What’d I Write (Part 6): Just One Talent Goes A Long Way

【「何と書いたら」その6】

才能。

盲目であることは、ハンディ(障害)か。この一週間、そのこと、正確には航志くんのことばかり考えている。レイ・チャールズが成し遂げたこと、スティーヴィーが成し遂げていること、そして航志くんがこれから成し遂げるであろうこと。それらに思いを馳せるとき、盲目であることにさほど意味を見出さない。

逆に前向きに捉えれば、盲目であるがゆえにその他の五感が発達し、耳がよくなり、音楽の才能を伸ばす助けになったとも言えるだろう。盲目だったゆえに、音楽の才能の開花が他の人より早くなることもある。

ある人は絵を描く才能がある。ある人はスポーツをする才能がある。ある人は歌を歌う才能がある。だが、別の面での才能が欠けている人もいるかもしれない。絵は天才肌だが、社会的常識に欠け、待ち合わせに時間どおりに来ないとか。それは、常識を守る才能が欠けているからかもしれない。ある人は100メートルを10秒で走る才能を持っているかもしれないが、別の人はまったく絵が描けないかもしれない。

人はそれぞれ、さまざまな才能を持っている。すべてを兼ね備えている人は稀だ。何かの才能を持っている人は、別の才能がないことが多い。それが普通なのだ。

例えば、航志くんの場合、音楽の才能がずばぬけてある。だが、視力という才能が少し欠けている。視力0.01の近眼の人と比べて、彼の視力は0.0かもしれない。しかし、それとてわずか0.01の差なのだ。僕は音楽を聴く才能はあるかもしれないが、演奏したり歌ったりする才能はまったくない。僕の音楽の才能を1.0とすれば、航志くんの才能など10.0以上あるだろう。つまりその個人に何かの才能があるか、ないかというだけの話だ。

視力がないというのは、視力という才能が他の人より少ないだけのこと。耳もあれば、手足もあり、声という才能もある。したがって視力の才能がないことを「障害」と表現するのは、あたらない。腕がないということは、腕を動かす才能が他の人より少ないだけのことだ。仮にカラオケで音楽の才能がないために音痴でも、音楽の才能が少ないとはいえるかもしれないが、それを「音楽才能の障害」とは言わない。

仮に視力という才能がひとつなくても、他に多くの才能があれば、なんら問題はない。視力という才能があっても、注意力を持って歩かなければ、段差があるところで転ぶ。視力という才能がなくても、注意力を持って歩けば、段差があるところで、転ばずにすむ。ただそれだけのことだ。

人間のできること、人間の才能には多くの種類がある。しかし、その才能の多さ少なさにはでこぼこがある。ある人には、ある才能がたくさんあるが、別の才能はない。しかし、別の人には、また違った才能がある。人間は、各自の才能にでこぼこがあるから、個性が生まれる。皆と違うから個性が生まれる。全員が同じ才能のレベルだったら、クローン人間、ロボットのようでおもしろくないはずだ。そしてまた、ある特定の才能がずばぬけてある人に対して、その才能がない人があこがれるのも、自然な流れだ。

そして、もっと言えば、最近の言葉で紹介した千住明さんのこんな言葉が思い出される。「人間が持って生まれてくる元々の才能の差なんて、微々たるもの。だが、そこに(本人の)努力という掛け算をすると、とても大きな差になる」。

http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_05_22.html

ひとつずば抜けた才能があれば、それだけで、素晴らしいことである。そんな一粒の才能が、本人の努力という掛け算をすることによって、はるか彼方への太く光り輝く栄光の道を作り出す。航志くん、迷うことはない。自信を持って、その栄光の道へ歩み出せ。

(2005年6月26日日曜、ソウル・サーチン・トーキングVol.4~レイ・チャールズ=目黒ブルースアレー)

ENT>MUSIC>EVENT>Soul Searchin’ Talking Vol.4

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