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ギャビン・クリストファー 『ギャビン』
ギャビン・クリストファー  『ギャビン』

ギャビン・クリストファー
『ギャビン』
東芝EMI  (アナログ)  RP28−5606,
             (CD)CP32−5606
1988年4月6日発売
アナログ2800円、CD3200円  (共に廃盤)

原題  Gavin
アーティスト  Gavin Christoper
原盤番号 EMI/MANHATTAN  46998。
原盤発売 88年2月

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   今度あなたのレコード・ライブラリーに加わることになった一枚
のアルバムをご紹介します。

   ギャビン・クリストファーの『ギャビン』

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ハウスにチャレンジ、ギャビン期待の第二弾
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   1986年夏、「ワン・ステップ・クローサー」が全米トップ40ヒッ
トになったギャビンの約2年ぶりの新作が到着した。彼の所属する
マンハッタンEMIからはこのギャビンを始めリチャード・マーク
ス、「セラヴィ」のロビー・ネヴィル、ナタリー・コール等続々と
ヒットが生まれている。

   僕は「ワン・ステップ・クローサー」が大ヒット中の86年7月
に彼に会ってインターヴューすることが出来た。その時の話しを交
えながらギャビン・クリストファーをご紹介しよう。

   前作アルバム・ライナーでもギャビンの音楽的な変遷を詳しくご
紹介したので、それと重複しないように彼の話しに耳をかたむけよ
う。

   ギャビン・クリストファーは1949年5月1日、シカゴのウエ
ストサイドに生まれた。(ただし、生年についてはもうすこし古い
かもしれない。というのは僕の『あなたの生年月日を教えてくださ
い』という質問にメイ・ファースト(5月1日)、ナインティ・フ
ォーティ・・・といって年の部分を考えたからだ。そして、しばら
しくしてナイン=49=といった)  ギャビンの話しをまとめてみ
よう。

   「僕には2人の兄弟と1人妹がいる。妹のショウン・クリストフ
ァーもシンガーでいろいろなレコーディングに参加したりレコード
を出したりしている。僕は3才くらいから歌い始めた。電話帳を持
つのもやっとの僕がそれを家のフロント・ポーチに積みあげてフラ
ンキー・ライモン&ティーン・エイジャーズのヒットやエルヴィス
・プレスリー等を歌った。(註:フランキー・ライモンたちは50
年代中頃から60年代初期の極短期間に活躍した黒人のティーンの
コーラス・グループ。代表ヒットは「ホワイ・ドゥ・フールズ・フ
ォーリング・イン・ラヴ」は1956年の大ヒット)  丁度その前
に工場があって、僕がそこで歌うと工場で働いている人達がよくお
金をくれたものだ。僕の母が僕に大きな影響を与えた。彼女もゴス
ペルをよく歌っていたからだ。僕は教会で育った。僕が生まれ育っ
たシカゴのウエストサイドはとても厳しいところだった。どれくら
い厳しいかといえば、僕と一緒に育った友達のほとんどは今はもう
死んでいる程だ。それほどタフな場所さ。そういう意味では僕はそ
の場から唯一サヴァイバル出来た1人なんだ。あの頃はなんでも覚
えて経験していた頃だった。あそこでどうやって生き延びていくか
を体で覚えた。どのように生きていくか、をね。僕があの場で生き
延びることが出来たのはきっと僕が音楽にのめりこんだからだと思
う。ただストリートで暇をつぶしたり、人を脅したり、ガラス窓を
割ったりするのではなく何かを成し遂げたいという大志を持ってい
たからだろう。僕は学校の音楽のクラスにも出たし、そこの地域活
動にも参加した。そんなことで僕はいつも忙しかった。そうした事
は僕の物事に対する見方や意識というものを養ってくれた。両親は
僕がいろいろ学ぶことを許してくれたし、両親はいつも僕のするこ
とに対して最大限のサポートをしてくれた。特に僕のママはいろい
ろ助けてくれた。彼女自身が音楽好きだからね。ただ、僕は父親の
事はよく知らないんだ。まあ、これがアメリカというわけさ。よく
あるブロークン・ホームの一つということさ。父親は何かミュージ
シャンのような者だったらしい。彼は僕が生まれて4ヶ月の時に家
を出ていってしまった。僕のママは電気関係の工場で働いていた。
彼女は僕達を食べさせていくために二つの仕事をしていた。昼間の
仕事の他に夜はバーテンダーをしていた。もちろん時にはとっても
つらい時期はあったけれど、何とかみんなで切り抜けてきたよ」

