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レイ・チャールズ『ジーニアス・オブ・ソウル』
cover
レイ・チャールズ
『ジーニアス・オブ・ソウル』
原題 Genius Of Soul

ビデオアーツ(廃盤=ライナーは、ビデオアーツ盤に書いたもので 、それを日本コロンビア発売のDVDに転載しました)
日本コロンビア
COBY 90049

1999年02月20日発売
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   今度あなたの映像ライブラリーに加わることになった一枚(一本
)のLD(ビデオ・テープ)をご紹介します。

   レイ・チャールズの『ジーニアス・オブ・ソウル』


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ゴスペル、ジャズ、ソウル、カントリー&ウエスタン。あらゆるジ
ャンルの音楽をクロスオーバーさせた天才レイ・チャールズ
______________________________

   「ソウル・ミュージック」という概念をアメリカ音楽の歴史に定
着させ、その「ソウル」の世界を代表するだけでなく、「アメリカ
ン・ポピュラー・ミュージック」の世界をも代表することになった
偉大な存在、レイ・チャールズ。ビリー・ジョエルが、ドクター・
ジョンが、ウイリー・ネルソンが、ありとあらゆるタイプのミュー
ジシャンからあこがれられ、好かれてきたレイ・チャールズ。50年
代から一線で活躍し、90年代の今日まで、たゆまぬ前進を続けるレ
イ・チャールズ。アメリカだけでなく、日本、ヨーロッパなど世界
中を旅するミュージシャン、レイ・チャールズ。そんなレイ・チャ
ールズの、初めてのドキュメンタリーが完成した。プログラムの中
身はじっくりと御覧いただくとして、ここでは、ビデオでは触れら
れない部分も含めてレイ・チャールズのこれまでの軌跡を振り返っ
てみよう。

ACT  ONE  7 歳で盲目に、15歳で孤児に

   レイ・チャールズ、彼はかつてこう言ったことがある。「人生に
トラブルは必ずいつかやって来る。  それが若い時か、中年の頃か
ら、年老いてからかはわからない。だが、それは必ず訪れるのだ」

   そして、レイの場合、人生のトラブル、悩み、問題、苦悩といっ
たものは、人生の初期に集中した。

   レイは本名レイ・チャールズ・ロビンソンといい、1930年9 月23
日(ほかに32年説があるが、30年説が信憑性が高い)、ジョージア
州アルバニーという街に生まれた。彼が子供の頃一家でフロリダ州
にグリーンヴィルへ移り住む。父親は鉄道労働者で、子供のレイに
はまた全く関心もなく、家にもあまり寄り付かなかった。  もちろ
ん、彼の一家は貧乏だった。だが、母親は子供達の面倒をよくみて
くれたので、レイ自身はその頃は幸せだったと振り返る。

   しかも、この頃彼にはしっかりと視力があった。レイは、隣に住
んでいたおじさんの顔や、両親そして2歳年上の兄の顔も覚えてい
る。しかも、5歳の頃、レイは悲劇を目撃する。母親は、いつも子
供達をお風呂に入れていたが、ある日、母親がちょっと目を離した
すきに弟がそのなかで溺れ死んでしまったのである。そのショック
ののち、彼は緑内障をわずらうようになり、6歳の頃から視力を徐
々に失いだし、7歳のときには完全に失明してしまった。

   失意の両親は、彼をまもなく、セント・オウガスティンの目と口
が不自由な人のための学校に入れる。レイは、そこで文字の読み書
き、音楽の基礎などを点字で学ぶようになる。レイは点字で楽譜を
読み書きすることを学習し、それだけでなく、ピアノ、サックス、
クラリネット、トランペットなどありとあらゆる楽器をマスターし
た。

   彼のこの頃の音楽的な影響は、ショパン、シベリウスなどのクラ
ッシックから、アート・テイタム、アーティー・ショウなどのジャ
ズ・アーティストまで実に幅広かった。この時期、レイは音楽こそ
が人生になりはじめていたが、レイにピアノを弾くことを強く勇気
付けた近くのグリーンヴィルにある「レッド・ウイング・カフェ」
というピアノ・バーのワイリー・ピットマンの名前も、大きな影響
を受けた人物として上げられる。

   レイ・チャールズの幼少時代は、非常に暗かった。弟の溺死を目
撃し、自身は失明。さらに、レイが聾唖学校に入学後、育ててくれ
た実母が1944年5月この世を去る。レイには父の記憶がほとんどな
い。こうしてレイ・チャールズ少年はわずか15歳で、世界にたった
一人だけ残された孤児となってしまった。1945年のことである。し
かも、孤児で、盲目で、さらに黒人という当時としては、充分な三
重苦を背負ってレイ・チャールズは生きていかなければならなかっ
た。

   父親は滅多に家に居らず、レイは母親に育てられた。失明した後
も母親が様々な面倒を見てくれた。だが、その母が死んだ。母の死
は、レイのその後の人生にとっても大きなターニング・ポイントと
なった。レイにとっては、母なしの人生というものは考えられらな
かったし、考えたところで、それはとてつもなく恐ろしいもののよ
うに感じられた。レイがそのときの気持ちをこう語る。

   「ワシは、  母の死という事実と面と向かって立ち向かえなかっ
た。死の現実というものと立ち向かえなかったのだ。母親が死んだ
後の夏はワシにとってターニング・ポイントだった。ワシは、自分
自身で決意しなければならなかった。自分自身の行く道、自分自身
の時を考えなければならなかった。その沈黙の数日間は、ワシ自身
を強くした。そして、  その強さを、ワシは以後の人生にずっと持
ち続けているんだ」

   その時の孤独感は、想像を絶するものがあっただろう。ファミリ
ーを失い、視力を失い、真っ暗やみの世界にただ一人。友達も出来
なかった。彼は人生のトラブルを一挙にしょい込んだ。レイ・チャ
ールズは、その頃のことをさらにこう振り返る。

