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● R&Bシンガー、ヴェスタ・ウィリアムス53歳で死去

● R&Bシンガー、ヴェスタ・ウィリアムス53歳で死去 【R&B Singer, Vesta Williams Dies At 53】 訃報。 R&Bシンガー、ヴェスタ・ウィリアムスが2011年9月22日、ロスアンジェルスのホテルで死亡しているのが発見された。53歳だった。(年齢については48歳と報じているものが多いが、本人のインタヴューで53歳と言っているものがあるので、48歳ではなく53歳が正しい) ロスアンジェルス空港近くエルセグンドにあるホテルで西部時間帯同日午6時15分頃発見された。目だった外傷などはなく睡眠中に死去する自然死とみられる。ただ、錠剤の入っていた小さなビンが空で部屋に残されており、薬の過剰摂取の可能性もある。検死をして死因を特定する。ヴェスタは新しい部屋を探すためにしばらくホテルに滞在していたという。 シャカ・カーンのバック・コーラスを担当していたことから、デビュー時には「第二のシャカ・カーン」として注目された。シャカと声質も似ていることもあり、同じようにシャウトする唱法がシャカを思わせたのが特徴。 ヴェスタは2011年10月22日ウィルシャー・イーベル劇場で行われる第21回『ディーヴァズ・シンプリー・シンギング!』というイヴェントで歌うことになっていた。これは、エンタテイナーとして活躍するシェリル・リー・ラルフが20年以上行っているもので、エイズへのチャリティーも兼ねている。同イヴェントの前回(20回)で歌ったティーナ・マリーが急逝したため、今年は「ティーナのトリビュート」を行うことになっていたが、急遽、ヴェスタのトリビュートも行うことに決めた。今年はこのほかにケリー・プライス、ジェニファー・ルイス、フレンチー・デイヴィス、ニーシー・ナッシュなどが出演。また、オリジナル・ブロードウェイ・メンバーを含む『ドリームガールズ』を、ラルフ、ジェニファー・ホリデイ、ロレッタ・デヴァインを再現する。 ■ ヴェスタ・ウィリアムス、今日「ソウルブレンズ」内「ソウル・サーチン」(午後2時半~インターFM76.1mhz)でトリビュートします。 関東地区の方は、ラジコを通じて、インターネットで聴けます。下記アドレスにアクセスしてみてください。 http://radiko.jp/player/player.html#INT 評伝。 ヴェスタは1957年12月1日、オハイオ州コショクトンという街に3姉妹の長女として誕生。 父親がラジオのDJで、母はダンサー。7歳頃、父親がロスアンジェルスの人気R&B局KJFJでの仕事を得たため、引越し、以後ロスを本拠に。教会で歌いはじめると同時に地元のバンドなどに参加。姉妹で「ウィリアム・シスターズ」と名乗り活動した。14歳頃、再びオハイオに戻り祖母の家で暮らす。21歳ごろ(1978~79年)にチャンスを求めてロスに。ここでもいくつかのバンド活動をしながら、オーディションを受け、CMソングや多くのアーティストのバックグラウンド・ヴォーカルの仕事を得た。この時期、バックを務めたアーティストには、シャカ・カーン、ボビー・ウーマック、コモドアーズ、クルセイダーズ、ジェフリー・オズボーン、ジャーメイン・ジャクソン、フリオ・イグレシアス、レイ・パーカー、グラディス・ナイトなどそうそうたるメンバーがいる。 1984年5月のシャカ・カーンのコンサートでヴェスタも来日。またクルセイダーズでも来日している。1985年、A&Mのディレクター、ジョン・マクレインと知り合い、1986年同レーベルからアルバム『ヴェスタ』でデビュー。このアルバムは、ブライアン・ローレン、ビリー・ヴァレンタイン、デイヴ・クロフォードらがプロデュース。シングル「ワンス・ビトン・トゥワイス・シャイ」がソウルチャートで9位を記録。以後、ソロ名義で1993年まで計12曲のヒットを生んだ。1986年の映画『ソウル・マン』ではサントラで「サドンリー・イッツ・マジック」を提供したが、ヒットにはいたっていない。最大のヒットは、1991年の「スペシャル」。ほかにも「ドント・ブロー・ア・グッド・シング」や「コングラッチュレーションズ」など。1993年にマリオ・ヴァン・ピーブルズ監督・主演の映画『ポッシー(邦題、黒豹のバラード)』でシンガー役でいい味をだしていた。1998年にポリグラムからアルバムを出した後は、目だった活動はなかった。この時期、肥満に悩み、ダイエットなどを積極的に行い、ピーク時から100ポンド(約45キロ)体重を落としたともいう。 最後のアルバムは、2007年シャナキーから出た『リレイションシップス』。作品としては2010年12月にスティミュリ・レコードから出した「ディケイテッド・トゥ・ユー」。 リリースしたアルバムは次の6枚。 1986 Vesta A&M 1988 Vesta 4 U 1991 Special 1993 Everything-N-More 1998 Relationships PolyGram 2007 Distant Lover … Continue reading

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●アシュフォード&シンプソンの偉業

●アシュフォード&シンプソンの偉業 【Great Triumph For Ashford & Simpson】 夫婦。 夫婦デュオ、アシュフォード&シンプソンは、レイ・チャールズの「レッツ・ゴー・ゲット・ストーンド」の大ヒットをきっかけに、モータウンから声をかけられ、モータウンのスタッフ・ソングライターとなった。モータウンでは、なかなか破格の待遇を受け、多くの作品を作り、マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルなどによって歌われ、ヒットした。 「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」、「エイント・ナッシング・ライク・ア・リアル・シング」、そして、「ユア・プレシャス・ラヴ」など後年もたくさんのアーティストにカヴァーされる作品が生み出された。 彼らの作品の最大の特徴は、とても覚え易いメロディーと実生活に根付いた歌詞にある。デュエットで歌うのにも適しているラヴ・ソングは特にその魅力を発揮する。ニックは、基本的に歌詞を担当した。 マーヴィン&タミーでヒットした「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」は後にダイアナ・ロスもカヴァーするが、1970年、ダイアナのソロ第一弾シングルもアシュフォード&シンプソンの「リーチ・アウト・アンド・タッチ」だ。これは一時期ダイアナのテーマ曲ともなる。デビュー作からてがけて、しばらくおいて、1979年に再び手を組んで世に送り出したのが「ボス」だった。じつにダイアナのポップな歌声と彼ら作り出すメロディーがぴったりだった。 マーヴィン&タミーで言えば、後期の作品でタミーがスタジオ入りできないとき、ヴァレリーがタミーに代わってマーヴィンの相手としてレコーディングしたことは今ではよく知られている。 1973年、彼らがモータウンを離れ、ワーナーにアーティストとして移籍してくると、次々と自身でヒットを出し始める。出すアルバムはことごとくゴールド・ディスクになるが、なぜか日本では話題にならなかった。どれも好きなアルバムで、メロディーもとても日本人受けしそうだと思ったが、とうとう最後まで日本ではブレイクしなかった。 1984年、彼らがキャピトルに移籍して出した「ソリッド」は彼らのアーティストとしては最大のヒットとなった。そのときに、かなり詳しいキャリアをライナーノーツに書いた。 彼らの偉業は素晴らしい作品を書き、ソングライターとしても超一流となったが、同時に夫婦デュオとしても成功を収めたこと。こんなアーティストは他にいない。 クインシー・ジョーンズのアルバムなどでも客演していた彼らだが、アメリカの音楽業界から惜しまれる存在だ。 ニック・アシュフォード=2011年8月22日死去。69歳、あるいは、70歳。 生年について。ニックは1942年5月4日とされていたが、昨日、ウィッキペディアが1941年5月4日と記述を変更した。これが70歳という報道を受けて変更したのか、実際に1941年生まれなのか、まだ確認できていない。 ■ アシュフォード&シンプソン、初来日ライヴ評 November 20, 2009 アシュフォード&シンプソン:ストーリーを聴かせるライヴ (パート1) http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10392434386.html November 21, 2009 アシュフォード&シンプソン (パート2): インタヴュー http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20091121.html 2009年11月22日(日) アシュフォード&シンプソン(パート3):インタヴュー:モータウンでは「スピード」が必要だ http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10393856744.html#main 2009年09月25日(金) アシュフォード&シンプソン、11月に初来日決定 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20090925.html ■ アシュフォード&シンプソン ストリート・オペラ posted … Continue reading

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● 2人の偉大なソングライター、同日に死去~ニック・アシュフォード、ジェリー・リーバー

● 2人の偉大なソングライター、同日に死去~ニック・アシュフォード、ジェリー・リーバー 【Nick Ashford & Jerry Leiber Dies】 訃報。 アメリカ・ポピュラー音楽史に残る2人の偉大なソングライターが2011年8月22日(月)に亡くなった。一人は、1950年代から数多くのヒットを放ったリーバー&ストーラーの一員として知られるジェリー・リーバー、78歳。ロスアンジェルスのシーダース・サイナイ病院で死去。もう一人はおしどりデュオとして知られるアシュフォード&シンプソンのニック・アシュフォード、69歳。ニューヨークの病院で死去。しばらく咽頭癌を患っており、放射線治療を受けていた、という。(ニックの年齢についてはAP配信のものが70歳とされていて、これが間違いだと、そこから引用したものがすべて70歳になる。これまで長く1942年生まれとされていたので、69歳のはずだが、それが違っていたのか、あるいは、単純に今回のメディアのミスなのか、まだわからない) リーバー&ストーラーは、いわゆるニューヨークの伝説的な音楽ビルディング「ブリル・ビルディング」にいたソングライターたちで、1950年代からヒット曲を連発。エルヴィス・プレスリーで有名になった「ハウンド・ドッグ」「ジェイルハウス・ロック」「ドント」、ブラック・ノヴェルティー・ヴォーカル・グループ、コースターズの一連のヒット、「ヤケティー・ヤック」「ヤングブラッド」「ラヴ・ポーション・ナンバー・ナイン」など、ドリフターズの「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」、ベンEキングの「スタンド・バイ・ミー」「スパニッシュ・ハーレム」(アレサもカヴァー)などの大ヒットを生み出した。最近のヒットでは、マイケル・マクドナルドの「アイ・キープ・フォーゲッティン」も。 アシュフォード&シンプソンは、レイ・チャールズの大ヒット「レッツ・ゴー・ゲット・ストーンド」を皮切りに、モータウンのソングライターとなり、マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルの大ヒット「エイント・ナッシング・ライク・ザ・リアル・シング」「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」などの大ヒットを提供し、その後、自身でも夫婦でアシュフォード&シンプソンとして1973年ワーナー・ブラザーズと契約、レコードを出し、ヒットを生み出した。「ドント・コスト・ユー・ナッシング」「イット・シームズ・トゥ・ハング・オン」「ファウンド・ア・キュー」などのヒットが続き、その後キャピトルに移籍して最大のヒット「ソリッド」(1984年)が生まれた。シャカ・カーンの「アイム・エヴリ・ウーマン」、ダイアナ・ロスの「ボス」、ダイナミック・スペリーアーズの「シュー・シュー・シャイン」など多数のヒットがある。2007年のエイミー・ワインハウスのシングル「ティアーズ・ドライ・オン・ゼア・オウン」は、「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」を元に作ったということで、作曲家クレジットを得ている。 1980年代からレストラン事業などもてがけ、80年代中期にはマンハッタン20丁目西20番地に「20/20」(トゥエンティー・トゥエンティー)を、最近ではアッパーウェストサイドに「シュガーバー」というライヴもできるレストランを経営している。 二人は、60年代中期からコンビを組んでいるが、正式に結婚したのは、1974年11月30日のこと。現在二人の娘がいる。 リーバー&ストーラーのリーバーも、またアシュフォード&シンプソンのニック・アシュフォードも、基本は歌詞を書き、メロディーは、パートーナーが書く。偉大な作詞家が同じ日に亡くなるというのも奇遇か。そして、二組とも、20世紀のアメリカ音楽史に残るソングライター・チームとなった。 アシュフォード&シンプソンは2009年11月に初来日。東京ブルーノートでライヴを行っている。(ライヴ評、そのときのインタヴュー模様のリンクは下記参照) (評伝などは、明日以降に掲載します) おしどり夫婦。 アシュフォード&シンプソンは個人的にも二度インタヴューした。一度は1980年代中ごろ、ニューヨークで。彼らが持つ「20/20」で行った。2度目は前回の来日時。どちらのときも、二人はとても仲が良く、インタヴュー中もぴったりと寄り添いお互いの手を握り合い、話を聞かせてくれた。ライヴも、確か、LAのユニバーサル・アンフィシアターで見た。「ソリッド」が大ヒットした後あたりだったと思う。 あの繊細な歌詞はほとんどニックが書き、キャッチーなメロディーをヴァレリーが書いている。一見、女性のヴァレリーが詞を書き、ニックがメロディーを書きそうな雰囲気だが、意外と違うところがおもしろい。 すでに、ナイル・ロジャーズも23日付けのブログでニックについて、触れている。ナイルによれば、最初に彼らに仕事をくれたのが、アシュフォードたちだったという。ニック、ジェリーともにご冥福をお祈りしたい。 ■ アシュフォード&シンプソン、初来日ライヴ評 November 20, 2009 アシュフォード&シンプソン:ストーリーを聴かせるライヴ (パート1) http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10392434386.html November 21, 2009 アシュフォード&シンプソン (パート2): インタヴュー http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20091121.html 2009年11月22日(日) アシュフォード&シンプソン(パート3):インタヴュー:モータウンでは「スピード」が必要だ http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10393856744.html#main 2009年09月25日(金) アシュフォード&シンプソン、11月に初来日決定 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20090925.html ■ リーバー&ストーラー作品集Vol.1~3 … Continue reading

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●ユージーン・マクダニエルズ、76歳で死去~反骨のソングライター

●ユージーン・マクダニエルズ、76歳で死去~反骨のソングライター 【Eugene McDaniels Dies At 76】 訃報。 ブラックのシンガー・ソングライター、ユージーン(ジーン)・マクダニエルズが2011年7月29日(金)、アメリカ東海岸メイン州の自宅で静かに息を引き取った。76歳だった。前日まで普通に過ごしており、当日朝起きずに、家人が起こしにいくとそのまま冷たくなっていたという。就寝中に亡くなった模様。 ジーン・マクダニエルズは、ロバータ・フラックやマリーナ・ショーで大ヒットした「フィール・ライク・メイキング・ラヴ」の作者として有名だが、1960年代から活躍してきたシンガー・ソングライターで自身でも、「ワン・ハンドレッド・パウンズ・オブ・クレイ」「コンペアード・トゥ・ホワット」などの作品がよく知られている。また、60年代からは、社会的なメッセージ色の強い作品も多く出している。「コンペアード・トゥ・ホワット」は、最近、ジョン・レジェンドが『ウェイク・アップ』のアルバムでカヴァーして、新しいファンにも知られるようになっている。政治色の強い作品ゆえに、反体制の立場だった彼は、一時期、当時の政府からにらまれ、音楽活動が自由にできなかったこともある。まさに反骨のソングライターだ。 ビル・ウィザース、ギル・スコット・ヒーロンなどと並ぶブラックの知性派シンガー・ソングライターと言える。 近年は、メイン州の自宅で、自ら世捨て人(Hermit)と言うように仙人のようにひっそりと暮らしていたが、シンガー・ソングライターとしては、精力的に曲作りをしていた。最近では、マイルス・デイヴィスの作品に自ら詞をつけて歌う作品を作ろうかと考えていたようだ。 評伝。 ユージーン・マクダニエルズは、1935年2月12日、ミズーリ州カンサスシティー生まれ。ネブラスカ州オマハ育ち。牧師の息子。幼少の頃は、親の影響もあり、スワン・シルヴァートーンズ、ソウル・スターラーズなどのゴスペル音楽に親しんだ。十代でサックス、トランペットも吹くようになったが、4オクターヴも出る歌を歌うようになっていた。 11歳のとき(1946年)、初めてのゴスペル・グループを結成。当初はゴスペルだったが、徐々に方向性をポップにしていく。参加するバンドでは、歌だけでなく、サックスも演奏していたようだ。西海岸、ロスアンジェルスにツアーで出たときにジャズ・クラブで盟友となるレス・マッキャンと出会い、音楽活動を共にし始めた。そんなロスでメジャーのリバティー・レコードがマクダニエルズと契約。ポップなプロデューサー、スナッフ・ギャレットと組ませ、いくつかのポップな作品を送り出し、ヒットさせた。それらが、「ア・ハンドレッズ・パウンド・オブ・クレイ」(1961年、ポップで3位、R&Bで11位)、「タワー・オブ・ストレンス」(1961年ポップで5位、R&Bで5位)、『チップ・チップ』(1962年、ポップで10位)、「ポイント・オブ・ノー・リターンン」(1962年、ポップで21位、R&Bで31位)などだ。いずれも、ブラック・ラジオよりポップ・ラジオ、トップ40での支持が高いところが、ひじょうにユニークだ。 モータウン、スタックス全盛のR&Bの世界で、マクダニエルズの作品は声、歌唱もシャウト系ではなく、洗練されたポップ・ソウル的な位置づけだった。 また、60年代にリバティーで出たアルバムでは、他の職業作家の作品(バート・バカラックなど)を歌ったりしていたが、一方で自身の作品がエルヴィスやペリー・コモに取り上げられたりもしていた。 1968年4月4日、マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺に衝撃を受け、しばらくアメリカを離れ、デンマーク、スゥエーデンなどに移住していた。1971年、アメリカに戻り、楽曲提供をするようになる。マクダニエルズが1968年に書いた「コンペアード・トゥ・ホワット」は1969年、ロバータ・フラックによって、また1970年にレス・マッキャン&エディー・ハリスで、レコーディングされたり、ロバータ・フラックが「フィール・ライク・メイキング・ラヴ」を録音、それぞれヒットさせ、ソングライターとしての知名度を業界内であげた。前者はその後映画『アイスストームIcestorm』、『カシーノCasino』などのほか計8本の映画に使われた。また、本人も1962年の映画『It’s Trad, Dad!(米国での公開タイトルは “Ring-A-Ding Rhythm”)、”The Young Swingers’ (1963) と”Uptown Saturday Night” (1974)などに出演している。最近でもショート・フィルムの制作、出演、声の出演などもこなしている。 「コンペアード・トゥ・ホワット」は、マクダニエルズによれば、レス・マッキャンからジョン・レジェンドまで270以上のヴァージョンがあるという。(ただし、同じアーティストのものが、違うコンピレーションに入った場合でも、別カウントされるため、そういう数字になるものと思われる) そして、ロード・フィネスの「セイヴ・ザット・シット」、サイプレス・ヒルの「ブレイク・イット・アップ」などにサンプリングされている。「本物で行きたい、だが、本物って何と比べて本物って言える?」というタイトルで、当時の世相を描いている。 これをジョン・レジェンドともにカヴァーしたクエスト・ラヴによれば、「マクダニエルズは、公民権運動時代のもっとも過激なソングライターの一人。リチャード・ニクソン大統領時の副大統領アグニューが、アトランティックにプレッシャーをかけジーンとの契約を切らせたほど。その直後、業界追放にもなった。彼はそれくらい政府にとって危険な存在だった」という。 マクダニエルズはリバティー、アトランティック、オード・レコードなどでアルバムをリリースしている。特にアトランティックでの2枚は評価が高い。 ユージーン・マクダニエルズ自身が2010年10月、メイン州自宅近くの海沿いでプロモーション用ビデオを制作、これを自身でアップしていた。ピアノの弾き語りによる「スイート・フォーエヴァー」で、なかなか味わいのある素晴らしい楽曲だ。 ■ ユージーン・マクダニエルズ「スイート・フォーエヴァー」 http://youtu.be/hdh4fpekmok そして、彼自身の主張を込めた「コンペアード・トゥ・ホワット」は、インタヴューの中で、「そもそも時代が右傾化し、すべてが地球規模化、民営化、個人のものになっていくことに対して感じたことを曲にした。(当時は)この曲に誰かが関心を持つだろうなんて思わなかったけど、別に気にしなかった。この曲を書いたときは、レス・マッキャンがレコーディングすることを考えて書いていた」などと語っている。 レスとユージーンは、60年代初期に一緒に仕事をしたが、しばらく口を聞いていなかった。しかし、謝罪をして、この曲を録音するよう頼み込んだ。そして、しばらくしてから電話が鳴った。「君の曲がジャズ・チャートで1位になってるぞ」という知らせだった。それ以来、彼の人生は素晴らしいものになった。この曲の印税があるから、生活でき、曲を書き続けられるようになったからだ。 ご冥福をお祈りしたい。 ■ 「コンペアード・トゥ・ホワット」 … Continue reading

