主な登場人物
ハーヴィー・フークワ=この物語の主人公。50年代に人気となったヴォーカ
ル・グループ、ムーングロウズのリーダー
マーヴィン・ゲイ=ハーヴィーにあこがれた歌手
ベリー・ゴーディー=モータウン・レコード創始者
アンナ・ゴーディー=マーヴィンの妻。17歳年上。ベリー・ゴーディーの姉
グエン・ゴーディー=ハーヴィーと結婚する女性。ベリーの姉。
ラーキン・アーノルド=マーヴィンをCBSに迎えるディレクター
デイヴィッド・リッツ=マーヴィンの自伝の著者。マーヴィンに取材する一方、
「セクシュアル・ヒーリング」の歌詞を共作した。
LEAD
ひとりのシンガーがスターとなり、そのスター・シンガーにあこがれた若き
野心あふれるシンガーが、次の時代をになう。音楽界は、その循環の歴史の連
続である。
この「ソウル・サーチン・ストーリー」の主人公の名は、ハーヴィー・フー
クワという。1950年代にはみずからステージの上でマイクの前に立ち、い
わゆる「ドゥ・ワップ」を歌い、スターとなった人物である。そして、その彼
にあこがれたひとりの男がいた。その人物は、ハーヴィーよりも10歳年下で、
十代の頃はいつの日にか、ハーヴィーのようになりたいと願っていた。彼は、
ハーヴィーと知り合い、彼のグループの一員となり、遂にはソロ・シンガーへ
独立、1960年代半ばから1970年代にかけて大成功を収める。だが、そ
の彼は、シンガーとしての成功の裏で、十代の頃から父親との確執に悩んでい
た。彼は、ハーヴィーに父親像を求めた。彼の名はマーヴィン・ゲイ。その後、
マーヴィンと父親との確執はどのような展開を見せるのか。
ハーヴィーとマーヴィンの間にあった友情と信頼関係の行方は。紆余曲折を
経ながらも四半世紀におよぶふたりの固い絆の結末は。その中で、ハーヴィー
はマーヴィンについて、そして、自からの半生についてどのように考えている
のだろうか・・・
PROLOGUE
様々なタイプの人たちが集まってくるホテルのコーヒーハウス。いろいろな
国の人々の言葉が飛び交い、独特の喧噪を醸し出す。その日夜遅く、僕は永田
町のキャピトル東急のコーヒーハウス「オリガミ」でひとりの人物を待ってい
た。ハーヴィー・フークワという人物だ。僕が彼の来日を突然のように知った
のは、ほんの二日前だった。ハーヴィーはソウル・シンガー、スモーキー・ロ
ビンソンのコンサートのために来日していたのだ。彼はスモーキーのショウの
ライティング・ディレクター(照明技師)という裏方の役で来ており、早速、
彼にインタヴューを申し込むと、すぐに快諾してくれた。そのスモーキーのコ
ンサート後に僕は彼を待っていた。88年5月のことである。インタヴューの
中心は、やはり、彼が育てたマーヴィンのことになったが、それでも、話題は
ムーングロウズ時代の話にも及んだ。
ハーヴィー・フークワといっても、一般の方にはほとんどなじみがないだろ
う。しかし、彼が作った作品のいくつかは、御存じかもしれない。日本のシン
ガー、山下達郎氏が作ったア・カペラ・アルバムの中に「モースト・オブ・オ
ール」というすてきなバラードがある。この作品は、アメリカでも多くのアー
ティストがカヴァーしているが、そのオリジナルがハーヴィーがいたムーング
ロウズというグループの大ヒットである。ハーヴィーが、「ロックン・ロール」
という言葉を広めることに大きな役目を果たしたアラン・フリードと共作した
曲だ。また、同じくムーングロウズの「シンシアリー」という曲は、オールデ
ィーズの定番として、その手のプログラムなどでもよくプレイされる名曲であ
る。これらのヒット以降も、彼は多くの作品を作ったり、若手を育てたりして
いる。ハーヴィーは言ってみれば、ソウル・ミュージック、R&Bの歴史の生
き証人でもある。僕は彼からいろいろな昔話を聞きたいと思ったのだ。
彼がやってきたとき、「オリガミ」の席は半分以上うまっていて、人の話し
声やコーヒーカップや食器が触れあう音などが少しばかりうるさかった。イン
タヴュー時点で58歳だった彼は、一言一言を選びながら、ゆっくりと語り始
めた。特にマーヴィンの話になると、昔を振り返るように、言葉をかみしめな
がら語っていたのが、非常に印象的だった。そんな彼がマーヴィンとの初めて
の出会いを思い出す・・・
ACT ONE ムーングロウズの熱狂的ファン
「ミスター・ハーヴィー、ミスター・ハーヴィー。是非サインをください。
あなたたちの大ファンなんです」
ハーヴィーたちの休憩時間は、もう残り30分もなかった。その間に軽い食
事も済ませなければならなかった。
「だめだ、だめだ。今は時間がないんだ」
そのティーン・エイジャーは、もう一度サインをせがみ、それでもだめだと
わかると、あきらめてどこかに消えていった。
1957年、ワシントンDCのハワード劇場の楽屋入口でのよくある一こま
だった。
その彼は、それまで3日間そこに通いつめていた。彼は、何度か楽屋入口で
ハーヴィーに声をかけようと思っていたものの、その勇気がなく、3日目にし
てやっとガッツをだし、かけ寄ってサインを求めたのだ。だが、そのティーン
エイジャーはタイミング悪くハーヴィーにあっさり断られてしまった。
ハーヴィーとは、1950年代初期から「シンシアリー」などのヒットを放
ってきた、いわゆるドゥ・ワップ・グループとして絶大な人気を誇っていたム
ーングロウズのリード・シンガー、ハーヴィー・フークワのことだ。
ムーングロウズは、当時活躍していた他のドゥ・ワップ・グループ同様、ヒ
ットが出れば、すぐに地方巡業に出た。ハワード劇場でのショウも、複数のア
ーティストが数曲を次々と歌う、いわゆる「パッケージ・ショウ」で、ムーン
グロウズもそんな出演アーティストの一組だった。当時は、一回目のショウが
昼の2時頃から始まり、一日に5〜6回のステージが行われた。1ドル75セ
ント程度の値段で、同時に5〜6組のショウが見られ、こういったショウは、
常に人気だった。
楽屋の入口には、いつもファンがサインや写真をねだるためにたむろしてい
た。54年以降大ヒット曲が出て、人気もあがり巡業にも慣れてきていたハー
ヴィー・フークワにとって、それは「いつもの仕事」ではあったが、ときに面
倒に感じることもあった。ステージで踊り歌った後は、すぐにハワード劇場の
裏にある宿泊ホテルに戻ってシャワーを浴びたかったし、ショウの前に楽屋に
入るときには、緊張していたので、あまりファンに煩わされたくなかったのだ。
この日も、ショウまであまり時間がなかったので、ファンたちのサインを断
ったのである。
