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マイ・ラヴ・イズ・フリー〜ザ・ベスト・オブ・ダブル・エクスポージャー
cover
ダブル・エクスポージャー
『マイ・ラヴ・イズ・フリー
〜ザ・ベスト・オブ・ダブル・エクスポージャー』


東芝EMI
TOCP−64311
2548円(税込)
2003年2月26日発売


原題 MY LOVE IS FREE THE BEST OF DOUBLE EXPOSURE
アーティスト DOUBLE EXPOSURE
日本編集
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   今度あなたのCDライブラリーに加わることになった一枚のCD
(アルバム)をご紹介します。

   ダブル・エクスポージャーの『ベスト・オブ・ダブル・エクスポ
ージャー』
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ダブル・エクスポージャー・ストーリー
〜初の一般発売された12インチを世に送り出したグループ〜
______________________________
ACT  1.  シグマ誕生

   DIY。

   1968年8月5日。フィラデルフィア、212ノース・トゥエ
ルヴス・ストリート。この日、ひとりのエンジニアが、古くなった
スタジオを改装しひっそりと新たなスタジオとしてオープンした。
彼は自分の家財など一切を担保にいれて作ったわずかな資金で古い
スタジオを買い取り、約8か月かけて自から配線をし、大工仕事を
こなして作りあげ、新たなスタジオとして再オープンしたのだ。彼
の名は、ジョー・タルシア。

   その時、彼が手作りで完成したスタジオ・ルームは、たったひと
つ。  そこには古びれた8トラックと4トラックのテープレコーダ
ー、わずか14チャンネルの入力端子のボードしかなかった。ジョ
ーは、このまさにドゥ・イット・ユアセルフ(DIY)で作りあげ
たスタジオに「シグマ・サウンド・スタジオ」と名付けた。

   当初は、スタッフを雇い入れることもできず、スタジオの予約を
受け、コンソールに座って本業のミックスの仕事をし、スタジオの
後片付けや、はてはトイレ掃除まで彼はすべてひとりでこなした。

   しかし、まもなくケニー・ギャンブル、レオン・ハフ、トム・ベ
ルら地元のプロデューサーがここでレコードをプロデュースし、次
々とヒットが生まれるようになり、  全米各地からこのスタジオを
指名してくるアーティストやプロデューサーが出現するようになっ
た。70年代に入ると、シグマ・サウンド・スタジオから生まれた
フィアラデルフィア・サウンドは一躍時代の寵児となっていく。

   ここからは無数のミュージシャン、アレンジャー、プロデューサ
ー、シンガーたちが生まれ、成長し、ビッグになっていった。

   そして、このシグマに出入りするミュージシャンの中に、ロニー
・ベイカー(ベース奏者)、ノーマン・ハリス(ギター)、アール
・ヤング(ドラムス)という3人の男たちがいた。

   彼らは70年代に入り「ゴールデン・フリース」というプロダク
ションを設立、レコード制作をするようになった。


ACT  2.「サルサ」と「ソウル」


   サルソウル。

   一方、74年、ニューヨークですでにジャズや、ラテン音楽の制
作、販売で成功を収めていたジョー、ケン、スタンリーのキャリー
兄弟が、サルサとソウルをあわせたダンサブルな音楽を出していこ
うと、その名もサルソウル・レコードを設立した。サルサのジョー
・バターンのレコードを出した後、彼らはフィラデルフィアのアレ
ンジャーであり、ヴァイブ奏者であるヴィンス・モンタナから提案
されたダンサブルなディスコ・レコードを作る。そして、でき上が
ったレコードがサルソウル・オーケストラの75年8月に発売され
た「サルソウル・ハッスル」だった。