   「ワシはシャイな男だったなあ。他のだれにも迷惑をかけたくな
かったからな。つまり、ワシは、人が好きじゃなかったから、人と
接触しようとしなかったんだ。それは本性みたいなもんだ。子供の
頃から、ワシはいつも一人で遊んでいた。別にいろいろ分析しよう
というのではなく、単に事実を述べようとしているだけなんだが、
要するに他の子供達は目が見えるから、いろいろなゲームが出来る
だろ。それにワシは参加出来ないわけだからな。そこでワシは一人
遊びの方法を学び、  それにすっかり慣れっこになったというわけ
だ。そうなれば、何だってできたさ」

   彼にとって唯一心置きなく熱中出来るものが、音楽だった。彼は
言う。「肘や腕や脛(すね)がワシの体にくっついているように、
音楽はワシの体の一部だ。ワシの血だ」

   彼は、学費を出すことも出来なかったので、学校を辞め、プロの
ミュージシャンとしてやっていかざるを得なかった。音楽を演奏し
て、金を稼ぎ、部屋を借り、食事をして、つまり、自立しなければ
ならなくなったのである。彼は、まず南部のジャクソンヴィルに引
越し、そこをベースにしばらく音楽活動を始めた。

   幸運なことに彼は、楽譜が読めた(!)ので、プロのミュージシ
ャンとしての仕事を得ることができた。レイはまずカウント・ベイ
シー・スタイルのビッグ・バンドにはいり、それ以後、いくつかの
バンドを転々とする。ルイ・ジョーダン・タイプの小さなバンド、
フロリダ州タンパでは、フロリダ・プレイボーイズというヒルビリ
ーのグループに参加、ここでヨーデルを学んだ。彼は、ジャズ、ヘ
ヴィーな音楽(当時はもちろんロックやソウルなどという呼び名は
なかった)、ロマンティックな音楽(例えば、フランク・シナトラ
のような今でいうイージー・リスニング・ヴォーカル的なもの)、
そしてクラシックなどまで、仕事があれば、何でも引き受けた。

   彼は18歳(1948年)までに、当時の金額でなんと600 ドルもの貯
金をした。一日10ドルもあれば楽に暮せた時期の 600ドルであり、
それは大変なお金だった。レイは、これをもって、その南部の土地
から可能な限り遠くの土地に引っ越そうとした。そこで、選ばれた
地がアメリカ西北部ワシントン州のシアトルだった。

ACT  TWO  新天地シアトルへ

   レイのそれまでの3年間は、苦難の連続だった。様々な困難に遭
遇し、時には、死にそうになったこともある。  人種差別も体験し
た。だが、いつも自分自身でなんとか道を切り開いてやって来た。
彼は「決して、哀れみを求めたり、人に物乞いなどする必要はなか
った」といい切る。レイにとって、シアトルとはどんな意味があっ
たのだろうか。

   レイ自身がこう記している。「私はフロリダでやるべきことは充
分出来たと思った。そして、何か次のステップに進むべき時期が来
ていたと感じていた。いつでも次のステップに進む。それが私のス
タイルだ。だが、シアトルについては何も知らなかった。中規模の
都市で、何とかやっていけそうな土地、そんな感じがしていた。き
っと、私自身ニューヨークやシカゴ、LAといった大都市が怖かっ
たのだろう。もちろんどうやって生きていけばいいかは知っている
つもりだったが、私のどこかにカントリー・ボーイの血が流れてい
たのだと思う」

   1948年、彼はこうして新天地シアトルに引越し、ミュージシャン
としてクラブなどで新たな再出発をはかる。その頃までに、レイは
既に大人気だったナット・キング・コールの真似を完璧にこなすこ
とが出来るようになっていたため、シアトルに来ても彼がいうとこ
ろの「シアトル着後24時間以内に」初仕事を獲得することが出来た
、という。レイは、フロリダ時代の友人、ゴサディ・マギーととも
に組んだマクソン・トリオ(このほかにマキシム・トリオ、マキシ
ーン・トリオなどの名前も使った)でチャールズ・ブラウンやナッ
ト・キング・コールを真似ていた。そして、最初の店で何かをやる
と、そこに来ていた別の店のマネジャーか何かが、次の店での仕事
をすぐにくれた。こうして、彼はシアトルでも、ミュージシャンと
して、生活を支えるくらいのことは出来たのである。

   そして、この頃からは彼は自身のオリジナル曲を書き、自分のバ
ンドで少しづつ歌うようになる。レイは、これらのオリジナルを「
クズ」と呼ぶ。何しろ、だれかほかのアーティストのために書いて
も、だれもそれをやってくれないので、仕方なく自分でやっていた
という代物だったからだ。そしてレイは「そうしたことはまったく
他のだれのためでもなく、自分自身のために歌っていた」という。

   レイは、この頃ステージ・ネイムを本名の「レイ・チャールズ・
ロビンソン」ではなくシンプルにレイ・チャールズとすることにし
た。これは、既にミドルウエイト級のボクシング・チャンピョンだ
ったシュガー・レイ・ロビンソンとの混同を避けるためである。


ACT  THREE  『6−9』と『7−0』、生涯の友との出会
い

   このシアトル時代に、レイは、その後生涯の友となる人物と出会
う。その男は、レイより3歳程若かったが、レイ同様早くからプロ
の音楽の世界に飛び込んでいた野心家だった。レイとその男が会っ
たとき、彼は地元のバンプス・ブラックウエルのオーケストラの一
トランペット奏者で、レイは時々そのオーケストラのためにアレン
ジの仕事をしていたのである。その人物はレイのことを次のように
語る。