だが、ハーヴィーが自分の楽屋に入ると、なんとさっきのティーン・エイジ
ャーがそこにいるではないか。実は、その彼はムーングロウズの別のメンバー
と話をつけ、ハーヴィーの楽屋に先回りしていたのだ。
そのメンバーが、「彼があんたのサインが欲しいそうだ」と言うと、ハーヴ
ィーは渋々「オーケイ、オーケイ。わかったよ」と応じた。
そのティーン・エイジャーはさらにこう続けた。「ミスター・ハーヴィー、
僕はあなたのグループが大好きなんです。世界中で一番素晴らしいグループだ
と思います。で、実は僕にはあなたに聴いていただきたいグループがあるんで
す。どう思うか、聞かせてください」
「いやいや、そんな時間はないんだよ。悪いが後にしてくれ」
それでも彼は「お願いです、お願いです・・・」とせがみ、ハーヴィーもそ
のしつこさに負けて、ついに後でホテルのほうに来るように言ったのである。
その彼は、ショウが終わった後、仲間の何人かを連れて、ハーヴィーが泊ま
っていたホテルの部屋にやって来た。そこで、彼らはハーヴィーの目の前でム
ーングロウズのヒット曲をア・カペラで歌った。
ハーヴィーが振り返る。「ワオ! という感じだった。彼らは、まるでムー
ングロウズそっくりだったんだ」
ハーヴィーは、グループの名前を尋ねた。その名は、マーキーズと言った。
そして、そのサインをせがんだ彼にも名前を訊いた。
彼はこう答えた。「僕の名前は、マーヴィン・ゲイです」
マーヴィンはムーングロウズのようなロマンティックなドゥ・ワップ・グル
ープが本当に好きで、一生懸命彼らのサウンドを真似ていた。しかも、ヒット
曲の多くを書いていたハーヴィーに対して、並々ならぬ尊敬の念を抱いていた
のである。
マーヴィンは、彼のマーキーズが、近くで行われるタレント・ショウに出る
ので、是非見に来てくれ、と頼み込んだ。ハーヴィーは、休憩時間を利用して
見に行ったが、彼らは他のグループに負けてしまった。だが、そのサウンドを
すっかり気に入ったのである。
ACT TWO 父からの逃亡者(ハーヴィーとマーヴィンの「一生の契約」)
ハーヴィー・フークワは、1929年7月27日、ケンタッキー州ルイヴィ
ルという街に生まれた。幼少の頃から教会でゴスペルを歌いだし、すぐにシン
ガーとしてのキャリアを進むことを決意。1951年、オハイオ州クリーヴラ
ンドでドゥ・ワップのヴォーカル・グループ、クレイジー・サウンズを結成す
る。このグループは、その頃当地で有力だったラジオDJ、アラン・フリード
に認められ、レコーディングのチャンスを得るが、彼にグループ名の変更をア
ドヴァイスされ、彼のアイデアでムーングロウズとする。ムーングロウズは、
1952年、フリードの持つシャンペーン・レコードから「アイ・ジャスト・
キャント・テル・ノー・ライ」でデビュー。その後、チャンス・レコードを経
て、シカゴの名門レーベル、チェス・レコードと契約。この頃からいわゆる「ド
ゥ・ワップ・グループ」として、一世を風靡。1950年代中期に前述の「シ
ンシアリー」(54年)、「モースト・オブ・オール」(54年)、「シー・
ソウ」(56年)、「プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥ・ラヴ」(5
7年)などのヒットを放った。ハーヴィーは、このグループの中で、ベースの
ヴォーカル、ときにリードを担当、その低音の魅力とともに人気を集めた。
特に、「シンシアリー」は、ムーングロウズの代表作となっただけでなく、
白人の女性グループ、マクガイアー・シスターズがカヴァーし、オリジナル以
上のベスト・セラーとなった。
このムーングロウズは、当時の黒人たちの間でももちろん、高い人気を誇っ
たが、現在でもR&Bマニア、特にドゥ・ワップを好むマニアの間ではカルト
的な人気を獲得しているグループの一つだ。例えば、彼らのシャンペーンから
発売されたデビュー・シングルには400ドル、あるいは、チャンスからのデ
ビュー曲には2000ドルの値が付くほどの異常人気なのである。
ハーヴィーがマーヴィンと知りあった頃、彼は、ムーングロウズの他のメン
バーと折り合いが悪くなっていた。ヒット曲が出て以来、ツアーが続いており、
お互いにいらいらしていたこともあった。ハーヴィーは、「自分たちが皆、あ
まりに長く一緒にいすぎたんだ」と振り返る。そのため、ハーヴィー自身、グ
ループを辞めようかとも思っていた。そこにマーキーズというムーングロウズ
を思わせるグループが突如出現したのである。そこで、彼はムーングロウズを
脱退し、このマーキーズを新しいムーングロウズにして、再出発しようと考え
たのである。この新しいムーングロウズは、元のメンバーと違って皆ハーヴィ
ーよりも年下だし、あまりわがままもいわないだろう、とハーヴィーはふんだ
わけである。
1958年の秋口、彼はシカゴで、オリジナル・ムーングロウズの専属ギタ
リストだったビリー・ジョンソンと二人で、「テン・コマンドメンツ・オブ・
ラブ(愛の十戒)」という曲をレコーディング。このシングルは、「ハーヴィ
ー・アンド・ザ・ムーングロウズ」として発売され大ヒット、彼らの代表曲の
ひとつとなり、「シンシアリー」、「モースト・オブ・オール」などと並び、
R&B史上に残る傑作となった。
そして、これを期に、ハーヴィーはオリジナルのムーングロウズを脱退、彼
らそっくりに歌えるマーヴィンのいるマーキーズを率いて、「ハーヴィー・ア
ンド・ザ・ムーングロウズ」として活動を始めるようになった。マーヴィン・
ゲイとメンバーは、生まれ故郷ワシントンDCを離れ、シカゴに本拠を移すこ
とになった。1959年初め、マーヴィンは、まだ20歳になっていなかった。
マーヴィンは、ハーヴィーに言った。「僕はあなたと一生の契約を結んだん
だよ。あなたに一生ついていくからね」
ハーヴィーにとっては、新たなグループとして再出発するという意味で、一
つのターニング・ポイントであった。一方、若きマーヴィンにとっても、生ま
れ故郷ワシントンDCを離れることは、彼の人生において非常に大きな意味を
持っていた。
実は、マーヴィンは、幼少の頃から母親には愛されているが、父親には愛さ
れていないと感じていたのだ。父はいつもマーヴィンに辛くあたり、彼らの間
には、お互いを傷つける独特のやり方があり、二人の間の溝はかなり深かった。
子供の頃から、父親はマーヴィンがベッドをぬらしたり、言うことをきかない
と、体罰を加えた。厳しい父親だった。兄弟たちは、うまく体罰を逃れるよう
に要領よく振る舞ったが、マーヴィンは不器用で、しばしば父親と衝突した。
