第4話 ナイル・ロジャース&バーナード・エドワーズ(シック)
〜友情という名のメロディー〜
(Part 2)


ACT  EIGHT  「昨日のニュース」

   バーナードとナイル。成功を夢見て共に全速力で走ってきた彼ら。しかし、
トップにたどり着くよりも、それを維持するほうがはるかに難しい、という厳
しい現実を悟るのには、まだまだ時間がかかった。
   彼らは、レコーディングにも煮詰ってきた。どうしたら、いいサウンドがで
きるのか、自分たちの個性が出せるのか、それぞれの意見が食い違うことも多
くなってきた。二人ともテンションが上がり、自分の意見を押し付けようとし
たりすることが起こり始めた。それぞれが、シックというグループに対しての
考えを持ち、また、それまでの成功からそれぞれが自信を持っていた。自分が
こうしたから、成功したんだという自負をどちらもが持っていた。そして、そ
れはどちらも正しかった。だが、意見の衝突、利害の衝突は、あたかもお互い
のエゴの衝突を代弁するかのようだった。
  彼らは、しばらくペースを落とすことにし、クール・ダウンすることにした。
そして、それまで仕事でもプライヴェートでも毎日のように会っていた二人は、
少し距離を置くようになった。
  すると、今度は彼らが離れたことについて、「やつらは喧嘩別れした」、「も
うシックはおしまいだ」といった噂が流れるようになる。常に、周りは彼らの
足を引っ張ろうとしていた。一体、なぜ人々はそういう行動に出るのだろうか。
  ナイルが冷静に分析する。「要するに、みんなスターと呼ばれる有名人のゴ
シップが好きで、トップに上がった連中が落ちだすことが楽しいというわけだ。
だから、トップの連中の足を引っ張るのが面白いのさ」
  バーナードが続ける。「だが、そんなことはトップにいる間はわからないも
のだ」
  そうした取り巻きからのプレッシャーに付け加え、彼らは、アメリカの音楽
業界から、単なる「ディスコ・プロデューサー」としてしか認識されていない
というプレッシャーがあった。
  それは、もちろんアメリカの業界のシステムの問題だった。一つのヒット曲
やアルバムだけを判断材料に、そのアーティストをカテゴライズしてしまうと
いう方法である。悲しいかな、シックの場合、「ダンス・ダンス・ダンス」と
いう文字どおり、ディスコ・ヒットからキャリアをスタートさせたことによっ
て、「ディスコ・プロデューサー」というイメージが付いてまわってしまった。
もちろん、実際は彼らの音楽性にはロックもファンクもR&Bの要素も含まれ
ているが、そうした点は、なかなか認められなかった。だから、彼らが音楽的
な面でも、そして、人間関係の面でも厭気がさしフラストレイションやプレッ
シャーが異常にたまりだしたのも、自然の流れであった。
 ナイルとバーナードの二人に僕がじっくり話を聞いたのは、92年のことだ
った。彼らが新譜発表時にプロモーションのために来日したのである。彼らは、
とても機嫌良く、いろいろな話をしてくれた。ナイルは、ギターを片手に話を
し、バーナードもベースをインタヴューの行われた部屋に持ち込んでいた。話
の最中は、ごく普通の人間のように思えたが、写真を撮影するときに、ふたり
が楽器を持った瞬間、それぞれ完璧なミュージシャンに変身したような気がし
た。ミュージシャンのオウラのようなものを感じたのである。
 彼らが話のなかでも、熱っぽく語ったのが、1980年以降、1983年ま
での間のアメリカの音楽業界の激変ぶりについてだった。
  バーナードの語気が強まる。「いわゆる『ディスコ・サックス・ムーヴメン
ト(ディスコはダメだムーヴメント)』が1980年頃から起こりだしたんだ。
つまり、ディスコというものは、もう時代遅れで、古い。ディスコなんてダメ
だ(ディスコ・サックス)という風潮だ。そこで、シックの新譜が出ても、『あ
あ、あれはディスコだから、もう(ディスコでは)かけないよ』と人々が言い
出す。彼らは『これからは「ダンス・ミュージック」の時代だ』とか言い出す
んだ。ある日突然、ディスコ・ミュージックがダンス・ミュージックと呼ばれ
るようになった。これからはダンス・ミュージックの時代と言って彼らがかけ
るのが(リップス・インクの)『ファンキータウン』というわけさ。(笑い)」
  メディアは、「ディスコ」という呼び名を捨て、「ダンス」という呼び名を
使おうとした。呼び名を変えることによって、中身は同じでも、一見新しいも
のが生まれたかのような印象を持たせられるのだ。包装紙を変えて、同じ商品
を売り出す方法である。そして、「ディスコ」という呼び名が使い捨てコップ
のようにゴミ箱行きになったように、「ディスコ」を掲げるアーティストも、
同じように軽くゴミ箱行きになった。シックは、メディアからすると一夜にし
て時代遅れの産物となったのである。
  さらにナイルが続ける。「われわれは自分の人生の中でもっとも業界で人種
差別の激しい時代に生きてきていると思うね。本当に残念なことだがね。だが、
一方で、僕はいい音楽は必ず報いられると思うよ。僕としては権力者が、僕の
ことをロックだ、R&Bだ、レゲエだ、ジャズだとどんな呼び方をしたって気
にしないさ。最終的には、人々が決めるだろうからね。ピュアなアーティスト
性というのは必ず勝つんだ。人々にミュージシャンシップを見せ、実際に演奏
できることをわからせれば、みんな必ずわかってくれるよ。多分、僕は理想主
義者かも知れないな。でも、何か信じれるものを持っていないとね」
  ナイルとバーナードはこう考えた。「だって、僕たちは確かにダンス・コミ
ュニティーを代表していた。ダンス・ミュージックを一歩高いところに持ち上
げたと思う。僕たちは、ただの流行バンドではないと思っていた。僕たちの音
楽はローリング・ストーンズやビートルズと同じようなものだと思っていた。
少なくとも音楽へのアプローチの面ではね。ストーンズやビートルズだって、
クラブから出てきたバンドだったんだからね。新しい時代にクラブから出てき
たバンド、それが僕たちだと考えていたのさ」
  人々は、ディスコに見切りをつけたが、ナイルは、そのディスコの功罪につ
いてこう分析する。「つまり、ディスコで唯一よかった点は、レコードがその
サウンドによって評価されたということだ。要するに、黒人がやっていようが、
白人がやっていようが、いいグルーヴをもって、いいサウンドをしていれば、
人々はそれにのった。そして、レコードを買いに行ったんだ。そこには、まっ
たく人種的な差別はなかったということだ」
  1974年以来、ディスコティックという存在が大きなものとなり、メディ
アも大々的にディスコを持ち上げたが、77年暮から78年にかけてジョン・
トラボルタの映画『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』の大ヒットが一段落す
ると、手のひらを返したようにディスコに続く、何か次のトレンドを探し求め
ようとし始めた。メディアの、常に次を求めようとするその貪欲さは、空腹時
に獲物を狙おうとするサメさながらであった。それは、新しいものなら何でも
いい、古いものはなんでもだめだという概念の上に成り立っていた。
  ディスコからダンスへとその呼び名は変わっても、本質的な部分は何も変わ
らなかった。だが、シックというグループは、そうした激変する環境の荒波に
もまれることになったのである。
  こうして、彼らはもはやアメリカの音楽業界では「昨日のニュース」となり
始めていた。そして、人々は、もはや「昨日のニュース」を見ようとはしなか
った。彼らは70年代に生まれ、80年代に死んだのである。

