●スティーヴ・マンチャ死去~100プルーフなどデトロイト・ソウル・シーンで活躍

●スティーヴ・マンチャ死去~100プルーフなどデトロイト・ソウル・シーンで活躍
【Steve Mancha, Detroit Soul Man Dies At 65】
訃報。
デトロイト出身のソウルフルなシンガーで、ノーザン・ソウル・シーンを代表する歌手の一人でもあったスティーヴ・マンチャが、2011年1月8日午後4時8分、地元デトロイトのフォード病院で死去した。65歳だった。長く病気を患っていた、という。
1月23日に、デトロイトで友人たちが集まってトリビュート・イヴェントが行われる。
スティーヴ・マンチャは、その迫力のあるヴォーカルが最大の持ち味。個人名義のほか、100プルーフ(ワン・ハンドレッド・プルーフ)、エイス・デイ(8thデイ)などでも活躍、前者は「サムバディーズ・ビーン・スリーピング」(1970年=ソウルで6位、ポップで8位)が自身の歌でヒット、後者は「シーズ・ノット・ジャスト・アナザー・ウーマン」(1971年=ソウルで3位、ポップで11位)のヒットにかかわった。
スティーヴ・マンチャは、本名クライド・ダーネル・ウィルソン、1945年12月25日、サウス・キャロライナ州ウォーレル生まれ。5歳の頃(1951年頃)デトロイトに引越してきて、その後1960年頃までには、デトロイトの教会などで歌うようになっていた。デトロイトの音楽シーンで知り合ったメルヴィン・デイヴィス、トニー・ニュートン、そして、デイヴィッド・ラッフィン(のちにテンプテーションズのリード・ヴォーカルの一人に)らと「ジェイウォーカーズ」というグループを結成。その後、クライドはウィルバート・ジャクソンと「ザ・トゥー・フレンズ」という二人組み(デュエット)を結成、デトロイトでインディ・レーベルを始めていたハーヴィー・フークエがやっていた「HPCレコード」と契約、シングル「Just Too Much To Hope For c/w Family reunion」を1960年にリリース。ほとんどヒットはしなかったが、前者は、1967年、モータウンのタミー・テレルにカヴァーされる。その後、ハーヴィーは別のレーベルを、グエン・ゴーディー(モータウンを始めたベリー・ゴーディーの姉)とともに立ち上げるが、なかなか資金的にもうまく行かず、自身のアーティストを含めてレーベルをベリー・ゴーディーに売却してしまう。トゥー・フレンズとしてモータウンではヒットは出なかったが、二人はソングライターとしてモータウンでいくつかの曲を書くようになった。マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルの「マイ・リトル・ラヴ」、モニターズの「ナンバー・ワン・イン・ユア・ハート」などがモータウン時代の作品。
クライドは、モータウンを離れ、同じくデトロイトのもう一人のドン、ドン・デイヴィスと親しくなり、彼の勧めで芸名をつけることにした。それが、スティーヴ・マンチャという名だった。1965年10月、ドンの持つグルーヴスヴィル・レコードから「ユーアー・スティル・イン・マイ・ハート(You’re Still In My Heart)」さらに、1966年3月に「アイ・ドント・ウォント・トゥ・ルーズ・ユー(I Don’t Want To Lose You)」(ビルボード・ソウル・チャートで34位を記録=初チャートヒット)などでデトロイトではかなりの人気シンガーとなった。
ドン・デイヴィスは、南部メンフィスのスタックス・レコードともつながりがあり、その後1969年に、ドンが持っていたスティーヴのマスターを、『レア・スタンプス』というアルバムにしてスタックスからリリース。ただし、このアルバムは、片面がスティーヴでもう片面がJJバーンズという珍しい2人アーティストのアルバムだった。
スティーヴは、その後もいくつかのヴォーカル・グループを転々とし、地元では有名な存在に。この頃残したシングル盤が後にイギリスのソウル・ミュージック・シーンで、いわゆる「ノーザン・ソウル」(南部のソウル=アメリカのサザン・ソウルに対して北部のソウル、という意味とイギリス・ロンドンより北の地域のクラブなどで人気があったノーザンという両方の意味がある)ということで注目を集め、スティーヴもちょっとした人気シンガーとなった。
1969年、モータウンを辞めたソングライター・チーム、「ホランド・ドジャー・ホランド」が設立したホットワックス/インヴィクタス・レコードと「ワン・ハンドレッド・プルーフ・エージド・イン・ソウル」というグループの一員として契約。100プルーフは1971年「サムバディーズ・ビーン・スリーピング」というミディアム調の作品をヒットさせ、これはゴールド・ディスクになる大ヒットとなった。100プルーフは3人組で、スティーヴ・マンチャのほか、エディー・ホリデイ、そして、ジョー・スタッブスからなる。ジョーは、フォー・トップスのリード・シンガー、リーヴァイ・スタッブスの弟。またジョーは、コントゥアーズ、オリジナルズ、ファルコンズなどデトロイトの名門グループを渡り歩いてきた。100プルーフは、1973年までに解散。
このインヴィクタス/ホットワックス時代には、レーベルメイトでもあったジョージ・クリントンのパーラメントのヒット「ブレイクダウン」などにも、クレジットなしで傘下していたこともあるという。1970年のパーラメントの『オズミウム』収録の「カム・イン・アウト・オブ・ザ・レイン」などでも迫力のあるヴォーカルを聞かせている。そして、100プルーフとほぼ同時に、スティーヴが書いた作品「シーズ・ノット・ジャスト・アナザー・ウーマン」という曲をレコーディング、これはエイス・デイ(8th Day)名義でリリースされ、またまた大ヒット。エイス・デイは、グループの実体を作るために、スティーヴの古くからの友人メルヴィン・デイヴィスをグループに推薦、メルヴィンが同グループのリード・ヴォーカルとなった。正式にはメルヴィンがリード・ヴォーカルということになっている。スティーヴ・マンチャは、その後再びソロ・シンガーとして活動していた。特にイギリスの「ノーザン・ソウル・シーン」では、引き続き人気を得ていた。
そうした人気を背景に、1998年ごろ、イギリスのディスコ、ソウル系のプロデューサー、イアン・レヴィンが彼と契約、イギリス録音の作品をいくつかリリースした。イアン・レヴィンは、アメリカのソウル・ミュージックが大好きで、契約のないソウル・シンガーと次々と契約し、レコード作りをしていた。イアンの持つ「モーター・シティー」レーベルでは、スティーヴ・マンチャの作品も残されている。
■ 100プルーフ

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■ スティーヴ・マンチャ

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■ 『レア・スタンプス』(JJバーンズ、スティーヴ・マンチャ)

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OBITUARY>Mancha, Steve (December 25, 1945 – January 8th, 2011, 65year old)

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One Response to ●スティーヴ・マンチャ死去~100プルーフなどデトロイト・ソウル・シーンで活躍

  1. as-one.roco says:

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    いつもブログアップありがとうございます。とても参考になって。楽しんでいます。ところで、久保田さんのコーラスで注目の吉田博さんのライブに行かれますか。柿崎さんも参加で期待大です!ワタシは田舎から遥々出掛けます!!