そして、徐々に、父親に対して反抗的になっていった。反抗すればするほど、
父親はマーヴィンに体罰を加えていった。父親の厳しさは、厳格な牧師であっ
たためでもある。神の教えを子供たちに伝えようとして、厳しかったこともあ
るのだろう。だが、幼いマーヴィンにとっては、そうしたことは、なかなか理
解できなかった。
そこで、ワシントンDCを離れるということは、マーヴィンにとって、親元
から離れる、すなわち、父親の元から出られる、ということを意味していた。
そして、マーヴィンにとって、それは「明日の希望」への第一歩のように思え
たのである。マーヴィンは父親からの逃亡者となったのだ。
デイヴィッド・リッツが書いたマーヴィンの半生を描いた著作『ディヴァイ
デッド・ソウル』(日本未発売)の中で、本人はこの出発についてこう語って
いる。
「僕はハーヴィーの車に乗って旅立った。僕はハーヴィーと一生の契約を結
んだのだ。あの悲しく、最悪の思い出に決して戻らないことを願いつつ、そこ
を去ることは幸せだった」
「悲しく、最悪の思い出」とは、そうした父親との確執を指していた。
こうして、マーヴィンは、憧れのハーヴィーの元で一緒に歌えることになっ
た。それは、夢が実現し、人生の新たな第一章が始まることを意味していた。
ACT THREE 頑固な奴、(新たなる父)
ハーヴィーは、マーヴィンら新しい生徒たちにファイヴ・パート・ハーモニ
ーの歌い方から、振り付け、ステージでの歩き方、マイクの使い方など細かな
ステージ・マナーなどあらゆることを教えこんだ。それまではただステージに
立って歌うだけだった少年たちもいつしか、洗練されたプロのグループになっ
ていった。
「ハーヴィー・アンド・ザ・ムーングロウズ」は、再びツアーに出るように
なる。そんな中で、マーヴィンはハーヴィーをどのように思っていたのだろう
か。
ハーヴィーが語る。 「マーヴィンは、私のことをブラザーであり、父親であ
り、最大級の信頼をおく師であり、先生のように思っていたね」
これを裏付けるようにマーヴィンはハーヴィーについてこう語る。「僕はハ
ーヴィーのことが大好きだった。僕の人生のある時期、将来にまったく希望な
どないかのようだった。(マーキーズとして)レコードは出したものの、マー
キーズは、他のワシントンDCのグループと違いがあるようには思えなかった。
とても、競争に勝てるとは思わなかった。だが、ある日、このハーヴィー・フ
ークワという人物が出現し、僕の目の前の雲が突然消え、太陽が輝き始めたん
だ」(『ディヴァイデッド・ソウル』)
マーヴィンにとって、ハーヴィーはまず憧れのスターであった。そして、本
物の彼と出会い、彼を頼りになる兄貴、あるいは父親のように慕うようになっ
た。マーヴィンは常々、父親に愛されたい、と思っていたが、父親はマーヴィ
ンのことを愛さなかった。その理由は、わからない。そんなマーヴィンがハー
ヴィーに対して、愛を与えてくれる理想的な父親像を描き、求めたのは自然の
成り行きだった。ハーヴィーは、マーヴィンにとって実の父親よりも、はるか
に父親的存在となっていったのである。
一方、ハーヴィーは、音楽的にマーヴィンが優れていることを徐々に感じ始
めていた。そして、マーヴィンに「お前なら、ソロ・シンガーになってもやっ
ていけるぞ」といったことをアドヴァイスするようになっていた。また、彼は
アメリカのR&B界の流れが少しずつ、自分の得意とする「ドゥ・ワップ」以
外のものを求めるようになってきていること、次第に自分が時代遅れになりつ
つあることも感じていた。
ハーヴィーとマーヴィンの関係は独特だった。ハーヴィーがこんなエピソー
ドを明かす。
あるとき、長いドライブをしてシカゴに戻るときのことだった。冬で、外に
は雪が降っていた。マーヴィンは、車に乗ってから、何時間もチューインガム
をクチャクチャと噛み続けていた。初めは、それほど気にもならなかったが、
あまりに長い間ガムを噛み続けるので、ハーヴィーは我慢ができなくなった。
ハーヴィーが「もういい加減にしてくれ」と言うと、マーヴィンは「これは僕
のチューインガムだから、別に構わないだろう」と答えたのだ。
ハーヴィーは、強い調子でいった。「噛み続けるなら車から降ろすぞ」
マーヴィンは、気にするものか、という風情で「わかったよ」と答えた。
ハーヴィーは車を横に止め、雪が降りしきる国道にマーヴィンを置き去りに
した。彼はマーヴィンが見えなくなるまで車を走らせ続けた。そして、一呼吸
おいて、「これぐらいすれば、奴も懲りるだろう」というあたりで、マーヴィ
ンのところに戻った。マーヴィンは、そしらぬ顔で道を歩いていた。ハーヴィ
ーが「さあ、車に乗れ」と言うと、マーヴィンは車に乗ってきた。しかし、彼
はまだチューインガムを噛み続けていた。
ハーヴィーが言った。「もうそのガムはやめたらどうだ」
マーヴィンは答えた。「これは、僕のチューインガムなんだから、放ってお
いてくれ」
マーヴィンはハーヴィーが戻ってくることを知っていた。そして、ハーヴィ
ーが考えた以上にマーヴィンという男は「頑固な奴(スタバン・カインド・オ
ブ・フェロー)」だったのである。
一方、ハーヴィーのパーソナル・ライフでは、彼の所属していたチェス・レ
コードと同じレーベル・メイトの新進気鋭の女性シンガー、エタ・ジェームス
と親しくなり、つきあい始める。彼らは、デュエット・レコードなども吹き込
んだり、公私共々親しくなった。ハーヴィーというひとりの人間の中で、文字
どおり、ビジネスとロマンスが一つになっていたのである。
ACT FOUR 生涯の裏切り
ムーングロウズは、この頃もうひとりのメンバーを加え、非常に厚みのある
ヴォーカル・ハーモニーを聴かせるようになっていたが、かつてのような大ヒ
ットは生まれなかった。彼らは、シカゴのチェス・レコードに在籍していたが、
チェスの社長、レオナード・チェスがちょっとしたアイデアをハーヴィーに打
ち明けた。チェスで制作を担当していたビリー・デイヴィスという人物が、グ
エン・ゴーディーという女性と知り合いで、そのグエンが音楽業界でコネクシ
ョンがあるので、ハーヴィーとグエンを引き合わせてみよう、ということだっ
た。
グエン・ゴーディーとは、当時デトロイトで音楽ビジネスを始めたばかりの
ベリー・ゴーディーの姉である。そして、このベリー・ゴーディーとは、もち
ろん、60年代にかのモータウン帝国を築きあげるベリー・ゴーディーその人
である。
ハーヴィーは、グエンのことが個人的にも気に入り、そのグエンのビジネス・
センスにも引かれた。グエンはすでに、弟ベリー・ゴーディーとは別に自らア