ACT  NINE  予期せぬスターからの誘い

  そうしたアメリカの業界からは尊敬の念を得られず「過去のニュース」とな
ってしまった彼らだったが、1982年12月のある日、ナイル・ロジャース
は、全く予期せぬアーティストから一本の電話を受け取った。
  電話の主は、自分のアルバムを是非あなたにプロデュースしてほしいといっ
た。それは、イギリスのロック・スター、デイヴィッド・ボウイだった。
  ナイル・ロジャースは言う。「デイヴィッドならば、黒人であれ、白人であ
れ、彼が望むプロデューサーならだれでも手に入れられただろう。たとえ、ク
インシー・ジョーンズとでも一緒にアルバムを作れたに違いない。だが、彼は
僕に電話をしてきてくれた。そのことをとても誇りに思っている」
  ナイルは、もちろんこのプロジェクトを二つ返事で承諾する。彼にとっては、
それまでにシックとしてデビー・ハリーの作品をプロデュースしたことはあっ
たが、いわゆるビッグなロック・アーティストのプロデュースは初めてだった。
  話はとんとん拍子に進み、年があけて、すぐにニューヨークのパワー・ステ
イション・スタジオで、レコーディング・セッションが始まった。デイヴィッ
ド・ボウイのやり方は、それまでのナイルが付き合ってきたアーティストとは
まったく違っていた。セッションは、朝10時から始まり、夕方6時には必ず
終わった。そして、それが規則正しく、週6日続いたのである。
  ボウイは、「こういうやり方が好きなんだ」とナイルに言った。そして、ナ
イルも「もっともエナジェティックなレコード制作方法だ」と同意する。
  一方、ナイルとバーナードは、しばらく疎遠になっていた。それぞれが好き
に活動をしていて、シックとしての活動もいつ再開するかはっきりわからなか
った。
  デイヴィッド・ボウイのプロジェクトは、ナイルにとって初めてのソロ・プ
ロデューサーとしてのものだったので、ある意味で、彼にとってはプレッシャ
ーがあった。しかも、シックとは違うミュージシャンとも付き合わなければな
らず、ときとして、そうしたミュージシャンとのコミュニケーションがうまく
取れないこともあった。
  そんなあるとき、ボウイのセッションでどうしても、一曲ベース・ラインが
フィットしない作品があった。ベース奏者が注文通りのベースを弾いてくれな
いのだ。ナイルの観察によると、明らかにボウイは苛立っていた。そして、ナ
イルはそのパワー・ステイションの階上のスタジオに旧友バーナードが来てい
ることを知っていた。だが、彼はバーナードにどうしても電話しづらかった。
しばらく話をしておらず、疎遠になっていたからだ。もちろん、ナイルにはバ
ーナードに連絡すれば、すぐにかけつけてくれるだろう、という思いはあった。
ナイルは、とても迷った。だが、レコーディング・セッションは進めなければ
ならない。いたずらに時間が無駄に過ぎていくだけだ。
 そこで、彼は意を決して、ボウイにこう言った。「では、シックのミュージ
シャンがどれほどのことができるかお見せしよう」  
 そして、受話器を上げ、バーナードに電話をかけたのである。
  バーナードは、すぐに下に降りてくるなり、いつものようにナイルに声をか
けた。「ヘイ・ワッツ・アップ?  (どうだい?)」
 さらに、ボウイに向かって、「ヘイ・メン、ナイス・トゥ・ミート・ユー」
と言って、スタジオの中にはいって行った。それは、それまでのバーナードと
何ら変わらない姿だった。
  ナイルが振り返る。「バーナードは、楽譜を見て、『テープを回せ』と言っ
た。僕は、あれを決して忘れない。彼は午後3時5分にスタジオに入ってきて、
3時20分にはもうでて行ったよ。それから、トニー・トンプソンに連絡して、
彼も二日後にやって来て、ドラムを録音してくれた」
  トニー・トンプソンは、シックの要ともいえるドラマーであり、その強烈な
ドラミングは、既にシック以外のセッションでも引っ張りだこだった。
  ボウイのレコーディング・セッションは、3週間で終わり、リミックスを2
週間ほどかけてやり、わずか5週間ですべてが終了した。ナイルにとって、「自
分の生涯で、もっとも短かったレコーディング・セッションだった」という異
例のものになった。
  アルバムは『レッツ・ダンス』と題され、83年3月に発売、ナイルのシッ
ク的なファンク・サウンドとともに大ヒットとなる。ナイルのソロ・プロデュ
ーサーとしての第一歩がここに記され、その成功によって彼のプロデューサー
としてのステイタスもあがり始めた。
  アメリカの音楽業界で時代遅れと無視され始めた彼らが、ひとりのスターに
よって、再び脚光を浴びることになった。ナイルの言う「よい音楽はいつか報
いられる」という言葉通りの結果となったのである。
  ひとたび「昨日のニュース」となりかけたナイル・ロジャースは、再び「今
日のニュース」へ返り咲いたのである。

