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インコグニート(ジャン・ポール・ブルーイ・モニーク)インタヴュー
インコグニート(ジャン・ポール・ブルーイ・モニーク)インタヴュー

『トラヴェリング・ミュージシャンのソウル』
【2002年12月10日】


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  モーリシャス共和国。

  インド洋の西、アフリカ大陸の東の端にある人口 100万余で東京
都とほぼ同じ程の小さな島国。毎日水平線から大きな太陽が上り、
いつも青空が広がり、  規則正しく水平線に真っ赤な太陽が沈む。
仏、英の植民地を経て1968年に独立したその国に生まれたのがイン
コグニートのリーダー、ブルーイだ。

  「祖父は僕にもっとも影響を与えた人物の一人だ。祖父はイタリ
アに行ったことがないのに、本を読んだりして、イタリアのスパゲ
ティーはどうだとか、どこそこの街はどうだ、とかいろいろな事を
教えてくれて、子供だった僕の世界を広げてくれた。僕が一番好き
なのは、旅をすること。そして、音楽をすること。今は幸いその両
方ができる。  音楽を作って旅をするし、旅をするために音楽をす
る。いってみれば僕は『トラヴェリング・ミュージシャン』だよ」

  67年頃ロンドン。彼は母親に連れられ兄弟と移住。当初は英語も
まったくしゃべれず辛い日々が続いた。「ロンドンに来て2日目に
雪が降った。今まで雪なんか見たこともなかったからね。ロンドン
は寒くて暗い。なにしろ僕は短パンしか持ってなかった。(笑)」

  モーリシャス時代には「セガ」という地元のアフリカ系の音楽の
とりこになっていたが、ロンドンでは様々な音楽に触れ、そうした
ものをどんどん吸収していった。

  78年ライト・オブ・ザ・ワールドというグループを結成したがそ
のメンバーのひとりで親友がデビュー・アルバムを録音した直後に
交通事故で死亡。

  「死んだクリストファーは親友だった。彼にとっての世界はこれ
から始まるところだったのに。僕は、彼と一緒でなければバンド活
動はできないと思い、バンドを辞めた。いろいろ考えたよ。同じ車
に乗っていて、彼は僕の代わりに死んでいった。なんて人生とはは
かないものか。自分はこれから何をすべきか。その頃よく聴いてい
たのがスティーヴィー・ワンダーだった。そして、ただ音楽を作る
だけでなく、(彼のように)人々のために何かできるような音楽を
作らなければならないと強く思うようになった。そして、インコグ
ニートを作ることにしたんだ」。

  1981年4月。インコグニート・デビュー。そして、92年、彼はそ
のスティーヴィーの「ドンチュー・ウォリー・バウト・ア・シング
」を録音。喧嘩をしないモーリシャスの人々は、常に物事を前向き
に捉えるという。この曲は、モーリシャス人であるブルーイにもイ
ンスピレ−ションを与え、大いなる賛歌となった。そしてそれは旅
するミュージシャンのソウルの叫びでもある。

(吉岡正晴)


東京ブルーノート2002年12月16日から21日まで、22日から26日まで
横浜モーションブルー。  

(毎日新聞2002年12月14日付け夕刊、楽庫に掲載)
(新聞では『旅する音楽家の魂』のタイトルがついています)

(2002年12月17日アップ)
    
MASAHARU YOSHIOKA
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