Monthly Archives: May 2011

◎ナイル・ロジャーズ、1日だけのブルーノート・ライヴ

◎ ナイル・ロジャーズ、1日だけのブルーノート・ライヴ 【Nile Rodgers & Chic: One Day Only Blue Note Live】 1回。 先月、大きな反響を巻き起こしていったナイル・ロジャーズ&シックが、約1ヶ月ぶりに、マカオでのライヴの帰りに一日だけ東京に寄って、ブルーノートでライヴを行っていった。 ナイルによれば、その日は「マカオを朝3時に起きて(マカオは東京より1時間遅れ)、そこからフェリーで香港に。香港から成田まで飛行機で飛び、成田からここまでは、歩いてきた…(笑)」とステージで語った。大変なハードスケジュールだ。 しかし、この日は一日だけということもあってか、超満員。しかも、セカンドの開始はファーストが押したせいもあってか、30分以上遅れの10時05分開始。セカンドライン・スタイルで白い衣装に身を包んできた彼らが登場するや、観客はほぼその時点で総立ち。あと、ほとんどみんな踊りっ放しになった。 今回のライヴは、ちょうど(2011年)5月27日ニューヨークで62歳で死去したブラック・シンガー・ソングライター、吟遊詩人ギル・スコット・ヘロンに捧げた。 ギル・スコット・ヘロン死去 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10906038516.html ナイル・ロジャーズがギルについてふれたブログ・エントリー http://www.nilerodgers.com/blog/planet-c-blog-roll/361-walking-on-planet-c-my-two-hour-gil-scott-heron-call その日本語訳 http://tinymsg.appspot.com/I7F セットリストは、前回とほぼ同じで、今回は4月に3回だけ演奏された新曲「アイ・ウォナ・ダンス」が堂々と披露された。 しっかりとしたタイトなバンドに、これでもかと出てくるおなじみのヒット曲。ヒット曲の強力さを改めて見せ付けられる。そして、ファンキーで、ダンサブルで、ソウルフルで、エンタテインメント。実に時間を忘れさせてくれるショーであることに変わりはない。 今回は飛び入りというか、予定外のアドリブで、ドラムス、ラルフ・ロールの芸達者なところが披露された。彼はデイヴィッド・ボウイの「レッツ・ダンス」をドラムスを叩きながら歌うが、その前に、「オレはこの曲が大好きで、携帯の着信音もこれだし、朝起きるときの目覚ましもこの曲なんだ。だから、オレに歌わせてくれ」というほど。 「ル・フリーク」のあと、最後の曲に行く前に、キムとともに誕生日を祝われ、みんなが「ハッピー・バースデイ」を合唱。そして、写真撮影のところで、観客が自然と「ウィ・アー・ファミリー」を合唱しだしたのには、驚いた。素晴らしいオーディエンス、素晴らしいヴァイブ。 そして、撮影しているときに、キーボード奏者が、バリー・ホワイトの「アイム・ゴナ・ラヴ・ユー…」のイントロ・コードを弾き出した。すると、ナイルがそれにあわせてギターを弾きだし、徐々に曲ができあがり、ついにはラルフがそれにあわせてドラムスを叩きながら、この曲を歌い始めたのだ。普通は4小節程度でやめるものだが、この日はみんなのっていたせいか、けっこう長くほぼ1曲歌いきった。ラルフの真似したバリーがけっこう低音で似ていてこれがえらく受けた。すると、他にもモノマネができると言われ、結局、マーティン・ルーサー・キング、アーノルド・シュワルツェネガーのモノマネをし、ビギーの曲を数小節歌って見せた。このあたりがポンポンでてくるのが実に楽しい。 ショーが終わったのが、23時54分。驚くなかれ、そのあと、ちゃんと着替えてナイルはサイン会までやった。おつかれさまだ。 (ビギー曲情報、ホームメード家族のクロさんに教えていただきました。ありがとうございます) ■最新作2枚組み、ナイル渾身のコンピレーション・アルバム『エヴリバディ・ダンス!』 エヴリバディ・ダンス! posted with amazlet at 11.04.12 オムニバス ナイル・ロジャース シック … Continue reading

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★エヴァ・キャシディー(パート2):ワシントンDC最高の悲劇のシンガー 

★エヴァ・キャシディー(パート2):ワシントンDC最高の悲劇のシンガー  (一昨日からのつづき) 【Eva Cassidy: The Saddest Singer In Washinton DC】 死後。 しかし、状況は、彼女の死後、急転していく。 地元のシンガー、グレース・グリフィスがブルース・アレイのライヴ・アルバムを彼女のレーベル・オウナーに紹介したところ、この作品を気に入り、同レーベルが3枚のアルバムからベストトラックを選んだアルバムを企画。これが『ソングバード』というタイトルとなり、リリースされた。1998年のことだった。 リリースされた当初は、それほど話題にはならなかったが、それから2年後の2000年この輸入盤がイギリスにわたり、BBCラジオ2のテリー・ウーガンの番組でかけたところ、大いに話題になり、イギリスで10万枚を売るヒットになった。そして、その話題が逆輸入されニューヨーク・タイムスまでが高評価を与えるまでになった。 2000年のクリスマス前までに、イギリスのテレビ番組『トップ・オブ・ザ・ポップス2』はエヴァの『オーヴァー・ザ・レインボー』のビデオを放送。さらに、『ソングバード』のセールスを加速。その他の番組もエヴァを紹介するようになり、イギリスでちょっとしたブームとなった。 結局イギリスではこの『ソングバード』が180万枚という驚異的セールスを記録、最終的にはアメリカでもインディ・レーベルから出たものとしては超異例の50万枚以上のセールス(ゴールド・ディスク)を獲得した。メジャーのレコード会社から出たものではなく、純粋に音楽そのもののもつ力で売れた作品と言っていいかもしれない。 2001年5月、アメリカのABCテレビのドキュメンタリー番組『ナイトライン』が、エヴァのミニ特集を放送。この放送後にはエヴァの5枚のアルバムが一躍ベストセラーになったという。 その後も未発表音源などが編集されアルバムがリリースされ、主としてインターネットでの好調なセールスが続いている。 そして、こうした死後の人気に乗じて、彼女の過去のライヴ音源や、かつて在籍していたバンドの音源までもCD化されるようになっている。 その後、インタヴューを元に構成された伝記本、ミュージカル企画、映画企画なども進む。2002年冬季オリンピックでは、フィギュア・スケートのミシェル・クワンがエヴァの「フィールズ・オブ・ゴールド」をエキシヴィジョンで使用。他にもフィギュアの選手、クリスティー・ヤマグチ、サラ・ヒューズ、キミー・マイズナーなどもエヴァ作品を使用するようになった。ほかにも多くのシンガーたちが、エヴァにインスピレーションを受けて曲を書いたり、トリビュートしたりしている。 特に映画化に関してはロバート・レッドフォードの娘エイミー・レッドフォードがその他2名らが映画化権を獲得、プロデュースすることになっている。 また、彼女は絵画が好きで、自分でも作品を残している。 魅力。 彼女の魅力はなんといっても、そのクセのない透明感あふれる声だ。嫌われない声と言えるもの。それは、たとえば、ノラ・ジョーンズ、ミニー・リパートン、ティーナ・マリーらと同列に並べられる「好かれる声」ということだ。 たまたま彼女は、メジャーなレコード会社と縁がなく、しかも33歳という若さで他界してしまったが、別の出会いがあり、メジャーで多くの宣伝費をかけられてプロモートされたら、もっともっとビッグな存在になっていただろう。 そして、癌となってほんのわずかしか生きられなかった彼女にも、まちがいなくソウル・サーチンの物語があるだろう。そのあたりは、いずれ掘り起こしていきたい。 エヴァ・キャシディー。彼女はグレイテスト・アンノウン・シンガー、フロム・ワシントンDC(ワシントンDC出身の最高に素晴らしいもっとも無名なシンガー)だ。 +++++ ユーチューブから。 オーヴァー・ザ・レインボー http://youtu.be/4RDmXsGeiF8 エイント・ノー・サンシャイン http://youtu.be/mWJQeuOO-VA 枯葉 http://youtu.be/XSXYu-3r1S8 ■ ソングバード (ブレイクのきっかけとなったアルバム) Songbird posted with … Continue reading

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●ギル・スコット・ヘロン62歳で死去~黒人吟遊詩人

●ギル・スコット・ヘロン62歳で死去~黒人吟遊詩人 (エヴァ・キャシディー、パート2は、明日以降におおくりします) 【Gil Scott-Heron Dies At 62】 訃報。 アメリカの黒人吟遊詩人、「ブラック・ボブ・ディラン」「ゴッドファーザー・オブ・ヒップホップ・ラップ」などと呼ばれているシンガー・ソングライター、ギル・スコット・ヘロンが、2011年5月27日(金)、ニューヨークのセント・ルークス病院で死去した。62歳だった。ヨーロッパ・ツアーから戻ってから体調を崩していたという。死因は発表されていない。 スコット・ヘロンは、1970年代から独自の視点で社会を描く作品を多数輩出し、自ら歌と「語り(スポークン・ワード)」をミックスした独自のスタイルでレコーディング。そのメッセージから、ブラック・カルチャーの重要な一役を担った。代表作には、「レヴリューション・イズ・ノット・テレヴァイズド(革命はテレビ中継されない)」、「ザ・ボトル」など。音楽的には、ジャズ、ソウル、ファンク、ブルーズなどを融合。これにナレーションのような語りをいれ、一種の「ポエトリー・リーディング」(詩朗読)をレコード化して独自の世界を作り出した。 それゆえに、後に大きな潮流となるヒップホップのラップに多大な影響を与えた。特にカニエ・ウェストがヘロンをお気に入りでいくつもの曲をサンプリングなどで使用。カニエを通じて、若い世代でも人気を集めていた。2010年、およそ16年ぶりの新作アルバム『アイム・ニュー・ヒア』を出していた。 すでにアメリカ音楽業界の多数の人たちから追悼コメントなどが、ツイッターなどで寄せられている。 パブリック・エナミーのチャックD。「GSH(ギル・スコット・ヘロン)は、世界について、ヒップホップの世界に素晴らしいテンプレート(基準、基本パターン)を与えてくれた」「驚愕しているのは、ちょうど彼の次のアルバム用に1曲書き、ゲスト・ヴォーカルをレコーディングしたところだったからだ。このことから、本当に時は貴重だと思わせられる」 先の「レヴォリューション…」は、マスメディアでは大事なことは何も放送されない、くだらないことしか放送されない、というマスメディア、特にテレビに対する強烈な批判曲だったが、そのタイトルは、時代も流れ、「革命はインターネットで生中継」される時代になった。さすがに、「革命、ネットで生中継」は慧眼のギル・スコット・ヘロンでさえも予期できなかっただろうが、その強烈な本質的なメッセージはいまだに有効だ。 ++++ 「キング・オブ・ヒップホップ・ラップ」 評伝。 まさにヒップホップの世界で言うところのラップという固有名詞がない頃からのオリジナル・ラッパーの一人が、ギル・スコット・ヘロンだ。当時は、彼のようなスタイルは、「スポークン・ワード」「ポエトリー・リーディング(詩の朗読)」「ナレーティヴ」などと呼ばれていた。ときに、しっとり、ときにあじり、抑揚をつけて語るそのスタイルは、のちのヒップホップの世界で形式を確固たるものにするラップの原形ともいえる。ソウルの世界ではルー・ロウルズがこうしたナレーティヴ、スポークン・ワード、ラップが得意だったが、ルーがエンタテインメント系でラップをおしゃれに聴かせたのに対し、ギル・スコット・ヘロンは、社会派、急進派、革新派としてラップ、語りを聴かせ、そのスタンスを鮮明にしていた。 ギル・スコット・ヘロンは1949年4月1日イリノイ州シカゴ生まれ。テネシー州ジャクソン育ち。父親はジャマイカ系、母親はアフリカン・アメリカン。両親の離婚にともない13歳のとき(1962年)、ニューヨークへ。その後ペンシルヴェニア州のリンカーン大学へ進学、ここでミュージシャンのブライアン・ジャクソンと知り合う。大学を2年ほどで中退した彼は、1970年、小説『ザ・ヴァルチャー』、『ザ・ニガー・ファクトリー』を出版。この頃、フライング・ダッチマン・レコードと契約、シンガー・ソングライターとしてもデビュー。すでに社会派メッセージが色濃くでた作品だった。さらに、後にブライアン・ジャクソンと組んで、二人名義のアルバムをアリスタ・レコードからリリース、これが徐々に大評判となっていく。アリスタには1985年まで在籍。 レコーディングにつきあったミュージシャンは、ロン・カーター(ベース)、バーナード・パーディー(ドラムス)、ヒューバート・ロウズ(サックスなど)などそうそうたるメンバーだった。 これらの作品群の中から当時のアルコール中毒問題を歌った「イン・ザ・ボトル」が本人のものでもヒット、またこれをカヴァーしたブラザー・トゥ・ブラザーのものが1974年にソウルチャートで9位を記録する大ヒットになり、一般的知名度を得る。さらに1975年、自ら歌った「ヨハネスブルグ(Johannesburg)」が初ヒット。そのほか「エンジェル・ダスト」「ショー・ビズネス」「Bムーヴィー」「リ・ロン」などがヒットした。 また、シングル・ヒットはしなくとも、アルバムがヒットし、そこに収録されていた「レヴォリューション・イズ・ノット・テレヴァイズド」などは、その後も繰り返し紹介され隠れたヒットになっている。 The Revolution Will Not Be Televised- Gil Scott… 投稿者 larsen42 http://youtu.be/_b2F-XX0Ol0 「ヨハネスブルグ」は,当時まだアパルトヘイト(黒人分離政策)が行われていた南アフリカを批判するもので、アパルトヘイトについて主張する音楽界からのメッセージとしてはかなり初期のものだった。 彼は1979年の『ノーニュークス(原子力反対)』コンサートにも参加。スリーマイル島の事故を受けて、反原発、安全なエネルギーの必要性を訴えた。ヘロンは常にレーガン大統領と保守派政治家に対して、批判的だった。 1985年、ブラック系アーティストが多数集合した反アパルトヘイト・ユニット、アーティスト・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイトのアルバム『サン・シティー』にも楽曲を提供している。 1980年代に入ってからは、ヒップホップ系のアーティスト、特にラッパーたちから尊敬されるようになり、彼自身が「ゴッドファーザー・オブ・ラップ」などと称されることもあった。 しかし、そんな中、彼は既存のラッパーたちに批判的メッセージも送っていた。インタヴューで「彼らはもっと音楽を勉強しないと。僕は詩人になる前にいくつものバンドで音楽を経験してきた。音楽に言葉をただ乗せるだけと、音楽の中に同じ言葉を染み込ませること(blending those same … Continue reading

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★エヴァ・キャシディー(パート1):ワシントンDC最高の悲劇のシンガー

