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■ピーボ・ブライソン(パート2)~テディーとマイケルを語る

■ピーボ・ブライソン(パート2)~テディーとマイケルを語る (2010年1月31日付けブログの続き) 【Peabo Bryson Talks About Teddy & Michael】 雄弁。 (遅くなりました。ピーボ・ブライソン、続きです) もう楽屋には、レジーナ・ベルはいなかった。レジーナに「イフ・アイ・クド」が素晴らしく、感動したことを伝えたかったが、かなわなかった。出番が終わるとすぐに帰ってしまうらしい。一方、ピーボは何人かのゲストと話をしたあとだった。 ピーボは、実に雄弁だ。前回来日のときも、正式にインタヴューしたときも、話はノンストップ。しかもいろいろなことに一家言(いっかげん)を持つ。ステージで少し触れた故テディー・ペンダーグラスと故マイケル・ジャクソンについても、いろいろ話をしてくれた。 「誰と限らず、僕は人々を懐かしむ。そんな中でも、テディー(・ペンダーグラス)や、マイケル(・ジャクソン)は大物だった。人種問題でのリーダーであり、あらゆる分野の論点について議論をした。特にテディーとは、あらゆることでディベートしたものだ。彼は考える男だった。君はこう考えるが、僕はこう考える、とかね」 「テディーとは一緒にツアーに回ったことがある。僕が前座というか、彼が後から歌うね。2000何年かのアニヴァーサリーのときにも一緒に歌ったよ」 「テディーとは、最近読んだ本について、話たりしたな。哲学について議論を戦わせたものだ。彼もいろいろ物知りでね。この本を読んだか、あの本読んだか、とか本の情報を交換したり。いわゆる『ニュー・ワールド・オーダー(新世界秩序)』とは何かを議論したり。誰がこの世界を支配しているのか、とか。ドストエフスキーはアスホール(くそったれ)だ、とか。(笑) そんな話が延々と続くんだよ」 ニュースではリタイアが伝えられていたが、「テディーはリタイアしていたのだろうか」と尋ねた。「そうだね、彼は、リタイアしたと言っていたな。実は、僕もそのことを彼に聞いたことがある。でも、彼は歌うことは大好きなんだ、どこでもね、いつでもね。本当はいつでも歌いたい。だけど、彼は旅が大嫌いなんだよ。だから、ツアーには出ないわけだ」 「最後に彼と話したときは、3時間以上も話をしたよ。とても興味深い人物であり、本当によくしゃべる男だよ」 テディーは1950年生まれ、ピーボは1951年生まれ。ほぼ同世代。1972年からテディーは、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツのリード・シンガーとして人気を集める。そして、ソロになり、ヒットを出すのが1977年。ソウルのスター街道を先に歩んだのがテディーだ。一方、ピーボがアトランタのインディから小ヒットを出すのが、1976年。1977年にメジャーのキャピトルに移籍してからは飛ぶ鳥をも落とす勢いとなる。まさに1970年代から1980年代にソウル・ミュージック・シーンを席巻した2人だ。 ピーボにはマイケルについても、思い出があった。 「マイケル・ジャクソンは、ずっと僕をリスペクトしていてくれたみたいなんだ。たとえば、2人が同じ部屋にいて僕のことを見つけると、いつも彼の方からやってきて僕に何かを言ってくれた。僕のほうから彼のほうに行ったことはないなあ。いつも彼が来てくれる」 「マイケルに初めて会ったのは、僕が初めて出たイメージ・アワードの授賞式のときだった。たぶん、1979年くらいじゃないかな」 「あの葬儀には行ったのですか?」と僕は尋ねた。するとピーボはきっぱりと言った。「あれは、サーカスだ。僕は彼をとてもリスペクトしているので、あれには参加できないね。僕は、あの葬儀の中にいるところを、人には見られたくないな。あそこに出た多くの人たちは、(みんなに)見られたいんだよ。(そこに参加することで)世界に向けてマイケルが好きだと言っているところを、見てもらいたいんだ。僕は、いやだね。もちろん、彼が逝ってしまい、もう新しい音楽を作ることができないわけだから、本当に悲しいことだよ」 「マイケルが成し遂げてきたことは素晴らしく、彼は『ジ・モースト・アメージング・パフォーマーThe most amazing performer』(唯一の素晴らしき驚異的なパフォーマー)だ。サミー・デイヴィスがかつては『ワールド・グレイテスト・パフォーマー』だった。無限の可能性を秘めていた。マイケルは、それを超えていたと思う。ステージでは、あらゆる曲、どの曲にも(大規模な)プロダクション(ステージなどの仕掛け)がついているだろう。あれをやるには、本当にたくさんの仕事をしなければならない。裏方を含めてやるほうは大変だ。いやいや、僕にはできない。(笑)」 ピーボは、この話の日以降のステージで、ギター1本でテディーの「ウェイク・アップ・エヴリバディー」やマイケルの「ヒューマン・ネイチャー」を即興でちらっと歌ったそうだ。うらやましい。その前にどんな話をして、それらを歌ったのか、聞いてみたい。 ピーボから、テディーやマイケルの話が聞けたのは嬉しかった。 回数も数えられないほどの来日履歴を誇るピーボだけに、日本のミュージシャン友人も多い。数多くのミュージシャンたちが、ピーボのステージを見に訪れている。そうそう、今回も、彼は「フィール・ザ・ファイアー」を歌ってくれなかった。テディーもステファニー・ミルズと歌っていたっけ。次に来日する前に、リマインドのメールを送っておかないと…。(笑) (テディー・ペンダーグラスのフィリーからの3枚目以降6枚目までが、近々紙ジャケットで再発売されます。1-2枚目は既発。詳細はまた後日) ■ 過去関連記事一覧↓ http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100131.html ■ ピーボ・ブライソン (現在のところ最新作) ミッシング・ユー posted with amazlet … Continue reading

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△トニー&アマンダ・メイデン(ルーファス)、『ソウルブレンズ』に登場