ンナ・レコードという小さなレコード会社を始めていたのである。そこで、彼
はシカゴとデトロイトの間を行き来するようになる。結局、彼は本拠をシカゴ
からデトロイトに移すことにした。1960年のことだった。
そして、これらのレーベルに彼はサックス奏者ジュニア・ウォーカー、クウ
エイルズというヴォーカル・グループ、そしてソロ・シンガー、マーヴィン・
ゲイを迎えたのである。
一方、グエンの持つアンナ・レコードにはスピナーズ、ラモント・ドジャー、
ジョー・テックスといったシンガーがいた。
この頃、既にハーヴィーとグエンはお互いに好意を持ち、親しくなり、彼と
昔の恋人エタ・ジェームスとは疎遠になっていた。ハーヴィーとグエンは結局
結婚。再び、ハーヴィーの人生の中で、ビジネスとロマンスが一緒になった。
かつては恋人とデュエットを歌った彼だったが、今度は「アンナ」と「トライ・
ファイ」というふたつのレコード会社を統合し、「アンナ・トライ・ファイ・
レコード」を作ったのである。
当時、デトロイトの街は音楽的にも活気があふれていた。正に何かが起ころ
うという状況だった。しかし、ハーヴィーのレーベルからは何枚かシングルが
出たが、思うような大ヒットには至らなかった。曲をレコーディングし、プレ
スし、卸元に納品しても、その曲がヒットしないとなかなか代金を支払っても
らえなかった。始めたばかりの弱小レーベルと大きな配給元の力関係のためだ
った。しかし、スタジオ代、プレス代などの支払い期日は、確実にやって来た。
ビジネス・センスがある程度あったはずのハーヴィーでさえも資金繰りに困り
始め、現金が必要になった。
ちょうど、そんな頃、ベリー・ゴーディーは彼のレコード会社、モータウン
を大きくしようとしていた。デトロイトには、ハーヴィーの「アンナ・トライ・
ファイ」などの小さなインディ・レーベルがいくつかあり、そうしたものをま
とめあげれば、大きなものになるだろう、とベリーは考えた。
そこで、ハーヴィーにこう持ちかけた。「なあ、ハーヴィー。このデトロイ
トでお互い義理の兄弟同士で、別々のレコード会社をやって張り合っていても
しょうがないだろう。どうだ、君のレコード会社を私に売って、一緒にやらな
いか」
ベリー・ゴーディーは、ハーヴィーにとって魅力的な額をオファーした。こ
の申し出にハーヴィーは、かなり悩んだ。その最大のネックは、マーヴィン・
ゲイであった。ハーヴィーが、このレーベルを売るということは、マーヴィン
をも手放すことを意味した。マーヴィンは、故郷ワシントンDCを去った瞬間
から「ハーヴィーと一生の契約を結んだ」と公言してはばからなかったほどで
ある。もし、マーヴィンを含めてレーベルを売り渡せば、それはマーヴィンに
対して最大級の裏切り行為になる。
マーヴィンにこの話をすると、彼は激怒した。だが、ハーヴィーは結局、経
済的な事情もあり、ベリー・ゴーディーにすべてのアーティストを売却する。
ハーヴィーにとっても、苦渋の決断であった。
彼が振り返る。「彼は決してこのことだけは許してくれなかったなあ。何年
たっても、あのときのことはよく言われたものだ」
こうしてシンガー、マーヴィン・ゲイはハーヴィーの手から、ベリー・ゴー
ディーの元に移された。そして、今度はそのベリー・ゴーディーが、マーヴィ
ンにとって新たな父となるのである。ハーヴィーは、その鳥かごごと、ベリー・
ゴーディーに売り渡したのである。
ACT FIVE お蔵入りになった父へのメッセージ
ハーヴィーは、自分の持つレーベルをベリー・ゴーディーに売却したが、彼
は、かつてムーングロウズとして全国を周っていたことから、各地のラジオD
Jをよく知っていたので、モータウンのプロモーション・マンとして働くこと
になった。
マーヴィンは内向的な性格だったため、なかなか女の子とデートすることが
できなかったが、そんなマーヴィンに恋人ができた。
ハーヴィーの妻グエンにはアンナという姉がいて、その姉がマーヴィン・ゲ
イのことを気に入ったのである。マーヴィンとアンナが初めて会ったとき、マ
ーヴィンはまだ20歳、そのとき、すでにアンナは37歳であった。彼女は、
マーヴィン・ゲイのプライヴェートな部分でも、プロのシンガーの部分でもよ
く理解しようとし、実際だれよりも彼を理解した。
結局、63年、マーヴィンはアンナと結婚。こうして、ハーヴィーとマーヴ
ィンはそれぞれが姉妹と結婚したことによって義理の兄弟となる。「ハーヴィ
ーと一生の契約を結んだ」マーヴィンは、ある意味で、再び一つのファミリー
の中で固い絆で結ばれることになったのである。
ハーヴィーは、モータウンで、プロモーションの仕事をしながら、マーヴィ
ンのマネージャーとしても働いた。ハーヴィーにしてみれば契約をベリー・ゴ
ーディーに売り渡したせめてもの償いとして、モータウンでマーヴィンの面倒
を見ることに何ら疑問を持たなかった。また、マーヴィンも安心して自分のキ
ャリアを任せられるのはハーヴィーと、モータウンの社長ベリー・ゴーディー
だけであった。
マーヴィンは、62年に「スタバン・カインド・オブ・フェロー」がR&B
チャートで大ヒットしたのをきっかけに、その後、「プライド・アンド・ジョ
イ」(63年)、「ハウ・スイート・イット・イズ」(65年)、「アイル・
ビー・ドッグゴーン」(65年)、「エイント・ザット・ペキュリア」(65
年)など続々とヒットを飛ばし、モータウンを代表する大スターになっていく。
ハーヴィーは、70年までにモータウンを退社、インディペンデント・プロ
デューサーとしての活動を開始、RCAレコードと契約。71年にはニュー・
バース、ナイトライターズといったグループをてがけ、ヒットさせる。
それに先立つ71年2月、マーヴィンは70年代の傑作アルバムの一枚とな
る『ホワッツ・ゴーイン・オン』を発売する。このアルバムは、当時の世界の
情勢を見極めたマーヴィンが自らの言葉で、自らの内面にある心情を吐露し、
世界に対する主張を声だかに著したものだった。アルバムは大ベスト・セラー
となり、マーヴィン・ゲイは文字どおりスーパースターの座につく。アーティ
ストとしても天才の名をほしいままにし、他のミュージシャンからも比類なき
尊敬を集めるまでになった。
この『ホワッツ・ゴーイン・オン』で歌われるメッセージは、四半世紀を経
た今日でも、その異彩を放つ。子供たちを救えと歌い、環境問題を提起し、こ
れが今発売されても、まったく違和感がないほど、先見の明のある作品である。
マーヴィンは以後も、「トラブル・マン」、「レッツ・ゲット・イット・オ