★エヴァ・キャシディー(パート1):ワシントンDC最高の悲劇のシンガー 【Eva Cassidy: The Saddest Great Singer In Washinton DC】 故人。 一昨日ユーチューブ映像で「タイム・アフター・タイム」をご紹介したエヴァ・キャシディーは日本ではほとんど無名のシンガーだ。日本盤は一度もでていないので、若干の輸入盤が出回ったほど。しかも、ほとんど新譜もなく、コンスタントにリリースがないので、知名度もあがらない。なによりも、彼女がすでに若くして亡くなったシンガーということも大きい。彼女のことは数年前に知って、いつかゆっくり紹介しようと思っていたので、「タイム・アフター・タイム」ででてきたので、これを機に少し書いてみたい。 僕が最初に彼女の歌を知ったのは、スティングの「フィールズ・オブ・ゴールド」のカヴァーだった。透き通った声が大変印象的で、すぐにCDを何枚か入手。10年くらい前のことか。CDにはいろいろな曲のカヴァーが入っていた。しかし、調べるとその時点で、もう彼女は故人だった。 ワシントンDC。 エヴァ・キャシディーは1963年2月2日、アメリカ東部ワシントンDC生まれ。4人兄弟の3番目。父はスコットランド/アイルランド系、母はドイツ生まれ。子供の頃から音楽や絵画など芸術に興味を持ち、9歳の頃から父親が彼女にギターを教えるようになった。11歳の頃にすでにワシントンDCのローカル・バンド、イージー・ストリートに参加。以後いくつものバンドに参加したり、スタジオでのレコーディング・セッションに参加するようになる。 そんな中で、ワシントンDCのゴー・ゴー・サウンドのEU(エクスペリエンス・アンリミテッド)や、チャック・ブラウン&ザ・ソウル・サーチャーズらと接点を持つようになり、チャック・ブラウンが彼女の声を気に入り、かわいがられるようになった。そして、これがチャックとエヴァのデュエット・アルバム『ジ・アザー・サイド』につながる。1992年、彼女が29歳のときのことだった。(ちなみに、エヴァはEUの「リヴィング・ラージ」でもバックコーラスをやっているという) このアルバムは、チャック・ブラウンの作品を出しているレコード会社からリリースされた。カヴァー曲中心のアルバムで、ここに収められた「オーヴァー・ザ・レインボー(虹のかなたに)」、「フィーヴァー」、「ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド」などが地元を中心に話題となった。チャックとエヴァで、この時期、地元でアル・グリーンやネヴィル・ブラザースの前座を務めたこともあるという。 1993年にはワシントンDCエリアの音楽賞「ワミー・アワード」で「ヴォーカリスト・ジャズ/トラディショナル」部門を獲得。1994年には同賞受賞式で「オーヴァー・ザ・レインボー」を歌い、これも大喝采を浴びた。その後、ブルーノートと契約、ピーセス・オブ・ア・ドリームと共演したアルバムを出し、ツアーにもでた。 ところが、この頃、エヴァは背中にできたほくろを除去する手術を受けるが、このときは大事には至らなかった。 皮膚癌。 1996年5月にはワシントンDCの有名なライヴ・ハウス、ブルース・アレイでのライヴを収録したアルバム『ライヴ・アット・ブルース・アレイ』をリリース。当初、本人はその出来にリリースを躊躇したが、リリースされたところ、ワシントン・ポストをはじめひじょうに前向きな評価を得て、少しずつ知名度もあがり、以後も活動を続けた。 だが、その『ライヴ』アルバムをプロモーションしていた1996年7月、彼女はお尻に痛みを感じ、それが続いたため、検査をしたところ、黒色腫という一種の皮膚癌になっていることがわかった。さらに精密検査をすると、この癌が肺や骨にも転移しており、その時点で余命3-5ヶ月だと診断され、エヴァはそれを告知された。 手術ができないということで、かなり強い抗癌治療を行ったが、同時に体力も落ちていった。痛みも継続し、治療のために頭髪はなくなっていった。この頃までに、ワシントンDCの音楽業界ではエヴァの病気がかなり悪いということが知れ渡り、9月に、保険に入っていなかったエヴァのために治療費を集めることと彼女を励ますトリビュート・ライヴが行われることになった。 これを聞いたエヴァは大変喜んだが、自分がそれを見に行くことすらできないのではないかと思った。しかし、抗がん剤のために体力の弱っていた彼女は、なんとライヴの2日前から抗癌治療を一旦やめ、体力の回復を図ったのだ。 1996年9月17日、チャック・ブラウンを始めとする友人ミュージシャンたちが、ライヴ・ハウス「ザ・バイヨー」に集まり、エヴァのために多くの作品を歌った。エヴァはすでに車椅子で、歩くにも杖が必要になっていたが、友人たちの力を借りながら気丈にもステージに上がり、スツールに座り、このとき、友人、ファン、家族の前で「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」を歌った。これが、彼女が人前でパフォーマンスする最後となった。そして、その後、ジョンズ・ホプキンス病院に運ばれた。 1996年1月のときの「What A Wonderful World」。ママとパパに捧げている http://youtu.be/uEBBGSgO16M この日を境に、エヴァの体力は落ちていった。ライヴの日が彼女がもっとも輝いた日で、おそらくそのために力の限りを尽くしたのだろう。 エヴァはそのわずか2ヶ月もしない1996年11月2日、自宅で息を引き取った。33歳という若さだった。 エヴァの遺体は故人の意思で火葬され、その遺灰はメリーランド州のセントメリー川ウォーターシェド公園の水際に撒かれた。 しかし、この時点でも、エヴァ・キャシディーはワシントンDCでもほんの一部の音楽関係者と一部のファンだけが知る存在だった。彼女はかつて、「自分のCDを出したところで、誰が買ってくれるの?」とまるで「売れる」ことに無関心だった。 (この項つづく) フィールズ・オブ・ゴールド http://youtu.be/SfPZ_HpnIVY ■ ライヴ・アット・ブルース・アレイ (これも大きなきっかけとなった作品) Live … Continue reading

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●岡伸昭さん、44歳で死去~『フット・ペインティング』を考案

●岡伸昭さん、44歳で死去~『フット・ペインティング』を考案 (本日はエヴァ・キャシディーについてご紹介する予定でしたが、エヴァの記事は明日以降に掲載いたします。また、少し探してから写真を追加します) 【Oka Nobuaki Dies At 44】 訃報。 アーティストで、ダンサーの靴にペンキをつけて、キャンヴァスの上で、ソウル・ミュージックに合わせて踊り、そのステップをキャンヴァスに残すという「フット・ペインティング」という手法の作品を生み出した岡伸昭さんが2011年5月26日(木)午前8時19分、都内西荻窪・越川病院にて癌のため死去した。44歳だった。 アーティストであり美術学校講師も務めていた。また、「ソウル・サーチン」イヴェントでもパネリストとして登壇していた。 「ソウル・サーチン」イヴェントで。パネラーとして。岡さんは一番右。左から吉岡、松尾、オダイ各氏 火葬が本日(5月27日)行われる。 火葬: 2011年5月27日(金)午後1時30分~ 火葬午後2時から 場所 代々幡(よよはた)斎場 東京都渋谷区西原2-42-1 電話 03-3466-1006 京王新線 幡ヶ谷駅下車・南出口より徒歩6分 小田急線 代々木上原下車・北口1出口より徒歩20分 http://www.sato1976.com/sogidate/01-yoyohata-map.htm 問い合わせ 日葬祭典(株) 03-3333-4797 (基本的には家族・親族での火葬ですが、親しい方でしたらいらしてください、とのこと。葬儀は、別府に戻り、親族などで後日執り行われます。また音楽関係者、ソウル愛好家周辺のお別れ会は別途企画されます) +++++ 評伝。 岡伸昭さんは、1966年(昭和41年)6月26日大分県生まれ。 1990年代に数々のアワードを受賞。無類のソウル・ミュージック好きで、ディスコ、ソウルバーなどにも顔を出していた。そんな中、2004年、日本のソウル・ダンス・ステップの多数をクリエイトしてきたダンス界の重鎮、故ニック岡井氏に、青いペンキをつけた靴を履いてキャンヴァスの上で、ソウル・ミュージックにあわせて踊ってもらい、それを作品にする「フット・ペインティング」を考案、作品を制作、その個展を開催した。これらの作品群は、その後も2008年代々木第一体育館で行われた『ソウル・パワー』、さらに同年10月のビームスでの再個展でも展示され、話題となった。 左・2008年9月「ソウルパワー」国立代々木競技場での展示、2008年10月ビームス新宿で個展 無類のソウル・ミュージック好きで、Pファンク、マーヴィン・ゲイ、サザン・ソウルなど多岐にわたり、ソウル・ミュージックを愛していた。特にマーヴィン・ゲイの命日(4月1日)には、毎年青山のソウルバー、OAで追悼DJイヴェントを行っていた。自らアフロ・ヘア、ソウル・ファッションに身を包み、「ソウル・サーチン」などのイヴェントにも登場していた。 タップ・ダンサー、オマー・エドワーズとも意気投合。いつか一緒に作品を作ろうという話をしていた。 タップダンサー、オマー・エドワーズと。いつか一緒に何かやろうと話をしていた いくつかの都内のカルチャースクール系や美術学校などでも講師を務めたり、イヴェント『ソウル・サーチン』でもソウル・アルバムのジャケットについて、アート・ディレクター、美術面からトークで参加。2011年5月20日から5月30日まで八王子のギャラリー・モトで個展『ギミ・サム・モア』を開催中だった。21日のレセプションには顔をだしていた。 ご冥福をお祈りします。 +++++ 岡さん自身のウェッブ http://www.oka-works.com/ 「フット・ペインティング」作品の映像。2008年10月に新宿ビームス・ギャラリーで開いた個展の際に制作したプロモーション用映像 After The Dance 1, Intro … Continue reading

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◇「タイム・アフター・タイム」物語~タック&パティー(パート2)

◇タック&パティー(パート2)~「タイム・アフター・タイム」物語 【”Time After Time” Story】 名曲物語。 シンディー・ロウパーの歌で歌われ大ヒットした「タイム・アフター・タイム」だが、タック&パティーの18番でもある。日本でも大変人気の高い曲だけに、タックたちも必ずこれをステージで歌う。 この曲はこうして生まれた。 シンディー・ロウパーが1983年、デビュー・アルバムを制作しているとき、ほぼレコーディングは終了したが、「もう1曲何かを入れよう」ということで、スタジオで作業をしていた。当時は、レコーディングに予算があったため、デモテープを作らず、いきなり24チャンネルのレコードプラントのスタジオに入っていろいろセッションを繰り広げるうちに曲を作り上げていった。 そんなスタジオのロビーに週刊テレビガイドがあり、そこに『タイム・アフター・タイム』という1979年の映画が放送されると書いてあった。これは、マルコム・マクドゥエルがSF作家HGウェルズ役を演じる物語で、主人公がタイムマシンを発明するという話だった。シンディーはこの単語を見て、ピンと来て、この単語を核にレコーディングを始めた。バンドの一員として参加していたフーターズの一員、ロブ・ハイマンがピアノで伴奏をつけ、適当にコードを弾きメロディーを作りだし、歌詞とメロディーが徐々にできあがった。当初はのりのりのレゲエ調のサウンドだったが、歌詞がほろ苦いストーリーになってきたあたりから、ミディアム調のリズムではなく、スローっぽいテンポの遅いリズムにしたほうがいいということになった。 曲は完成し、アルバムのA面最後に収録される。シンディーの「タイム・アフター・タイム」は、アルバムの一番最後に録音されたが、「ガール・ジャスト・ウォント・トゥ・ビー・ファン」に続く第二弾シングルとして1984年1月にリリースされ、見事に全米ナンバーワンとなった。 ビデオ。 このプロモーション・ビデオも制作されるが、そこではボーイフレンドを故郷において、どこか、おそらく大都会へ旅立つ主人公を演じている。本当は別れたくないが、別れなければならないという雰囲気だ。このビデオには当時彼女がつきあっていて、マネージャーでもあったデイヴィッド・ウルフが出ているというが、この相手役がデイヴィッドなのか、他の端役なのかよくわからない。また、シンディーの実の母は母役で、実の父もダイナーのコック役ででている。このビデオ冒頭で使われている映画は、『ザ・ガーデン・オブ・アラーThe Garden Of Allah(邦題、砂漠の花園)』というマリーナ・ディートリッヒ、シャルル・ボワイエ主演の1936年の映画。最後、主人公たちの別れのシーンのセリフを、何度も見て覚えているシンディーがなぞるところから始まる。 このビデオの食事のシーンは、ニュージャージー州にある「トムズ・ダイナー」で撮影されたが、そのダイナーは一時期はデートスポットとしても大変な人気を博したが、すでにもう閉店している。ただその店自体は取り壊されずに残っている。また、スザンヌ・ヴェガが歌った「トムズ・ダイナー」とは違うダイナーだ。ヴェガが歌ったダイナーは、ニューヨークのブロードウェイと112丁目の角にある「トムズ・レストラン」。 以後100以上のアーティストがカヴァーしている。そんな中でもマイルス・デイヴィスのものと、このタック&パティーのヴァージョンは特に素晴らしい出来になっている。 訳詞。 下記歌詞の「秒針が戻る(逆回りする)Second hand unwinds」というフレーズは、プロデューサーのリックが持っていた腕時計が、普通と逆に針が回るものだったので、それを入れ込んだ、という。 訳詞はあくまでひとつの解釈ということで捉えていただきたい。今回、ちょっとトリッキーに訳したのが最後のSecrets stolenの部分。「盗まれた秘密」は何かをいろいろと考えた。たぶん、いろいろな解釈ができるのだと思う。ここでは、その後に来るdrum beats out of time (ビートのはずれたドラムの音=調子はずれのドラムお音)、にしてみた。本当は、それまで二人のビートは、人生を歩む速度も、なんでもぴったり一緒で同時にリズムを刻んでいたのだろう。だが、そのドラムの音が片方はテンポが速くなり、一方は遅くなり、刻むリズムがずれてきた。それがすなわち二人の心のテンポがずれてきた、そして距離が離れてきた、ということを意味する。今までそのことは、彼に対して言ってこなかったが、ここでその秘密を吐露した。そして、別れたくはないが、別れざるをえない状況になった、という雰囲気だ。でも、心には未練がたっぷりある。 だから最後がI’ll be loving you alwaysとなる。 シンディーにつづいてユーチューブでご紹介するエヴァ・キャシディーについては、また後日。素晴らしいシンガーだが、すでに癌で亡くなっている。きっかけさえあれば、ミニー・リパートンのようなシンガーになれたであろうシンガーだ。ワシントンDCを本拠に活躍していたシンガーで、チャック・ブラウンに可愛がられていた。白人だが、黒人音楽の影響も強いシンガーで、その点ではティーナ・マリー的な部分もある。 シンディー・ロウパー・オフィシャルPV http://youtu.be/3C6AXnnjgqI 故エヴァ・キャシディー・ヴァージョン http://youtu.be/SMznNlfLXP4 ■「タイム・アフター・タイム」(訳詞) Time … Continue reading

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◎ タック&パティー(パート1):復興は始まったばかりというメッセージを語る

◎タック&パティー(パート1):復興は始まったばかりというメッセージを語る 【Tuck & Patti Send Message To Japan: You Are Not Alone】 自由課題。 パティーがゆっくりと話し始めると、そのはっきりした発音をしっかり聞き取ることができる。彼女がこの時期、「You are not alone(あなたがたは、一人ではありません)」とゆっくり語るとき、それは重みを持ったメッセージとして伝わる。しっかりとしたメッセージを持ち、選ばれた言葉によってきっちり心を込めて語る人の言葉は胸にくる。日本の政治家に今もっとも必要とされることでもある。最後おなじみの「タイム・アフター・タイム」のイントロで、パティーがいつになく長めのナレーションをいれたときのことだった。 パティーは銀色のドレス、タックは銀色のスーツ。ステージにはおしゃれな花束にピンスポットが当たっている。タックはほぼ直立不動でひたすらにギターを爪弾く。そして、パティーはそれにあわせて歌う。この二人だけが作り出す世界が会場を愛にあふれる音楽で覆いつくす。本当に世界で彼らだけ、ワン・アンド・オンリーのタック&パティーの音空間。 この日2曲目で長いイントロからスティーヴィーの「アナザー・スター」が歌われたのは驚いた。なかなかめったに聴けない1曲。ブルーノートのセットリストも、ファーストとセカンドでかなり違う。それを見てもわかるように、彼らは事前にまったくセットリストを決めていない。タックでさえも、次の曲を知らない。次の曲を決めるのは、ステージのパティーだ。 ではどうやって次の曲を演奏するのか。タックによれば、「パティーが曲名を耳打ちすることもあるし、いきなり歌い出すこともある。そういうときは、最初の単語で曲名がわかるので、それを弾きだす。でも、『ラヴ』なんて単語で始まる楽曲は12曲以上あるから、どれだかわからなくなって、パニックになることもあるけどね。(笑) すぐ立て直すよ」と言う。 この日もセットリストが少しわからないところがあったので、セットリストを教えてください、と尋ねたら、「事前にはない。でも、すぐに書き出せるわよ」とパティー。僕のメモと照らし合わせて、完成した。 面白かったのは、5曲目の「イン・ザ・ネーム・オブ・ラヴ」。これがわからなかったが、ケニー・ランキンの曲だそう。なんとまだレコーディングしていないが、火曜日のコットンクラブでのステージから何度か試しにやってみた、という。今週初めて歌ってみた曲だという。いずれ、固まったら、レコーディングするかもしれないそうだ。 レパートリーは、たぶん2-300曲はあるという。「パティーの歌詞の記憶力は素晴らしいよ。僕は長い間やってない曲だと、わからないところがあったりするけど、改めて聴いて、メロディーが頭の中で鳴れば大丈夫だ」とタック。 インストゥルメンタルの「マノンナッシュ」という曲は20年以上やっていなかったが、知り合いにやったらどうだと言われ、CDを聞いて今回、試しに久しぶりにやったとステージで言っていた。 「タイム・アフター・タイム」はナレーションから歌を歌い切るまで16分以上の超大作になっていた。 アンコールで歌われた「ドリーム」の最後では、なんと「夢はかなう」と日本語も混ぜて歌った。2-3年前からやっている。 彼らのステージも二度と同じステージはない。たった二人で繰り広げる世界は白いキャンヴァスに何でも描ける究極の自由課題だ。 (この項、つづく。明日は、「タイム・アフター・タイム」の誕生秘話と訳詞をご紹介します) ■ ユーチューブ映像 ケニー・ランキンの「イン・ザ・ネーム・オブ・ラヴ」(シングルヴァージョン) http://youtu.be/UBeN2cie_3Y アルバム・ヴァージョン http://youtu.be/tzXTUk4TfSg タック&パティーの18番、「タイム・アフター・タイム」 http://youtu.be/UZC8J5oX1pg ■ 過去記事 2010年05月09日(日) タック&パティー:愛の常設店 … Continue reading