ACT  TEN  失われた求心力

  1983年、ナイルとバーナードは、それぞれの音楽的な方向性の違いを感
じており、シックとは違うソロ・アルバムを作ろうという話を始める。ナイル
は、よりロック的なアプローチを見せ始め、一方でバーナードはよりファンク
的なアプローチを見せていた。彼らは、それぞれこの年にソロ・アルバムを作
る。そして、各々がソロ・アルバムを作ったことで、周囲の「シック解散説」
はより一層信憑性をおびてきた。だが、彼らとしては、シックはシックとして
やっていき、それとは別にソロ活動もしていこうという考え方だった。
  そこで、解散の噂を打ち消すためにも、83年秋、ナイルとバーナードは再
び、シックとしてのアルバムを作ることにした。
  この頃、音楽界は、日進月歩の新しいテクノロジーの洗礼を受けていた。コ
ンピューターが音楽制作の場に導入され、リズム・マシンがドラムのビートを
刻むようになっていた。様々な楽器の音をコンピューターの中にいれ、それを
プログラムすると、音楽となって出てくるような技術が開発され、新し物好き
のミュージシャンが次々とこうした「ガジェット(器材)」の使用に没頭した。
  シックの二人もその例外ではなかった。彼らはその頃手に入れた新しい器材
の中でも、ドラム・マシーンに熱中していた。それは人間のドラマーが叩くド
ラムの音とまったく違っていて、非常に新鮮だった。生のドラムが、微妙なタ
イミングのずれを持つのに対し、機械のドラムは、完璧に同じタイミングのリ
ズムを刻んだ。その正確さはとても人間には作りだせなかった。
  そこで、彼らはこの新兵器をニュー・アルバムのレコーディングに使うこと
にした。しかし、そのことがバンド内に微妙な変化を生み出すことになった。
ドラム・マシンを使うということは、生身のドラマーすなわち、トニー・トン
プソンを使わない、ということを意味した。トニーとしては、シックはこれま
でレコーディングでも、ライヴ・パフォーマンスでも、バーナード、ナイルと
ともに、核のメンバーであるという誇りを持っていた。自分のドラムこそが、
ナイルのギターとバーナードのベースに完璧にフィットし、ユニークなシッ
ク・サウンドを形作っているものだと思っていた。それに付け加え、シックと
いうと、必ず前面に出てくるのがナイルとバーナードで、自分はいつも表には
出てこれなかった。そのことも彼としては少しばかりいらいらすることではあ
った。
  そこへ来て、レコーディングでも自分のドラムよりも、機械のドラム・マシ
ンを優先して使う二人に失望していた。シックのアルバムは、2曲程を除いて
ドラム・マシンでリズムが録音された。
  そうしたことも重なり、トニー・トンプソンは、この時期とても傷ついた。
ある意味でミュージシャンのプライドが無視されたようなものだった。それと
同時に、器材がミュージシャンに取って代わっていく様を目の当たりにして、
将来に対して、大きな不安を持つようになった。「だれもがコンピューターで
音楽を作りだすようになったら、僕のようなドラマーはもう音楽界ではおよび
ではなくなる」  そんな不安が常につきまとうようになった。
  アルバム・ジャケットには、ドラマーとしてトニー・トンプソンの名前がク
レジットされているが、トニーにとっては、そのクレジットさえも空しく感じ
られた。
  一方、グループとしてのシックの状況も悪くなりだしていた。ナイルは、ナ
イルなりの音楽的方向性、バーナードも彼なりの音楽的方向性があり、かつて
は、違ったタイプの音楽を融合することで、ユニークなものができていたのが、
今では逆にその多様性がグループのサウンドを作る上で、まとまりが付かない
方向へ悪く悪く展開し始めていた。それに付け加え、彼らをまねたサウンドが
音楽界にあふれたため、彼ら自身、自分たちの作りあげたサウンドではないも
のを求めようとし、試行錯誤するものの、なかなかこれはといったものを作り
上げられなかった。
  このアルバムは、『ビリーヴァー』と題され、83年11月発売されたが、
すでに、シックのグループとしての求心力は失われていた。
  アルバムは、悲惨な失敗作に終わった。タイトルは、信じる者という意味だ
ったが、彼らは、救われなかった。
  バーナードもナイルも、そしてトニーももはやグループ、シックとしての存
続の意味を持ち続けられなくなっていた。
  ナイルたちは、レコード会社の担当者に電話を入れた。すると、既にこの頃
から、担当者はいつも「忙しく」「ミーティング中」だったり、「出張中」で、
彼らの電話に出ようとしなくなった。折り返しの電話もかかってこなくなった。
明らかに、彼らはレコード会社のなかで、ファースト・プライオリティーのア
ーティストではなくなっていた。「ダンス・ダンス・ダンス」の頃は、向こう
から頻繁に連絡してきたのに、この頃は、手のひらを返したように、こちらか
ら電話をしても、居留守さえ使い、自分たちを避けるようになった。
  ようやくつながった電話で、ナイルたちが「実は、僕たちは解散を考えてい
るんだけど・・・」というと、担当ディレクターは一言、「結構だね」といっ
て電話を切った。その一言は、ナイルとバーナードのミュージシャンとしての
プライド、尊厳を大きく傷付け、彼らを落ち込ませるに充分であった。
  ナイルたちは、少なくとも、彼らが解散を引き止めてくれるものと思った。
だが、無情にも、レコード会社はシックというグループの解散をあっさりと認
めたのである。かつては、そのレコード会社の歴史上でもっとも早く300万
枚のアルバムを売ったアーティストであり、しかも、全米ナンバー・ワンを輩
出し、ダンス・ミュージック、ブラック・ミュージック界にも大きな影響を与
えたグループに対して、最後のアルバムが10万枚も売れないとなると、さっ
さと見切りをつけたのだ。バーナードとナイルは、またしても長い間求め続け
てきた尊敬といったものを得ることはできなかった。