   「僕が初めてたくさんの人の前で歌ったのはペプシがスポンサー
になったショウでジョニー・マティスの『ヤング・アメリカンズ』
という番組で歌ったとき。12歳だった。たくさんの子供のメンバ
ーのクワイアー(合唱隊)がいて、ジョニー・マティスがそのクワ
イアーの前で歌い、僕はそのクワイアーの一員だった。その頃僕は
子供だったけれど、よくジョニー・マティスのように歌っていたも
のだ。(といって、ジョニー・マティスのようにイージー・リスニ
ング風に歌う)  子供だったがスーツを着て、歌ったよ。僕は人の
ために歌うのが好きだったから素晴らしかったね。ステージに上が
って、自分がやったことにたいしてオーディエンスが喜んでくれる
のはうれしいものだ」

   「僕が最初に本当にシンガーになろうと決心したのは1963年
頃の事だと思う。地元に橋があって、その橋の下で僕はよく声を出
して歌っていたんだ。そうするとエコーがかかってね。ちょうどバ
ス・ルームで歌うように。橋の下で歌えば歌うほど、エコーがかか
りそれが気に入っていったんだ。そしてそんな頃フランキー・ライ
モンがライヴでプレイするのやエルヴィス・プレスリーの映画を見
たりしてシンガーになりたいな、と思うようになったんだ。フラン
キー・ライモンの「ホワイ・ドゥ・フールズ・フォーリング・イン
・ラヴ」やエルヴィスの「ラヴ・ミー・テンダー」(56年のヒッ
ト)「オール・シュック・アップ」(57年のヒット)などがお気
に入りだった」

   「僕はハイスクールに通い、結局ドロップアウトしてしまった。
その後GDテストを受けて、ウイスコンシン大学にはいり、そこで
2年程勉強した。そこではセシル・テイラーなんかと一緒に勉強し
た。そこにはたくさんのミュージシャンがいて、この頃からいろん
な連中と音楽をプレイするようになった」

   彼は大学を2年ほどでやめ、友人達とバンドを作る。「僕の初め
てのバンドはライフ(LYFE)という名のバンドだった。そう、
チャカ・カーンがいたバンドさ。そこにはほかにも元ロータリー・
コネクションのキャッシュ・マコール、ジョン・スタークンなどが
いて、僕達はシカゴでプレイしはじめた。とても素晴らしいバンド
だった。1971−72年頃の事だと思う。確かチャカ・カーンが
まだ15歳位でとても若かった。(註、チャカはちなみに1953
年生まれなので、68年頃のことか、もしくは、チャカが18歳位
か、記憶違いだろう)  僕達はその当時いわゆる『ウインディ・シ
ティ・ミュージック』(註、シカゴは風が強いことで別名ウインデ
ィ・シティと呼ばれる)と呼ばれる音楽をやっていた。ウインディ
・シティ・ミュージックというのは、他の地域の音楽等と比べると
アグレシブ(攻撃的で)なものだった。それはジャズとR&Bを混
ぜあわせたようなものだった。シカゴからはラムゼイ・ルイス、ハ
ービー・ハンコック、アース・ウインド&ファイアー等多くのアー
ティストが出てきた。大きなチェス・レコードもあった。僕達はよ
くチェスのレコーディング・スタジオでリハーサルしたものだ。と
いうのはメンバーのなかに元ロータリー・コネクションのメンバー
がいたからなんだ。(註、ロータリー・コネクションは、チェス専
属のアーティストだった。ロータリー・コネクションからはその後
ミニー・リパートンがソロに独立して成功を収める)」

   このバンドはシカゴのクラブ等でプレイしていた。さらに彼が続
ける。「僕はシカゴのクラブで15年間、週に7日間プレイしてい
た。一晩に45分のステージを7回もこなしていた。正に『奴隷の
ドライヴァー』のようなものだったよ。(笑い)  もし運転しなけ
れば、ピストルを頭に突き付けられる、そんな感じでやらなければ
ならなかった。だけど、それは素晴らしい経験になった。何をすべ
きかをよく学んだ。僕はシカゴのありとあらゆるクラブでプレイし
たし、近くのウイスコンシンあたりまでも出向いた。僕はとにかく
たくさんのローカル・バンドにはいって歌った。ライフの他にはガ
ライア(GOLIAH)、ボインク(BOINK)などのバンドに
参加したけれど、どのバンドもレコーディング契約は無かった。当
時週に5−60ドルを稼いでいた。あの頃は家に祖母と住んでいた
ので、バンド演奏のギャラは僕にとってはポケット・マネーのよう
に使えた。やりたいことに使って、何も問題は無かった。当時はド
ラムをやっていた」

