第4話 ナイル・ロジャース&バーナード・エドワーズ(シック)
〜友情という名のメロディー〜
(Part 1)

LEAD

   ニューヨーク・マンハッタン。ギターを持ったひとりの男とベースを持ったひ
とりの男が、クロスロードで遭遇した。二人は、壮大な夢を共有し、その夢を実
現するために、一歩一歩、歩みはじめる。バンドを組み、いつしかマジソン・ス
クゥエア・ガーデンをいっぱいにするという野心をもって下積みを続ける間に二
人は深い友情で結ばれる。それから数年のうちに、すべての苦労が報いられると
きがやって来た。ヒットを出し、瞬く間にスターダムにのし上がった彼らは、
ガーデンのいっぱいの観客の前で演奏し、その夢を実現させる。だが、頂上にい
ることのプレッシャー、周囲からの嫉妬、ねたみ、そして二人のエゴがぶつかり
あい彼らの間の友情にくさびを打ち込む。レコードは売れなくなり、レコード会
社からも冷たくされ、二人は、失意のどん底に落ちる。ドラッグにはしり、創作
意欲をなくした二人。そんな傷心の彼らを生き返らせたものは−−−。

PROLOGUE

 96年4月。ニューヨークのジョン・F・ケネディー空港を飛び立った飛行機
は、徐々に高度を上げていた。フライトは、ニューヨーク発、成田行き。前方の
ファースト・クラスに、ナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズが座って
いた。彼らは、大阪・東京で行われる「スーパー・プロデューサー・シリーズ」
のライヴ・イヴェント出演のため、機上の人となっていた。このシリーズは、ア
メリカの有名プロデューサーを迎え、そのプロデューサーがてがけたアーティス
トとともにライヴ・ステージを行うという企画だった。一年目にデイヴィッド・
フォスター、二年目にナラダ・マイケル・ウォルデンが選ばれ、最終年であるこ
の年にナイル・ロジャースが選ばれていた。そこで、ナイルがバーナードに声を
かけ、シックの再結成となった。ナイルとバーナードが共にステージに立つのは
久しぶりのことだった。
 ナイルの隣にバーナードが座った。二人揃っての海外でのコンサートも久しぶ
りで、二人とも期待に胸を膨らませての旅立ちだった。 ナイルとバーナードは
機中で話した。「今度のこの仕事が終わったら、またシックのレコードを作ろ
う。そのときは、ギターのスラッシュや、スティーヴィー・ウインウッドにも参
加してもらおう。そして、ツアーもやろう」
   ナイルとバーナードにとって、日本でのライヴは、新たなる音楽人生の第二章
の始まりだった。高度も安定し、窓の外でゆっくり動く雲を眺めていると、二人
に睡魔が襲ってきた。その眠りは、二人の過去を振り返るための、白昼夢への誘
いのようにも思えた・・・。

ACT  ONE  ヴィレッジのヒッピー

   1952年9月19日。マンハッタン・イースト・リヴァーにかかるトライボ
ロ・ブリッジを一台の車が、大急ぎで走っていた。橋桁の連結部分を通過すると
きの音がカタッカタッと一定のリズムを刻む。目的地はクイーンズ・ジェネラル
病院、そして、車の中には、黒人のカップル。ひとりはまだ14歳の少女だっ
た。だがその少女は、既に妊娠しており、この日は出産のために、病院に向かう
ところだった。車中で、既に少女は苦しがっていた。そして、橋を渡るか、渡ら
ないか、というところで、ひとりのベイビーが誕生した。ベイビーは男だった。
   彼らはその男の子にナイルと名付けた。姓は、母親のほうを引き継ぎロジャー
ス。父親は、彼女と結婚したがったが、彼女はそれを望まなかった。だが、14
歳で母親の役は大変だった。そこでその少女の両親や親戚が、ナイルの面倒を見
るようになる。
   ナイルが小学校に入る頃、彼はロウワー・マンハッタンに住んでいた。その地