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●エイミー・ワインハウス死去・続報~2000万ツイートが流れる

●エイミー・ワインハウス死去・続報~2000万ツイートが流れる 【More Amy Winehouse News Continues】 訃報。 グラミー賞受賞シンガー、エイミー・ワインハウスが7月23日(土)突然27歳で死去し、世界中に衝撃が走ったが、その後もニュースが駆け巡っている。今年死去したアーティストの中で最大級のインパクトを与えている。 まず、死因はまだ発表されていないが、一部の報道で、エクスタシーというドラッグとお酒を飲んでいたという証言がある。当初、検視は日曜に行われる予定だったが、週明けにずれこんでいる。 エイミーの死去前の様子が少しずつ判明している。 死去の前日、7月22日(金)、かかりつけの医師が夕方までに定期的にエイミーを訪問。このときの健康状態は特に問題は見られず、医師もその様子を喜んでいた、という。医師は金曜夜には、エイミーの自宅を後にした。この時点で、セキュリティー・ガード、アンドリュー・モリスが残った。 最後に言葉を交わしたのは、このアンドリューで、23日(土)午前10時ごろのこと。エイミーが「疲れたので少し寝る」と言いベッドルームに入った。その後、アンドリューが午後4時前後に起こしに行ったところ、エイミーが息をしておらず、救急車を呼び、救急隊が来たときには、すでにエイミーの死亡が確認された。エイミーが息を引き取ったとき、ベッドには他にだれもおらず、一人だった模様だ。 エイミーは水曜日(7月20日)彼女が面倒をみていた15歳のシンガー、ディンヌ・ブルームフィールドのキャムデンのライヴ・ハウス「ラウンドハウス」で行われたライヴにサプライズで登場していたが、これが公衆の面前に出た最後の姿となった。 エイミーのロンドン・キャムデンの自宅には、多くのファンが集まり、花束などを手向けている。 シンガー、M.I.Aは、死去から48時間以内に、エイミーへ捧げる「27」という楽曲をリリース、配信で発表する。 Is this a bit too soon? M.I.A releases unfinished demo called ’27′ in tribute to Amy Winehouse Last updated at 1:57 PM on 25th July … Continue reading

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●エイミー・ワインハウス27歳で死去~クラブ27に

●エイミー・ワインハウス27歳で死去~クラブ27に 【Amy Winehouse Dies At 27: Now in Club 27】 訃報。 2007年、「リハブ」の大ヒットで一躍世界的スターになったイギリスのシンガー、エイミー・ワインハウスが2011年7月23日(土)、イギリス・ロンドン・キャムデンの自宅で死去しているのが発見された。同日午後、自宅に救急車が呼ばれ隊員が入ったところ、すでに死亡していた、という。27歳だった。死因は発表されていない。 エイミーは先月ヨーロッパツアーを開始したが、セルビアで行われた初日のライヴで、歌詞を忘れ、泥酔していた様子で、観客から大きなブーイングを受け、以後のツアーをすべてキャンセルし、自宅療養していた。 エイミーは、2006年10月にイギリスで発表した2枚目のアルバム『バック・トゥ・ブラック』が翌年アメリカなど全世界でリリースされ、ここからのシングル「リハブ」が大ヒット。翌年グラミー賞で「ソング」「アルバム」「新人」など5部門を獲得。世界的スーパースターとなった。 評伝。 エイミー・ワインハウスは、1983年9月14日イギリス・ロンドンの北部、サウスゲートにユダヤ系両親の元に生まれた。13歳の頃から兄のギターで遊ぶようになり、曲を書き始めた。 2002年、イギリスの有力なプロダクション、サイモン・フラーの「19マネージメント」と契約、秘密裏にデビューが計画された。ソングライターとしては、EMI音楽出版と契約、シンガーとしてはアイランド/ユニバーサルと契約。ある種両者を競わせて売り出した。2003年デビュー作『フランク』で満を持してデビュー。 ジャズ、ソウルの影響を受けたデビュー作は、そこそこのヒットとなったが、2006年10月にリリースされた2作目『バック・トゥ・ブラック』はイギリスで1位に。ここから、「リハブ」が大ヒット。これが、翌年アメリカでリリースされヒットすると、その人気は一挙に世界的なものになった。エイミーは、1960年代のブラック・ミュージックなどが好きということで、特にその頃のガール・グループの影響が強く、ヘアスタイル、メイクアップ、ファッションなども60年代ガール・グループを意識したものになっている。60年代に人気を博したガール・グループ、ロネッツはエイミーのプロトタイプとなった。 1作目も2作目もプロデュースは新進気鋭のサラーム・レミとマーク・ロンソン。 2008年2月のグラミー賞で、エイミーは「ソング」「レコード」「新人」など5部門を獲得。授賞式では、ロンドンから生中継映像で登場した。 こうした成功とは裏腹に、私生活ではアルコール中毒、ドラッグ中毒にさいなまれ、何度もリハビリ・センターに入院するなどしていた。また、そうした中毒ゆえにライヴでも歌詞を忘れたり、泥酔したままステージに上がるなど、浮き沈みの激しいキャラクターをそのまま反映していた。 2010年11月にリリースされたクインシー・ジョーンズの『Qソウル・ボサ・ノーストラ』では、レスリー・ゴーアのヒット「イッツ・マイ・パーティー」をマーク・ロンソン・プロデュースで録音している。 また、次作のためにすでに録音しているものがいくつかあり、そのうちのひとつはヴェテラン・シンガー、トニー・ベネットとのデュエットで、トニー・ベネットのデュエットアルバム『デュエット2』に収録される。これは、2011年9月20日にリリースされる。 エイミーの成功があったおかげで、後のイギリスのアデル、ダフィーなどが脚光を浴びたということもいえる。 2011年6月18日、ヨーロッパ12都市を回るツアーに出たが、初日のセルビア共和国のベオグラードでのライヴで醜態をみせ、その後のツアーをすべてキャンセルしていた。 日本にはプロモーションを含めて一度も来日していない。 ■ 今日(7月25日・月曜)のフジテレビ系『とくダネ』でデイブ・スペクターさんが、エイミーについて情報を紹介します。8時から9時の間、突発事件などがなければ、だいたい8時20分前後とのこと。 ■ 過去関連記事 2007年09月09日(日) 【エイミー・ワインハウスは、リハブに入ったらダニー・ハザウェイやレイ・チャールズから学べなくなるから、入りたくないと言う】 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20070909.html 2008年02月12日(火) 第50回グラミー賞、15の瞬間 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10072037974.html February 11, 2008 50th Grammy … Continue reading

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●音楽評論家・中村とうようさん死去~ぴあ最終号発行の日

●音楽評論家・中村とうようさん死去~ぴあ最終号発行の日 【Nakamura Toyo Dies At 79】 訃報。 音楽評論家であり、音楽雑誌『ミュージック・マガジン』(旧ニューミュージック・マガジン)を創刊した中村とうよう氏が2011年7月21日、79歳で死去した。立川市の自宅マンション8階から飛び降り自殺したと報じられた。20日に投函した手紙が複数の友人の元に21日到着し、自殺を示唆していた、という。 1932年(昭和7年)7月17日京都生まれ。ミュージックライフ誌、スイング・ジャーナル誌などへの寄稿を経て、音楽評論家へ。1969年、ニューミュージック・マガジン社を設立、同名誌を創刊した。世界各国の音楽を幅広く日本に紹介し、音楽評論家としてのひとつのスタイルを確立し、日本の後進の音楽評論家に多大な影響を与えた。 2006年、自身のレコード、楽器など膨大なコレクションを武蔵野美術大学に寄贈した。現在、同大学でそのコレクション展を開催中だった。 ミュージック・マガジンで複数の評者がひとつのアルバムを論評し10点満点の点をつける「クロスレヴュー」で、10点もつけるが、0点もつけたりしていて話題を集めた。 「中村とうよう0点の歴史」(2010年9月13日付け「フェルマータ」のブログエントリー) http://gyogyo.seesaa.net/article/162564024.html 「中村とうよう10点の歴史」(2011年7月21日付け「フルマータ」のブログ) http://gyogyo.seesaa.net/article/215984890.html また、「ミュージック・マガジン」次号(8月20日発売予定)で、中村とうよう氏の最後の原稿「とうようズトーク」が掲載される。 ツイッターなどでも、多くの人たちが死に関して多くのことをツイートしている。 +++++ △ぴあ、廃刊~最終号7月21日発売 ぴあ。 音楽・映画・アートなどの総合エンタテインメント情報誌、「ぴあ」が廃刊を決め、その最終号(2011年8月4日~18日号)が、7月21日に発売された。1972年に創刊されて以来39年にわたり多くの情報を伝えてきた。「ぴあ」は、今後はインターネットでの情報提供、チケット販売などにシフトしていく。 +++++ ■ 中村とうよう・武蔵野美術大学でコレクション展開催中 中村とうようコレクション展~楽器とレコードを中心に 開催日程:2011年07月04日(月)~2011年09月24日(土)10:00~18:00 *土曜日・特別開館日は17:00閉館/7月18日は特別開館日/8月7日ー9月4日は休館期間 http://www.musabi.ac.jp/topics/exhibition/20110706_bijutu_02.html http://mauml.musabi.ac.jp/museum/archives/205 ■中村とうよう氏の本 中村とうようの収集百珍 (ミュージック・マガジンの本) posted with amazlet at 11.07.22 中村 とうよう ミュージックマガジン … Continue reading

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●フォンス・マイゼル(マイゼル・ブラザーズ)死去~ジャクソン5の初期のヒットなどをてがける

●フォンス・マイゼル(マイゼル・ブラザーズ)死去~ジャクソン5の初期のヒットなどをてがける 【Alofonso “Fonce” Mizell Dies At 68】 訃報。 モータウンでジャクソン・ファイヴのデビューからの初期のヒット曲(「アイ・ウォント・ユー・バック」「ABC」など)を手がけ、その後、ドナルド・バードの元でブラック・バーズ、ボビー・ハンフリーなどブルーノートジャズ系などで作詞・作曲・アレンジ・プロデュースなどをてがけたマイゼル・ブラザーズのうち兄のアルフォンソ・フォンス・マイゼルが、2011年7月5日、ロスアンジェルスで死去した。68歳だった。彼らの作品は、ヒップホップ系アーティストたちによって多数サンプリングされ、90年代以降も人気を集めている。(正確な死亡日時が5日とわかりましたので、5日で確定します。=7月13日午前3時現在修正) 訃報記事としてはまだ不完全だが、LAタイムスのレベッカ・ハイスコートがブログでフォンス訃報を2011年7月11日付けで書いている。 http://blogs.laweekly.com/westcoastsound/2011/07/rip_alphonso_fonce_mizell.php 評伝。 アルフォンソ・フォンス・マイゼルは、1943年1月15日ニュージャージー州生まれ。弟にラリー(1944年2月17日ニュージャージー生まれ)、ロドニー(1957年8月16日生まれ=ドラマー、ベース奏者として活動)がおり、ラリーとともにマイゼル・ブラザーズを名乗る。十代の頃はトランペットを与えられ、学校のマーチングバンドなどで演奏したり、高校のクラスメートのフレディー・ペレン(1943年5月15日~2004年12月16日、61歳で死去)とドゥーワップ・グループ、ナイコンズ(Nikons)を結成。何曲かデモテープは作るもののリリースにはいたっていない。地元のハイスクールからワシントンDCのブラック大学の名門ハワード大学へ進む。ここで、1961年終わりごろ彼ら3人にジョン・バトラーを加え、ジャズ・グループ、ヴァンローズ(Vanlords)を結成。このグループは学校のタレントコンテストなどで入賞したり、一時期、ダニー・ハサウェイもプレイしたことがあるという。フォンスは自身トランペットを吹いていたこともあり、ハワードで教授のドナルド・バードと知己を得る。ハワード時代に彼らはインディ・レーベル、ホグ(Hog)を設立、唯一のシングル「Baby, I Want You」をプロデュース。これは当時モーガン・ステートの大学生を集め、モーメンツと名前をつけ、レコーディングしたもの。後にスタングから出るグループとは違う。いずれにせよヒットはしていない。 マイゼル兄弟とフレディー・ペレンとともに60年代後期にニュージャージーから西海岸ロスアンジェルスに本拠を移動。フレディーの友人ジル・グリフィスを通じてディーク・リチャーズと知り合い、彼らがモータウンのベリー・ゴーディーに認められソングライターとしてモータウン傘下ジョベッタ・ミュージックと契約。ここで、ベリー・ゴーディーは各人は匿名のチームで曲を書き、プロデュースするシステムを作り、そのチームに「ザ・コーポレーション」とを名付けた。彼らはジャクソン・ファイヴのデビュー作「アイ・ウォント・ユー・バック」「ABC」「ザ・ラヴ・ユー・セイヴ」などをプロデュース。これらがいきなり大ヒットしたため、彼らはモータウン内の売れっ子ソングライター、プロデューサーとなった。しかし、このときは、「ザ・コーポレーション」というクレジットでしか名前が出なかったために、だれがこのメンバーなのかはわからなかった。 その後、70年代中期までに、フレディーもマイゼル兄弟もモータウンから離れ、独立。1972年、旧知のドナルド・バードがブルーノートでレコーディングすることになり、同年のアルバム『エチオピアン・ナイツ』に参加。1973年、『ブラック・バード』に参加。このあたりから、自身のプロダクション・チームとして「スカイ・ハイ・プロダクション」を名乗るようになった。ここでボビー・ハンフリーの「ハーレム・リヴァー・ドライヴ」、さらにドナルド・バードの「チェンジス」などの大ヒットが誕生。 その後、LTDの「ラヴ・バラード」がヒット、70年代中期からは3男ロドニーもチームに合流し、LTDの『ラヴ・トゥ・ザ・ワールド』などに参加するようになっている。 1978年には、自ら見出した女性二人組みア・テイスト・オブ・ハニーをプロデュース。「ブギー・ウギー・ウギー」がポップ、ソウル部門でナンバーワンを記録した。テイスト・オブ・ハニーたちとはハワード時代にすでに知り合っていたという。このあたりからR&B界でのヒットも出始める。メリー・ウェルズ(「ジゴロ」)などをてがけるようになる。 90年代以降、Jディラ、ア・トライブ・コールド・クエスト、マッドリブなどヒップホップ系、クラブ系アーティストたちが彼らのてがけた作品をサンプリングするようになり、若い世代にもアピールすることになった。 一時期、実質的に音楽業界から引退していたが、2007年、ラリー・マイゼルが4ヒーローのアルバムの中で「プレイ・ウィズ・ザ・チェンジス」に参加、ヴォーカルをきかせている。 マイゼル・ブラザーズとしては、「ファンク・ジャズ」「ソウル・R&B」系作品を出したアーティスト、プロデューサーという捉えられ方が一般的だ。 彼らのいとこのひとり、ドン・マイゼルは70年代後期にエレクトラ・レコードでA&Rディレクターとなり、シカゴのテリー・キャリアなどをてがけた。その後2005年にレイ・チャールズの遺作『ジニアス・ラヴズ・カンパニー』の共同プロデューサーの一人としてグラミーも得ている。また、別のいとこシンディー・マイゼルは、ニューヨークのトップ・セッション・ヴォーカリストとして有名。最近ではホイットニー・ヒューストンの来日にバックコーラスとして帯同していた。また、ランDMCのジャム・マスター・ジェイことジェイソン・マイゼルも遠い親戚とのこと。ラリーの息子、ラリー・マイゼル・ジュニアは、ラップグループ、キャンサー・ライジングのメンバー。 なお、Mizellの発音だが、「マイゼル」が正しく、日本で流通している「ミゼル」は明らかな間違い。レコード会社などが「ミゼル」で統一してしまったために、間違いがそのまま流通してしまった。これを機に訂正し、マイゼルで統一してもいいだろう。Loleatta をロレッタとしてしまったのと同じくらい大きな間違いだ。Michael(マイケル)を「ミケル」と書くようなものだ。 +++++ マイゼル・ブラザーズのミュージック・アカデミー レクチャー。 マイゼル・ブラザーズ3人が勢ぞろいして自らの歴史を1時間40分ほどにわたって写真などを見せて話すプログラム。一番右がロッド(末弟)、右から2番目がフォンス、右から3番目、一番しゃべっているのがラリー。MCも含めて5人並ぶときは、一番真ん中がラリー。これは、2006年10月23日、オーストラリアのメルボルンで行われたものの録画。レッド・ブルがスポンサーになってやっているイヴェント。このレクチャーが実におもしろい。他のアーティストも興味深い。一度、レオン・ウエアをこのソウルサーチンでもご紹介した。(ちなみに、この映像で見ていても、マイゼルと発音されています) http://www.redbullmusicacademy.com/video-archive/lectures/mizell_brothers__sky_high_brothers/ その英文テキスト。 http://www.redbullmusicacademy.com/video-archive/transcript/mizell_brothers__sky_high_brothers/transcript Marvin Gaye & The Mizell Brothers – … Continue reading

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★●ブルース・スプリングスティーンのクラレンス・クレモンズへの弔辞

★●ブルース・スプリングスティーンのクラレンス・クレモンズへの弔辞 【Bruce Springsteen’s Eulogy For Clarence Clemons】 弔辞。 2011年6月18日脳卒中の合併症のために69歳で死去したクラレンス・クレモンズの葬儀が、6月21日フロリダ州パーム・ビーチのロイヤル・ポインシアーナ教会で行われた。長く共に歩んできたブルース・スプリングスティーンが長文の弔辞を読んだ。その弔辞が7月に入り、ブルースのオフィシャル・サイトに掲載され、その翻訳がソニー担当の白木さんのブログに6日アップされた。ツイッターでご紹介したところ、反響が多かったので、翻訳された五十嵐正さんと、ソニー・ミュージックの了承を得て、本ブログでもご紹介する。 訃報記事 2011年06月21日(火) クラレンス・クレモンズ69歳で死去 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10928810412.html 本ブログでこうした演説などをご紹介するのは、オバマ大統領の就任演説、村上春樹さんのイスラエルでの講演全訳以来。それらに匹敵する素晴らしいメッセージだ。 この中の「ソウルの寺院(Temple of Soul)」という表現は、ソウルマン、クラレンスのことをひじょうにうまく表現していると思う。そして、一番の感動ラインは、ここだ。 「クラレンスは死んでもEストリート・バンドを去りません。彼がバンドを去るのは僕らが死ぬときです」 1700ワード弱、5000字弱の長文ですが、ゆっくりごらんください。 ■6日にアップされたソニー白木さんのブログ 2011-07-06 クラレンス・クレモンズの思い出(33):ブルース・スプリングスティーンの弔辞 http://ameblo.jp/high-hopes/entry-10945420166.html ■ソニー・ミュージックのページ ブルース・スプリングスティーンのページ http://www.sonymusic.co.jp/Music/International/Special/BruceSpringsteen/ ■クラレンスへの弔辞 http://www.sonymusic.co.jp/Music/International/Special/BruceSpringsteen/message.html +++++ ブルース・スプリングスティーンの弔辞(2011年6月21日、フロリダ州パーム・ビーチ、ロイヤル・ポインシアーナ教会) ビッグ・マンに捧ぐ 僕はここに座って、みんながクラレンスについて語るのをずっと聴きながら、すぐそこにある僕ら2人の写真を見つめていました。それはスクーターとビッグ・マン(アルバム『ボーン・トゥ・ラン(明日なき暴走)』収録の楽曲「Tenth Avenue Freeze-Out(凍てついた十番街)」の登場人物)の写真で、時に僕らは彼らだったんです。見ての通り、特にこの写真ではクラレンスが自分の筋肉を自慢していて、僕はそのことに無頓着なふりをしながら、彼に寄りかかっています。僕は頻繁にクラレンスを頼って寄りかかりました。ある意味では僕はそうすることで自分のキャリアを成功させたんです。 クラレンスと人生を分かち合った僕らは彼の愛と彼の混乱を分かち合いました。「C」は年を重ねるにつれて丸くなりましたが、彼の生き方はいつだって激しく、予測のつかないものでした。今日ここに彼の息子たち、ニッキー、チャック、クリストファー、ジャロッドが座っていますが、彼らの中に「C」の特性の多くが映し出されているのがわかります。彼の輝き、彼の暗闇、彼の優しさ、彼の荒々しさ、彼の穏やかさ、彼の怒り、彼の明晰さ、彼の立派さ、彼の善良さが見えるんです。でも、君たちが知っての通り、君たちのパパは簡単に理解できるような人ではなかった。 「C」の生きた人生では、彼は自分のやりたいことをやって、その行動に対して誰であれ何であれがどう言おうがかまわなかったんです。僕らの多くと同じく、君たちのパパは素晴らしい魔法を生み出す能力を持つだけでなく、かなり困った状況を作り出すこともできました。それが君たちの父さんで、僕の素晴らしい友だちの人間性だったんです。 クラレンスの無条件の愛情は心の底からのものでしたが、たくさんの条件を伴ってもいました。君たちのパパは常に作業半ばの大きなプロジェクトだったんです。「C」は何に対しても線を辿って取り組むことは決してなかった。彼の人生が直線で進むことは決してなかった。彼がA… B…. C…. Dと進むことは絶対になく、いつだってA… … Continue reading