ACT  ELEVEN  友情によって修復される人間関係
  
  1984年2月。この年のグラミー賞授賞式は、マイケル・ジャクソンがそ
の前年に大ヒットしていた『スリラー』によって話題を独占していた。音楽界
は、ヴィジュアルとの融合の度合いを高め、さらに、新しいテクノロジーがミ
ュージシャンの存在さえも脅かすようになっていた。時代は、確実に大きな弧
を描いて展開していた。
  ナイルは、プロデューサーとしてデイヴィッド・ボウイをプロデュースし、
一息ついていたが、バーナードのほうは、いくつかのレコーディング・セッシ
ョンをこなしただけで、業界内で関心を集めることはなかった。
  人々は、彼らに様々なことをささやくようになった。
  バーナードは言う。「人々は、トップにある者が、偉大な墜落(マイティー・
フォール)をすることを見るのが楽しいんだ。ある日会計士がわれわれを集め
て、『さあ、この状況に終止符を打たねばならない。次に進まなければ、なら
ないんだ』と宣言した」
  それは、シックというグループはもう儲からない、私はあなたの会計士を下
ります、ということを意味していた。それまで、シックを取り巻いていた人間
は、まさにみな理由があったから、そこに存在していたのだ。そして、その理
由とは単純明解だった。「金(マネー)」だったのである。彼らがその作品「リ
アル・ピープル」で歌ったことは、ここに厳しい現実となって彼らの前に立ち
はだかった。
  さらに、バーナードが続ける。「もっとも、心が痛んだのは、僕にはナイル
が必要がない、彼はただのギタリストさ、といった話しが、僕が言ったことと
して彼に伝わったり、その逆に、ナイルが僕のことをただのベース・プレイヤ
ーさといったという噂が伝わってきたりしたことさ」
  特にバーナードの落ち込みは激しかった。ほとんど毎日、ドラッグと酒に溺
れるようになった。シックの解散をレコード会社がまったく止めようとしなか
った事実は、特に精神的に打撃となった。それはレコード・アーティストとし
て、レコード会社から相手にされなくなったことを意味していた。ナイルと共
に、夢を追いかけ、それを現実のものとしたバーナードだったが、それがはか
ない夢で終わったのかと思うようになりだした。シックとして見せた華々しい
活躍ぶりは、砂上の蜃気楼だったのではないかとさえ考えるようになった。
 一体、ミュージシャンにとっての成功とは何なのだろうか。常にアルバムを
50万枚以上売り続けなければならないのだろうか。常にヒット・チャートの
ベスト10にシングルを送り続けなければならないのだろうか。二人とも、自
分たちを、自分たちの人生を否定されたような気持ちになっていった。
  シックの解散後、バーナードはそれまで以上にナイルとは話したり、会わな
くなった。バーナードは、心底すべてが嫌になった。ドラッグに明け暮れ、自
分という人間がどんどんと落ちていく様を見て、さらに加速度的に自己嫌悪に
陥った。彼にとってはこれまでの音楽も、人間関係もすべて捨て去りたくなっ
た。
  その頃、既に彼は重度のドラッグ中毒者になっていたので、気分を一新し、
新たな人生の第一歩を踏み出すために、彼はすべてを捨ててニューヨークを去
ることにした。妻の元を去り、カリフォルニアのドラッグ・リハビリ・センタ
ーに入る決意をしたのである。彼にとっての、成功の代償だった。
  バーナードが振り返る。「僕が入ったドラッグ・リハビリ・センターは、2
8日でワン・セッションなんだ。その間、様々なことをするんだ。ドラッグ中
毒の人間が何人か集まって、それぞれの体験を話す。自分がもっとも辛かった
こと、嫌だったこと、自分の心をすべてさらけ出して語るんだ。そういう人た
ちの話を聞くと、自分の悩みなんて小さいものだと思ったりもした。そして、
そこにはいると、ここには二度と戻ってくるものか、という確信を持つんだ」
  バーナードはさらに、1984年という年について振り返る。「この年は、
自分の人生の中で最悪の年だった。シックが解散し、自分の人生は音もなく回
転しているように感じられた。何度も、真剣に自殺を考えたよ。シックが解散
し、これからの将来一体自分は何をして生きていくのか、その目的が見つから
なかった。家族とも離れ離れになっていたが、家には戻りたくなかった。つま
り、人生の敗北者として家に戻るのがとても絶えられなかったんだ。僕にとっ
てのソウル・サーチンはニューヨークを去り、家族の元を離れ、周りの人間と
の関係を断ち切り、たった一本のベースを持ってカリフォルニアに来ることだ
った。妻と子供をおいてきて、その妻とは結局、離婚することになる。とにか
く、新しく何かを始めたかったんだ。もうシックの一員ではいたくなかった。
今まで自分の周りに起こったすべてのことを排除し、新たな自分を証明するた
めに、新しくやり直したかったんだ」
 人生の目的を見失ったバーナードは、どん底にいた。
  だが、その彼も、朝早く起き、昼間は、同じ悩みを持つ友と話し、ベースを
無心で弾き、夜になると就寝するという規則正しいドラッグ・リハビリの生活
で、徐々に、精神的にも肉体的にも健康に向かう。一本のベースに夢を託した
男は、そのベースでスーパースターになった。だが、その男は、プレッシャー
に押しつぶされ、負け犬となっていた。そんなとき、彼は再びそのベースを一
日中弾くことによって、自分を取り戻すようになった。ベースは、自殺さえ考
えるほど追いつめられたバーナードを救ったのである。この頃、彼はのちに現
在の妻となる人物と出会う。徐々に、肉体と精神のバランスがよくなり、彼の
人生も上り調子になり始める。それでも、彼はまだ孤独だった。
  そんなあるとき、バーナードは一本の電話をもらう。
 「やあ、バーナード。トニーだ。元気か?」
 「ああ、なんとか、やってるよ」
 「なあ、また、一緒にベースを弾いてもらえないか? イギリスの若者とワ
ンショットのプロジェクトをやるんだ」
 それは、かつてのシックのドラマー、トニー・トンプソンからのベースを弾
かないか、という誘いだった。バーナードとナイルが、ドラム・マシンを使う
ことによって、その仕事を奪われたトニーその人が、バーナードにまたやらな
いかと誘いをかけてきたのである。84年秋も過ぎた頃のことだった。
 バーナードは、返事に詰まった。彼は、その誘いが涙がでるほど、嬉しかっ
たのである。彼にとっては、藁をもつかみたいと思っていた失意のどん底に放
たれた、一本のロープのように思えた。
 器材の発展によって壊された人間関係が、友情によって修復される。そして、
そこに失われていたミュージシャンシップが見事によみがえった瞬間だった。
  このプロジェクトはとてもユニークなものだった。イギリスのアイドル系ポ
ップ・ロック・グループ、デュラン・デュランのメンバー、アンディー・テイ
ラーとジョン・テイラーがワン・ショット的に始めたもので、デュランとは別
に遊びとして楽しむセッションのレコードを作ろうということから話が大きく
なっていった。彼らは、もともとナイルにプロデュースを依頼したがったが、
ナイルのスケジュールがとれずに、それではということでバーナードにプロデ
ュースの仕事が回ってきた。
  トニーがドラムを担当し、プロデューサーとしてバーナード、さらにヴォー
カルにロバート・パーマーを入れて、このプロジェクトはそのアルバムがレコ
ーディングされたニューヨークのスタジオにちなんで、パワー・ステイション
と名付けられた。