域は、若いギャングがストリートを仕切っており、ただそこを通るだけで、喧嘩
をしかけられることも珍しくなかった。そうしたギャングに入ることなど夢にも
思っていなかった彼は毎朝学校に通うとき、どうしたら、彼らとトラブルを起こ
さずに、そこを通り抜けられるかを考えなければならなかった。
   母親はこの頃新しいボーイフレンドと付き合いだしていた。その彼はブティッ
クのマネジャーで、しばらくすると、彼と母親はナイルや弟たちを引き連れてウ
エスト・ヴィレッジに引っ越す。ナイルにとっては義理の父親との生活が始まっ
た。8歳のときである。
    義理の父は、当時はやりの典型的なビートニク族(60年代の流行の若者グ
ループ。バイクに皮ジャン姿というライフスタイル)で、母親もその影響を受
け、二人はお似合いのビートニク・カップルだった。父親はチャーリー・パー
カーのレコードを聴き、チェスに昂じた。ヴィレッジには、子供があまり住んで
いなかったので、ナイルはいつもひとりで遊ぶか、兄弟と過ごすか、あるいは親
やその知り合いに囲まれて過ごしていた。そこで、彼は年令とは不釣り合いな
様々なスラングを覚えては、学校で披露していた。親が家でかける当時の音楽を
聴き影響を受け始めた彼はギターに興味を持ちだし、見よう見まねでギターを弾
くようになる。
  あるとき、ナイルの学校の授業参観にその義理の父親がやって来た。そして、
学校の他の生徒は、からかい気味にこう言った。
 「ナイルのパパは白人だあ」
   ナイルは、それまでその義理の父が白人だなどということを意識したことはな
かった。生徒に言われたその瞬間、初めて黒人と白人という人種の違いを意識さ
せられたのである。
   父親は、昼間は仕事をしていたが、ギャンブル好きという点がたまに傷だっ
た。稼ぎをすべてギャンブルにつぎ込むようになり、彼らは家賃の安いイース
ト・ヴィレッジに移り住む。徐々に親は、ナイルの面倒をみなくなり、以後、彼
はあちこちの親戚の家を転々とすることになる。そうした生活に厭気がさした彼
は、15歳のとき、家出を決意。ひとりでヴィレッジに戻った。1966年頃の
ことだった。
   当時のヴィレッジはいわゆるヒッピーたちで活気に満ちていた。彼はヴィレッ
ジの誰もがするように、まずプロテスト・ソングを歌いだすようになった。反体
制派のシンガー・ソングライター、フィル・オークスが彼のアイドルだった。彼
はワシントン・スクゥエアのベンチや地下鉄の駅で夜を過ごしたり、あるいは街
で知りあった女のアパートにしけこんだり、いくらかの金があるときは、一晩
20セントの安ホテルのベッドに潜り込んだりしていた。
   彼の音楽への興味はさらに進み、ティム・バックレイ、カントリー・ジョー・
マクドナルドなどを聴き、さらに次はジャズにのめりこんでいった。エリック・
ドロフィー、マッコイ・ターナー、デクスター・ゴードンなどが彼の新しいアイ
ドルとなった。そして、クラシックのギターも学んだ。
   ヴィレッジの11丁目にあるサンドウイッチ屋「ブリンピーズ」は、彼のお気
に入りの溜り場だった。ここにたむろする連中は、一日中、政治の話をしたり、
革命について語り合ったりしていた。かと思うと、新しいジミー・ヘンドリック
スのアルバムについて、何時間も議論を戦わせたりしていた。ナイルに過激な友
達ができたのも、この頃だった。
   ギターを耳で覚えた彼は、まもなく、ストリートに出て、当時のヒット曲を弾
き語りするようになる。シャドウズ・オブ・ナイトのヒット曲「グローリア」な
どが得意だった。ストリート・ミュージシャンとして、生活費を稼ぐようになっ
た彼は、どんどんと音楽にのめり込んでいく。そして、いつしかミュージシャン
として成功したいと思うようになっていった。

