなったら、(同じケン・フリッツがマネージして「る)ジ
ョージ・ベンソンと一緒にツアーに行くのよ」と非常に楽観的なことを言う。
フリッツによれば、彼女が体力的に死にかけるにつれて、以前にも増して人と
の約束の時間に正確になり、人に対して要求することが少なくなり、仕事や、
すべきことをてきぱきやるようになった、という。
  6月になると、痛みは連続的になった。しかし、彼女は決して泣いたりせず、
弱音を吐いたりもせず、電話でインタヴューさえ受けた。アルバム『ミニー』
のセールスも好調で、業界誌のチャートを上昇している。
 初めはほとんど聞こえなかった秒針の時を刻む音が、次第に大きくなってい
った。
  7月10日。ロスのシーダース・サイナイ病院に再び入院。ここには、ミニ
ーの高校時代の友人サンディー・キングがいて、二人はしばし思い出話にひた
った。二人の高校時代のこと、彼女たちが一緒にはいっていた教会のコーラス
隊のことなど話は尽きなかった。
 「愚かな気持ちを持ち続けたい。あの気持ちを持ちたくない。私は行きたく
ないの。わたしを助けて、助けて」 ミニーの「メモリー・レーン」の一番最
後の歌詞だ。懸命に今この瞬間を生きながら、しかし、来るべき運命のときへ
の偽らざる恐怖を、吐露した希有な一行だ。
  彼女は、かつて、もし自分が人生をやり直せるならば、疑うことなく再び、
同じような人生をやり直したいと語った。「それほど、私は素晴らしい人たち
に会えたし、私の人生は悔いのないものだったから」
  人生のある瞬間に、それまでを振り返って、そこまで言い切れる人生を送っ
てきたミニーには、やはり、必ずしも多くの人が得られるとは限らない、ある
種の達成感というものが確実にあった。
  そんな彼女の脳裏には、高校時代の友人と思い出話しをしながら、一体どん
なことがよぎったのだろうか。
  ごく親しい友人たちは、ミニーの生涯は、マヤの7歳の誕生日(7月27日)
以前に幕を閉じるであろう、という悲しい事実が告げられた。
  そこで、多くの友人たちが彼女に会いにやって来た。
 7月11日の昼、盲目のシンガー、ホセ・フェリシアーノがやってきた。ホ
セとミニーは、彼らが一緒に歌った「ライト・マイ・ファイアー」のレコーデ
ィングのことなどを思い出した。元々ドアーズが録音し、その後ホセがカヴァ
ーしていた作品だ。ミニーも、カヴァーすることにしたのだ。ちょうど、ミニ
ーがアルバムをレコーディングしているときに、ホセが同じスタジオに来てい
て、そのテープを聴かせたところ、すっかりミニーのヴァージョンを気に入り、
すぐにその場でデュエットすることになったのである。
  7月11日の夜、スティーヴィー・ワンダーが見舞いに訪れた。スティーヴ
ィーは、ミニーのために、曲を書いてきていた。その曲のタイトルは、「ミニ
ー・ゲット・ウエル・スーン」(ミニー、すぐによくなってね)というものだ
った。スティーヴィーのファンだったミニー。無名時代からミニーのファンだ
ったスティーヴィー。
  スティーヴィーは、花がいっぱい飾られた病室でこの曲をアカペラで歌った。
スティーヴィーのメッセージは、心の底からの叫びだった。ミニーは、じっと
聴きいった。スティーヴィーが歌い終わると、病室にいた人々から拍手がまき
起こった。彼女は、一言スティーヴィーにこういった。「私が待っていた最後
の人物がやってきたわね。すべてよくなるわよ」 それは、あたかもスティー
ヴィーが来るまでは、旅立たないぞという、彼女の決意のようにも受け取れた。
 秒針の音は、いつになく、大きく、そして、気のせいか同じ一秒を早く刻ん
でいるかのようだった。
  7月12日の朝。サンディーがミニーの部屋に立ち寄ると、彼女はいつもの
ように笑っていた。前日に、スティーヴィーやホセ・フェリシアーノがやって
来たことを話していた。そして、その直後の午前10時。ミニーは、意識がも
うろうとし始め、夫リチャードの腕に抱かれ、子供たちにみとられながら不帰
の人となった。
 ついに秒針の音が力尽きたかのように止まった。
 足を踏み外した断崖絶壁をはい登ろうとしていた彼女は、谷底にすべり落ち
ていった。
  ミニー・リパートン。彼女は自分が死に直面し、どんな悲しみのどん底にい
ようとも、決してブルーズを歌わなかった一人のシンガーである。