△ トニー&アマンダ・メイデン(ルーファス)、『ソウルブレンズ』に登場 (ライヴに関してはネタばれになります。これからごらんになる方はご注意ください) 【Tony & Amanda Talks: On “Soul Blends”】 ゲスト。 12時にホテルにトニーとアマンダご一行を迎えに行き、インターFMのスタジオにお連れした。ギターとスタジオの卓をつなぐラインの接続が、エンジニアがいないためはかどらず。実は、この日からあたらしいスタジオに移動したので、今までのスタジオと使い勝手がちょっと違ったのだ。オンエア開始までに、トニーのギターの音がラインで出せず、このままだとギター・プレイはなしに。 トニー・メイデンは、ルーファスの現在の実質的なリーダー。アマンダは、今年24歳のトニーの娘だ。ゲストコーナーは13時半から。その前にオッシーがルーファスの「トゥナイト・ウィ・ラヴ」をかけている。ちょうどそのときスタジオに入ると、トニーがこの曲にあわせて、早くもギターを弾いている。実にかっこいい。そうこうするうちに、スタッフがラインをトニーのギターにつなぐと、音がスピーカーから出てきた。これで、トニーのギターとアマンダの歌でライヴができる。 曲が終わり、マーヴィンがトニーたちを軽快な調子で紹介。そして、アマンダの生歌で「スイート・シング」を。トニーがゆったりとしたギターのリフを弾き、アマンダが歌いだす。ギター1本に歌声だけという超シンプルなアコースティック・セットなので、ストレートにアマンダの歌が心に届く。1コーラスだけだったが、スタジオ中、大感激。「初めてシャカとスタジオでやったときが、こんな感じだったよ」とトニー。マーヴィン「アマンダ、ワオ、ワオ、マン!!」と大感激。「彼女が歌うときはいつも鳥肌もんだよ」とトニーが付け加える。「彼女(シャカ)は、ベストフレンドで、子供の頃から、歌をいろいろ教えてくれたから」とアマンダ。 「ファミリー・ビジネスも素晴らしいが、ところで、スライと仕事をするきっかけは?」とマーヴィンが訊く。トニー。「えーと、ロスアンジェルスのスシ・バーで話したんだ。(笑) 僕たち(ルーファス)は、ブルーノートの20周年でおととし(2008年11月)来日して、好評だったんだ。それでまた来てくれと言われ、そのときスライを誘ったんだ。実は、スライのことは、(今回のヴォーカルの1人)ヴァル・ヤングから聞いていてね。30年以上前には知ってることは知ってたんだけどね。ヴァルからスライの電話番号を聞いてかけてみた。スライはどうせ電話にでないと思ったんだが、出たんだ。彼と話すのは31年ぶりだったよ。で、いろんな昔話をして、もりあがって、『これをやろう』『あれをやろう』ってことになったんだ。彼はほんとに素晴らしい男だよ。僕たちはお互い素晴らしいグルーヴのことを知っている。とてもエキサイティングだよ。そして、素晴らしいクリエイティヴィティーが、毎晩起こっている。彼はいつも何か新しいことを持ち出してくる。(笑)」 そして、彼ら持参の必殺音源は、LAで先週行われたリハの一部。ここではスライが参加した「サンキュー」のリハの模様を、オンエアー。これが実にかっこよく、スライがトニーたちに何か面白いことを言ってる。いい雰囲気で、リハが進んでいる様子が出ている。 最初の生歌がよかったので、急遽2人にもう1曲歌ってもらうことにする。そこで出てきたのが、「ユア・スマイル」。アマンダは、この曲をけっこう気に入っているようだ。1974年の『ラッグス・トゥ・ルーファス』収録曲。これを聴いたマーヴィンは感激して、「いつ、ソロになるの?」 「パパがやらせてくれるなら、いつでも(笑)」。 マーヴィンがアマンダに「ルーファスの曲で好きな曲は」と訊くと、「ユー・ガット・ザ・ラヴ」と即座に答え、こう語った。「これは私の究極の(ルーファスの)フェヴァリット・ソングよ。ステージでは、私がこの曲をロック大全開で歌うのを見ることができるわ。この曲はみんなシャカの曲の中で一番難しい曲って言うけれど、私はそうは思わないの。昔、彼女(シャカ)が教えてくれ、父も(歌い方を)教えてくれ、この一番難しい曲を一生懸命練習してマスターした」 そして、予定時間を少し越え、時報をまたいで、最後の挨拶をしてもらって、お別れの曲を。最後の曲は、本編ライヴでもアンコールになっている曲「エイント・ノー・バーディー」。 ゲスト出演が終わり、エレヴェーターに戻るときにトニーが「実は、生放送のゲストはあんまり得意じゃなかったんだけど、今日のはとても楽しかった。よかったよ。サンキュー」と言ったのには驚いた。サングラスが彼のシャイさを出しているのかとも思ったが、ちーちゃんが、「シャイなのが、ギターを持つと少し隠れるんじゃないかしら。サングラスとギターで、シャイさを隠してるのかも」と言ったのは、かなり当たっていると思った。一方、アマンダは、オープンで気さくでよくしゃべる感じだ。 トニーは、自分が誰かのサポートでギターを弾くときと、このルーファスでやるときとはギターを弾くハードさがだいぶ違うという。もちろん曲でのギターを弾く量も圧倒的に多いからだが、「ステージの上では、全然、ギターを弾いていても痛いとか、大変とか思ったりしたことはない。だけど、ライヴが終わったら指が痛くなるんで、すぐに暖かいお湯に指をつけるんだ」と言う。 Setlist: On “Soul Blends” January 17, 2010 on Inter-FM, 76.1mhz 13:25-14:10 Guests: Tony Maiden / Amanda Maiden 01. Tonight … Continue reading

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■アシュフォード&シンプソン(パート3):インタヴュー:モータウンでは「スピード」が必要だ

