Eugene Record Of Chi-Lites Dies At 64

【シャイ・ライツのリード・シンガー、ユージーン・レコード死去】

シカゴアン。

2005-0724-0537.jpgシカゴ・ソウルのR&Bヴォーカル・グループ、シャイ・ライツのリーダー的存在でリード・シンガーでもあったユージーン・レコードが7月22日(金)、シカゴ郊外の娘の自宅で癌のため死去した。64歳だった。

ユージーン・レコードは1940年12月23日イリノイ州シカゴ生まれ。幼少の頃ギターをもらい弾き出したことから音楽にのめりこむようになり、十代の頃から音楽活動を開始。十代後半ですでにR&Bヴォーカル・グループを結成した。58年頃、二つのヴォーカル・グループ(シャンターズとディサイデロス)が合体。グループ名はハイ・ライツとなった。その後64年頃にレコード会社を移籍する時に、名前をシャイ・ライツとした。シャイ・ライツは、シカゴの灯の意味。68年、シカゴの有力プロデューサー、カール・デイヴィスによってブランズウイック・レコードと契約。彼らはデイヴィスのプロデュースで次々と作品を送り出すようになる。

69年、「ギヴ・イット・アウェイ」が初ヒットしたのを皮切りに次々とヒットを出すようになる。70年のヒット「アー・ユー・マイ・ウーマン」(ソウル・チャートで最高位8位)は、後にビヨンセの「クレイジー・イン・ラヴ」にサンプリングされ再び注目された。71年暮れにだしたバラードの「ハヴ・ユー・シーン・ハー」、さらに72年の「オー・ガール」の2大ヒットで、一躍人気グループに。

美しいメロディーとユージーンのリード・ヴォーカルがグループの最大の魅力だったが、76年までに所属レコード会社が脱税で告発され、それにともないグループに税務調査が入り、同じく脱税で罰金刑を言い渡されグループ活動に危機が訪れた。さらに、ユージーンはこうしたことに嫌気がさしグループを脱退し、76年、ソロへ独立。だがソロとしてはそれほどのヒットを放つことはなかった。

またユージーンは一時期、ブランズウィック・レコード所属の女性R&Bシンガー、バーバラ・アクリン(1943~1998)(後にスイング・アウト・シスターズでヒットする「アム・アイ・ザ・セイム・ガール」で有名)と結婚していた。

シャイ・ライツは1980年、一度オリジナル・メンバーで再結成。メンバーは頻繁に入れ替わったが、90年に再びユージーンが脱退していた。88年、ユージーンはクリスチャンの洗礼を受け、93年にゴスペル・アルバムを出している。また、ユージーンは、ここ数年を癌を患っていた。現在の妻ジャッキーとは31年間連れ添った。シカゴ生まれ、シカゴ育ちの生粋のシカゴアンだった。

Only Strong Surviveまた、シャイ・ライツとしては映画『ソウル・サヴァイヴァー(Only The Strong Survive)』に出演していたが、ここで登場していたのはマーシャル・トンプソン、ロバート・レスター、アンソニー・ワトソンの3人でユージーンは参加していなかった。このライヴの模様は99年5月に収録されていた。

ENT>OBITUARY>Record, Eugene>2005.07.22 (64)

nasaさん、第一報の情報ありがとうございます。

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