   1974年のある日の午後、彼はちょっとした曲のアイデアを思い付
く。「あるとき閃いたんだ。『ワンス・ユー・ゲット・スターテッ
ド、イッツ・ハード・トゥ・ストップ(一度動き出したら、止める
のは難しい)』というフレーズだ。例えば、そうポテト・チップを
食べ始めると、もう止まらないだろう。音楽も一度書き始めたら止
まらないのさ(笑い)。そして、これが数か月後にルーファスがレ
コーディングして大ヒットしたんだ。これは僕が生まれて初めて書
いた曲なんだよ」

   ギャビンはこの後順調にソングライターとして又アーティストと
して地道に活動し始める。1977年、アイランドと契約、2枚のアル
バムを出し(どちらもタイトルは『ギャビン・クリストファー』、
1枚目は1977年4月、2枚目は1979年6月発売)、その後もセッシ
ョン・ワークを続ける。

   1983年友人ポール・ペスコのつてでニューヨークのシステムのメ
ンバーを紹介され、彼らがてがけていたアリスタのジェフ・ローバ
ーのアルバムにも参加。これ以来システムとは交流を深めている。

   そして、1985年マンハッタン・レコードと契約、1986年5月同レ
ーベルからの第一弾『ワン・ステップ・クローサー』を発売、タイ
トル曲が全米でトップ40にはいる大ヒットになった。


アルバム紹介

   本作はギャビンのマンハッタンからの2枚目。全米では88年2
月10日の発売予定。原盤番号はEMI/MANHATTAN  4
6998。

   最近好調のマンハッタンからのギャビンの新作は二つの点で注目
される。

   まず第一点。プロデューサーに、今もっともホットなプロデュー
サーとして注目されているニューヨークのシステムを起用している
点。もう一点は、B面1曲目に収録されている「キャント・プット
・ザ・ファイアー」でやはりこのところアンダーグランドな部分か
ら徐々にメジャーの存在になりつつあるシカゴの「ハウス・サウン
ド」と「ハイエナジー」風のサウンドをうまくミックスさせている
点。

   システムはニューヨーク系のファンクやブラック・コンテンポラ
リー作品に親しまれている方ならよくご存知だと思うが、ミック・
マーフィーとデビッド・フランクの二人組で、独特のシンセ・ファ
ンクを得意とするサウンド・プロデューサー。アンジェラ・ボフィ
ール、チャカ・カーン等をプロデュースする一方で自分たちもアー
ティストとし既にアルバム4枚を発表し、昨年発売されたその最新
盤『ドント・ディスターブ・ディス・グルーブ』からはタイトル曲
が全米でポップのトップ20に入る大ヒットになった。

   ちなみに本アルバムからの最初のシングルは彼らのプロデュース
したA4「ユー・アー・フー・ユー・ラブ」である。

   一方のシカゴの「ハウス・サウンド」は約2年位前(1986年夏)
頃から注目され始めた新しい動き。シカゴを発生地とするダンス・
ミュージックの流れで、元々シカゴのディスコのDJがハイ・エナ
ジーとR&B、ソウルをミックスしたような誰にでもわかり易いダ
ンス・ビートを安価のドラム・マシンや既存のレコードをミックス
したりして作り出すようになったもの。当初の「ハウス・サウンド
」の特長としては非常に安っぽいサウンドがウリだったが、昨年始
めイギリスでスティーブ・シルクがヒットを出して以来ちょっとし
たメジャーな存在になっている。サウンド的にはソウルというより
もハイ・エナジーをルーツとするものと見てよく、それに場合によ
っては黒人のソウルフルなヴォーカル、さらにのりの良いパーカッ
ションをうまくを加えソウル的な味を出すときもある。最近ではア
ース・ウインド&ファイアーの「システム・オブ・サヴァイバル」
の12インチ・シングル等がその影響を受けたものだったが、このギ
ャビンのアレンジはコマーシャルなブラック・コンテンポラリーと
ハウスを実にうまくミックスしたもので、大ヒットになる可能性が
高い。ニューヨークのクラブ等では大ヒット確実だ。

   これまでにも「ハウス」がメジャーになるか否かはいかにそのエ
ッセンスをメジャーなブラック・コンテンポラリーのサウンドのな
かに取り入れることが出来るかにかかっていたが、これによってそ
れが成し遂げられようとしている。この曲はアルバムのカギとなる
1曲であり、第2弾シングルとして大ヒットが期待される。

   これでこのギャビン・クリストファーの『ギャビン』のアルバム
はもうおしまい。いかがでしたか。このレコードがあなたのレコー
ド・ライブラリーにおいて愛聴盤となることを願って・・・

[February 3,1988 : Masaharu Yoshioka]
"AN EARLY BIRD NOTE"


  (2003年2月6日アップ)
    
[February 3,1988 : Masaharu Yoshioka]
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