■アシュフォード&シンプソン(パート3):インタヴュー (昨日からの続き) 【Ashford & Simpson: Said “Speed Is Important At Motown”】 スピード。 モータウンの成功についてニックが言う。「ベリー・ゴーディーが生み出した『サウンド・オブ・ヤング・アメリカ』というコンセプトがとても生きていたと思う。もちろん、それを支える素晴らしいソングライター、プロデューサー、素晴らしい歌手たち、素晴らしい楽曲。すべてのコンビネーションがうまく行ったんだ。一番の大きな要因は、その楽曲をしっかり歌えるシンガーがいたということだと思う。今の時代は、とてもトリッキーなシンガーが多いだろう。あの頃は違った」 ヴァル。「あの頃、モータウンで私たちは驚くべきことに、クリエイティヴ・コントロール(何かを好きにクリエイトする自由)があったのよ。曲のここをこうしろ、ああしろ、サウンドはこうしろ、なんてことは滅多に言われなかった。私たちも『こうしたほうがいいかしら』などと彼らに尋ねることもなかった。私たちは出来上がったサウンドのマスターを彼らに渡すだけ。で、ほとんどの場合、そのマスターがそのままリリースされていた」 ニック。「モータウンで心がけなければならなかったことのひとつは、『スピード』だ。モータウンには多くのシンガー、アーティストがいる。だから、いい曲をすぐに作って、すぐにリリースしないといけない。早く曲ができないとダメなんだ。みんな、たとえば、1日で3曲レコーディングしたいと思っている。スタジオでぐずぐずしているヒマはないんだよ。(笑)すぐに終えなければならない。そして、最終段階ではベリー・ゴーディーが『クオリティー・コントロール』(品質管理)をするというわけだ。早くても、ダメな作品はダメ、ということだね」 モータウンは印税率が低いことで評判だった。たとえば、モータウンきってのプロデューサー・チームで多くの傑作を生み出したホランド・ドジャー・ホランドは、その印税率の低さを不満に思い、モータウンを辞めて独立、ホットワックス/インヴィクタス・レコードを自ら立ち上げる。ノーマン・ウィットフィールドも、モータウンを辞めたり、アーティストたちも徐々に去っていくようになる。アシュフォード&シンプソンも1973年までにはモータウンを去る。やはり、モータウンの印税は低かったのが辞めた理由なのだろうか。 ニックが慎重に言葉を選ぶ。「モータウンは独特のビジネスのやり方があってね。これは有名な話しだが、最初モータウンと契約するときは、契約書をモータウンのオフィースから持ち出せない。だから、僕らは僕らの弁護士と相談することもできない。サインするか、しないか、だけなんだ。僕たちはまだ当時まったく何も知らない新人だったから、そして、モータウンで曲が書けるということに大喜びしていたので契約書にサインするしかなかったというわけだ(笑)」 ヴァル。「モータウンはあの時代、あらゆるもののトップに君臨していた。アーティストをプロデュースすること、曲を書くこと、シンガーたち。私たちは何も知らなかった。モータウンという名前が大きく輝いていたのね。そしてある部分は、ビッグ・シークレット(大きな秘密)だった。そこを私たちは知ることはなかった。でもその秘密があっても、モータウンはそれが機能していた。ひじょうにうまく機能していたのね、何年も、何年も」 あなたたちが、モータウンを去ったのはやはり同じ理由なのでしょうか。 ヴァル。「いや、基本的には、私たちが去ったのは、契約期間が切れたから、ということね。でも、私たちは(ソングライターとしての)契約が切れた後も、ダイアナ・ロスのプロジェクトをてがけたり、曲を提供したり、それからダイナミック・スペリアーズといったグループをプロデュースしたり、いろいろ仕事はしていて良好な関係なのよ」 ニック。「僕たちはモータウンに対して怒ったりしてないよ。(笑) 僕たちは『モータウン・カレッジ』をハッピーに『卒業』したんだ、ははは」 モータウンでソングライターとして成功を収めたアシュフォード&シンプソンは、約7年のモータウン時代を「卒業」し、アーティストとしてワーナー・ブラザースと契約する。 ヴァル。「ワーナー時代も楽しい時代だったわ。もちろんこの時代にも多くのことを勉強した。ファースト・アルバムは、今でも誇りに思っている。もっともあの頃は、私たち自身、何をどうすればいいかまったくわからなかったんですけどね(笑) ワーナーに来て、『センド・イット』のアルバムが、私たちの最初のゴールド・アルバムね」 ファースト・アルバム『ギミ・サムシング・リアル(Gimme Something Real)』は1973年10月にリリースされた。『センド・イット』は1977年にリリースされた5枚目のアルバムだ。 「ちょうどその頃からライヴをやるようになり、ツアーを始めた。アーティストとしてのヒット曲を作る、ということが大きな目標になってきたんだ」 先にダイナミック・スペリアーズの名前が出たので、彼らに尋ねた。「ダイナミック・スペリアーズの「シュー・シュー・シャイン」は僕の大好きな曲のひとつですが、これはあなたたちはステージではやらないのですか?」 ヴァル。「あらあ、これはやったことはないわ」 「なんでやらないんですか」と僕。ニック。「やってないなあ。考えたことなかった。でも、じゃあ、そう言うなら、こんどやってみようか」「じゃあ、次回の来日のときでも、ぜひお願いします」 他にも聴きたい曲はたくさんある。そして、他にも訊きたいことはたくさんあったが、あっという間に予定の20分が過ぎた。 ◎ アシュフォード&シンプソン・ライヴは、今日(2009年11月22日)まで東京ブルーノートで。 http://www.bluenote.co.jp/jp/index.html ■ アシュフォード&シンプソン、初来日ライヴ評 November 20, 2009 アシュフォード&シンプソン:ストーリーを聴かせるライヴ (パート1) http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10392434386.html November … Continue reading

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●アシュフォード&シンプソン (パート2): インタヴュー

●アシュフォード&シンプソン (パート2): インタヴュー 【Ashford & Simpson Talks】 夢。 ニューヨークの小さなアパートの部屋で見よう見まね、聴きよう聴き真似で曲を作っていた夫婦のニック・アシュフォードとヴァレリー・シンプソン。1960年代から売れっ子ソングライターとなり、1970年代には自身でヒット曲を出すアーティストとなった。僕は彼らの作り出すメロディーが大好きで、1985年と1986年にニューヨークでインタヴューをしたことがある。ライヴはロスアンジェルスのユニヴァサール・アンフィシアターで見た。来日は初。再会は23年ぶりということになるが、仲良し夫婦ぶりはまったくかわらなかった。 インタヴューの部屋に現れた二人はソファにぴったり寄り添って、質問にてきぱきと答えていく。 「モータウンとのきっかけは、元々はホランド・ドジャー・ホランドからだった。彼らが僕らが作ったテープを聴いてね。『この歌、全部君たちが作ったのか、このトラック、全部作ったのか、歌詞もか』と言って、ずいぶん驚いた様子だった。そして彼らが(モータウン社長の)ベリー・ゴーディーに僕らのことを話したんだ。その後の話は、昨日ステージで話した通りだよ。(笑) ミスター・ゴーディーから連絡があったときは、大いに喜んだよ」とニック。 ヴァルが言う。「モータウン・ファミリーに入るのは、ソングライターの夢よ。ソングライターなら皆それを夢見ていたわ」 ニック。「(モータウンでは)本当に多くのことを学んだ。そして競争が厳しかった。本当に『ベスト』でなければならない。あるとき、モータウンで有名な『クオリティー・コントロール会議』(作品評価会議、直訳では品質管理会議)に出席したことがあった。その曲が(翌週モータウンから)リリースされるか、どうか、決める会議だ。そのときは、まずスモーキー・ロビンソンの曲が提出された。『もうちょっとだな』と言われた。ノーマン・ウイットフィールドの曲が出された。『もう少しだな』 そして僕たちが書いた曲が流された。僕はものすごくナーヴァスになった。出席者はとても静かになった。するとベリー・ゴーディーが言った。『この曲は投票は必要なさそうだな。すぐ、プレス工場へ送れ』 その曲は、『ユー・アー・オール・アイ・ニード・トゥ・ゲット・バイ』だった」 ヴァル。「私はその会議には出席してなかったんだけどね。私たちもそんなにたくさんその会議に出席したわけではないのよ。私たちはニューヨークに住んでいたから。2-3ヶ月に1回くらいしかデトロイトには行かなかった」 曲を書くパターンは決まっていない、という。ニック。「誰かが、僕のところにやってきて、『ソリッド、ブラザー』と言った。そこで、『ソリッド』という言葉が響いたので、それを元に曲を作ったんだ」 ヴァル。「ドラマーとときにベース・プレイヤー、あるいはキーボード・プレイヤーくらいで、とてもシンプルな編成でデモは作るわ」 彼らが作り出した作品には多くの傑作がある。前日のステージでもっとも盛り上がった「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」は果たしてどんな風に出来たのか。 ニックが説明する。「あるとき、セントラル・パークを歩いていた。するとマンハッタンのビル郡が僕には山のように見えたんだ。そこでAin’t no mountain high enough like in New York, I’m gonna make it(ニューヨークみたいにビルが山のように高くなっている所はない、僕はここで絶対成功してみせるぞ)って思ったんだ。それですぐ部屋に戻ってヴァルにその話をして、一緒に曲を書いたんだ」 ニックは詩人だ。 「この曲には、ご存知のように2つのヴァージョンがある。最初は、ハーヴィー・フュークワがプロデュースしたマーヴィン&タミーのヴァージョン、そして、ダイアナ・ロスのソロ・キャリアを飾ったヴァージョンだ。ダイアナのヴァージョンは僕たちがプロデュースしたんだが、ちょうどあの頃、アイザック・ヘイズが長尺の曲を録音していてね。僕たちも、この曲をそんな風にロング・ヴァージョンでやってみよう、ということになった。それであれはあんなに長いんだよ」 ダイアナのヴァージョンは6分超だ。当時のシングルとしては異例の長さだった。 ニック。「マーヴィン・ゲイというシンガーは、本当に素晴らしい。たとえば、自分が書いた歌詞があまり強力じゃないと思っていたとする。でも彼がその歌を歌うと見事な曲になるんだ。まるで、マーヴィンが歌うとバイブルのようになる」 ヴァル。「彼はステージではとてもクールに振舞うんだけど、スタジオでは本当に真剣にガッツを持って必死になって曲に取り組むの。彼がソウルに触れようとしているのがわかるわ。ああいう姿を見ているのは本当にエキサイティングだったわ」 ヴァル。「『エイント・ナッシング・ライク・ア・リアル・シング』は、私たちが実質的に初めてプロダクション全部をてがけた作品だった。レコーディング・スタジオでは多くの人たちがその様子を見ていて、とてもナーヴァスになった。マーヴィンは私たちがうまく行くように仕向けてくれたので、結果、とてもいいものが出来た」 彼らがモータウンにいたのは、約7年。そして、彼らは「モータウン学校を卒業した」。モータウンの後、アシュフォード&シンプソンは、ワーナー・ブラザースとアーティスト契約を結ぶ。ニックは「僕たちは、人前で歌うことも好きだったから、パフォームすることにより重点を置くようになるんだ」とその変遷を語る。 (この項続く)  ■ アシュフォード&シンプソン、初来日ライヴ評 November 20, 2009 … Continue reading