ACT  TWO  出会い

   ニューヨークの南部、ノース・キャロライナ州グリーンヴィル。ナイル誕生か
ら約一月後の1952年10月31日、ここにバーナード・エドワーズが誕生し
た。バーナードの誕生はナイルほど劇的ではなかった。バーナードの一家もそれ
ほど裕福ではなかった。家族は、彼が10歳のときに、ニューヨークへ移り住
み、バーナードはブルックリンの公立高校164に通い始め、ここでオルガン、
テナー・サックスなどを学び、音楽の道に入っていく。音楽の道をさらに追求し
ようとした彼は、映画『フェイム』でおなじみの「ハイ・スクール・オブ・パ
フォーミング・アーツ」へ入学、ここでエレクトリック・ベースを学ぶ。
   彼は十代で、好きな女の子ができ、すぐに結婚、子供が生まれ自立するように
なる。学校を出た後、彼は昼間は郵便局に勤めながら、夜や週末にバンド活動を
していた。もちろん、ベース・プレイヤーとしてだ。
   バーナードは言う。「僕はウエディング・パーティーやバーや、小さなクラブ
などどこでもなんでもプレイした。一つのスタイルではだめだったので、あるゆ
るスタイルをこの時期に学んだのさ」
   彼が気に入っていたベース奏者は、モータウンのジェームス・ジェマーソン、
スタックスのドナルド・ダック・ダン(オーティス・レディングなどのバックを
勤めたりしたこともあるバンド、MGズのメンバー)、ジャック・ブルース、
ヴァニラ・ファッジのティム・ボガートなどだった。
   バーナードが音楽をやっているということは郵便局ではよく知られていた。あ
るとき、彼よりもかなり年配のおばさんがやって来て、バーナードに「自分の娘
が付き合っている男もミュージシャンだといっていたけれど、会ってみるか
い?」と誘ってきた。別に会ってみてどうなるものでもないと思った彼だが、そ
の世話好きなおばさんが熱心だったので、とりあえず電話番号だけもらうことに
した。
   一方、ナイルはバンドを組みたがっていたが、いいベース奏者がおらず、ずっ
と適任者を探していた。そんな話を聞きつけたガールフレンドの母、つまり郵便
局に勤めるそのおばさんはナイルにもバーナードの電話番号を渡した。
  ナイルがバーナードに電話をして、彼が考えているバンドについて話した。ナ
イルが振り返る。「僕は自分のバンドの構想について彼に説明したんだが、彼は
まったく興味を示さなかった。彼は僕が狂っているんじゃないか、と思ったみた
いでね。それ以上彼を後追いするのはやめたんだよ」
   バーナードが説明する。「いいかい、その頃僕がはいっていたバンドは、
しょっちゅうジェームス・ブラウンのファンキーな曲ばかりプレイしていたん
だ。そんなときに、この男が電話してきて、チェロやフルートが入ったロックっ
ぽいバンドをやりたい、と言うんだぜ。頭がおかしいんじゃないかと思ったよ。
それに何よりも、奴は(グリーンウイッチ)ヴィレッジに住んでいた。そのこと
だけで、僕にはやつが充分に変わっている奇妙な男で、二度と話をすることもな
いだろう、と確信したよ」
   ナイルは、ヴィレッジに住み、フォークからロックの影響を多分に受けていた
ヒッピー的な人種だった。考え方もどちらかといえば、反体制色が強く、革新的
だった。一方のバーナードは、貧しいながらも一般の黒人家庭に生まれ育った典
型的なブラザーだった。既に結婚もし、子供もいた彼はどちらかといえば、保守
的で、音楽の趣味も当時黒人の間で神様的な存在だったジェームス・ブラウンを
最高のものと考えていた。黒人の間でいえば、当り前の普通の人間だった。もっ
とも、彼もビートルズなども聴くには聴いていたのだが、いずれにせよ、この二
人、ライフスタイルといい、考え方といい、音楽の趣味といい、すべての価値観
が対照的だった。したがって、二人が再び話をするであろうということが、お互
いに考えられなかったのも無理はない。
   だが、運命の女神はその世話好きなおばさんを軸に意外な方向に話を展開させ
ていく。
   ふたりとも少しづつ音楽業界に知り合いらしきものができたある日、ナイルと
バーナードは、全く別々に、同じスタジオでの録音セッションに呼ばれた。その
とき、ナイルは相手のベース奏者のプレイが気に入り、バーナードはそのギター
奏者が気に入った。だが、二人は名前も知らぬまま、そのセッションを終えた。
彼らは電話で一度話をしたもの、お互い顔を知らなかったから、それぞれがだれ
かなど皆目わからなかったのである。
  それから、しばらくしたある日。ナイルとバーナードが、偶然、同じ地下鉄に
乗り合わせた。だが、二人ともお互いを知らない。精々、どこかで会ったかもし
れない、という程度だ。
  そこへ、あの世話好きのおばさんも乗り合わせたのである。彼女は、バーナー
ドとナイルのほうに向かって、手を振ってきた。当然、二人とも各々が自分の方
に手を振っているものだと思った。おばさんが近付き、言った。「やっぱり、一
緒にやることにしたのね」  
   二人の男は顔を見合わせた。「なんだって?  えー?  それじゃ、あのとき
の!?」
  あらためて、そのおばさんが二人を紹介した。
  「バーナード、こちらナイル」
  「ナイル、こちらバーナード」
    二人の第一印象は、それぞれ「変な奴(ストレンジ・パーソン)だなあ」とい
うものだった。そして、世話好きのおばさんによって導かれた二人とも、その
後、強固なパートナーシップを築き上げるなどということは夢にも思わなかっ
た。
  何が起こるにせよ、それには必ず理由がある。このとき、バーナードとナイル
が出会ったということは、誰の目にも見えぬフォースがそこに働いたということ
でもあった。そして、そのフォースは、計り知れぬ可能性を秘めた未来をしっか
りと暗示していた。1971年のことである。