ACT 10. ハーフ・フルの人生

  ミニー・リパートンの死は、業界関係者だけでなく一般のファンへも衝撃を
与えた。ウエストウッド・ヴィレッジ墓地。ここで行われた葬儀には、死の前
日に病室を訪れたスティーヴィー・ワンダーや、ホセ・フェリシアーノなどの
ほか、ジョー・サンプル、スティックス・フーパー、テルマ・ヒューストン、
フレディー・ペレン、クインシー・ジョーンズなど200人以上のセレブリテ
ィー、親しい友人が集まった。
  「もし、それが魔法なら、なぜ、永遠に続かないのか」 ドロシー・アシュ
ビーのハープ演奏をバックにスティーヴィーが歌う「Cフ・イッツ・マジック」
が墓地に響き、参列者の胸に彼の言葉が突き刺さる。彼の傑作アルバム『ソン
グス・イン・ザ・キー・オブ・ライフ』に収められている、ハープ一本をバッ
クに歌われるしっとりとした作品だ。
 牧師のA・L・レイノルズ博士は、こうスピーチした。「彼女は実に勇敢に
戦いました。彼女は信念を持ち続けました。彼女は、戦場における本当の兵士
でした。彼女は、生きました。彼女はスターダムに向かって歌い続けました。
今、われわれは彼女の体をだびにふします。しかし、彼女のスピリットはここ
に残ります」
  彼女に近い友人は、様々な状況から、ミニーが自分の死期が近付いているこ
とを知らなかったとは思えない、という。だが、彼女はメディアへの取材に対
しても、普通に仕事などで出会う人々に対しても、そのことを決して語らず、
それを話題にすることさえしなかった。彼女は、人々が自分に対する同情や哀
れみによって自分のレコードを買うということを嫌った。彼女の母親でさえ、
直前まで事態の悪化を知らなかった、という。「あの娘は、本当に強い子だっ
たねえ」と母はもらす。
  彼女の人生の哲学は、人々をハッピーにさせること、何事も前向きにとらえ、
ポジティヴに生きていく、ということだった。
  彼女は「リーズンズ」の中で、「私の人生の存在理由は、百万人の顔にある」
と歌う。つまり、彼女が今日ここに生きているのは、百万人の人々のおかげだ、
という意味だ。その点で彼女が生きている理由はだれにでも理解出来るものだ。
だが、彼女がこれほどまでに若く死んでしまう理由はだれにもわからない。多
くの人は、なぜ、神はひたむきに生きていた若き女性のキャリアをあれほどま
でに短く打ち切ってしまうのか、なぜ、彼女にはその可能性をもっと開花させ
る機会が与えられなかったのか、と問いかける。
  ミニーは答える。「私は神が私のことを見捨てたとは決して思っていない。
神はきっと、唯一私だけがこの試練に耐えられると思ったのでしょう」 神は
ミニーの強さを知っていたのかもしれない。
 そして、シカゴ時代から彼女が自身のまわりに作り上げていたシールドは、
もはや必要なくなった。彼女は遮断されていた世界から自由に解放されたのだ。
  ミニー・リパートンは、ステージでしばしばこういう。「私は物事をこう見
るタイプの人間なの。ミニー・リパートンのグラスは、いつも半分からっぽ(ハ
ーフ・エンプティー)ではなく、半分いっぱい、(ハーフ・フル)と」 彼女
の十八番ともなっている名セリフだ。
  グラスに水が半分入っている状況を、どのようにとらえるか。半分しか入っ
ていない、という捉え方は、ネガティヴな見方。半分も入っているという捉え
方は、ポジティヴな見方である。そして、ミニーは、常に物事をポジティヴに
捉え、生きてきた。このセリフは、彼女が片方の胸を手術で除去して、半分に
なってしまったこととも重ねて、「まだ、胸だって半分もあるじゃない。まっ
たくないわけではないわ」と言っているのである。ミニーがこのセリフを言う
と、観客席からは大きな拍手がわき上がる。
 スティーヴィーも、このミニーのセリフの大ファンだ。僕も彼のライヴで、
この名言を語っていたところを見たことがある。
  ハーフ・フルの見方からすれば、ミニーは、31年間も立派に生きて、彼女
のライフスタイルや、生き方、考え方を、自分の言葉によって表現する自由を
与えられ、その彼女のメッセージはレコードや、様々なメディアを通して多く
の人々に到達した、ということになる。
  つまり、彼女の人生そのものが、ハーフ・フルだったのである。