   サルソウル・レコードは、このヒットで勢いづき、次々とディス
コ・レコードを出そうとする。そこに、ノーマン・ハリスらがてが
けるフィラデルフィアで長年活躍してきていた4人組R&Bヴォー
カル・グループのプロジェクトが入ってきた。ノーハン・ハリス、
ロニー・ベイカー、アール・ヤングの3人は「ベイカー・ハリス・
ヤング・プロダクション」の名で、彼らをプロデュース。76年4
月、アルバムに先がけてリリースされた「テン・パーセント」がデ
ィスコで大ヒットになる。それが、ダブル・エクスポージャー(二
重露光)という名前のグループだった。サルソウルは、このダブル
・エクスポージャーのヒットでさらに勢いを増し、ディスコ・レー
ベルとしての地位を決定付けることになっていく。


ACT  3.  ユナイテッド・イメージ


   下積み。

   ダブル・エクスポージャーは、アメリカ・ペンシルヴェニア州フ
ィラデルフィアで1964年頃結成された4人組のR&Bヴォーカ
ル・グループである。(66年説もあるが、76年発売のイギリス
のブラック・ミュ−ジック誌で、結成12年とされているので、一
応64年頃の結成をとる)  当初はユナイテッド・イメージと名乗
っていた。メンバーはジェームス・ウィリアムス(後にはジミー・
ウィリアムスと表記されることも多い。また後年D・トレインとし
てデビューするジェームス・ウィリアムスとは同名異人)、ジョー
・ハリス、チャック・ウィッティングトン、レオナード・バッチ・
デイヴィスの4人。それぞれ正確な出身地は確定しないがフィラデ
ルフィアに育ち、そこで知り合い、グループを結成した。

   グループの母体ができあがったとき、彼らは16歳くらいだった
というから、皆1948年頃(前後2年程度の誤差の可能性あり)
の生まれと思われる。当初は、多くの黒人グループ同様、ゴスペル
を歌っていたが地元のクラブや南部などでR&Bやヒット曲を歌っ
ているうちに、レコーディングのチャンスを得る。ジェームス・ウ
ィリアムスは、60年代にフィラデルフィアで活躍したR&Bヴォ
ーカル・グループ、アンバサダーズ(アークティック・レーベル)
に一時期参加していたこともある、という。

   66年から約2年メンバーは徴兵に招集され、グループ活動は一
時休止したが、そんな時期にもドイツ駐在だったジェームスは、現
地で仲間を集めグループを結成し、レコーディングもしたことがあ
るという。

   68年、彼らはフィラデルフィアに戻り、再びライヴ活動を行う
ようになった。ユナイテッド・イメージは、地元でちょっとした人
気となり、同地のソウル系レコード会社「フィラ・オブ・ソウル」
でレコード作りをしたこともあるプロデューサー、ジェシー・ジェ
ームスに認められ、レコーディングのチャンスを得る。

   ジェシー・ジェームスは、フィラデルフィアでファンタスティッ
ク・ジョニーCの「ブーガルー・ダウン・ブロードウエイ」(67
年10月からヒット、ソウルで5位、ポップで7位)、クリフ・ノ
ーブルズ&カンパニーの「ホース」(68年6月からヒット、ソウ
ルで2位、ポップで2位)などをプロデュースしていた地元の有力
プロデューサー。

   ジェシーがプロデュースしたユナイテッド・イメージのシングル
は、「The African Bump b/w Hit Man」 というもので、ジェシーの
レーベル、ブランディング・アイアンからリリースされた。しかし
、残念ながらこの曲はヒットしなかった。(この曲がスタックスか
ら発売されたという説があるが、スタックスのリストにはないので
おそらくまちがい)

   彼らはその後70年、同じくフィラデルフィアを本拠とするレコ
ード制作会社エニグマティック・プロダクションに誘われ、新たに
レコーディング。この曲が、メンフィスの名門ソウル・レーベル、
スタックス・レコードから発売された。

   当時、スタックスは地元メンフィスだけでなく全米各地のプロダ
クションの作品を買い上げて全国発売していた。エニグマティック
・プロダクションからは他にリミテーションズなどというグループ
がスタックスに作品を提供していたために、ユナイテッド・イメ−
ジの作品もスタックスから全国発売されることになったのである。

