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マーヴィン・ゲイ『ライヴ・イン・モントルー1980』
ライヴ・イン・モントルー~1980 <== Go to Amazon.co.jp
マーヴィン・ゲイ
『ライヴ・イン・モントルー1980』

ビデオアーツ・ミュージック VABS-0001
2003年 7月19日発売
4700円(税抜き)

原題 : Live In Montreux 1980
アーティスト : Marvin Gaye
原盤番号 : Eagle 801213-00319-8
原盤発売 : 2003年 5月19日
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  今度あなたの映像ライブラリーに加わることになった一枚のDV
D作品をご紹介します。

  マーヴィン・ゲイの『ライヴ・イン・モントルー1980』


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マーヴィン、そのライヴ恐怖症の真実
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  恐怖。

  「後5分でショウタイムだぞ、マーヴィンはどこだ?」

  「何、マーヴィンがいない?  はやく探しだせ!」

  オープニング・アーティストのショウがまもなく終わろうとして
いるとき、待機しているべき本日の「スター・オブ・ザ・ショウ」
がいないとなると、楽屋は大騒ぎになる。だが、マーヴィンのライ
ヴではそんなことは日常茶飯事だった。

  不世出なR&B、ソウル・シンガー、マーヴィン・ゲイは、極め
て神経質な男だった。人前で歌うことを好まなかった。スタジオは
よかったが、ライヴはどうしても好きになれなかった。だから、本
番が始まる直前は、  どこかに逃げ出したい衝動にしばしばかられ
た。

  なぜマーヴィンは、ライヴ・パフォーマンスが嫌いになったのだ
ろうか。ライヴ恐怖症の真実は・・・。


  若死。

  1950年代後期から、マーヴィンは恩師ハーヴィー・フークワ
のもとでハーヴィーのグループ、ムーングロウズの一員として多く
のライヴをこなしてきた。モータウンからヒットを出し始めてから
も、いわゆるモータータウン・レヴューの一員として、全米をかけ
まわった。その頃はそれほどライヴが嫌いだったわけではない。だ
が、1967年の夏、事件は起こった。

  マーヴィンは既にモータウンの女性シンガー、何人かとデュエッ
ト曲を録音しヒットさせていたが、タミー・テレルとの作品がデュ
エット作品中もっともヒットしていた。

  そこで、マーヴィンのライヴにはタミーが帯同し、ステージで2
人でデュエットを歌っていた。ヴァージニア州ハンプトン・シドニ
ー・カレッジでのライヴの最中、突然タミーがそのステージ上で意
識を失いマーヴィンの腕に倒れたのだ。タミーはすぐに救急車で病
院に運ばれた。彼女はしばらく前から原因不明の頭痛に悩まされて
いた。一因として、当時のボーイフレンド、デイヴィッド・ラッフ
ィン(テンプテーションズの元リード・シンガーの1人)によく殴
られたからだと言われたりもしたが真偽はわからない。

  診断は脳腫瘍、続く2年間に6度以上の手術が施される。しかし
経過は芳しくなく、70年3月16日、彼女はわずか24歳の若さ
で他界する。これにもっともショックを受けたのが、マーヴィンだ
った。マーヴィンはあまりのショックで彼女の死から3年間ステー
ジに上がることができなくなってしまったのである。


  完璧主義。
  
  1971年2月、マーヴィン・ゲイはそれまでの作品とはまった
く趣の違うアルバム『ホワッツ・ゴーイング・オン』をリリースす
る。このアルバムではヴォーカルが何度も録音され、非常に緻密な
音作りがなされた。単なるシンガー、マーヴィンではなく、ミュー
ジシャン、アーティスト、プロデューサー、マーヴィンの姿を打ち
出すものであった。そして、このアルバム制作にあたって、マーヴ
ィンは作品作りにのめり込み、完璧を期した。この頃からマーヴィ
ンは徐々に完璧主義になっていった。