ン」など続々とヒットを飛ばし、70年代前半は彼にとって、アーティストと
しても、ひとりの人間としても最高の時期であった。
しかし、社会派のメッセージ色の強い『ホワッツ・ゴーイン・オン』と、性
をあからさまに歌った「ポルノグラフィー・ソウル・ヴァージョン」とも呼べ
る『レッツ・ゲット・イット・オン』との距離間は何なのだろうか。そこには、
CBSテレビの硬派のドキュメンタリー『60ミニッツ』とケーブル・テレビ
で深夜に放映されるX指定のポルノほどの違いがある。
だが、実際はどちらもマーヴィン・ゲイなのだ。彼はそのときに社会情勢に
関心があれば、それを歌い、そのとき、セックスに没頭していれば、それを描
写し、妻とトラブルがあればその心境を歌に託した。つまり、実生活そのもの
があからさまに歌に表出するアーティストだったのである。彼にとっては、作
品とは彼の身を削り、自分をさらけ出した結果生まれるものだった。だから、
彼としては、レコードが売れる売れないは二の次だった。アーティストとして、
自分が満足できる作品を作ることが何よりも重要だった。
1972年7月8日、マーヴィンはパム・ソウヤーとグローリア・ジョーン
ズが書いた「ピース・オブ・クレイ」という曲を録音する。ゴスペル風のゆっ
たりした胸を打つバラードだ。その冒頭で、マーヴィンは懇願するように歌う。
「お父さん、自分の息子を非難するのは、やめてくれ。誰もが、それぞれの人
格を認めてもらいたいと思っている」 なんと正直なことだろう。
マーヴィンは直接、父親には語りかけられないことを、歌を通じて、メッセ
ージとして送ったのだ。彼がスタジオでこの曲を録音するとき、脳裏には、ど
うしても自分を理解してくれない父親の姿があったにちがいない。そして、何
をやってもその父親と理解しあえない無力感も、この歌には凝縮されている。
確かに、シングル・ヒット向きではない曲だ。だが、なぜかこの作品は、シン
グルのB面にも、アルバム収録の一曲にもならず、お蔵入りとなってしまった
のだ。父がこの作品を聴いたかどうかは、わからない。マーヴィンは、録音し
たものの、やはり、これを父親に聴かせることをためらったのだろうか。これ
を聴いてもらっても理解されないことが怖かったのか。結局、この作品が陽の
目を見るのは、録音から23年ものときが経った95年、マーヴィンの4枚組
ボックスセットが発売されたときのことである。
ACT SIX オスタンデへの逃避行
成功は繊細なマーヴィンに様々なプレッシャーを与えた。それに加え、70
年代中頃から、徐々にマーヴィンと妻アンナとの仲が冷え始め、それと並行し
て、レコード会社モータウンとも音楽的方向性で対立、さらにアンナの弟でモ
ータウンの社長、ベリー・ゴーディーとも衝突するようになり、文字どおり四
面楚歌の状態になっていく。マーヴィンはこうした直視したくない現実から逃
避するためドラッグへのめり込み、その結果、さらに音楽も私生活も荒廃する
という悪循環に陥ってしまった。そして、金銭面でも税金問題などのトラブル
に巻き込まれ、79年にはついに離婚する。そのことを赤裸々に歌ったのが、
アルバム『ヒア・マイ・ディア』である。
79年秋、マーヴィンは初めて日本の土を踏み、日本武道館のステージに立
った。マーヴィンは、観客席から女性を選び、ステージで一緒に踊った。それ
は、優雅にみえたが、そこに来ていた日本のファンは、マーヴィンの複雑な心
境を知るすべもなかった。彼はいったんアメリカへ戻り、すぐにイギリスに渡
った。
この頃、マーヴィンはとても金に困っていた。IRS(内国国税庁。日本で
いう税務署)から税金の追徴がきていたり、入ってきた金も、皆、慰謝料とし
て元の妻に渡っていた。しかも、彼はドラッグなどにも手を出し、キャッシュ
に事欠いていた。そこで、彼は以前からの友人に金を借りようとした。マーヴ
ィンによれば、スモーキー・ロビンソンやスティーヴィー・ワンダーなどにも
借金を申し込んだが、彼らは貸してくれなかった、という。そんなとき、ハー
ヴィーは何千ドルかを貸してくれた。
一方、ハーヴィーは、インディペンデント・プロデューサーとして、このこ
ろサンフランシスコに本拠を構え、ゲイの黒人シンガー、シルヴェスターを発
掘、スターダムにのしあげ、さらにそのシルヴェスターのバック・コーラスを
していたトゥー・トンズ・オー・ファンという巨漢の女性二人組をヒットさせ
たり相変わらず順調なキャリアを歩んでいた。トゥ・トンズ・オー・ファンは、
後にウエザー・ガールズと名前を変え、82年12月から「イッツ・レイニン
グ・メン(邦題・ハレルヤ・ハリケーン)」というヒット曲を放つ。これは日
本でも翌年ヒットした。
興味深いのは、シルヴェスターもトゥー・トンズもどちらもゴスペルに根ざ
した熱唱型のシンガーだったが、そのバックは当時流行していた典型的なディ
スコ・サウンドになっていた点である。マーヴィンが、アーティストとして自
分の内面にはいっていくのとは対照的に、ハーヴィーは、流行の先端を行くト
レンド物に走っていった。売れ線に敏感なビジネスマン、ハーヴィーらしいと
ころである。
だが、82年までに、ハーヴィーのヒット曲打率も一息ついていた。
一方、マーヴィンは、明らかにハーヴィーの元から巣立っていった。
ヒット曲を次々と出し、多くの取り巻きが持ち上げてくれたスーパースター
の時代。そのスターだった同じ人間が金に困り、古くからの友人に金を無心し
ても断られるという冷酷な現実。マーヴィン・ゲイはほんの十数年という短い
スパンにエンタテインメントの世界の、天国と地獄をかいま見ることになった
のである。
マーヴィンはすっかりアメリカに、そしてシンガーとしての生活に厭気がさ
し、傷心の旅にでかけることにした。
マーヴィンはイギリスからフェリーでベルギーのオスタンデに渡った。海峡
を渡る船の上で、波間から吹きつける風にあたっていたマーヴィンの行く手に
は、何も希望などないかのようだった。彼はすでに人生に失望していた。レコ
ーディング・アーティストとしても、思うようにならず、私生活も、妻アンナ
と別れて、心の中にぽっかりと空洞ができていた。彼にとって、その旅はあら
ゆるものからの逃避行だった。そして、自分自身をもう一度見い出すための旅
でもあった。彼は、父からだけでなく、妻から、仕事から、歌から、そして、
アメリカからの逃亡者となったのだ。ベルギーの地は、そうした逃亡者マーヴ
ィンが心を休めるのには最適な地だった。だれも、マーヴィン・ゲイのことを
知らず、ゆっくりとひとり自分だけの時間を持つことができたからである。マ