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○『アイ・ウォント・ユー・バック』のイントロ・ピアノは、ジョー・サンプルだった

○『アイ・ウォント・ユー・バック』のイントロ・ピアノは、ジョー・サンプルだった 【Intro of “I Want You Back” Is Joe Sample】 ワンテイク。 ジョー・サンプルが参加したウィリー・ネルソンのアルバム『アメリカン・クラシック(アメリカの歌)』が流れている。 「お、ウィリーだな、ヨランダ、このCDまだ来てないよね」とジョーが言う。 「そうね、まだ送ってもらってないわね。ファイナル・トラックのCDRしか聴いてないわ」 ヨランダはジョーの奥さんだ。 ジョーにモノクロのジャケットを見せた。ジョー夫妻の元には、まだ完成したジャケット付きのパッケージが届いていなかった。「ウィリーのマネージャーに言わないと(笑)」 ジョーによれば、このアルバムのレコーディングはニューヨークで昨年12月に行われた。つい最近、シカゴでPBS(公共放送)でのライヴの話があったが、どうやらキャンセルされたらしい。レコーディングではほとんどの曲を、バンド・メンバーがワンテイク(一度の録音)で仕上げている、という。すでにアレンジが譜面に起こされていて、スタジオに入り、ウィリーとともに「せいの」で始めて、1曲終わると、それで終わりだ。 「レコーディングは早いよ。1日4-5曲(録音)できる。ま、ただ曲によって、ギターが弾きすぎたりしたのはあって、それはやり直したのがある。ギターのアンソニー(・ウィルソン)は、ものすごくいいギタリストだが、時に(ウィリーの歌を)聴かないことがある。たとえば、ウィリーがもっとゆっくりのテンポじゃないと歌えない、といってもおかまいなしにガンガン弾いてしまったりね」とジョー。 ジョー、ヨランダと島津山の「フランクリン・アヴェニュー」にランチをしにやってきた。 ヨランダは、シェフお勧めのマッシュルーム・バーガーを食べている。ジョーはチリ・バーガーだ。 イントロ。 「ちょうど、この前、マイケル・ジャクソンの映画『ディス・イズ・イット』を見たんです。見ましたか?」と僕が聞くと、「いや、まだだ。見に行こうか」とジョーがヨランダに言う。「リハーサルの模様、どのようにステージを作っていくか、ダンサーやシンガー、ミュージシャンたちへの指示の出し方など、とても興味深く勉強になりました」と僕が説明した。 「今まで、マイケルの曲をやったことある?」と僕は尋ねた。それは、マイケル楽曲をジョー風にカヴァーしてやったことがあるか、という意味での質問だった。彼から返ってきたのは、「ああ、たしか、『アイ・ウォント・ユー・バック』と『ABC』かな」という答え。「トリオとかで、あるいはバンドで?」 「いや、ジャクソン5のレコードで弾いてるんだよ」 「えええええっっっ!!!???」 モータウンのレコードは1973-4年くらいまで、ほとんどミュージシャンのクレジットを載せていない。マーヴィン・ゲイの『ホワッツ・ゴーイング・オン』(1971年)はマーヴィンのたっての願いでミュージシャン・クレジットを載せた。だが他のセッションはそれほどミュージシャンの名前が出ていない。 自宅に戻り、ジャクソン5のいろいろなCDなどをチェックするが、やはりミュージシャン・クレジットは一切でていない。 「『アイ・ウォント・ユー・バック』のイントロのタララララというピアノ、あれ、僕だと思うよ。もう1曲くらいやっていたかな。40年くらい前だろう。あんまり覚えてないんだ。(笑) あと、たぶん『ABC』も」 彼はしばらくすっかりそのことを忘れていたという。だが、それらの楽曲が映画などで使われると、使用料がジョーの元に来るようになって、それらの曲で自分がプレイをしていたことを知った、いや、思い出した、というのだ。 ジョーはチリ&チーズのハンバーガーをナイフとフォークを上手に使いながら、実にうまく食べる。「これは、ものすごくおいしいなあ」と言ってシェフの幸三さんに向かって親指を上げる。「さて、モータウンにスージーという女性がいて、彼女があらゆるデータを集めて、(楽曲のクレジットを)整理してるんだ。誰がどの楽器をどの曲でプレイしているかを、事細かに調べていてね。映画で使われると、ミュージシャンにちゃんとお金がわたるようにしているんだよ」 しかし、ジョーはクインシーがてがけた『オフ・ザ・ウォール』を含め、それ以降のクインシー・セッションではほとんどピアノは弾いていない。グレッグ・フィリンゲインズがてがけている。なので、他のマイケル楽曲では彼のプレイは聴けない。 ジョーは1958年にテキサスからロスアンジェルスに出てきて、1999年にテキサスに戻るまで41年ロスに住んでいた。ちょうど彼が住んでいた家は、フランクリン・アヴェニューから1本入った道にあったという。今はその家は息子のニックが住んでいる。 彼がロスにいた41年間、それこそ星の数ほどのレコーディング・セッションに参加している。彼のひょんなところから出てくる昔話には引きこまれずにはいられない。 ■ ジャクソン5『帰ってほしいの/ABC』(2イン1)紙ジャケット。(しかし、「帰ってほしいの」のイントロのあのピアノがジョー・サンプルとは…) 帰ってほしいの/ABC+1(紙ジャケット仕様) posted with amazlet at 09.11.06 ジャクソン5 USMジャパン (2009-09-09) … Continue reading