  ところが、このアーティストとしての完璧主義が、人間マーヴィ
ン・ゲイに微妙な足枷となり始めるのだ。

  レコーディングは、失敗すればやり直せばいい。何度でも気に入
るまで録音し直せる。しかし、ライヴは違う。その場でまちがいを
犯しても、それを直すことはできない。完璧主義マーヴィンにとっ
て、ライヴは非常にリスキーな仕事になっていく。

  マーヴィンの伝記『ディヴァイデッド・ソウル』(日本未発)を
書いたデイヴィッド・リッツがこう解説してくれた。

  「つまり、マーヴィンは、彼自身のヴォーカルの才能に自信がな
かったんだ。  彼は真の意味でレコーディング・アーティストだっ
た。レコーディングであれば、彼はオーヴァーダビングすることも
できれば、再録音することもできる。レコーディングは、彼に安心
感を与えた。彼はあやまちを犯すことを恐れていた。とても信じら
れないだろうが、彼はシンガーとしての自信を持っていなかったん
だ。自分自身を疑うこと、自身を信じることができないという事実
が彼の人生すべてをやっかいな方向に持っていくことになる。ライ
ヴ・パフォーマンスは、彼自身を不安にさせてしまったんだ」

  非常に繊細で、天才肌のマーヴィン。そして、自分自身を信じる
ことができずに、歌手としての才能に自信がなかったマーヴィン。
マーヴィンを間近に長い間見てきたデイヴィッドの観察は、相当本
質をついていると言えるだろう。

  ライヴは、常に過ちが起こりうる場所だ。マーヴィンはたったひ
とつの過ちが許せなかった。

  こんな話もある。ライヴ・ステージのアレンジャーであるジーン
・ページがあるとき、ライヴが始まる前にマーヴィンに言われた。
「曲と曲との間を音楽でつないでくれ」  つまり曲間をあけないで
くれ、ということだった。それは、一曲終わったときに、もし観客
から拍手が来なかったらそれが怖いからだ、という。ファン側から
すれば、マーヴィンが歌い終えて拍手がこないなどということは想
像もできないが、それはあくまでこちら側の倫理。マーヴィンは、
もし拍手がなかったら、それが恐怖だったのである。

  彼はステージにあがる前、もっとも恐怖心を持ち、どこかに逃げ
てしまいたい衝動にかられ、実際隠れてしまったこともあった。

  70年3月のタミーの死から、彼は約3年間、人前でのパフォー
マンスをしなくなる。それはタミーの死という精神的ショックとと
もに、もうひとつ彼自身が完璧主義になっていったゆえのことだっ
た。

  そして、その恐怖心は生涯消えることはなかった。

                        〜〜〜〜〜  

■モントルー・ジャズ・フェスティヴァルについて

  「モントルー・ジャズ・フェスティヴァル」は、1967年から
スイスのレマン湖のほとりモントルーで始まった音楽祭である。今
年(2003年)で、37回目を数える。モントルーは、ジュネー
ヴ国際空港から約90キロと交通の便もいい閑静な高級リゾート地
だ。

  第1回は1967年6月16日から3日間だけ開かれた。このと
きはキース・ジャレットをはじめわずか12のアーティストしか登
場しなかったが、以来年々規模が大きくなり今年第37回は100
以上のアーティストが16日間にわたってライヴを繰り広げるほど
の大イヴェントになっている。  メイン会場の収容人数は、ステー
ジ、席の配置にもよるが、約2000人から4000人。この他に
も近くのライヴハウスやバーなどでも小規模のライヴが並行して行
なわれる。言ってみればこの期間街全体が音楽一色になるというわ
けだ。

  モントルー以外、カナダのモントリオール・ジャズ・フェスティ
ヴァル、カリフォルニア州のモンタレー・ミュージック・フェス、
あるいは、ニューオーリーンズ・ジャズ・フェスなど大規模な音楽
祭はいくつもあるが、このモントルーは一番知名度を誇る。

