Lou Rawls Dies Of Lung Cancer At 72

【ルー・ロウルズ死去】

低音。

低音の魅力で60年代から活躍してきたヴェテラン・ソウル・シンガー、ルー・ロウルズが1月6日(金曜)朝、ロス・アンジェルスのシーダース・サイナイ病院で肺ガンのため死去した。72歳だった。ロウルズは、先月、脳にも転移していたガンの手術のため入院していた。彼は2004年12月に肺ガンが見つかり、さらに2005年5月脳にもガンが発見されていた。死の床には2004年1月に結婚した妻のニーナさん、子供たちが付き添った。ロウルズは、ルーアンナ・ロウルズ、ルー・ジュニア・ロウルズ、ケンドラ・スミス、エイデン・ロウルズら4人の子供たちによって送られる。

ロウルズは2005年ワールドシリーズ第二戦が故郷シカゴで行われた時、国歌斉唱した。これは、シカゴ・ホワイトソックス(井口資仁選手所属)とヒューストン・アストロスが対戦した10月23日のこと。このシリーズは、シカゴが4連勝してワールド・シリーズを制している。

ルー・ロウルズは、本名ルールス・アレン・ロウルズ、1933年12月1日シカゴ生まれ。(これまで生年は広く1935年とされていたが、今回33年に改められた) シカゴのサウスサイドで祖母によって育てられた。幼少の頃からゴスペルを歌い頭角を現し、当初はゴスペルシンガーとして活躍。その後、ソウル、ジャズ、ポップと芸域を広げていった。ソウル・ジャイアントのひとりサム・クックとは幼馴染で、サムとともにピルグリム・トラヴェラーズというグループで巡業にでていた。そんな58年、交通事故に会う。同乗者の一人は死去、サムは軽症ですんだが、ルーは大怪我を負い、病院へ搬送される途中で一度は死亡を宣告された。しかし、一週間近くの意識不明を乗り越えその後復活。これを機に彼はゴスペルから世俗的音楽(ソウル、ジャズ)などに転向することになる。

ロスアンジェルスに本拠を移し、コーヒーハウス、ライヴ・ハウスなどで歌い始めるが、キャピトル・レコード近くのコーヒー・ハウスで歌っていたところをキャピトルのプロデューサーに見出され、61年、キャピトル・レコードと契約。ジャズ系の作品を歌いヒットを出す。中でも66年の「ラヴ・イズ・ア・ハーティン・シング」はソウル・チャートで1位を記録、彼の出世作となった。さらに、67年「デッドエンド・ストリート」、71年MGMへ移籍して「ナチュラル・マン」などの大ヒットがでた。「ラヴ・イズ・・・」は、アーサー・コンレイの大ヒット「スイート・ソウル・ミュージック」の中で、ルー・ロウルズの名前とともに、歌われている。

そして、彼にとって最大のヒットとなったのが、76年、フィラデルフィア・インターナショナルからリリースされた「ユール・ネヴァー・ファインド・アナザー・ラヴ・ライク・マイン(邦題、別れたくないのに)」。ポップなソウル曲でソウル・チャートで1位、ポップ部門でも2位を記録、ゴールド・ディスクに輝いた。グラミー賞に12回ノミネートされ、「デッドエンド・ストリート」、「ナチュラル・マン」、「アンミステイカブリー・ルー」で3回受賞している。

彼の最大の魅力は、4オクターヴが出るという低音の声。この声だけで、彼とわかり、しかもその渋さで爆発的人気を得た。ゴスペルをルーツにしながらも、ソウル、R&B、ポップ、ジャズとあらゆる音楽ジャンルに挑戦したことも、彼の革新的なところだった。また、70枚以上のアルバム、18本の映画、16本のテレビ・シリーズにも出演、CMでもおなじみになっている。映画の中には『ブルース・ブラザース2000』などがある。アメリカでは76年以来ビールのアンハイザー・ブッシュのCMで彼の存在がよく知られている。

また、ロウルズは様々な慈善事業、社会活動にも熱心だった。特によくしられているのが、ユナイテッド・ニグロ・カレッジ・ファンド(黒人大学基金)への資金集めのチャリティー・イヴェントでの活動。これまでに2億ドル以上を集めたという。

日本には71年、89年、90年と来ている。また、90年にはホンダのCMで「ラヴ・ミー・テンダー」が使われ、日本でも人気となった。

■ルー・ロウルズ関連記事

2005/01/18 (Tue)
Lou Rawls, Daddy Again At 69
https://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200501/diary20050118.html

この時点では1935年12月生まれということで、69歳で父にとなっている。

■ルー・ロウルズ公式ウェッブページ(英語)

http://www.lourawls.com

+++++

Lou Rawls: A Man From Dead End Street

思い出。

ルー・ロウルズには3度インタヴューしていた。調べてみると、89年6月20日、21日、90年9月19日の3回。内容はテープを聴き返さないと思い出せないが、ひとつ強力に覚えているのが、彼がワインを飲みながらインタヴューに応じていたこと。けっこう、いい調子で飲んでいて、かなりのりのいい話っぷりになっていた。

そのときは旧ブルーノートでライヴをして、それを見た。ジャズ曲、スタンダードが多かったと記憶するが、もちろん、十八番の「ユール・ネヴァー・ファインド・・・」は歌った。

同じ来日時だと思うが、夜、車で西麻布の交差点を過ぎたちょうどキャンティの前を通ると、ルー・ロウルズがキャンティから出てきたか、入るところだった。車の中から「ミスター・ロウルズ!!」と声をかけると、こちらによってきて、手を振ってくれた。ルー・ロウルズというと、あのキャンティ前の彼が思い出される。

彼の作品のひとつに「デッドエンド・ストリート」という67年のヒットがある。渋いブルース調の曲だが、この冒頭部分がいわゆる「モノローグ」という語りが入っている。これなど、当時は「語り」と言われていたが、今で言えば、「ラップ」だ。そういう意味で、ラップのオリジネイターということも言えなくはない。また彼のもうひとつの代表曲「ナチュラル・マン」もイントロに長尺の「モノローグ」(語り)が入っている。そして、その語りからいきなり歌に移行するところがめちゃくちゃかっこいい。

この歌はこうだ。「みんなはこの街(シカゴ)はリッチな大都市だという。だが、俺はその中のもっとも貧しい土地に住んでいる。明日の希望などない行き止まりの道に住んでるのだ。心のない街。6歳になる前に喧嘩の仕方を学んだ。行き止まりの道に住んで、生き延びていく唯一の方法が喧嘩で強くなることだ。タフで強くならなければならない。二度とこの行き止まりの道には戻らない」

ロウルズは、そんなデッド・エンド・ストリートから抜け出し、見事成功して、世界を手に入れた。

ワールドシリーズの第二戦はあいにく見逃したが、ホワイトソックスの選手(井口を含む)は、みんなルーの国歌を聴いたということになる。シカゴの4連勝は、シカゴアンのロウルズにとって、大きなプレゼントだっただろう。

ロウルズの公式ホームページを見ると、11月まで予定が入っていた。1月から4月まではけっこう入っているが、すべてこれらはキャンセルとなる。

ご冥福をお祈りしたい。

ENT>OBITUARY>Rawls, Lou / January 6, 2006

++本日はマンハッタンズのライヴ評をアップする予定でしたが、ルー・ロウルズ死去に伴い記事を差し替えました。マンハッタンズのライヴ評などは後日掲載します。

カテゴリー: Uncategorized パーマリンク