ACT TWELVE ナイルの人生を救うギターの響き

 十年以上も、ほぼ毎日のように一緒に過ごしていると、無意識のうちに相手
と考え方や、振る舞いが似てくるものだ。ちょっとしたしぐさや、言葉使いが
お互いに似てくる。彼らのこの時期の悩み、苦しみは同じだった。そして、奇
しくも、ふたりとも、場所こそ違ったが同じように、ソウル・サーチンを始め
たのである。
 ナイルもドラッグに悩まされていた。バーナードがウエスト・コーストでソ
ウル・サーチンしている頃、ナイルはニューヨーク近郊のコネティカットでソ
ウル・サーチンをしていた。
  ナイルが振り返る。「僕は、バーナードのようにニューヨークを去ることは
なかったが、ドラッグが自分にとって深刻な問題だったので、やはりドラッグ・
リハビリにはいった。そこにはいってからは、毎日朝から晩までひたすらギタ
ーを弾いていた。そして、ギターを弾けば弾くほど、再び音楽を愛することが
できるようになったんだ。そして、状況が変わり始め、違う人生が始まるよう
な気がした。僕は、実際のところリハビリには二度はいったんだ。ほかの人た
ちが語る話に耳を傾けたが、何人かの話は、本当に信じられないほどすごいも
のだった。そこに行くと、最初の日からもう二度とドラッグはやるまいと思う。
それを言うと、そこの医者が、『みんなそう言うんだ。ドラッグをやらないと
いうなら、いますぐ出て行ってもいいんだぞ』と笑いながら言う。だが、僕に
は、厳しいあのような環境が必要だった。そして、悟ったことは、これからは
自分で人生の計画を練る、ということだった。もちろん、人生のすべてをコン
トロールすることはできないが、少なくとも、ドラッグには決して手を出さな
いと誓ったんだよ」
 バーナードの命を救ったのは、ベースだったが、やはり、ナイルの命を救っ
たのは、ギターだった。
  1985年2月16日、テレビ番組『サタデイ・ナイト・ライヴ』で、バー
ナードとトニーのスーパーグループはベールを脱いだ。二人のテイラーにパー
マー、そして、トンプソンの4人がライヴでアルバムからの最初のシングルと
なった「サム・ライク・イット・ホット」を演奏した。バーナードはプロデュ
ーサーとして、これを見ていた。このパワー・ステイションのアルバムは、そ
のメンバーの豪華さからも、またバーナードが作ったポップでファンクなサウ
ンドからも、大ヒットへ結び付き、バーナードのプロデューサーとしてのステ
イタスも築かれたのである。
  バーナードは、このパワー・ステイションのプロジェクトの後、デュラン・
デュランのシングルのプロデュース、あるいはパワー・ステイションのリード・
シンガーを担当したロバート・パーマーのアルバムなどのプロデュースをてが
けるようになる。
 ナイルは、さらにプロデューサーとして、マドンナ、ミック・ジャガーなど
次々と大物をてがけ、名実ともにスター・プロデューサーとなる。