  ジャズ・フェスティヴァルと銘打っているが、当初はジャズ・ア
ーティストに特化していたが、今ではありとあらゆるジャンル、ロ
ック、ソウル、ファンク、ワールド・ミュージックなど様々なタイ
プの音楽家たちがパフォーマンスを見せる。

  マーヴィンが登場した1980年は第14回目。この年はアメリ
カ・ミシガン州デトロイト市が「モントルー・デトロイト・ジャズ
・フェスティヴァル」と題して、全面的に協力した。マーヴィン以
外では、エルヴィス・コステロ、ジミー・クリフ、サンタナ、トゥ
ーツ・シ−ルマンス、ディージー・ガレスピー、マックス・ローチ
などが登場した。

  翌81年は、15回記念ということもあり17日間開催されポッ
プ、ロック、ソウル、ブルーズ、ジャズ、ゴスペルなどのアーティ
ストが登場し75000人の観客を集めた。


■マーヴィンのライヴ・アルバムについて


  マーヴィンのライヴで  オフィシャルなものは3枚発売されてい
る。ここでいうオフィシャルというのは、アーティストが正式にそ
のレーベルと契約し、そのライヴ・アルバムの発売に関してアーテ
ィスト本人のアプローヴァル(承認)があるということだ。マーヴ
ィンは、生涯、モータウン・レコードとソニー(当時CBS)レコ
ードにしか所属しなかった。よってこの2社から発売されたものが
オフィシャルなものということになる。ソニー時代にはライヴは出
なかった。

  まず最初のものが63年9月、モータウンから発売された『オン
・ステージ・レコーデッド・ライヴ』(Tamla 242) 。しかし、これ
は彼が62年10月に「スタバン・カインド・オブ・フェラ」で初
ヒットを放ってまだほんの1年も経過していない頃の作品。アルバ
ム自体もそれほどプロモーションされず、話題にはならなかった。

  次が74年6月に発売された『マーヴィン・ゲイ・ライヴ』
(Tamla 333) 。これは、傑作ライヴとして高く評価されているアル
バム。特にここには、すでにこの頃までにマーヴィンのガール・フ
レンドになっていたジャニスに捧げる作品、その名も「ジャン」が
収録されている。この曲に対しては、当時のモータウン社長ベリー
・ゴーディーが激怒し、スタジオ録音することも、シングルカット
することも許さなかったという逸話まで生んだ。彼が激怒したのは
、マーヴィンの当時の書類上の妻がベリー・ゴーディーの実姉アン
ナ・ゴーディーだったからである。よって、この名曲はそのライヴ
盤のみでしか聴かれない。その後イントゥルーダーズがカヴァーし
ているがそれもファンとしては必聴作である。

  そして、もう1枚が77年3月発売の『ライヴ・アット・ザ・ロ
ンドン・パレイディアム』(Tamla 352-2=2枚組) だ。これはアナ
ログLP2枚組で3面までがライヴ録音、4面が全面を使ったディ
スコ調のスタジオ録音曲「ガット・トゥ・ギヴ・イット・アップ(
発売当時邦題、黒い夜)」だった。これも熱狂的なライヴで、マー
ヴィンのライヴにおける魅力を伝えている。

  これら3枚がマーヴィンの正式なライヴ作品である。

  ところが、84年4月1日のマーヴィンの死後、出所のよくわか
らないアルバムがリリースされるようになった。タイトルもいずれ
も、『ライヴ』などでされ、区別を付けるのが難しいのだが次のよ
うな種類がある。

1)  83年夏、2トラックで録音されたもの。「悲しい噂」から
始まるもの。アメリカでは「ニュー・サウンド」というレーベルか
ら『ライヴ』のタイトルでCDが発売されている。「セクシュアル
・ヒーリング」が11分57秒のもの。

2)  同じ時期の録音で、「セクシュアル・ヒーリング」が4分3
2秒のもの。「プラネット・メディア」というところから『ファイ
ナル・コンサート』のタイトルでCD化。