   「レイはまるで40歳位の人物の様に思えた。彼は何でも知ってい
たんだ。女のこと、音楽のこと。人生のこと。すべてを。なぜなら
、彼はそれだけ、すべて自立していたからだ」

   この男こそ、その後、ジャズ・ミュージシャンとして名をなし、
マーキュリー・レコードの副社長となり、レコード・プロデューサ
ーとして、音楽史上世界で最大のヒットとなったマイケル・ジャク
ソンのアルバム『スリラー』をプロデュースすることになるクイン
シー・ジョーンズだった。クインシーがレイについての思い出を続
ける。

   「レイは、まだ17かそこらだったのに、バンプスと同じ位の年で
はないかと思えた。それほど彼は賢かった。彼はフロリダからシア
トルに引っ越してきて、既に自分のアパートに住んでいたんだ。そ
れには本当に驚かされたよ。やつは、アパートに住み、何着かスー
ツを持っていて、そしていつもこぎれいにしているんだ。私は、当
時彼のことを『6−9(シックス・ナイン))』と呼んでいた。今
でもそう呼ぶ。レイは私のことを『7−0(セヴン・オー)』と呼
ぶ。私が彼のことを『6−9』と呼んだりするのは、オシャレな人
達の間で、名前を大声で呼んだりするのがかっこよくなかったから
だ。一度なんて、私たちがホワイト・ハウスに呼ばれたとき、私が
ステージにいて、レイがバルコニー(2階席)でレーガン大統領夫
妻の隣に座っていたときも、2階に向かって『6−9』と叫んだも
のだ。私たちは、そんなことをどこでも出来る。どこだろうと気に
しない、そんな仲なのさ。そして、彼が『6−9』と呼ばれたとき
、だれに呼ばれたか、レイは知っているというわけだ」

   レイ・チャールズがクインシー・ジョーンズについてこう語る。
「シアトルで起こった最高の出来事は、恐らくクインシー・ジョー
ンズに出会ったことだろう。彼は私よりほんの少し若かっただけだ
が、きちんとした基礎を持っていなかった。彼はトランペットを吹
いていたが、ジャズを書きたがっていた。彼は私にどうすれば、そ
れが出来るか訊いてきた。そこで、私は彼に私なりのアレンジの方
法などを教えてやった。そして、彼はそれをすぐにのみこんでいっ
た。Qは、そうした情報に飢えていた。彼が出来ることを学ぶこと
に非常に熱心だった。  彼は本当にスイートで、気の置けないやつ
だ。それ以来、私たちはパートナーだ。クインシーが私を必要とす
るときは、どんなときでもかけつける。その逆もまた同じだ。
   私は1948年から1950年までのシアトル時代のことを、ミュージシ
ャンとして頭角を表して来た時期だと考えている。だが、それと同
じ位重要なことが、  クインシー・ジョーンズとの出会いだ。われ
われの関係は文字どおり、生涯の友、友情なのだ」


ACT  FOUR  初レコーディングへ

   レイは、シアトルでちょっとした評判を得るようになり、その噂
がロス・アンジェルスのジャック・ロウダーデイルという人物の元
に届いた。そこで、レイは、ジャックの持つダウン・ビート・レコ
ード(後にスウィング・タイム・レコード)で、マキシーン・トリ
オとして最初のレコーディングを経験する。1948年暮のことでそれ
が「コンフェッション・ブルーズ」(DOWN BEAT 171) という曲だっ
た。もっとも、これには後日談があり、彼がそこにレコーディング
したことが、ミュージシャンのユニオンの規定に触れ、レイは 600
ドルの罰金を払わなければならなかった。

   この「コンフェッション・ブルーズ」は、1949年 4月からビルボ
ードのベスト・セラー・チャートにもはいるヒットぶりをみせ、同
チャートでは11週ランクされ、2位まで行くヒットになった。これ
は、ナット・キング・コール・タイプの曲だった。

   レイは、48年以来約 4年に渡ってこのスイング・タイムに、40曲
近くの作品を吹き込み、結局スイングタイムに17枚のシングルを残
し、その内の3枚がチャート入りを果たした。

   しかし、この時期のレイの音楽には、彼自身の個性はなかった。
彼自身はこう述べている。

   ワシは何も求めていなかった。ワシがやりたかったことは、ただ
音楽をプレイするということだけだった。グッド・ミュージック、
それだけだ。ワシが唯一わかっていたことは、自分が好きな音楽と
いうのは、自分が感じた音楽だということだ。その感じるというこ
となどどんなふうに説明出来るんだい?

   ワシは、音楽出版(著作権)のこと、  ロイヤリティー(印税)
のことなど何も知らなかった。だが、そんなことは関係なかったな
。初めてのレコードを作るときワシは思った。本当にレコードを作
りたいと。なぜならば、レコードをだすということだけで成功の象
徴のように思えていたからさ。ほかのことなんか、何も気にならな
かった。だからユニオンとのトラブルに巻き込まれてしまったんだ
。有名なレイ・チャールズになるはるか以前から、ワシは、どこで
もいい音楽がプレイされているなら、それに参加したいと思ってい
たわけだ」


ACT  FIVE  アトランティックへ移籍「ゴスペル」と「ブル
ーズ」の融合

   レイ・チャールズの名前は、業界内では徐々に知られるようにな
った。そして、その活動とレコードに注目したレコード会社があっ
た。1947年、ニューヨークでアーメット・アーテガンとハーブ・エ
イブラムソンによって設立されたアトランティック・レコードだっ
た。  当初、ジャズを中心に作品を発表していたアトランティック
は、徐々にその取り扱い音楽ジャンルを広げ、ジャズ以外の黒人音
楽にも手を伸ばしていた。