   それが71年8月に発表された「Love's Creeping Up On Me B/W
  I'll Keep Coming Back」(Volt 4065)である。スタックスのディス
コグラフィーには、ユナイテッド・イメージとしては、これしかな
いので、おそらくリリースされたのはこの一枚なのだろう。しかし
メンバーによると、このときバニー・シグラー(同じくフィラデル
フィアのアレンジャー/プロデューサー/シンガー)のプロデュー
スでアルバム半分程度(5−6曲)の作品は録音していた、  とい
う。  だが残念ながら、スタックスの都合で発売は御蔵入りになっ
た。
   この「ラヴズ・クリーピン・・・」という曲を今聴くと、確かに
迫力のあるリード・シンガーの声がジェームスのように聴こえなく
もない。

   これもヒットしなかったため、彼らは再び地元を中心にクラブな
どでのライヴ活動に精を出す。そんなうちに、今度は同じフィラデ
ルフィアのアレンジャー/プロデューサーであり旧知のノーマン・
ハリスからプロデュースしたいとの申し出を受ける。グループとノ
ーマンは地元の音楽仲間で、既に61年頃から面識があった、とい
う。ノーマンはプロデューサーとしての仕事を広げようとしていた
ときで、4人組はノーマンのプロデュースで再度レコーディングす
ることになった。


ACT.4  ダブル・エクスポージャー


   二重露光。

   彼らはグループ名を「ユナイテッド・イメージ」から「ダブル・
エクスポージャー」に変え、75年12月11日、フィラデルフィ
アのシグマ・サウンド・スタジオでデビュー曲となる「テン・パー
セント」他を録音する。

   ギターも担当するノーマン・ハリスは、  ベースのロン・ベイカ
ー、ドラムスのアール・ヤングとともに、このプロジェクトをプロ
デュース。

   フィラデルフィアですでに有名になっていたスタジオ・ミュージ
シャンたちを起用してレコーディングした「テン・パーセント」は
、軽快なディスコ調のサウンドになった。特にアール・ヤングが叩
き出す絶妙のドラムスは、この曲に完璧な息吹を与えた。ミュージ
シャンたちは、プロデューサー、ケニー・ギャンブル&レオン・ハ
フらが持つフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルのア
ーティストやその他のバックを録音してきた連中と同じで、そのサ
ウンドはまさに、フィラデルフィア・サウンドだった。

   サルソウルは、76年3月4日、キャリー兄弟がノーマン・ハリ
スとともに「テン・パーセント」をリミックス。これが7分07秒
のヴァージョンである。

   サルソウルはこのとき、「テン・パーセント」の12インチ用の
ロング・ヴァージョンを作るにあたり、ニューヨークの複数のディ
スコDJに、いわゆるコンペティション形式でミックスのアイデア
を募集した。その結果、70年代初期からニューヨークのディスコ
「ギャラクシー21」、「ファンタジア」、「バターミルク・ボト
ム」などでDJをしていたウォルター・ギボンズ(1954年生ま
れ)のヴァージョンが採用されることになり、彼が本ミックスを担
当することになった。

   そして発表されるのが9分15秒のヴァージョンだ。(本CDで
は、元のマスターである9分41秒のヴァージョンを収録。9分1
5秒のものは、この9分41秒の物を少し早目にフェードアウトし
たものと思われる)


ACT.5  非売品12インチへの渇望


   一般発売。

   サルソウルは、76年4月、この2ヴァージョンをAB面に収録
した非売品12インチ・シングル(当時は「12インチ・ディスコ
・ディスク」もしくは「ジャイアント・ディスコ・シングル」など
と呼んでいた)をまず、プロモーション用に100枚程度プレスす
る。  その時点では、まだ12インチを一般発売する考えはなかっ
た。

