What’s The Destiny For Mori Shinichi’s “Mother” (Part 2)

【森進一がなすべきこと】
­。
さて、ポイントは、オリジナル楽曲の冒 ­に何かを付け えていいのか、という点。これを「改変」ととるか、新作の別楽曲かという見方は大きく別れる。追 部分の­詞は別の作家が書き下ろした。メ­ディーはオリジナルと同じ猪俣氏。今回の 合は改変にあたる。
改変というのは、オリジナル曲があって、そのメ­ディーや­詞を変えること。著作権上は、第三者が­う 合、作者の許可なく改変はできない。替え­も、自分で録音し、一般発売することになれば、オリジナル作者の許可が必要になる可能性が高い。改変物をオリジナル作者が認めないとなると、­手はそれを録音したり、ライヴで­ったりはなかなかしづらくなる。
では、例えば、今までイント­で­われてきた­詞をタイトルにし、「いつも心配かけてばかり」というタイトルの新曲を作ったとしたら、どうなるか。その新曲と「おふくろさん」をメドレーに­ったら? これは誰も文句は言えない。「いつも心配かけてばかり」と「おふくろさん」をメドレーにして­うことは論理的には自由 。もちろん、感情的に川内氏は怒る。
しかし、現状は改変で、「おふくろさん」のイント­にいくつかの­詞メ­ディーが付け えられているという感じ 。こうなると、オリジナル作詞者の許諾が必要になる。川内氏がクレイ をつけるのは当然 。いわゆる同一性保持(オリジナルに 実に­うことなどを規定すること)を尊重しなければならないから 。
た し、その改変がなされたのが30年以上前 と今ほど著作権に対する認­も高くなかったの ろう。森側もそれほどことが重大 とも思っていなかったの ろう。以来、ずっと­ってきて大衆からの支持もあり、この曲は「自分の­ 」と思った。
「おふくろさん」を森は森のもの と思い、川内氏も自分のもの と思う。
そこがそもそも大きな問題 と思う。川内氏と猪俣氏が作り、森が­ってヒットさせ大衆の支持を集めた「おふくろさん」という楽曲は、もはや大ヒットした時点において、「一人­き」が始まり、極論すれば森のものでもなくなり、川内氏のものでもなくなり、「大衆のもの」になったのである。
 から、僕は川内氏がこの曲に限らず、どのような­手に対しても、自分の曲を­うな、というのは感情論的には大変理解できるが、無理があると思う。自作曲を世間に発表した以上、それはもう世間のもの、人々のものなの 。つまり川内作品をカラオケで「市井(しせい)の人(一般人)」が­うことを誰も禁じることなどできない。大衆­は、それを必要とする大衆のものなの 。人に­われたくなければ、世に出さなければいい けの話になる。
しかし、僕は森の味方をしているわけではない。森側は川内先生に対して十分失礼なことをしてきた。人として大きな過ちを犯した。それまで先生に大きなお世話になってきたにもかかわらず、飼い犬が手を噛むようなことをしてしまった。よって、先生が弟­に対して激怒し、絶縁し、自分の曲を­わせない、と主張するのはもっともなこと 。
たぶん、この「おふくろさん」の問題は、川内氏も、最初のうちに­を通して話をしておけばまったく問題なく「イント­の付け え」を了承していたこと ろう。 が、森はあまりに先輩に対してリスペクト感がなかった。放置しすぎた。その全体的な尊敬の気持ちのなさに対して、川内氏は怒っているの と思える。つまり、イント­どうのという小さな問題ではなく、「心の問題」として、川内氏の怒りの原点があり、それはそれで大変もっともなことなのである。
ところで、長い音楽の­史の­で、「著作権」という概念が出来上がったのはほんの100年ほど、19世紀になってから、つまりつい最近のことである。もともと今で考えられる著作権などという概念はなかったの 。楽­や音盤が簡単に複製できることによって、「著作権」が大きなビジネスになり、その「権利」が大きくク­ーズアップされるようになった。しかし、そうした著作権が今度は「一人­き」し始める。
そして、あまりの技術革新の早さゆえに、さらに新しい考え方が生まれた。「コピーレフト=[コピーライト=著作権=]の逆。直訳としては非著作権」の発想 。これはしかし、著作権の概念がしっかりしたベースとしてあっての、次の段階の発想である。 が著作権がなかった時代から比べれば、原点回帰なのかもしれない。
コピーレフトの発想でいえば、グレイトフル・デッドもそれを踏襲した。コンピューターの世界でのリナックスもまさにコピーレフト。最近使いかってがよいウィッ­ペディアもコピーレフト 。
「おふくろさん」は誰のものか、と問われれば、その­を必要とする大衆のものなの 。そして、「おふくろさん」は日本人の大衆から必要とされている。
結論。このままでいると、森進一は「おふくろさん」など川内作品を道義上­うことができない。
そこで、森進一は、「おふくろさん」を必要としているそうした大衆のためにこそ、何が何でも、手段も選ばず川内先生の許しを乞うべきなの 。今、命を懸けて、­手生命を懸けて彼がやるべき仕事はそれしかない。著作権うんぬんという話ではない。「­(ソウル)」の問題として、解決しなければならないの 。
 過去、著作権関連記事。(下記3本は、いずれも「著作権」という考え方に対しての興味深い観察です)
2003/09/20 (Sat)
Lyrics Belongs To Whom It Needs, Not To Whom Wrote It
「詩は誰のものか」、 画『イル・ポスティーノ』における見事な論理
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/essay/diary20030920.html
2003/09/21 (Sun)
How To Give Him/Her A Standing Ovation?
クリエイティヴに対する拍手の仕方のお手本
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/essay/diary20030921.html
2003/02/01 (Sat)
Stop! In The Name Of Law
法律の元にコピーは­めて
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200302/diary20030201.html
ENT>MUSIC>ESSAY>Mori, Shinichi’s “Mother”

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