NO.187
2003/03/14 (Fri)
Music: Between the lines of time
架け橋。

1973年3月。ブエノスアイレス、午前8時。

その彼は、父親の仕事の関係で南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスにいた。13歳、地元のインターナショナル学校に通っていた。通うといっても、毎日車が迎えにやってきて、日本人の子供たちを学校まで連れていくことになっていた。ドライヴァーは地元のアルゼンチン人。道筋の関係で、彼が一番最初に拾われ、その後いくつかの家で生徒を乗せ、学校まで送られた。

ドライヴァーはよくラジオをつけていた。朝8時、彼が車に乗ると、いつものとおりカーラジオから音楽が流れていた。シールズ&クロフツの「サマー・ブリーズ」(アメリカで72年9月からヒット)だった。長くスペインの支配下にあったアルゼンチンは、スペイン語が公用語。しかし、この国の人々はスペイン語を「エスパニョール」とは言わず、「カステジャーノ」と呼ぶ。アルゼンチン人のプライドか。ラジオのDJは、カステジャーノ(スペイン語)でアメリカの音楽を紹介する。アルゼンチンに来たばかりの彼にとってはすべてがカルチャーショックだった。

車で流れていたのは、アメリカのトップ40ヒットをかけるラジオ局だった。続いて、ハリケーン・スミスの「オー・ベイブ・ホワット・ウド・ユー・セイ」がかかった。イギリス人で、元々ピンク・フロイドの初期のアルバムをプロデュースし、ビートルズの作品のエンジニアも担当したことがある人物が、ほとんど遊びで作った曲がこの「オー・ベイブ・・・」だった。アメリカでは72年12月からヒットし、アルゼンチンでもすでにブレイクしていた。

そして、それに続いてDJがかけた曲にその13歳の少年は衝撃を受けた。軽いキーボードから始まるミディアム調の曲。男性ヴォーカルが入り、続いて女性ヴォーカルがからみ、そして、また別の男性の声が歌い始めた。その彼が振り返る。

「いやあ、なんかものすごいことが起こってるなって感じたんです。それまでの音楽とまったく違う、なにか新しいものが生まれてきた、って。誰が歌ってるかなんか聞き取れませんよ。スペイン語っぽいなまりだし。なんとかワンダルーとか、言ってたかもしれない。でも、その時の印象っていうのは、今でも鮮明に覚えてるんです。ブエノスアイレスの朝8時の空気、匂い、気温、車から見た景色も。その曲を聞くと、まさにあの瞬間がよみがえるんです。そのあとに、スティーラーズ・ホイールというグループの『スタック・イン・ザ・ミドル・ウィズ・ユー』(アメリカで73年3月からヒット)っていう曲がかかったんですね。この4曲の流れが、ものすごく印象に残っていたんですが、特にその3曲目がね。抜群に違っていた。何かが変わり始めてることをアルゼンチンで感じたっていうところが、今から考えるとおもしろいとは思うんですけどね」

アルゼンチンは南半球ゆえに、3月というと少しずつ冬に向かっていく時期だった。「徐々に寒くなっていき始めた季節だったと思う。ちょうど3月にアルゼンチンに一家で引っ越してきたんです。ブエノスアイレスに来て、まもなくのことだったから、余計に覚えてるのかもしれません」と彼は言う。そう、その彼が衝撃を受けた曲というのが、スティーヴィー・ワンダーの「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」だった。彼にとってその曲は、ブエノスアイレスの冬に移りゆく冷たい空気とともに記憶されることになったのだ。

2003年3月。東京・武蔵小山、午前2時。

二階をぶち抜いたために天井が高くなっている薄暗いソウルバー。その日は他に彼と僕以外に客はいなかったので、少しだけわがままなリクエストができた。彼はちょうどしばらく前に購入したばかりの紙ジャケット仕様のスティーヴィーのアルバム 『フルファイリングネス・ファースト・フィナーレ』 をマスターに手渡して言った。「この中の『クリーピン』がいいんですよねえ。5曲目からお願いできますか」 こうして、彼はスティーヴィーのジャケットを見ながら、ブエノスアイレスの話をしてくれたのだ。

「当時、僕はスティーヴィーというと『迷信(スーパースティション)』(アルバムは、『ファースト・フィナーレ』の2枚前の『トーキング・ブック』)しか知らなかった。で、最初この『サンシャイン』も誰が歌っているのかわからなかった。その後、スティーヴィーとわかっても、あの『迷信』と同じ人物とはとても思えなかったんですよ。あまりに曲調が違うでしょう」

ソウルバーから心地よい音量で流れる『ファースト・フィナーレ』のアルバムは、「ユー・ハヴント・ダン・ナッシン(邦題、悪夢)」になり、そして、次の「イット・エイント・ノー・ユーズ」になっていた。「これ、これ。これも最高ですねえ。いい曲ですよねえ。涙でちゃいますねえ」

「僕たちはさよならを言わなければならない。バイバイ・・・。どうして僕たちが別れなければならなくなったのか、じっくり考えてみた。つまり僕たちは、燃え尽きたんだ。でも、さよならを言うのは辛い。僕は泣けてくる。うまくいくように一生懸命努力したけれど、うまくいかなかったようだ。さよなら、もう僕は力尽きたみたいだ」(イット・エイント・ノー・ユーズ) スティーヴィーお得意の失恋ソングだ。意味がわからなくとも、悲しい気持ちが伝わってくる。これこそスティーヴィーのマジックだ。

「イット・エイント・ノー・ユーズ」は、「バイバイ、ベイビー」という歌詞できっちりカットアウトで終わる。そして、それが終わるやマスターは「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」をかけてくれた。

きっとその瞬間、彼のまぶたには、30年前のブエノスアイレス午前8時の情景が浮かんでいただろう。

音楽は時代の架け橋だ。

Music: Between the lines of time!



Diary Archives by MASAHARU YOSHIOKA
|Return|