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◎AJI(アジ)ライヴ

◎AJI(アジ)ライヴ 【AJI】 支援。 震災にあって困窮している東北の食材をバーベキューで美味しく食べて、楽しく応援しようというイヴェントが、2011年5月21日(土)と22日(日)六本木ヒルズ内UMU(ウム)というイヴェントスペースで行われ、両日ともゴスペラーズの弟分的存在のアカペラ・ヴォーカル・グループ、AJI(アジ)がライヴを披露し、イヴェントに華を添えた。 食材の販売も このイヴェントを主催したのは「農家のこせがれネットワーク」。東北で収穫できる野菜や鶏、豚肉などを積極的にプロモーションしようというもの。ここでは、宮城県白石市の養豚農家高橋さんの「ありが豚」の復興応援プロジェクトも展開している。 AJIライヴ、右端は司会の西野七海さん 僕が行ったのは日曜だったが、土曜日は会場内ぎゅうづめになるほどの超満員だったという。ステージに彼ら5人が立ち、10曲を歌った。最近でたアルバム『ハルモニスタ』、6月に出るアルバム『タイム・トゥ・ビリーヴ』からの作品、カヴァー、オリジナルなどを織り交ぜ、約40分のライヴ・ステージを繰り広げた。最後の「ビューティフル・ライフ」は、マイクを使わず、ノーマイクで会場を魅了した。この模様は、ユーストリームで生中継され、ライヴ終了後はアーカイブとして映像が残されている。 AJIの登場は、1時間05分くらいから。まずトーク、そしてライヴがほぼ最後まで。約60分弱。(若干音が割れ気味です) http://www.ustream.tv/recorded/14882478 僕は個人的には10曲の中で、「ドント・ノウ・ホワイ」(ユーストリームでは1時間28分40秒くらいから)が彼らにとてもあってるような感じがした。というか、これ、曲が良すぎるのかな。スモーキー・ロビンソンがカヴァーしたヴァージョンもものすごくよかったが、カヴァーしやすい1曲なのかもしれない。男のソロ・シンガーが歌っても、コーラス・グループが歌っても、もちろん女性シンガーが歌っても、いい感じになる。 いくつもの点でゴスペラーズの弟分的存在なので、どうしてもまだそういう先入観を持ってしまうが、プロデューサーの佐藤善雄さんも言っているが、あと必要なのは名刺代わりになる大ヒット曲だけ、という感じ。そして、おそらくそんな大ヒット曲が生まれればそれが彼らの「AJI味」を広げていくことになるだろう。 サイン会、後ろで暖かく見守る佐藤善雄さん 6月18日(土)には、新作リリース記念ライヴが渋谷のJZ(ジェイズィー)ブラットである。 ■AJIのホームページ http://www.ajiaji.jp/ ■ AJI次回ライヴは、渋谷JZブラット。 2011年6月18日(土)第一部17時半開演、第二部20時半開演(入れ替え制) AJI CD発売記念ライブ 『JZ Brat Special Night ~Time to believe~』 公演日: 2011年06月18日 (土) 会場: 渋谷 JZ Brat (http://www.jzbrat.com/top.html) 時間: 1stステージ 16:30開場 / … Continue reading

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★伊東たけしさん『ソウルブレンズ』に

★伊東たけしさん『ソウルブレンズ』に 【Ito Takeshi On Soul Blends】 サイクリング。 Tスクエアのサックス奏者、伊東たけしさんがTスクエアの新作『Nine Stories(ナイン・ストーリーズ)』のプロモーションで2011年5月22日『ソウルブレンズ』にやってきた。 伊東さんとは、2007年12月に出たソウルのカヴァー・アルバムでお会いして以来。しばらくぶりの感じだったが、3年半ぶりとも思えなかった。 なんと、伊東さんは、ここ数年自転車に凝っていて、休みの日にはかなりの距離を走るという。山のほうに遠出すると一日で170キロも走るそうだ。最近の自転車は軽くなってスピードも速くなり、平均で時速2-30キロ、速いときには4-50キロも出る。 そんな自転車好きが昂じて、伊東さん、「ヒルクライム本部事務局」から請われて、そのアンバサダー(大使)役をおおせつかった。ここでは、サイクリングの大会を一般に広げるためにさまざまなことをやっている。今年から活動を本格的にして、10年後までには、全国の都道府県でサイクリング大会を開催したいという。 そのホームページに行くと、Tスクエアの最新作からの「はやぶさ~The Great Journey:奇跡の帰還」が流れる。(ページを開くとすぐに音がでるので、ご注意ください) http://hill-challenge.jp/index.php この「はやぶさ」は、F1のテーマとなって有名な「Truth」的な軽快なアップテンポの作品。 自転車をやっているので、心肺機能が高まり、サックスを吹くのにもいい影響を与えているという。 また伊東さんは、これとは別に秋口くらいまでに、ビッグバンドを結成してライヴをやりたいという。 ■T Square最新作『Nine Stories』 ナイン・ストーリーズ posted with amazlet at 11.05.22 T-SQUARE ヴィレッジレコーズ (2011-04-27) 売り上げランキング: 382 Amazon.co.jp で詳細を見る ■伊東たけし~ソウルのヒット曲を中心にカヴァーしたソロ・アルバムMellow Madness。2007年12月リリース Mellow Madness posted … Continue reading

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◎ 吉弘知鶴子ゴスペル・ナイト~ブルース・アレイが教会に

◎ 吉弘知鶴子ゴスペル・ナイト~ブルース・アレイが教会に 【Yoshihiro Chizuko Gospel Night】 ゴスペル。 ほぼ一年ぶりとなったブルース・アレイでのニューオーリンズで活躍してきたピアニスト、吉弘さんのゴスペル・ナイト。本当に毎回、その迫力あるライヴにはおそれいる。今回もグリニス・マーティン、アージー・マーティン、ポーラ・ジョンソン、フランク・レグリー、そして、シスター・グエンドリン・リードという超強力なヴォーカル・ラインアップでブルース・アレイを教会化する。これを支えるミュージシャンたちも黒い連中ばかりだ。 前回も登場していたシスター・グエンドリン・リードは、本当にすごい迫力。ロリータ・ハロウェイ、ジョスリン・ブラウン、アレサ・フランクリンに匹敵する迫力だ。ゴスペルの底力というか。彼女はアラバマ州アーネストンというバーミングハム近くの町出身。1991年、小学校の先生として、米軍座間キャンプに来日した。まもなく、座間の教会などでゴスペルを歌い始め、今でも毎週教会で歌っている、という。「サウンズ・オブ・ジョイSounds Of Joy」というのが、彼女のクワイアーでCDも出している。 左から、グリニス、フランキー、ポーラ、アージー グリニス、アージー・マーティン夫妻は、ソウル・サーチン関連でも歌ってもらった。またフランク・ルグリーもブルース・アレイなどでよく歌を見ているいずれも実力派たちだ。普段ソウルを歌う彼らがゴスペルを歌うと、当たり前だが、ものの見事にゴスペルになる。 バックを支えるのが、ドラムスのバート、ベースのキース、そして、ギターに上條頌くん、吉弘さんのキーボードに加え、フィリップ・ウーのキーボードもファンキーに音を加える。バンドも黒ければ、歌も黒い。本物のゴスペル・ライヴだ。 今回見た曲では、どれもいいのだが、グリニスが吉弘さんのピアノ一本で歌った「ディア・ゴッド」、シスター・リードをフィーチャーした「ジーザス・ビー・ア・フェンス」など特に聴き応えがあった。 どの曲も吉弘さんの簡単な解説があってから演奏に入る。また曲名、いくつかの曲の歌詞がプリントされ、事前にテーブルに用意されているあたりも、実にフレンドリーでいい。 もう少し宣伝して、もっと多くの人に見てもらいたいところだ。 ■ 過去関連記事 2010年07月06日(火) 吉弘知鶴子ゴスペル・ナイト http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10582573730.html 2009年01月26日(月) 吉弘知鶴子さん、キング牧師しのぶ会で演奏 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10198127899.html 2008年06月05日(木) 吉弘知鶴子ゴスペル・ナイト http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10103253271.html ■メンバー 吉弘知鶴子 Gospel Night (Pf/HAMMOND B-3)吉弘知鶴子 (HAMMOND A-100/Fender Rhodes/Key)Philip Woo (Ds)Bert Adams (B)Keith … Continue reading

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★ジョー・サンプル・インタヴュー (パート2)~電気キーボードの登場でツアーを続ける

★ジョー・サンプル・インタヴュー (パート2)~電気キーボードの登場でツアーを続ける 【Joe Sample Interview (Part 2): Talks About Creole Joe Band And Zydeco And More】 ジョー・サンプル・インタヴューの昨日からの続き。還暦で、ルーツに戻ったジョー・サンプル。それまでにも、彼は多数のレジェンド(伝説)と一緒に仕事をしてきています。そんなエピソードのいくつかを。 メットポッドでインタヴューの模様を聴くことができます。 http://metropolis.co.jp/podcast/ レジェンド。 ――多くの人たち、レジェンドたちと仕事をしてきていると思います。マイルス・デイヴィス、スティーヴィー・ワンダー、ミニー・リパートン・・・。そんな中で、ビル・ウィザースとの話をしていただけますか。 「ビル・ウィザースは僕が書いた『ソウル・シャドーズ』を歌ってくれたが、彼がスタジオに来て最初に歌ったのを聴いて、『これで仕事は終わった』と思った。ファースト・テイクだ。彼は『いやいやいや、もう一回やる、やらせてくれ』と言ったが、僕はこれで十分すぎると思った。結局、彼は何度となくやらせてくれと言っていたが、なんとかビルを帰すことにして、翌日、そのテープを電話越しに聞かせたら、「『なんで最初のでうまく歌えてるって、言ってくれなかったんだ』と言われた。(笑) 」 「(ビルもジャズとソウルをうまくミックスした人物だが)もうひとり、ジャズとソウルをうまくミックスした人物がいる。仕事を一緒にしてとても楽しめた人物、それがマーヴィン・ゲイだ。彼の素晴らしさについて、たとえばマーヴィンはソウル界の、洗練されたピアノを聴かせるセロニアス・モンクに匹敵すると思う。彼はソウル・シンガーだ」 ジョーは1939年2月1日生まれ、マーヴィンは1939年4月2日生まれ。2ヶ月しか違わない。ビル・ウィザースは1938年7月4日生まれ、みなほぼ同世代だ。 http://youtu.be/TWqGzH9vKg8 ■「ストリート・ライフ」誕生秘話 ――もう1曲、あなたが作った傑作で「ストリート・ライフ」という曲があります。このレコーディング・セッションはどのようなものでしたか。 「1976年、(ランディー・クロフォードが所属する)ワーナーブラザースから連絡があった。ランディーのセッションでピアノを弾いてくれないかと言われた。それが78年に実現するんだが、そのときにこのシンガーは、『オフ・ザ・ウォール・メロディー』を実にうまく歌う(註=壁から自然にとろけるようにメロディーが出るというイメージ)ので、このシンガーにそういう曲を書けないかと思った。僕は、いわゆる『トップ40ライター』(ヒットチャートをにぎわすトップ40ヒットを書く作曲家)ではない。僕は、そうだな、『クリオール・ライター』(笑)なんだがね。ただ、ソウル、ゴスペル、クラシックの要素をいれた曲をランディーに書きたいと思ったんだ。そこで彼ら(ワーナー)に、彼女に曲を書きたいと申し出た。すると、彼らはもちろんと答えた」 「僕は当時、山に家をもっていて、スキーに行った。そこでリフトに乗り、頂上に向かった。リフトに乗りながら、人々が滑っている下のスロープを見下ろした。周りに木々があり、みんなジャンプをしたりして滑っていた。そして、その瞬間に『ストリート・ライフ!』って言葉を思いついたんだ。そこでこの単語を思いつき、メロディーが浮かび、いくつかの歌詞、ストーリーを思いついた。すぐに(作詞家の)ウィル・ジェニングスに電話をして、『いま、こんなメロディーが思い浮かんだので、歌詞をつけてくれ』と頼んだんだ。そして、曲(のデモテープ)を完成させ、クルセイダーズ(のメンバー)に聞かせ、彼らも気に入ってくれた。そのとき、(メンバーの一員)ウィルトン・フェルダーが『この曲を歌うにはオールド・タイム・ヴォイス(昔ながらの声)が必要だ、エンディングをもう少し伸ばしたほうがいい』とアドヴァイスをくれた。結局、これをレコーディングしたら、13分くらいになってしまったので、編集で11分にした。だが、この長さでは通常の『トップ40ヒット』には決してならない。(訳注、普通ヒット曲は3分半程度。ラジオでは長い曲はまず普通かからない) そして(リリースされて)、しばらくしてから、ある夜ベッドに入ろうとするときに、ラジオから『ストリート・ライフ』が流れてきた。そのときに、こう言ったものだ。『Damn, that’s great! くそ、これはすばらしい!』(一同爆笑)」 http://youtu.be/5xovXxa6sGU ――1960年代から、あなたは積極的に新しいキーボードなどを使い、言ってみればそうしたものを使うパイオニアでした。新しいテクノロジーを使ってプレイすることについて、どのようなお考えをお持ちでしょうか。 「1968年、クルセイダーズのメンバーに言ったんだ。『もうジャズ・クルセイダーズとして、一緒にツアーできない。ジャズ・ミュージシャンとして、ツアーをし続けて生きることができない』と言った。というのは、全米のジャズクラブのピアノは、すべてどこへ行っても最悪なものばかりだった。(メンバーの)君たちは、自分のサックスや自分のトロンボーン、自分のギターを持っている。君たちは確実にコンディションのいいものを自分のチョイスで使える。だが、(ピアノは持ち歩けないので。各地の最悪のピアノに)僕はピアノを選べない。それですっかりうんざりしてたんだ。だから、もう旅にはでないで、ロスの家に留まってスタジオの仕事なんかをする、と宣言した」 「すると、ウーリッツァー(電気キーボード)が登場した。1950年代後期にレイ・チャールズがウーリッツァーをプレイするのをテレビで見た。それからフェンダー・ローズが登場した。フェンダーはその頃は、今ほど、十分に強くなかった。僕やジョー・ザビヌルのプレイに耐えられるほどではなかったんだ。僕たちは、フェンダーをよく壊してしまったものだ。そこで僕たちはこれをもっと強くしなければと考えた。しかし、このフェンダー・ローズの登場で、再び、ツアーに出ることができるようになった。だが、このフェンダーはピアノではない。だから、ピアノとはまったく違ったアプローチをしなければならない」 「あらゆる雑誌、キーボード・マガジンなどが尋ねるようになった。『あなたは、電気ピアノからどのようにしてあのサウンドを出すのですか』と。僕は、工場出荷されたままの状態でプレイすることをまず考えた。それからヴォリュームを一番低いところにして、4のあたりにまわしてそこで止める。4を越えると決していい音はでない。(音が割れてしまう) その低いところでの音が、その楽器の一番いい音を出すことができる。だけど、『どうやってあの音を出すか?』って質問かい? それは、この(僕の)指から音を生み出すんだよ!(と、両手の指10本をみんなに見せる)」(笑)(一同爆笑) ――かなりの回数日本の東京にやっていらっしゃいますが、何があなたをこれほどまでに日本に来させるのでしょうか。 まず何より、日本の食べ物(食事)が大好きということがある。(笑) 日本の食事の大ファンなんだよ。僕が日本に初めてやってきたのは1967年、パーシー・フェイス楽団の17人の一員としてだった。以後、ほとんど毎年のようにやってきている。前回は東京ジャズだったかな。それと、僕のロンジェヴィティー(永続性、継続性、長く続くこと)の秘密のひとつは、太陽が昇る前にベッドに入るということだ。(笑)  ――ジョー・サンプルさん、ありがとうございました。 ジョーが今回「ザディコ」を選んで、そのバンドを結成し、演奏を日本で初披露したことには、自らのカルチャーへの敬意を表わす意味がある。世界の各地にさまざまな文化(カルチャー)がある。それが、みな同じではつまらない。あちこちにあるものがそれぞれ違っているから、多様性があるからこそ、おもしろい。そこで、ジョーは「(固有の)文化にしがみつこう(こだわろう)Stick to … Continue reading

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★ジョー・サンプル・インタヴュー (パート1)~還暦でザディコを再発見