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●レイモンド・ジョーンズ52歳で死去

●レイモンド・ジョーンズ52歳で死去 【Raymond Jones Dies At 52】 訃報。 ニューヨークを本拠に活躍していたキーボード奏者、アレンジャー、プロデューサー、作曲家、レイモンド・ジョーンズが2011年7月1日頃、現在住居を置いているアトランタで死去した。52歳だった。(当初ニューヨークで死去とツイッターなどでお知らせしましたが、アトランタだったので訂正します) レイモンドは、1958年12月13日ニューヨーク生まれ。1970年代初期にナイル・ロジャーズ、バーナード・エドワーズらが結成したシックのキーボードとして参加。その後、ニューヨークのライヴ、スタジオ・シーンで活躍した。 これまでに参加したセッションは、シック関連以外でドナ・アレン、利さ・フィッシャー、ランディー・ホール、デビー・ハリー、ノナ・ヘンドリックス、マイルス・ジェイ、ジョイス・ケネディー、パティー・ラベル、ビル・ラズウェル、マテリアル、ステファニー・ミルズ、ジェフリー・オズボーン(「ステイ・ウィズ・ミー・トゥナイト」)、トム・トム・クラブ、ホイットニー・ヒューストン(「サムワン・フォー・ミー」)など多数。 また、映画でも活躍し、スパイク・リーの『ドゥ・ザ・ライト・シング』のスコア、サウンドトラック、『ゲット・オン・ザ・バス』、あるいは、『メテオマン』、などにもかかわった。 1997年、レイモンドは、インディからアルバム『アクツ・オブ・ラヴ』をリリースしている。その後1997年7月から1998年3月までフォックステレビの『キーナン・アイヴォリー・ウェイアンズ・ショー』の音楽ディレクターに就任。その後、1999年、2作目『ネイキッド・ソウル』をリリース。2001年『インティメート』をリリース。その後2004年にピアノ・ソロ『ソー・アメージング』、2007年『ヒルサイド・ストーリーズ』をリリースした。 ナイル・ロジャーズをはじめ、仲間のミュージシャンたちが次々と追悼のメッセージを、レイモンドのフェイスブックなどに書いている。ナイルは自身のブログ(2011年7月3日付け)で綴っている。 ナイルに、レイモンドのキーボードでもっとも印象的なものは何かと尋ねたら、「もっとも重要な楽曲は、シックの『グッド・タイムス』のフェンダーローズだ」と教えてくれた。そこで、昨日の『ソウル・ブレンズ』内「ソウル・サーチン」でも、「グッド・タイムス」をかけてレイモンドを追悼した。 ナイルは、ブラジルから帰国したその日、ニューヨークに到着して携帯電話を見たところ、レイモンドの死を知って衝撃を受けたという。 ご冥福をお祈りします。 ジェフリー・オズボーン「ステイ・ウィズ・ミー」 キーボードの細い方がレイモンド。この曲はレイモンドも作曲に名を連ねている http://radiofacts.com/2011/07/02/musician-raymond-jones-has-died/ レイモンドのウェッブ http://www.uegmusic.com/main.htm 以下のディスコグラフィーはレイモンドのウェッブより。 左からアーティスト名、タイトル、仕事役職 Donna Allen Heaven on Earth Producer Adele Bertei Build me a bridge (1979) Co-writer Chic C’est Chic … Continue reading

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● クラレンス・クレモンズ69歳で死去

● クラレンス・クレモンズ69歳で死去 【Clarence Clemons, The Big Man, Dies At 69】 訃報。 ロック・アーティスト、ブルース・スプリングスティーンのバンド、Eストリート・バンドのサックス奏者として名高いクラレンス・クレモンズが、2011年6月18日土曜午後7時、フロリダ州パームビーチの病院で死去した。69歳だった。一週間ほど前の12日に脳卒中で倒れ緊急手術をしていた。手術後の5日から1週間が大きな山場と伝えられていた。 ブルース・スプリングスティーンもすでに自身のウェッブページで声明を発表している。 http://brucespringsteen.net/news/index.html クラレンス・クレモンズは、スプリングスティーンのバンド・メンバーとして以外にも、アレサ・フランクリンの「フリーウェイ・オブ・ラヴ」、リンゴ・スター、ナラダ・マイケル・ウォルデン、最近はレディー・ガガの作品など、多数のアーティストと共演している。愛称は「ビッグ・マン」。 クレモンズは、1942年1月11日ヴァージニア州ノーフォーク生まれ。3人兄弟の長男だったクラレンスは、フィッシュマーケットを運営していた父親から9歳のときにクリスマス・プレゼントでサックスをもらい、以来、サックスを吹き始めた。 フットボールと音楽の奨学金でメリーランド州立大学に入り、大学時代にはフットボールの才能も見せ、プロ選手の可能性もあったが、トライアルの前日に交通事故にあい、膝を怪我したことで断念。1960年ごろから東部でサックス奏者として活動開始。この頃、ニュージャージー州の「タイロン・アシュレーズ・ファンキー・ミュージック・マシン」というグループでレコーディングも経験。ここには、後にパーラメント/ファンカデリックで活躍するエディー・ヘイゼル、レイ・デイヴィス、ビリー・ベース・ネルソンらがいた。1971年、スプリングスティーンと知り合い、その後は彼のレコーディング、ツアーにもつきあうようになる。スプリングスティーンの多くのヒットでサックスを吹いており、Eストリート・バンドにクラレンスありと印象付けた。 スプリングスティーンのバンドは、一度1989年に解散となるが、10年後再び再集結。クレモンズは、このバンドとは並行してソロ活動も展開し、1983年の『レスキュー』以来計7枚のアルバムを出した。その後、自身でテンプル・オブ・ソウルというグループを結成、アルバムをリリース。1985年には、「ユーアー・ア・フレンド・オブ・マイン」がシングル・ヒット。ゲスト参加は、多数。1981年のゲイリー・US・ボンズの「ディス・リトル・ガール・イズ・マイン」などもクラレンスのサックスをフィーチャーして大ヒットしている。 最近ではレディー・ガガのアルバム『ボーン・ディス・ウェイ』の「ヘアー」と「エッジ・オブ・グローリー」でも、サックスを聴かせ、ガガが『アメリカン・アイドル』に出演したときは、クレモンズもサックスを吹いた。 また、いくつかのテレビ番組(『ディッファレント・ストロークス』、『ナッシュ・ブリッジス』など)、映画(『ニューヨーク・ニューヨーク』『ブルース・ブラザーズ2000』など)にも登場している。2009年には自伝『ビッグ・マン:リアル・ライフ・トール・テールズ』を出版。 クレモンズは5回結婚し、4人の子供がいる。 ボーン・トゥ・ラン http://youtu.be/hKhwqhbF3tc ゲイリーUSボンズ「ディス・リトル・ガール」 http://youtu.be/zshUXe-PTeQ 後ろでサックスを吹いているのが、クラレンス・クレモンズ Dedication posted with amazlet at 11.06.20 Gary U.S. Bonds Razor & Tie (1994-03-01) 売り上げランキング: 640566 … Continue reading

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●カール・ガードナー(コースターズ)死去~ロック殿堂入り:コミカルなヒット多数

●カール・ガードナー(コースターズ)死去~ロック殿堂入り:コミカルなヒット多数 【Carl Gardner Dies At 83】 訃報。 1950年代後期から60年代初期にかけて、ロックンロール、ソウル・ミュージックのヴォーカル・グループとして大人気を博したコースターズのリーダーでありリード・シンガーだったカール・ガードナーが、2011年6月12日(日)、フロリダ州ポート・セント・ルーシーのホスピスで死去した。83歳だった。これまで、鬱血性心不全、若干の認知症(アルツハイマー)を患っていた。 ロックンロール殿堂入りを果たしているコースターズは、1957年「サーチン」、「ヤケティー・ヤック」(1958年)(華麗なサックスは、キング・カーティス)、「チャーリー・ブラウン」(1959年)、「ポイズン・アイヴィー」(1959年)など多数のロックンロール、ドゥワップ的作品のヒットを送り出した。コミカルな動き、曲調とともに、「ノヴェルティー・グループ」(きわものグループ)として捉えられたが、R&Bフィールドだけでなく、ポップ部門へもクロスオーヴァー・ヒットした。曲の振り付けはほとんどカールがやっていた、という。 コースターズの育ての親、リーバー&ストーラーの物語は、そののちブロードウェイ・ショー『スモーク・ジョーズ・カフェ』のベースになる。 カール・ガードナーは、1928年(昭和3年)4月29日、テキサス州タイラーの生まれ。幼少から歌い、兵役後1950年代初期にロスアンジェルスに居を構えた。ここでいくつものグループに参加してきたが、そのうちのひとつがロビンズ。これがソングライターとして活躍していたジェリー・リーバー&マイク・ストーラーによって育てられた。 その後、リーバーたちが彼らの作品を歌わせるヴォーカル・グループを作ろうとして、メンバーを集めてこのコースターズを結成。ロビンズからカール・ガードナーとボビー・ナンを引き抜き、これにリオン・ヒューズ、ビリー・ガイの二人を加え4人組のコースターズを作った。(ギタリストのアドルフ・ジェイコブスも準メンバー的に加わる) 1955年のこと。まさに、ロックンロール誕生の年だ。そして、1956年、「ダウン・イン・メキシコ」がデビュー作で大ヒット、一躍人気となった。ミディアムからアップテンポの曲が次々ヒット。なお、この「ダウン・イン・メキシコ」は、2007年、クエンティン・タランティーノ監督の映画『デス・プルーフ in グラインドハウス』(Death Proof)に使用された。 1957年終わりに、彼らはそれまでの本拠ロスアンジェルスからニューヨークへ移住。このときに、ナンとヒューズが、コーネル・ガンターとウィリー・ジョーンズに交代した。今回のガードナーの死去で、コーネル、ウィリー、ボビーも他界していたことから、第二次コースターズのメンバー4人全員が死去したことになる。第一次(一番最初の)オリジナル・メンバーで、唯一生存者はレオン・ヒューズのみ。 カール・ガードナーは、そうしたアップテンポのヒットもいいが、本人としてはバラードをもっと歌いたがったという。 コースターズのレコードはヒットし、ライヴも成功。60年代初期に週給400ドル(1ドル360円として14万4千円)も稼ぐまでになった。おそらく1日1ドルもあれば最低限暮らせた時代だから、大変な高給取りになった。1970年代、80年代もいわゆる「オールディーズ・サーキット」で活躍。しかし、グループを辞めたメンバーが「コースターズ」を名乗り、一時期複数のコースターズが存在し、ライヴを行っていたこともあった。裁判を経て、現在は、ガードナーがその名前の権利を所有している。 1987年、ロックンロール殿堂入り。 ところが、1990年代に入って、どうしても喫煙を止められないヘヴィー・スモーカーだった彼は、1993年、咽頭癌になり、X線で約3ヵ月治療。そのときは、またロードに復帰した。2004年、今度は心臓発作を起こしたが、それでも復帰。しかし、2005年、自分はリタイアし息子カール・ジュニアを新しいリード・シンガーにした。 ガードナーは偽のグループが有名グループの名前を語ってライヴを行うことを禁じる法案の成立にも積極的にかかわり、これは2007年、フロリダ州で条例となった。 カール・ガードナーの葬儀は、6月21日午後1時からフロリダ州ポート・セント・ルーシーのモーニングサイド教会で、最後のお別れ(Viewing)は、6月20日アイコック葬儀ホームで午後2時から8時まで。妻のヴェタ、娘のブレンダ、2人の息子カール・ジュニアとアヒリー、さらに7人の孫、1人のひ孫らによって送られる。 コースターズが生み出したコミカルなヴォーカル・グループというコンセプトは、他に類を見ず、彼らを真似たグループというものもほとんど出てこなかった。それだけ、ワン&オンリーの存在だった、と言えるのだろう。また、60年代から70年代にかけて多くの白人ロック・アーティストたちが、彼らの作品をカヴァーした。ビートルズやローリング・ストーンズらも、メジャーになる前に、彼らの作品をカヴァーしていた。 コースターズは1982年、鈴木雅之さんらが主催した「ドゥワップ・カーニヴァル」第二回で来日している。 Funeral services for Carl Gardner will be held at Morningside Church in Port St. Lucie on … Continue reading

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●洋楽DJ,音楽評論家・八木誠さん、死去

●洋楽DJ,音楽評論家・八木誠さん、死去 【Yagi Makoto Dies At 65】 訃報 洋楽DJであり音楽評論家として数多くの作品を日本の洋楽シーンに紹介してきた八木誠さんが、2011年6月5日(日)死去した。65歳だった。 八木さんは、1945年(昭和20年)10月3日神奈川県生まれ。1960年代後期から海外のポップスをラジオや雑誌などで紹介、洋楽DJとして、また洋楽の音楽評論家として多くの足跡を残した。特にTBSラジオでの『ホリデイ・イン・ポップス』(日曜午後)、あるいは、『パック・イン・ミュージック』、FM東京などで活躍した。ラジオDJとしては、関西方面のラジオ局だそうだが、まもなく東京でレギュラーを持つようになった。曲のイントロに乗せた軽快なDJスタイルが、当時斬新だった。 1986年1月から文化放送で「オール・ジャパン・トップ20」~「全国ポピュラー・ベスト10」という洋楽チャート番組がスタート。これは2006年4月まで続いた。 ライナーノーツや、音楽誌への執筆も多数。 2009年2月に小学館から『洋楽ヒットチャート大事典』というヒット曲にまつわる書籍を上梓。そのお披露目パーティーを同年4月、六本木のローリング・ストーン・カフェで行った。このときの登場が公の姿としては最後のものとなったらしい。 ただし、その後、同年6月4日深夜に東京FMの『デイブレイク』に出演して元気な声を聴かせている。 ■洋楽ヒットチャート大事典 洋楽ヒットチャート大事典 posted with amazlet at 11.06.09 八木 誠 小学館 売り上げランキング: 25128 Amazon.co.jp で詳細を見る +++++ 八木さん色。 2011年6月7日の夜11時くらいに、越谷さんから電話をいただき、八木さんの訃報を知った。 八木さんと初めてお会いしたのが、ムゲンだったか、他の場所だったか、正確には覚えていない。ジョージか、六本木のベニルイだったか。あるいは、銀座コアビルか渋谷ヤマハで行われていたDJショーだったか。ただ「ソウル・オン」誌の集いが赤坂ムゲンで行われたときは、行った記憶がある。 僕がものすごくよく覚えているのが、TBSラジオの『ホリデイ・イン・ポップス』と『パック・イン・ミュージック』で軽快なDJをされていた八木さんだ。しかし、調べると『パック』は1969年4月から1970年3月までのわずか1年だけだった。ということは、そのとき、きっと毎週聴いていたのかもしれない。どちらも声優の若山弦蔵さんとのコンビだった。そして、その後に始まる『ホリデイ』では、洋楽チャートを紹介していた。これは、のちに『ポップス・ベスト10』に独立する、というか、引き継がれたと記憶する。『パック』時代には、洋楽曲の邦題を付けることなどもやっていた。ホセ・フェリシアーノの「雨のささやき(rain)」など、八木さんが付けたという。当時は、FEN以外は、AMラジオ局の洋楽チャート番組がほとんどすべてのような感じだったので、毎週かじりついて聴いていた。そして、そうしたチャート番組は1972年10月ラジオ関東でスタートする湯川れい子さんの『アメリカン・トップ40』につながっていく。 八木さんが、好きなタイプの洋楽というのはあるもので、八木さんと言えば、僕にはグラス・ルーツ、スリー・ドッグナイト、ハミルトン・ジョー・フランク&レイノルズなどのダンヒル・サウンド、CCR、キンクス、そしてスタックス、モータウンなどのソウルものという印象がある。八木さんがヒットさせたと言っても過言ではない洋楽ヒットも多数ある。ショッキング・ブルーの「ヴィーナス」とか、クリスティーの「イエロー・リヴァー」とか、メアリー・ホプキン、ボビー・シャーマンあたりも八木さん色が僕には強い。 僕からすれば大先輩なのに、いつも気軽に声をかけていただいた。ただ、最近はコンサートなどでお会いすることもほとんどなかった。 八木さんが目黒に住んでらっしゃった頃、何度か目黒のマンションにおじゃましたことがある。僕は五反田なので、とてもうちから近かった。最近は埼玉のほうに住んでおられたので、年賀状の行き来くらいになってしまった。 ご冥福をお祈りしたい。 +++++ 大阪在住の音楽評論家、上柴とおるさんが、八木さんとの思い出を書かれている。 八木誠さんの思い出。。。 2011年6月8日(水) … Continue reading