ACT  THREE  ミュージシャンシップ

   こうして、出会った二人は、もう一度音楽の話をし、接点を見出し、何かやっ
ていこうか、ということになった。  
   ナイルがどこかのバンドでワン・ナイトの仕事をもらったりして、ベース奏者
がいないと彼はバーナードに声をかけ、逆に、バーナードの仕事でギター奏者が
いないとナイルに声をかけるようになった。
   しかし、そうした仕事もそれほどよくはなかった。この頃、彼らの生活はまだ
まだ苦しかった。彼らはときとして、食べるものを買うお金がなかったので、自
分たちの楽器を質に入れて金を借り、それを食費にしていた。そして、週末など
にショウや小さな仕事がはいると、周りの友人から質屋から楽器を出すだけの金
を借り、ギターとベースを出し、それで仕事をこなし、ギャラをもらい、その
ギャラで借りた金を返す、ということを繰り返していた。だが、いつも、借りた
金を返すとほとんどギャラは残らなかったので、彼らはまた食費のために楽器を
質に入れなければならなかったのである。
   生活は苦しく、しかも周りのサポートは得られなかった。彼らは毎日夜になる
とリハーサルと称しては、どこか空き地で練習のできるところへでかけて行っ
た。リハーサルだから、家に戻ってきても、金は持ってこなかった。
  ナイルが述懐する。「みんなバカにするんでね、辛かったよ。おまえら、稼ぎ
もしないで一体なにやってんだというんだ」
  ナイルは、それでも一足先にテレビ番組『セサミ・ストリート』のバンドの仕
事を得た。そこのスタッフがアポロ・シアターとコネを持っていて、彼にアポロ
のハウス・バンドの仕事を紹介してくれたのだ。
  アポロ・シアター。ニューヨーク125丁目にあるブラック・ミュージックの
殿堂だ。ここで、彼は様々なアーティストのバックを付け経験を積んだ。
  1973年、ニューヨークのヴォーカル・グループ、その名もニューヨーク・
シティーが「アイム・ドゥーイン・ファイン・ナウ」という曲をヒットさせ、そ
れにともない、ツアーに出ることになった。そこで、ツアー用のバンドを組むた
めにオウディションをし、ナイルとバーナードがこれに受かった。ナイルは、ア
ポロのハウス・バンドの仕事をやめ、このニューヨーク・シティーのバンドには
いる。それは、ナイルがそのバンドの中で音楽ディレクターの役をもらったから
だ。
  ナイルとバーナードは、それから約2年ほど、このニューヨーク・シティーの
バック・バンド、ビッグ・アップル・バンドに在籍し、アメリカ各地やヨーロッ
パなどを周った。
  ビッグ・アップル・バンドは、ニューヨーク・シティーがヒットを出し続けな
くなったことから、自然解散の状態となった。ナイルとバーナードは、お互い何
か仕事がはいれば、連絡を取り合っていた。
  ナイルが振り返る。「僕が何かバンドの仕事を手に入れると、何とかしてその
バンドのベース・プレイヤーを追い出すんだ。理由はなんでもいい。そして、自
分はいいベース奏者を知っているよ、とバンド・マスターに言い、そこにバー
ナードを入れるという筋書きさ」
  彼らはレコーディングのデモ・テープのセッションやキャロル・ダグラスのバ
ンドの仕事などもこなしていたが、生活は一向に楽にならなかった。いつも、彼
らは夢ばかり膨らませていた。その夢だけが、彼らの苦しい生活の支えだった。
  バーナードが振り返る。「オレたちはいつも、いつの日にか(ロック・グルー
プ)レッド・ゼッペリンのようなビッグなアーティストになるんだ、と話し合っ
ていた。もちろん、音楽的には様々なものを聴いていたけれど、当時ブラック・
アーティストで2万人もの観客を集められるアーティストはいなかったからね。
そういう意味で、ロック・アーティストのようにビッグになりたいと思ったの
さ。だけど、もちろん、どうしたらそうなれるかなんてまったく見当がつかな
かったけれどね」
  そして、まったく売れないミュージシャンで音楽的趣味も違う二人だったが、
一つだけ共通した認識を持っていたものがあった。それは、当時彼らが参加する
バンドは、どれも観客を小馬鹿にしたようなところがあって、そのことが気に入
らなかったということだった。それにそうしたバンド・メンバーは、ナイルが黄
色の靴を履き、バーナードが赤い靴を履いていると、なぜ色をそろえないのだ、
と文句を言ったりしてきた。だが、ナイルもバーナードも、人と違うことをよし
としてきたので、当時はやりだったお揃いのユニフォームを着て演奏するバンド
などというのは、ごめんだった。そして、バーナードが文句を言われれば、ナイ
ルが弁護し、その逆の場合はバーナードがナイルの肩を持った。
  ナイルとバーナードは、自分たちがやるバンドは、自分たち自身がステージで
やっていて楽しいことはもちろんのこと、そこに来ている観客も自分たち同様楽
しくならなければならない、と考えた。つまり、人々をエンタテインするバンド
をめざそうということであり、それは二人が作る新しいバンドの最大の信念だっ
た。
  音楽的にどのようなバンドを作ればいいのかについても、彼らは毎日のように
話し合った。ナイルは、モータウン物、ジミ・ヘンドリックス、レッド・ゼッペ
リン、ドアーズなどをミックスしたようなものを思い描き、バーナードはジェー
ムス・ブラウンを頂点とするファンク物にスモーキー・ロビンソンなどの歌を
ミックスしたようなソウル的なものを思い描いていた。
  だが、彼らの考えていたような音楽は、ある意味で「ブラック・ロック」と呼
ばれるジャンルに押し込められがちであった。どのような音楽関係者も、そんな
ブラック・ロックというものは売れない、と相手にしてくれなかった。明らかに
その方向性は当時の売れ線ではなかったのだ。そして、当時の売れ線とは、誰の
目にもディスコだった。
  バーナードが振り返る。「われわれは、ヘンドリックスや(ブラック・ロック
の)チェンバース・ブラザースが、白人の観客に受け入れられていた時代を経て
きたんだ。だが、もはや、そういうことは起こらなくなっている。仕方ないか
ら、自分たちは後戻りしなければならなかったわけだ」
  ここにアメリカの音楽業界の問題点の一つが浮き彫りにされている。つまり、
この頃から、音楽業界は、すべての音楽をカテゴリーでとらえるようになり、ブ
ラックはブラックらしいR&Bやソウルをやらなければならない、という固定観
念が強く芽生え始めたのである。ブラックがロックをやれば、ブラック・ステイ
ションは「ロックすぎる」と言って毛嫌いし、ロック・ステイションは「黒すぎ
る」と言って毛嫌いし、どちらからも無視される有様だった。その意味で、ブ
ラックがロックをやるということ自体、当時の業界内では異端であり、音楽業界
の体制内で受け入れられるものではなかった。
  だが、彼らは何としてでもレコード契約をとり、ヒットを出し、そしてビッグ
になりたかった。その野望のためには手段を選ばなかった。
  夢ばかり膨らませていたこの時期、彼らはベース奏者、ギター奏者として、お
たがいの良さというものをよく理解しあっていた。二人がだれか他のバンドに入
ると、そのバンドの他のメンバーがどんなにうまくなくても、締まったサウンド
になった。ギターとベースだけでも、充分個性が形作られていた。お互いが、演
奏しあうタイミングも、目を見るだけで瞬間にわかった。それは何年も同じス
テージに上がってバンド演奏しているミュージシャン同士にだけ生まれるもの
だった。それはミュージシャンシップと呼ばれるものであった。彼ら二人には友
情(フレンドシップ)だけでなく、間違いなく、強固なミュージシャンシップが
築き上げられていたのである。