   1952年、アトランティックは、スウイング・タイムから2500ドル
(註、本編の中では3000ドルと発言)で契約を買上げ、レイ・チャ
ールズはアトランティック・レコードの所属アーティストとなる。

   アトランティックからリリースされたレイ・チャールズの最初の
シングルは52年の「ロール・ウイズ・ミー・ベイビー」(ATLANTIC
  976) だが、これから4枚目まではヒットには至らなかった。

   やはり、当初は、ナット・キング・コールやチャールズ・ブラウ
ン・タイプのものをやっていたが、徐々に何かをつかみだすように
なる。初期のセッションも、レイによれば、アトランティックのア
ーテガンらはスタジオにはいるが、レイがやりたいように、やらせ
てくれた、という。

   レイ・チャールズは、アーティストとしてアトランティックと契
約していたが、レコーディング・セッションのアレンジャーとして
の仕事なども他のアーティストのためにこなしていた。特に、楽譜
が書けるという点はスタジオ・ミュージシャンを使うときには非常
に有利で、いろいろと仕事が回ってきた。

   そんな折り、1953年9月。彼はたまたまニューオーリンズに仕事
でいった時、ブルーズ・アーティスト、ギター・スリムのレコーデ
ィングのために、アレンジを付けた。レコーディングはニューオー
リンズで、そのセッションの中に「ザ・シングス・ザット・アイ・
ユースド・トゥ・ドゥ」という曲があった。これは、54年1月から
大ヒット。ビルボードのジューク・ボックス・チャートで14週間も
1位になり、当時でミリオン・セラーになったと報告されている。
レイは、この曲でピアノも弾き、アレンジもした。  そして、何よ
り、ギター・スリムの声にゴスペルのソウルフルなコーラスが加わ
り、何ともいえぬ味わいを出していた。

   レイ・チャールズ本人も、アトランティックのアーテガンも、プ
ロデューサーのジェリー・ウエクスラーらも、この時点では、まっ
たく意識していなかった、ゴスペルとブルーズの融合だ。それが、
一つのスタイルとして確立し、認識されるまでにはまだしばらく時
間がかかった。だが、ここにその時点では、まだだれも認識しなか
ったレイ・チャールズの独特のサウンドの第一歩が築かれたのであ
る。

   そして、5枚目の「イット・シュドブ・ビーン・ミー」(ATLNTIC
  1021)が、54年4月からチャート入り。ビルボード・ジューク・ボ
ックス・チャートで5位、  ベスト・セラー・チャートで7位を記
録。以後、徐々にヒットをだすようになる。

   この頃から、レイは自身のバンドを結成しようという考え始めて
いた。レイは、ブッキング・エージェントの勧めで、当時大人気だ
ったルース・ブラウンとのバンドを作ったり、ワン・ショット的な
バンドでレコーディングしたりしていたが、ついに54年11月、自身
のバンドを結成する。

   このとき、レイは、アーテガンとジェリー・ウエクスラーをアト
ランタに呼び、自分の新しいバンドを聞いてもらった。ウエクスラ
ーが振り返る。

   「彼のホテルで落ち合って、われわれはその向かいにあるロイヤ
ル・ピーコックというクラブにいったんだ。午後だったが、彼のバ
ンドがいて、みんないつでも準備万端という感じだった。レイがピ
アノのところに行き、カウントし、彼等は『アイヴ・ガット・ア・
ウーマン』という曲をプレイし始めた」

   まさに、これこそは黒人の教会音楽ゴスペルとブルーズの融合だ
った。レイが振り返る。

   「ワシは、スピリチャルな音楽を3歳のときから歌ってきている
んだ。そして、同じ位長い間ブルーズを聞いてきている。それが一
緒になることは極めて自然なことだろう。何かを考えたり、計算し
たりしてすることではない。すべてのサウンドは、ワシの頭の中で
一緒になっているんだ。ナット・コールを真似することは、ある種
の計算が要求される。そこに声を合わせなければならないからだ。
もちろん、それをやることも好きなんだが、  やりがいがないんだ
な。だが、ブルーズとゴスペルのコンビネーションは、とてもやり
がいがある。何も計算はしなくてもいい、ただワシが初めて触れた
音楽に正直になりさえすればいいんだ」

   ゴスペルをブルーズと融合したことで、ゴスペル、教会音楽を冒
涜したといった意見が出たのも事実である。レイもそういう声は聞
いた。

   「最初はそうだった。だが、人々は、段々とわかってくれるよう
になった。つまり、この人物はただ感じたままに歌っているんだ、
ということを。  そして、彼は彼自身が感じたままに歌うべきなん
だ、と。それがわかったときが、私がもうだれの真似もすまい、と
決心したときだった。自分に言い聞かせたんだ。『OK、レイ。レ
イ・チャールズの様なサウンドにするんだ。  自分自身になれ』と
ね。そして、自分が自分になった瞬間からもう私は他の誰にもなれ
ないと確信した」

   レイ・チャールズの「アイヴ・ガット・ア・ウーマン」は、55年
1月から大ヒット。ビルボード・ジューク・ボックス・チャートで
も 1位になり、これはレイを広く黒人社会に知らしめる記念すべき
作品となった。



ACT  SIX  ABCへ移籍。カントリーにも手を出し、広範な
ファンをつかむ

   レイ・チャールズは、以後コンスタントにヒットを放つ。「ア・
フール・フォー・ユー」、「ドロウン・イン・マイ・オウン・ティ
アーズ」「ロンリー・アベニュー」…。しかしこうしたヒットは、
いずれも黒人コミュニティーだけのものだった。レコードは、黒人
音楽だけがかけられるラジオ局でかかり、黒人がオウナーの小さな
レコード店を中心に販売されていた。

