NO.237
2003/04/27 (Sun)
About good at piano
上手。

ピアノがうまいということについて。それは一体どういうことなんでしょう。上手に弾けました、と人が言うとき、それは何を基準に上手に弾けた、というのでしょうか。別の人より上手に弾けた、さっきの演奏より上手に弾けた、ってこと? 

まあ、一般的には練習の積み重ねによって「滑らかに弾けた」とか「指がひっかからずに弾けた」とか、「感情がよくこもっていました」とか、「ミスタッチがなかった」という状態になると、だいたいの場合「うまく弾けた」ってことなんでしょうね。

ふと、深町純さんのピアノを聞いていて、そんなことを考えてしまいました。というのは、彼の演奏は常に「即興演奏」なんですね。だから次にどんな音が出るのか、だれにも予想はできない。楽譜などもなければ、その曲を「練習」するなんてことは絶対にできない。

彼に、「即興演奏って、どうやって練習するんですか」と聞いた人がいるという笑えるようで笑えない話がある。まあ、せいぜい、指の動きを、運動選手がアップするように、準備運動するとか、スケールをちょこっと練習するとか、基本的な練習というか、そういうようなものはあるでしょう。しかし、即興演奏は、練習できない。練習したら、もう即興ではないわけですから。これができるできないは、本当に彼が言うとおりセンスですね。

で、なんでそんなことを思ったかというと、深町さんが楽譜におこした彼自身の古いオリジナル曲を演奏したのを聞いたからなんですね。もう20年前くらいの時代劇のテーマ曲ということだったんですが、それを聞いていて、「深町さん、ピアノうまいなあ」なんて思ったんです。(すいません、ばかなこと感じて。プロのピアニストに対して失礼ですが)

自分でも、なんでそう思ったのかがよくわからない。彼の場合は非常に特殊で、即興演奏ありきで、そういうのばかり、僕たちは聞かされている。そこにぽっと楽譜曲、既存曲を演奏されると、なにか違うものが生まれる。というか、感じられる。やはり、うまいという概念は、なにか自分(聞き手)が知っているものと比べて、それより上手にできるとうまい、とか考えるのでしょうか。でも、その曲は僕は初めて聞いたんですけどね。あるいは弾き手も何度も弾いていて、あるいは「練習」していて、完成度が高かったのでしょうか。

彼の即興演奏を聞いていて、上手とか、もちろん時にはそう思うこともありますが、あんまり感じない。それ以上に感じるのは、すごい、とか、イマジネーションを広げてくれる演奏だ、とか、そのときの、こちらの感情とか、あるいは弾き手の感情なんかが伝わってきます。それは悲しみであったり、怒りであったり、遊びだったり、あらゆる種類の感情のような気がする。

もちろん、彼が「喜び」を感じながら弾いているメロディーを、聞き手が「悲しみ」を感じながら聞くことだってあるかもしれない。それはそれでまったく自由だ。ひとつだけ確実なことは、彼のピアノには聞き手のイマジネーションをくすぐる、刺激する「余白」が非常に多い、ということです。CDになっているような既存曲にはなかなかそうした「余白」がない。

ところが既存曲を弾いていた彼を見て、聞いて、ああプロの職業ピアニストだな、と感じた。うまいな、と思った。当たり前といえば当たり前ですか。何をいまさら、ですかね。

深町さん本人も「即興と楽譜のある曲は、何か違うよね」と言っています。違うんですよねえ。何が違うんでしょう。

楽譜を見ながら弾いているところを見て、僕が驚いちゃったのかな。やはり既存の枠の中で弾いていると、うまい下手というのが、感じられるのかな。いつも知らない即興曲を聴いているからうまいか、下手かなんて感じないのだろうか。よく知ってる曲を弾かれたら、あ〜うまい〜〜なんて思うのでしょうか。うまいって一体何? あ〜よくわからなくなってきた・・・。

今日はまとまりません。

Diary Archives by MASAHARU YOSHIOKA
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