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●ギル・スコット・ヘロン62歳で死去~黒人吟遊詩人

●ギル・スコット・ヘロン62歳で死去~黒人吟遊詩人 (エヴァ・キャシディー、パート2は、明日以降におおくりします) 【Gil Scott-Heron Dies At 62】 訃報。 アメリカの黒人吟遊詩人、「ブラック・ボブ・ディラン」「ゴッドファーザー・オブ・ヒップホップ・ラップ」などと呼ばれているシンガー・ソングライター、ギル・スコット・ヘロンが、2011年5月27日(金)、ニューヨークのセント・ルークス病院で死去した。62歳だった。ヨーロッパ・ツアーから戻ってから体調を崩していたという。死因は発表されていない。 スコット・ヘロンは、1970年代から独自の視点で社会を描く作品を多数輩出し、自ら歌と「語り(スポークン・ワード)」をミックスした独自のスタイルでレコーディング。そのメッセージから、ブラック・カルチャーの重要な一役を担った。代表作には、「レヴリューション・イズ・ノット・テレヴァイズド(革命はテレビ中継されない)」、「ザ・ボトル」など。音楽的には、ジャズ、ソウル、ファンク、ブルーズなどを融合。これにナレーションのような語りをいれ、一種の「ポエトリー・リーディング」(詩朗読)をレコード化して独自の世界を作り出した。 それゆえに、後に大きな潮流となるヒップホップのラップに多大な影響を与えた。特にカニエ・ウェストがヘロンをお気に入りでいくつもの曲をサンプリングなどで使用。カニエを通じて、若い世代でも人気を集めていた。2010年、およそ16年ぶりの新作アルバム『アイム・ニュー・ヒア』を出していた。 すでにアメリカ音楽業界の多数の人たちから追悼コメントなどが、ツイッターなどで寄せられている。 パブリック・エナミーのチャックD。「GSH(ギル・スコット・ヘロン)は、世界について、ヒップホップの世界に素晴らしいテンプレート(基準、基本パターン)を与えてくれた」「驚愕しているのは、ちょうど彼の次のアルバム用に1曲書き、ゲスト・ヴォーカルをレコーディングしたところだったからだ。このことから、本当に時は貴重だと思わせられる」 先の「レヴォリューション…」は、マスメディアでは大事なことは何も放送されない、くだらないことしか放送されない、というマスメディア、特にテレビに対する強烈な批判曲だったが、そのタイトルは、時代も流れ、「革命はインターネットで生中継」される時代になった。さすがに、「革命、ネットで生中継」は慧眼のギル・スコット・ヘロンでさえも予期できなかっただろうが、その強烈な本質的なメッセージはいまだに有効だ。 ++++ 「キング・オブ・ヒップホップ・ラップ」 評伝。 まさにヒップホップの世界で言うところのラップという固有名詞がない頃からのオリジナル・ラッパーの一人が、ギル・スコット・ヘロンだ。当時は、彼のようなスタイルは、「スポークン・ワード」「ポエトリー・リーディング(詩の朗読)」「ナレーティヴ」などと呼ばれていた。ときに、しっとり、ときにあじり、抑揚をつけて語るそのスタイルは、のちのヒップホップの世界で形式を確固たるものにするラップの原形ともいえる。ソウルの世界ではルー・ロウルズがこうしたナレーティヴ、スポークン・ワード、ラップが得意だったが、ルーがエンタテインメント系でラップをおしゃれに聴かせたのに対し、ギル・スコット・ヘロンは、社会派、急進派、革新派としてラップ、語りを聴かせ、そのスタンスを鮮明にしていた。 ギル・スコット・ヘロンは1949年4月1日イリノイ州シカゴ生まれ。テネシー州ジャクソン育ち。父親はジャマイカ系、母親はアフリカン・アメリカン。両親の離婚にともない13歳のとき(1962年)、ニューヨークへ。その後ペンシルヴェニア州のリンカーン大学へ進学、ここでミュージシャンのブライアン・ジャクソンと知り合う。大学を2年ほどで中退した彼は、1970年、小説『ザ・ヴァルチャー』、『ザ・ニガー・ファクトリー』を出版。この頃、フライング・ダッチマン・レコードと契約、シンガー・ソングライターとしてもデビュー。すでに社会派メッセージが色濃くでた作品だった。さらに、後にブライアン・ジャクソンと組んで、二人名義のアルバムをアリスタ・レコードからリリース、これが徐々に大評判となっていく。アリスタには1985年まで在籍。 レコーディングにつきあったミュージシャンは、ロン・カーター(ベース)、バーナード・パーディー(ドラムス)、ヒューバート・ロウズ(サックスなど)などそうそうたるメンバーだった。 これらの作品群の中から当時のアルコール中毒問題を歌った「イン・ザ・ボトル」が本人のものでもヒット、またこれをカヴァーしたブラザー・トゥ・ブラザーのものが1974年にソウルチャートで9位を記録する大ヒットになり、一般的知名度を得る。さらに1975年、自ら歌った「ヨハネスブルグ(Johannesburg)」が初ヒット。そのほか「エンジェル・ダスト」「ショー・ビズネス」「Bムーヴィー」「リ・ロン」などがヒットした。 また、シングル・ヒットはしなくとも、アルバムがヒットし、そこに収録されていた「レヴォリューション・イズ・ノット・テレヴァイズド」などは、その後も繰り返し紹介され隠れたヒットになっている。 The Revolution Will Not Be Televised- Gil Scott… 投稿者 larsen42 http://youtu.be/_b2F-XX0Ol0 「ヨハネスブルグ」は,当時まだアパルトヘイト(黒人分離政策)が行われていた南アフリカを批判するもので、アパルトヘイトについて主張する音楽界からのメッセージとしてはかなり初期のものだった。 彼は1979年の『ノーニュークス(原子力反対)』コンサートにも参加。スリーマイル島の事故を受けて、反原発、安全なエネルギーの必要性を訴えた。ヘロンは常にレーガン大統領と保守派政治家に対して、批判的だった。 1985年、ブラック系アーティストが多数集合した反アパルトヘイト・ユニット、アーティスト・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイトのアルバム『サン・シティー』にも楽曲を提供している。 1980年代に入ってからは、ヒップホップ系のアーティスト、特にラッパーたちから尊敬されるようになり、彼自身が「ゴッドファーザー・オブ・ラップ」などと称されることもあった。 しかし、そんな中、彼は既存のラッパーたちに批判的メッセージも送っていた。インタヴューで「彼らはもっと音楽を勉強しないと。僕は詩人になる前にいくつものバンドで音楽を経験してきた。音楽に言葉をただ乗せるだけと、音楽の中に同じ言葉を染み込ませること(blending those same … Continue reading

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●岡伸昭さん、44歳で死去~『フット・ペインティング』を考案

●岡伸昭さん、44歳で死去~『フット・ペインティング』を考案 (本日はエヴァ・キャシディーについてご紹介する予定でしたが、エヴァの記事は明日以降に掲載いたします。また、少し探してから写真を追加します) 【Oka Nobuaki Dies At 44】 訃報。 アーティストで、ダンサーの靴にペンキをつけて、キャンヴァスの上で、ソウル・ミュージックに合わせて踊り、そのステップをキャンヴァスに残すという「フット・ペインティング」という手法の作品を生み出した岡伸昭さんが2011年5月26日(木)午前8時19分、都内西荻窪・越川病院にて癌のため死去した。44歳だった。 アーティストであり美術学校講師も務めていた。また、「ソウル・サーチン」イヴェントでもパネリストとして登壇していた。 「ソウル・サーチン」イヴェントで。パネラーとして。岡さんは一番右。左から吉岡、松尾、オダイ各氏 火葬が本日(5月27日)行われる。 火葬: 2011年5月27日(金)午後1時30分~ 火葬午後2時から 場所 代々幡(よよはた)斎場 東京都渋谷区西原2-42-1 電話 03-3466-1006 京王新線 幡ヶ谷駅下車・南出口より徒歩6分 小田急線 代々木上原下車・北口1出口より徒歩20分 http://www.sato1976.com/sogidate/01-yoyohata-map.htm 問い合わせ 日葬祭典(株) 03-3333-4797 (基本的には家族・親族での火葬ですが、親しい方でしたらいらしてください、とのこと。葬儀は、別府に戻り、親族などで後日執り行われます。また音楽関係者、ソウル愛好家周辺のお別れ会は別途企画されます) +++++ 評伝。 岡伸昭さんは、1966年(昭和41年)6月26日大分県生まれ。 1990年代に数々のアワードを受賞。無類のソウル・ミュージック好きで、ディスコ、ソウルバーなどにも顔を出していた。そんな中、2004年、日本のソウル・ダンス・ステップの多数をクリエイトしてきたダンス界の重鎮、故ニック岡井氏に、青いペンキをつけた靴を履いてキャンヴァスの上で、ソウル・ミュージックにあわせて踊ってもらい、それを作品にする「フット・ペインティング」を考案、作品を制作、その個展を開催した。これらの作品群は、その後も2008年代々木第一体育館で行われた『ソウル・パワー』、さらに同年10月のビームスでの再個展でも展示され、話題となった。 左・2008年9月「ソウルパワー」国立代々木競技場での展示、2008年10月ビームス新宿で個展 無類のソウル・ミュージック好きで、Pファンク、マーヴィン・ゲイ、サザン・ソウルなど多岐にわたり、ソウル・ミュージックを愛していた。特にマーヴィン・ゲイの命日(4月1日)には、毎年青山のソウルバー、OAで追悼DJイヴェントを行っていた。自らアフロ・ヘア、ソウル・ファッションに身を包み、「ソウル・サーチン」などのイヴェントにも登場していた。 タップ・ダンサー、オマー・エドワーズとも意気投合。いつか一緒に作品を作ろうという話をしていた。 タップダンサー、オマー・エドワーズと。いつか一緒に何かやろうと話をしていた いくつかの都内のカルチャースクール系や美術学校などでも講師を務めたり、イヴェント『ソウル・サーチン』でもソウル・アルバムのジャケットについて、アート・ディレクター、美術面からトークで参加。2011年5月20日から5月30日まで八王子のギャラリー・モトで個展『ギミ・サム・モア』を開催中だった。21日のレセプションには顔をだしていた。 ご冥福をお祈りします。 +++++ 岡さん自身のウェッブ http://www.oka-works.com/ 「フット・ペインティング」作品の映像。2008年10月に新宿ビームス・ギャラリーで開いた個展の際に制作したプロモーション用映像 After The Dance 1, Intro … Continue reading

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● シギディー・アブドゥラー(SOSバンドのプロデューサー)62歳で死去

● シギディー・アブドゥラー(SOSバンドのプロデューサー)62歳で死去 【Sigidi Abdullah Dies At 62】 訃報。 SOSバンドの「テイク・ユア・タイム」などの大ヒットを作曲、プロデュースしてきたプロデューサー、シギディー・アブドゥラーが、2011年5月8日(日曜)、ロスアンジェルスで死去した。62歳だった。昨年夏に手術を受けていた。病名などは、不明。親しい音楽関係者、友人が明らかにした。 シギディーは、SOSの最初の1-2枚目のアルバムや、70年代に大ヒットしたブラックバーズの「ウォーキング・イン・リズム」のコーラス、ドナルド・バードの「クワイエット・ストーム」での人気曲「シンク・トワイス」、「ファーリン・ライク・ドミノス」などにかかわってきた。 シギディーは、SOSバンドについて、1990年代に来日したこともあるという。グループ・メンバーではないため、ステージには立っていないが、スタッフの一員として来日したそうだ。 Sigidi Abdullah (1948-2011) +++++ 接点。 個人的に驚いたことに、シギディーは先月横浜で死去したソウル・シンガー、カルヴィン・ヤングブラッドと親しかったようで、カルヴィンのアトランタでの葬儀をオルガナイズしていた。また、フェイスブックのシギディーのページのプロフィール写真にカルヴィンの写真を掲げている。これには驚いた。そこまで親しかったのか。シギディーは一時期アトランタに住んでいたこともあり、SOSの創始者ジェイソン・ブライアントは現在、横浜に住んでいる。カルヴィンとシギディーがどのように接点を持ったのか、今となっては知る由もないが、いずれわかることもあるだろう。 SOSバンドは、「テイク・ユア・タイム」以降、当時DJとして耳タコになるほどかけ、また、デビュー作から何枚かアルバムのライナーノーツも書いたので、ひじょうに思い入れがある。現在、タブー・レコードの作品は日本でCDがないが、いずれCD化されるときには、詳しいことが書けるかと思う。SOSが1987年に来日したときには、ラウーフと当時のリードシンガーだったペニー・フォードにインタヴューしたが、シギディーが来日したのは、1990年代らしい。 +++++ 評伝。 シギディーは、1948年10月11日、シカゴ生まれ。シギディーは、身長190センチを超える長身で大変インパクトがあるという。アトランタ、ロスアンジェルスを本拠にしていた。最初は、ソングライターとして活動、ドナルド・バードと知り合い、1970年代中期に彼がてがけるブラックバーズのプロジェクトにかかわった。シギディーが20代半ばの時期だ。 彼の父がジャズ・ミュージシャンだったことから、ファミリーには音楽があふれ、家族の仲間などから楽器をやって音楽をやったらどうかと勧められた。当初はピアノをやり始めたが、ハイスクールの音楽の授業で当時の先生から、「君は背が高い(190センチ=6フィート以上)あるから、君にぴったりの楽器がる」とアップライト・ベースを勧められたという。ハイスクールのタレント・ショーで友人のグループに誘われ、マイルス・デイヴィスの「ソー・ホワット」と「カインダ・ブルー」をプレイしたという。そのとき、ひじょうにいいリアクションを得たので、音楽の道に進むことを決意した。 ロスに移りハイスクールをいくつか転校するうちに、音楽関係の事務所で楽譜をスタジオに持っていったりする雑用を始め、そのうちに多くの音楽関係者と知り合うようになった。ロスで友人たちとヴォーカル・グループを結成し、ハーヴィー・フークワのオーディションなども受けたが、メンバーがヴェトナム戦争に徴兵され自然解散。シギディーは、ニューヨークへ移住。その後、またロスに戻り、再度グループを結成。コンジュアー(Conjure)というグループで、MGM/サンフラワーからシングルが出た。 その後、フォンスとラリー・マイゼルと知り合い、その線からドナルド・バード人脈とつながり、バードがてがけたブラックバーズ、ボビー・ハンフリー、ジョニー・ハモンド・スミスなどと知り合う。そして、バード、マイゼル兄弟と、曲作りにからむようになり、作曲を始めるようになった。そんなセッションの中で、ブラックバーズの「ウォーキング・イン・リズム」のコーラスを歌うことになった。このほかに、「シンク・トワイス」「フォーリング・ライク・ドミノス」などの曲作りにかかわった。 その後、ジャズのアーマッド・ジャマルのアルバム『ワン』のプロデュースにかかわり、さらに、当時タブー・レコードを大きくしようとしていたクラレンス・エイヴォントと知り合った。 そして、SOSバンドのデビュー・アルバムをてがけることになる。ここから最初のシングル「テイク・ユア・タイム」が980年夏から大ヒットし、SOSバンドは一躍スターダムにのし上がり、シギディーもプロデューサーとして、メジャーな存在になる。その後も、フィリップ・ウィン(1985年、フィリップ最後のレコーディング「ウェイト・ティル・トゥモロウ」など)、カーティス・メイフィールド、DJジャジー・ジェフ、ゲイリー・バーツ、チューズン・フュー、ブラック・シープ、Jディラの「シンク・トワイス」など多くのレコーディングをてがけている。 (クラレンス・エイヴォントとの出会い、「テイク・ユア・タイム」誕生秘話などについては後日、またご紹介したいと思います) ご冥福をお祈りします。 (Special thanks to Ms. Marva Jean for providing detailed information) SOSバンド「ファースト」「テイク・ユア・タイム」収録 Sos posted … Continue reading

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●(速報)コーネル・デュプリー、68歳で死去

●(速報)コーネル・デュプリー、68歳で死去 【Cornell Dupree Dies At 68】 訃報。 ニューヨークを本拠に1960年代から活躍していた名ギタリスト、コーネル・デュプリーが2011年5月8日、テキサス州フォートウォースの自宅で死去した。68歳だった。(1942年生まれのため、一部で69歳と書かれているが、まちがい。1942年生まれだが、12月生まれで誕生日がまだきていないために68歳) ここ数年、肺気腫を患っており、肺の移植手術を受けることになっていた。それでも、2010年8月、2009年2月、2008年6月と毎年のように来日、ステージを見せていた。2010年8月が最後の来日。これまでに2500以上のセッションに参加、参加レコード多数、ライヴ多数。特に1976年にスティーヴ・ガッド、エリック・ゲイル、リチャード・ティーらと結成したグループ、「スタッフ」が大きな人気を集めた。 2011年3月20日には、コーネルの手術代、治療費などをサポートするために有志のミュージシャンが集まり、ニューヨークのBBキングの「ハウス・オブ・ブルーズ」でチャリティー・ライヴが行われた。 コーネル・デュプリーは、1942年12月19日、テキサス州フォートウォース生まれ。1962年にニューヨークに出て、まもなくベースのチャック・レイニーとともにキング・カーティス・バンドの一員となる。サム・クック、ファッツ・ドミノなどのバックや、1965年にはビートルズのオープニングもやったという。中期からアトランティック・レコードのハウス・バンドの一員として活躍するようになり、アトランティックにおける多数のセッションに参加した。その頃の作品には、アレサ・フランクリンの「リスペクト」、名盤『ライヴ・アット・フィルモア・ウェスト』、ダニー・ハサウェイの名盤『ライヴ』、ブルック・ベントンの「レイニー・ナイト・イン・ジョージア」など多数ある。1967年から1976年まで、アレサ・フランクリンのツアー・バンドの一員でもあった。 彼は、ダニー・ハサウェイ、アレサ、ジョー・コッカー、ロバータ・フラック、ポール・サイモンなどのほかに、自身名義のソロ・アルバム(1974年『ティージン』以降、ソロ多数)もだしている。 スタジオおよびライヴ・セッションでの名声を得た彼は、同業の仲間であるミュージシャン、エリック・ゲイル(ギター)、リチャード・ティー(キーボード)、スティーヴ・ガッド、クリス・パーカー(ともにドラムス)、ゴードン・エドワーズ(ベース)らとともに、1976年、グループ「スタッフ」を結成。ニューヨークの名うてのミュージシャンが集まったスーパー・グループとして、当時のフュージョン・シーン、後のジャズ・ファンク・シーンでも大きな人気を集めた。 スタッフとしてのデビュー・アルバム『スタッフ』(1976年)、さらに『モア・スタッフ』(1977年)は特に日本で大ヒットとなり、日本におけるフュージョン・ブームの起爆剤となった。 その後も、スティーヴ・ガッドがリーダーとなったガッド・ギャングなどでも活躍、さらに、ソウル・サヴァイヴァーズ名義でも活躍し、毎年のように来日し、日本のファンに親しまれた。 コーネル死しても、そのギターの音色は、ずっと生き続ける。His guitar sound will survive forever. なお、スタッフのうち、リチャード・ティーは1993年7月21日に49歳で、エリック・ゲイルは1994年5月25日、55歳でともに癌で亡くなっている。 (修正:デュプリーの死去した場所を当初、ニューヨークと書きましたが、テキサス州フォートウォースの自宅だったことがわかりましたので、修正しました。=2011年5月12日、午後1時40分現在) +++++ 訃報に関して。 訃報に関しては毎回書いていますが、必ず複数の情報源から確認を取るようにしています。最近はツイッター、フェースブックなどで、一般ネットメディアに出る前に、当人の家族、親しい友人などからの情報が流れることが多くなっています。ただ一般の人がツイートした場合、いつ・どこで・何が原因で・何歳で死去したかという、きちんとしたメディア情報になっていないことが多いために、それを確認するために、時間がかかります。しかし、第一報は瞬く間に広がります。 ソウル・サーチンでは、ツイッターにおける「速さ」よりも、その情報が確実かどうか、信頼性があるかに重きを置いて、確実だと判断した場合のみ情報を発信しています。これからも、親しい筋から情報が出た場合、一般メディア、ネットメディアなどに出るまでには6~24時間程度の時差が生まれるでしょう。しかし、多くのツイッター情報は、ひとつの情報源のものをリツイートすることが多く、瞬く間に広まるために、誤報だった場合も、瞬時に広まる危険性があります。そのあたりは慎重に対処するつもりですので、ご理解ください。 +++++ 今回の訃報は、ムゲンブラスターズの宮原さんが9日午後8時過ぎにエリック・ゲイルの奥様マサコさんからの情報としてツイートした。僕もそれを見て知り、いろいろと確認作業をしたが、その後、マサコさん自身の書き込みが確認されたため、確定情報として午後10時半すぎにツイートした。日本時間10日になって、ジェイソン・マイルズなどもツイート。日本時間で10日午前0時20分ごろ、英語版ウィキペディアで死亡が書かれた。また、9日昼12時(日本時間10日午前4時)からはカリフォルニア州ロングビーチのジャズ専門局KJAZZ(88.1FM)が追悼特集を放送し始めた。 +++++ コーネル・デュプリーは、調べてみると2010年と2009年を見逃していた。2010年は予定があわず行けず、2009年はマーヴィン・ゲイにかかりきりで、時間が取れなかった。よって、最後のライヴ評は2008年のものだった。そのときからすでに、酸素ボンベだったのだから、本当に大変なプロ意識だと思う。いつ見ても、陳腐な表現だが、いぶし銀だった。ご冥福をお祈りします。 ■ 過去記事 コーネル・デュプリー関連 2008年04月17日(木) 職人ギタリスト、コーネル・デュプリー http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10088927816.html August 06, 2005 Soul … Continue reading