   この12インチのリアクションは非常によく、サルソウルはまず
今までのレコード発売形態通り、7インチ・シングル(17センチ
・シングル。いわゆるドーナツ盤)を5月上旬に一般発売。当初の
シナリオでは、7インチを出して、その一月後あたりにアルバム発
売というものだった。

   76年5月1日付けビルボード誌でディスコ・ミックスもてがけ
るコラムニスト、トム・モウルトンは「ノン・コマーシャル(一般
発売されていない)12インチの『テン・パーセント』が地元ディ
スコでの支持を得てチャート入りを果たした」旨を報告。同日付け
ビルボード誌ディスコ・チャート「トップ・オーディエンス・レス
ポンス」(15位までをランク付け)で、「テン・パーセント」は
14位に初登場。その後、チャートを上昇し、6月5日付けから6
週間最高位2位を記録する。

   ところが、この曲の非売品12インチに対して予想以上に一般の
人からの人気が高まり、一時、これに当時のアルバム定価よりも高
い7ドル近くの値がついたこともあり、サルソウルは「12インチ
のマーケットあり」と踏み、それまで非売品だった12インチ・シ
ングルを一般発売することにしたのである。

   12インチ・シングルは、1975年以降、アトランティックを
皮切りにいくつかのレコード会社がディスコのプロモーション用に
非売品として制作してきていた。しかし、どこのレコード会社も一
般発売は時期尚早として見送っていた。そこをサルソウルは他社に
先駆けて一般発売することにしたわけである。非常に先見の名があ
ったと言える。

   こうして、サルソウルは「テン・パーセント」の2ヴァージョン
入りの12インチ・シングルを5月中旬に一般発売したのである。
この頃のアルバムの値段は6ドル98、7インチは大体1ドル。そ
んな時代に、  12インチには2ドル98セントの値段が付けられ
た。

   5月29日付けビルボード誌ディスコ・チャートの「ダウンステ
ア・レコード(ニューヨークのダンス・レコードに強い小売り店)
のベストセラー・ランク」(15位まで)では、この12インチが
2位に初登場している。

   ちなみに、7インチは、5月22日付けビルボード・ソウル・チ
ャートに入り、その後最高位63位を記録。

   アルバム発売は、6月末頃に予定されていたが、12インチのセ
ールスが予想以上に好調で、最終的には10万枚近くの売り上げを
記録。そのため、アルバム発売を少し遅らせ、結局アルバムは7月
末になってやっと発売された。

   7月にリリースされたアルバムからも他の曲がディスコでヘヴィ
ー・ローテーションでプレイされ、このアルバムは、同年夏のディ
スコにおける大ヒットになった。


ACT.6  レコード・リスト


   ディスコグラフィー。

   ダブル・エクスポージャーとしてのシングルおよびアルバムは次
のとおり。(12D)および曲タイトル後に(12')と表記してあるもの
は、12インチ・シングル)

= DOUBLE EXPOSURE SINGLES =

Salsoul 2008 Ten Percent
              Pick Me          (76-5)
    12D  2008 Ten Percent (12')

         2012 My Love Is Free
              Just Can't Say Hello (77-1)
    12D  2012 My Love Is Free (12')

         2013 Everyman (Has To Carry His  Own Weight)
              Gonna Give My Love Away(76-10)
    12D  2013 Everyman (Has To Carry His  Own Weight) (12')
    12D  2016 My Love Is Free
              It Don't Have To Be Funky (To Be A Groove)(Sals
               oul Orch) (12')

         2069 Newsy Neighbors
              Handyman        (78-9)
     SG  2069 Newsy Neighbors  (12')
              Don't Stop Me Now
         2079 Perfect Lover
              I Declare War
         205  Perfect Lover (12')
         2091 I Got The Hots For Ya
              Perfect Lover (79-7)
         304  I Got The Hots For Ya (12')
              The Hump: Son Of: Return Of
Gold Coast 1103 Yes I'm In Love With You
           (81- )

=Albums=

1) 「Ten Percent」(Salsoul 5503 - 76-7)
2) 「Fourplay」(Salsoul 8501 - 78-10)
3) 「Locker Room」(Salsoul 8523 - 79-7)