★ジョー・サンプル・インタヴュー (パート1)~還暦でザディコを再発見 【Joe Sample Interview (Part 1)* Talks About Creole Joe Band And Zydeco】 ザディコ。 今回のジョー・サンプル・バンドの来日は、ジョーにとってもかなりユニークなものになっている。飯倉のスージーズでカマサミ・コングさんと彼のメットポッド用インタヴューで一緒に話を聞いた。ジョーは言う。「僕は今回はジョー・サンプル・トリオでもなく、ランディー・クロフォード&ジョー・サンプルでもなく、クルセイダーズなどの音楽をやるのではなく、『クリオール・ジョー・バンド』をプレイしにやってきた」 クリオール・ジョー・バンドとは、その彼が目指すものは?  この模様は、メットポッドでインターネットで無料で聴ける。(ジョーの生声が聞けます)(金曜までにアップされる予定です) http://metropolis.co.jp/podcast/ ジョー・サンプル ジョーは実に話題の豊富な人物だ。そして、博識、さまざまな学術的、歴史的な考察から、おもしろいコネタのミュージシャン・エピソードまで、なんでも話がおもしろい。彼とはいつもいろいろな話をするが、ほとんど同じ話がでてこないところがすごい。毎回新鮮なネタを提供してくれる。一方で、他のインタヴューでもおそらく「ザディコ・ミュージックとは何か」という何回も聞かれている質問にも丁寧に、何度でもいやがらずに解説してくれる。このあたりが、プロフェッショナルだ。「ザディコ」を知らない人には一からまるで、家庭教師のように本当に丁寧に説明してくれる。 このインタヴューでは、クリオール・ジョー・バンドのこと、これまでに一緒に仕事をしたアーティストのこと、ビル・ウィザースとの「ソウル・シャドーズ」誕生秘話、「ストリート・ライフ」誕生秘話などが聞ける。 彼が話す前に、この話の前提となるルイジアナ州とテキサス州について簡単におさらいしておこう。これら二つの州はアメリカ中南部にある。ミシシッピー河が二州を分けるが、東側(地図で見ると右側)がルイジアナ、西側がテキサスになる。ルイジアナの西側にテキサスがある。もう一点、クリオールというのは、黒人とヨーロッパ(特にフランス系、スペイン系)との混血人種のこと。ヨーロッパの植民地だったこともあり、そうしたヨーロッパ人たちのミックスが多く、シンプルな黒人たちとちょっと違ったコミュニティーができていた。 まず、この『クリオール・ジョー・バンド』の説明を目を輝かせながら始めた。 ――では、まず今回の来日について、このバンドについて簡単に説明してください。 「説明しよう。僕は1939年テキサス州ヒューストンのサウス・イーストに生まれた。1927年にルイジアナにはミシシッピー川の大洪水(Great Mississippi Flood)が起こり、そこに住んでいた人々はみなヒューストンに移らなければならなくなった。そこで僕は生まれた。ちょうど、ミシシッピー川は、ルイジアナとテキサスを分けるが、その川の氾濫で80万人が家を失い、(ルイジアナのサウス・ウェストに住んでいた人々は)テキサスのサウス・イーストに移住した。そういうわけで、そこにはルイジアナから移り住んできた人々のコミュニティーができた。あらゆるルイジアナ・カルチャーがそのまま移り住んだ。食べ物、音楽、ライフスタイルあらゆるものだ。その頃の(我々クリオールの)音楽は『ララ・ミュージック』と呼ばれていた。ファミリーの曾おじいさん、そのまたおじいさん、あるいは、父母、子、兄弟・従姉妹たち、みんなが月に2回カトリック教会に通った。そこでは「ララ・ミュージック」が流れ、おじいさんも子供も孫も、何世代もの人々が同じ音楽で踊っていた。これは、今までにクリエイトされたダンス・ミュージックの中でも最高のものだった。決して座って聴くことはできない音楽だよ。(笑) 」 1927年のミシシッピー川の洪水は、シンガー・ソングライター、ランディー・ニューマンが「ルイジアナ1927」という作品にしている。これを後にニューオーリンズ出身のアーロン・ネヴィルもカヴァー。 アーロンとインディア・アリーのデュエット・ヴァージョン。 http://youtu.be/-OxcXHuAY0k アーロン・ネヴィル・ヴァージョンの「ルイジアナ1927」収録 Warm Your Heart posted with amazlet at 11.05.19 Aaron Neville … Continue reading

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■『アンサング』6月からシーズン3始まる

■『アンサング』6月からシーズン3始まる 【Unsung: Season 3 Starts June】 シーズン3。 ワシントンDCのケーブル放送局TV ONE制作のブラック・ミュージシャンにスポットをあてるドキュメンタリー『アンサング』の第3シーズンが2011年6月から始まる。ラインナップは次の通り。 June 6 — Deniece Williams June 13 — The Spinners June 20 — Alexander O’Neal June 27 — Big Daddy Kane July 4 — The Ohio Players July 11 — Evelyn … Continue reading

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◇「兄弟の誓い」物語~フィリップ・ウー・ライヴ(パート2)

◇「兄弟の誓い」物語~フィリップ・ウー・ライヴ(パート2) 【”He Ain’t Heavy, He’s My Brother” Saga】 誓い。 2011年5月12日(木)に行われたフィリップ・ウー&フレンズのライヴで、ケイリブの歌で歌われ感動的だった「ヒー・エイント・ヘヴィー・ヒーズ・マイ・ブラザー」。この曲について少しご紹介したい。 これは、ボビー・スコットとボブ・ラッセルという二人が共作したもので、一番最初にレコーディングしたのは、1969年、ケリー・ゴードンというシンガーだった。ただこれはヒットせず。そして、すぐにイギリスのホリーズが録音、1969年9月にイギリス、ついでアメリカでシングル・リリース、全英3位、全米7位を記録。アビー・ロード・スタジオでレコーディングされたここでピアノを弾いていたのはエルトン・ジョンだった。その後、1970年にニール・ダイアモンドがカヴァー、レコーディング。これもシングル・カットされ全米で20位を記録するヒットになった。1988年にはホリーズのものが、イギリスで「ミラー・ビール」のCMで使われ、再度ヒットした。日本ではホリーズのものが有名だが、これには「兄弟の誓い」という邦題がついている。 ところで、この曲を書いた二人は、名作詞家ジョニー・マーサー(「ムーン・リヴァー」など名作多数)に引き合わされ、意気投合。ところが、二人が知り合ったとき、ラッセルはすでに癌に犯され余命いくばくもなかった。彼らは3回ほどしか実際に会うことはなかったが、その短い邂逅の中でこの「ヒー・エイント・ヘヴィー…」を完成させる。しかし、まもなく、ラッセルが他界したために、著作権について、取り分などで裁判沙汰になってしまった、という。 この曲のコンセプト、タイトル自体は1920年代からあったという。直訳すると、「(背負っている)彼はやっかいものじゃない、重くはない、彼は僕の兄弟だから」といったもの。 1924年9月に、キワニス・マガジンのロー・ファルカーソンというライターが、「ヒー・エイント・ヘヴィー、ヒーズ・マイ・ブラザー」というタイトルのコラムを書いた。このフレーズは古くは1884年頃から言われてきたもので、様々な表現の仕方があったが言わんとすることは同じだ。そして、これは親のない孤児を集めた「ボーイズ・タウン」の創始者エドワード・フラナガンのキャッチフレーズとも関連している。フラナガンは、1941年のクリスマスに雑誌で男の子がその兄弟を背負ってるイラストを見た。その絵のキャプションには、「彼は重くなんかないですよ、僕の兄弟ですから」と書かれていた。これは後にアイデアル・マガジンの編集者となるヴァン・B・フーパーによるものだったが、このイラストとキャプションを気に入ったフラナガンは使用許諾を取り、このフレーズは「ボーイズ・タウン」のモットーとなった。 これより先、1918年にも、同じような話があった、という。小さなスコティッシュ・ガールが、彼女と同じかそれ以上の兄弟を背負って歩いていた。するとそれを見た通りすがりのものが、「どんなにや重いだろうね」と声をかけたところ、すぐにスコティッシュ訛りで「彼は重くなんかない、私の兄弟だから」と答えた、という。血のつながった兄弟だから、何も重くなんかない、というメッセージは普遍だ。 解釈。 そして、訳詞は下記をごらんになっていただくとして、ここから多くのリスナーは、それぞれにこの歌詞を受け取るようになる。そこが音楽の広がりというか素晴らしいところだ。 ある者は、戦争で傷ついた仲間を背負って基地に帰る姿をイメージする。兄弟という言葉が友達、家族のメタファーに広がる。天国へ向かう死んだ弟を背負った兄の彫刻のようなものがある。そして、天国の入口で神が尋ねる。「汝が背負っている者は重くはないか?」するとその男が答える。「(彼は)重くはありません。僕の弟(兄弟)ですから」 背負うものは、兄弟というだけでなく、悲しみや苦しみ、苦労といったものも表わす。ひとたび、この歌が世に出れば、それ以後の解釈は、聴く者の自由だ。 この「兄弟の誓い」とほぼときを同じくして、サイモン&ガーファンクルは「ブリッジ・オーヴァー・トラブルド・ウォーター(明日に架ける橋)」を世に送り出す。どちらも、見返りのない友情、愛を描いた傑作だ。1969年から1970年という時代は、こうした人類愛にあふれた時期だったのかもしれない。 この曲が持つ普遍的なメッセージは、その後の911、イラク戦争、カトリーナの被災などにも有効だ。そして、もちろん今回の東北大震災の被災者にも素晴らしきメッセージとなる。 この「兄弟の誓い」という邦題もなかなか素晴らしい。わずか5文字で、これだけ長い英語タイトルをまとめた。見事である。 そして、この楽曲、ホリーズ、ニール・ダイアモンドのほかに、ソウル・ファンにはデイヴィッド&ジミー・ラッフィン兄弟のものが白眉。ほかに、ダニー・ハサウェイも素晴らしいヴァージョンを録音している。また、ほかに、ボビー・ゴールズボロ、シェール、オズモンズ、オリヴィア・ニュートン・ジョンなどもカヴァーしている。 また、曲調、歌詞のコンセプトなどが、ビートルズの「ロング・アンド・ワインディング・ロード」(1970年5月からヒット)に似ているので、ひょっとしてビートルズ曲の元、あるいは「ロング・アンド・ワインディング・ロード」にインスパイアーを与えた曲だったかもしれない。 ダニー・ハサウェイ http://youtu.be/7HFDAp8XVrk ホリーズ http://youtu.be/C1KtScrqtbc ニール・ダイアモンド http://youtu.be/usZtSl8mX08 ラッフィン・ブラザーズ http://youtu.be/C2eQMy4Sdso +++++ 「兄弟の誓い」(訳詞) He Ain’t Heavy, He’s My Brother … Continue reading

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◎ ジョー・サンプル&クレオール・ジョー・バンド(パート3)

◎ ジョー・サンプル&クレオール・ジョー・バンド(パート3) (昨日、おとといからの続き。ライヴ評などは前日・前前日のものをごらんください) 【Joe Sample & Creole Joe Band (Part 3)】 ジョー・サンプル・ポスター 蝶ネクタイ。 ジョー・サンプルは、小さな赤い蝶ネクタイをしている。そして、がっしりとした体格、若干の白髪があるので、遠くから見ると、ケンタッキー・フライド・チキンのカーネル・サンダースみたいだ。 ジョーに尋ねた。「なんでまた赤い蝶ネクタイを?」「ああ、あれはね、昔、人気があったジェリー・ロール・モートンを気取ってるんだよ。ジェリーはスーツに蝶ネクタイでとてもクールだった。そんな雰囲気をだしたかったんだ。ジェリーは素晴らしいピアニストだからね。1920年代のハーレムではみんなスーツなんかを着飾っておしゃれしていた。一方で、レイは(ステージで)つなぎを着ている。このバンドのリハーサルをレイのスタジオでやっていたとき、レイが僕の前でギターを弾いてて、その後ろで僕がキーボードを弾いていた。すると、レイが振り返って僕に言うんだ。『こんどのこのバンドでは、クルセイダーズみたいに全員がブラック・スーツを着るのはいやだ。僕はオーヴァーオール(つなぎ)を着るんだ』って言い出したんだよ。つまり今度のバンドは、カントリーの感じを出したいんだよ。テキサスだからね」 ジェリー・ロール・モートン(1890年~1941年、50歳で没)は、ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれのピアニスト。1926年にメジャーのRCAと契約したクレオールのアーティスト。様々なスタイルを作り、後のピアニストに大きな影響を与えた。もちろん、ジョー・サンプルもその一人。ジョーの大先輩にあたる。 「ジョー、遠くから見てると、あなたの赤い蝶ネクタイと白髪が、カーネル・サンダースみたいでしたよ」 「カーネル・サンダース?? あはは、そうか。おいみんなヨシが、俺のことをカーネル・サンダースに見えるってさ」(一同爆笑) 「フライド・チキン、食べないとな」 そのレイは、楽屋でもアコースティック・ギターをちらっと弾いていた。「南部のサウンド、ザディコは好きですか?」 「おお、もちろん。いい音楽であれば、なんでも好きだよ。今度のバンドメンバーは、ジョー以外、みんな初めて会うけど、みんないい連中だ」 ■クレオール・ジョー・バンド・トリヴィア。 銀色の洗濯板(ウォッシュボード)には、マイクはついていない。ノーマイク。したがってあそこでこすられた音がそのまま会場に響く。後半で客席に下りるところがあるが、近くに来ると音が大きいのがよくわかる。ジェラルドによると、これはジェラルドのカスタムメイド。自分で簡単にこんな感じと絵を書いて業者に作ってもらった。それでもコストは140ドルくらいで、意外と安い。楽器店で買ったら500ドルくらいはするかもしれない。もう7年くらい使っているという。ちょうど肩のところまでギザギザがあるので、そこでも音を出せるようになっている。 CJのアコーディオン、音がひとつ出ない。キーボードが折れているらしい。初日に応急処置をしたが、やはりその音がでない。そこで、CJは、ジョーのアコーディオンを借りる。ジョーも弾く時は、CJは自分のものを使う。CJのものは、中央にCJの文字が赤く電飾でアレンジされ、ぴかぴか光る。 修理中 CJもジェラルドも初来日。ことのほか日本が気に入ったよう。 ジョー・サンプルのザディコ原体験は、彼が6-7歳の子供の頃から。家族に連れられていったイースト・ヒューストンの教会だった。そこで、アコーディオンなどで演奏される音楽に魅せられた。 素晴らしい歌声を聴かせているシャロンは、今回の来日が12回目だという。浅草で行われている音楽イヴェントで「ニューオーリーンズ・ジャズ・オールスターズ」の一員として何回か来ているそうだ。他にもジャズ・シンガーとして来日経験あり。 レイ・パーカーがステージで着ているつなぎは、ロスアンジェルスで買ってきた。だが、サイズがちょっときついらしい。(笑) 一方、CJのスーツは地元ヒューストンで買ったもの。各色揃え、帽子と靴も色を合わせている。おしゃれさんだ。 みんなアメリカン・フードが大好き。フランクリン・アヴェニューのハンバーガーに舌鼓。左がCJ、右の写真がレイ・パーカー。レイの後ろにいるのは、ワォッシュボードのジェラード (ジョー・サンプル関連、つづく) ■ ライヴは火曜から木曜まで、ブルーノートで一日2ショー http://www.bluenote.co.jp/jp/index.html ENT>LIVE>Sample, Joe & Creole Joe Band ENT>ARTIST>Sample, Joe

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◎ジョー・サンプル・クレオール・ジョー・バンド(パート2)

◎ ジョー・サンプル・クレオール・ジョー・バンド(パート2) 【Creole Joe’s Band: Happy Happy Dance Music】 ザディコ。 今回のジョー・サンプルのバンドは、彼が12年ほど構想をあたためてきた企画。彼のルーツであるルイジアナ、ニューオーリンズの音楽クレオール・サウンド、ザディコをプレイするバンドだ。 クレオールは、ルイジアナ、ニューオーリンズを中心とした地域に生きるブラックとヨーロッパ系(特にスペイン、フランス)とのミックスによる人たちの総称。広い意味では、ミックス(混血)を指すが、狭義では「ルイジアナ・クレオール」と呼ばれるほど、その地域に密着し、独特の文化や音楽を持つ。その代表的音楽が「ザディコ」と呼ばれる。(ほかにもハイチ・クレオールなども多い) 「ザディコ」は、もともとフランス語のザリコzaricô(さやまめ)が訛った言葉だという。1920年代からルイジアナのクレオール・コミュニティーで流行し始めた元々は「ララ」と呼ばれた音楽だった。ジョーもそのあたりをステージで解説していた。 ジョー(1939年生まれ)によれば、ザディコは自分が生まれた頃からすでにあって、子供の頃から当たり前のようになじんでいた。自分のルーツでもある、だから、いつかこのザディコ・バンド、クレオール・バンドをやりたいと思っていた、という。 今回ギターで参加したニューオーリンズ在住の山岸潤史によれば、「ジョーとは、もう20年以上面識はあったけど、10年くらい前かなあ、ジョーが僕を探していると連絡をもらった。そのとき、一緒にレコーディングをしたいと言って、すぐにはスケジュールの関係でできなかったんだけど、それが今回のこのザディコのプロジェクトだったんだ。で、今回ライヴをやるというので、今回はスケジュールがあって、一緒にやることになった」という。 リハーサルは、3日間メンバーが集まってヒューストンにある「テキサス・サザーン・ユニヴァーシティー」のリハーサル・ルームで行った。「まあ、でも、ずっと何か食べたり、食事しっぱなしだったけどね(笑)」と山岸潤史さんが言う。この大学は、クルセイダーズのメンバーが出たことで「クルセイダーズ大学」と呼ばれているらしい。 今回驚いたのは、ジョー自身がアコーディオンを一生懸命プレイしていること。通常のエレキ・ピアノのところに座り、アコーディオンを必死にプレイするが、その姿が実にかわいい。そして、CJとジョーが立ち上がり、アコーディオン・バトルを繰り広げる場面もあり、お互いが思い切り楽しんでいるようで、見ててもハッピーになる。 同時に、山岸潤史とレイ・パーカーのギター・バトルもあって、これもおもしろい。楽器でまさに楽しむ、遊ぶ、そして、ザディコのリズムで踊るパーティー・バンドの真髄だ。 カルチャー。 メンバー紹介のところで、ジョーは言った。「この僕の横にいる紳士の父、クリフトン・シェニエーは、僕が子供のころ、最初にとりこになったアコーディオンの音楽をやっていた。僕が6歳か7歳の頃だった。彼はキング・オブ・ザディコだった。ところで、みんなはザディコって呼ぶけど、僕たちは昔こうした音楽を『ララ』と呼んでいた。初めてこうして『ララ・バンド』の音楽を、ララ・ミュージシャンたちによって日本に紹介できて嬉しい」 ジョーは、このザディコのバンドをずっとやりたいと思っていた。通常のソロ活動、クルセイダーズとしての活動とはまったく違うタイプのバンド活動だ。12年かけてやったこのプロジェクトは彼にとってのドリーム・プロジェクトだったのだろう。ライヴ後も、ジョーは事のほかごきげんでハッピーだった。そのハッピーさは、観客にも確実に伝わる。 CJは初日は金色のスーツで登場した。その派手っぷりがあまりにおもしろかったので彼に尋ねた。「何色くらい持ってるのですか」「何色もあるよ。毎日違う色でできるぞ」「どこで作ったんですか」「ニューオーリンズだ」「けっこう高いんですか」「いや、そんなに高くない。ソー・ソー(まあまあ)だ」「500ドルくらい?」「そんなにしない。200ドルちょいじゃないか。まあ、日本で作ったら500くらいするのかもしれないがな(笑)」 彼に名前の正しい発音は尋ねた。「おお、それは発音する人間がどこの人間かによるな。(笑) ヨーロッパの連中は、シェニエー(ル)[エにアクセントで最後のルは聴こえるか聴こえないくらい]、アメリカ人は、シェニアー(ル)かな。北部と南部のアメリカ人の違い?北部ははっきり、シェニアー、南部は(口をもごもごさせて、シェ(ニ)ア、(ちょっと口をまるめる感じ)だ。(笑))」 ジョーは明らかにこの自分のルーツ、カルチャーを誇りに思っている。そして、その他の国々のカルチャーにも敬意を表す。金曜日に出演したNHK-BSの『エルムンド』でも、『Hold on to your culture』(あなたのカルチャーを手離さないように)という言葉を選んで語っていた。 トゥートゥー。 昨日のブログでご紹介した「マイ・トゥー・トゥー」、読者の花田さんから昨年のデニース・ラセールのライヴでもやっていて、そこでも客席に歌わせてました、と情報をいただきました。ありがとうございます。そうでした。やってましたね。 2010年11月23日(火) デニース・ラサールのサザンな香り http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10714901393.html ■ ライヴは火曜から木曜までブルーノート東京 http://www.bluenote.co.jp/jp/index.html 初日ライヴ評(セットリスト、メンバー表) http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20110515.html ■ ジョー・サンプル過去記事は多数 … Continue reading