ACT THIRTEEN 過去の遺産となった失われた時間

  1988年5月。ナイルもバーナードも、それぞれミュージシャンとして、
またプロデューサーとして忙しくしていた。彼らは自分たちの許容範囲を心得、
あまりオーヴァーワークにならないよう、セーヴしながら、仕事をしていた。
  そして、この頃、彼らが所属していたアトランティック・レコードがその創
立40周年の記念イヴェントをニューヨークのマジソン・スクゥエア・ガーデ
ンで行うことになった。小さなインディ・レーベルだったアトランティックを
大きなレーベルにした新旧多数のアーティストが、ガーデンに集合した。だが、
そこにシックの姿はなかった。なんと彼らの元には招待状が届かなかったので
ある。
  ナイルが振り返る。「つまり、レコード会社にとっては、僕たちはただのワ
ン・ヒット・ディスコ・バンドだったのさ。彼らはシックよりも(ロック・グ
ループ)イエスのレコードをプロモーションするのに熱心だったわけだよ」
  1989年9月。ナイル・ロジャースのバースデイ・パーティーが、ニュー
ヨークのレストラン「チャイナ・クラブ」で行われた。シック時代の友人や関
係者が集まり、派手にバースデイを祝った。ナイルも、バーナードも、顔を揃
えた。宴もたけなわになり、そのステージにある楽器をみつけ、だれともなく
ジャム・セッションをやろうということになった。バーナードとナイルが、同
じステージに立った。そして、シックの頃のヒット曲「グッドタイムス」と「ル・
フリーク」をやりだした。彼らはもう10年近くも、一緒にこうしたシックの
曲などをプレイしたことはなかったが、あたかも、昨日まで、それを練習して
いたかのように、完璧に演奏できたのだ。客は、みなその歌詞を覚えていて、
ナイルとバーナードの演奏にあわせ、大声で歌いだしていた。「グッドタイム
ス!!」 拳をあげた客たちのコーラスが店に響く。遊びに来ていた客は大喜
びで、中には目に涙を浮かべているものさえいた。大いに盛り上がったパーテ
ィーをみて、彼らは心の中で確信しはじめた。
  そして、誰よりもバーナードとナイルの二人が一番、ステージの上で、その
喜びをかみしめていた。次の小節へ移る瞬間相手に送るキュー。それは、10
年前とまるで同じだった。かつて、ストリングスやブラス・セクションを従え
てステージで演奏し、何万人もの観客を狂喜乱舞させたことが二人の脳裏によ
みがえった。
  彼らは思った。「そうだ、オレたちは随分とステージに立っていなかったな。
オレたちは、ずっとこれがやりたかったんだ」
  シックのヴァイブが、二人によみがえったことで、彼らはまた、再び手を組
もうという気持ちになっていった。
  二人の間には、数年間の失われた時間があったが、それはこの時、一瞬にし
て過去の遺産となっていた。
  翌日、二人は電話で話した。ナイルが言った。
 「どうかな」
 この言葉だけで、バーナードにその意味が伝わるのに充分だった。
 「もちろん!」 
 バーナードは一言だけ返した。それは、特別な関係を持つ者たちの間だけに
許される暗黙の「宝物のような記号」であった。この瞬間、シックの再結成が
決まったのである。
  バーナードが振り返る。「ナイルと培った友情という名のものは、他の誰と
も持てないものだな。つまり、僕の兄弟や親とも持てないものであり、まった
く違うレヴェルのものだ。僕たちっていうのは、たとえ、話をしていなくても
お互い同じことを考えていたりするんだ。もちろん、こういう関係を作るには
時間がかかった。離れているときのほうがなにか変な感じなんだよ」
  では、二人は初めてあったときにこれほどの長く深い友情が生まれるなどと
思っただろうか。ナイルとバーナードが顔を見合わせて、同時に言う。「あり
えないよ」  そして、二人とも爆笑する。僕も思わず笑ってしまった。
 1990年、バーナードは、ナイルにそっとこんな告白をした。「実は、僕
はガンだったんだよ」  
 普段バーナードは、あまり自分のことを話さない男だった。それだけにナイ
ルは驚いた。
 「だけど、もう直ったんだ」
  その言葉をナイルは、素直に信じた。ナイルは、もしガンがさらに悪くなっ
ていたら、バーナードは決して告白しなかっただろう、と推測する。少なくと
も、医者から直ったと宣告されたから、「過去形」でナイルに打ち明けたのだ。
その後も、彼の健康が心配されるような兆候はまったく見られなかった。
  1992年3月。シックの再結成アルバム『シックイズム』が発売された。
昔のシックさながらの音で、あのシックがよみがえってきた。
  二人は、再会してからは過去のことをすべて笑いながら話すことができるよ
うになった。シックを再結成したこと、それはそのレコードが売れる売れない
にかかわらず、ナイルとバーナードの間に厚い絆がよみがえったという点で大
きな意味を持つものとなった。
  ナイルの37歳のバースデイは、二人の男の友情が戻った記念すべき日とも
なった。
  苦しく辛い過去は、人々の足かせとなってその人の人生を縛り付ける。だが、
楽しく喜びに満ちた過去は、人々に微笑みを与え、その人の人生に潤いを与え
る。ナイルとバーナードの二人にとって、過去は両者が複雑に入り混じったも
のである。そして、二人の人生にとって、改めて新しいチャプターが始まった。
その行く手にあるものは、どれほど輝かしいものかはわからない。だが、それ
がどんなにグラマラスで魅力的であったとしても、彼らは過去に犯した過ちを
繰り返すことはない。彼らは過去から既に多くの教訓を学んできた。グラマラ
スな魅力、それはコインの表にしかすぎないのだということを。
  観客席からは、彼らに対して拍手が続いている。期待、興奮、絶叫−−−。
ステージの袖では、バーナードとナイルが見つめあって立つ。
  それは一度カーテンが降ろされた友情の第二幕の開幕だった。