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●カルヴィン・ヤングブラッド、56歳で死去

●カルヴィン・ヤングブラッド、56歳で死去 【Calvin Youngblood Dies At 56】 訃報。 日本の横浜を本拠に活躍していたソウル・シンガー、カルヴィン・ヤングブラッドが2011年4月18日(月)午前6時18分、横浜市内の病院で癌のために死去した。56歳だった。半年ほど前から闘病していた。昨年12月末に目黒のブルース・アレイで行われたブレンダ・ヴォーンのライヴでは、飛び入りで参加。元気そうな姿を見せていた。 癌発覚後から親友のデイヴィッド・キングらがかなり付っきりで看病をしていた。 カルヴィンは、1954年8月5日アメリカ生まれ。幼少の頃からゴスペルを歌いながら、プロのシンガーとなり、来日後、日本人の奥さんと16年ほど結婚し、長く日本に住んでいた。2009年には、ゲイリー・アドキンス、デイヴィッド・キングらと4人組のソウル・ヴォーカル・グループ「タッチ・オブ・エレガンス」を結成。同年6月に目黒のブルース・アレイでライヴを行った。 2010年12月28日、目黒ブルース・アレイで。左・カルヴィン、右・左からカルヴィン、ゲイリー・アドキンス、デイヴィッド・キング。ブレンダのライヴで。グラディス・ナイト&ザ・ピップスの「ミッドナイト・トレイン・トゥ・ジョージア」のコーラスを3人でピップス役を演じて歌う。 2009年06月30日(火) 「タッチ・オブ・エレガンス」~往年のソウル・ショーを現代に蘇らせる http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20090630.html その後、メンバーを変更し、クラッシー・ジェントルメンとして、2010年2月、再度ブルース・アレイでライヴを行った。 カルヴィンは野太いソウルフルな声が大きな魅力で、テディー・ペンダグラス系の作品を実に味わい深く歌っていた。また、ここでは、ルイ・アームストロングで有名な「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」をルイそっくりに歌い、観客の喝采を集めていた。 2010年02月26日(金) クラッシーなソウル・グループが東京に蘇る http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10468195889.html Calvin Youngblood : What A Wonderful World. 2/25/2010 @ Blues Alley Meguro クラッシー・ジェントルメン(編集)向かって右から2人目がカルヴィン Calvin Youngblood : Please, Please, Please 2010/10 At … Continue reading

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●ロリータ・ハロウェイ、64歳で死去~ソウル・ディスコ・ディーヴァ

●ロリータ・ハロウェイ、64歳で死去~ソウル・ディスコ・ディーヴァ 【Loleatta Holloway Dies At 64】 訃報。 ゴスペル・シンガーからソウル・シンガーへ転じ、その後、ディスコ・ヒットも生み出したロリータ・ハロウェイが2011年3月21日(月)シカゴの病院で死去した。64歳だった。しばらく前に心臓の疾患で入院、2-3日前から昏睡状態になっていた。 ハロウェイには4人の子供、9人の孫がおり、近日中にシカゴのジェシー・ジャクソン教会でメモリアルが行われる。 各界から弔辞が寄せられている。イギリスのアシッド・ジャズ創始者ジャイルス・ピーターソンは、ロリータの「ヒット・アンド・ラン」が好きだと前置きし、「この曲にはソウル、感情、ディスコ、ロリータのすべてが一曲の中に込められているから」と述べた。 サルソウル・レコードのレーベルメイトであるキャロル・ウィリアムスは、ロリータのレコーディング様子のエピソードを語る。「普通、シンガーは(レコーディングでは)みんなマイクに近づくのよ。でも、ロリータは1フィートくらい離れてるのよ」 それだけ声量があったということだ。 リンダ・クリフォード。「彼女はとても大切な友人でした。ずっと彼女のことを愛します」 キャンディ・ステイトン。「本当に残念です。ロリータは、本当に素晴らしい声、ビッグ・ヴォイスを持ったシンガーのひとり。個人的には彼女はとっても楽しい人物で、人生を思い切り楽しんでいた。彼女のことをずっと思い続けるわ。音楽もずっと残り続けます」 マネージャーのロン・リチャードソンによれば、ロリータはとてもスイートな人物だが、またとても傷つきやすい人物でもあったと振り返る。彼女の1980年の大ヒット「ラヴ・センセーション」は後に1989年イギリスのブラックボックスがサンプリングし、「ライド・オン・タイム」というタイトルで大ヒットさせた。しかも、プロモーション用ビデオでは、モデルのキャサリン・クイノールを前面に押し出し、あたかもキャサリンが歌っているかのように見せ、ロリータのクレジットは載せなかった。結局、これは裁判でロリータ側の全面勝利となるが、彼女にとっては苦い経験になったようだ。 その後、マーキー・マークが「グッド・ヴァイブレーション」で彼女を正式に起用、これもヒット。また、最近ではロリータの「ウィアー・ゲッティング・ストロンガー」を、ホイットニー・ヒューストンが「ミリオン・ダラー・ビル」でサンプリングしている。 彼女の傑作曲である「クライ・トゥ・ミー」だが、これと同名異曲の「クライ・トゥ・ミー」を歌ったソウル・レジェンド、ソロモン・バークの誕生日が奇しくも1940年の3月21日、ロリータ・ハロウェイの命日となった。運命のめぐり合わせか。 ★ Loleatta の日本語表記について 「ロレッタ」は明らかな間違いで「ロリータ」が正しい。コロンビア時代はロリータだった。Lorettaならロレッタになるが、leaがくるので、ロリータになる。アクセントが「リー」に来るので、「リータ・ハロウェイ」と聴こえることもある。単純にレコード会社の担当がロリータだとロリータ趣味と勘違いされそうなので、わざと正しい発音を無視しロレッタにしたという信じられない話。ハロウェイかホロウェイかは、どちらでもいいが、Hollywood(ハリウッド)と同様に考えれば、ハロウェイでよいだろう。 +++++ ゴスペル~ソウル~ディスコ~ガレージ:進化したロリータ・ハロウェイの64年 評伝。 ロリータ・ハロウェイは、1946年11月5日イリノイ州シカゴ生まれ。母親がハロウェイ・ゴスペル・シンガーズという自身のグループのゴスペル・シンガーだったことから幼少の頃よりゴスペルを歌い始める。母親はゴスペル名門グループ、キャラヴァンズのアルバーティナ・ウォーカーと接点があり、ロリータは早くからキャラヴァンズでレコーディングを経験した。 1971年、ロリータが24歳ごろ、プロデューサーのフロイド・スミス(1917年1月25日生まれ、1982年3月29日死去、65歳)と知り合い、フロイドのプロデュースで「レインボウ71」を録音。これは、カーティス・メイフィールド作品でジーン・チャンドラーがヒットさせたもののカヴァー。インディから出て少しだけヒットした。ちなみに、フロイドとロリータは1970年代に結婚するが、その年の差は29歳だ。 その後、フロイドがアトランタに本拠を置くGRC(General Recording Company)傘下のアウェア・レコードとロリータの契約をまとめ、アルバム2枚を録音。これが、『ロリータ』(1973年)と『クライ・トゥ・ミー』(1975年)で、どちらもソウル・ファンからひじょうに高い支持を集め、傑作と呼ばれるようになった。ロリータのゴスペルに根付いたソウルフルな歌唱が圧倒的で魅力を出していた。日本でも当時はコロンビア・レコードからリリースされた。だが、このアウェアがまもなく倒産。ロリータは、フィラデルフィアのサルソウル・レコード傘下にできたゴールド・マインドと契約。 このアウェアの親会社GRCを取り仕切っていたのはマイケル・セヴィス(1932年ノースキャロライナ生まれ)という人物。彼は実は大物ギャングで、全米のポルノ産業を一手に牛耳っていた男だった。小さなポルノ雑誌の発売から始めて、いわゆるピープショー(覗き部屋)などのポルノショップを経営、これが大当たりし、一時期1970年代には年商1億ドル(当時のレートで360億円)をあげていたといわれる。しかし、殺人、脱税などでFBIに目を付けられ、1976年に逮捕。アウェアの倒産もそれと関連している。 サルソウルに移籍してからは、フィリーのプロデューサー、ノーマン・ハリスらのプロデュースで軽快なフィリー・サウンドの作品が作られ、いわゆるディスコ作品というジャンルにカテゴライズされ、実際ディスコ・チャートでもたくさんのヒットを生み出した。「ヒット・アンド・ラン」(1977年)、「ラン・アウェイ」(1977年)、「ラヴ・センセーション」(1980年)などだ。ダン・ハートマンの「リライト・マイ・ファイアー」(1979年)の客演もこの時期。いずれもディスコで大ヒットしたため、「ディスコ・ディーヴァ」の名前をほしいままにした。 1989年、イギリスのディスコ・プロデューサーが作ったブラックボックスというグループが「ラヴ・センセーション」をロリータのクレジットなしでサンプリングして「ライド・オン・タイム」というタイトルでリリース、これを大ヒットさせた。プロモ・ビデオでモデルを全面にだし、あたかもそのモデルが歌っているかのように見せたため、問題となり、ロリータ側が訴え、ロリータ側が実質的な勝訴(正確には示談)となった。 その後、マーキー・マーク(マーク・ウォールバーグ)&ザ・ファンキー・バンチが正式にロリータをフィーチャード・シンガーとして起用し、「グッド・ヴァイブレーション」が1991年ポップチャートで1位に輝いた。もちろん、これはクレジットも得て、ロイヤリティーも得ることができ、ロリータ最大のヒットになった。 さらに、2000年には日本のハウス・チーム、GTSの「ホワット・ゴーズ・アラウンド・カムズ・アラウンド」でロリータが起用されている。(リリースは2001年) 最近では、ホイットニー・ヒューストンがロリータの1976年の作品「ウィアー・ゲッティング・ストロンガー」を、「ミリオン・ダラー・ベイビー」でサンプリングしている。 ロリータのキャリアを振り返ると、ゴスペルから始まり、ソウルに転じ、さらに、ディスコ、ダンス・ミュージック、そして、ガレージ、ハウスへ変化していった。 オリジナル・アルバムは、アウェアで2枚、サルソウル(ゴールド・マインド)で4枚、ストリートワイズで1枚。そのほかオムニバス、コンピレーション、ベストものなど多数。 Loleatta (Aware 2003 – … Continue reading

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●バーナード・ウィルソン(ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ)死去

●バーナード・ウィルソン(ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ)死去 【Bernard Wilson (Harold Melvin & The Bluenotes) Dies At 64】 訃報。 フィラデルフィアを本拠に活躍していたR&Bヴォーカル・グループ、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツのメンバーの一人、バーナード・ウィルソンが2010年12月26日、ニュージャージー州ヴォアヒーズのクレッソン・ヴュー・センターで心臓発作のため死去した。64歳だった。 ブルー・ノーツのメンバーは、リード・シンガーのテディー・ペンダーグラスが昨年(2010年)1月13日死去、またリーダーのハロルド・メルヴィンが1997年3月24日死去、その他のメンバーも死去しており、このウィルソンの死去によってオリジナル・メンバーで存命しているのは、ロイド・パークスだけとなった。ジョン・アトキンス、デイヴィッド・イーボなどもすでに他界していた。ローレンス・ブラウンは2008年4月6日63歳で、ルーズベルト・ブローディーという1950年代にメンバーだった人物は2010年7月13日に75歳で、それぞれ他界。ジェリー・カミングスは聖職者として活動を続けている。 今回亡くなったバーナード・ウィルソンは、1946年、ノース・フィラデルフィア生まれ。生粋のフィラデルフィア育ち。両親が早くに亡くなり、祖母に育てられた。16歳で独立(実質的な家出)しエンタテイナーとしての成功を夢見た。 一方、1954年、同じくフィラデルフィア出身のハロルド・メルヴィンが「ブルー・ノーツ」の前身「チャルマネーズCharlemagnes」を結成。1956年までに、バーナード・ウィルソン(まだ10歳)は、ハロルド・メルヴィンらと知り合い、徐々にグループに参加、グループ名もブルー・ノーツに。この時期のブルー・ノーツのメンバーは、ハロルド・メルヴィン、バーナード・ウィルソン、ルーズヴェルト・ブローディー、ジェシー・ジリス、フランクリン・パーカー。この5人がオリジナル・メンバーとされる。当初はドゥーワップ・グループとしてスタート、東海岸のインディ・レーベルからシングルなどを出すが大きなヒットにはなっていない。その後、ギリスとピーカーが、ジョン・アトキンス、ローレンス・ブラウンに交代。初ヒット「マイ・ヒーロー」が1960年に生まれる。 バーナードは、メルヴィンとは一時期離れたこともあったが、1971年にグループがケニー・ギャンブル&レオン・ハフの始めたフィラデルフィア・インターナショナル・レコードと契約するまでには、グループに戻り、正式メンバーとなっていた。グループには、1970年までにテディー・ペンダーグラス、ロイド・パークスが参加。この時点では、ハロルド・メルヴィン、バーナード、テディー、ローレンス・ブラウン、ロイド・パークス。その後、同グループはリード・シンガー、テディー・ペンダーグラスの歌唱とともに大ブレイク。最大のヒットは「イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ(二人の絆)」(1972年)、ほかに「バッド・ラック」「ウェイク・アップ・エヴリバディー」などが生まれた。こうした大ヒットを背景にテディーは1976年にソロに転身。バーナードも1977年にグループを脱退。同じくブルー・ノーツを辞めたロイド・パークスらと、ハロルド・メルヴィンのものとは違う「ブルー・ノーツ」を結成し、マイアミのTKレコード傘下マーリンからアルバム一枚を出すが、ヒットはしなかった。その後は地元でソロ・シンガーとして活動を続けていた。 1971年から1976年までのハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツのアーティスト写真、クレジットにはもちろん、バーナード・ウィルソンの名前・顔がある。しかし、レコーディング・セッションではリード・シンガーのテディー以外はスタジオに呼ばれず、コーラスなどは、テディーとプロデューサーのギャンブル&ハフ、ハロルド・メルヴィンらがつけるということもあった。ただ、ライヴ・ステージでは、彼らはテディーのバックをつけヴォーカル・グループの形を整えていた。 テディーはその後ソロ・シンガーとして成功。ハロルド・メルヴィンのブルー・ノーツは、フィラデルフィア・インターからABCレコードへ移籍。新リードを加入させるが、大ヒットは生まれなかった。 ■関連記事 2010年01月14日(木) (緊急寄稿) テディー・ペンダーグラス『トゥルーリー・ブレスド』ライナーノーツ 復刻 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100114.html 2010年01月16日(土) テディー・ペンダーグラス死去:フィリーのメッセージをのせて http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100116.html 2008年07月08日(火) シャロン・ページは来ています~ハロルド・メルヴィンズ・ブルーノーツ http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20080708.html February 27, 2006 Harold Melvin & The Blue Notes Live: The … Continue reading

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●スティーヴ・マンチャ死去~100プルーフなどデトロイト・ソウル・シーンで活躍

●スティーヴ・マンチャ死去~100プルーフなどデトロイト・ソウル・シーンで活躍 【Steve Mancha, Detroit Soul Man Dies At 65】 訃報。 デトロイト出身のソウルフルなシンガーで、ノーザン・ソウル・シーンを代表する歌手の一人でもあったスティーヴ・マンチャが、2011年1月8日午後4時8分、地元デトロイトのフォード病院で死去した。65歳だった。長く病気を患っていた、という。 1月23日に、デトロイトで友人たちが集まってトリビュート・イヴェントが行われる。 スティーヴ・マンチャは、その迫力のあるヴォーカルが最大の持ち味。個人名義のほか、100プルーフ(ワン・ハンドレッド・プルーフ)、エイス・デイ(8thデイ)などでも活躍、前者は「サムバディーズ・ビーン・スリーピング」(1970年=ソウルで6位、ポップで8位)が自身の歌でヒット、後者は「シーズ・ノット・ジャスト・アナザー・ウーマン」(1971年=ソウルで3位、ポップで11位)のヒットにかかわった。 スティーヴ・マンチャは、本名クライド・ダーネル・ウィルソン、1945年12月25日、サウス・キャロライナ州ウォーレル生まれ。5歳の頃(1951年頃)デトロイトに引越してきて、その後1960年頃までには、デトロイトの教会などで歌うようになっていた。デトロイトの音楽シーンで知り合ったメルヴィン・デイヴィス、トニー・ニュートン、そして、デイヴィッド・ラッフィン(のちにテンプテーションズのリード・ヴォーカルの一人に)らと「ジェイウォーカーズ」というグループを結成。その後、クライドはウィルバート・ジャクソンと「ザ・トゥー・フレンズ」という二人組み(デュエット)を結成、デトロイトでインディ・レーベルを始めていたハーヴィー・フークエがやっていた「HPCレコード」と契約、シングル「Just Too Much To Hope For c/w Family reunion」を1960年にリリース。ほとんどヒットはしなかったが、前者は、1967年、モータウンのタミー・テレルにカヴァーされる。その後、ハーヴィーは別のレーベルを、グエン・ゴーディー(モータウンを始めたベリー・ゴーディーの姉)とともに立ち上げるが、なかなか資金的にもうまく行かず、自身のアーティストを含めてレーベルをベリー・ゴーディーに売却してしまう。トゥー・フレンズとしてモータウンではヒットは出なかったが、二人はソングライターとしてモータウンでいくつかの曲を書くようになった。マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルの「マイ・リトル・ラヴ」、モニターズの「ナンバー・ワン・イン・ユア・ハート」などがモータウン時代の作品。 クライドは、モータウンを離れ、同じくデトロイトのもう一人のドン、ドン・デイヴィスと親しくなり、彼の勧めで芸名をつけることにした。それが、スティーヴ・マンチャという名だった。1965年10月、ドンの持つグルーヴスヴィル・レコードから「ユーアー・スティル・イン・マイ・ハート(You’re Still In My Heart)」さらに、1966年3月に「アイ・ドント・ウォント・トゥ・ルーズ・ユー(I Don’t Want To Lose You)」(ビルボード・ソウル・チャートで34位を記録=初チャートヒット)などでデトロイトではかなりの人気シンガーとなった。 ドン・デイヴィスは、南部メンフィスのスタックス・レコードともつながりがあり、その後1969年に、ドンが持っていたスティーヴのマスターを、『レア・スタンプス』というアルバムにしてスタックスからリリース。ただし、このアルバムは、片面がスティーヴでもう片面がJJバーンズという珍しい2人アーティストのアルバムだった。 スティーヴは、その後もいくつかのヴォーカル・グループを転々とし、地元では有名な存在に。この頃残したシングル盤が後にイギリスのソウル・ミュージック・シーンで、いわゆる「ノーザン・ソウル」(南部のソウル=アメリカのサザン・ソウルに対して北部のソウル、という意味とイギリス・ロンドンより北の地域のクラブなどで人気があったノーザンという両方の意味がある)ということで注目を集め、スティーヴもちょっとした人気シンガーとなった。 1969年、モータウンを辞めたソングライター・チーム、「ホランド・ドジャー・ホランド」が設立したホットワックス/インヴィクタス・レコードと「ワン・ハンドレッド・プルーフ・エージド・イン・ソウル」というグループの一員として契約。100プルーフは1971年「サムバディーズ・ビーン・スリーピング」というミディアム調の作品をヒットさせ、これはゴールド・ディスクになる大ヒットとなった。100プルーフは3人組で、スティーヴ・マンチャのほか、エディー・ホリデイ、そして、ジョー・スタッブスからなる。ジョーは、フォー・トップスのリード・シンガー、リーヴァイ・スタッブスの弟。またジョーは、コントゥアーズ、オリジナルズ、ファルコンズなどデトロイトの名門グループを渡り歩いてきた。100プルーフは、1973年までに解散。 このインヴィクタス/ホットワックス時代には、レーベルメイトでもあったジョージ・クリントンのパーラメントのヒット「ブレイクダウン」などにも、クレジットなしで傘下していたこともあるという。1970年のパーラメントの『オズミウム』収録の「カム・イン・アウト・オブ・ザ・レイン」などでも迫力のあるヴォーカルを聞かせている。そして、100プルーフとほぼ同時に、スティーヴが書いた作品「シーズ・ノット・ジャスト・アナザー・ウーマン」という曲をレコーディング、これはエイス・デイ(8th Day)名義でリリースされ、またまた大ヒット。エイス・デイは、グループの実体を作るために、スティーヴの古くからの友人メルヴィン・デイヴィスをグループに推薦、メルヴィンが同グループのリード・ヴォーカルとなった。正式にはメルヴィンがリード・ヴォーカルということになっている。スティーヴ・マンチャは、その後再びソロ・シンガーとして活動していた。特にイギリスの「ノーザン・ソウル・シーン」では、引き続き人気を得ていた。 そうした人気を背景に、1998年ごろ、イギリスのディスコ、ソウル系のプロデューサー、イアン・レヴィンが彼と契約、イギリス録音の作品をいくつかリリースした。イアン・レヴィンは、アメリカのソウル・ミュージックが大好きで、契約のないソウル・シンガーと次々と契約し、レコード作りをしていた。イアンの持つ「モーター・シティー」レーベルでは、スティーヴ・マンチャの作品も残されている。 ■ 100プルーフ … Continue reading