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◆グレイト・ストーリーテラー、リオン・ウェアはノンストップでしゃべる

◆グレイト・ストーリーテラー、リオン・ウェアはノンストップでしゃべる 【Leon Ware Is Talking, Talking, Talking…】 語り部。 8月末(2009年8月20日木曜から23日日曜)のリオン・ウェアの来日、公演はソウル・ファンの間で大きな話題になった。2002年11月、大阪・福岡ブルーノートでのライヴ以来約7年ぶりの来日、しかも東京地区は初ということで注目された。 そこでソウル・サーチンでもインタヴューをオファー。土曜(8月22日)本番前にインタヴューする機会に恵まれた。すこし遅くなったが、やっとテープ起こしの一部ができたのでご紹介しよう。 もろもろのセッティング中、前説。「実はあなたには勝手に親しみを感じてるんです。あなたは2月16日生まれですよね」 「ああ、そうだよ」 「僕も2月16日なんですよ」というと、「おおっ、ホントか。えーと、アート・スチュワート知ってるか? モータウンのエンジニア、彼も2月16日だよ。あと、もう一人いたんだが…、だれだっけかな」 「ジェームス・イングラム!」 「ああ、知ってる、彼とは話したことがある。もうひとりいた…。思いだせん」 「テニスのジョン・マッケンローもそうです」 「おお、そうか…。もうひとり。おい、もうひとり誰だっけ…(とアシスタントの息子に尋ねる)」 そして、インタヴューは粛々と始まった。僕が彼に、ありきたりだが、基本的な質問をなげかけた。「あなたとモータウンとの最初のかかわりを教えてください。どのようにモータウンに入ったのですか」 「ウェル…」と言い、姿勢を正しながら彼がゆっくり話し始めた。「ベリー・ゴーディーと知り合ったのは、私が17歳(1957年)のとき、彼がまだモータウンを作るまえのことだった。彼がプロデューサーで、私はシンガーという立場だった。彼が私をプロデュースしたんだ。それは、レコードとしては世にでなかったけどね。それはそれで一旦終わるんだけど、それから3年くらい後かな、ハイスクールの同級生とばったり会ってね、彼が、今、モータウンというところで曲を書いたりしているんだ。一度、遊びに来ないか、と誘ってくれた。それがラモント・ドジャーだ。そのときにはすぐには行かなかったけど、後で行って、いろいろやりだすことになった。モータウンと実際契約するのは、1959年、いや、60年代に入ってかな、1962年だったと思う。それからモータウンには2年ほど在籍した。1964年に去るんだがその年の終わりに、私はアイズレー・ブラザーズの「ガット・トゥ・ハヴ・ユー・バック」で初めてのゴールド・レコードを手に入れるんだ…」 (訳注、この曲は1967年5月からヒットし、ソウル・チャートで47位、ポップ・チャートで93位を記録。このあたりは、若干、年号などで本人の記憶違いもあるかもしれない。なにしろ40年以上前のことだからしかたない。あるいはレコーディングは1964年に行われ、シングルリリース、ヒットが3年後の1967年だったのかもしれない。ここは要再調査だ。またここでリオンが言うゴールド・レコードは、最初の大ヒット曲、くらいのニュアンスだろう) 「あの頃、1曲、いや何曲かマーヴィン用に作った。あの時代はとても実りのある時期だった。何曲書いたかはわからないが、1967年、私はロスアンジェルスに引っ越す。モータウンも1965年か1966年ごろ、(一部のオペレーションを)ロスアンジェルスに移し始める。(訳注、実際の正式な本部の引越しは1972年。それまでに一部スタッフなどがロスに出向き、レコーディングなどを始めていた) その頃、またモータウンで曲を書き出した。ダイアナ・ロスの弟のアーサー・T・ロスと知り合って、一緒に曲を書くようになり始めた。1971年頃かな。姉(=ダイアナ・ロス)が私に弟に協力してあげてというので、いろいろ一緒にやるようになった。1曲書いて、また書いて、一緒にやって4曲目に出来たのが『アイ・ウォント・ユー』だった。それを作っている間に、ベリー・ゴーディーがスタジオにやってきた。これはとても珍しいことなんだ。彼はとても協力的で、父親のように、(僕たちのことを)いろいろ気にかけてくれた。そこで、デモの『アイ・ウォント・ユー』を聴かせた。彼はそれを聴くと、「すごい、気に入った。これはマーヴィン・ゲイにいいんじゃないか。このテープをくれ」と言った。それから3日後、テープを聴いたマーヴィンはものすごくこの曲を気に入ったんだ…。その後私とマーヴィンは実際に会う。彼は1歳僕より年上なんだが、会ってみるとものすごく波長があった。私たちは、同じような趣味を持っていた。実際に彼に会う2年くらい前から共通の友人が、『君とマーヴィンはよく似ている』なんてよく言われていたんだ。『君は、マーヴィンみたいだ』とかね。そういうのは珍しかった。音楽の趣味も、人生に対する考え方も、女性に対しても(笑)、セックスも(笑)、嗜好が似ていた。とても兄弟みたいに近しい存在だった…」 僕はただただ彼が語る話に「フンフン…」とうなずくだけ。リオンはただひたすらしゃべる。そして30分以上過ぎただろうか。リオンが言った。「ああ、そうだ、私はしゃべりだすと、必要のないことまでしゃべってしまい、話が質問からそれてしまうようなことがよくあるんだ。いつでも、私の話をさえぎって、話を正しい方向に持ってってくれていいんだよ」 おっと・・・。(苦笑) もうその時点で、僕の持ち時間はほとんどなくなっていたのだ。 ということで、この続きはまた近いうちに。 ■レオン・ウェアがよくしゃべる映像 (英語)(レッドブルがスポンサードしているトーク・セッション) http://www.redbullmusicacademy.com/video-archive/lectures/leon_ware__come_with_me_angels 約1時間半にわたって、いろいろなことを話します。 ENT>INTERVIEW>Ware, Leon