ACT 11、 パーフェクト・エンジェル

  ミニーを語るとき、忘れられないのが、キャリアを持つインディペンデント
な女性という立場である。ウーマンズ・リブが声高に叫ばれた70年代であっ
ても、彼女がインテリの黒人女性であることに対する反発があった。それはア
ルバム『ステイ・イン・ラヴ』制作中にレコード会社と対立したシーンに象徴
的に表れている。彼女は、男性上位のレコード業界で、文字どおり、孤軍奮闘
したといってもいい。80年代後半以降、女性アーティストの進出が加速度的
に大きな流れとなってきたが、ミニーやこの少し後に登場したティーナ・マリ
ーなどの女性陣が敷き詰めてきた踏み石の上に、90年代の女性スターたちは
存在しているといっても過言ではない。
  その点においても、ミニーは、牧師であるレイノルズ博士が語ったように、
「戦場の兵士」だった。それも、最前線の兵士だった。
  ミニー・リパートンが死去して、有志によってミニー・リパートン基金が設
立された。ガンの研究、治療などのために資金が集められ、早速ジョージ・ベ
ンソンがコンサートの収益を寄付した。さらに、生前のミニーのレコーディン
グの中から未発表の作品に様々な手を加え、新たな作品として完成させるプロ
ジェクトなどが始まった。
  これは、スくのゲスト・アーティストを迎え、ミニーの声にオーヴァー・ダ
ビングしてもらい完成させるという方法で制作された。そのゲストとは、ステ
ィーヴィーはもちろんのこと、ジョージ・ベンソン、ロバータ・フラック、ピ
ーボ−・ブライソン、マイケル・ジャクソン、リー・リトナワー、パトリース・
ラッシェン、トム・スコットなどである。多くのロスの超一流アーティストが
スタジオにやって来てこの夢のプロジェクトに参加した。
  このアルバムは、『ラヴ・リヴズ・フォーエヴァー』と題され、80年11
月に発売された。スティーヴィーは、このアルバムの裏ジャケットにこう言葉
を寄せた。「もう君には触れられないから、寂しい。でも一方、また君に触れ
られるとも思う。なぜなら、君が僕の心に触れてくるから。だから、愛は永遠
に生きる」 アルバムのタイトルは、このフレーズから取られた。
  ここで心を打たれるのは、「ギヴ・ミー・タイム」(時をください)と題さ
れたバラードだ。「ラヴィン・ユー」が華々しいミニーの「太陽」とすれば、
この「ギヴ・ミー・タイム」は、絶望のミニーの「月」だ。「時は瞬く間に過
ぎていく。すべての夜明けをあなたと分かち合いたい。時を貴重に思える人は
ほんの一握り。時はお金では買えない貴重なもの。あなたは、私の人生を完璧
なものにしてくれた。私に時をください。あなたが私にとってどれほど重要な
存在かを示すために」
  この曲自体は、ミニー自身の作品ではないが、これほどまでに彼女の人生と