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●ラリー・ハンコック死去~元S.O.U.L.、トゥルース

●ラリー・ハンコック死去~元S.O.U.L.、トゥルース 【Larry Hancock Dies At 62】 訃報。 1970年代からオハイオ州クリーヴランドを本拠に、S.O.U.L.、トゥルースなどのソウル・グループで活躍し、その後ソロに転じたラリー・ハンコックが2011年1月3日、オハイオ州クリーヴランドの自宅で心臓発作のため死去した。62歳だった。3日夜7時ごろ、オハイオ州クリーヴランドの自宅で胸の痛みを感じ、妻と娘に支えながら起き、マッサージを受けたが、救急車が到着する前に死去した。数年前に軽い発作を起こしたが、以後もライヴ活動、レコーディングも続けていた。 ラリーとアルは死去5日前に、ラリー宅で二人で一緒に曲を書いていた。アルの父の葬儀が、2010年12月24日にクリーヴランドであり、そこでラリーは、「ザ・ローズ・プレイヤー」を歌った。 ラリー・ハンコックの葬儀は次のところで、2011年1月10日、午前11時から行われる。The Word Church on South Miles in Cleveland, Ohio at 11:00am on Monday Jan.10, 2011. ラリーは本名ローレンス・エドワード・ハンコック(Lawrence Edward Hancock July 29th 1948)、1948年7月29日オハイオ州クリーヴランド生まれ。同地で1971年に、S.O.U.Lというグループにヴォーカルとオルガン奏者として参加。これは、「サウンド・オブ・ユニティー・アンド・ラヴ」の略。1972年にここに加入するビロイド・テイラーは、後にアース・ウィンド&ファイアーに楽曲(「ゲットアウェイ」)を提供したりするようになる。このグループは、クリーヴランドで行われたバンド・コンテストで優勝、賞金1000ドルを獲得し、ご褒美としてニューヨークのミュージコー・レーベルと契約、シングル、アルバムをリリースしてデビュー。このS.O.U.L.は、「ディス・タイム・アラウンド」(1973年、ソウル44位)、「ザ・ジョーンゼズ」(1975年ソウル65位)のヒットを放つ。ただし、S.O.U.L.のファースト・アルバムには、なぜかラリーの名はない。レコーディングには参加しなかったようだ。 その後、S.O.U.Lが解散した後、ラリーは、同郷の友人アル・ボイド、レオ・グリーン、ラッセル・ワッツらとトゥルースというグループを結成。アル・ボイドはその後、ソングライターとしてテンプテーションズに「シェーキー・グラウンド」を提供する。しかし、最初のトゥルースはなかなか目が出ず、ラリーとグリーを残して二人が脱退。ラリーとレオ・グリーンで地元のデヴァーキー・レコードからアルバム『カミング・ホーム』作品を発表。これが、日本のソウル・ファンなどの間でも評判となったが、アメリカではまったくヒットしなかった。そのため、ラリーはこの後ロス・アンジェルスに出向き一旗あげようとする。ロスで、アルフィー・サイラスとのデュエットもレコーディングするが、思うようにヒットせず、一時期は同じクリーヴランド出身のソニー・ターナーの勧めでソニーのプラターズの一員としてツアーにでたこともあった。そして、再びクリーヴランドに戻り、1988年、フランスのレコード会社から出たソロ・アルバム『ボーダーライン』が話題になった。 また、アルとオージェイズのエディー・リヴァートが知り合いだったことから、アルとラリーが共に書いた「テイク・ミー・トゥー・ザ・スターズ」という曲は、オージェイズの1979年のアルバム『ソー・フル・オブ・ラヴ』に収録されている。 OBITUARY>Hancock, Larry (Lawrence Edward Hancock) July 29th 1948-January … Continue reading

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●ボニーMのボビー・ファレル死去~フランク・ファリアンの成功の影で

●ボニーMのボビー・ファレル死去~フランク・ファリアンの成功の影で 【Bobby Farrell Of Boney M Dies At 61】 訃報。 ヨーロッパを拠点に活躍しているディスコ・グループ、ボニーMのメンバー、ボビー・ファレルが2010年12月30日(木)、ロシア・サンクトペテルブルクのホテルで死去した。61歳。ツアー中だった。ウェイクアップ・コールがなっても起きてこないことを不審に思ったホテルのスタッフが部屋に入り、死亡しているのを確認した。前日夜、ライヴを行っていた。 http://aol.it/hnTUKs  ■元祖フェイク・シンガーが表に出たグループ フェイク。 ボニーMは、1974年暮れ、西ドイツのプロデューサーでR&B、ブラック・ミュージック好きだったフランク・ファリアンがディスコでのヒットを狙ってスタジオ・ミュージシャンなどを集めてディスコ曲「ベイビー・ドゥ・ユー・ウォナ・バンプ」を作ったのが始まり。しかし、このヴォーカルを担当していたのは、自身シンガーでもあったフランク本人だった。その後、これがヒットしたために、フランクは、テレビ用にちゃんとしたシンガーをフロントに立てることを考え、シンガーのメイジー・ウィリアムス、ダンサーのボビー・ファレルなどをオーディションで抜擢。グループとしての体をなすことにさせた。その後、ボニーMは、フランクのプロデュースで、1970年代中期以降「ダディー・クール」「サニー」「マ・ベイカー」「ベルファースト」「リヴァーズ・オブ・バビロン」「ラスプーチン」などがヨーロッパを中心に大ヒット。一躍スターの座についた。日本でも、「ラスプーチン」「サニー」などがディスコで大ヒットし、大変な人気を獲得した。 ボニーMは、1975年から1988年までの間に38曲のトップ10(各国でのトップ10をカウントして)、ドイツで15曲のナンバーワン、イギリスで5曲のナンバーワンを記録する未曾有の成功を収める。 しかし、フロントに出てジャケットにも顔出ししたメンバーであるボビーはレコーディングには参加せず、基本はステージではクチパク、ときどき歌っていたという。女性シンガーは、マーシャ・バレットとリズ・ミッチェルが実際にはほとんどの部分を歌っていて、もう一人のメイジー・ウィリアムスは楽曲の歌唱クレジットにあまり名前がでていない。 ボニーM自体は、1970年代はヨーロッパを中心に爆発的人気を獲得していたが、1980年代後半になると、あまり大ヒットらしい大ヒットはでなくなったが、それまでの大ヒットの実績でヨーロッパではライヴ需要があり、彼らは何人かメンバーを変えたりして、ライヴの仕事を積極的に行っていた。またボニーM自体もファリアン本家のものとボビーの分派のものも活動していた。 その後、ファリアンは1980年代後期に、ミリ・ヴァニリという黒人二人組みのディスコ・グループを世に出すが、これもレコーディングではプロのスタジオ・シンガーを起用するが、ライヴやテレビなどでは、モデル兼ダンサーのフロント・マンを雇いクチパクで歌わせた。ミリ・ヴァニリの楽曲は、プロモーション・ビデオもあり、なんと、その後世界的大ヒット。それだけでなく、グラミー賞新人賞などを獲得した。しかし、実際にレコードでこの曲を歌っていたシンガーが、その事実を公表、スキャンダルとなり、最終的にファリアンもこれを認めたため、グラミー賞を剥奪されるという前代未聞の事件となった。 ボビー・ファレルは、ボニーMのフロント・マンとしてダンスをし、近年では若干のコーラスなどをつけていたようだ。 ボビー・ファレルは、1949年10月6日、西インド諸島・小アンティル諸島のアルバ(オランダ領)に生まれた。15歳以降セーラー(水兵)として働き世界の海を航海していたが、ノルウェイ、オランダなどに住み、その後ドイツにわたりDJなどをするようになった。1975年頃、西ドイツ(当時)のプロデューサー、フランク・ファリアン(1941年生まれ)に声をかけられ、ボニーMに参加した。 なお、1916年12月29日、ロシアの怪人物として名高いラスプーチンが、ボビーが死去した同じサンクトペテルブルグで死去している。命日が一日違いだ。 一方、ファリアンの活動は続き、2006年8月、ボニーMを題材としたミュージカル『ダディー・クール』をロンドンで公開したりしている。 +++ 才人プロデューサー、フランク・ファリアン ボニーMは、日本でも新宿のディスコを中心に曲が多数ブレイクし、その後有線、ラジオなどで大ヒットした。アラベスクなどと並んで、いわゆる「ミュンヘン・サウンド」のディスコ・アーティストとして日本でも大変な人気を獲得した。ボニーM成功の最大の立役者は、フランク・ファリアンだ。 実はフランク・ファリアンという人物はとても個人的には興味があって、これまでにもエラプションや、ボニーMなどのライナーノーツで少し書いたことがあった。だが、最近、新たに判明したことなどもあり、そのあたりをいずれまとめてみたい。元々、ロックンロールの洗礼を受け、60年代にはオーティス・レディングの「ミスター・ピティフル」をカヴァーしレコーディングしていたようなR&B好きの人物なのだ。 ■ ベスト・オブ・ボニーM ボニーM ザ・ベスト・コレクション posted with amazlet at 11.01.03 ボニーM BMG JAPAN (2008-08-06) … Continue reading

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●2010年死去したアーティスト

● 2010年死去したアーティスト 【2010 Obituary : Your Soul Forever】 訃報。 2010年も多くの訃報が届いた。この「ソウル・サーチン」でご紹介した訃報およびその関連記事をまとめました。改めて、ご冥福をお祈りしたいと思います。なお、ブログで書けなかったもので、ツイッターでご紹介したものもここにまとめました。来月のグラミー賞授賞式でも、これらのアーティストたちが追悼されると思います。なお下記日時はブログのアップ日で、死去日ではありませんのでご注意ください。 2010年01月06日(水) (速報)ウィリー・ミッチェル~メンフィスソウルの重鎮、81歳で死去 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100106.html 2010年01月07日(木) ウィリー・ミッチェル~メンフィス・ソウルの重鎮、81歳で死去 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100107.html 2010年01月14日(木) テディー・ペンダーグラス59歳で死去 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100114.html 2010年03月07日(日) (速報)ドラマティックスのロン・バンクス死去 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100307.html 2010年03月08日(月) ドラマティックスのロン・バンクス58歳で死去 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100308.html マルコム・マクラーレン64歳で死去。 http://www.47news.jp/CN/201004/CN2010040901000259.html http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/8610423.stm posted at 13:34:40 April 9th, 2010 2010年04月22日(木) ラッパー、グールー47歳で死去 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100422.html 2010年05月11日(火) リナ・ホーン死去~私は私:人種の壁を乗り越えた92年の人生 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100511.html … Continue reading

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●ティーナ・マリー追悼(パート2)~レニーの追悼、ミニーの思い出話など

●ティーナ・マリー追悼(パート2)~レニーの追悼、ミニーの思い出話など 【RIP. Teena Marie Continues】 発作。 R&Bシンガー、ソングライター、ティーナ・マリーが2010年12月26日(日曜)カリフォルニア州の自宅で死去したニュースは瞬く間に世界中に広まった。今回も、第一報はツイッター、そして、そのツイッターからツイッターへ一挙にニュースは広まる。当初ははっきりしていなかった死因なども一日経って徐々に情報がでてきた。 それらを総合すると、25日(土曜日)午後9時過ぎ(アメリカ西海岸・現地時間)まで、ティーナはツイッターに書き込みをしていた。その後深夜12時半過ぎまでに就寝、その時点ではボディーガードが付き添っていた。朝には付き添いはいなくなり、ティーナは一度、午前11時半ごろ目を覚ますが、その後二度寝。午後3時頃に娘が起こしに行くとすでに息をしていなかったので、救急車を呼んだという。自然死と確認された。だが、就寝中に発作を起こし、死去した可能性もある。検視は行われるが、いわゆるドラッグ関連のものはないと見られている。 ティーナは、一ヶ月ほど前に大きな神経系の発作を起こし、その時には横に娘のアリア・ローズがいたため、すぐに救急車を呼び、病院に運ばれた。だがその救急車の中でもまた発作を起こした。以来、発作を止める薬を常用していたが、その薬の副作用が強いために、しばらく量を減らし、やめる方向になっていた、という。しかし、本人は発作が起こることが怖かったので、寝るときにはいつでも誰かにそばにいて欲しいと言っていた。 ティーナのパブリシスト、リン・ジーターによると、前日電話で話したときは、週末のアトランタでのライヴ・パフォーマンスを楽しみにしていた、という。 ティーナ・マリー死去 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20101228.html ++++ ●レニー・クラヴィッツ・ティーナ・マリーについて語る 衝撃的。 それにしても、各界からの追悼のメッセージが止まらない。ラジオ局も相当な時間を割いてティーナ・マリーをかけている。WBLSでは、ティーナの曲をかけながら、聴取者と電話でつなぎ、リスナーが持つティーナの思い出を語ってもらっていた。 そんな中でも、今回衝撃的だったのが、あのレニー・クラヴィッツのYoutubeでのコメントだ。一足先にツイッターでご紹介したが、改めて、ここに掲載する。 レニー・クラヴィッツは無名時代、16歳頃といっているから寝るところもなかった時期にティーナと出会い、彼女がずっとレニーを育てていた、という。食べ物を与え、楽器を与え、レコーディング・セッションに連れて行った、そうだ。これは、初めて知った。詳細は次の通り。 レニーは、これをパリからアイフォンで録音し、12月27日、自らユーチューブにアップした模様だ。昨日ご紹介した時点では、アクセス数が300程度だったが、さきほど見たら37000を超えていた。 http://www.youtube.com/watch?v=7VW9j9xr_Qg&feature=player_embedded (一番下に、レニーの英文を記載しました) おはよう。僕は、今、パリにいます。悲しいニュースで起こされました。僕の同士であり長い間の友人であるティーナ・マリーが昨日亡くなりました。僕のすべての愛と尊敬とお悔やみを遺された家族に捧げたいと思います。 ティーナ・マリーは宝物であり、天才です。彼女はとてもユニークで、最大限に過小評価されたコンポーザー、アレンジャー、シンガー、ミュージシャンでした。 もし彼女がいなければ、今の僕はいませんでした。彼女が僕にチャンスを与え、この業界にいれてくれたのです。僕が16歳の頃、まだストリート・ミュージシャンだった頃、住む所もなくあちこちをたらいまわしにされていました。(そんなとき)彼女がベッドルームを与えてくれ、僕を食べさせてくれ、料理を作ってくれ、本当に僕のめんどうをみてくれました。 そして、楽器を与えてくれ、彼女が行くレコーディング・セッションやコンサートにも連れていってくれました。彼女はまさに僕を育ててくれたんです。そして、今の僕を作りあげるのに大いに力を貸してくれました。 今まで僕はこの話を深くほとんどどこでもしていませんでした。今の僕は、彼女なしには、存在しないのです。彼女は僕の人生を変えてくれました。アーティストとしてだけでなく、一人の人間として、彼女は、僕をありのままの自分自身を愛せるように変えてくれたのです。 ここ数年、連絡を取っていませんでしたが、僕はティーナに言いたい。僕はいつでも、これからもずっと愛して、尊敬していきます。ありがとう。僕の友達でいてくれて。神様、ティーナ・マリーに人生を与えてくださって、ありがとうございます。 2分38秒のメッセージ 2010年12月27日アップ レニーは、1994年のティーナのアルバム『パッション・プレイ』で「メイン・スクーイズ」という曲でゲスト出演していた。これには、ある意味、恩返しという気持ちが込められていたのだろう。 楽曲の音源がこちらで聴けます。(形式はYoutubeですが、静止画で音だけ) Main Squeeze : Teena Marie featuring Lenny Kravitz http://www.youtube.com/watch?v=SMbXE_WkIBI … Continue reading

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●ティーナ・マリー、54歳で急死

●ティーナ・マリー、54歳で急死 【Teena Marie Dies At 54: Motown’s First White Female Funk Star】 訃報。 モータウン・レコードで、ファンクマスター、リック・ジェームスに見出されリックのプロデュースでデビューしたティーナ・マリーが、カリフォルニア州パサディナの自宅で2010年12月26日(日曜)までに死去した。54歳だった。午後1時ごろ、娘がティーナを起こしに行ったところ、すでに死去していた、という。死因はまだ発表されていない。ティーナは一ヶ月ほど前に、神経系の病気による大きな発作を起こし、救急車で病院に運ばれていた。この発作と、今回の死去が関連あるのかは不明。自宅での死去のため、検視が行われるものとみられる。 前日(クリスマス=12月25日)まで、普通に元気に過ごしており、当人のツイッターでも、25日夜9時頃にツイートしているのが残っている。死亡時刻は、25日夜9時以降、26日の午後1時までの間になりそうだ。 ティーナ・マリーは、1956年3月5日カリフォルニア州生まれ。本名、メリー・クリスティン・ブロッカート。愛称レディー・T。1970年代半ば、モータウンとソングライター契約をし、モータウン・オフィースでピアノを弾いていたところをファンク・マスター、リック・ジェームスに見出され、リックのプロデュースでデビュー。当初は白人ながらひじょうにファンキーでソウルフルな歌声でソウル・ファン、ブラック・ミュージック・ファンから支持を集めた。モータウンでは白人女性ソウル・シンガーとして初めて大きく成功。(白人グループとしては、これより先にレア・アースが「ゲット・レディー」[1970年]のヒットなどで成功。また白人男性シンガーとしてはジョニー・パワーズが1960年に契約している=このカッコ内は12月29日に追記) その後、顔を出して白人であることにファンは驚かされたが、支持は広がり、順調に作品をリリース。 1982年、モータウンと作品のリリースについて衝突。裁判となりカリフォルニアで「レコードをリリースせずに、自社にアーティストを押さえておくことを禁止する」いわゆる「ブロッカート・イニシアティヴ」別名「ティーナ・マリー・ロウ」が成立、1983年エピックに移籍する。1984年に発表した「ラヴァーガール」がポップチャートでも4位を記録する大ヒットとなり、メジャーな存在になった。これを含むアルバム『スターチャイルド』はプラチナム・ディスク(100万枚以上のセールス)を獲得。最大のヒットに。その後インディで3枚のアルバムを出した後、2009年、往年のソウル・レーベル、スタックス二移籍『コンゴ・スクエア』をリリースしている。 ティーナは、デビュー当初は、「ブルーアイド・ソウル・シンガー」「ファンク・シンガー」というくくりで語られるようなったが、実際はもっと多様性のある音楽を聴かせる女性シンガー・ソングライターだった。もちろん、そのソウルフルな声、歌唱は、ブラックをほうふつとさせ、最大の魅力だった。 ティーナ・マリーは、2000年4月、横浜にオープンした「モータウン・カフェ」(その後閉店)のオープニング・パーティーに出演するために来日。数曲歌うショーケースを行った。 多数のアメリカのR&Bアーティストたちが、ツイッターなどでティーナの死去を追悼している。 ティーナは、過去1979年の『ワイルド・アンド・ピースフル』から、2009年の、結果として遺作となった『コンゴ・スクエア』まで13枚のアルバムを出している。 ■ティーナ・マリー・アルバム タイトル・リリース年・レーベル 01. Wild and Peaceful (1979) (Gordy) 02. Lady T (1980) (Gordy) 03. Irons in the Fire (1980) (Gordy) … Continue reading