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◎ジョー・サンプルズ・クレオール・バンド・ライヴ(パート1)~ルイジアナのごきげんなパーティー・

◎ジョー・サンプルズ・クレオール・バンド・ライヴ(パート1)~ルイジアナのごきげんなパーティー・バンド本邦初登場 【Joe Sample’s Creole Band Debut】 初お披露目。 ファンキーでリリカルなキーボード、ピアノを聞かせ日本でも人気の高いジョー・サンプルが12年越しで暖めてきた「クレオール・ジョー・バンド」が世界初のお披露目を東京で行った。これは、彼が以前からやりたかった「クレオールのバンド」。クレオールのバンドとは、ルイジアナ、ニューオーリンズなどに多い黒人とフランス、スペインなどヨーロッパ系の人との間に生まれた人種「クレオール」によるバンド。ルイジアナ、ニューオーリンズにはヨーロッパの香りも持つそのクレオールたちのサウンドとして、「ザディコZydeco」というものがあるが、今回のバンドはそうしたザディコ・サウンドをベースにしたものになっている。まだレコードCDは出ていないが、レコーディングはすませているそうなので、発売が待たれる。その意味で、ライヴで最初にお披露目ということになる。 ジョーがステージで解説する。「今回のバンドは、構想12年で、やっとできあがったバンドだ。ついに12年越しにライヴができる。ザディコは、ルイジアナにある音楽だ。これは、僕が子供の頃からずっとあって、それこそベイビーから100歳の老人まで誰もが同じ曲、同じサウンドを楽しんで、踊れる世代を超えた音楽だった。僕が6歳か7歳の頃、彼(と言って横の長身のCJシェニエー)のお父さんのレコードを初めて聞いてすっかり夢中になった」 CJの父、クリフトン・シェニエーは、ザディコのキング。ニューオーリンズのセカンドラインともルーツを同じくするタイプの似たファンキーでポップで大変ダンサブルなパーティー・ミュージックだ。ほぼ全編、このリズムでショーは進む。1曲、スローというかフォーク・ソングというか、CJがアコーディングを使わず、直立不動になって歌った「イフ・エニバディー・アスク・ユー」は、CJの渋い声が響き、途中のピアノ・ソロ部分が、まさにジョー節を奏でた。CJは初来日で、実にユニーク。この日はゴールドの金ぴかのスーツを着ていた。 第一部のセットリストで一番有名なのは、「ドント・メス・ウィズ・マイ・トゥー・トゥー」だろう。トゥー・トゥーというところを観客に歌わせ、一体感を演出。ただの盛り上がりがさらに盛り上がった。1984年にやはり有名なザディコ・アーティスト、ロッキン・シドニーがヒットさせ、グラミーも取ったザディコ・クラシック。 ロッキン・シドニーの「マイ・トゥー・トゥー」 http://youtu.be/D2gp_BConUo 「トゥー・トゥー」とは、もともとはケイジャンのスラングで「恋人(Sweet Heart)」「スペシャルな人」などを意味する。「Don’t mess with my toot toot」というと、「俺の恋人にちょっかいだすな、女に手を出すな」といったあたりになる。またただ、これがドラッグやセックスも含む意味に解釈も広がるそうで、いろいろな受け取り方があるそうだ。 ロッキンはこれを1973年ごろに書いて以来歌っていたが、1984年にシングルを録音、ヒットさせた。ただこの曲には元歌があるそうで、「マイ・シェー・トゥー・トゥー」といったタイトルで何年も前に歌われていたらしい。それを、ロッキンがうまくアレンジして現在の形にしたそうだ。 ジョーもこのバンドで来日できたことがことのほか嬉しいようで、ずっとごきげんだ。赤い小さな蝶ネクタイが実にかわいらしい。 そして、このバンドに日本人でニューオーリンズ在住のファンキー・ギタリスト、山岸潤史やレイ・パーカーがいるのも嬉しい。このあたりの話は明日以降に。 日本ではあまりなじみのないザディコだが、これを機に知名度があがると嬉しいところだ。 (この項つづく) 今日の「ソウル・サーチン」(午後2時半~インターFM)で少しこのご紹介をします ライヴは、木曜(19日)まで16日をのぞいて毎日2ショー、ブルーノート東京で。 http://www.bluenote.co.jp/jp/index.html ■メンバー JOE SAMPLE & THE CREOLE JOE BAND featuring RAY PARKER Jr., … Continue reading

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◎ ドクター・フィリップ・ウー~ブルーノートをファンキー・ジョイントに(パート1)

◎ ドクター・フィリップ・ウー~ブルーノートをファンキー・ジョイントに(パート1) 【Dr. Philip Woo Make Bluenote Funky Joint】 熱気。 東京ズ・オウン・ファンキー・キーボード奏者、フィリップ・ウーが「ドクター」の称号を授かり、ソウルフルな仲間と組んだ東京・ソウル・ジャム。『ソウル・ブレンズ』や、『東京メットポッド』、あるいはメンバーのフェースブックなどで告知した結果、先週までは半分くらいの予約だったものが、この2-3日で急速に予約が伸び、ふたを開けたら予備席まで出す超満員の大入りになった。応援団としてはまさに嬉しい誤算。通常は、ブルーノートは70分程度のショーを入れ替え制だが、この日は2時間超のワンステージ。めちゃくちゃ盛り上がった。本当に予想以上に盛り上がった。特に最後の2曲当たりは、観客が総立ちで踊り、会場の気温も3度は上がったのでないかと思わせられた。 サイン メンバーもふだん『ソウル・サーチン』や、フィリップ、ブレンダ、ケイリブなどのショーでおなじみの強力なソウル部隊。そして、楽曲もフィリップ、ブレンダたちもかなり歌いこんでいる作品ばかりということもあるが、なによりも、外国人客の多い満員の観客のリアクションが素晴らしく、その反応にミュージシャンたちがよりモチヴェーションを上げた感じが強かった。本当にライヴとは、ミュージシャンと観客で作るものだということが如実にわかったライヴだった。今まで何度も彼らの、そして、フィリップのライヴを見てきたが、今までで一番よかったと思う。やはり、2時間ノンストップというのは、集中が途切れずいい環境を生み出す。 東北大震災のチャリティー・イヴェントということも手伝ってか、超満員になったライヴは選ばれた楽曲もポジティヴなものばかり。 バンドの各メンバーのソロまわしも、シンガーたちのソロも実に見ごたえ、聴き応えがあった。 デイヴィッドの「アイル・ライト・ア・ソング・フォー・ユー」は、まさにフィリップ・ベイリーを彷彿とさせる実に力強い歌声。客席からため息がもれた。 左・ブルーノート・ソウル・ジョイント、右・アンコールを終えて通路に戻るフィリップ(握手しているのは屋敷豪太さん) ケイリブが歌う「ビー・サンクフル・・・」「ホワイ・キャント・ウィ・ビー・フレンズ」も似たメッセージ。そして、「ヒー・エイント・ヘヴィー…」も感動的なパフォーマンスだった。「彼はやっかいものじゃない、彼は僕の兄弟だから」と歌う、言ってみれば助け合いソングのひとつでもある。被災地向けにあったメッセージだ。この曲のバックグラウンド・ストーリーはなかなかおもしろいものがあるので、改めて書いてみたい。 そして、ブレンダの「ゲット・ヒア」。これが彼女が歌うとチャーチー(教会っぽく)に、ゴスペル色たっぷりになる。そして、後半はブレンダがアドリブっぽく歌詞を作り上げ、これまた感動的にした。この曲は湾岸戦争のときに、戦地にいるアメリカの兵に向けてのメッセージになったが、やはり、被災地の人へ向けての熱いメッセージにもなっている。ブレンダのこのパフォーマンスは何年経っても素晴らしい。 その他の曲も、全部、いちいち解説ができるほどの重い、そして思いのこもった楽曲ばかりだ。 特別ゲストで登場した橋本江莉果は、今年ソニーが一押しで売り出す新人。プロデューサー、2ソウルのケン小堀さんが力をいれてプロデュースし、フィリップ・ウーがライヴ・バンドのバンドマスターを務めるというシンガーだ。初めて聴いたが、なかなかいい声をしていた。特にポイントは、あまりクセがなく、決して嫌われない声だということ。これは大きい。今回はフィリップ・アレンジの「涙そうそう」を歌った。 ブレンダは、今回ニーナ・シモンの「フィーリング・グッド」、「ゲット・ヒア」、そして「グランドマズ・ハンド」とすっかりソロで披露してきた作品群を完璧に自分のものにして歌いきった。 そして、のりのりになったグルーヴは、メイン・イングレディエントの大ヒット「ハピネス・・・」。これでもはやディスコ状態で、観客は総立ち。そして、アンコールで、グラディス・ナイトの「フレンドシップ・トレイン」。これも、メッセージがどんぴしゃの選曲だ。 日本在住のソウル・ミュージシャンたちのソウル・ショー。この「ソウル・サーチン・ブログ」でも数え切れないほど書いているが、このブルーノートという舞台でやると、またひときわ輝いて見えるからおもしろい。こういうショーが半年に一度とか、3ヶ月に1度くらいでも、できるといいのだが。 観客のヴァイブ、リアル・ミュージシャンのグルーヴが一体化して素晴らしい夜となった。 (この項つづく) (写真提供・フィリップ・ウー) ■ 関連アーティストライヴ記事(一部) フィリップ・ウー関連 2010年08月05日(木) フィリップ・ウー&フレンズ・ライヴ(パート1): 東京ナンバーワン・ソウルフル・ナイト ~ http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10610344511.html 「グランドマズ・ハンド」についての話など 2010年08月06日(金) フィリップ・ウー&フレンズ・ライヴ(パート2): ケーブルテレビを無料で見る方法 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10610466616.html#main July 13, 2006 Philip … Continue reading

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◎CCキング・ライヴ

◎CCキング・ライヴ 【CC King Live @ Blues Alley】 丑年. ブルース・アレイのマネージャー、高橋さんから「一度ぜひ見てくださいよ」と言われていたCCキングのライヴ。名うてのミュージシャンたちが集まり、オリジナルを作り、ライヴを行った。最初はカヴァーなどもやっていたが、最近はメンバーでオリジナルを作って、今回は全曲オリジナル。 ドラムス、ギター、ベース、キーボードというシンプルな4人編成のジャズ・ファンク・ロック・バンド風。なかなかのグルーヴを作り出す。ほぼ全曲歌のないインストゥルメンタル。しっかりとしたタイトなサウンドで聴かせる。 グループを4人で結成してちょうど一周年。まだ、CDも出ていないのにライヴハウスは超満員。それぞれが人気のパフォーマーたちなので、それぞれのファンが集まっているそうだ。 各曲の中で、それぞれがソロを聴かせ、パフォーマーたちも、存分に楽しんでいる様子。4人だけでこれだけの幅のある音がだせるのが実にいい。 ところで、MCがけっこうおもしろい。そんな中でも、グループ名の由来もおもしろかった。もともと「何とかキング」とつけたかった。そこででてきた「CCキング」のCCは、メンバー全員が「丑年(うしどし)」ということで、カウ・カウ(牛牛)キングにした、という。次回もぜひ拝見したい。 ■ メンバー CC KING ~1st ANNIVERSARY~ (B)松原秀樹 (G)田中義人 (Key)森俊之 (Ds)玉田豊夢 ■ セットリスト CCキング Setlist : CC King @ Blues Alley Meguro, April 16, 2011 01. ヒデキング 02. Skinny Dipper 03. もりそば … Continue reading

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○ブーツィー・コリンズ8月に来日、チッタで単独公演

○ブーツィー・コリンズ8月に来日、チッタで単独公演 【Bootsy Collilns Will Coming To Japan On August】 来日決定。 ジェームス・ブラウン、そして、ジョージ・クリントンのPファンクのもとファンク修行を積んできたファンク・ベースの第一人者、ブーツィー・コリンズとのそのバンドが、2011年8月来日することが決まった。東京近郊川崎クラブチッタで2011年8月12日(金)と13日(土)の2日間にわたる単独公演と「サマー・ソニック」の幕張でのステージ出演(14日日曜)が発表された。 ブーツィー・コリンズを主とするバンドの単独来日としては、1989年7月MZA有明ほか、1992年10月渋谷オンエアーほか、1998年5月赤坂ブリッツほかがある。また、2008年7月にはフジロックに登場している。また、これ以外、客演として1991年ディーライト、1993年ジョージ・クリントン&Pファンク・オールスターズ、1994年キャロウェイ兄弟で来日。したがって、来日としては、2008年7月以来5年1ヶ月ぶり。単独公演としては1998年ブリッツ以来13年3ヶ月ぶりとなる。 今回チッタでのライヴがユニークなのは、「大人のためのファンクナイト」と題して、客席前方250席を立ち見が辛い人のために、座席を用意。立ち見の人は、その後ろ側に立つようにセッティングしていること。また、2階は従来通り席がある。 メンバーには、バーニー・ウォーレル(キーボード)、ブラックバード・ナイト(ギター)、ベースにTJルイス、ドラムスにフランキー・ワディーなども入る予定。ファンク度いっぱいのライヴがはじける。 なお、この2日の単独ライヴの後8月14日(日)に幕張で行われる「サマー・ソニック」に出演する。 概要は次の通り。 Bootsy Collins and The Funk U Band ☆JAPAN TOUR 2011☆ (ブーツィー・コリンズ&ザ・ファンク・ユー・バンド) 日時 2011年8月12日(金),13日(土) 会場:CLUB CITTA’ -来日予定ミュージシャン- Bootsy Collins – bass, vocal T.M. Stevens – bass Bernie … Continue reading

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● シギディー・アブドゥラー(SOSバンドのプロデューサー)62歳で死去