3)  同じく83年夏、2トラックで録音されたもの。「イントロ
ダクション」「サ−ド・ワ−ルド・ガール」から始まるもの。「セ
クシュアル・ヒーリング」(6分30秒)、「ファイナル・チャプ
タ−」(2分18秒)がはいっているもの。『ザ・ラスト・コンサ
ート・ツアー』のタイトルでアメリカではジャイアント・レーベル
から発売。日本では91年11月、ワーナーパイオニオから発売。

4)  83年夏の録音。「悲しい噂」から「セクシュアル・ヒーリ
ング」まで。後者は、10分14秒。「ゴールデン・レーン」から
『パフォーマンス』のタイトルでCD発売。

5)  83年夏の録音。  「サード・ワールド・ガール」から始ま
り、「セクシュアル・ヒーリング」10分10秒まで。しかしその
後「プライド・アンド・ジョイ」「スタバン・カインド・オブ・フ
ェロー」なども収録されている。「プロパーペアーズ」というとこ
ろから『パフォーマンス』のタイトルでCD発売。  

6)  「悲しい噂」から「セクシュアル・ヒーリング」(10分1
1秒)まで。『パフォーマンス』のタイトル。「ユニヴァース」か
ら『ノース・アメリカン・ツアー』としてCD発売。

7)  「イントロダクション」「サード・ワールド・ガール」から
「セクシュアル・ヒ−リング」(12分14秒)まで。「ARC」
からCD発売。

  上記作品はいずれも83年の最後のツアーのもの。本作はそれら
とはまったく違うもの。時期的には、モータウンからアルバム『ヒ
ア・マイ・ディア(邦題、離婚伝説)』(79年)を出し、モータ
ウンとの関係が最悪になっていた頃である。税金、離婚、レコード
契約とあらゆる点で追い詰められ、ヨーロッパに逃避行しようとす
る頃でもある。そして、音も映像もしっかりした作品である。

                        〜〜〜〜〜  

■本作紹介

  このライヴ映像作品は、1980年7月7日、スイス・モントル
ー・カジノで行なわれたもの。同年のモントルー・ジャズ・フェス
ティヴァルの一環で行なわれた。DVDとVHSヴィデオでイーグ
ル・ロック・エンタテインメント社から2003年5月19日に発
売された。モントルーでの映像の権利は、同フェス創始者クロード
・ノブ周辺が持っており、それをイ社が獲得した。長さは約100
分。品番は、EAGLE 801213-00319-8。 監督は、フランソワ・ジャク
ノ。このDVD映像と同時に2枚組の音だけのCD(Eagle EDGCD 
234 )も発売された。CDは、DVD音源を若干編集してある。

  また、日本では同時にマーヴィン・ゲイのドキュメンタリーDV
D『マーヴィン・ゲイ、ビハインド・ザ・レジェンド』も発売され
るので、ぜひあわせてごらんいただきたい。マーヴィンの知られざ
る姿が明らかにされる。

  「ガット・トゥ・ギヴ・イット・トゥ・アップ(発売時邦題、黒
い夜)」から始まり、「ホワッツ・ゴーイングー・オン」まで、見
所はいくつもある。じっくりお楽しみいただきたい。

  マーヴィンはすでに自分が「セックス・シンボル」として女性フ
ァンに受け入れられていることを認識していた。そして、そうした
ファンを喜ばせるための術を知っていた。「アイ・ウォント・ユー
〜アフター・ザ・ダンス」では観客をステージにあげ、チークを踊
る。「レッツ・ゲット・イット・オン」ではこれ以上セクシーな演
出はないであろうというほどの歌声を聴かせる。

  80年7月のライヴは、ちょうど前年(79年)9月の来日公演
の後ということになり、その来日時の構成と基本的には同じだった
ように記憶している。ただ来日時の正確な公演曲目を持っていない
ので確かなことは言えないが、それでも、途中で観客とチークダン
スを踊るシーンなどは、武道館と同じ演出だったので、強烈に覚え
ている。