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●ジェームス・ムーディー、すい臓がんで死去~サックスの偉人

●ジェームス・ムーディー、すい臓がんで死去~サックスの偉人 【Jazz Giant James Moody Dies At 85】 訃報。 ジャズ界の巨匠、サックスのマスター、ジェームス・ムーディーが2010年12月9日(木)午後1時07分、現在居住しているカリフォルニア州サンディエゴのホスピスで死去した。85歳。すい臓がんを患っていた。 妻のリンダが、12月9日付けで友人へ向けたあいさつを本人のウェッブページに書いている。 http://www.jamesmoody.com/linda_love.html これによると約10ヶ月前、2月にすい臓がんが判明、医師はこの末期の癌をすべて切除すると命が危ないということで、一部の手術だけを行った。その後、5月に退院後は、放射線などの強い治療をするのではなく、ホスピスでの静かな生活を満喫したいという選択をしたようだ。すい臓がんであることは、先月、一般に公開した。ムーディーはこの1年の間に、二つの望みがあった。ひとつは、特別な友人の結婚式(2010年10月10日に行われた)に出席すること、ふたつはひ孫の顔を見ることだった。ひ孫は、無事10月22日に誕生した、という。 妻リンダとはムーディーが64歳の1988年に結婚、22年連れ添った。 ジェームス・ムーディーと言えば、“There I go, there I go, there I go, there I go …”から始まる「ムーディーズ・ムード・フォー・ラヴ」。これは、アレサ・・フランクリン、ジョージ・ベンソン、ロッド・スチュワート、最近ではエイミー・ワインハウス、エリオット・ヤミンなど多数のアーティストがカヴァーしているスタンダードの名曲。 この曲は、1949年、パリで出会った人物からストックホルムでのレコーディングを誘われ、セッションの一番最後に「もう1曲録ろう」と言われ、レコーディングしたもの。元は「I’m In The Mood For Love」がオリジナルで、これをカヴァーした。しかし、1951年、ムーディーのヴァージョンにエディー・ジェファーソンがこのインスト・ヴァージョンに歌詞を付け、さらにキング・プレジャーが歌ったところ、大ヒットになった。ジェファーソンは1979年、銃で撃たれ死去。また、ムーディーのヴァージョンは、ニューヨークのラジオ局WBLSの人気DJフランキー・クロッカーがテーマ曲のように使って、ニューヨーカーなら誰でも知るスタンダードともなった。 クインシーは、木曜日にさっそく声明を発表。その中で、「ムーディーズ・ムード」を彼自身3回録音した、と書く。1972年アレサ、1980年ジョージ・ベンソン、そして、1995年、ブライアン・マクナイト、テイク6、ムーディー自身らを含めたチームで録音した。クインシーは、「現在のクインシーがあるのは、ムーディーのおかげだ」と言う。 ムーディーは、1925年(大正14年)3月26日ジョージア州サヴァンナ生まれ、その後ニュージャージーに育った。兵役後の1946年、ディジー・ガレスピー楽団に入り、以後、サックス奏者、フルート奏者として活躍。1948年、ブルーノート・レコードでレコーディング、その後約3年ほどヨーロッパに移住した。「ムーディーズ・ムード」を録音したのはこの頃。1952年にアメリカに戻り、プレスティージ・レーベルで作品を残した。その後、一時期、ディジーの元に戻るが、その後、ラスヴェガスのホテルのバンドに就任。これは、当時結婚し、子供が出来たため、ツアーに出るのをやめたかったから。 通常、ミュージシャン同士ではファースト・ネームのジムやジェームスなどと呼ばれることが多いが、ムーディーは、友人からはみな「ムーディー」と呼ばれる。それがあたかも彼のキャラクターを表すファースト・ネームのようなものだからだ。そして、彼は誰にでも等しく熱いハグと強い握手をするという。ユーモアのセンスも抜群だ。 “I’ve always wanted to … Continue reading

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●☆ウェルドン・マクドゥーガル3世死去~モータウンで初期マイケルをプローモート

●☆ウェルドン・マクドゥーガル3世死去~モータウンで初期マイケルをプローモート (このニュースは10月末のものですが、このほど入手しましたので、ここにアップします) 【Weldon McDougal Dies At 74: Promo Rep For Motown In The 60s】 訃報。 1960年代モータウン・レコードの地域プロモーションマンを務めたり、その後、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードを中心に、コンサルタントなどをてがけたウェルドン・マクドゥーガルWeldon Arthur McDougal IIIが、2010年10月21日(木)、フィラデルフィア郊外ランスドーンLansdowneですい臓癌のため死去した。74歳だった。 マクドゥーガルは、1936年頃、フィラデルフィア出身。十代の頃から友人と遊びでR&Bヴォーカル・グループを作っていた。ハイスクール時代の友人たちと結成したヴォーカル・グループはラークスLarksといい地元のインディにシングルを残した。ラークスはローカル・シングルを出し、「イッツ・アンビリーヴァブル」という曲はそこそこのヒットになった。これらを背景に、ラークスは週300ドルでニューヨークのアポロ劇場でのハコバンド的な仕事を得て、当時、シェップ&ザ・ライムライツ、フラミンゴスなどの前座を務めたという。 なお、ラークスと名乗るグループは数組おり、そのうちのひとつは「ジャーク」というヒットを放っているが、それらのラークスとは関係ない。グループは、ローカルヒットは放ったが、全国チャートに載るヒットは生まれず、マクダガルは地元フィラデルフィアでさまざまな仕事についた。そのうちのひとつに、『アメリカン・バンドスタンド』の収録スタジオでの、入り口のドアマンのような仕事もあった、という。 フィラデルフィアで、彼はハーソン・ダイノダイナミックスというインディ・レーベルをスタート。ここで、エディー・ホールマン、バーバラ・メイソン、ヴォルケイノスなどのレコードの制作にかかわり、いくつかのヒットに寄与した。中でも、彼がプロデュースしたメイソンの「イエス・アイム・レディー」は1965年に大ヒットしている。この曲は後に、テリー・デサリオ&KCで全米ポップチャートで2位になっている。 ■ ジャクソン5をプロモート プロモート。 1969年3月、彼がモータウンの地域プロモーションを担当していた頃、シカゴのハイ・チャパラルというクラブで行われたタレント・コンテストで当時はまだ無名だったジャクソン5を見た。そのパフォーマンスが素晴らしかったので、彼は同じくモータウンのプロデューサーだったボビー・テイラーにその話をし、ボビーはジャクソン5と契約話をするようになった。ジャクソン5は結局、モータウンと契約、鳴り物入りでデビュー。 マクドゥーガルはモータウンの宣伝マン時代に、ジャクソン5のシングル、アルバムのプロモーションをしていたため、ジャクソン5、マイケルらとも近い存在だった。そこで、多くの時間を過ごしたので、さまざまなマイケル・ジャクソンらのエピソードを持っている。 そうしたエピソードやモータウン時代の写真を集めた写真集『マイケル・ジャクソン・スクラップブック』を1985年2月にエイヴォン・ブックスから出した。『スリラー』でスーパースターになったマイケルの写真集として売り出され、話題になった。この写真集はその後絶版になり、現在ではアメリカでも、日本でも高値がついている。 ■ 海外の記事 http://www.eurweb.com/?p=60230 http://www.philly.com/philly/obituaries/20101029_Weldon_A__McDougal_III__singer__musical_producer__dies_at_74.html ■ウェルドン・マクドゥーガル著 マイケル・ジャクソン・スクラップブック (中古にとんでもない値段がついています) Michael Jackson Scrapbook: The Early Days of the … Continue reading

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◎深町純キーボードパーティー第119回~主なきパーティー

◎深町純キーボードパーティー第119回~主なきパーティー 【Fukamachi Jun Keyboard Party #119】 追悼。 孤高のピアニスト、深町純さんが2010年11月22日急逝され、27日(土)に予定されていた彼の定例演奏会が、急遽追悼会になった。当日夕方3時すぎ、ツイッターで、イチローさんという方が、僕のブログをお読みになり、映像を持ってきて流していただけないかとつぶやかれた。何度かやりとりをして、急遽、保存している深町映像から10本近くを選んで深町さんの祐天寺のお店「FJ’s」に持っていった。 お店の池田さん、これまでユーストーリームをされていたイチローさんこと鈴木さんと会い、流す映像について話をしたら、そのままそのお話してください、と言われ、結局集まったみなさんの前で深町さんの話と映像の解説をすることになった。 調べてみると、僕は2001年12月からライヴを収録していた。ブログを書き出すのは2002年からだから、それより前だった。ざっと数えて140本くらいあった。その中で、僕の記憶にある印象に残っていたものを選んで、それをお客さんの前で紹介した。 選んだ素材は、次の通り。 M1 2001年12月25日(土)恵比寿アートカフェ・第1部の1曲目。 M2  2007年6月29日(土)第78回、祐天寺FJ’sでの第1回目の1曲目。24分を超える超大作。 M3 2007年4月27日(土)第76回、アートカフェで、急死した深町ライヴの常連のお客さん、ジェームスさんへ捧げて歌った「誕生日」。トーマスさんの英語詩朗読つき。約9分。 M4 2007年10月27日(土)サントリーホール「ブルー・ローズ」での1曲目。約7分半。 この様子は、Ustreem中継され、その模様がアーカイブで残っているので、興味あるかたはどうぞ。 http://www.ustream.tv/recorded/11115523 映像ビデオを見ているところを映して、ユーストしたというのも時代だ。 アートカフェのライヴは、グランド・ピアノなので、今のお店でのCP80とは違う。もう9年前なので、懐かしい。だが、そのピアノのタッチは、今と変わらない。 ビデオなのに、満員のお客さんが、熱心に画面を見つめる。カメラは一台で、たいした動きもないシロートの映像なのでとても恐縮してしまったが、1曲終わるごとに、みなさんから拍手が巻き起こり、僕はそれに感動してしまった。 2曲目は、このFJ’sにおける記念すべき第一回の1曲目の映像。この日は過去118回の中で唯一、1部2部通しでやった日。そこで1曲目を流したが、これが24分もある超大作。終わりそうで終わらない組曲のような作品だ。深町さんは、かつて「(即興演奏も)自分が納得しないとなかなか終われない」と言っていた。それで、ひょっとしたら、こんなに長くなってしまったのかもしれない。 3曲目は、この日のハイライト。深町ピアノ会常連だったジェームス・マクドネルさんが、2006年11月に急逝され、その奥様が2007年4月初めてアートカフェにやってきた。そこで、深町さんが、ジェームスさんが好きだった「誕生日」を彼に捧げて歌った。この日は、同じく常連のトーマスさんの英詩の朗読を間にはさみ、深町さんが歌ったのだが、これが実に感動的で、多くの人の涙を誘った。昨日いらした常連の方からも、「ああ、あった、あった。ジェームス!」という声がかかった。これは、実は僕も何度か見ていて、見るたびに感動してしまう。深町さんが歌い終わったあたりで、一言、「ジェームス!」と声をかけるところが、なんとも言えずに味わい深い。 そのときの詳細↓ 2007年04月29日(日) 夢&歌力 http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20070429.html 4曲目は、2007年10月28日にサントリーホールで行われたコンサートの1曲目。ピアノもスタインウェイ、響きも最高という演奏だ。ビデオについたマイクでも音がいいのだから、現場での音の良さは比較にならない。なお、このサントリー・ブルーローズでの演奏は、僕の友人の撮影チームが5台のカメラで撮影し、音声も、別の機材でデジタル録音している。始まる前に簡単なインタヴューもした。特に編集などはまだされていないのだが、いずれ編集して、みなさんにお披露目できればと思う。 その後、会はしばし歓談ということにあいなった。 このほかに、深町演奏では、彼がボコーダーのようなエレキピアノを弾く「カタストロフィー」、また、一時期、毎月1曲作品を書き、それを楽譜にし、演奏するという企画があり、それらの一連の作品、そのほかに飛び入りでやってきた多くのシンガー、アーティストたちとの即興コラボレーションなどたくさんある。また個人的には、僕の母を恵比寿アートカフェに連れて行き、確か、前月かなにかにリクエストしておいたNHKの「プロジェクトX」のテーマ曲を母のために弾いてくれたことが思い出深い。 今回は特に準備時間もなかったので、さっと思いついただけで、テープを選んできたが、いずれ、また深町さん映像上映会を改めてできればと思う。この日は、深町さんのトーク部分がほとんどなかったので、次回できるときには、おもしろいトーク部分などもお送りできればと思う。FJsの池田さんとも上映会ができればいいですね、という話をしているので、正式に決まったら、改めてご案内いたします。 +++++ 告別式で、配られた紙に僕がサントリーホールでのライヴを前に毎日新聞に書いた文章が掲載された。感謝です。毎日新聞のウェッブ・リンクが切れているので、ここにその文章を再掲します。 2007年10月25日付け、毎日新聞夕刊・「楽庫」掲載 二度と同じ演奏はない即興演奏ライヴ  即興演奏。 それは事前に用意された楽譜などない。リハーサルもない。こういうメロディー、コード進行でという決まりもない。その瞬間に演奏家にひらめいたものが、頭から神経を経て指先に伝わり、その指先がいくつかのキーを弾く。そして、弾かれた鍵盤がピアノの弦を打ち、音をだす。深町純はその即興演奏を行う。それが時にメロディアスに、力強く、あるいは繊細に、しっとりと、あるいはグルーヴ感あふれる。ジャズでもなければクラシックでもない。それは『深町純』というジャンル。  即興演奏の魔術師、深町純は言う。「即興演奏が主流だった時代がある。モーツァルトなんかいろいろやっていたんだと思う。録音機材がないので、どんなものか(今となっては)わからない。でも彼らが今もし生きていたら、きっと即興演奏をふんだんにやっているだろうと思う。残念ながら最近では即興演奏は廃れて誰もやる人がいなくなった。それはたぶん、音楽が録音されるようになり、商業になったからだと思う」 … Continue reading

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●ピアニスト 深町純さん急死 (パート2)~これまでに書いたもの一覧

●ピアニスト 深町純さん急死 (パート2) 【World Greatest Improvisational Pianist Fukamachi Jun Dies At 64 (Part 2)】 (深町純さん、訃報昨日からの続き) 奇跡。 2007年10月27日、東京六本木のサントリー・ホール、「ブルー・ローズ」で、ソロ即興会が行われた。ふだんの会場とはまったく違うピアノの響きを贅沢に聴かせた。 これは、友人の映像制作チームに頼んでカメラ6台で撮影・収録した。ただ、編集はそのままになっていて未完成だ。これには、心底感動した。ほとんどおしゃべりもなく、ひたすらピアノ演奏で、しかもいいピアノ、いい音、いい会場。あれは、またやってほしかった。 2007年10月29日(月) 【ブルー・ローズに起こる奇跡】 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10053197313.html 今、このブログを読み返すだけで、あのときのあの瞬間が蘇る。もう一度、あそこで見たかった。 そういえば、深町さんを知る誰もが度肝を抜かれた結婚パーティーもビデオに撮って渡した。 2008年05月13日(火) 深町純・布美子さん結婚パーティー http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10096364751.html +++++ ツイッター。 深町さんは、2010年8月23日からツイッターを始めた。そこに掲げられた自己紹介が、いかしている。 「自己紹介 気取り屋、見栄っ張り、減らず口、怠け者、意地っ張り、酔っぱらい。」 まさにその通りだった。 何度かツイッター上でもやりとりをした。僕のツイートにけっこう反応していただいた。ヤマハ渋谷店がなくなること、メロディーハウスのこと、そして、とあるギタリストのこと。すべて、そのまま残っています。 https://twitter.com/cisum0521 +++++ ライヴ評。 定例会は、2001年の2月、2回目から通った。僕がこの「ソウル・サーチン」のウェッブ、日記(のちに現在のブログ)を始めたのが2002年6月。初期の頃は、毎回書いているということではなかった。2005年7月から現在の形のセットリストがスタートした。僕は100回目を見た後、もう一度くらい見ているはずだが、ブログがちょっと見当たらない。 だが、当ブログは、過去10年で日本で一番彼について書いたブログである。それはとりもなおさず、彼と同様、かなり変わった物好きブログということになる。 これまでに深町さんについて書いたものを一挙にご紹介する。大変な量だが、興味のある方は、ゆっくりごらんください。これらを読むと深町さんの人となり、考え方などが、ひじょうによくわかると思う。 過去定例会ライヴ評(一部)(並べ方は、2009年4月の100回目から、2008年1月まで新しい順。その後2003年から古い順です) 2009年04月27日(月) 深町純キーボード・ライヴ月例定例会第100回~日本の音楽を探し求めて~ … Continue reading

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●ピアニスト深町純氏急死

●ピアニスト深町純氏急死 【World Greatest Improvisational Pianist Fukamachi Jun Dies At 64】 訃報。 日本のピアニストの第一人者、深町純氏が、2010年11月22日、自宅で亡くなった。64歳だった。22日夜、自宅で倒れそのまま亡くなった。心臓疾患、正確には大動脈解離による心嚢血腫(しんのうけっしゅ)が死因。今週土曜日(11月27日)、月一定例のピアノ即興演奏会を行うことになっていた。 深町純氏の告別式は、2010年11月26日(金)13時から、目白教会(新宿区下落合3-14-25)で行われる。 +++++ 孤高。 深町純氏は、1946年(昭和21年)5月21日東京生まれ。東京芸術大学卒業直前に退学。1971年、歌の入った『ある若者の肖像』でデビュー。しかし、その後はピアニストとしてスタジオ、ライヴなどで活躍した。1973年の井上陽水の『氷の世界』など多数。1970年代から、当時はまだ新しかったシンセサイザーを使いこなし、さまざまな実験的挑戦を行った。1970年代には、邦楽のアレンジなどもこなし、同時にフュージョンも演奏し人気を集めた。特にニューヨーク・オールスターズなどは人気を集めた。また、スリー・ディグリーズが日本で録音した作品のアレンジなども担当。日本の音楽業界でもっとも売れっ子のピアニスト、キーボード奏者、アレンジャーになった。 1989年、洗足学園大学音楽学部教授に就任。ここに日本で初めてのシンセサイザー科を設立、学生にシンセの魅力などを教えた。しかし、1996年5月、覚せい剤で逮捕、活動が一時停止。2001年1月から恵比寿のアートカフェで、自身がやりたかったすべて即興ソロ演奏の会を開催して復活。これは毎月最終土曜に行われ、2007年6月の第78回からは場所を祐天寺の深町氏の店「FJ’s」に移し続行。2009年4月、記念すべき第100回が行われ、2010年10月末で118回を数えた。11月27日は119回が行われるはずだった。2004年、ニューヨーク・オールスターズでイヴェントに登場。 深町氏は業界内でつるむこともなく、職業演奏家としての仕事も完璧にこなしながら、自身の音楽を作るときには比較的一般的な商業音楽に背を向け、独自の道を歩んできた。そのため孤高のピアニストというイメージがある。 深町純・オフィシャルサイト http://www.bekkoame.ne.jp/~cisum/ 深町氏がオウナーのライヴハウス「FJ’s」のサイト http://fjs.fukamachi-jun.com/ 2010年8月から自身のライヴをUストリームで配信するようになった。2010年10月30日、最後となってしまったキーボードパーティー、第一部。 http://www.ustream.tv/recorded/10517739 2010年10月30日、キーボードパーティー第二部。 http://www.ustream.tv/recorded/10520414 +++++ 情熱。 癒し、情熱、怨念、怒り、愛、安らぎ、孤独、幸福そうしたものがすべて10本の指から爪弾かれるのが、深町さんのピアノだ。ここまでミュージシャン力のあるミュージシャンを知らない。ここまで言葉を演奏に変えられ、演奏を映像にしてしまうピアニストは、なかなかいない。 僕は彼の音楽がもっともっと多くの人にたどり着けばいいと思っているが、なかなかそこまでいかない。ありていに言えば、世間が彼にまだおいついていないということなのだろう。 彼のサイトの下のほうに「私は戦争する全ての国を、軽蔑し、憐れみ、悲しみます」と書かれている。奇しくも北朝鮮が戦争を始めようとしている同じ日に深町さんの訃報が伝わるというのも、何かの縁かもしれない。 2008年7月の定例会で、彼はこんなことを言っていた。 「夢というのは、叶うかどうかはどうでもいい。(夢は)見ることが大切だと僕は思います。それは人生の目標と同じだと思うんです。(客席に向かって) みんなはどういう人生が素晴らしい人生だと思う? 僕が信じていることはひとつです。死ぬ間際に、『僕の人生は素晴らしい人生だった』と思えれば、それが『素晴らしい人生だ』と思う。で、そのためにどうすればいいかというと、これがわからないんですけど、僕にとってもっとも大切なことは、『夢をみること』です。(夢が)叶うこと、叶えることじゃない。(客席から拍手) 夢なんて叶わないんですよ。でも、ある目標、目的を持って生きることはとても大切です」 彼は昨日の夜、「僕の人生は素晴らしい人生だった」と言えただろうか。言えたと僕は信じている。 +++++ 思い出。 23日午前、最近あまり連絡がないフォトグラファーから着歴が残っていた。それからPCでツイッターを見ていたら、深町純急死のタイムラインがいくつかでてきて、あちこちに確認して時間がかかった。で、一段落してその着歴を見返して、ピンときて、「ひょっとして」と思って折り返すと、案の定、深町さんのことを伝える電話だった。そういえば、その写真家を深町さんに紹介したのが僕だった。 深町さんとよく話をさせていただくようになったのは、彼が恵比寿のアートカフェで月一定例会を開くようになってから。当時深町さんのCDを出していたポニーキャニオンの高橋祐二さん(元CBSソニー)から誘われて、行った。2001年2月最終土曜日の第二回目だった。すべて即興というピアノ演奏に衝撃を受けて、以来、毎月最終土曜日に通うようになった。ずいぶん、多くの知り合いを連れて行った。 全部即興だから、同じ演奏は二度とない。今、聴けたものはもう二度と聴けない。これがじつにもったいなく感じ、本人の了承を得て途中からビデオで録画するようになった。それを毎回コピーして、翌月に彼に渡すのが習慣になった。ライヴレヴューは毎回、ブログに詳細に書いた。全曲即興だから、事前のセットリストなどあるわけがない。演奏後もタイトルさえない。セットリスト命の僕としては、どうしたらいいか考えた。そこで、記録の意味でその曲が始まった時刻をタイトルとしたのだ。便宜上のものだった。 録音撮影についても、まったくオープンな方で、録音撮影自由、撮ったものはご自由に好き勝手にお使いください、という考えだった。最初からコピーレフトの人だった。著作権フリーだ。 … Continue reading

