2010年05月27日(木) 00時01分00秒 soulsearchinの投稿

⊿フィリー特集(パート1): アルバム5枚紙ジャケットで発売 ~「ソウル・サーチン~ジョン・ホワ

テーマ:アーティスト関連
⊿フィリー特集(パート1): アルバム5枚紙ジャケットで発売 ~「ソウル・サーチン~ジョン・ホワイトヘッド」

【5 Classic Philly Albums Released As Paper-Sleeve CD】

紙ジャケット。

1970年代に多くの良質なソウル・アルバムをリリースしたフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルからの作品のうち5枚が、紙ジャケットとなり、2010年5月26日、日本でリリースされた。アーティストは、マクファデン&ホワイトヘッド、オージェイズ、フューチャーズ、ジョーンズ・ガールズ、そして、パティ・ラベル。フィリー・ソウル紙ジャケとしては、2010年4月にテディー・ペンダーグラスの作品群が紙ジャケットでリリースされたのに続く。

ソウル・サーチンでは、これを記念して、フィリー特集をお送りする。その第一弾は、僕にとっても大変思い入れのあるマクファデン&ホワイトヘッドのジョン・ホワイトヘッドのインタヴューに基づく「ソウル・サーチン」。ジョンの「ソウル・サーチン」は、ご存知の通り拙著『ソウル・サーチン~R&Bの心を求めて』(2000年7月刊行)の第一章を飾る作品。僕はジョンから「ソウル・サーチン」という言葉を教わった。『ソウル・サーチン』は全7編のうち4編をネット公開していたが、このジョンの物語はまだネットでは公開していなかったもの。

マクファデン&ホワイトヘッドの傑作「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」はいかにして誕生したか。彼らがいかにして売れっ子ソングライターとなっていったか。そして、ソロへの道。ジョンの回顧から、彼らの歴史を深く探る。(なお、このヴァージョンは、書籍に掲載されたものを少し短縮してあります) ぜひこのCDをお聴きなるとき、ジョンの話に耳を傾けてください。

■マクファデン&ホワイトヘッド(2010年5月26日発売=紙ジャケット)(2人とも今となっては故人。それも歴史の流れ)

マクファデン&ホワイトヘッド(紙ジャケット仕様)
マクファデン&ホワイトヘッド
SMJ (2010-05-26)
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ソ ウ ル ・ サ ー チ ン~R&Bの心を求めて

第一章:ジョン・ホワイトヘッド (パート1)

【リード】

 ソングライターとして成功を収めた一人の男。欲しいものは何でも手に入った。しかし、貧困ゆえの無知から彼は税金というものを払わなかった。税金を申告するということの重要さを知らなかった。そのため、彼は脱税で起訴され、その金額が大きかったことから刑務所入りという試練を体験する。彼の名はジョン・ホワイトヘッド。ラッグス・トゥ・リッチーズ(貧困から金持ちへ)、さらにラッグスへ舞い戻り。彼は一体、刑務所で一人になったときに自身の人生をどう振り返り、何を考えたか。その激変するソウルフルな生きざまのすべてーーー。

プロローグ ★ 回想

  「ハロー、ケヴィン。今ニューヨークにいるんだ。明日、君のオフィースに遊びに行ってもいいかな」
 「マサハル、元気か。是非来てくれ」
 ニューヨークのホテルの一室からかけた先は、ハッシュ・プロダクションのオフィース。ケヴィンは、そこのマネジャーだ。もうかれこれ、5年のつきあいになり、ニューヨークに来るチャンスがあると、一度はオフィースに遊びに行くようになっていた。そのときも、何か最新情報でもないかと思って、彼のところに電話をいれてみたのだ。
 翌日ミッドタウンの彼のオフィースに行き、しばらく談笑していると、一人のブラザーが入ってきた。ケヴィンが僕に彼を紹介してくれた。
 「ジョン・ホワイトヘッドだ。こちらは、マサハル。日本からの友人だ」
 背の高い体格のがっしりした人物だった。 「ジョン・ホワイトヘッド...。ひょっとして、あなたはマクファーデン・アンド・ホワイトヘッドのジョン・ホワイトヘッドですか?」
 「オウ、そうだよ」
 「時間、ありますか? インタヴューしてもいいかな?」
 「ああ、いいよ」
 あらかじめ予定され、時間が決められているインタヴューから必ずしも面白い話が聞けるとは限らない。一方、まったく予期せぬところで、インタヴューが始まり、その話が非常に面白いこともある。準備万端で臨んだインタヴューが盛り上がらず、ほとんど準備なしにぶっつけ本番で臨んだインタヴューから素晴らしいストーリーが聞ける時もある。たとえ同じ人物にインタヴューしても、二度と同じインタヴューはない。インタヴューは、瞬時に変化していくまさに生き物だ。生き物を相手にして行くからおもしろい。質問から未知の答えが引き出され、さらにその答えが次の質問の呼び水となる。だから、インタヴューはスリルと興奮に満ちた生き物だ。
 こうして、部屋を移して、彼との予期せぬインタヴューが始まった。彼が自分のキャリアを順序だてて回想し始めた。