● シギディー・アブドゥラー(SOSバンドのプロデューサー)62歳で死去 【Sigidi Abdullah Dies At 62】 訃報。 SOSバンドの「テイク・ユア・タイム」などの大ヒットを作曲、プロデュースしてきたプロデューサー、シギディー・アブドゥラーが、2011年5月8日(日曜)、ロスアンジェルスで死去した。62歳だった。昨年夏に手術を受けていた。病名などは、不明。親しい音楽関係者、友人が明らかにした。 シギディーは、SOSの最初の1-2枚目のアルバムや、70年代に大ヒットしたブラックバーズの「ウォーキング・イン・リズム」のコーラス、ドナルド・バードの「クワイエット・ストーム」での人気曲「シンク・トワイス」、「ファーリン・ライク・ドミノス」などにかかわってきた。 シギディーは、SOSバンドについて、1990年代に来日したこともあるという。グループ・メンバーではないため、ステージには立っていないが、スタッフの一員として来日したそうだ。 Sigidi Abdullah (1948-2011) +++++ 接点。 個人的に驚いたことに、シギディーは先月横浜で死去したソウル・シンガー、カルヴィン・ヤングブラッドと親しかったようで、カルヴィンのアトランタでの葬儀をオルガナイズしていた。また、フェイスブックのシギディーのページのプロフィール写真にカルヴィンの写真を掲げている。これには驚いた。そこまで親しかったのか。シギディーは一時期アトランタに住んでいたこともあり、SOSの創始者ジェイソン・ブライアントは現在、横浜に住んでいる。カルヴィンとシギディーがどのように接点を持ったのか、今となっては知る由もないが、いずれわかることもあるだろう。 SOSバンドは、「テイク・ユア・タイム」以降、当時DJとして耳タコになるほどかけ、また、デビュー作から何枚かアルバムのライナーノーツも書いたので、ひじょうに思い入れがある。現在、タブー・レコードの作品は日本でCDがないが、いずれCD化されるときには、詳しいことが書けるかと思う。SOSが1987年に来日したときには、ラウーフと当時のリードシンガーだったペニー・フォードにインタヴューしたが、シギディーが来日したのは、1990年代らしい。 +++++ 評伝。 シギディーは、1948年10月11日、シカゴ生まれ。シギディーは、身長190センチを超える長身で大変インパクトがあるという。アトランタ、ロスアンジェルスを本拠にしていた。最初は、ソングライターとして活動、ドナルド・バードと知り合い、1970年代中期に彼がてがけるブラックバーズのプロジェクトにかかわった。シギディーが20代半ばの時期だ。 彼の父がジャズ・ミュージシャンだったことから、ファミリーには音楽があふれ、家族の仲間などから楽器をやって音楽をやったらどうかと勧められた。当初はピアノをやり始めたが、ハイスクールの音楽の授業で当時の先生から、「君は背が高い(190センチ=6フィート以上)あるから、君にぴったりの楽器がる」とアップライト・ベースを勧められたという。ハイスクールのタレント・ショーで友人のグループに誘われ、マイルス・デイヴィスの「ソー・ホワット」と「カインダ・ブルー」をプレイしたという。そのとき、ひじょうにいいリアクションを得たので、音楽の道に進むことを決意した。 ロスに移りハイスクールをいくつか転校するうちに、音楽関係の事務所で楽譜をスタジオに持っていったりする雑用を始め、そのうちに多くの音楽関係者と知り合うようになった。ロスで友人たちとヴォーカル・グループを結成し、ハーヴィー・フークワのオーディションなども受けたが、メンバーがヴェトナム戦争に徴兵され自然解散。シギディーは、ニューヨークへ移住。その後、またロスに戻り、再度グループを結成。コンジュアー(Conjure)というグループで、MGM/サンフラワーからシングルが出た。 その後、フォンスとラリー・マイゼルと知り合い、その線からドナルド・バード人脈とつながり、バードがてがけたブラックバーズ、ボビー・ハンフリー、ジョニー・ハモンド・スミスなどと知り合う。そして、バード、マイゼル兄弟と、曲作りにからむようになり、作曲を始めるようになった。そんなセッションの中で、ブラックバーズの「ウォーキング・イン・リズム」のコーラスを歌うことになった。このほかに、「シンク・トワイス」「フォーリング・ライク・ドミノス」などの曲作りにかかわった。 その後、ジャズのアーマッド・ジャマルのアルバム『ワン』のプロデュースにかかわり、さらに、当時タブー・レコードを大きくしようとしていたクラレンス・エイヴォントと知り合った。 そして、SOSバンドのデビュー・アルバムをてがけることになる。ここから最初のシングル「テイク・ユア・タイム」が980年夏から大ヒットし、SOSバンドは一躍スターダムにのし上がり、シギディーもプロデューサーとして、メジャーな存在になる。その後も、フィリップ・ウィン(1985年、フィリップ最後のレコーディング「ウェイト・ティル・トゥモロウ」など)、カーティス・メイフィールド、DJジャジー・ジェフ、ゲイリー・バーツ、チューズン・フュー、ブラック・シープ、Jディラの「シンク・トワイス」など多くのレコーディングをてがけている。 (クラレンス・エイヴォントとの出会い、「テイク・ユア・タイム」誕生秘話などについては後日、またご紹介したいと思います) ご冥福をお祈りします。 (Special thanks to Ms. Marva Jean for providing detailed information) SOSバンド「ファースト」「テイク・ユア・タイム」収録 Sos posted … Continue reading

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●(速報)コーネル・デュプリー、68歳で死去

●(速報)コーネル・デュプリー、68歳で死去 【Cornell Dupree Dies At 68】 訃報。 ニューヨークを本拠に1960年代から活躍していた名ギタリスト、コーネル・デュプリーが2011年5月8日、テキサス州フォートウォースの自宅で死去した。68歳だった。(1942年生まれのため、一部で69歳と書かれているが、まちがい。1942年生まれだが、12月生まれで誕生日がまだきていないために68歳) ここ数年、肺気腫を患っており、肺の移植手術を受けることになっていた。それでも、2010年8月、2009年2月、2008年6月と毎年のように来日、ステージを見せていた。2010年8月が最後の来日。これまでに2500以上のセッションに参加、参加レコード多数、ライヴ多数。特に1976年にスティーヴ・ガッド、エリック・ゲイル、リチャード・ティーらと結成したグループ、「スタッフ」が大きな人気を集めた。 2011年3月20日には、コーネルの手術代、治療費などをサポートするために有志のミュージシャンが集まり、ニューヨークのBBキングの「ハウス・オブ・ブルーズ」でチャリティー・ライヴが行われた。 コーネル・デュプリーは、1942年12月19日、テキサス州フォートウォース生まれ。1962年にニューヨークに出て、まもなくベースのチャック・レイニーとともにキング・カーティス・バンドの一員となる。サム・クック、ファッツ・ドミノなどのバックや、1965年にはビートルズのオープニングもやったという。中期からアトランティック・レコードのハウス・バンドの一員として活躍するようになり、アトランティックにおける多数のセッションに参加した。その頃の作品には、アレサ・フランクリンの「リスペクト」、名盤『ライヴ・アット・フィルモア・ウェスト』、ダニー・ハサウェイの名盤『ライヴ』、ブルック・ベントンの「レイニー・ナイト・イン・ジョージア」など多数ある。1967年から1976年まで、アレサ・フランクリンのツアー・バンドの一員でもあった。 彼は、ダニー・ハサウェイ、アレサ、ジョー・コッカー、ロバータ・フラック、ポール・サイモンなどのほかに、自身名義のソロ・アルバム(1974年『ティージン』以降、ソロ多数)もだしている。 スタジオおよびライヴ・セッションでの名声を得た彼は、同業の仲間であるミュージシャン、エリック・ゲイル(ギター)、リチャード・ティー(キーボード)、スティーヴ・ガッド、クリス・パーカー(ともにドラムス)、ゴードン・エドワーズ(ベース)らとともに、1976年、グループ「スタッフ」を結成。ニューヨークの名うてのミュージシャンが集まったスーパー・グループとして、当時のフュージョン・シーン、後のジャズ・ファンク・シーンでも大きな人気を集めた。 スタッフとしてのデビュー・アルバム『スタッフ』(1976年)、さらに『モア・スタッフ』(1977年)は特に日本で大ヒットとなり、日本におけるフュージョン・ブームの起爆剤となった。 その後も、スティーヴ・ガッドがリーダーとなったガッド・ギャングなどでも活躍、さらに、ソウル・サヴァイヴァーズ名義でも活躍し、毎年のように来日し、日本のファンに親しまれた。 コーネル死しても、そのギターの音色は、ずっと生き続ける。His guitar sound will survive forever. なお、スタッフのうち、リチャード・ティーは1993年7月21日に49歳で、エリック・ゲイルは1994年5月25日、55歳でともに癌で亡くなっている。 (修正:デュプリーの死去した場所を当初、ニューヨークと書きましたが、テキサス州フォートウォースの自宅だったことがわかりましたので、修正しました。=2011年5月12日、午後1時40分現在) +++++ 訃報に関して。 訃報に関しては毎回書いていますが、必ず複数の情報源から確認を取るようにしています。最近はツイッター、フェースブックなどで、一般ネットメディアに出る前に、当人の家族、親しい友人などからの情報が流れることが多くなっています。ただ一般の人がツイートした場合、いつ・どこで・何が原因で・何歳で死去したかという、きちんとしたメディア情報になっていないことが多いために、それを確認するために、時間がかかります。しかし、第一報は瞬く間に広がります。 ソウル・サーチンでは、ツイッターにおける「速さ」よりも、その情報が確実かどうか、信頼性があるかに重きを置いて、確実だと判断した場合のみ情報を発信しています。これからも、親しい筋から情報が出た場合、一般メディア、ネットメディアなどに出るまでには6~24時間程度の時差が生まれるでしょう。しかし、多くのツイッター情報は、ひとつの情報源のものをリツイートすることが多く、瞬く間に広まるために、誤報だった場合も、瞬時に広まる危険性があります。そのあたりは慎重に対処するつもりですので、ご理解ください。 +++++ 今回の訃報は、ムゲンブラスターズの宮原さんが9日午後8時過ぎにエリック・ゲイルの奥様マサコさんからの情報としてツイートした。僕もそれを見て知り、いろいろと確認作業をしたが、その後、マサコさん自身の書き込みが確認されたため、確定情報として午後10時半すぎにツイートした。日本時間10日になって、ジェイソン・マイルズなどもツイート。日本時間で10日午前0時20分ごろ、英語版ウィキペディアで死亡が書かれた。また、9日昼12時(日本時間10日午前4時)からはカリフォルニア州ロングビーチのジャズ専門局KJAZZ(88.1FM)が追悼特集を放送し始めた。 +++++ コーネル・デュプリーは、調べてみると2010年と2009年を見逃していた。2010年は予定があわず行けず、2009年はマーヴィン・ゲイにかかりきりで、時間が取れなかった。よって、最後のライヴ評は2008年のものだった。そのときからすでに、酸素ボンベだったのだから、本当に大変なプロ意識だと思う。いつ見ても、陳腐な表現だが、いぶし銀だった。ご冥福をお祈りします。 ■ 過去記事 コーネル・デュプリー関連 2008年04月17日(木) 職人ギタリスト、コーネル・デュプリー http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10088927816.html August 06, 2005 Soul … Continue reading

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◎木下航志誕生日ライヴ

◎木下航志誕生日ライヴ 【Kishita Kohshi Birthday Live】 1年ぶり。 木下航志(きした・こうし)くんの久しぶりのブルース・アレイ・ライヴ。ブルース・アレイでの単独ライヴは、調べてみたら、前回が2010年3月の『ドゥ・ザ・ソウル』(Vol 8)。となると、1年2ヶ月ぶり。ただ、『ソウル・サーチン』では、2011年2月にも出ている。航志くんは『ソウル・サーチン』は、2005年6月のレイ・チャールズから1回も欠かさずに出演してもらっている。航志くんは他に、ブレンダやフィリップなどのライヴでもゲストで出ているので、1年ぶりという久しぶり感はあまりなかった。 連休の合間ということもあってか、若干、集客が寂しかったが、航志くんは元気いっぱい歌っていた。今回はいつものドラムス、ベース、キーボードに航志くんという、彼曰く「省エネ・バンド」(笑)。 1曲、吾妻光良&スゥインギン・バッパーズのメンバーでもあり、ソニーミュージックのディレクターでもある渡邊康蔵さんがサックスでゲスト参加。なんと、しばらく前に代官山のレザールで康蔵さんがセッションしていたときに、航志くんが遊びに行って、今回の飛び入りに結びついた、という。 また、ブレンダなどをてがけている大野さんがめんどうを見ているまだ17歳というジュリアという女性シンガーが、今回2曲で航志くんとデュエットした。 ライヴの感想としては、過去記事をじっくりごらんいただくとして、振り返ってみると、航志くんを2003年12月に見かけて、その後翌年、本人に出会い、2005年の『ソウル・サーチン』に出てもらったというつきあいで、もう8年以上になるんだなあ、と感慨深かった。 5月8日で、ええっ、もう22歳? はやい、しかし、まだ若い。1989年(平成元年)生まれだ。 なお、この日はNHK海外放送のテレビ番組『オルタナ・ジャパン』の取材でカメラが3台ほどはいっていた。8月頃のオンエアの予定とのこと。日本で活躍するオルタナティヴっぽい動きをしているミュージシャンを取材してまとめる番組だという。一応、現状では国際放送用番組で、世界各国の放送局で流れるが、国内のNHKでは流れない。ただ、インターネットで見られるようになる、という。 ■ 関連記事(一部) 2010年03月22日(月) 木下航志『ドゥ・ザ・ソウル』(Vol.8) http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10488032523.html 川崎さんの撮影した4点の写真がとても素敵です 2009年09月07日(月) 木下航志『ドゥ・ザ・ソウルVol.6』ライヴ http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10336933773.html 2009年05月13日(水) 木下航志・誕生日記念ライヴ http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10259919781.html December 06, 2008 Kishita Kohshi Live At Blues Alley : Kohshi Believes To His … Continue reading

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▽八竹亭おやじさん、とんかつやに転身~不死鳥の如く頑固に復活(パート2)

▽八竹亭おやじさん、とんかつやに転身~不死鳥の如く頑固に復活(パート2) 【Another Story of Stubborn Kind Of Fellow: The Master Of Hatchiku-tei Became The Master Of Tong-katsu Restaurant (Part 2)】 (30年続いた八竹亭の突然の閉店から半年余り。八竹亭のおやじさんは、とんかつやで復活。昨日からの続き) 不死鳥。 おやじさんに、「このお店のこと、常連さんたちに知らせたの?」と聞くと、「誰にも言ってない。携帯とか、嫌いなんだよ」と相変わらずだ。すると、「なんか、キムタクとか竹之内(豊)とかが、テレビで『八竹亭』どこ行ったみたいなことをしゃべってたらしいけど」とも。そういう人たちも常連だった。(ちなみに、僕は竹之内豊はみかけたことがある。しかし、「竹之内豊・八竹亭なう」などとツイートはしなかった。そんなことツイートされたら、芸能人の方はたまらないですね(笑) 芸能人を見て、携帯をいじりだす人がいたら、要注意ね(笑)) 豚が珈琲をすするイラスト、この看板の先がとんかつや 2010年10月にオープンして、まだ半年。なかなかお客さんは来ないという。それもそのはず、表の看板にとんかつの「と」の字も出していない。外から見たら、どう見てもただのカフェだ。まず通りすがりの一見さんは絶対に入らない。おやじさんファンもまだそれほど、知らない。自分から電話することもない。食べログか、これからこうして口コミで広まっていくのだろう。 おやじさんから、「どうやってここのこと知ったの?」と聞かれたので、「タキオノから聞いた」と答えると、「ああ、オノちゃんか」と顔を崩した。そんなこんな与太話をしているうちに、ひれかつがあがってきた。 メニューにも出ているが、なんでもここで使用する豚は、北海道・十勝の「源ファーム」の「ホエー豚」だという。最近はいろいろなブランド豚があるようだ。 ひれなので、少しこぶりで、小さめにカットされている。そして、キャベツは別の器に盛られている。ごはんも小さめのお茶碗に。ごはん、キャベツともにお代わり自由。なかなかいい感じだ。とんきのハード系、まい泉のソフト系と分類すれば、若干ハード系寄り。でも、さくっとした食感がなかなかよく、また肉質もジューシーでおいしい。 とんかつやを始める前に、おやじさんは社長と都内のとんかつやを何軒も回ったという。「どことどこに行ったの?」と尋ねると、「名前はわかんないよ。社長に連れてかれた」。それで、どこだったかで、社長に「こういうとんかつ揚げられるか」と聞かれ、「これくらいなら、できるんじゃない?」と軽く言ったら、そこの店の主人に嫌な顔をされたそうだ。おやじさんらしい。(笑) 「なんかでここのとんかつが1位になったとか、きいたよ。俺、関係ないけど」と、ネットなどにはまったく縁がないおやじさん。どうやら、「食べログ1位」というのが情報として伝わっているらしい。 左・ひれかつ定食、右・元・八竹亭のおやじさん、現マメヒコ・とんかつ部チーフ・シェフ とんかつを終えて、勘定をするのだが、それが表の珈琲店のレジ。そこで、せっかくなので、珈琲も飲むことにした。ここでは昔ながらのサイフォンで珈琲をいれている。深煎り珈琲がおいしそうだったので、これを頼んだ。これがサイフォンながらなかなかまろやかだった。豆がいいのかもしれない。この女性マスターも、珈琲を淹れるプロだとのこと。(ちなみに、僕はサイフォンより、ドリップ式派) しかし、この珈琲屋を抜けて、裏のとんかつやに行くというのが受ける。珈琲屋の常連さえも、最初のうちは、奥にとんかつやがあるのはわからないという。トイレに行くと、とんかつやの入口がわかるのだが。 実は、このおやじさんには、もうひとつ、先に書いた交通事故のときの臨死体験というとっておきの話がある。いつだったか、何ヶ月か突然店を閉めた後に行ったときに、なんかの拍子で交通事故の話になり、三途の川を見た、といいだして、その話が始まった。たぶん、そのときもタキオノと行っていて、営業終了間際の最後の客になっていた。 おやじさんが事故にあい、大怪我をして病院に担ぎ込まれた。たまたまその日の当直で脳外科の担当医師がおやじさんを知っていたというラッキーなどもあったそうだが、救急で運ばれて、すぐに手術。どうやらそのときに三途の川を見たという。事故の前後のことは、ほとんど何も覚えてないそうだ。しかし、その不思議な体験だけは鮮明に覚えている。 「向こうから誰かがこっちにおいでおいでってやってるんだよ、それで、ものすごく行きたくなるんだけど、『こっちに来るな』って言われたようで、なんか、ふと行くのやめたんだ。でも、ものすごく気持ちよくてね」 まさに、臨死体験ではないか。しかし、川を渡らなかったから、八竹亭は復活し、そして、閉店して、また、この新しいマメヒコでの復活も実現した。まさにこのおやじさんは、何度も奇跡の復活を遂げる不死鳥だ。 左・サイフォンで淹れる珈琲、右・おしゃれな珈琲カップ ファン。 帰ってきて、八竹亭、マメヒコのことなどを調べてみたら、けっこう、おやじさんがマメヒコで復活していることが出ていた。知っている人は知っているのだ。マメヒコのオウナーとおやじさんとの出会いについて書いてあるものもあった。まさにネット時代だ。 八竹亭では愛想はなかったが、それでもおやじさんのファンはかなりいたはず。そしてそのファンたちの多くは、おやじさんがここでひっそりととんかつを揚げていることを知らない。 タキオノも、「例えば月1回でいいから、『八竹亭ナイト』とかにして、昔のメニューを出す日を作れば必ず行くんだけどなあ」などと言っている。いいアイデアだ。八竹だから、毎月8日、あるいは、8日と9日とか。はち・く=八九、なんてどうだ。毎月8日9日だけ、八竹亭のメニューをいくつか選んで出すっていうのは、かなりいいと思うなあ。最初はランチもなかったが、最近ランチを始めた。またカツサンドは持ち帰りができる。 おやじさんに、「とんかつ以外はやらないの?」と聞くと、「給料安いから、これ以上やりたくな~い」と一笑に付された。おやじさんらしい。そして、一息ついて時計を見て「ああ、まだ二時間もあんのか(ちょうど9時くらいだった)。もう疲れた、帰りたい」とも。しかし、週7日、休みなく店に立っているらしい。 … Continue reading