ーヴィンは、この小さな港街オスタンデで、これまでの人生を振り返った。
オスタンデの海には、ドーヴァー海峡を渡る船が行き交う。かもめや様々な
鳥たちが空を舞い、海の独特の臭いが街を覆う。多くの人たちが波止場を犬を
連れて散歩する。人口わずか8万の小さな街だが、ここではだれもが犬を飼っ
ていると思えるほど多くの犬たちに遭遇する。
地元プロモーターの助けで、海の近くに小さなアパートを借りたマーヴィン
は、ひっそりと生活を始めた。海を眺め、近くを散歩し、パブで酒を飲み、と
きにはダーツに興じた。アメリカでのクレイジーなときの流れと比べると、オ
スタンデの街でのときは、止まっているかのようにゆっくりとしていた。そし
て、徐々に結局自分ができることは音楽を作ることしかないと考えるようにな
り始めた。オスタンデのスタジオを借り、再び、自分自身の音楽を作り始める
旅が始まった。
マーヴィンは、もし自分が次のアルバムを世に出すならば、絶対にモータウ
ン以外で、しかも世界最大のレコード会社から出したいと考えるようになって
いた。そこで、彼は古くからの友人であり弁護士でもあるカーティス・ショウ
にその旨を伝え、カーティスはCBSレコードのエグゼクティヴ、ラーキン・
アーノルドに話をもちかけた。
ラーキンは、この話に興味を持ち、秘密裏にベルギーのマーヴィンを訪ね、
契約の可能性を探った。だが、ラーキンも、この契約が実現可能なものかなど
まったく予測不可能だった。
ACT SEVEN 複雑を極める契約
ラーキン・アーノルドは、1942年、ミズーリ州カンサス生まれ。マーヴ
ィンより3歳年下である。法律学校を卒業後、弁護士になり、1970年、キ
ャピトル・レコードの法律担当の弁護士に就任。その後、制作の仕事もするよ
うになり、当時まったくブラック・アーティストがいなかった同レーベルに、
ナタリー・コール、フランキー・ビヴァリー・アンド・メイズ、ピーボ・ブラ
イソンといったアーティストを迎え、成功を収めた。その後、アリスタを経て、
1980年に当時のCBSにやって来て、ルーサー・ヴァンドロスというシン
ガーを当てていたところだった。正に敏腕ディレクターである。
ラーキンが、マーヴィンとベルギーで会ったときのことをこう振り返る。「何
と言っても、彼が住んでいた状況、環境に驚かされた。彼はとても小さなアパ
ートに住んでいた。ガールフレンドがいたが、何も家具はなく、ただ一つベッ
ドがあるだけだった。私が、初めて会ったとき、彼は少し落ち込んでいた。だ
が、彼は再び新しいキャリアを築き上げようと熱望していた。そのあたりで、
とてもフラストレーションがたまっていたようだ。彼との契約では、われわれ
がモータウンに巨額の金額を払っても(マーヴィンのモータウンに残っている
契約をCBSが買い上げる、という意味)、なおそれをリクープできるかどう
か見極める必要があった。したがって、これはとてもリスキーで、そこの判断
を下すのは難しかった」
ラーキンとマーヴィンがまず話し合ったのは、彼のモータウンにおける最後
のアルバム『ヒア・マイ・ディア』についてだった。
ラーキンが振り返る。「私は、なぜあのアルバムが売れなかったのか、マー
ヴィンに尋ねた。すると、彼はこれらの作品はレコーディングが完成していな
いんだ、と言った。レコーディングの途中でモータウンがそれを取り上げ、別
の人間にミックスさせ、そして、発売してしまった、というのだ。だから、彼
が最後までこのアルバムを手がければ、もっと違ったものになっただろう、と
言った。そして、具体的に、この曲ではこんなサウンドにしたかった、これは
違っている、サックス・ソロはこうじゃない、と説明してくれた」
そして、彼がそのころ書き溜めていた新しい曲を聴くようになった。そうし
た新しい作品を聴くうちに、ラーキンはこの人物にはまだまだ輝く才能がある
と感じ始める。
ラーキン・アーノルドは、それでもマーヴィンと契約すべきか否か迷ってい
た。あまりにリスクが大きかったからだ。ラーキンは、じっくりと考えた。マ
ーヴィン・ゲイというアーティストは、個人的には最高のアーティストだと思
っていた。マーヴィンの『ホワッツ・ゴーイン・オン』のアルバムは、ラーキ
ンにすれば、ロックも、R&Bもすべてを含めて彼にとってベスト・アルバム
であった。ラーキンにとっては、それはビートルズの『サージェント・ペパー
ズ』よりも素晴らしいアルバムだった。ラーキンはこう思うようになった。
「あのアルバムは、本当に素晴らしいアルバムだった。だから、もし私が彼
のような天才を失ったら、誰かがそれを悪用するのではないかと思い始めたん
だ。彼のような人物には、ふさわしい環境さえ与えれば、必ずやクリエイティ
ヴィティーが復活するものだと信じるようになった」
こうして、ラーキンはマーヴィンと契約をする決意を固める。ラーキンは、
契約を決意するまでに、さらに2度ベルギーにマーヴィンを訪ねている。
だが、CBSの社内には、マーヴィンとの契約に反対するものが多かった。
何といっても、多額の金がかかること、様々な問題が複雑に絡み合うことなど
が大きなネックだった。そこで、ラーキンは、彼の上司でもあるウォルター・
イエトニコフ社長に交渉した。イエトニコフはラーキンに言った。
「ラーキン、君は本当にマーヴィンが新しいアルバムをプロデュースできる
と信じているのかね」
ラーキンは答えた。「イエス」
そして、彼は言った。「オーケイ、じゃあ、契約したまえ」
ラーキンがマーヴィンを信じ、イエトニコフがラーキンを信じたことによっ
て、この契約は成立した。しかし、マーヴィンとの契約は、「自分の生涯の中
でもっとも複雑な契約だった」とラーキンは振り返る。
様々に絡み合った糸を少しづつほぐしていき、ラーキンはマーヴィンとCB
Sの契約を成立させた。
こうして、マーヴィンはCBSレコード所属のアーティストとなり、アルバ
ムの制作にゴー・サインが出た。82年初めのことである。マーヴィンにとっ
ては、再出発の門出だった。
ACT EIGHT 下ろされた人生の重荷(振り出しに戻った二人の人生ゲーム)
マーヴィンは、晴れてモータウンから解き放たれ、自由になった。しかし、
新しいアルバムの制作が始まっても、彼はどうしても一つ吹っ切れなかった。
このアルバムは、もちろんモータウンを離れての移籍第一弾アルバムとなる。
多くのアメリカの音楽業界人は、もうマーヴィンの歌手生命は終わったと言っ
ていた。そこで、今度の新作は、あらゆる意味で注目されるに違いなかった。
売れようが、売れまいが、世間は好奇の目でこの作品に注目するのである。マ