ACT FOUR  栄光のハイタッチ

  1977年初め、ナイルとバーナードは、友人のディスコDJ、ロブ・ドレイ
クのアイデアとサポートによって、当時大きな現象となっていたディスコ向けの
レコードを作ることになる。ドラムに以前から知り合いだったトニー・トンプソ
ン、ヴォーカルにもやはり顔見知りだったアルファ・アンダーソンとルーシー・
マーティン、当時はセッション・シンガーとして活躍していたルーサー・ヴァン
ドロスなどを起用し、レコーディングを行った。シンプルなリズムに、わかりや
すいメロディーとタイトル・フックを入れたその作品は、「ダンス・ダンス・ダ
ンス」というタイトルになった。
  そして、アーティスト名も新しくモダンな名前をつけることにした。ゲットー
生まれストリート育ちのブラック二人にとって、当時のディスコではやっていた
ヨーロッパ産のヒット曲は、何となくミスティックで、ファンタスティックな香
りをもっていた。彼らにとって、フランスなどというものは、全く無縁のもの
だった。そこで、本を見ていてシックという単語を見付けたとき、彼らはこれ
だ、と思ったのである。つまり、彼らには全く無縁のフランスの香りのするシッ
クという単語、それを逆説的にグループ名にしようと考えたのである。こうし
て、ファンキーでストリートそのもののブラザー二人が作り上げたグループがそ
れとは180度違うシックというものだった。77年6月のことである。
  ロブは、彼がDJを担当していたディスコ、ナイト・オウルでそのデモ・テー
プを何度もプレイするようになった。すると、その度に、いいリアクションが
返ってきた。ナイルとバーナードは、このテープをもってあちこちのレコード会
社に売り込みにいった。しかし、どこからもいい返事がもらえなかった。彼らが
断わられたレコード会社のリストは、十以上に及ぶ。そして、その中にはアトラ
ンティック・レコードもあった。
  77年8月。やっとブッダ・レコードがこの作品に興味を持ってくれた。ブッ
ダは、早速、この曲の12インチのサンプル盤を作り、ニューヨークのいくつか
のディスコDJに配布した。
  すると、反応は抜群だった。たとえ、その曲を初めて聴いた客でさえも、それ
にあわせて熱狂的に踊った。2〜3週間もすると、その曲はみんなに覚えられ、
イントロがかかるだけで、ダンス・フロアに人々が押し寄せるようになった。
ディスコからの大ヒットを予見させる典型的なケースだ。サンプルを手に入れた
DJは、ヘビー・ローテイションでプレイし始め、この「ダンス・ダンス・ダン
ス」は瞬く間に、ニューヨーク地区のディスコでの大ヒットになりだしたのであ
る。
  ディスコでの観客の反応ぶりを見て、ナイルとバーナードはついにやったぞ、
という思いで一杯だった。「オレたちはヒット曲を手にしたんだ」という実感
が、ダンス・フロアの観客の反応をみて、沸いてきた。
  「ダンス・ダンス・ダンス」は、77年9月24日付け音楽業界誌ビルボード
の「ナショナル・ディスコ・アクション・トップ40」のチャートで23位に初
登場する。レーベルは、ブッダ。このチャート入りは、ディスコでのリアクショ
ンをベースにしたもので、レコード盤が一般発売されていなくても、反応がよけ
ればチャート入りしてくる。「ダンス・ダンス・ダンス」は、セールスなしで、
チャート入りしたわけで、それだけリアクションがよかったということでもあ
る。
  だが、彼らの行く手には思わぬアクシデントが待ち受けていた。彼らの「ダン
ス・ダンス・ダンス」を発売する予定のブッダ・レコードが資金難からなんと倒
産してしまったのである。
  サンプル盤は既にディスコでヒットしているが、その商品が市場に出ない。
「ダンス・ダンス・ダンス」は、このままでは正に幻のヒットになってしまうの
か、と思われた。だが、すでにヒットし始めていたということは、彼らにとって
充分に追い風になっていた。彼らにアプローチしてきたのは、今度は機を見るに
敏なレコード会社のほうだった。
  結局、この「ダンス・ダンス・ダンス」とグループ、シックは新たにアトラン
ティック・レコードと契約を結ぶことになったのである。彼らはそれまでに二度
ほどアトランティックに売り込みに行っていたが、二度とも断られており、今度
の契約は彼らからすれば、正に三度目の正直だった。77年9月末のことであ
る。
  アトランティックは、至急テスト・プレスを増産し、全米のディスコDJにプ
ロモーションを開始、そして、10月中旬には、一般用の12インチ・シングル
を緊急発売したのである。
  「ダンス・ダンス・ダンス」は、瞬く間にディスコからブラック・ラジオ、
ポップ・ラジオまでを席巻し、大ヒットになった。デビュー・アルバム『シッ
ク』が11月にやはり緊急発売され、シングル、アルバムともゴールド・ディス
クに輝き、彼らは一躍スターダムにのし上がった。ギターを質にいれて、ライヴ
をやっていた彼らがついに、夢を実現させたのだ。二人は、腕を上げて、ハイ
タッチをした。それは栄光のハイタッチだった。
 78年夏。彼らはモデル・シンガー、グレイス・ジョーンズのショウを見に、
当時の人気ディスコ「スタジオ54」へ行くことになっていた。グレイスは、そ
れより以前に、シックの二人に自分のニュー・アルバムのプロデュースをしても
らえないかと打診していて、そんな話もあって、彼らは一張羅にめかしこんで、
スタジオ54にでかけた。グレイスは、「シックと名乗ってね。グレイス・ジョ
ーンズを訪ねてくれれば、はいれるから」と言っていた。
   彼らがスタジオ54の入口に行って、「われわれはシックというものですが、
グレイス・ジョーンズに会いに来ました」と言うと、ドアマンは「シーク・フー?
(シーク誰?)」と一言いうなり、ドアをびしゃと閉めたのだった。彼らはスタ
ジオ54に入れてもらえなかったのだ。
   頭に来た二人は、すぐに近くのナイルのアパートに戻り、ジャム・セッション
を始めた。彼らは「F」で始まり、「K」で終わる四文字単語を発し、その言葉
で一曲作り出してしまった。「FxxK(くそったれ)、FxxK・・・」 だ
が、そのリズムとサウンドの乗りが非常によかったので、「F」と「K」は、残
し、それに例によってフランス風の香りで英語の「THE」にあたる「LE」を
つけ、「LE  FREAK」というタイトルをつけたのである。言ってみれば、
この曲は彼らがスタジオ54のドアマンに入れてもらえなかったために、その
うっぷん晴らしに生まれた作品だった。ナイルも、「そのときはスタジオ54に
はいかなったが、スタジオ54のことを歌った曲だよ」と振り返る。
  この「ル・フリーク」は78年10月に全米で発売され、瞬く間に大ヒット。
ディスコ・チャート、ソウル・チャート、そしてポップ・チャートの3部門でナ
ンバー・ワンを獲得する三冠王となった。
  79年、バーナードとナイルがスタジオでアイデアを煮詰めているときに、
バーナードが生み出した「ボンボンボン・・・」というベースラインに、ナイル
が反応した。そのベースラインをもとに、一曲瞬く間に完成した。タイトルは、
「グッドタイムス」。ベース・ラインも超強力なこの曲は再びナンバー・ワンに
なり、シックはもっとも人気のあるディスコ・アーティストとなった。
   彼らは大規模なツアーに出て、ニューヨークでは、ついにマジソン・スクゥエ
アー・ガーデンでも演奏した。彼らの下積み時代のレッド・ゼッペリンのように
大きなスタジアムで演奏するという夢がついに実現したのである。