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▽八竹亭おやじさん、とんかつやに転身~不死鳥の如く頑固に復活(パート1)

▽ 八竹亭おやじさん、とんかつやに転身~不死鳥の如く頑固に復活(パート1) 【Another Story of Stubborn Kind Of Fellow: The Master Of Hatchiku-tei Became The Master Of Tong-katsu Restaurant (Part 1)】 突然閉店。 ツイッターでつぶやいたら、思いのほか反響があったので、「八竹亭」のおやじさんのことを書いてみる。 「ねえねえ、あの八竹亭、なくなっちゃったの? おやじさん、どうしたの?」昨年4月頃、神山町に住んでいた友人のタキオノに緊急電話をいれた。「八竹亭」とは、神山町で約30年ほど続いていたカウンターだけの定食屋だ。僕も四半世紀ほど、渋谷にいると、けっこう通っていた。定食屋というとうらぶれた雰囲気が漂うかもしれないが、意外とそうでもなく、出されるものはかなりしっかりしていた。 その八竹亭が、2010年3月に突然店をたたんでいたのだ。そして、その行方がわからなくなっていた八竹亭(看板には和風レストランと書かれていた)のおやじさんはどうしていたのだろうか。 八竹亭は、多くの人は「はっちくてい」と読む。ただ「はちく」と読む人も若干いるようだ。おやじさんは、江尻栄市さんという。八竹亭の薄汚れた壁に掛けられていた調理士免許か、営業許可書かなにかにフルネームが書かれていたが、誰もその名前は知らないで、みな「おやじさん」とか「八竹のおじさん」などと呼ぶ。 ちょうど昨年(2010年)の春過ぎ4月頃、渋谷でライヴを見た後、八竹亭に行こうと思ったら、なんと看板がはずされ、店自体がなくなっていた。休業ではなく、明らかに閉店していた様子。おやじさん一人でやっていた店だから、また、倒れたのかと思った。前回倒れて長期間休んでいたときは、おやじさんが交通事故にあって療養中のときだった。あのときは、看板はあったが、長い間いつ行っても休んでいて心配した。そして、事故のことはずいぶんあとから知った。閉店中も、なぜ閉店しているかなどの張り紙はなかったから、ファンはどうしたのだろうとみな思っていた。だが、今回は店自体がなくなっていたので、引退して店をたたんだのか、あるいは、最悪、おやじさんが亡くなったかとさえ思った。そこで、旧知のタキオノに電話をしたというわけだ。 それから2-3ヶ月後だろうか、「八竹亭」の前を通ると、まったく違うカフェみたいな居酒屋みたいなビストロができていた。(調べると2010年7月末にオープンのビストロで、下北にあった店が引越してきたという) 「ああ、八竹はほんとうになくなったんだなあ」とかなり寂しい思いをしたものだ。 30年くらい前からこの店の常連だったタキオノもその消息を知らないという。タキオノはかつて八竹亭の裏あたりに住んでいて、おやじさんとも顔なじみ。僕も彼に初めて連れていかれたような記憶がある。1986年ごろのことだ。あの頃、八竹亭はおやじさんのお母さん(とても背が小さかった)と、おやじさんの弟さんの3人でやっていた。やがて、お母さんが体調をくずしたかで、店にでてこなくなり、兄弟二人になった。 ところがこの兄弟、仲が悪く、客の前でも喧嘩を始めてしまうこともあり、一時期店の雰囲気が険悪になったこともあった。結局、弟さんはここを辞め、以後はおやじさん(兄)一人で切り盛りするようになった。 いろんなものがおいしかったが、僕は牛肉ピーマン炒め定食とか、魚のバター焼き定食とか、しょうが焼き定食とか、いろいろ食べた。その定食には味噌汁、ゴハン、サラダがついてくるのだが、そのサラダのドレッシングがめちゃくちゃ美味しくて、いつだったか「これ、ちょっと売ってくださいよ」と言ったら、何かのビンにいれて、くれたこともあった。しばし、うちでサラダを食べるときはこのドレッシングをかけて食べたものだった。言ってみれば、当たり前の普通の定食が、おいしかったということだった。 しかし、おやじさん、人見知りはする、あんまり愛想はない、気分屋ということもあって、客の中にも好き嫌いが別れていた。だが、親しくなると、やたら話しかけてくるおやじさんで、こんな話もあった。↓ 2008年02月22日(金) 八竹亭のオヤジのホットライン http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10074474059.html テレビや雑誌の取材などもけっこうあったようだが、あの調子のおやじさんだった。 それにしても、辞めるなら、たとえば、いつで最後になります、とか、そういうアナウンスが事前にあってもいいと思うが、そんなものは何一つなかった。ま、それもおやじさんぽいと言えば、おやじさんぽい。だからほとんどの常連も、ある日突然店がなくなっていて驚いたはずだ。 衝撃復活。 さて、年が明けて、(2011年)4月の末。その友人タキオノから興奮して電話がかかってきた。「吉岡さん、あの八竹亭のおやじが、とんかつやにいるんだよ!」 「えええっ?? 何それ? とんかつや?」 意味がわからなかった。 彼がその日、近くでとんかつを食べたいと思って「食べログ」で調べたら1位とされる店があったので、とりあえず行ってみた。店名が「カフェ・マメヒコ」というので、怪訝(けげん)に思ったが、ものは試しと行ってみた。中に入ると、そこは落ち着いた木作りのカフェ。「いったいどこにとんかつが?」とさらに怪訝に思ったが、店の人が「お食事はこちらです」と奥に案内してくれた。 マメヒコ・カフェ、この奥にとんかつやがあるなどとは誰も想像だにしない … Continue reading

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◎AI 「ミュージック・フォー・ライフ・ツアー」セットリスト

◎ AI 「ミュージック・フォー・ライフ・ツアー」セットリスト 【AI: Music For Life Tour Ends】 圧巻。 レンガ風の壁が、ステージの開始とともに、少しずつはがれ、ビーととともにバウンスし、飛び出し、すべてが崩れ去ったかに見えた瞬間、3段ある一番高いステージの3階左にAIは姿を現した。 この何でもないステージが飛び出す 以後、ほぼノンストップで40分、ミディアム、アップ、スローと息もつかせぬ勢いで歌いきった。ソウル、R&B、ファンクの要素を思い切り全面に出したショー。ダンサーとの絡みも抜群、そして、この「マッピング」という手法を使った演出が圧巻だった。『ドリームガールズ』は、薄いLEDパネルが、映像も映し、ときに透けて見えたが、このAIの「マッピング」も、普通のスクリーンがときに透けたり、映像によって透けなかったりしていた。 メンバー紹介でのダンサーたちのひょうきんぶりも、おもしろかった。ほんとに、彼らは動かずにはいられないんだなあ、と思った。 前回はバンドでのライヴ、今回はダンサーとのライヴ、という位置づけ。アンコールでのバラード・メドレーも圧巻だった。 当初は東京が最終になる予定だったものが、大震災の影響でいくつかのショーが延期され、5日の仙台が最終となった。この「マッピング」、次回もぜひ使って、今回以上の仕掛けで驚かせてほしい。 AIは、まちがいなく日本のR&B系シンガーの最高峰にいる。歌が抜群にうまく、英語も完璧、そして踊れて、ラップまで出来る。当分、この世界を突っ走りそうだ。 AIの最新作は、『ラストAI』。最後のAIの意味だ。CDと今回のツアーは、ある意味で、AIのキャリアの中で、ひとつの最後、終焉、区切りを意味する。このツアーを終えたAIは、次のステップに進む。果たして彼女が挑戦する新たなステップは何か。次に何をするかの発表が楽しみだ。 セットリストをお送りする。 楽屋ネームプレート ■ AI最新盤 THE LAST A.I(初回限定盤)(DVD付) posted with amazlet at 10.12.01 AI K’NAAN AI with Chaka Kahn 安室奈美恵 Snoop Dogg 加藤ミリヤ AK-69 … Continue reading

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★ ダンサー、マユコさん『ディス・イズ・イット』のオーディションを語る

★ ダンサー、マユコさん『ディス・イズ・イット』のオーディションを語る 【Mayuko, The Dancer, Talks About This Is It Audition】 オーディション。 現在AIのツアーでロスから来日中のダンサーの一人で日本人のマユコ(キタヤマ)さんも、『ディズ・イズ・イット』のオーディションを受け、1次に受かり、2次に進み、マイケル、トラヴィスの目の前で踊った。 AIの楽屋でちらっとマユコさんと立ち話をしたのでご紹介しよう。 予選は2009年4月13日、14日、15日とあった。13日が男子、14日が女子、そしてこの二日で選ばれたものが15日に再度2次審査。ここで選ばれると、次の3次審査へ。 マユコさんは1次に受かり、おそらく4-50人ほどの2次審査に進んだ。8人一組で、オーディションを受ける。 ステージの目の前には、マイケル・ジャクソンと振付師のトラヴィスが椅子に座っている。ダンサーたちは、マイケルとトラヴィスが見ている目の前で踊るのだ。 何千人と集まったダンサーたちの多くは、マイケルに憧れてダンスを始めた。いつかは、マイケルと一緒に踊りたいという夢を胸に秘めて、ロスのオーディションにやってきた。彼女に、「なんかこうギラギラしたものはありましたか」と尋ねると、「ギラギラというよりも、みんな本当に熱かったですねえ。ただ、熱くて。みんなマイケルの前で踊れるだけで、なんか、こう嬉しいんですよ。そのひたむきな熱さを見ていたら、こっちまで泣けちゃって」と振り返る。 ステージでは、4人が前列・後列に別れ、約2分程度のメドレーになった曲をそれぞれ踊り、前の列で踊った4人が、次に後ろにまわり、後ろの4人が前に出て、もういちどそれを踊る、というスタイルのオーディションだった。 楽曲は、「デンジャラス」「スムース・クリミナル」「ホワイ・ユー・ウォナ・トリップ・オン・ミー」がメドレーになった約2分程度のもの。 これが2度かかり、前列と後列で踊り、その場で、名前が呼ばれると合格になった。残念ながら、マユコさんは名前を呼ばれなかった。 この4月15日に合格した20数名が翌日16日の3次審査に進み、ここで最終的なメンバー(10人強)が選ばれることになる。最終的に合格しても、ケント・モリさんのように、本人の契約の都合でツアーに参加できなかったダンサーもいた。 女子はもともと募集が少なかったこともあり、男子よりさらに競争率は高かった。マユコさんによれば、「踊りの正確さ、かっこよさは、もちろんのこと、たとえば、『ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール』を踊るモデルのようなプレゼンスのある(存在感のある)歩き方が要求された」という。となると、やはり背が低い人は若干、不利になる。 このオーディションには受からなかったが、彼女は2007年からグエン・ステファニーの100本近い全米ツアーでダンサーとして活躍した。100本近いライヴをこなすとなると、相当な体力もないとつとまらない。 マユコさんは、1983年2月17日神戸生まれ。彼女は現在、ロスのシャーマンオークスに居をかまえ、日々アメリカのダンスシーンで活躍している。 左は、ディー・マック、右・マユコさん ENT>ARTIST>Mayuko, The Dancer

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○カマサミ・コング氏ポッドキャストとお台場のハワイ・フェス

○ カマサミ・コングのメットポッド~お台場のハワイ・フェス 【Kamasami Kong’s Met-pod】 収録。 大阪ココロFM、東京のインターFMなどでも活躍する人気DJカマサミ・コング氏が毎週インターネットで放送している東京メットポッドは、東京を中心とした音楽・映画・エンタテインメント・カルチャーの最新情報を紹介する番組だ。そのメットポッドの収録に、来週12日にブルーノートで東北大震災のチャリティー・ライヴを行うフィリップ・ウーとブレンダ・ヴォーンらが登場した。 毎週水曜午後、飯倉のアメリカン・レストラン、スージーズで行われる収録は、コング氏のネットワークで東京在住の外国人が何人も集まる。映画、コンピューター、音楽、その他のカルチャーに詳しい人々が、コング氏のインタヴューに答える。 コング氏は、いつもデジタル・レコーダーと高性能マイク、イアフォーンなどをワンセットにして持ち歩き、いつでも、どこでも録音できる。まさに、コング行くところ、どこでもスタジオといった感じだ。Wherever Kong Goes, It’s Studio. フィリップとブレンダが、5月12日に東京ブルーノートで行われるチャリティー・ライヴについて語る。コング氏。「ドクター・ウ~~!」 フィリップ。「これは、チャリティー・イヴェント。5月12日、午後7時半、ソウル・ショーだ。ディレクテッド・バイ・ドクター・フィリップ・ウー」 コング。「そして、ブレンダ・ヴォーンがAC/DCを歌うんでしょう! (一同爆笑)」 フィリップ。「僕たちは、ハッピーでアップテンポで、ポジティヴなメッセージを持ち、アップリフティングな曲ばかりを選んで演奏する。こんどソニーの今年の一押しとなる橋本江莉果のライヴを担当することになったんだが、その彼女に1曲僕がアレンジした曲を歌ってもらう」 ブレンダ。「メンバーは、東京ソウル・コネクションという感じで、いつも一緒にやっているメンバーばかりよ」 フィリップ。「それと、まだはっきりはしてないけれど、シークレット・ゲストも来てくれるかもしれない。名前は言えないんだけど」 コング。「その人物は現在亡命中の人物かな」 フィリップ&ブレンダ「(爆笑) 日本に住んでると思う」 左・ブレンダ・ヴォーン、右・フィリップ+コング氏+ジョセフ・テイム氏 +++++ その後、一度ここでも紹介したジョセフ・テイムさんが、新しいパソコンのアプリを紹介した。何でもキスするアプリとかいうもので、たとえば有名人のそのキスのアプリを買うと、有名人からキスされるらしい。 +++++ その後、コング氏がお台場のヴィーナスフォートで行われているハワイアン・フェスティヴァルで友人のハワイのグループがライヴを行っているので、そこに行き、インタヴューするので、一緒に来るかと誘われたので、行ってみた。 ヴィーナスフォートはゴールデン・ウィークということもあってかすごい人ごみ。フォート内教会広場でライヴをやっていたのは、ウェルドン・ケカウオハの3人組。ライヴ後、コング氏はさっそくインタヴュー。瞬く間に機材をセットし、マイクを渡し、話が始まる。彼がここで録音したものは、自宅で編集し、ポッドキャストで使用するものは、そのままアップロード、FM番組で使用するものは、完パケにして局に送るか、生放送の場合は、そのまま使う。まさに、Wherever Kong Goes, It’s Studio. ほんとに、機動力があって素晴らしい。 左・ウェルドン・ケカウオハをインタヴューするコング氏、右・簡単な機材。これがあればどこでもスタジオ +++++ その後、戻るところの大きな広場のところに、マラサダを揚げて売ってるショップがあり、コング氏に強力に勧められ、並んで購入。ポルトガルからハワイにはいってヒットしたドーナツみたいなパンを揚げ、砂糖などでまぶしたもの。ハワイでは、レオナードという店のものが一番の人気とのことだが、いろいろな店で出される、という。揚げたてがふわふわで、実にこれがおいしかった。このふわふわ感は初めて味わったが最高だ。 ここで揚げて、その場で売り出しちゅう。一個150円、3種類。 18時の段階で残り270個と表示された。話をきいてみると、このハワイ週間では、1日1500個くらい売れるらしい。なんとか、まにあって買うことができた。この出店は横浜の都築区にあるH1カフェが出していたもの。この移動出店だけで作っているため、お店のメニューには出ていないという。 http://www.h1-trailer.com/index.html +++++ ちょうど、これをその広場で食べていたら、カラパナの曲がかかり、コング氏が解説してくれた。「カラパナのメンバーは、リード・シンガーがものすごくいい人だったのに、ドラッグにおぼれて、自殺してしまった。グループの曲や、繊細な詞を書いていたのは彼だったので、彼が死んでからは、雰囲気が変わってしまった。カラパナのメンバーの一人、ケンジ・サノは、吉岡さんも知ってるでしょう」 +++++ メットポッドのサイトはこちら。 http://metropolis.co.jp/podcast/ 2011年5月6日ごろ、アップされる予定 ENT>ANNOUNCEMENT>Woo, Philip ENT>RADIO>Metpod