重なる曲はない。死期を悟ったミニーの歌声に、スティーヴィーのもの悲しげ
なハーモニカが響く。果たして、この曲をスタジオでレコーディングしていた
時、夫のリチャードの脳裏にはどんな思いがよぎったのだろうか。彼女の歌声
がスタジオの大きなスピーカーから流れてくるたびに、それがリチャードを苦
しめたであろうことは、想像に難くない。
  ミニーは、この後、それまでの未発表ライブ曲を含めた『ベスト・オブ・ミ
ニー・リパートン』のアルバムを81年11月にリリース。これが、最後のア
ルバムとなった。
  この中には、彼女のステージにおけるおしゃべりの一部が収録されている。
  彼女は曲間でこう観客に語りかける。「どうもありがとう。人々は、よく輪
廻転生のことをいうわね。聞こえはいいわ。でも私は前世が何だったかまった
く思い起こせない。皆さんはどうかわかりませんが、私は輪廻転生するという
許可証やメッセージはまだ受けていないの。だから、今この現世で一生懸命、
素晴らしい時を過ごそうと思っているの。みなさんもそうしたほうがいいわ」
  ミニーは観客に、現世で一生懸命生きることを勧める。死期を知るが故に、
現世の価値を、だれよりも尊いものとして捉えているのだ。彼女の体は神に召
されたが、彼女の魂は、レコード盤にのって、今日も世界中を駆け巡る。どん
なに自分が苦しく、悲しみにくれ、絶望の断崖絶壁に立っていたとしても、決
してそれを表に出すことなく、日々全力を尽くして生きてきたミニー・リパー
トン。
 人は忙しい日々を送る中、一日の尊さを忘れがちになってしまう。誰にでも
平等に配られる一日24時間という時を、価値あるものにするか、無価値のも
ので終わらせるかは、本人の使い方次第だ。ミニーは、その24時間という時
間を限りなく尊く、価値のあるものにした。
  彼女はこう言う。「人生に対して、愛について健全な姿勢を持つということ
はとても大事だわ。例えば、ある人たちは、人を愛する時、人に与える時に、
自分や相手がとてもわがままになってしまうという理由で、恋に落ちることを
ためらう。彼らは、自分の心をいつ、どのように開けばいいか、あるいはいつ
愛を与えればいいか、などがわからないの。もちろん、いつでも心を開いてい
れば、傷つくことも多いわ。でも、だからといって、心を開くことをやめても
いいことにはならない。つまり、心を開くということは人生における多くのこ
とのただ一つの出来事なのよ。何かを与えるということをやめるべきではない。
肉体的にも、精神的にも、あらゆる面で傷つく可能性はいつでもあるわ。それ
でも、人生は生き続けられるのよ。だれにも、人生のあらゆる日々が100パ
ーセントになるだろう、などとは言えないのよ。それまでの様々なよかったこ
と、よき思い出を振り返り、それを考えれば、そうしたことは、悪かった辛い
時期を帳消しに出来ると思う」