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◎フランキー・ビヴァリー、来日直前インタヴュー

【Frankie Beverly Talks About Up Coming Japan Tour】 抱負。 フランキー・ビヴァリー&メイズの来日(2009年9月22日~26日)が迫ってきた。ソウル・サーチンでは、来日直前の彼に電話でインタヴューを敢行。来日への抱負、意気込みを聞いた。 メイズの来日は、1989年11月、青山スパイラル・ホール、1994年9月、横浜カフェ・デ・ラ・ソウルにおけるライヴ以来ちょうど15年ぶり。メイズはもともとアメリカでの爆発的人気(リリース・アルバムがほぼすべてゴールド・ディスク=50万枚以上のセールス=)と日本での一般的人気度の落差が激しく、なかなかギャラの関係で招聘できないアーティストの一組だった。 ここ数年、メイズはニューオーリンズで毎年行われるブラック・ミュージックの大祭典『エッセンス・ミュージック・フェスティヴァル』で最終日の大トリを取ることで知られる。メイン会場は7万人、ここを満杯にし観客を熱狂させる。ふだんでも3000人から7~8000人クラスの会場でライヴを行っているので、今回のキャパシティー約200人という小さなライヴ・ハウスでのライヴはほとんど奇跡だ。 今回招聘のコットンクラブも、お店始まって以来初の1セットのみで営業する。通常、7時と9時半、2セット入れ替えだが、今回は1セットのみで、1セットを通常より長くプレイしてもらう。 さて、僕は電話の向こうのフランキーには、1989年の来日時にインタヴューしている。 来日へ向けてまずこう切りだした。「実は僕は日本の食べ物が大好きなんだ。スシ、ウナギ。サンフランシスコではよく日本レストランに行ってるんだ。だからものすごく楽しみにしているよ」 今回は、元メイズのメンバーで、現在日本在住のフィリップ・ウーがキーボードで参加する。フィリップについてこう絶賛。「彼が日本に移住するためにメイズを辞めたのは本当に痛手だった。彼のようなキーボード奏者はなかなかいない。彼はone of a kind (ユニークな、比類のない)だ。彼は確か1994年にメイズで日本に行ったときに日本が気に入って、それ以来(日本に)いついてしまった。今度一緒に彼とプレイ出来るのが待ちきれない」 メイズは30曲近いヒットを持っているが、これだけヒットがあるとヒット・メドレーのような形もあるのだろうか。「いや、実は僕はヒット曲を少しずつやるメドレーはあんまり好きじゃないんだ。(笑) 自分が観客になったとき、その好きなグループの好きな曲が短くメドレーにされると、不満だからね。(笑) やるなら、(その曲を)フルサイズでやるよ」と頼もしい答え。 ところで、最近はメイズのような大型ソウル・バンドが音楽業界ではかなり生き延びるのが難しくなっているが、メイズは生き延びている。「たぶん、いろいろな機械(マシーン)ができて、ミュージシャンに取って代わっているのが大きな要因じゃないかな。ドラムマシーン、シークエンス、シンセサイザー。打ち込みですべて出来てしまい、リアル・ミュージシャンのバンドが必要とされなくなった。そうしたことがバンドをスポイルし、バンドの維持が難しくなった。僕らが、維持できているのはとてもレアで幸せなことだ」 「僕らくらいの古いバンドのメンバーの何人かでさえ、シークエンス(打ち込み)を使うようになっている。ソウル・ミュージックはブルーズから発展している。それをマシーンにやらせるわけにはいかない」 近々出る作品についても語ってくれた。「昨年10月、テキサス州ダラスでやったライヴのDVDが来年出るよ。これはすごいんだ。(かつての名盤)『ライヴ・イン・ニューオーリーンズ』みたいな感じ。5-6曲、新曲も入っている。タイトルは『アンティシペーション』だ。ツアーで忙しくてなかなか編集が出来ないんだが、時間が空けば、その作業を出来るだけ早いうちにすませたい」 「また、それとは別件で、僕の息子の嫁が、『メイズ・トリビュート・アルバム』を作っている。メアリー・J・ブライジが「ビフォー・アイ・レット・ゴー」を歌い、ジョーが「キャント・ゲット・オーヴァー・ユー」、キムが「ゴールデン・タイム・オブ・デイ」などを歌っている。『シルキー・ソウル・トリビュート・トゥ・メイズ』というタイトルだ」 そして、彼とゆかりの深いマーヴィン・ゲイについて。マーヴィンは、メイズのことを無名時代に発見し、育てた恩人だ。彼についてになるとフランキーは少し熱く語り始めた。 「1日たりとも彼のことを考えなかった日はない。あの頃、僕たちはメンバー全員がひとつの家に住んでいて、必死に生きていたバンドだった。74年か、75年かのある夜、サンフランシスコのクラブでプレイしていたとき、彼が観客の中にいたんだ。ライヴ後、彼と話をすると、彼は僕のバンドを気にいってくれ、僕も彼のことが大好きになった。彼はいくつかの機材を買ってくれ、レコード契約を取ってくれた。今、こうしていられるのも彼のおかげだ。当時は自分たちはまだ『ロウ・ソウル』と名乗っていた。だが、彼はその名前が気に入らなかった。「ひどい名前だから変えてくれ」とマーヴィンが言って、(メンバーの)ロームが「メイズ」という名前を出してきた。今度はマーヴィンはその名前を気に入ってくれ、その後は、ご存知の通りだ。彼は僕にとってのビッグ・ブラザー。僕がやるショー、どこでもすべてで彼の名前を出すんだ。自分がしゃべるところでは、どうやってマーヴィンに会ったか、彼が僕たちにとってどれほど大きな意味があるか、彼は僕の心に永遠にいる、といったことを話すんだ」 長年、メイズにいたフィリップは言う。「このバンドは素晴らしい。曲目さえわかっていれば、リハーサルなんてしなくても出来る。実際、アメリカではリハはもとより、サウンド・チェックさえなくても本番ができるほどなんだよ」  フィリップによれば、すでに演奏予定の曲目(セットリスト)は来ているという。あとは、各自がそれを練習して、本番に臨めばそれでいいだけだ。 マーヴィンへのトリビュート、そして、四半世紀以上継続しているリアルなライヴバンドとしてのプライドが楽しめる一夜になるだろう。 ■名盤『ライヴ・イン・ニュー・オーリンズ』のDVD Live in New Orleans (Dol Dts) [DVD] [Import] posted with … Continue reading

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◎グレッグ・フィリンゲインズとリン・フィドモントとヴァレリー・ピンクストン