  アメリカ建国の都市、フィラデルフィアは愛称を「シティー・オブ・ブラザリー・ラヴ」(兄弟愛の街)」という。ニューヨークからも電車で約2時間の距離にある。多くの観光客が、アメリカ発祥の地を見ようと、フィラデルフィアを訪れる。そのフィラデルフィアの中心地にサーティース・ストリート・ステーションがある。ニューヨークで言えば、グランド・セントラル・ステーションのようなあらゆる列車の出発点であり、アムトラックの長距離列車や市内の電車などが忙しく行き交う全米で二番目に乗降客が多い駅である。特急(「エキスプレス」)もあれば、各駅停車(「ローカル」)もある。特急が、各駅停車を抜かすとき、各駅停車は側線で待機し、特急が行きすぎるのを待つ。それは、人生にも似ている。ある者は、早く早く目的地に着こうと急ぐ。ある者は、急がず、ゆっくりと各駅停車で人生を歩む。また、ある者は、間違いを犯し、本線から外れてしまうこともある。
  この物語の主人公、ジョン・ホワイトヘッドも、そのサーティース・ステーションから「栄光」という名の終着駅に向かって列車に飛び乗った男の一人だった。
 ジョン・ホワイトヘッド(1948年7月10日生まれ)とジーン・マクファーデン(1949年7月2日生まれ=1948年生まれ説も)は、フィラデルフィアの小学校からの親友同士。二人とも1960年代のスーパースター、オーティス・レディングの大ファンで、彼のバック・コーラスや前座を務めたこともあった。二人はオーティスが1967年12月、不慮の飛行機事故で死亡する前に故郷に戻ってきており、以後はフィラデルフィアでシンガーとしてのキャリアを目指していた。彼らは地元の有力プロデューサー、ケニー・ギャンブルとリオン・ハフのコンビと知り合い、彼のもとで働くようになった。1971年のことである。
 最初はレコーディング・アーティストとしてやってみようと思った彼らだが、なかなかヒットにも恵まれず、彼ら二人は、ギャンブル・アンド・ハフの元で、雑用の仕事をするようになった。そして、そのオフィースでジョンとジーンは彼らが曲作りをする方法を逐一観察するようになった。
 その頃、彼ら二人は同じ安アパートに住んでいた。ジーンが15階、ジョンは4階の住人だった。あるとき仕事が終わってジョンがジーンの所に遊びにいった。
 「なあ、ジーン。彼らは毎日曲を書いているよな。だけどオレたちもあれなら出来るぜ。毎日見てるが簡単なもんだ。彼らがやっていることといえば、何か適当なタイトルを見つけ、それに曲をつけるだけだ。リオン・ハフがこんな事を言っていた。『最高にいいタイトルはワン・ワード(一語)のタイトルだ』とね。なぜならすぐに覚えられるからだ。そこでまずタイトルを何か決め、そしてそれにストーリーをつけ加えればいいんだ」
 ジーンは、なるほど、とうなずく。
 二人はキッチン・テーブルに座り、ジョンはそこらへんの紙切れに歌詞を書き始めた。その頃、ある男がジョンの妻に言い寄っていたことを思い出して、そんな話を歌にしようと思った。タイトルはその場で思い付いたあるワン・ワードを元に曲を作り始めた。ジーンはギターを持ってブルージーな音を出し始めた。彼は「何かを持っている君たち、充分に注意しろ。微笑みの陰にそれを奪おうとしている奴がいるかもしれない」といったようなことを歌い始めた。
 ジーンが「これは素晴らしいな」と言う。そして、ジョンが「よし、これを明日ハフたちに聴かせようじゃないか」と言って翌日彼らが初めて書いた曲をハフに聴かせることにしたのである。