  簡単に曲のヒット時期などを紹介しておこう。

1)ガット・トゥ・ギヴ・イット・アップ

  77年4月からヒット。ソウルで1位、ポップでも1位。

2)ファンキー・スペース

  79年2月からヒット。ソウルで23位、ポップで106位。

3)カム・ゲット・トゥ・ディス

  73年11月からヒット。ソウルで3位、ポップで21位。

4)レッツ・ゲット・イット・オン

  73年7月からヒット。ソウル、ポップ共に1位。

5)アフター・ザ・ダンス

  76年8月からヒット。ソウルで14位、ポップで74位。

6)A  イフ・ディス・ワールド・ワー・マイン  B  エイント・
ナッシン・ライク・ザ・リアル・シング  C  エイント・ノー・マ
ウンテン・ハイ・イナフ  

  3曲ともタミー・テレルとのデュエットでヒット。A)は、68
年3月からヒット。R&Bで27位、ポップで68位。Bは、68
年4月からヒット。R&Bで1位、ポップで8位。Cは、67年6
月からヒット。R&Bで3位、ポップで19位。このスローにした
Bなどは、圧巻である。

7)ハウ・スイート・イット・イズ

  65年1月からヒット。R&Bで4位、ポップで6位。

8)エイント・ザット・ペキュリアー

  65年10月からヒット。R&Bで10月からヒット。R&Bで
1位、ポップで8位。

9)アイル・ビー・ドッグ・ゴーン

  65年3月からヒット。R&Bで1位、ポップで8位。

10)アイ・ハード・イット・スルー・ザ・グレイプヴァイン

  68年11月からヒット。R&B、ポップ共に1位。

11)トラブル・マン

  72年12月からヒット。ソウルで4位、ポップで7位。

12)ディスタント・ラヴァー

  74年9月からヒット。ソウルで12位、ポップで28位。

13)イナーシティー・ブルース

  71年10月からヒット。ソウルで9位。

14)マーシー・マーシー・ミー

  71年7月からヒット。ソウルで1位、ポップで2位。

15)ホワッツ・ゴーイング・オン

  71年2月からヒット。ソウルで1位、ポップで2位。

  なお、マーヴィンとモータウン社長ベリー・ゴーディーとの関係
については、ベリー・ゴーディー自身が書いた自伝『モータウン、
わが愛と夢』(東京FM出版)に、また、マーヴィンと恩師ハーヴ
ィー・フークワとの関係については、拙著『ソウル・サーチン』(
音楽之友社)の「ハーヴィー・フークワ、マーヴィン・ゲイがあこ
がれた男」に詳しく書かれていますので、御覧ください。  

                        〜〜〜〜〜

  炎。

  MCが観客をあおる。  「おむかえください!  マーヴィン・ゲ
イ!」  さあ、いよいよショウタイムの始まりだ。100分間のセ
クシュアル・ジャーニーへ。マーヴィン・ゲイ、41歳の勇姿を。

  果たして、彼はこのステージに上がる前、その恐怖心をどのよう
に克服したのだろうか。集中心か、あるいは、何かドラッグでもや
ってハイになったか。そのセクシーな姿に、その絶妙の歌いまわし
にあなたは何を感じるか。

  マーヴィンは、  「ホワッツ・ゴーイング・オン」の中でこう言
う。「学ぶことにこそ、人が生きる価値がある。いつか人は魂(ス
ピリット)となり、立派に生きた者は神の炎に戻る。その炎は純粋
で素晴らしい」

  今、この映像の中でマーヴィンの炎が燃えている。この炎は永遠
に燃え続ける・・・。


  これでこのマーヴィン・ゲイの『ライヴ・イン・モントルー19
80』のアルバムはもうおしまい。いかがでしたか。このCDがあ
なたのCDライブラリーにおいて愛聴盤となることを願って・・・


[June 7、 2003: Masaharu Yoshioka] 
"AN EARLY BIRD NOTE"          
"LINERNOTES SINCE 1975"       
http://www.soulsearchin.com 


(2003年7月15日アップ)
    
Masaharu Yoshioka
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