   ダブル・エクスポージャーの1枚目は、76年夏からディスコを
中心に大ヒットとなった。しかし、続く第二弾アルバムの発売まで
には予想外に時間がかかった。一般的に言えば77年中には第二弾
がでても良さそうだったが、それは実現せず、第二弾アルバム『フ
ォールプレイ』が発売されたのは、第一弾から2年余を経た78年
10月のことだった。  第二弾の制作陣は、第一弾と大幅に変わっ
ていた。ファースト・アルバムのもっとも素晴らしかった点は、「
ベイカー・ハリス・ヤング」の3人組ががっちり手を組んでアルバ
ムを作りあげたところだったが、ここでは、ロン・ベイカーとアー
ル・ヤングが抜け、ノーマン・ハリスだけがかかわっていた。おそ
らく、フィラデルフィア・サウンドが爆発的にヒットし、彼らが超
多忙になったため3人のスケジュール調整が難しくなったことや、
3人の音楽的意見の相違も考えられる。そうしたことから、ダブル
・エクスポージャーのアルバムの発売も遅れたのかもしれない。

   第二弾からは、ファースト・チョイスのヒット曲「ニュージー・
ネイバーズ」のカヴァーがちょっと話題になるが、なぜかほとんど
ヒットにならなかった。

   そして、79年7月、第三弾アルバム『ロッカー・ルーム』が発
売される。ここでは、ロン・ベイカーがプロデューサーのひとりと
してカンバック。フィリー・サウンドというよりもインスタント・
ファンク調のファンキーなサウンドの第一弾シングル「アイ・ガッ
タ・ザ・ホッツ」がディスコを中心にヒットした。

   しかし、ダブル・エクスポージャーとしては、2作品連続で思っ
たほどのヒットに至らなかったためサルソウルとは別れることにな
る。

   ダブル・エクスポージャーの3枚のアルバムを聴くと、圧倒的に
ファースト・アルバムのできが素晴らしい。ここで聴かれるマジッ
クは、他の2枚にない。「ベイカー・ハリス・ヤング」のもっとも
エネルギーにあふれたサウンドとヴォーカル・グループとしての彼
らの迫力が一番よく表現されたからだ。


ACT.7  解散の後


   巡り合わせ。

   81年、彼らはカーティス・メイフィールドと関係のあるマーヴ
・スチュワートが持つシカゴのインディ・レーベル、ゴールド・コ
ーストと契約。ライオネル・ジョブのプロデュースで  シングル1
枚「イエス・アイム・イン・ラヴ・ウィズ・ユー」をリリースする
が、ヒットには至らず、グループは解散。

   83年、リード・シンガーのジェームス・ウィリアムスはサルソ
ウルに戻り、ソロ・シンガーとして「オール・オブ・マイ・ラヴィ
ン」をリリース。これは、クール・アンド・ザ・ギャングの弟分的
な存在だったクラウン・ハイツ・アフェアーというファンク・グル
ープのメンバー、レイモンド・リードの兄弟であるバート・リード
がプロデュースした。  さらに、ジェームス・ウィリアムスは、8
7年、イギリスのハードコア・レーベルで「ドゥ・ユー・リアリー
・ウォント・トゥ・ウエイト」を発表。

   その後、彼は同じくフィラデルフィアのグループ、トランプスの
リード・シンガーになった。トランプスは、78年に映画『サタデ
イ・ナイト・フィーヴァー』で、「ディスコ・インフェルノ」が使
われ人気となっていたが、80年代中期以降、二つのグループに分
裂していた。ひとつは、ダブル・エクスポージャーの1枚目でドラ
ムを叩いていたアール・ヤングのグループと、もうひとつは、スタ
ンリーとハロルド・ドック・ウエイド兄弟とロバート・アップチャ
ーチが参加するトランプス。ジェームス・ウィリアムスは、トラン
プスの初期のリード・シンガー、ジミー・エリスが85年に引退し
たのを機に、後者のグループに参加。このトランプスは、ジェーム
ス、ウエイド兄弟にジェリー・コリンズの4人で構成されている。