ーヴィンはある意味で徐々にプレッシャーを感じていた。マーヴィンは、デイ
ヴィッド・リッツに「もし、このアルバムが売れなくて、自分がオールディー
ズのアーティストに成り下がってしまうことには耐えられない。自分は常にヘ
ッドライナー(ショウのとりを務めるメイン・アーティストの役)でなければ、
我慢できない」と漏らしている。マーヴィンには明らかに、プレッシャーがか
かってきており、そのプレッシャーを解き放ち、しかもマーヴィン本人が信頼
できる誰かの手助けが必要だった。
ラーキンは、ハーヴィーしか、この状況を救える人物はいないと考えた。そ
して、ハーヴィーに一本の電話をいれる。
「是非、これ(マーヴィンのアルバム)をあなたにやってほしい。マーヴィ
ンは、ドラッグもやっているので、彼ひとりでは完成させられない。マーヴィ
ンは、あなたに(このプロジェクトを)預けたい、と言っている」
ハーヴィーは答えた。「この前、話をしたが、まったく問題ないようだった
よ」
すると、ラーキンが「いや、彼ひとりでは完成できない」と言う。
ハーヴィーは、即答せずに、しばらく考えた。
ハーヴィーが振り返る。「僕はいろいろなことを考え直した。やはり、これ
は断るべきではないと。結局、僕はその申し出を受けた。確かに、彼は僕を必
要としている。だから、僕はこの仕事を、彼が僕に対していまだに恨んでいる、
契約を売り渡したことへの罪滅しのつもりで引き受けたんだ」
マーヴィンとハーヴィーはこうして、再び、レコードを作る上で手を組むこ
とになったのである。まだ無名だったマーヴィンに手取り足取り、ハーモニー
を教え、ステージ・マナーを教えた先輩が、再び、その教え子に手を貸すこと
になった。巣立っていったはずのマーヴィンがまた、ハーヴィーの鳥かごに戻
ってきた。それは、あたかも人生ゲームで、二人が振り出しに戻るようなもの
だった。1958年に彼らが知りあってから、24年の月日が流れた1982
年春のことであった。
ラーキンは、奇しくも、20年以上にわたってハーヴィーの心にひっかかっ
ていた人生の重荷を下ろす手助けをしたのである。
ハーヴィーは、モータウン時代からマーヴィンを知るマリリン・フリーマン
という女性を伴ってベルギーに渡った。ハーヴィーたちはベルギーに約3ヵ月
滞在する。そこで、ハーヴィーとマーヴィンは、レコーディングを忘れて人生
についてかなりシリアスな話をした。
「コーヒーはいかがですか?」 ボーイがお代わりのコーヒーをついでくれ
た。ハーヴィーはコーヒーカップを前に、テーブルに両肘をついてゆっくり話
す。その話し声は、現役のラジオDJでもできそうなほど低音の魅力的な声だ。
マーヴィンならずとも、この声には惚れ込んでしまう。
「僕達は、昔からいつも、話しだすと長い間おしゃべりをするようになって
いたが、ベルギーでは、かなりシリアスな話し合いをしたものだ。人生につい
て語り合った。なぜ、われわれは25年もの間、ずっと働きどうしなのだろう。
実際、われわれは、ずっと金を儲けなきゃ、金を稼がなきゃ、と思ってやって
きた。もちろん、年に一回のヴァケーションを取ることもあっただろう。でも
そうじゃないんだ。もはや、金は重要じゃなかった。もちろん、金があれば欲
しいものが買えるし、手に入る。だが、大事なのは、心なんだ、と。そして、
なぜ、続けなければならないのか。マーヴィンはこういう言い方をした。『な
ぜ、一旦立ち止ってバラの匂いをかいだりすることができないのか。それがで
きる間に』 そう、立ち止って人生を楽しむべきなんだ」
マーヴィンは、ハーヴィーに対してこんなことも言った。「もしも、自分の
身の上に何かが起こったら、必ず子供たちの面倒を見てくれるって約束してく
れ」
彼は音楽に関してこういう話もした。「もし、自分に何かあったら、決して、
僕の音楽をあなた以外の誰にもさわらせないでくれ」
マーヴィンにとっては、モータウンで自分の作品を勝手にいじられたことが、
アーティストとしてよほどこたえたのであろう。CBSの作品でも、モータウ
ンの古い作品でも、何かをするときには必ずハーヴィーが立ち会ってくれ、と
頼んだ。それだけ、音楽的にマーヴィンはハーヴィーのことを信頼していたわ
けである。
ハーヴィーは、こう観察する。「マーヴィンは、しばしば、『もし自分の身
に何か起こったら』という言い方をしていた。その理由はわからない。だが、
一つには彼はその頃かなりドラッグにのめり込んでいたので死を予感していた
のかもしれない」
ACT NINE 呼ばれなかった父親の名前(確信を持てた作品)
ハーヴィーとマーヴィンはレコーディングを続けた。ラーキンは、契約を決
めてからもまめにベルギーまで足を伸ばした。彼の4〜5回目の訪問時に、マ
ーヴィンは、一曲のまだ歌が入っていない作品をラーキンに聴かせた。安いリ
ズム・マシンで作り上げたリズム・パターンは、ゆったりとしたレゲエ調のも
のだった。ラーキンは、このカラオケを聴いた瞬間、確固たる自信を持った。
そして、次にラーキンがベルギーを訪れたとき、マーヴィンはその作品に歌詞
を付け、曲をほぼ完成させていた。「ゲッタップ、ゲッタップ・・・」と言っ
て始まるその歌には、「セクシュアル・ヒーリング」というタイトルがついて
いた。
ラーキンは、正直なところ、それまでは確信がなく、失敗することが怖かっ
た、と言う。だが、「セクシュアル・ヒーリング」を聴いた瞬間、この大きな
勝負に勝つだろうという確信を持ったのである。
この歌詞を書くにあたっては、デイヴィッド・リッツがヒントを出した。マ
ーヴィンの取材を精力的に続けていたデイヴィッドは、この頃ベルギーにマー
ヴィンを訪ねた。そして、彼の部屋に行ったところ、そこに何冊ものポルノグ
ラフィーがあるのを発見し、マーヴィンに「君には性的な治療(セクシュアル・
ヒーリング)が必要だね」と言ったのである。マーヴィンはこの一言に反応、
これを題材に作品を完成させたのである。
ハーヴィーは、マーヴィンが一時期、「セクシュアル・ヒーリング」の路線
で、自己の内面にある心の治癒の問題をテーマにした作品を作ろうとしたとき
に、「そんなものはやめておけ。われわれはレコードを売らなければならない
んだ」とアドヴァイスした。
ここにハーヴィーとマーヴィンの極めて対照的なキャラクターが現れている。
マーヴィンは、再びアーティスティックに、自己の内面に入ろうとしていたが、
現実路線、売れ線を求めるハーヴィーがその軌道を微妙に修正しようとしたわ
けである。
こうして、ハーヴィー、ラーキンらが見守る中、マーヴィンはアルバムを完