ACT FOURTEEN 1時37分の悪夢

 95年、ナイルは日本から「JTスーパー・プロデューサー」という企画で
ライヴをやらないか、という誘いを受ける。人選その他も、自由にやってもら
っていい、ということだった。彼が、このオファーを受け、まず最初に電話を
したのが、バーナードだった。バーナードも二つ返事でこの仕事を引き受ける。
そして、ふたりはさまざまなことを話し合い、このライヴをことのほか、楽し
みにし始めた。
  96年4月12日。大阪城ホールで初日のコンサート。観客が大勢いるステ
ージに上っての本格的なライヴは、10年以上ぶりのことだった。トニー・ト
ンプソンは参加していなかったが、シックの再現となった。第二幕の開幕にこ
れほどふさわしい舞台はなかった。ナイルのギターと、バーナードのベースが、
炸裂し、ファンを圧倒する。様々なゲストを迎えたナイル・ロジャースとバー
ナード・エドワーズらのライヴは、熱狂的に受け入れられた。やはり、ライヴ
は彼らにとって、格別のものであった。
 バーナードは、ステージが終わると、ナイルに「やったな、やり遂げたな(we 
made it) 」と言ってはしゃいだ。
  4月15日。東京武道館。日本における二度目のコンサート。シックとして
のライヴは、もちろん、日本で初めてだ。そして、バーナードは、ステージが
終わるとまたナイルに「やったな、やったな」と言って喜んだ。
  4月16日。再び東京武道館。シスター・スレッジが「ウイ・アー・ファミ
リー」を歌い、「おしゃれフリーク」でスラッシュがギターを鳴らす。「ノト
ーリアス」でサイモン・ル・ボンが歌い、「ストーン・フリー」でスティーヴ
ィー・ウインウッドがハスキーな歌声を披露。シック・ファミリー総出のライ
ヴだった。そして、3日目のコンサートを終えて、やはり、バーナードは「や
ったな、やったな」と繰り返した。
 シック再結成の興奮が武道館を包み込んだ。
  4月17日。少し風邪気味で疲れたというバーナードは、宿泊先のホテル・
ニューオータニで、ほぼ一日中休む。ナイルとバーナードは、この風邪を「香
港風邪」などの例にならって「トウキョウ・フル(風邪)だな」と言ってジョ
ークにしていた。バーナードは、翌日、ニューヨークに帰国することになって
いたが、一方、ナイルは、武道館で収録したビデオの編集に立ち会うために、
数日滞在の予定だ。
  4月17日深夜1時過ぎ。正確には、4月18日午前1時37分頃。バーナ
ードの隣の部屋に宿泊していたナイルは、変な悪夢で目が覚める。
 ナイルが述懐する。「その夢は、この地球上でたったひとり自分だけが取り
残されている、という夢だった。僕のファミリー全員のスピリットが、僕の元
から飛び去ってしまい、僕だけがそこにひとり残っているんだ。そこで僕は起
き上がり、『一体どうなっているんだ』と思った。その夢があまりに怖くて、
とても寂しく感じた。僕は、(寝入ってから)一晩中(朝まで)寝続けたのか
と思った。だから5時か6時頃かと思った。仕方がないので、起きて仕事にで
かけようかと考えた。そこで、ベッドの隣にあったデジタル時計を見ると、1
時37分を指していた。それを見て、『今から朝までは、起きてられないなあ』
と感じた。本当は、とても怖かったんで、もうベッドに入って眠りにつきたく
なかったんだよ」
  だが、結局ナイルは、なんとか再び眠りにつく。朝7時半頃。ナイルは、コ
ンサートのプロデューサー、菱沼氏の電話で起こされる。菱沼氏は「6時過ぎ
からバーナードの部屋に電話をし続けているが、彼が起きないので、起こして
みてくれないか」と言う。
  ナイルは、隣のバーナードの部屋のドアをなんどもなんどもノックする。手
が痛くなるほどドアを叩く。だが、部屋からは返事がない。そこにハウスキー
ピングのスタッフが来たので、その合鍵でバーナードの部屋の鍵を開けてもら
った。
  部屋に入ると、テレビがつけっ放しになっていて、音が聴こえてきた。一歩
一歩中に入ると、バーナードはバスローブを着てソファに横になっていた。そ
の角度から、彼がテレビを見ているように見えた。顔はとても穏やかで平和そ
うだった。足下は靴下を履いていなかった。だが、ナイルがその足の肌の色を
見た瞬間、彼は衝撃を覚えた。
  「その肌の色は、生涯に一度だけ見たことがあった色だったんだ。若いとき
に、エジプトに遊びに行ったことがあるんだが、そのときに、友人が新しいミ
イラが発見されたので、見に行こうと誘われて、見に行った。死んでから何千
年も経っているはずなんだが、髪の毛も、身体もそのままなんだ。すごく感銘
を受けたんだが、そのときの足の色が、とても不思議な今までに見たこともな
いような色をしていたんだ」
  ナイルは、バーナードの足下を見た瞬間、そのエジプトにワープしていたの
だ。そして、そのほんの何十分の一秒後、ナイルは、大変な恐怖を感じた。ナ
イルは、確認したかった。一方それとは裏腹に、その確認すべき事実を知りた
くないとの思いから、バーナードの肌には触らずに、バスローブの上から、バ
ーナードを揺らした。「バーナード、起きろ、起きろ」と叫び、彼の身体を揺
らし続けた。彼の腕を引っ張って揺らすと身体全体が力なく揺れた。彼の身体
は硬直していた。そして、彼がバーナードの頬に手をやると、テーブルと同じ
ように冷たかった。
 「もうその時点で、僕は気が狂ったように泣き、どうしていいかわからなく
なった」
  バーナードは、静かに息を引き取っていた。
  後に警察で、医師から死亡推定時刻は前夜の一時頃だろう、と言われた。そ
の瞬間、ナイルは、「いやいや、違う。死んだのは絶対に1時37分だ」と断
言する。
 バーナード・エドワーズ、96年4月18日東京にて死去。享年43歳。静
かな、そして、誰もが予期せぬ急死であった。2日前のステージは、はからず
もバーナードの最期のステージとなった。
  親友でもあり、しばらく東京に滞在する予定だったナイル・ロジャースは、
その親友の死を知り、呆然と立ち竦み、自分の部屋に引きこもってしまった。
  その翌日、僕も一枚のファクスを受け取った。それはバーナード・エドワー
ズの死を告げていた。ほんの二日前に見たバーナードが死去したなんて、まっ
たく考えられず、信じられない思いだった。なんと人生とははかないものか。