   そして、59年 7月、「ワッド・アイ・セイ」が登場する。この教
会の「コール・アンド・レスポンス」を取り入れた作品は、白人ラ
ジオでもプレイされ、白人社会でも大変な支持を受けたのである。
R&Bチャートで1位、ポップでも6位を記録したこの作品は、レ
イのポップ部門における初めてのトップ10ヒットとなり、ミリオン
・セラーとなった。

   レイ・チャールズ、ブラザー・レイは、もはやアメリカの顔とな
った。そして、絶好調となったレイにレコード会社移籍の話が持ち
上がった。これまでの実績を背景に、メジャー・レーベルのABC
が、非常にレイにとってよい条件を提案してきたのである。多額の
契約金、長期間に渡る契約、アトランティックよりも高いロイヤリ
ティー・レート、さらに原盤権、音楽出版権、レイのレコード会社
の設立までも含められた契約だった。

   レイは、これらの条件をのみ、59年11月ABCに移籍する。AB
Cからの最初のヒットは、60年 6月からの「スティックス・アンド
・ストーンズ」だが、以後もアトランティック時代以上にコンスタ
ントにヒットを出すようになる。そして、音楽的にもレイの守備範
囲は、広がってきた。ジャズのアルバムを作ったり、カントリーに
も進出する。

   レイが、初めてカントリーのアルバムを作りたいとレコード会社
に提案したとき、レコード会社の社長は、レイがそれまでのファン
を失うだろう、と忠告した。レイもそう考えた。だが、彼はさらに
こう思ったのである。つまり、失うファン以上に多くのファンを獲
得出来るだろうと。そして、レイ・チャールズは「ジョージア・オ
ン・マイ・マインド」そして、「アイ・キャント・ストップ・ラビ
ング・ユー」をレコーディングしたのである。前者も全米ナンバー
・ワンになり、ぜいたくなストリングスを含んだオーケストラをバ
ックに従えた後者は、62年 5月からヒットし、R&B、ポップ両方
のチャートで 1位になり、当時で 300万枚のセールスを記録、爆発
的ヒットとなり、レイ・チャールズの名を世界的に決定付けた。


ACT  SEVEN  ドラッグ・ゲームをサヴァイヴァルして


   ヒットが出始め、金にも不自由しなくなると、レイは当時のミュ
ージシャンの誰もがそうであったように、ヘロインに手を出すよう
になる。エンタテイメント・ビジネスにおける、激烈な競争。いつ
次の新人に追い落とされるかも知れぬ恐れ。多くの人の前で歌うこ
とのプレッシャー。そうした様々な現実から逃避しようと、多くの
アーティストがドラッグにそのはけぐちを求めた。レイ・チャール
ズは、40年代中頃から手をつけるようになり、50年代にはいると中
毒になった。1958年にはフィラデルフィアで、1961年にはインディ
アナポリスで、1964年にはボストンで麻薬所持の疑いで逮捕されて
いる。

   インディアナポリスでレイに面会したインディアナポリス・タイ
ムスの記者は、後に作家のアーノルド・ショウに対して、レイの様
子を「非常に落ち込んで、悲しそうだった。彼は監獄の中のベンチ
にすわり静かに泣き出し、自分を失い始めた。彼は言った。『妻や
子供達にどうしていいかわからない。1ヶ月も先まで仕事があると
いうのに』」と語った。

   そして、64年の逮捕は、それまで15年間まったくオフらしいオフ
をとってこなかったレイに初めてのオフを与えることになった。

   1965年、レイは1年間のオフをとり、ドラッグをやめるために苦
悶の日々を送ったのである。そして、裁判所はレイが本当にドラッ
グを断ち切ったかどうか見極めるために、判決をさらに1年猶予し
た。レイは、最後の審問を終え裁判所から出るときのことを自伝『
ブラザー・レイ』にこう書き記している。

   「(この法廷を)私は、入ってきたときと同じような私自身とし
て出ていくだろう。この出来事を終えてみて、私の体が以前と違っ
ており、新たな人生を得たような感じだと言えると思う」

   この時、審理中の裁判官が病気で別の裁判官に代わったが、最初
にこのケースをてがけた裁判官が新任の裁判官に、死の床から一通
の手紙を出した。そこにはこう書かれていた。

   「この件は、既に私の手から離れていることは重々承知ですが、
仲間のひとりの人間として、これは言っておきたい。レイ・チャー
ルズを自由の身として、ドラッグを断ち切って更生した良い例とし
て、世界に見せたほうが、彼を刑務所に入れるよりも、社会にとっ
ても有益ではないでしょうか」

   レイは晴れて自由の身となり、再びミュージシャンとして精力的
な活動をつづけることになる。

   60年代から活躍するアーティストならば、程度の差こそあれ、ほ
とんど誰もが一度は通るドラッグ問題。ある者は、それで命を落と
し、ある者は、命は取り留めるもののアーティスト生命は失う。そ
して、ある者はそこから立ち直り、見事に次のディケードをサヴァ
イヴァルする。レイ・チャールズは、そのサヴァイヴァル・ゲーム
の勝者だ。

   60年代に、彼等のような黒人スターが直面した最大の問題は、人
種差別だった。特に南部では差別が激しく、レイでさえも黒人専用
のトイレを使ったり、出入り口も裏口を使わなければならなかった
という。レイは言う。

   「レストランで裏口からしかはいれない。まあいいだろう。それ
はあんたのレストランなんだからな。だが、ワシがワシの音楽を人
々にプレイするときには、黒人専用の後ろの席に座れなどとは言わ
せないぞ。それで訴訟になったこともある。ワシの態度はこうだ。
ワシのオーディエンスが、私を作った。そういうみんなが、座りた
いところに座れないというのは、まったく納得出来ない、というこ
とだ」