ACT 1 ★ ハフへの売り込み

 ジョンは翌朝、ズボンのポケットに汚い紙切れを忍ばせ、リオン・ハフがオフィースにやって来るのを待ち受けた。ソワソワしながら待つジョンは仕事も手に付かない。そして遂に彼がやって来た。
 ジョンがオフィースのドアをノックし「ハフさん、あなたに是非聴いていただきたい曲があるんですが」と言った。返事はなかった。
 ジョンはことを慎重に進めた。ハフはオフィースから廊下に出て、ソーダの自動販売機の方に歩きはじめた。ジョンはその後ろにぴったりとくっついた。
 「ミスター・ハフ、昨晩1曲書いたんです」とジョン。
 ハフは低い声で「おお、そうか」と興味無さそうに言う。そして、「それは強力な物かね」と尋ねる。
 ジョンは「もちろんですとも」と言い、すぐにポケットからその紙切れを出し、その歌詞を早口で読み始めた。その間もハフは自動販売機からソーダを取り出そうとしている。そして、ハフがオフィースに戻り始めるとジョンは、また後ろについて歌詞を読んだのだった。
 ハフが彼のオフィースのドア・ノブに手をかけると、やにわにジョンの方に振り向き、「では見せてもらおうか」と言った。
 ジョンはハフにその殴り書きした歌詞を見せた。ハフは言う。
 「こいつはかなりいいようだな。まあ、中にはいれ」
 ジョンはあわてて「ちょっと待ってください。ジーンをすぐ呼んできますから」と言って別の階にいたジーンのところに走っていった。
 ジョンはハフの声色を真似て語る。そして、まるで、昨日のことのように一言一言を流暢に話す。
  ハフはジーンが来るとまもなくピアノの前に座り、その曲のイントロとなるであろう部分を弾き出した。それは何か起こりそうなほどスリリングなイントロだった。そして、ハフはこの歌詞にまったく新しいメロディをつけたのだ。それは実に素晴らしい出来で、ジーンもジョンも自分たちの曲がこんなにエキサイティングに変貌する様を目のあたりにして感激したのである。
 ジョンは秘かにハフが「お前たち、この曲をレコーディングしたいか」と言ってくれることを期待した。しかし、ハフはそうは言わなかった。ちょうどそんなときケニー・ギャンブルが部屋にはいってきた。ハフがギャンブルにこう言った。
 「ギャンブ、これはすごい曲だぜ。こいつを聴いてくれ」と言って、ギャンブルに聴かせると彼もすっかりこれが気に入った。
 ジョンが言った。
 「オレたちでこの曲をレコーディングしたいんですが」
 ハフはこう言った。「この曲が誰にいいと思うかね?」
 「さあ」とジョン。
 「実は、これをオージェイズにレコーディングさせようと思っとるんだ」とハフ。
 「オージェイズだって?」
 ジョンは一体どこのグループだといわんばかりに、けげんそうに答えた。何しろオージェイズといったところで若干のヒットはあったが、当時はまだ誰も知らないようなグループだったからだ。しかし、ハフは彼らを説得、ジョンとジーンも、レコードの曲名の下にきちんと作者としての名前が出ればそれも良いだろう、ということでこれを了承した。
 彼らが作った曲のワン・ワードのタイトルは「バックスタバーズ(裏切り者)」。そして、これをオージェイズがレコーディングすることになったのである。
 それから何週間かしてオージェイズがフィラデルフィアにやって来てこの曲をレコーディングすることになった。
 フィラデルフィアのシグマ・サウンド・スタジオ。オージェイズの面々は最初にスタジオにはいってこの楽譜を見ると「こんな曲は歌えん」とそれを床に放り投げたのである。ジョンたちは「ちょっと待て。何でオレたちの曲にそんな事をするんだ」とカっときた。 ギャンブルがオージェイズたちにこう言ってたしなめた。
 「いいか、君らはまだゴールド・レコード(100万枚売れたシングル)さえ持っていないのだろう。この曲がどうなるかなんて君たちにわかるのかね」
 メンバーはしぶしぶ床から楽譜を拾い、彼らはこの「バックスタバーズ」をレコーディングしたのである。1972年初めのことだった。
 この話を後にオージェイズが来日した時に確かめると、リーダー格のエディ・リヴァートが笑いながら、彼らのヴァージョンを話してくれた。
 「ジョンがそう言ったか。いや、あれはそういうつもりじゃなかったんだ。ちょうど、ピアノの上に楽譜を置いたら、エア・コンディションの空気がそれに当たって、床に落ちたのさ。ハハハ!」