ACT FIFTEEN ナイルのガーディアン・エンジェル
  
  ナイルは、バーナードから告白されていたガンのことをふと思いだした。だ
が、それは直っていたものと思っていた。おそらくガンは直接の死因ではない
のだろう。日本に来るまで、バーナードが死ぬことなど、ナイルも、バーナー
ド本人でさえ予期していなかった。
 ナイルが振り返る。「何しろ、機中では、新しいバンドのことを一緒になっ
て興奮しながら話し合っていたんだからね。だが、今から思えば、毎晩ショウ
が終わるたびに、『やったな、やったな』と言っていたことが妙に気になる。
普段は、そんなことを言わないんでね。ひょっとしたら、彼には(死のことが)
わかっていたのかもしれないし、そうでないのかもしれない」
  バーナードの死から半年近く、ナイルは、何も手が付かなかった、という。
彼は、なんといっても四半世紀を共にした親友なのだ。「『スーパー・プロデ
ューサー』の前は、僕たちは本当に幸せだった。それまでになく、ふたりでい
ろいろな話をしたものだ」
 1998年、アメリカで二本の映画が公開された。ひとつは、『ラスト・デ
イズ・オブ・ディスコ』、もうひとつは、『ステューディオ54』。ともに、
70年代後期から80年代初期にかけてのニューヨークのディスコを舞台にし
た映画だ。文字どおり、シックの音楽が全盛を迎えていた時代を描いている。
こうした映画のバックに必要不可欠なもの。それが、シックの音楽だ。
 シックは、ディスコ・カルチャーの一ページを描き、さらに、ヒップ・ホッ
プ・カルチャーの序章に見事に貢献した。ディスコとブラック・ミュージック
とヒップ・ホップのカルチャーに貢献したアーティストは、シック以外にいな
い。そして、シックの伝説は、銀幕のうえでも、続くのだ。
  バーナードの死から3年の歳月が経った1999年。ナイルは、当初、東京
でのライヴ録音をCD化するつもりはなかった。だが、DVD(デジタル・ビ
デオ・ディスク=CDと同じ大きさのディスクに映像も収録できるソフト)と
いう新しいテクノロジーが生まれて、ナイルはその画像の美しさと複数の画面
を同時に録画できる様々な可能性に驚かされた。
  そして、もうひとつ、99年になって彼はアメリカで独自のレコード配給網、
「サムシン」を作り上げ、自身のレーベル「サムシン・エルス」をスタートす
ることにした。そして、自身のレーベルを始めるにあたって、その第一弾アル
バムは、バーナードとのプロジェクトでなければならない、と感じていた。
  そうした状況の変化があり、ナイルは、シックのライヴ・アルバムを発表し
ようと思うようになったのである。
  シックの唯一でしかも最後のライヴ・アルバムは、こうしてバーナードの三
周忌に発売されることになった。
 そのDVDの中で、バーナードがインタヴューに答えてこう言う。 
 「シックとして一緒にやれてとても幸せだ。基本的には、ナイルや僕はあら
ゆるビッグ・ネイムたちとプレイしてきた。だが、ナイルと一緒にやるとき以
上に楽しい思いをすることはないよ。ナイルは、僕の専属ギタリストで、僕は
彼の専属ベーシストというわけだ。もちろん、他の人とプレイするのも好きだ
よ。だが、ナイルとやるときがもっと楽しいんだ。これからももっともっと彼
とやっていきたい」
  シックは、このライヴを期に、再度活動を開始し、ナイルとバーナードにと
っては、第二章の音楽人生が始まるはずだった。だが、バーナードの予期せぬ
死は、シックの未来を永遠に封印することになったのである。

  ナイルはいまだに、そらで覚えているバーナードの番号に電話をかけてしま
う、という。だが、すぐに、「そうか、もうバーナードはもういないんだ」と
我に返る。
  「彼との友情がどれほど重要だったか、彼の死をもって改めて知った。以来、
僕の人生は、以前より満たされ、幸せになった。といのは、僕は、彼を一生僕
の中に持てることになったわけだからね。そうした考え方ができるようになっ
て、僕の人生はよくなった。彼が僕の近くにいないための寂しさよりも、彼を
近くに感じ、さらに幸せも感じるんだ。そして、仕事をやる気力を与えてくれ
た。あらゆるエネルギーを与えてくれた。そのエネルギーによって、アメリカ
で初めて黒人が持つ配給網を確立し、レコード会社を始められることになった
と思っている」
  そして、いつでも何か困ったときには、バーナードが側にいてくれるような
感じがする、という。
 ナイルが言う。「バーナードのヴァイブは、いつもそこにある。それは、僕
にとってのガーディアン・エンジェルのようなものだ」            

EPILOGUE 最後のフライト

  ナイルとバーナードの二十数年にわたる友人関係は、アップダウンはあった
ものの、しっかりと強固なものとして続いていた。特にヒットがでなくなり、
再起をかけてシックとして活動してからは、なおさらだった。
 ナイルの脳裏にはバーナードとの様々な思いでがよみがえる。
  「私たちは、何人かのリアル・ピープルと一緒に過ごしたい・・・」  シッ
クのメッセージは、20年を過ぎても、いまだに色褪せない。それはナイルと
バーナードのあのときの魂の叫びだった。ナイルにとって、バーナードは、ま
た、バーナードにとって、ナイルは、間違いなくリアル・ピープル、本当の親
友だった。そして、シックとして作られたその音楽は、二人の友情という名の
メロディーだった。

 バーナードとナイルの成田からニューヨークへのフライトは、二人がともに
する最後のフライトとなってしまった。ニューヨークから成田への往路では、
ナイルの隣にはバーナードが座っていた。だが、ニューヨークへの帰路、その
席には、静かにバーナードのベースだけが置かれているかのようだった・・・。


(この稿・完)

  
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