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ノラ・ジョーンズ・ライヴ 『ヴェイカントな夜』

ノラ・ジョーンズ・ライヴ  『ヴェイカントな夜』

ノラ・ジョーンズ・ライヴ
『ヴェイカントな夜』
【2002年9月7日土曜・東京国際フォーラム・ホールC】


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   春。

   彼はCDをいれながら助手席の彼女に言った。
   「新しいシンガーでノラ・ジョーンズっていうの。ジャズっぽく
て、でもぎんぎんにジャズまで行かなくて、適度に都会的でおしゃ
れで、しかも聴きやすいでしょう」
   ギターとピアノがいい味わいを出す1曲目の「ドント・ノウ・ホ
ワイ」が車内に静かに響いた。
   彼女は答えた。「そうね、いいわね。気に入ったわ」
   彼はそのCDをプレゼントした。以来ノラ・ジョーンズの落ち着
いた歌声はふたりの時間をやさしく包みこむようになった。車の中
で、彼女の部屋で、彼の部屋で、時にはカフェで。

   「ドキドキしているのは蒼い月のせいではない。はらはらしてい
るのも、ときめいているのも、あなたが傍にいるから」とノラが歌
うスタンダードの「ニアネス・オブ・ユー」を聴きながら、彼は彼
女の手を握った。
   ノラの歌声はふたりにとって甘い愛そのもののように思えた。

   夏。

   「ノラが来日するんだって」
   「行きたい、行きたい」
   「じゃあ、絶対行こうね」
   彼はチケットを2枚買い1枚を彼女に手渡した。
   そのときオープン・カフェで偶然流れてきたのはノラの「カム・
アウェイ・ウィズ・ミー」だった。「一緒に行きましょう、山の頂
上でキスするの、一緒に行きましょう」
   ふたりは目を合わせて驚いた。

   秋。

   真っ白で統一されたイタリアン・レストランで、しばらく黙って
いた彼女は、下をむいたまま小さな声でつぶやいた。「私、好きな
人ができたの」
   彼が持っていたフォークとナイフの動きが止まった。「え、なん
で?  やり直せないのかな」
   「わからない・・・」
   しばしの沈黙がふたりに重苦しい空気をかぶせる。
   「じゃあ、こうしよう。今度のノラのライヴ、もう一度やり直せ
ると思ったら、ライヴに来て。だめだと思ったら、来なくていいよ
・・・」
   懇願するように彼は小さくつぶやいた。「でも、待ってるよ」

   ノラのライヴは、ドラム、ギター、ベース、そしてピアノという
シンプルな構成でほとんどCDと同じ音を聞かせた。ゆったりとリ
ラックスした曲調が時の流れにブレーキをかけるかのようだ。ライ
ヴが始まってもまだ彼女は到着しない。彼の「時間よ止まれ」とい
う願いとは裏腹に次々とプログラムが進んでいく。超満員の会場の
中で彼の隣の座席だけがぽっかりと空いたまま。気のせいかやけに
カップルの姿が目につく。

   ステージにノラだけが残り、たったひとりでピアノの弾き語りで
歌い始めた「ニアネス・オブ・ユー」。頭上から一本のピンスポッ
トが彼女を照らす。だが、彼の傍に彼女は座っていない。

   ハスキーなノラの声が次第に空しく彼の胸に響きだす。CDにな
っていない彼女のヴァージョンによる「テネシー・ワルツ」が最後
のアンコール曲として歌われ、観客のほとんどが満足げに席を後に
した。結局誰にも座られることがなかった隣席をちらりと見ながら
、彼はそれでもその場を一歩も動こうとしなかった。彼にとってか
つて甘く愛が感じられたあの同じノラの歌声は今この瞬間、ほろ苦
いものになっていた・・・。

   ヴェイカント(空席の、空虚な)な有楽町の夜。

【2002年9月7日土曜・東京国際フォーラム・ホールC】

(吉岡正晴)

(2002年9月18日アップ)

    
MASAHARU YOSHIOKA
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