   66年から73年までの間、レイは相変わらず精力的に活動を続ける
。レコーディング、ツアー、レコーディング、ツアー。この繰り返
しで、年に30週以上は必ずロードに出ていた。自らのレーベル「タ
ンジェリン・レコード」の運営もてがけた。ここでは、メインスト
リームではない、ジャズや実験的な音楽を作り、新人の発掘、育成
にも力を注いだ。


ACT  EIGHT  クロスオーヴァー・レコード〜経済的自立と
音楽的自立を求めて


   1973年、ABCを離れ、第二のセルフ・レーベル「クロスオーヴ
ァー・レコード」を設立。自らの作品もこのレーベルから発売する
ことになる。彼は、60年代の初期から、自宅にスタジオを構え、自
分の作品のレコーディングはもちろん、ミキシングなどの作業も自
分の手でやるようになっていた。その様子などは、ドキュメンタリ
ーの中でもほんの少し見られるが、あらゆる面で、彼は自立してい
るのだ。そして、仕事のペースはまったく落ちることがない。

   そして、60年代に設立した「タンジェリン」に続いて、彼は心機
一転この「クロスオーヴァー」を発展させようとした。黒人ミュー
ジシャンがレーベルを持つということは、もちろん、経済的な自立
でもあり、また、音楽的な自立をも意味した。つまり、レコーディ
ング・セッションから、プロモーションまで、1枚のヒット曲を生
み出すまで、様々な点において黒人自身が管理運営することによっ
て、そこから生まれる「金」を黒人コミュニティーに還元すること
が可能になる。黒人のプロモーション・マンを雇ったり、黒人のツ
アー・メンバーを雇ったりすることができるというわけだ。もちろ
ん、白人のレコード会社でも、そのようなことは可能だったが、黒
人運営のレコード会社では、その可能性がもっと広がる。

   さらに、音楽的な自立も大きなポイントである。レイ自身は、こ
のレーベルについて「ここでは、だれでも来て、歌いプレイし、や
りたいことをやってもらっていい。そして、別の分野の音楽をやっ
てもいいんだ。ジャズをやりたければ、ジャズをやってもいいし、
R&BをやりたければR&Bをやってもいい。つまり、名前通り、
『クロスオーヴァー』するわけだ。ここでは、黒人にも白人にも受
けるようなエンタテイナーを育てたい」と語る。

   ミュージシャンがやりたいとおもったことを自由にやらせる。そ
して、そこから何かを生み出す。音楽的自立である。

   こうした強い自立心は、レイが母親から学んだことでもある。幼
い頃母と死に別れたレイは、母親からこう言われていたことを思い
出す。

   「母親は、自立ということをいつも強く言っていた。その頃はよ
くわからなかった。だが、きっと子供を育てていく上での、自立と
いうことを言いたかったのだろう。子供がある方法で育てられ、自
分自身の中に信念を持ちなさいと教えられ、それを勇気付けられて
いたら、それが自分自身の自信へとつながっていくだろう。そうす
れば、何か悲劇に直面しても、それに対処する方法があるというわ
けだ」

   結果的には、この「クロスオーヴァー・レコード」は、レイが望
んだほどの大成功は収めなかった。しかし、70年代中期以降、ソウ
ル・ミュージックのポップ・マーケットへのクロスオーヴァーが大
きな流れとなり、クロスオーヴァーという言葉自体が広く使われる
ようになったことを考えると、レイが50年代から考えて来たコンセ
プトが、  70年代になってようやく一般に浸透したということにな
り、レイの非常に卓越した先見の名がはからずも明らかになったと
いえる。

   彼は50年代から自分の音楽がカテゴリーに入れられることを嫌っ
て来た。ジャンル分けされることを嫌い、自分は常にグッド・ミュ
ージックを演奏して来たという。

   「ワシの音楽が、R&Bと呼ばれるのなら、それは受け入れよう
。だが、人がその音楽にどんな名前をつけようがワシは全く気にし
ない。ワシは、ただワシが感じた音楽をやっているだけだ。ある人
は、ワシの音楽を聴いて、教会の影響があるといったり、ジャズが
ルーツだといったりする。だが、ワシの音楽はワシが家にいてやっ
てきたことから始まっているんだ。つまり、ワシは人生について歌
っているだけさ」

   レイ・チャールズの最大の魅力は、  その声にあるといってもい
い。それについては、ドキュメンタリーの中でも少し触れられてい
るが、独特のダミ声は一聴すれば、彼とわかる。そして、彼のどの
ような音楽ジャンルでも貪欲に取入れる姿勢も大きな魅力だ。

   77年、彼はいったん古巣のアトランティックに戻り、83年、CB
Sに移籍。90年、ワーナーに移籍。最新アルバムは、ワーナーから
の『ウッド・ユー・ビリーヴ?』。

   最近は、60年代程の大ヒットはないが、何と言っても1985年のク
インシー・ジョーンズがプロデュースした「ウイ・アー・ザ・ワー
ルド」のセッションにおけるレイの存在感は、見る者、聞く者を圧
倒した。そして、89年12月に発表されたクインシー・ジョーンズの
アルバム『バック・オン・ザ・ブロック』での「アイル・ビー・グ
ッド・トゥ・ユー」のチャカ・カーンとのデュエット。レイが「Q
が必要なときは、いつでもワシはかけつける」という通り、レイは
Qのアルバムに登場した。

   さらに、日本では90年のサントリーのCMで使われた日本の桑田
圭祐の書いた「エリー・マイ・ラブ」の大ヒットが記憶に新しい。
かつて、ビリー・ジョエルは、どうしたらレイ・チャールズの様に
歌えるのだろうか、と研究したという。レイは、ビリーにとって最
大のアイドルだった。そして、レイの歌い方を吸収したそのビリー
・ジョエルのファンになった男がいた。その男にとってビリーはア
イドルだった。それが桑田である。その桑田の曲をレイが歌ったの
である。歴史の座標軸は、ここで見事に一回転したのである。