   さらに、90年代に入って、トランプスはイギリスのハイエナジ
ー系プロデューサーとして活躍していたイアン・レヴィンのプロデ
ュースで4曲を録音、2曲はジュニア・ギスコムの作品(ジュニア
は、81年「ママ・ユースト・トゥ・セイ」の大ヒットで有名)だ
ったが、残る2曲をなんと、ダブル・エクスポージャーのヒット曲
「テン・パーセント」と「マイ・ラヴ・イズ・フリー」をカヴァー
したのである。まさに巡り合わせである。

   ダブル・エクスポージャーは、70年代初期に多数でたフィラデ
ルフィアからのヴォーカル・グループのひとつである。サウンドか
らすると、彼らが手本にしたグループは、ハロルド・メルヴィン&
ブルー・ノーツあるいはオージェイズあたりである。ダブル・エク
スポージャーはリード・シンガー、ジェームス・ウィリアムスとそ
のコーラスということで、リードとバック・コーラスという形がで
きていた。ハロルド・メルヴィンたちの場合も、オージェイズの場
合も同じだ。前者のリード・シンガーは、後にソロになるテディー
・ペンダグラス、後者のリードは、エディー・リヴァートである。

   ダブル・エクスポージャーは、グループとしては76年から82
年ぐらいまでの間に活躍したある意味で「過去のグループ」だ。だ
が、最初のコマーシャル12インチを発売したグループとして、デ
ィスコの、あるいは、12インチ・シングルの歴史に堂々とその名
を残すアーティストとなった。

   「テン・パーセント」を  リミックスしたウォルター・ギボンズ
は、70年代にはこのダブル・エクスポージャーを皮切りにサルソ
ウル・レーベルを中心に多数のリミックスを行なった。だが80年
代後期には音楽ビジネスの世界から足を洗い、クリスチャンとなる
も、94年、40歳の若さで死去する。

   「ベイカー・ハリス・ヤング」トリオのうち、ギターのノーマン
・ハリス(1947年10月14日生まれ)は、  1987年3月
20日に死去、わずか39歳だった。ベースのロン・ベイカーは、
1990年8月死去している。彼も40代だったとみられる。

   さらに、ジミー・ウィリアムスが1995年1月29日に他界し
たという情報もあるが確認されていない。

   時は流れる。シグマ誕生から四半世紀以上が経た。歴史の一ペー
ジをになった彼らのうちの何人かが他界してもおかしくはない。そ
れでも、フィラデルフィアのレガシーは、決して色褪せることはな
い。


ACT.8  そして、今。


   現在。

   シグマ・サウンド・スタジオには、現在編集室も含め9つのスタ
ジオがある。4トラックと8トラックしかなかった小さなスタジオ
一室で始めたそれは、アナログで48トラック、テープを使わない
デジタル32トラックの最新機器などを備えた大きなスタジオにな
っている。過去30年以上にわたって制作されたアルバムから、1
50枚以上のゴールド・ディスク、プラチナム・ディスクが生まれ
壁にはそうしたゴールド・ディスクなどが所狭しと飾られている。

   創立者のジョー・タルシアは、現在は会長に退き、現場は息子の
マイケル・タルシアが社長となっている。34年間に録音された無
数のセッションのうち、このダブル・エクスポージャーのファース
ト・アルバムのセッションはシグマ設立8年目に録音された一枚の
アルバムである。


■本CD/曲目紹介

   本CDは、日本で編集されたダブル・エクスポージャーのCD。
このCDの大きな特長は、これまでCD化されていなかった7イン
チ・ヴァージョンが5曲収録されている点。  3枚のアルバムから
11曲(トラック1から11まで)が選ばれた。さらに、「テン・
パーセント」は、ウォルター・ギボンズのヴァージョン、「マイ・
ラヴ・・・」はトム・モウルトンのリミックスが、「エヴリマン」
は、2001年にリリースされたニューヨークのDJ、ダニー・ク
リヴィット・ヴァージョンが収録されている。