ACT 12  三つの傷

  「ウドント・マター・ホエア・ユー・アー」で彼女はこう歌う。「自分の人
生が進むところ、どこへでも旅をしなさい、と彼は言った。虹のかなたまでも、
自分のヴィジョンを追い続けなさい、と彼は言った。どこに行くのも自由よ」
  彼女の現世における旅は、31年間で幕を閉じた。だが、次の世界での旅は、
永遠に続く。 可能な限り、ポジティヴに生きてきたミニー・リパートン。彼女
は、この歌の通り、自分のヴィジョンを虹のかなたまでも追いかけた。
  ミニーは言った。「私には、三つの傷がある。一つは、私が子供の頃、交通
事故で負った足の傷。もう一つは、子供を産んだ時の傷。そして、これ。(胸
が一つになった後の傷、を意味する)  私の夫は、それらの傷を私の個性の印
だと言うの。そして、中でも一つになった胸を、この世界でもっとも素晴らし
くかけがえのないものだと言うのね。なぜなら、その傷痕のおかげで私がいま
だに生きていられるから、と」
  この世でもっとも素晴らしい傷痕のおかげで、彼女は31年間も、この世に
生きられた。その人生の密度の濃さは、他のだれにも負けないものだ。そして
その密度の濃い彼女の人生は、記録に残る人生というよりも、むしろ、短期間
ながら強烈な印象を与えたという意味で、人々の記憶に残る素晴らしき人生だ
ったのである。
 人間とは、求めれば求めるほど、足りなく感じ、そして、与えれば与えるほ
ど、満ち足りた充実感を持てる動物である。ミニーは与えて与えて、与え続け
た。だから、その人生は短くとも、満ちあふれていたのだ。人は、雑念の多い
日々を送っていると、与えることを忘れ、求めることしか頭になくなってしま
うものだ。それは、物質的なものであれ、精神的なものであれ、同じだ。彼女
は、自分の人生のピリオドを神に知らされたために、人々にすこしばかりせっ
かちにすべてを与えようとしたのだ。
  そして、彼女の歌声が流れてくる時、ミニーの「私のグラスは、いつもハー
フ・フルよ・・・」という声がどこからともなく聴こえてくるようだ。このメ
ッセージは、あれから20年以上たった現代でも、今の瞬間を悩みながら生き
る男と女への普遍的なメッセージとなっている。
  どんな時にも、決して悲しみのブルーズを歌わなかったミニー・リパートン
は、多くの伝説とレガシーを残して、いま天国で、文字どおりパーフェクト・
エンジェルへ生まれ変わっているだろう。そして、そのエンジェルの可憐な5
オクターブの歌声は、今日も現世の地上に降り注ぎ、多くの人々に喜びと、希
望と、愛を与え続けている。それが、たとえ20年前の作品であっても、ミニ
ーの音楽が持つ力(パワー・オブ・ミュージック)は、まったく衰えることを
知らない。

EPILOGUE

  誰かが、また103を押した。ジョージのジュークボックスから、「ラヴィ
ン・ユー」が流れてくる。アナログ・シングル独特の、ちりちりした音ととも
に、ミニーの歌声が小さなバーに響く。この一時間の間に、はや二度目だ。さ
っきの彼女はいつのまにかいなくなっていた。別の誰かが、コインをいれたの
だろう。あの彼女がいれなくても、他の誰かがいれる、そんな曲だ。毎日最低
一回かかったとしても、20年で、7000回以上も、「ラヴィン・ユー」は
ここでかかっている計算になる。ジョージには、同じ数だけ、小鳥のさえずる
声がこだました。103のボタンも、同じ数だけ押されてきた。そして、これか
らも押され続けるだろう。103にミニーは、今日も生きているのだ。


				=完=

99.2.1
844



■アルバム・リスト

  ミニーのソロ・アルバムは次の通り。
  このほかに、ロータリー・コネクションとして6枚のアルバムがある。その
リストは、本編のストーリーに記してある。

1. COME TO MY GARDEN (JANUS 7011 -  70/12)
2. PERFECT ANGEL (EPIC 32561 - 74/12) 
3. ADVENTURES IN PARADISE (EPIC 33454 -   75/5) 
4. STAY IN LOVE/ROMANTIC FANTASY SET TO MUSIC (EPIC 34191 - 77/2) 
5. MINNIE (CAPITOL 11936 - 79/4)
6. LOVE LIVES FOREVER (CAPITOL 12097 -  80/11)
7. THE BEST OF MINNIE RIPERTON (CAPITOL   12189 - 81/11)
  アルバム・チャート(ビルボードのホット・アルバム)では、1.が160位、
2.が4位、3.が18位、4.が71位、5.が29位、6.が35位を記録している。

98.9.30
At Mac

   
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