【Greg Phillinganes, Lynn Fiddmont & Valerie Pinkston】 チャット。 パティー・オースティン・バンドは、LAの強力メンバーを揃えている。中でも、キーボードのグレッグは、マイケル・ジャクソン、クインシー・ジョーンズ、ライオネル・リッチー、エリック・クラプトンと、錚々たるアーティストから請われ、さまざまなツアーやレコーディングに参加する、超売れっ子ミュージシャン。自身でもアルバムを出していて、日本にも隠れファンがけっこう多い。 グレッグには2-3度インタヴューしたことがある。最初は、マイケル・ジャクソンがソロとして初来日した1987年のバッド・ツアーのとき。そのとき、グレッグはマイケル・バンドの音楽ディレクター。ライヴ関係者をかたっぱしからインタヴューする機会があり、その一環で話をきいた。その後1991年8月に、何かでインタヴューした。原宿のスタジオに行った記憶がある。グレッグはそのことを覚えていなかったが、「ナイス・トゥ・ミート・ユー・アゲイン」という感じでいつもながら気さく。 彼に何回くらい日本に来たか勘定できるかと聞くと、「30回以上だよ。日本が大好きなんだ。最初に来たのは1981年、クインシー・ジョーンズと来た。たしかサントリー・ホールでやったライヴだ」という。確かに。彼は東京都内は、地下鉄で移動する。それだけではない。なんと、「スイカ」カードを持っているのだ。 「なに、そのスイカ・カードって?」とリンが尋ねると、グレッグが説明する。来日ミュージシャン多かれど、さすがにスイカを持っている来日ミュージシャンはなかなかいない。携帯を持っている人はいるが…。 彼に自分自身のアルバムを作る予定はないかと尋ねると、「いやあ、時間がなくてね。今はロッド・スチュワートのアルバムを作ってる。レコーディング、ツアー、レコーディング…、なかなか自分の時間をゆっくりとれないね。日本にも来なきゃならないし。(笑) いつも日本から帰るときは、『次に日本に戻ってくるのはいつだろう』って思ってるほどさ」と立て板に水状態。 「グレッグ・バンドでは来日しないの」と尋ねると、「さあ、どうだろう。お客さんはいるかな」と言う。「たぶん正しい選曲をして、よいショーをすれば、お客さんは来るんじゃないかなあ。グレッグがプレイしたヒット・レコードをプレイする、ということで、ヒット曲のオンパレードになるでしょう」 リンは、2年前の2007年、スティーヴィーが来日したとき、そのバックで来ていた。リンの元夫はウェイン・リンゼイというキーボード奏者。ウェインとは個人的に1990年代から知っていたので、たしかそのつてでリンと知り合っていたような気がする。2人でヴァージンからリンゼイというアーティスト名義でアルバムも出している。随分前に別れたみたいで、今は「エックス(ex)ハズバンド=元夫」と言う。彼女もベイビーフェイスで来たり、ちょくちょく日本には来ている。「私も地下鉄好きよ、でもスイカ・カードは知らなかったわ」 ところで奇しくも、その元夫ウェインがまったく同時期にコットン・クラブで行われるリオン・ウェアのバックで来日中なのだ。「コットンに見に行くの?」と聴くと、「自分もライヴもあるから行けないわ」と笑った。しかし、世の中は狭いものだ。 そして、そのリンに元チャプター8のヴァレリー・ピンクストンを紹介された。ちょうど、一緒に楽屋に行ったライターの金澤さんがチャプター8の話を持ち出し、2枚目以降が好きなんです、と言うとえらく受けて、「今度来年の1月にロンドンでチャプター8、リユニオン・コンサートをやるのよ」という爆弾ニュースが飛び出た。(っていうか、これを爆弾ニュースと思うか、思わないかは各個人の価値観による…。思わない人のほうが多いかもしれませんです。マイナーな話しですいません) で、メンバーはと聞くと、「マイケル・J・パウエル、コートレン・ヘイル、ヴァーノン・フォール…。あと何人か。あ、そして私」 「アニータ・ベイカーは入らないんですね」 「ノー、ノー、はいらないわ(笑) アニータの後に入ったのが、私ですから」 ヴァレリーは、なんとなく僕を見たことがあるようなことを言う。1996年のホイットニー・ヒューストンで来日している、という。じゃあ、そのときに会っているかもしれない。 しかしパティーの今日のステージは随分とスポンテニアスなショーでしたね、とふると、リンが言う。「だいたい、いつもあんな感じよ」 「セットリストから外れて突然予定にない違う曲になって、よく追いつけますね」 「スティーヴィーで鍛えられてるし…(笑)」 ちなみにグレッグのプリンス・ネタは、この日初めて見たという。 この日は客席にベース奏者ウィル・リーが遊びに来ていて、楽屋にもいた。日本の矢野顕子のバックで来日していて、ちょうどこの金曜だけオフだったようだ。 ■過去記事 February 23, 2007 Special Jam Night; Stevie Wonder’s Band: Music Is My Hobby http://blog.soulsearchin.com/archives/001605.html ■ グレッグ・フィリンゲインズ、アルバム2枚 処女航海 posted with … Continue reading