1、テンパーセント

   ソウル・チャートでは76年5月からヒット。最高位63位、ポ
ップでは54位を記録。ディスコ・チャートでは「トップ・オーデ
ィエンス・レスポンス・ニューヨーク」で2位。ここでは3分05
秒の7インチ・ミックスを収録。

2、マイ・ラヴ・イズ・フリー

   第3弾シングル。ソウルでは77年1月からヒット。最高位44
位、ポップで104位。ビルボード・ディスコ・チャートでは、「
テン・パーセント」「エヴリマン」とともに、最高位8位を記録。


3、エヴリマン

   シングルとしては76年9月発売の第二弾。ソウルで84位を記
録。ディスコでは、前述通り8位。
   以上3曲がファースト・アルバムからで、3曲ともアラン・フェ
ルダーの作品。やはり、彼の作品が強力のようだ。

4、ハンディマン

   2作目から。

5、ニュージー・ネイバーズ

   2作目から。元々は、同じレーベル・メイトのファースト・チョ
イスのヒット曲のカヴァー。78年9月に7インチ、12インチ両
シングル発売がされるが、なぜかヒットには至っていない。ディス
コ・チャート入りも果たしていない。

6、ゼア・イズ・ノー・リーズン

   2作目に収録。

7、キャン・ウイ・ビー・イン・ラヴ

   3作目に収録。

8、アイ・ガット・ザ・ホッツ・(フォー・ヤ)

   3作目からの第一弾シングル・ヒット。79年7月発売。ソウル
で33位を記録。  ソウル・チャートではダブルたちの最高位を記
録。ディスコ・チャートでは、79年8月4日付けに初登場して以
来、9月15日付けで記録した37位(トップ100)が最高位。
それまでと違いレーベルメイトのインスタント・ファンク風のサウ
ンドになった。

9、パーフェクト・ラヴァー

   2作目からのシングル。彼らのスロー・バラードの中では、一番
いいできの作品。オージェイズ、ブルーノーツを思わせる典型的な
フィリー・バラードで、当時シングル・カットされたのもうなずけ
る。

10、ホワイ・ドゥ・ウイ・ハヴ・トゥ・ゴー・フォー・セパレー
ト・ウエイズ

   3作目の一番最後に収録。なぜ我々は別々の道を行かなければな
らないのか、というタイトルだが、彼らがこのアルバムを機にサル
ソウルを去ることを考えると、感慨深いものがある。

11、フォーリング・イン・ラヴ

   2作目に収録。

12、テン・パーセント

   ウォルター・ギボンズのリミックス。当時は、「ディスコ・ブレ
ンディング」と呼んでいた。

13、マイ・ラヴ・イズ・フリー

   これは、「ディスコ・ミックスの父」トム・モウルトンのミック
ス。

14、エヴリマン

   ダニー・クリビットのエディット・ヴァージョン。イギリスで2
001年にストラット・レコードから発売されたヴァージョンのC
D化。

   これでこのダブル・エクスポージャーの『ベスト・オブ・ダブル
・エクスポージャー』のアルバムはもうおしまい。いかがでしたか
。このCDがあなたのCDライブラリーにおいて愛聴盤となること
を願って・・・

[January 15, 2003: MASAHARU YOSHIOKA]
"AN EARLY BIRD NOTE"
"LINERNOTES SINCE 1975"
http://www.soulsearchin.com

(参考資料)

《ブラック・ミュージック誌76年10月号》《CD『ベスト・オ
ブ・ダブル・エクスポージャー』ライナーノーツ=ローレンス・ロ
ーカー記(イギリス、チャーリー・レコード)》


(2003年2月26日アップ)
    
Masaharu Yoshioka
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