ACT 2 ★  ビハインド・ザ・シーンのヒット・メイカー

 ジョンの話にも熱がはいってくる。
 ジョンの話は、理路整然としていて、非常に面白い。しかも起承転結がはっきりしている。身ぶり手ぶりを交えながら、自らの半生を語る文字通り語り部だ。
 この頃、ギャンブルとハフの二人はメジャーのCBSレコーズとレコードの制作配給契約を結び、かなりの予算を持っていた。そこで彼らは自分たちの「フィラデルフィア・インターナショナル・レコーズ」に次々と新しいアーティストを獲得しては、どんどん新曲をレコーディングさせていたのである。そしてオージェイズのセッションもそんな一つであった。
 劇的なピアノのイントロ、そして、たたみかけるようなオージェイズのコーラスを持った気持ちのいいミディアム・テンポのこの「バックスタバーズ」は1972年7月にアメリカで発売されると瞬く間に全米チャートをかけ昇り、ソウル・チャートで一位になり、ポップ・チャートでも3位まで行き、ミリオン・セラーを記録する大ヒットとなった。もちろん、これはフィラデルフィア・インターショナル・レコーズにとっても、プロデューサー、ギャンブル・アンド・ハフにとっても、そしてルーキー作曲家チーム、ジーン・マクファーデンとジョン・ホワイトヘッドにとっても記念すべき初の大ヒットとなった。
 ジョンとジーンは初めて書いた曲が大ヒットとなり、ギャンブル・アンド・ハフも彼らにさらに多くのチャンスを与えてくれるようになった。彼らはオージェイズのアルバムに収められる曲も何曲か書いて、一躍ソングライターとして脚光を浴びるようになった。
  二人はこれを期にフィラデルフィアのそのほかのアーティスト、イントゥルーダーズ、テディー・ペンダーグラス、ジーン・カーンなど多くのアーティストらにも曲を提供、さらにプロデュースもてがけるようになり、ステージに立つアーティストとしてではなく、ビハインド・ザ・シーンで活動するヒット・メイカーとして売れっ子となっていった。
 アメリカの音楽業界におけるソングライターあるいはプロデューサーたちの成功した場合の収入は、桁外れである。アルバム一枚をプロデュースし、仮にそのアルバムが50万枚のゴールド・ディスクに輝いたとすれば、それだけで、少なくとも郊外に一軒家は買えるほどの小切手が送られてくる。そして、1972年以降、彼らはソングライターとして売れ、収入も劇的に増えたのである。
 ジョンは曲がヒットして四半期ごとに小切手を貰うとそのたびに大喜びし、彼は身の回りを飾るものを買い、車を最新式のものにし、チェックの額が大きくなると、ついには家まで買った。彼はどんどんと物質的なものに執着していったのである。食べるのにさえ困った時期があった彼からすれば、ある日突然何でも欲しいものが手に入れられるだけの収入が入ってくれば、それを物質的なものに変えていくのも自然な成り行きだった。彼にとっては、物質的なもの、それこそが成功の象徴だったからだ。
 僕は、多くのアフリカン・アメリカン(アフリカ系アメリカ人)のアルバムのジャケット・カヴァーに、しばしば、リンカーン・コンティネンタルのような高級車や、何カラットもする大きなダイアモンドや、ゴールドものが登場するのを見て、彼らにとって成功の象徴とは、まず、そうしたものなのだな、ということを強く感じる。そして、そうした心の動きを「ソウル的な生きざま」と表現すれば、ジョン・ホワイトヘッドの生きざまはまさしくソウル的だった。

(「ソウル・サーチン」~ジョン・ホワイトヘッドの項パート2に続く)

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ENT>ARTIST>Whitehead, John

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