ACT  FIVE  シック・サウンドに群がる人々

   彼らのサウンドは、それまでのディスコ・アーティストのものとは違ってい
た。R&Bの要素、ファンクの要素がベースにあり、しかもロックの要素もあっ
た。なによりも、どこを聴いても「シック・サウンド」とわかる個性的なサウン
ドは非常に魅力的だった。それは、ナイルの抜群の切れ味のあるギター、バー
ナードのファンキーで思わず腰を動かさずにはいられなくなるようなベース、そ
して、やはり独特のグルーヴ感のあるトニー・トンプソンのドラムスのコンビ
ネーションが醸し出すサウンドだった。そして、そのグルーヴが、人々を直撃し
た。
   そこで、彼らのもとには、そのサウンドを求める様々なアーティストからのプ
ロデュース依頼が殺到した。彼らは、そうしたオファーをできるかぎり、こなす
ことにした。
   78年秋口、彼らは姉妹グループ、シスター・スレッジのアルバム『ウイ・
アー・ファミリー』をプロデュースする。このアルバム・タイトル曲は、もちろ
ん、シスター・スレッジたち自身が「私たちはファミリー」と歌うわけだが、そ
れはまた同時にナイルとバーナードのブラザー同志の絆を示す作品であった。
   シスター・スレッジ、ノーマ・ジーン・ライト、シーラB・デボーション、デ
ビー・ハリー・・・。それに付け加えて、シック自身のアルバムも制作しなけれ
ばならない。彼らは多忙を極めた。
   特にシスター・スレッジのアルバムも大ヒットし、彼らのプロデューサーとし
ての名声も次第に高まっていった。ただ、アメリカの音楽業界は、彼らを単に
「ディスコ・プロデューサー」として捉えていたのだが。
   彼らは、この頃、何とかビッグ・アーティストをプロデュースしたいと考える
ようになっていた。ビッグ・アーティストをプロデュースし、成功させ、プロ
デューサーとしての箔を付けたいというわけだ。ちょうどそんなとき、あの「ク
イーン・オブ・ソウル」ことアリサ・フランクリンのアルバム・プロデュースの
話が舞い込んだ。
   彼らは何としてもこのアリサのプロジェクトをやりたがった。アリサのアルバ
ムを成功させることで、自分たちが「単なるディスコ・プロデューサー」から一
歩大きく脱皮できると考えたからだ。
   ナイルとバーナードにとって、アリサは素晴らしいソウル・シンガーだった。
そこで、彼女と打ち合わせをしたとき、ナイルとバーナードは、彼女に「いい
『ソウル・アルバム』を作りましょう」と持ちかけた。だが、アリサは当時のは
やりの「ディスコ・アルバム」を作りたがった。
  シックが次のアリサのアルバムをプロデュースするらしい、という噂はすぐに
業界内に広まった。
  バーナードが振り返る。「僕たちの名前がアリサの歴史のなかで、唯一『ディ
スコ・アルバム』をプロデュースしたプロデューサーとして残るなんてのは嫌だ
からね。『ソウル・アルバム』を作れないなら、引き受けないほうがいいと判断
したんだ」
   彼らは結局、アリサと話がまとまらず、シックがアリサをプロデュースする企
画は立ち消えになる。
  そして、アリサはこのプロジェクトをやはりディスコ・プロデューサーとして
「ハッスル」など多くのヒットを手がけていたヴァン・マッコイに頼み、ヴァン
のプロデュースで作り上げた。アルバムは、『ラ・ディーヴァ』と題され、79
年9月に発売されたが、これはヴァン・マッコイの遺作ともなった。だが、彼ら
の読み通り、アリサにディスコ・アルバムはまったくあわなかった。バーナード
は、これについて「アリサとしてはひどいアルバムだ」と評価する。
   音楽的には、アリサのアルバムを制作しなかったことは正しい選択だったが、
政治的には逆の効果を生み出した。つまり、アリサとシックの力関係から、
「シックはアリサにプロデュースの仕事をやめさせられたらしい。まあ、やつら
はまだ若いからな」と言ったことや、シックがアリサと激しい喧嘩をしたという
噂話がまことしやかに語られるようになったのである。そんな中で彼らをもっと
も傷つけたのが、「やつらにはまだまだスーパースターなんかプロデュースでき
ないさ」という言葉だった。
   ほぼ同じ頃、音楽界では、彼らのサウンドがユニークだったので、彼らのサウ
ンドを真似るアーティストも続出して、シック・サウンドは、もはやシックだけ
の専売特許ではなくなってきていた。
   ナイルはこう説明する。「つまり、何かオリジナルなサウンドを生み出した
ら、それには非常に短い命しかないということなんだ。初めて、スライ・ストー
ンが出てきたときのことをよく覚えている。彼は非常にユニークだった。だが、
すぐにみんなが彼を真似し始めるようになった」