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●ジェネラル・ジョンソン(チェアメン・オブ・ザ・ボード)死去

●ジェネラル・ジョンソン(チェアメン・オブ・ザ・ボード)死去 【General Johnson Dies At 69: Lead Singer Of Chairmen Of The Board】 訃報。 デトロイトのホット・ワックス/インヴィクタス・レーベルを拠点に活躍したソウル・グループ、チェアメン・オブ・ザ・ボードのソングライターでリード・シンガーだったジェネラル・ジョンソンが2010年10月13日、アトランタ郊外で死去した。69歳だった。この2月にひざの手術をし、また、肺がんを患っていた。息子のノーマン・ジョンソンが明らかにした。 チェアメン・オブ・ザ・ボードは、1970年1月、「ギヴ・ミー・ジャスト・ア・リトル・モア・タイム」(ソウル・チャートで8位、ポップで3位=ゴールド・ディスクを獲得)というパンチのあるR&B曲が初ヒットとなり、人気グループとなった。 これは、デトロイトで長くモータウン・レコードのスタッフ・ソングライターとして活躍していたソングライター・プロデューサー・チーム、ホランド・ドジャー・ホランドが1968年にモータウンから独立して自ら興したレーベル、ホット・ワックス/インヴィクタス・レコードから出たもので、同レーベルからは、このチェアメンのほか、ハニー・コーン、ローラ・リー、フレダ・ペイン、100(ワンハンドレッド)プルーフ、パーラメント(一枚目のアルバム)などをリリース、一時期隆盛を極めた。 ジェネラル・ノーマン・ジョンソンは1941年5月23日ヴァージニア州ノーフォーク生まれ。(1943年生まれ説もあるが、41年説が正しいようだ) 6歳のころから父について教会で歌い始めた。初めてギャラを手にしたライヴは、ルース・ブラウンの前座だったという。12歳のときにアトランティック・レコードでハムディンガーズ(Humdingers)名義でドゥーワップ的なデモをレコーディングしたが、リリースはされなかった。その後、1961年、グループ名をショーメン(The Showmen)と変え、ミニット・レーベルから「イット・ウィル・スタンド」をリリース。これがポップ・チャートで61位を記録するヒットに。これは1964年にも再ヒット。80位を記録。ショーメンは1968年に解散。 1965年ころ、フィラデルフィアのスワン・レコードで仕事をしていたこともあり、それまで仲間からはミドルネームの「ノーマン」と呼ばれていたが、スワンのイタリア人の上司が、「ノーマンより、ジェネラルのほうが売れる名前だ」と言って、ジェネラル・ジョンソンがステージネームになった、という。先の「イット・ウィル・スタンド」がなぜかデトロイトではナンバーワンになるローカル・ヒットになり、そこでホランド・ドジャー・ホランドたちも彼のことを知ることになる。 その後、本拠をデトロイトに移し、チェアメン・オブ・ザ・ボードを結成。ホランド・ドジャー・ホランドが始めたホット・ワックス/インヴィクタス入り。「ギヴ・ミー・ジャスト・ア・リトル・モア・タイム」のヒットを皮切りに、「ペイ・トゥ・ザ・パイパー」「ファインダーズ・キーパーズ」などの大ヒットを放った。(なお、アーティスト表記は、基本はチェアメンだが、ものによってチェアマンとなっているものがあり混在している) ジェネラル・ジョンソンは、チェアメンのリード・シンガーとしてソウルフルな歌を聴かせると同時に、ホット・ワックス/インヴィクタスの他のアーティストにも楽曲を提供、ハニー・コーンの大ヒット「ウォント・アッズ」、「ステック・アップ」、フレダ・ペインの「ブリング・ザ・ボーイズ・ホーム」などもジョンソンが書いている。また、チェアメンで録音した「パッチェス」を、盲目のソウル・シンガー、クラレンス・カーターがカヴァーし、大ヒットさせグラミー賞も受賞した。 1976年、ソロになり、アリスタへ移籍。ソロ・アルバムをリリース、中ヒットとなった。1979年、ジョンソンはアトランタに引越し。1980年代に入ってから、生まれ故郷のヴァージニア州で流行りだしたいわゆる「ビーチ・ミュージック」をやりだすようになり、それなりに話題になっていた。最近はジョージア州アトランタ郊外イースト・ポイントに住んでいた。「ビーチ・ミュージック」は、東部キャロライナ州近辺のビーチで人気のサウンドで、彼らの「キャロライナ・ガール」などが毎夏になるとヒットしている、という。 2007年4月、地元ノーフォークで、「ノーフォーク・レジェンズ・オブ・ミュージック・ウォーク・オブ・フェイム」を受けた。いわゆる有名人歩道に名前が記された。このとき、同時に受賞したのは、ブルース・スプリングスティーン・バンドのメンバー、クラレンス・クレモンズ。 葬儀は2010年10月19日午後7時から9時までアトランタで。メモリアルは翌日午後2時から。48年連れ添った妻ジュリア・ジョンソンと2人の息子(アントニオとノーマン)と娘(ソニヤ)によって送られる。 Visitation: Tuesday, Oct 19th 2010 7Pm-9Pm The Association of Black Cardiologist 5355 Hunter Rd. Atlanta, … Continue reading

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●ソロモン・バーク急死~LAからアムステルダムへ向かう機中で死去か

●ソロモン・バーク急死~LAからアムステルダムへ向かう機中で死去か 【Solomon Burke Dies At Netherlands】 訃報。 「キング・ソロモン」の愛称で知られるソウル、R&Bシンガー、ソロモン・バークが、2010年10月10日、オランダ・スキポール空港で死去が確認された。バークは、同日ロスアンジェルスからアムステルダムへ向かう機中で心臓発作になったとの報道もある。亡くなったのが機中か空港かは未確認。死因などはまだ発表されていない。70歳だった。 バークは10月12日にアムステルダムの「パラディソ」で同地のロックバンド、デ・ダイク(De Dijk)とライヴを行うことになっており、そのためにアムステルダムへ向かっていた。バークはデ・ダイクと『ホールド・オン・タイト』というアルバムを共にレコーディングしており、そのリリース記念のライヴになるはずだった。 バークは21人の子供、90人の孫、19人のひ孫らによって送られる。 ソロモン・バークは1940年3月21日フィラデルフィア生まれ。(1936年生まれと記した資料もあるが、本人の公式サイトでは1940年生まれ) 子供のころから説教がうまく、教会で天才説教師として注目を集めた。1955年シンガーとしてインディと契約、その後、1960年アトランティック入り。ここで、「ジャスト・アウト・オブ・リーチ」が大ヒットして注目されるようになる。その後「ダウン・イン・ザ・ヴァレー」がオーティス・レディングにカヴァーされたり、「エヴリバディー・ニーズ・サムバディー」は、ローリング・ストーンズ、ブルーズ・ブラザーズなどにカヴァーされ多くの人に知られるようになった。 1965年にヒットした「ガット・トゥ・ゲット・ユー・オフ・マイ・マインド」がソウル・チャートで1位になっている。 1968年、仲間のアーサー・コンレイ、盲目のシンガー、ドン・コヴェイ、ベンEキング、ジョー・テックスとともに「ソウル・クラン」というワンショット的なユニットを結成、シングル「ソウル・ミーティング」をヒットさせる。 また、1962年のヒット「クライ・トゥ・ミー」が映画『ダーティー・ダンシング』(1987年)に使われたことも彼の名前を再浮上させることになった。 多数のヒットとともに1960年代をかけ抜けたが、一時期ヒットがでなかったものの、2001年には、ロックン・ロール殿堂入り。2000年代に入り、若手とのコラボレーションを盛んに行い、積極的にアルバムを制作、リリースするようになった。2002年ジョー・ヘンリーがプロデュースした『ドント・ギヴ・アポン・ミー』が翌年グラミー賞を獲得。これで人気が再沸騰。2008年の『ライク・ア・ファイア』には、エリック・クラプトン、ベン・ハーパー、ジェシー・ハリス、ケブ・モーなどが楽曲を提供。2009年1月、メンフィスでウィリー・ミッチェル・プロデュースによる『ナッシングス・ポッシブル』を録音。これを完成させた翌年2010年1月5日、ウィリー・ミッチェルが死去。葬儀にバークは、ロスからメンフィスまで車でかけつけた。アルバムは4月に全米リリースされた。 バークは、2010年5月、『ジャパン・ブルーズ&ソウル・フェスティヴァル』出演のため初来日。日本のファンを大いにわかせた。結局、初来日が最後の唯一の来日となってしまった。(ライヴ評などは過去関連記事参照) その後、夏にヨーロッパ・ツアーを敢行した後、バークはオランダのロックバンド、デ・ダイクとともに13曲入りのアルバム『ホールド・オン・タイト』を完成させ、10月にはオランダなどでリリース予定だった。 元々教会で説教をしながら、歌っていたことから、迫力ある歌唱を聴かせ、ゴスペル・シンガーとしても活動していた。堂々とした風格、面倒見のいい性格などから多くの人から慕われていた。 ニュース記事 http://www.foxnews.com/world/2010/10/10/solomon-burke-dies-amsterdam-airport/ +++++ □ クエストラヴがプロデュースの予定か クエストラヴ。 ソロモン・バーク死去の第一報は、例によってツイッターによって知った。今回は、ルーツのクエストラヴの10月10日日本時間17時53分のツイートだった。さっそくいろいろ調べてみると、すでにAP通信が記事を配信、またウィキペディアにも死亡が書かれていた。すると、またたくまに情報が集まってきた。すでに大手メディアもこの情報を流している。 クエストラヴのツイート。 damn. just heard Solomon Burke passed away in The Netherlands. Was about to work … Continue reading

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●ディック・グリフィー死去~ソーラー・レコードの生みの親

●ディック・グリフィー死去~ソーラー・レコードの生みの親 【Dick Griffey Dies At 71】 訃報。 1977年に設立された「ソーラー・レコード」の創始者で、音楽業界のヴェテランであるディック・グリフィーが2010年9月24日(金)午後2時半ロスアンジェルス(現地時間)で死去した。71歳だった。長く病気を患っており、心臓のバイパス手術をした後の合併症で死去した。EURwebなど複数のウェッブが報じている。 http://www.eurweb.com/?p=53392 http://www.prlog.org/10955408-entrepreneur-humanitarian-and-black-music-legend-dick-griffey-dies.html ディック・グリフィーは本名リチャード・グリフィー。(ディックはリチャードの愛称) 1938年11月16日、テネシー州ナッシュヴィル生まれ。1960年代後期からロスアンジェルスのクラブでブラック・アーティストのブッキングなどをてがけるようになった。その腕を買われ、シカゴで1971年に始まったテレビ番組『ソウル・トレイン』のアーティスト出演交渉を任されるようになり、同番組のタレント・コーディネーターに。ここで多くのアーティストと接点を持つことになり、番組『ソウル・トレイン』も大ヒット。ブッキングの仕事は徐々に大きくなり、スティーヴィー・ワンダー、ジャクソンズなどのビッグなアーティストのワールドツアーなどもてがけるようになった。 1975年、同番組の司会者、ドン・コーネリアス(1936年9月27日生まれ=ドンより2歳年下ということになる)とともにソウル・トレイン・レコードをスタートさせる。 当初は、ソウル・トレイン・ダンサーズ、シャラマーなどが在籍していた。途中からドン・コーネリアスが番組に専念するために、レーベルの株をグリフィーに売り、グリフィーは単独のオウナーに。それを機にレーベル名を「ソーラー・レコードSOLAR」に変えた。これは、Sound Of Los Angeles Records の頭文字をとったもの。1977年のことだった。 ソーラーは1980年代に入ってウイスパーズ、シャラマー、キャリー・ルーカス、ダイナスティー、クライマックス、レイクサイド、ミッドナイト・スター、さらに、キャロウェイ、ディールなどでヒットを飛ばし、一大ブラック・レーベルへ成長。グリフィーは1960年代に成功を収めたモータウンのやり方を踏襲し、自身のグループ内でアーティストをプロデュースするシステム(自給自足のシステム)を作り上げ、プロデューサーとしてもまだ無名だったシルヴァーズからリオン・シルヴァーズ、ディールからベイビーフェイス、LAリード、キャロウェイからキャロウェイ兄弟などにチャンスを与え、ヒットメイカーとして育て上げた。ディック・グリフィーはまた、当時まだ無名だった若手プロデューサー・チーム、ジミー・ジャム&テリー・ルイスにも最初のチャンスを与えている。 1980年代には多くのヒットを生み出し、黒人所有のレコード会社としてはモータウン・レコードにつぐ第二位の売り上げを誇るビッグ・レーベルとなった。ソーラーは、当初はRCA、続いてエレクトラ、キャピトル、ソニーと配給元が変わった。 リオン・シルヴァーズを軸に作り出したいわゆる「ソーラー・サウンド」は、1980年代のブラック・ミュージック・シーンで大きな存在となった。これらのサウンドは日本でもブラコン(ブラック・コンテンポラリー)のサウンドとして、今でも人気が高い。 葬儀は近親者ですませ、その後お別れの会を開く。妻はキャリー・ルーカス・グリフィー。「ダンス・ウィズ・ミー」などのヒットを放ったキャリー・ルーカス。2人の息子と2人の娘、5人の孫がいる。ほかに養子の息子も1人。 ソーラー・ギャラクシー・オブ・スターズ ソーラー・ギャラクシー・オブ・スター・ライヴ posted with amazlet at 10.09.27 株式会社ソニー・ミュージックレコーズ (1990-10-21) Amazon.co.jp で詳細を見る ソウル・トレインDVD 通販限定!THE BEST OF SoulTrain(ザ・ベスト・オブ・ソウルトレイン) DVD-BOX posted with … Continue reading

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●ロバート・ウィルソン(ギャップ・バンド)53歳で死去

●ロバート・ウィルソン(ギャップ・バンド)53歳で死去 【Robert Wilson Of Gap Band Dies At 53】 訃報。 ファンク・バンドとして名高いギャップ・バンドのベース奏者、ロバート・ウィルソンが2010年8月15日(日曜)、カリフォルニアの自宅で死去しているところを発見された。53歳だった。心臓発作で死去した模様。 ロバートは、ギャップ・バンドを構成するウィルソン3兄弟の末っ子。上から順に、ロニー、チャーリー(1953年1月29日生まれ)に続く3男で1956年12月生まれ。リード・シンガー、チャーリーは現在主にソロとして活動。ロバートはギャップ・バンドのベース担当として活動していた。 ウィルソン兄弟は、オクラホマ州タルサ生まれ。父親は同地で教会の牧師。3人の子供たちはそこで厳格に育てられ、ゴスペルの洗礼を受けた。そして、この3兄弟によって、1967年ごろ、グループが結成された。当初はウィルソン兄弟、さらに、グリーンウッド・アーチャー・パイン・バンドと名乗って活動を始めた。このグループ名は地元タルサにある3つのストリートの名前を取ったもの。さらにこれではグループ名が長すぎるということで、3つの単語の頭文字を取ってGAPバンドとした。 1972年、同じタルサ出身の先輩ミュージシャンでもあるリオン・ラッセルが設立したシェルター・レコードからアルバム・デビュー。その後、タトゥー・レコードを経て、1978年、ロスの有力プロデューサー、ロニー・シモンズの力を得てマーキュリーと契約。「シェイク」が1979年3月からヒットし、ブレイク。以後、「バーン・ラバー」、「アーリー・イン・ザ・モーニング」、「ユー・ドロップド・ア・ボム・オン・ミー」、「アウトスタンディング」など多数のファンクヒットを輩出。しかし、彼らをマネージしていたロニー・シモンズと折り合いが悪くなり、1989年、キャピトルに移籍。その後、インディでアルバムをリリースしていた。また、途中、リード・シンガーのチャーリー・ウィルソンが1992年、MCAからソロ・デビュー。現在でも活躍を続けている。 ギャップ・バンドの作品は、ファンク作品として多くのヒップ・ホップ系アーティストからサンプリングされている。「アウトスタンディング」は、アシャンティ、ブラックストリート、Rケリー、ソウル・フォー・リアルなど多数に、「イエーニング・フォー・ラヴ」も、ア・ドライブ・コールド・クエスト、ヘヴィーD、NASなどにサンプリングされている。 ギャップ・バンドは、1970年代に横浜のディスコに出演のため来日、1990年7月汐留パックスシアター、1994年横浜、1995年日比谷野外音楽堂(『レッツ・グルーヴ』)と来日している。このほかに、リード・シンガーのチャーリー・ウィルソンがソロとして、2007年4月コットン・クラブ、2008年8月ビルボードライブに来日している。 2010年8月28日にギャップ・バンドは、ローズボール・イヴェント・センターでライヴ出演する予定だったが、予定通り出演し、ロバートへ捧げるショーとなる予定。 タルサ・ワールド紙 http://www.tulsaworld.com/scene/article.aspx?subjectid=269&articleid=20100816_269_A12_CUTLIN206688 ■過去関連記事 2007年04月25日(水) 熱圧 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10031781901.html 2008年08月06日(水) チャーリー・ウィルソン 93分、汗だくファンクの真髄 http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10124112035.html ■ ギャップバンド ベストオブ Best of posted with amazlet at 10.08.16 Gap Band Island / Mercury … Continue reading

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