成させ、そのアルバムに先がけて、シングル「セクシュアル・ヒーリング」が
82年10月、リリースされた。
一回聴いただけでマーヴィン・ゲイとわかり、しかも、これまでのマーヴィ
ンのどの歌とも違う。そんな新しい「セクシュアル・ヒーリング」は、瞬く間
にアメリカのラジオ局で火がついた。ブラック・チャートでは、10週間も1
位を続け、ポップ・チャートでも3位まで行く大ヒットとなり、マーヴィンは
再び、スターの座に昇りつめた。
82年11月、彼は約3年に及ぶ逃避行に終止符を打ち、故国アメリカへ帰
る。アメリカからの、そして、歌からの逃亡者が、その逃亡生活に終止符を打
ったのだ。だが、この新たな成功と帰郷が、まったく予期せぬ事件へのカウン
トダウンになるとは、誰にもわからなかった。
アメリカは再びマーヴィンを歓迎した。それは見事な復活劇だった。レコー
ドも満足に作れず、個人的な人生でも離婚、レコード会社の移籍という荒波に
もまれ歌手生命を絶たれたと思われたシンガーが、24年前、プロの歌手にな
るときに大きな力となったその恩師の手助けによって再び、復活したのである。
彼らの人生ゲームは、輝かしい第二周目にはいったかのようだった。
83年3月。グラミー賞授賞式。マーヴィンは、「セクシュアル・ヒーリン
グ」で「ベストR&Bヴォーカル・パフォーマンス・男性部門」の賞を獲得。
リック・ジェームスとグレイス・ジョーンズからグラミーを手渡されたとき、
マーヴィンは「これを手に入れるまでに、27年間かかった」と前置きして、
多くの人々への感謝を述べた。神様、母親、スタッフたち、ハーヴィー、家族
たち。だが、その感謝の中に父親の名前だけはなかった。父親の名前は、マー
ヴィンの口からついに呼ばれなかったのだ。それは、父に対するささやかなメ
ッセージだった。マーヴィンは依然、父からの逃亡者だったのである。
マーヴィンと親しいデイヴィッド・リッツがおもしろい話を打ち明けてくれ
た。著作にも書かれているが、お互いの父親の話になったときのことだ。各人
がそれぞれの父親に電話をかけて、「愛しているよ」と言えるかを競うことに
なった。マーヴィンも、デイヴィッドも「言えるよ」と宣言した。「なら、電
話しろよ」とデイヴィッドがマーヴィンに言った。マーヴィンは、デイヴィッ
ドが先にかけたら、電話するとしりごみした。デイヴィッドが父親に電話をし、
「愛しているよ」と言った。「こんどは、君の番だ」とデイヴィッドがうなが
した。しかし、マーヴィンは、あれこれ理由をつけて、結局かけなかったので
ある。マーヴィンは、どうしても、父親に「愛している」と言えなかったので
ある。
歌からの、アメリカからの逃亡生活には終止符を打ったマーヴィンはこの「セ
クシュアル・ヒーリング」の大ヒットを従え1983年、全米ツアーに出る。
彼自身念願の「ヘッドライナー」としてのツアーだった。
ACT TEN 復讐のシナリオ ACT ELEVEN 歴史のパラドックス
マーヴィンが最大の信頼をおいたハーヴィー・フークワ。ハーヴィーは、そ
のマーヴィンのキャリアの序章から、フィナーレまでをみとった。ハーヴィー
という輝かしい鳥カゴにあこがれたマーヴィンは、その中に入り、ハーヴィー
の下で、大きく成長し、カゴの外に巣立っていった。しばらくは、大空を自由
にかけめぐったが、傷つき、再びハーヴィーの鳥カゴに戻った。そして、その
ハーヴィーの保護のもと、傷を癒し、新たな意気込みで大空に羽ばたこうかと
いう矢先に悪夢が起こった。
オスタンデへの逃避行に終止符を打ち、新たな成功を得た瞬間から、彼の人
生は急ぎ足で死というものに対し、カウントダウンしていった。二人の人生ゲ
ームの第二周目は、輝かしいというものではなく、まったく正反対の悲劇の結
末を迎えたのである。
人々が憎しみ合うことを嘆き、互いを愛しあうことを説くまさにマスターピ
ースと呼ぶにふさわしい「ホワッツ・ゴーイン・オン」が20数年たった今日
もラジオから流れる。
ハーヴィーと一生の契約を結んだと信じたマーヴィン。しかし、その一生の
契約が履行され、彼の管理下にあったならば、果たして『ホワッツ・ゴーイン・
オン』が生まれただろうか。愛を赤裸々に歌ったソウル版ポルノグラフィー『レ
ッツ・ゲット・イット・オン』が生まれただろうか。そして、こうした作品が
彼をスターダムに押し上げ、そのスターダムが彼に様々な意味で巨大なプレッ
シャーをかけた。確かに、彼の管理下にあれば、スーパースターにはならずに、
それほど大きなプレッシャーも受けずに、したがってドラッグもやることなく、
今日も生きていたかもしれない。ここにこの二人の歴史における誰もが成すす
べを持たない最大のパラドックスが存在するのである。
二人の性格はまったく違ったが、その間には、強固な兄弟愛があった。セン
シティヴで芸術家肌のマーヴィンと現実的でビジネス・マン的なハーヴィー。
だがそこには他の誰もが入り込めないブラザー同士の理解があった。ハーヴィ
ーのソウルをマーヴィンが理解し、マーヴィンのソウルをハーヴィーが理解し
た。そして、二人とも、それぞれの方法でソウル・サーチンの旅に出た。だが、
二人ともその答にたどり着いていない。マーヴィンは、その答を見い出す前に
この世を去り、ハーヴィーは、現世でそれを探し続けている。
EPILOGUE
1998年10月17日、ロス・アンジェルスの病院で、マーヴィン・ゲイ・
サーが静かに死去した。84歳だった。マーヴィンの実の父親であり、シンガ
ーの生涯に終止符を打った父親死去のニュースはほとんど報じられなかった。
父は、息子を殺してから14年間生きた。
「ミスター・ハーヴィー、ミスター・ハーヴィー。是非サインをください。あ
なたたちの大ファンなんです」 ハーヴィーは、マーヴィンがそう言いながら
初めて声をかけてきた日がつい昨日のことのように思える、と言った。
「すいません、閉店の時間です」
コーヒーハウスのボーイが我々のテーブルのところにやって来て、申し訳な
さそうに言った。時計を見ると、いつの間にか深夜の一時を過ぎていた。ふと
気がつくと、店の照明も明るくなっていた。見回すと、客は僕たち二人だけに
なっていた。映画になりそうなドラマを目の当たりに聞かされた僕は、現実に
引き戻された。チェックを済ませ、飲みかけのコーヒーを残し、ハーヴィーと
別れた。帰りの車を運転しながら、僕は東京の夜景に「ホワッツ・ゴーイン・
オン」をかぶせた。
おわり
814
P23/22
ハーヴィー・ロング・オリジナル 3
26
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