ACT SIX  おしゃべりレコード
 
  79年9月、彼らはラジオで自分たちが大ヒットさせた「グッドタイムス」の
カラオケにのせて、延々とおしゃべりの入っている奇妙な作品を耳にした。彼ら
はアンダーグラウンドなDJが、他人のヒット曲に載せてしゃべりを入れたり、
あるいはDJがその番組用に特別にリミックスしたりしたものだろうと思った。
  だが、そのおしゃべりの曲は、ラジオで頻繁にかかるようになっていた。
  そして、しばらくして、それが正規に売られているレコードだとわかり仰天し
たのだ。早速、そのレコードを手に入れると、そこにはシュガーヒル・ギャング
の「ラッパーズ・デライト」と書かれていた。だが、作曲者クレジットにあるべ
きはずの、ナイルの名前も、バーナードの名前もなかった。これは一体どういう
ことなのだろうか。彼らはすぐには理解できなかった。それももっともだった。
他人のレコードのトラック(カラオケ部分)を勝手に使って、自分たちのレコー
ドとして作品を出すなどということは、これまでにまったく前例がなかったから
だ。彼らは発売元のシュガーヒル・レコードにクレイムを出し、結局、作曲家ク
レジットを入れ、印税をもらうことで和解する。
 しかし、この曲こそ、ニューヨーク・ブロンクスで起こり始めたアンダーグラ
ウンド・カルチャー、ヒップ・ホップの一つ、ラップの初めてのレコード作品の
一つだった。いわゆるラップという存在がこの曲をもって世界に示されることに
なったのである。ラップは、その後、20年以上にわたり今日まで音楽界のメイ
ンストリームに躍り出る。サンプリングという手法がなかったこの時期、ラッ
パーたちは、既存レコードのカラオケ部分に載せて、ラップを始めていたのであ
る。ブラック・ミュージックの歴史におけるラップのしめる位置は、大きい。そ
して、シックのふたりは、はからずも、そのラップの歴史の第一歩に大きく貢献
することになったのである。街のストリートを行き交うと、子供たちが大きなラ
ジカセをもって、この「ラッパーズ・デライト」にあわせて、一字一句同じよう
に、ラップをする光景が見られようになった。
 さらに、翌80年には、イギリスのロック・グループ、クイーンが「アナ
ザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト」という曲を発表した。これも、ナイルとバー
ナードに少なからず衝撃を与えた。その曲のベースラインが、バーナードがクリ
エイトした「グッドタイムス」のベースラインそっくりだったからである。しか
し、確かに楽曲はシュガーヒルの場合と比べて違った。ベースラインの一部だけ
が同じだった。現在の著作権法では、作詞作曲家には著作権はあるが、アレン
ジャーにはそれがない。したがって、どんなかっこいいベースラインのアイデア
を生み出しても、そこには著作権を主張できなかった。
 ラジオからは、「ラッパーズ・デライト」や、「アナザー・ワン・バイツ・
ザ・ダスト」が、ときに「グッドタイムス」とメドレーでプレイされた。そし
て、ナイルやバーナードは、それを聴きながら、複雑な気持ちになっていた。
  ナイルとバーナードの生活はレコーディング・スタジオにあった。昼過ぎに起
きて、夕方からスタジオに入り、朝の3〜4時までレコーディング・セッション
やミキシングなどが続いた。そして、スタジオが終わった後も、マンハッタンの
クラブなどへバンドを見に行ったりしていた。新しいバンドを見ることによっ
て、音楽的アイデアを得るためである。
  だが、そうした努力にも限度があった。彼らは、自分たちの作品がコピーさ
れ、そのサウンドが氾濫し、さらに自分たち自身が消耗し始めたことに気付き始
めていた。77年以降約5年間に200曲もの作品を作り、他のアーティストを
プロデュースすれば、当然、その中にはクオリティーの低い作品も生まれる。粗
製乱造というわけである。ヒット作品。ヒット・サウンド。そのサウンドを取り
込めば、またヒットが生まれるという思考。つまり、そのとき、シック・サウン
ドは業界で金になるものと認識された。そして、人々はその金のなる木に容赦な
く群がってきたのである。