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⊿吉田治さん、ビッグ・バンドを語る

⊿吉田治さん、ビッグ・バンドを語る 【「バトル・ジャズ・ビッグ・バンド」リーダー吉田治さん語る】 年一。 「バトル・ジャズ・ビッグ・バンド」というグループのリーダーで、サックス奏者、コンポーザー、アレンジャーである吉田治さんが2009年8月16日、『ソウル・ブレンズ』内「山野ミュージック・ジャム」に生ゲストでいらした。 ビッグ・バンドや、ジャズなどは僕にとっては、「アウェイ」(得意の「ホーム」に対して苦手の「アウェイ」)なので、ゲストが来ていただけると、いろんなお話を直接聴けるので、実にありがたい。(笑) 吉田さんはBMG/ソニーから出たバトル・ジャズ・ビッグ・バンドというアーティストのリーダー。このバンドは、有名なビッグ・バンド曲を、超高速のパフォーマンスによってカヴァーしようというもの。元々は、海外の音源からそうした楽曲を集めたコンピレーションが2枚でて、好評を集め、3枚目を作るときにそろそろネタもなくなってきたので、日本で作ってしまおうということで吉田さんが有志を集めて結成したグループだ。 本番前に、いろいろお話を聞いたが、その中で最近ビッグ・バンド自体がちょっとしたブームになっている、という話しに興味を持った。 担当のBMG(今や、ソニー・ミュージックの一部)ディレクター、生見(あざみ)さんによると、今ではどこでもほとんどの町に最低ひとつのバンドがあり、常にメンバー募集がなされている、という。吹奏楽から発展して、ビッグ・バンドを結成し、年に1度でも演奏するために集まり練習するそうだ。そういうアマチュアの人口が多く、ジャズ喫茶のコミュニティーや、そうしたビッグ・バンドのコミュニティーが出来上がっているので、ビッグ・バンドはちょっとしたブームになっている。 そんな中、大学生の選手権ともなった山野楽器主催の「ヤマノ・ビッグ・バンド・ジャズ・コンテスト」は今年で40回を数え、そうしたビッグ・バンド・ブームに大きな力となっているという。 吉田さんの「バトル・ジャズ・ビッグ・バンド」というグループは、難しい曲をいわゆる「高速プレイ」で演奏する。難しいフレーズをみんな揃って、練習し、それが出来た時にはかなりの達成感がある、という。 吉田さんは言う。「オリンピックも、マジックもそうですが、人ができないような難しいことができて、人をどれだけ驚かせられるか、っていうところがあると思う。この『高速』(のテクニック)は、こうしたビッグ・バンドを志す人のあこがれみたいなものになってるのではないでしょうか」  このレコーディングのためには、大体一月くらい前に、メンバーに楽譜を渡し、みなそれぞれ自主練習してきて、リハーサル1日、本番2日で録る。「大変なレコーディングであることは間違いありません。でもだいたいテイク2(2番目に録音したもの)かテイク3までです。だいたいテイク1(最初に録音したもの)が一番いいんですよね」 「高速ビッグ・バンド」という名称は、以前はミュージシャンたちの間では「ぶっぱや」(めちゃくちゃ速い)と呼ばれていたものが、徐々に「高速」「超高速」などと呼ばれるようになったそうだ。 先週、目黒・ブルース・アレイで行われた16人のこのバンドによるライヴは大盛況だったそうだ。しかも観客層は6:4で女性が若干多かったとのこと。 これらの吉田さんのバトル・ジャズ・ビッグ・バンドのアルバムは前作が5000枚近く売れているという。 ところで生本番に入る前に、こんな事前取材を淡々と行っていたのだが、いざ 生放送に入ると、僕のテンションが高かったらしく、「このテンションの違いに驚きました」と吉田さんに言われた。そんなに違ったかなあ…。(笑)  吉田さんは、紙媒体の取材はたくさん受けてきたが、プロモーションでラジオは初登場だったそうだ。ありがとうございます。また、来年、新譜とともにいらしてください。 「吉田治で検索すると、今度選挙に出る政治家の人がトップに出てくるんですよね。昔は、僕のバンドがトップだったんですけど」と吉田さんは笑った。 これで「山野ミュージック・ジャム」年一レギュラー、二人目が決まりだ。(笑)(ちなみに、最初は、カルロス菅野さん) それから年一レギュラーのDJもいます。大西くん。「ソウル・ブレンズ」は、このところ、「年一ばやり」だ。 ■ バトル・ジャズ・ビッグ・バンド2 バトル・ジャズ-ビッグバンド・アルティメット高速チューン2 posted with amazlet at 09.08.19 オムニバス クインシー・ジョーンズ・アンド・ヒズ・オーケストラ BMG JAPAN Inc.(BMG)(M) (2007-09-05) 売り上げランキング: 2032 Amazon.co.jp で詳細を見る ENT>ARTIST>Yoshida, Osamu

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⊿デリック・ヒューズ語る~彼はいかにしてロバータ・フラックのバックコーラスの仕事を手に入れたか

【デリック・ヒューズ語る~彼はいかにしてロバータ・フラックのバックコーラスの仕事を手に入れたか】 一番前。 ロバータ・フラックのバック・コーラスとして初来日したデリック・ヒューズ。彼と立ち話をする機会があった。 ライヴでは、ロバータの相手をして「トゥナイト・セレブレイト・マイ・ラヴ・フォー・ユー」や、「ホエア・イズ・ザ・ラヴ」などを歌う。いわば、ダニー・ハザウェイやピーボ・ブライソンの役だ。 デリックがロバータのバンドに入ったのは2008年11月のこと。1961年カリフォルニア・オークランド生まれ。兄タイロン、妹デイドレ・ディーディー。父はなんと1968年に「Send My Baby Back」(Wee 1006/Wand 1182)というヒットを放ったフレディー・ヒューズだという。(なお、いろいろ調べてみると、シカゴのヴィージェーからシングルを出しているフレッド・ヒューズとは同名別人らしい。ただし要確認) 地元で活動を続けていたが、元々はゴスペルを歌っていた。ライヴでも見せたその強力なヴォーカルは圧巻だ。ロバータ・バンドではキーボードのシェルトンもものすごい歌を聴かせるが、デリックもまたすごい。 「オークランドでロバータのライヴがあってね。チケットを買って、ライヴを一番前の席で見ていたんだ。こんな(ダニー風の)帽子を被ってね。そこで、ロバータが歌う曲に、何曲も目の前で声を出してコーラスを歌ったんだ。そうこうするうちに、ロバータが僕をちらちら見るようになってね。彼女も僕のコーラスが気になったんだろう。僕はロバータの大ファンだったから、彼女が歌う曲は全部知ってたんだよ。それでそのコーラス・ハーモニーもわかっていた。ライヴが終わって、僕のマネージャーのおかげで楽屋に入って会うことができた」 「彼女に会って、最初、『あのー、僕の誕生日、2月10日なんですよ!』っていうと、『なんですって~~』と驚いた。ロバータと同じなんだ。『付け加えると、僕の妻は10月1日生まれなんです』(ダニーの誕生日) またまた彼女が驚いた。それで連絡先を交換して、ロバータがオーディションをしてくれた。それで受かって、コーラスの仕事を手にすることができたんだよ」 デリックはまさにロバータと同じ誕生日、妻がダニーと同じ誕生日ということで、ロバータのコーラスに入るのが運命だったのだろう。デリックの分析は「ロバータは、ダニー・タイプのシンガーが大好きなんだと思う。もちろん(前任者の)トニー・テリーも素晴らしい、ワンダフルだ。でも僕のことも気に入ってくれた。今は他にどんな仕事があっても、ロバータから呼ばれたら必ず飛んで行くよ。僕の『ファースト・プライオリティー(の仕事)』なんだ」という。 それ以来、オーストラリアのオーケストラとのツアーや全米ツアーなどに帯同している。 「ロバータのライヴはセットリストがないでしょう? ちゃんとついていける?」と尋ねると、「ああ、なんとかね(笑)」と答える。「最初はこれくらい(と両手を広げて)ブック(楽譜のブック)をもらって、全部覚えた。何曲くらいあるのかなあ。数えたことはない。僕はコーラス、デュオの相手で、ロバータがひとりで弾き語りで歌うときは、歌わないから大丈夫だね」 デリックはもちろんダニーの歌も研究している。実際、ダニーの「I’ll Love You More Than You’ll Ever Know」を見事にカヴァーしている。その様子がユーチューブYoutubeにある。これだ↓ デリックは、プリンスのもとにもいたことがある、と言った。『エマンシペーション』の頃だという。レコードにはクレジットがないようなのだが、他にオークランドのタワー・オブ・パワーでもゲスト的に歌っている。「ソウル・ウィズ・キャピトルS」でリードを取っているそうだ。ただ、タワーでは来日はしていない。サンフランシスコでは売れっ子のシンガーだ。 地元のゴスペル・クワイアーなどにも参加、1983年ごろには一度、モータウンと契約したという。そのほかに、ノーマン・コナーズ、マイケル・ボルトンなどのコーラスもやってきた。自身のバンドでも歌っている。 しかし、彼のアイドルはダニー・ハザウェイ。そして、あこがれのダニーのパートナー、ロバータ・ライヴの一番前でずっと歌って仕事を取るなんて、すごい話しだ。 ENT>ARTIST>Hughes, Derick

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