   レイ・チャールズはこれまでに、アトランティックで34枚、AB
Cで24枚、タンジェリンで 3枚、クロスオーバーで 4枚、CBSで
  3枚、ワーナーで 1枚のアルバムをレコーディングしている。ヒッ
ト・シングルも80を超え、ソウル・チャートにおけるナンバー・ワ
ンも10曲にのぼる。グラミーも12を数える。(グラミー賞の数は2
004年まで)

   文字どおり、レイ・チャールズは、アメリカ音楽界の金字塔だ。


ACT  NINE  ブラザー・レイの「ソウル」


   レイ・チャールズが「自分自身になるのだ」ということを悟った
瞬間から、彼は新たなる音楽界のパイオニアとしての道を歩むこと
になった。50年代という音楽が劇的に変化した時に、絶妙のタイミ
ングでシーンに登場したレイ・チャールズは、音楽的にも、ゴスペ
ルとブルーズの融合を果たし、R&B、ソウル・ミュージックの大
きな枠組を作り上げた。そして、また、彼は音楽を愛し、自分が感
じた音楽を、自分がやりたい音楽をやり抜くというアーティストが
持つべき姿勢をかたくなに守り通している。ジャズに感じれば、ジ
ャズを、カントリーに感じれば、カントリーを、ゴスペルに感じれ
ばゴスペルを、その瞬間、アーティスト、レイ・チャールズをイン
スパイアーした物が、レイ・チャールズのフィルターを通し、新た
なレイ・チャールズ・ミュージックとして生まれる。そして、その
新たなる物を生み出すことをクリエイトする、と言う。レイは40年
にわたり音楽をクリエイトしている。

   それに加え、レイ・チャールズは、ビジネス面でも、自身のレコ
ード会社を設立するなど、60年代の黒人アーティストとしては、サ
ム・クック、ジェームス・ブラウンなどと並んで、成功した。

   「ソウルとは何か」という問に、「レイ・チャールズ」と答えれ
ば決して間違いではない。多くの人は、レイ・チャールズをソウル
のオリジネイターと呼ぶ。ソウルとは、そのアーティストの中にあ
る本物の何かを本気であぶり出したときに出る物だ。ブラザー・レ
イが、「アイ・キャント・ストップ・ラビング・ユー」を歌うとき
も、「ワッド・アイ・セイ」で絶叫するときも、そしてしっとりと
「エリー・マイ・ラブ」を歌うときも、彼はシリアスでリアルだ。
そして、そこには常に「ソウル」があふれ出ている。レイ・チャー
ルズの歴史は、またソウルの歴史であると言っても過言ではない。
そして、ソウルの歴史を語るとき、レイ・チャールズを抜きにして
語ることは出来ない。

   60年代以降、彼の音楽と歌のスタイルは黒人だけでなく、多くの
白人ミュージシャンにも多大の影響を与えた。ライチャス・ブラザ
ース、ジョー・コッカー、スティーヴィー・ウインウッド、そして
このドキュメンタリーにも登場するビリー・ジョエルなどもレイの
影響を受けたアーティストのほんの一部である。

   86年には、彼はアメリカ文化に貢献した人に与えられる「ケネデ
ィー・センター・アワード」(日本でいえば、文化勲章、国民栄誉
賞のようなもの)を、当時のレーガン大統領から授与された。その
席上で、彼はセント・オウガスティンの生徒たち、つまり自分の卒
業した学校の子供達の歌で迎えられた、という。  盲目にして、孤
児、しかも人種差別が特に強かった頃の黒人。絶望のどん底から唯
一音楽だけを頼りにはいあがったレイ・チャールズ。その音楽は自
身のソウル(魂)の叫びを表現し、そして、そのソウルの叫びは、
世界中の何千万人の人々に到達した。彼もまた、アメリカン・ドリ
ームを現実化した人物であると同時に、もっとも多くの人にソウル
を伝えた偉大なソウルの伝道師でもある。


   これでこのレイ・チャールズの『ジーニアス・オブ・ソウル』の
ビデオ・ソフト(LD)はもうおしまい。いかがでしたか。このビ
デオ・ソフト(LD)があなたの映像ライブラリーにおいて愛聴盤
となることを願って・・・


[FEBRUARY 11、 1992: MASAHARU YOSHIOKA]
"AN EARLY BIRD NOTE"


【参考資料】
   「スイート・ソウル・ミュージック」(ジェリー・ハーシー著)
   「ブラック・ミュージック誌」1974年5月号。
   「ロスアンジェルス・タイムス」1989年5月28日付け。



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このドキュメンタリーについて

   このドキュメタリーは、日本のビデオ・アーツ社がアメリカのビ
デオ・ソフト制作会社と協力して制作したレイ・チャールズの生涯
を描いたものである。

   全体的な監督を、ここでナレイションを担当しているイヴォンヌ
・スミス女史がてがけ、様々なアーティストや関係者にインタヴュ
ーし、さらに古い映像なども集めて、編集した。もちろん、レイの
60年余にわたる生涯をわずか一時間に凝縮することは、不可能に
近いが、これまでまとまったレイ・チャールズの映像作品がなかっ
ただけに、様々な貴重な情報を得ることができる。

   内容は、じっくり御覧頂くとして、ここでは、二つの点を指摘し
ておきたい。

   レイ・チャールズの最大の魅力に、その声と声色、歌い方が上げ
られる。独特のダミ声だが、その魅力は、決して文字で表現するこ
とは出来ない。その声色をここでは、ビリー・ジョエルが実にうま
く真似る。こうした部分は、文章のドキュメンタリーでは決して表
現出来ない、声と映像があって初めて生き生きするところである。
映像ドキュメンタリーのもっとも有利な部分だ。そのあたりは、十
分に楽しんで頂きたい。もちろん、貴重な古い映像からの、彼の若
いときの動く姿などは、感激ものである。これも決して文字では伝
えられないものであり、十分楽しんで頂きたい。