ACT  SEVEN  リアル・ピープル

  ショウファー付きリムジン、ダイアモンド、ファー・コート。彼らは、欲しい
と思うものはなんでも手に入れられるようになった。成功した者の周りには、そ
の成功の一部にでもありつこうとする人種が次々とまとわりつくようになる。そ
して、成功者に対して、その場では愛想よくしていても、陰ではねたみ、嫉妬の
感情を持つ者もいた。ナイルとバーナードの周囲も例外ではなかった。
  ある者は、ナイルのところにやって来て、「あんたは才能があるが、バーナー
ドなんて才能がない。彼なしだってやっていけるじゃないか」と言ったり、
「バーナードが『オレは本当はナイルなんて必要ないんだ』といっていたぞ」と
いう話をあることないこと交ぜ合わせていい始めるようになった。もちろん、別
の人間は、バーナードのところに行き、君にはナイルなど必要ない、ということ
を吹き込むようになったのである。
  最初は、冗談のつもりで聞いていた彼らだが、そうした雑音があまりに大きく
なると、二人ともそうしたことにうんざりするようになってきた。金のなる木に
まつわりつく連中は、醜く、汚い。人を傷付けることを何とも思わない。だが、
そんな世界を彼ら二人は見たことも、聞いたことも、そして経験したこともな
かった。ほんの数年前までは、その日の食費にさえ困っていて、人々は自分たち
を避けてきたのだ。それが、手のひらを返したように、人々が群がってきたので
ある。一見きらびやかでグラマラスな世界とそれを取り巻く醜さは、あたかもコ
インの裏と表のようなものだった。
  1979年暮。彼らに今度はダイアナ・ロスのアルバム・プロデュースの話が
来る。
  彼らは、再びこのプロジェクトを熱心にやりたいと願った。
  ナイルは振り返る。「つまり、それまで僕たちはいくらポップな曲を書いて
も、なんでもディスコというラベルを付けられ、ポップなアーティストとしての
尊敬を人々から得られていなかったんだ」
  アリサ・フランクリンのプロジェクトが実現しなかった彼らにとって、ダイア
ナのプロジェクトは、ビッグ・スターのプロデュースということで、何よりも大
きなステップとなるように思えた。アリサのときに出たつまらない噂を流した連
中に対して見返す意味でも、このプロジェクトは成功させたいと熱望した。
  このプロジェクトはダイアナ本人が彼らを望んだことから決まり、彼らは紆余
曲折があったが、アルバムを完成させる。
  彼らが完成させたマスターテープをモータウンに渡すと、彼らはこう言った。
「どうも、シングルになるような曲が見あたらんなあ。まだこいつらには、(ダ
イアナのようなスターの仕事は)早かったかな」
  そこでモータウンが、ミックスをやり直すことになった。彼らは、彼ら自身の
ミックスで充分通用するだろうと考えたが、「モータウンにはモータウンのやり
方があるし、ミックスを変えたからといって音楽そのものが変わるわけではな
い」という結論に達し、同意した。
  この時期、彼らはダイアナのプロジェクト、さらにシックのニュー・アルバ
ム、そしてシックのツアーの仕事などが重なり、寝る間もないほど忙しくなっ
た。
  1980年春、ナイルは疲れがたまり、倒れ、一週間ほど入院する。過労で、
彼には休息が必要だった。だが、そのとき、毎日一日も欠かさずに病院に見舞い
にやって来たのは、普段一緒に遊んで彼をちやほやしていた連中や仕事関係の連
中ではなく、バーナードだけだった。
  ベッドに横たわるナイル。彼を見るバーナードは、小さな椅子に座っている。
そのとき、静かな病室で彼らは話した。「一体、普段オレたちの周りにいる連中
は何なのだろう」
  彼らは、そのときの気持ちを一曲の歌に託した。
  「自分の人生は何人かの本物の人たちと過ごしたい。この世の中には、とても
関わることができない人種がいる。そういう連中は君を徹底的にだますのさ。私
はそういう薄っぺらな人間関係をすべて解消するために最大限の努力をしたい。
自分は、愛と人間性と、そして本物の人たちと一緒に過ごしたい」
  本物の人たち、それが「リアル・ピープル」という作品に結実した。
  彼らは本当に働きすぎだった。ダイアナのプロジェクトは、彼らにとって大き
なターニング・ポイントになるだろうという思いもあり、まさに入魂の一作と
なった。
  ナイルがこう述懐する。「もう、僕たちはダイアナのアルバムですべてを出し
切った、という感じだった。あそこで、1ヶ月でも2ヶ月でも休みを取ればよ
かったんだろう。あれが終わって、すぐ、僕たちはツアーに出たんだ。だが、ス
テージにたって、『グッドタイムス』を演奏していても、頭の中では(ダイア
ナ・ロスの)『アップサイド・ダウン』のことを考えているんだ。そして、ス
テージにただ立っていて、僕の頭の中はからっぽだった」
  集中力の欠けたライヴ。客はヒット曲を聴くことができ喜んでも、やる側には
満足感はなかった。バンドの仲間も、バーナードとナイルたちを避けるように
なっていた。それほど、彼らは神経が苛立っており、近寄り難い雰囲気を持って
いたからだ。ナイルは、思った。「これが成功というものか。え?  どうなん
だ。自分を見ろよ。オレは幸せか?」
  ダイアナのアルバムは、モータウンがリミックスした後80年7月に発売され
る。そこからシングル「アップサイド・ダウン」が出ると、瞬く間に大ヒット、
これは全米ナンバー・ワンになった。彼らにとって、起死回生の一発となった。
そして、名実ともにスター・プロデューサーとなったのだ。
  「アップサイド・ダウン」がナンバー・ワンになるや、「シングルが見当たら
ない」と言った同じレコード会社の連中は手のひらを返したようにこう言いだし
た。「私は初めて聴いた日からこれだと思っていたよ。初めて聴いた日から、こ
のアルバムはモンスター・ヒットになると確信していたんだ。アルバムのなか
で、もっともすごいと思ったのが、『アップサイド・ダウン』さ」
  ダイアナのヒットは、「奴等にはまだスーパースターなんかプロデュースでき
ないだろう」と陰口をたたいた連中への見事な返答となった。
  一方、「リアル・ピープル」はシックとしての4枚目のアルバムのタイトル・
ソングとなり、これも80年7月に発売される。しかし、このあたりから彼らの
シックとしてのアルバム・セールスは、落ち込みだす。
  レコードのセールスが落ち始め、人気に陰りが出始めると、周りにいたリア
ル・ピープルでない連中は次第に疎遠になりだした。
  ナイルとバーナードは、何も考えずにつっ走ってきた人生を振り返るように
なった。レコードが売れなくなり始めて、レコード会社からのプレッシャーも強
くなった。他のアーティストのプロデュース作品はもとより、自分たちシックの
レコードも売らなければならない。しかし、心身共に疲れ切った彼らには、新鮮
なクリエイティヴなアイデアはもうなかった。憔悴しきっていたのだ。あまりの
ペースの速さに、彼らの体のリズムが追い付かなくなって来たのである。
  そして、二人とも次第に現実を逃避しようといつしかドラッグや酒に溺れるよ
うになった。


PART 2に続く