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○高山広、チャリティー一人芝居5月13日金曜に無料で

○高山広、チャリティー一人芝居5月13日金曜に無料で 【Takayama Hiroshi Charity Free Live On May 13】 チャリティー。 『ソウル・サーチン』のイヴェントでもソウル・アーティストをユニークな切り口で演じてみせてくれたパフォーマー、高山広さんが来る2011年5月13日(金)、目黒のパーシモンホールで東日本大震災の被災者のためのチャリティー・ライヴを行う。入場は無料。 高山さんの故郷は宮城県ということで、今回も宮城に足を運びながら、現地でヴォランティアとしても活動してきた、という。今回は、その復興支援ライヴとして「おキモチ作戦 OPERATION OKIMOCHI 劇励」と題してライヴを行う。 題名 復興支援ライヴ「おキモチ作戦 OPERATION OKIMOCHI 劇励」 出演 高山広 http://www.schop.air-nifty.com/  日時 2011年5月13日(金) 開場13時、開演13時30分 会場 めぐろパーシモンホール(小ホール) http://www.persimmon.or.jp/ 東急東横線・都立大学より徒歩7分 住所 〒152-0023 東京都目黒区八雲1-1-1 電話 03-5701-2924 FAX:03-5701-2968 入場 無料 なお、義援金として、お一人様千円以上のご協力をお願い致します。  問い合わせ 03-5789-3323 (株)リビング・エージェント +++++ 高山さんは、『ソウル・サーチン』でもかつて、ルーサー・ヴァンドロス(2006年7月1日)、アレサ・フランクリン(2007年3月26日)でそれぞれのキャラを見事な一人芝居で演じてくれた。(詳細は下記過去記事で) 一人芝居に興味がある方、ぜひ一度試しにどうぞ。おもしろさ、その内容は保証します。どのようなものか詳しく知りたい方は、過去記事をごらんください。 ++++ ■ 高山広・プロフィール 高山広は、1963年宮城県出身。1988年から芝居、演技を開始。1992年から、一人芝居をさまざまな会場で行うようになる。ショート・ストーリーを数本まとめたオムニバス形式のシリーズ『高山広のおキモチ大図鑑』では、高山は単に人間だけでなく、動物、昆虫、はては、花火、パチンコ玉、かさ、たばこ、信号機などありとあらゆる森羅万象の物格・人格になりきり、それを演じる。作品数はすでに600本に迫り、数分のショートものから、2時間を越える超大作まで多数。鋭い洞察力をもとにした人物の描き方、演じ方は他の追従を許さない。                                     ■ 高山広公式ウェッブ http://schop.air-nifty.com/takayama/ ■高山広・ソウル・サーチン過去関連記事 2010年01月20日(水) 高山広ライヴ:「ねずぶり」~「ねずぶり」とは、そしてそのメッセージは http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100120.html 2008年09月09日(火) 高山広・一人芝居~20周年中年 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20080909.html … Continue reading

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◎ナチュラリー7、口と体の可能性を無限に広げるパフォーマンス

◎ナチュラリー7、口と体の可能性を無限に広げるパフォーマンス 【Naturally 7: Sky’s The Limit: The World Of Acapella, HumanVoice】 無限。 2004年の初来日以来コンスタントに日本に来ている7人のアカペラ侍、ナチュラリー7。ちょうど、2009年4月以来約2年ぶりの来日だ。初来日の時に、インタヴューしたが、もうあれから7年か。光陰矢のごとし。 スピーカーから出る音は、すべてステージ上の7人の口から出る声。そこから生まれる「バンド・サウンド」(楽器の音もすべて口から)、ハーモニー、スクラッチなどの効果音まで含めて、他の追従をまったく許さないユニークなアカペラ・サウンドを繰り出す。 本当に何度見ても面白く楽しめる。ただのハーモニーだけでなく、ちゃんと振り付けもして、踊って見せて、よりエンタテインメントにしているところが素晴らしい。テイク6が優等生的大学生とすると、このナチュラリー7はストリートの連中という感じ。 彼らもセットリストが自由自在に変わるようで、その場でいろいろなアドリブが飛び出てくる。何も予定通りにはいかないようだ。(笑) メモを元に作ったのが下記セットリスト。ライヴ後、事前のセットリストを見たが、まったく違っていた。 見所は満載だが、下記セットリストで7にあたる「ループ・ペダル」などもおもしろい。その場で何小節か口でやった音を録音し、それをすぐに再生、さらにそれにあわせて新しい音を録音し、それを重ねて再生。これを何度か繰り返し、どんどん音が厚みを増していく。これをその場でやってくれる。メロディーも音も歌詞もすべてアドリブだ。 最近、彼らは自らの音を『ウォール・オブ・サウンド』(サウンドの壁)と呼んでいて、その名の曲も作っている。下記セットリスト8の「ウォール・オブ・サウンド」では、前回もやっていたが、マイケルの「シェーク・ユア・ボディー」「オフ・ザ・ウォール」なども入れ込んでいい感じだ。そして、メンバー一人一人をねじ巻き仕掛けの人形のように止めてしまい、フリーズしたメンバーをまた一人一人動かしていくパフォーマンスなども楽しい。 セットリスト9のDJなど各ソロパートもおもしろい。特にDJ役のロッドのターンテーブルを二台(といっても、もちろん、エア・ターンテーブル!)使ったスクラッチとドラムスの掛け合いは、人間業とは思えない。「ウィ・ウイル・ロック・ユー」や「ロック・ウィズ・ユー」のヴォーカル部分をこするところなど、本当にレコードをこすっているみたいだ。 今回初めて見たのが、ハービー・ハンコック・メドレー。これはなかなかのアイデア。「ウォーターメロン・マン」「カメレオン」そして、「ロック・イット」と、代表3曲をうまくアレンジした。「ロック・イット」なんて、もっとも彼ら向き。 アンコールの定番「レディー・オア・ノット」では、1960年代の「モンキー・ダンス」を彼らもやりながら、徐々に観客にもやらせ、会場が一体化。ジャンプで会場が揺れた。地震なのか、彼らの揺れなのかもわからないほど盛り上がった。 今回は、ジャマールに代わり新しいナポレオン(愛称ポロ)が参加していた。 エア・ギター、エア・ドラムス、エア・ベース、エアDJ。しかし、よくまあ、ここまで多彩に取り揃える。間違いなく、何度でも見たいライヴ・パフォーマンスだ。 ■ナチュラリー・7  Non-Fiction posted with amazlet at 11.05.03 Naturally 7 Festplatte (2008-03-25) 売り上げランキング: 62515 Amazon.co.jp で詳細を見る Vocalplay: Canadian Special … Continue reading

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◎ 「マッピングの衝撃」(パート2)~AIライヴツアー

◎ 「マッピングの衝撃」(パート2)~AIライヴツアー (昨日からの続き) 【Mapping : AI Tour, First In Japan】 衝撃。 まさに、このステージングは衝撃としかいいようがない。普通に壁というか垂れ幕だと思ったものが、動き、バウンスし、飛び、消えた。ただの壁と思っていたものが、映像を映し出すスクリーンだったのだ。壁が「動いた」とき、思わず観客から「おおおっ」と声が上がった。 そのスクリーンには続く2時間、様々な映像が映し出され、それが視覚効果をじつに多彩に醸し出す。しかも、ダンサーの動きと、ダンサーたちのシルエットがまるで同時に行われているかのような錯覚さえ起こる。 AIの事務所社長新井さんによると、「何年か前から知ってた。毎回、アルバムが出るたびに、それをサポートするツアーというスタイルも、それそろ変わってきてもいいんじゃないかと思い始めていた。そこで、CDはCD、ライヴはライヴという考え方で行こうと。そんなとき、これを使ってライヴをやってみたら、おもしろいのではないかと考えた」という。 このアイデアそのもの自体はイギリス人が考え出し、今回は香港のチームがオペレーションなどを一切仕切るはずで、準備を進めていた。素材となる映像撮影はロスで3月に。ダンサーたちと踊るシーンを撮影し、ステージでどう動かすか、詳細なマップを作り、シミュレーションを重ねた。 映像は、客席側から投影し、ステージの裏から映し出すものではない。基本的には21面あるスクリーンはちょっとした特殊加工したスクリーン素材だ。 スクリーンに映る映像のダンサーと、リアルなステージにいるダンサーが瞬時に入れ替わったり、瞬間移動したりする、そんな演出になる。今回、シルエットや、スクリーンは向こう側のライトをつけると透けて見えるので、スクリーン越しに見えるダンサーや、スクリーンが奥に凹んでいる場合、生のダンサーが直接見える。 すべての進行表をびっしり決めないといけないために、楽曲、セットリストも早めに決め、音を作り、素材となる映像を撮影し、動きを考えた。 そうした準備を進めている最中の3月11日に事件は起きた。AIやダンサーたちは、ロスでリハーサル、撮影などをしていたが、震災が起こり、香港のチームたちが来れなくなってしまった。そこで、一部を変更して、やらざるをえなくなった、という。 マッピングの言葉自体の意味は「個々の構成要素に対して、別の集合の要素を規則に従って機械的に対応付けたり割り当てたりすること」だという。この場合、21面のスクリーンにそれぞれの映像を別個に、あるいは、全面を使ってひとつの映像を作ったりする。 ひょっとして21台の映写機があるのかと思いきや、なんと2台の映写機でこれらの複雑な映像を映しているという。しかし、それこそ動きはミリ単位で調整しなければならないので、本当にリハーサルが大変だった、という。何度もパソコン上で動きを計算し、実際にステージでやってみて、あわせる作業を何度も行う。 客席から見て一番上の段の左から順に1番から7番、真ん中の段には8番から14番、下の段、ステージと同じ高さのボックスには15番から21番とそれぞれ番号がふられている。そして、ダンサーたちは、どの曲の何小節目で何番のボックスに登場、などと細かく決められている。 たとえば、オープニングでは、壁がすべて飛んだ後、AIは一番上段の3番に登場し、左の2番と右の4番を行き来する。2番と4番はスクリーン越しにAIを見ることになる。一方、2曲目では1-3-5-7-8-12番にダンサーが位置し、そこで踊りながら、AIは19番から登場といった具合だ。 ステージ上の3階建てステージ。上段では1番3番5番7番が凹んでいる。そこにダンサーたちが入り、踊る また、バックを彩る映像もなかなかいい。「アフター・ザ・レイン」での虹の写真、「サマー・ブリーズ」での海の夕日、「ノーバディー・ライク・ユー」での各ボックスの地球儀や本棚に並べられた本のセットも素敵でかわいらしい。マンハッタンの夜景、夕日、森の木々、宇宙、モノクロのテレビ画面など、各映像がうまくバックをつける。 特に踊りとこれらの映像がシンクロしたときがたまらなくかっこいい。その圧巻は「フェイク」。3階建てアパートにダンサーのシルエットが映り、自由自在、神出鬼没にシルエットが動き、ある瞬間にステージにリアルなダンサーが現れる。 相当なリハーサルをつまないとこれらの動きはなかなかびしっと決まらないだろう。 こうした演出も、もちろんAIがきっちりと歌える歌唱力のある実力派だからこそ映えるもの。単なるギミックにならず、大掛かりな視覚効果と歌唱、ダンスが一体化しているところが素晴らしい。 マンハッタンの夜景から海辺の美しい夕日などを見ると、まるでAIが世界旅行をしているかのようにも思える。ちょうどマイケル・ジャクソンの「ブラック・オア・ホワイト」のプロモーション・ビデオで、マイケルのバックが世界各地を旅したように、これさえ使えば、簡単にAIを世界に連れて行ける。 この「マッピング」の可能性は、本当に無限大だ。映像も無限大なら、その組み合わせなども、無限大。何でもできるはず。いかようにも、進化できる。それにしても、ダンスものとのマッチングは完璧だ。ダンスとマッピングで、ステージは6メートルx14メートルのスクリーンを自由自在に描けるキャンバスに出来る。 たとえば、リアルタイムでパフォーマーたちをカメラで写し、それを後ろのスクリーンに映し出すことも可能だろう。 「マッピング」とは、スクリーンにいる映像と、リアルなアーティストたちが、自由自在にコラボレーションできる新ツールだ。これから多くのアーティストたちがこれを使うようになるだろう。まさに「マッピングの衝撃」だ。 ENT>MUSIC>LIVE>AI ENT>MUSIC>Mapping

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◎AI、「マッピング」という新技術で斬新な演出~「ミュージック・フォー・ライフ・ツアー」(パート

◎AI、「マッピング」という新技術で斬新な演出~「ミュージック・フォー・ライフ・ツアー」(パート1) 【AI Using New Technology Called “Mapping”(Part 1)】 斬新。 日本を代表するR&B系シンガー、AI(アイ)が2009年「ヴィヴァAIジャパン・ツアー」、さらに2010年の「10周年記念スペシャル・ライヴ~伝説ナイト」に続く、2011年のツアー、その名もAI TOUR 2011「FOR MUSIC FOR LIFE」を2011年4月から開始した。当初は4月1日札幌から始まる予定だったが、震災の影響で、4月7日大阪からスタートした。 最後が、東京の予定だったが、仙台分がその後に移動してきたので、仙台が千秋楽になる。 AIのライヴ前に、地元のダンサーチームがパフォーマンスを見せた。 今回のゼップツアーは、ステージ全面に7x3計21面のパネルが立っている。ライヴが始まる前は、ここにツアー・タイトルのロゴが壁全面に出ていたが、ライヴが始まるとこの壁が動画を映し出すスクリーンとなった。まず、そこからレンガの壁がひとつひとつ前の方に飛び出るようになる。まるで3D映像のようだ。めがねをかけていないので、実際飛び出てくることはないのだが、そんなイメージだが、いきなり度肝を抜かれた。 この21面のパネルがときには、全面でひとつの映像となったり、それぞれの21面が21個の映像を映し出したり、変幻自在に投影して演出する。全21面のうち、上段が4面、中段が2面、下段が4面、それぞれスクリーンが6-70センチ後ろに引っ込んでいて、凹凸になっている。映像はダンサーを事前に実写した映像や、シルエットだったり、風景などだったりする。 そして、6人のダンサーたちの踊る姿がそのスクリーンにシルエットで映し出されつつ、曲のタイミングで凹んだスクリーンの手前にリアルなダンサーがぱっと登場して観客を驚かせる。この映像とリアルなダンサー、そして、AIとの組み合わせが実に奇想天外でおもしろい。 ときどき、そのシルエットが映像なのか、実際に踊ってシルエットに見えるのか、本物なのかどうかさえわからなくなってしまうほど、動きが展開するのだ。そして、これが実にスリリングでおもしろい。そうすると、今まで生のAIが引っ込んだスクリーンの前で歌っていて、すぐに横のボックスに映り、シルエットになったように見える。そして、次の瞬間、別の段の凹んだボックスにリアルなAIが瞬間移動していたりする、というわけだ。 この仕掛けを思わず目を凝らして見入ってしまった。この多面スクリーンとリアルなダンサーと映像とのコラボレーションを可能にしているのが、「マッピング」という手法だ。僕は、これに近いものを昨年の『ドリーム・ガールズ』のときに見ていたが、日本のアーティストとしてこれを大々的に使ったのは、AIが初めてとのこと。 僕は、これは、かつてステージで「バリ・ライト」や「レーザー・ライト」を初めて見たときと同じくらいの衝撃を感じた。最近では、大々的な映像スクリーン、またLEDなどを多用したステージングもひじょうにおもしろいが、この「マッピング」は、実に可能性のある新技術だ。おそらく、これから多数のエンタテイナーたちがこの技術を導入していくことだろう。 ただ、これを使ってうまい演出をできるアーティストはけっこう限られるかもしれない。ダンスのような動きのあるステージングで「マッピング」はとても相性がいい。 そして、今回は6人のダンサーとDJヒラカツ、そして、AIという出演者でまとめる。これが、その「マッピング」のおかげでひと時たりとも飽きないステージが繰り広げられる。それにしても、AIは、ダンサーたちと一緒に本当によく踊る。そして、よく歌う。そして、よくしゃべる。冒頭のノンストップの40分間は本当に、圧巻だ。そして、後半アンコールからのバラードメドレーはしっかりとスタンディングの観客の心を完璧にわしづかみ。 今回の歌の中で映像ともとてもマッチしていたのが、「今何ができる~」と歌う「アイ・ウォナ・ノウ」。スクリーンにはいくつもの地球が映し出され、現在の地球の病んでいる状況、また東北大震災の被災地に「今何ができる」というメッセージがかぶさり実に感動的だった。 AIによれば、これは「普通、リハなんかで泣かないでしょう。でも、リハーサルをしているときにほんとに泣けてきた」というほど、今回のセットリストの中では特に目立った1曲だった。 そして、曲間のMCは、相変わらずAIらしさが存分にでてファンに受けている。このキャラクターは、本当にワン&オンリーだ。 アンコール前に、いつのまにか、観客が「ストーリー」のサビ部分を歌い始め、AIを迎え入れるのが、定番になっている。観客の8~9割は20代前半の女性。やはり、若い女子の支持が圧倒的だ。 (明日以降、マッピングについて書きます) (セットリストは、最終公演・仙台公演=5月5日終了後にアップします) ■ 過去関連記事 2010年05月21日(金) ミュージカル『ドリームガールズ』始まる (パート1) http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10540437269.html 『ドリームガールズ』では大きなLEDパネルを5枚使っていた。今回AIは、21枚のスクリーンを使用。 2010年12月02日(木) AI デビュー10周年記念スペシャル・ライヴ「伝説ナイト」 … Continue reading

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