   もう一点、インタヴューに登場するデイヴィッド・リッツについ
て。彼は、レイ・チャールズの唯一のバイオグラフィー『ブラザー
・レイ』の著者である。この著作は、正確にはレイ・チャールズが
語ったものを、デイヴィッド・リッツが書き記したもの。78年に発
売された。

   かなり詳しくレイの生い立ちが書かれている。この映像ドキュメ
ンタリーのベースとなる部分は、この本にかなり負っている。筆者
が、このライナーノーツで書いたバイオのために様々な資料を当た
ったが、その中でも、いくつかの文献が『ブラザー・レイ』から取
られていた。

   このデイヴィッド・リッツは、後に84年4月1日、父親の銃弾
に倒れ死去するマーヴィン・ゲイのバイオグラフィー、『ディヴァ
イデッド・ソウル(引き裂かれたソウル)』を書く人物である。そ
の徹底した調査、取材ぶりは定評がある。

   リッツは、その『ディヴァイデッド・ソウル』の後書きで、レイ
とマーヴィンを比較し、マーヴィンはインタヴューなどしたいとき
には、いつでも話をしてくれ、また本の企画を始めても、印税など
のビジネスなどの話は何もしなかったが、レイは事前にそうしたこ
とをきちんとし、インタヴューも事前のアポイントを取りやらなけ
ればならなかった、と書いている。二人のまったく違ったソウルの
個性の違いがよく出たエピソードである。それにしても、レイ・チ
ャールズとマーヴィン・ゲイの徹底したバイオグラフィーを書ける
なんて、音楽ジャーナリスト冥利に尽きるだろう。

   最近の音楽家のドキュメンタリーとしては、クインシー・ジョー
ンズのものがアメリカで制作され、公開され、筆者も日本で試写を
見せてもらった。約2時間に渡るもので、かなり密度の濃いものだ
った。

   そのクインシーの一生の描き方、ドキュメンタリーの表現方法に
ついては、様々な意見があり、筆者自身も、あの方法がベストとは
思わないが、一人の人間の一生を描く場合、10人のドキュメンタ
リー作家が作品を作れば全く違った10本のドラマが出来るもので
ある。そこで思うのは、やはり先ず一本は、非常にベイシックな、
そのアーティストの一生を年代順に、追っていくという方法の作品
を作らなければならない、ということである。そして、一本そうい
うものが出来たならば、次にその一生の中でどこかに焦点を当て、
ユニークな切り口で、その人のドラマを見せてくれるといい。前者
は、ストレート、後者は変化球とでも言おうか。

   このレイ・チャールズのドキュメントは、前者の基本形である。
さて、視聴者としては、もし、次にレイのドキュメントが作られる
なら、どんなところに焦点を当てたものを見たいか。

   例えば、こんなテーマはどうだろう。「レイ・チャールズ&ヒズ
・ウーマン」。レイ・チャールズは大変な女好きである。この本編
の中でも触れられているように数人の女性の間に9人の子供を設け
た。一体彼の女性に対するコンセプトはどういうものなのだろうか
。レイレッツのメンバーや、別れた妻にいろいろとインタビューす
れば、レイの女性に対する考え方の一旦が分かるかもしれない。

   例えば、彼のキャリア、人生におけるターニング・ポイントを探
るということも出来る。弟の溺死を目撃した5才のレイ少年はどの
ようなショックを受けたのか、それがその後の人生にどのような影
響を与えたか。同様に、父親、母親の死が彼に与えた影響はどんな
ものだったか。母の死については、このライナーでも少し触れたが
もっと突っ込んだインタビューも聞きたい。

   さらに、ドラッグと彼のキャリアについての関連性も知りたい。
なぜドラッグに走ったか。それは、ショウ・ビジネスの世界におけ
るプレシャーが余りにきついためか。それとも、本編のなかで一言
触れられているように、いつも仲間と一緒にいたかったからか。ド
ラッグをやることによって、生み出す音楽は変わったか。3度の逮
捕をとおして、どのように人生観が変わったか。おそらく1965
年の一年のオフにドラッグを断ち切るために入院したことは、大き
なターニング・ポイントになったはずだが、それ以前とその後のも
っとも大きな違いは何か。

   レイ・チャールズの音楽ほど、多様性のある音楽はない。ゴスペ
ル、ジャズ、R&B、そしてカントリー。どのような経緯で、この
ような音楽をすべて融合することになっていったのだろうか。この
点については本編の中でも触れられているが、レコーディング・セ
ッションの様子なども見てみたい。

   また、人種差別の厳しかった50年代から60年代にかけてを過
ごしてきたレイ・チャールズだが、レイに人種差別についてじっく
りと語ってもらうのも見たい。

   このような視点で、レイのキャリアを振り返れば、レイのドキュ
メンタリーの2〜3本は、まだまだ出来るだろう。

   何しろ、彼は40年以上現役でやっている人物である。彼そのも
のが歴史なのだ。

   そして、歴史は後世に語り継がれるべきである。このビデオには
その歴史の一部が語られている。

吉岡正晴





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(このライナー原稿は、92年に発売されたレイ・チャールズのヴ
ィデオ・ソフト用に書かれたものです。その後、99年にDVD化
された時にDVDのライナーノーツに転載されました)

レイ・チャールズ(1930.9.23 -2004.6.10)

レイ・チャールズは、2004年 6月10日、73歳で死去されました。

(2004年06月11日、アップ)
    
MASAHARU YOSHIOKA
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